2018年12月31日月曜日

子宮という自動反復機械

ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)

⋯⋯⋯⋯

フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)

⋯⋯⋯⋯

さて前回記した「快原理の彼岸にある享楽=女性の享楽」を基盤としつつも、人は、解剖学的「女性」の享楽を考えなければならない。泥まんじゅうは、凡庸なフェミニストたちにまかせておけばよいのである。以下はその手始めの文献である。


女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。

元来、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。…

自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある。

女の身体は海である。月の満ち欠けに従う海である。女の脂肪組織[fatty tissues] は、緩慢で密やかに液体で満たされる。そして突然、ホルモンの高潮で洗われる。

…受胎は、女のセクシャリティにとって決定的特徴を示している。妊娠した女はみな、統御不能の冥界の力に支配された身体と自己を持っている。

望まれた受胎において、冥界の力は幸せな捧げ物である。だがレイプあるいは不慮による望まれない受胎においては、冥界の力は恐怖である。このような不幸な女たちは、自然という暗黒の奈落をじかに覗き込む。胎児は良性腫瘍である。生きるために盗む吸血鬼である。

…かつて月経は「呪い」と呼ばれた。エデンの園からの追放への参照として。女は、イヴの罪のために苦痛を負うように運命づけられていると。

ほとんどの初期文明は、宗教的タブーとして月経期の女たちを閉じ込めてきた。正統的ユダヤ教の女たちはいまだ、ミクワー[mikveh]、すなわち宗教的浄化風呂にて月経の不浄を自ら浄める。

女たちは、自然の基盤にある男においての不完全性の象徴的負荷を担っている。経血は斑、原罪の母斑である。超越的宗教が男から洗い浄めなければならぬ汚物である。この経血=汚染という等置は、たんに恐怖症的なものなのか? たんに女性嫌悪的なものなのか? あるいは経血とは、タブーとの結びつきを正当化する不気味な何ものかなのか?

私は考える。想像力ーー赤い洪水でありうる流れやまないものーーを騒がせるのは、経血自体ではないと。そうではなく血のなかの胚乳、子宮の切れ端し、女の海という胎盤の水母である。

これが、人がそこから生まれて来た冥界的母胎である。われわれは、生物学的起源の場処としてのあの粘液に対して進化論的嫌悪感がある。女の宿命とは、毎月、時間と存在の深淵に遭遇することである。深淵、それは女自身である。(⋯⋯)

女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。……

西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)


(ゴダール、探偵)

後期理論の段階において、ラカンは強調することをやめない。身体の現実界、例えば、欲動の身体的源泉は、われわれ象徴界の主体にとって根源的な異者 étranger であることを。

われわれはその身体に対して親密であるよりはむしろ外密 extimité (最も親しい外部)の関係をもっている。…事実、無意識と身体の両方とも、われわれの親密な部分でありながら、それにもかかわらず全くの異者であり知られていない。(⋯⋯)

偶然にも、ヒステリーの古代エジプト理論は、精神分析の洞察と再結合する或る直観的真理を包含している。

ヒステリーについての最初の理論は、1937年にKahun で発見された4000年ほど前のパピルス[Papyrus Ebers]に記されている。そこには、ヒステリーは子宮の移動によって引き起こされるとの説明がある。子宮は、身体内部に独立した自動性器官だと考えられていた。

ヒステリーの治療はこの気まぐれな器官をその正しい場所に固定することが目指されていたので、当時の医師-神官が処方する標準的療法は、論理的に「結婚」に帰着した。

この理論は、プラトン、ヒポクラテス、ガレノス、パラケルルス等々によって採用され、何世紀ものあいだ権威のあるものだった。この異様な考え方は、しかしながら、たいていの奇妙な理論と同様に、ある真理の種を含有している。

第一にヒステリーは、おおいに性的問題だと考えらてれる。第二に、子宮は身体の他の部分に比べ気まぐれで異者のような器官だという想定を以て、この理論は事実上、人間内部の分裂という考え方を示しており、我々内部の親密な異者・いまだ知られていない部分としてのフロイトの無意識の発見の先鞭をつけている。

神秘的・想像的な仕方で、この古代エジプト理論は語っている。「主体は自分の家の主人ではない」(フロイト)、「人は自分自身の身体のなかで何が起こっているか知らない」(ラカン)と。(Frédéric Declercq, LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE, 2004年)

ーー上の文にある「異者」とは、ラカンの 《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(S23, 1976)であり、フロイト概念「異物 Fremdkörper」であるのは既に何度もくり返した(参照:内界にある自我の異郷 ichfremde)。

ここでは簡略にラカンのボロメオの環を使ったフロイト概念版を掲げておくのみにする。






どの男も、母によって支配された内密の女性的領域を隠している。そこから男は決して完全には自由になりえない。(カミール・パーリア『性のペルソナ』1990年)

ーーこの記事の核はこの文である。ミレールに「母女 Mèrefemme」という概念があるが、漢字で書けば「姆」。女はエライのである。姆、すなわち神である。

女が欲するものは、神もまた欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.(アルフレッド・ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838年)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)



※付記

私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
なぜ人は「大他者の顔のひとつ une face de l'Autre」、つまり「神の顔 la face de Dieu」を、「女性の享楽 la jouissance féminine」によって支えられているものとして解釈しないのか?(ラカン、S20, 20 Février 1973)
「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」、これが「最後の審判 le Jugement Dernier」の作用である。この意味は、われわれが享楽しえない何ものかがある il y a quelque chose dont nous ne pouvons jouir.ということである。それを「神の享楽 la jouissance de Dieu」と呼ぼう、「性的享楽 jouissance sexuelle」の意味を含めて。(ラカン、S23、13 Janvier 1976)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

⋯⋯⋯⋯

享楽自体、穴[Ⱥ] を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ)]に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)

※参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽




2018年12月30日日曜日

快原理の彼岸にある享楽=女性の享楽

まだきいてくるんだな。あのね、ボクはいままでの日本ラカン派(の殆ど)は、ラカンジャーゴンに踊った阿呆鳥しかいないんじゃないか、という疑いを持ってるんだな。その前提で記しているからさ、そのあたりの学者センセが何いってるのか知らないが、彼らの見解と異なるのは当然だよ。

そもそも彼らは、最も基本的な問いが欠けているんじゃないか? それは、フロイトの「快原理の彼岸」とラカンの「ファルス享楽/女性の享楽」はどう関わるのか、という問いだ。ラカンはフロイトの快原理の彼岸のまわりを常に廻っている思想家なのに。

なによりも先ず、人間には心と身体しかないんだ。そうだろ?


心は身体に対する防衛である


で、心的なものである欲望とは、身体的なものである欲動の「心的被覆 psychischen Umkleidungen」(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924)、あるいは《 l'enveloppe formelle  形式的封筒 》(ラカン、E66、1966)だ。

だから、ファルス享楽とは「心による享楽」だよ。これは別の言い方をすれば「言語に囚われた享楽」。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

ーーようするにファルス秩序(象徴秩序)は言語秩序である、ということだ。

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

フロイト文脈でいえば、ファルス享楽は言語内の享楽なのだから、フロイトの定義上、語表象(シニフィアン)に結びつけられた享楽ということだ。

※語表象 Wortvorstellung については、「ヒト族の存在の核としての「非抑圧的無意識」」を見よ。

したがってファルス享楽とは、フロイト用語では「ファルス快楽」だ。

これは、ジジェク が「奇跡的」と書評したバーハウ1999に既に簡潔明瞭に記されている通り。

フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは他の享楽に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

ファルス快楽は、ラカンの言う「欲望は享楽に対する防衛」に則って、「ファルス欲望」としたっていい。したがってファルスの彼岸にある「他の享楽」=「女性の享楽」が、本来の「享楽」用語、あるいはフロイトの「欲動」用語に相応しい。

これがミレール が次のように言っていることだ(参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽

ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)

これは、ミレールの2005年度セミネールの冒頭にある図が示していることでもある。



前にどこかの誰かが、テュケーが左側にあって、オートマトンが右側にあるのは、ラカンのセミネール11の定義に反しておかしいと言ってきたことがあるが、ま、その人物だけでなく現在の学者センセの大半はいまだこれについてなーんにも分かってないんだな。

象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会い(テュケー)とは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」(セミネール11)である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)

ーーこのソレールが明瞭に2009年に言ったことに無知のままなんだな。もちろん異なった立場があってもいい。だがまったくこれに対して格闘していない。

この文脈における右側にあるオートマトンとは現実界の自動享楽のこと。

この自動享楽が次の二文の意味だ(参照)。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
症状は、現実界について書かれることを止めない。 le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)


このオートマトン(自動性)は、セミネール11における象徴界のオートマトンではぜんぜんない。ところが大半の連中はいまだセミネール11どまりのまま。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome Σと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

この身体の自動享楽=オートマトンとは、フロイトの「Automatismus 自動反復」のことだ。

フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)

⋯⋯⋯⋯

さて何度もかかげている「ファルス享楽」とファルス享楽の彼岸にある「他の享楽」の定義だが、再掲すれば次の通り。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーー何度も繰り返しいるが、いままでは「大他者の享楽」と訳されてきた "jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

もう二文掲げとくよ。

ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸 Au-delà du phallus…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

ここまでで、他の享楽=身体の享楽=女性の享楽であるのが分かるだろ?

君の好きな「女性の享楽」用語を使って言えば、女性の享楽とは「言語外の身体の享楽」だよ。



フロイトは1915年にはこう言っている。
欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

だが最晩年のフロイトにとっての欲動は、境界概念よりもいっそう身体に接近していく。

欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)

これが、上に引用したミレールが後期ラカンの核心として強調している、フロイトの言葉の捉え方だ、《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》(『制止、症状、不安』1926年)

ここまで記したことでわかるように、ファルス享楽は快原理内の快楽であり、他の享楽とは快原理の彼岸にある「不気味な」反復強迫的欲動ということだ。

この図の下段に上に掲げたミレール2005をくっつけたらピッタリくる。




さらに冒頭近くに引用した1999年、ポール・バーハウ文を再掲しておくよ。20年前のね。

フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは他の享楽に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

で、『快原理の彼岸』の前年に上梓された『不気味なもの』といっしょに読むことだな、この文を。

心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

以上、「女性の享楽」の最も基本的な前提はこれだ。もし人が解剖学的「女性」の享楽を思考することがあってもーーボクはときにそうしているがね、たとえば「ワルイコのための「享楽」」ーー、この前提なしで女性の享楽を思考することは不可能。


撞玉のエロス

◆ゴダールの探偵 Détective (1985年)



◆百年恋歌(最好的時光、侯孝賢(2005年)




2018年12月29日土曜日

をんなのにほひ




エロいんだよな、アオヤイって(北部はアオザイといい、南部はアオヤイという。長い服という意味)。

最初にこの土地に着たとき、こんなにエロくっていいもんだろうか、と思ったぐらい。いまはだいぶ慣れたけれど、まだドキッとすることはままあるね。仕立てと素材が肝腎なんだけど。ツレは日本の服ってなんであんなにダサイのかしら、というけどさ。浴衣なんかはいいよ、と返すんだけど、そうはいっても遠目のエロでは完全に負けてるな。


何度か引用しているけれど、安吾とバルトはこう言ったんだよな。

むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」1950年)
身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇 intermittence である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅 apparition-disparition の演出である。

それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

バルトのいってることなんかは、アオヤイのエロを完全に説明してるね。

もっともすぐれた作家の映像だったらハダカだっていいけどさ、次のゴダールは左が「こんにちは、マリア」、右が「探偵」。




若い軀ということもあるが、媚態がないところがまずいいんだろうな。


2018年12月28日金曜日

佐々木中のボロメオの環

女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」にて記したことについて、2010年前後に書かれた佐々木中の「女性の享楽」や「剰余享楽」の解釈と異なるが、「どう捉えたらいいのでしょう?」という質問を頂いているのだが(二度)、応答が遅くなった。すこし書きにくいのだよ。

ボクは彼の書を読んでいないからあまりエラそうなことを言いたくない。けれども頂いた二つの図をみるかぎり、現在の主流臨床ラカン派観点からみれば、いささかの問題があると考える。すくなくとも三人の臨床家(ジャック=アラン・ミレール、コレット・ソレール、ポール・バーハウ)を読むかぎりではそう感じる。




ーーこの図表については、大他者の享楽が斜線を引かれていないこと以外は問題はない。ラカンにおいては、JAからへの移行がサントームのセミネール23にてある。

大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975

これを示していないこと以外は大きな問題はない。だが次の図の解釈は、剰余享楽についての混乱があるーーこの図をみた限りだがーーとわたくしは考える。






現在ラカン派の解釈では、le plus-de-jouirは次のように図示しうる意味内容をもっている。


ーーより詳しくは、引用の仮置き場に記してある。→「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性


そして自体性愛=原症状(「サントーム」=フロイトの「リビドー固着」)としての女性の享楽というミレールの解釈からは佐々木中は限りなく遠くにある。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (miller, 9 du 30 mars 2011)


おそらく佐々木中の解釈は主に、アンコールまでのラカンであり、 他方、現在のミレールやソレール等はアンコール以後にラカンは変貌したという立場によって貫かれている(参照:「二つの現実界」についての当面の結論)。

たとえば「女性の享楽」概念が明示的に提出されたアンコールセミネール20における「性別化の式のデフレーション」をミレールは指摘している。

ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。

(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(ミレール 、JACQUES-ALAIN MILLER、「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)

実際、この立場をとらないと、晩年のラカンの言明は理解しがたい。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
症状は、現実界について書かれることを止めない。 le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)


すなわち、身体の出来事(固着としてのトラウマ)の原症状は書かれることを止めない、となる。

この症状は、ひとりの女=他の身体の症状でもある。

次の四文はほとんど同じ意味をもっていると捉えうる。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
穴(トラウマ)を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)

ーーラカンの言う「異者としての身体」とは、フロイトによるリビドー固着の残存物(異物)のことである(参照:内界にある自我の異郷 ichfremde)。

穴とは《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」》(S21,1974)のことである。

他の身体の症状とは、他の享楽(=女性の享楽)にかかわる。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーーいま通常は「大他者の享楽」と訳される"jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

アルゼンチンの女流ラカン派 Florencia Farìas は、次のように記しているが、これは現在の(まともな)臨床ラカン派のほぼコンセンサスであるようにみえる。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。(Florencia Farìas 、Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)

これらから分かるように、上に引用したミレールの「自ら享楽する身体 corps qui se jouit」(自閉症的享楽)=「女性の享楽 jouissance féminine 」と解釈されているのである。

女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽


このサントームの享楽をミレールは中毒の享楽(身体の自動享楽)とも呼んでいる。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome Σと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

さらにミレールはこうも言っている。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )

ここでのトラウマとは言語外のものを示す。そして言語外の享楽が女性の享楽である(言語内の享楽がファルス享楽)。

「同化されない」の意味は、ラカンはセミネール11の時点ですでに語っている。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

したがって現在ラカン派の考え方においては「トラウマへの固着」による反復強迫が女性の享楽である。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

フロイト用語でいえば、女性の享楽は外傷神経症と等置しうる(参照:リビドーのトラウマへの固着)。

ミレールの言う《「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé 》( J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)とは、この文脈で捉えうる。

人はみな、言語内の享楽の彼岸(ファルスの彼岸)には、構造的トラウマによる「受動的=女性的な[参照]」反復強迫の症状があるのである(参照)。


(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)


このバーハウの1999年の書の図式で、フロイトの《受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung》(『終りある分析と終りなき分析』1937年)と等置されているのが女性の享楽S(Ⱥ)である。

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)

女性の享楽の理解にとって、これがすべてではないにしろ、多くのことがこの図式を基準にすれば鮮明になる。

彼の構造的トラウマ論からも引用しておこう。

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

⋯⋯⋯⋯


佐々木中の議論は約10年前のものであり、ソレールがラカンの変貌を強く主張しだしたのは、2009年である。時期的にある程度の誤謬はやむえないし、ひょっとして現在雌伏中の本人も今はそのことを悟っているんじゃないかな。もっとも彼の(中井久夫に準拠した)「ララング(母の言葉)」(≒女性の享楽)の議論はいまでも十二分に生きているけどね(参照)。

そもそも、後期ラカンの真の読解は21世紀にはいって始まったばかりだよ、だから10年以上前に書かれた内容が仮に「間違い」だとしても、それを難詰したくないね。彼はその時点で、ラカンの可能性の中心を提示したんだろうし。

もっともいまだって現代ラカン主流臨床派が間違った方向に行ってしまっているという観点もあるだろう(例えばジジェクの観点)。とはいえ現在は、ソレールの言うアンコールまでの「現実界のデフレ」と「二つの現実界」を視野におさめることが肝腎(参照:「二つの現実界」についての当面の結論)。

現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…

象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)

あるいは冒頭近くに引用したミレールの言う「性別化の式のデフレ」と格闘しないと、女性の享楽についてはたいしたことは言えない筈だよ。

繰り返せば、たとえば現在「思想家・批評家」の流行児である千葉雅也ーーファストフード的知的消費者向けの精神分析を連発している彼ーーも、アンコールまでのラカンの女性の享楽に留まってしまっていて、上に記したミレールやソレールの議論には殆どトンチンカンのようだから、2010年前後に佐々木中に対しては批判はまったくできないね。

千葉雅也@masayachiba

・ラカンの性別化の式がだいたいのところ生物学的性別に一致してるのだとしても、必ずしも、男性・女性の享楽が生物学的基盤を持つことにはならないか。歴史的ないし政治的に成立した生物学的男女の非対称的関係が、享楽の区別の理由なのかもしれない。そういう読みもありうる。

・ならば、歴史的に成立した男性=強者という体制が、男性はファルス享楽しか持たないことの理由である、となる。政治的な弱者の側にある女性が、ファルス享楽以外に他の享楽も持つ、と。強者にファルス享楽が、弱者に他の享楽がある。仮説です。どうなのだろう。(2018年5月26日)


➡ 補足:快原理の彼岸にある享楽=女性の享楽




日本思想界の「不幸」

いや、「超自我と自我理想のポジション」でサラッと記したことだが、ラカンのボロメオの環の最も重要な読み方(のひとつ)は、フロイトの「自我ーエスー超自我」の次の図とともに読むことだよ。ボクはそう考えているね。世界的にほとんど誰もそれをやっていないーーと言うと大仰になるが、そのためこのところ度々示している。



(フロイト『新精神分析入門』1933年)


フロイト理論の「最大の不幸のひとつ」は、超自我と自我理想の区分をしていないことだ。

フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006)


この三区分はラカンの「ボロメオの環」を使えば、鮮明化される。





ジジェクは理想自我、自我理想、超自我の《三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉というラカンの三幅対である》としているが[参照]、これはそのまま直接には受けいれ難い。それぞれの重なり部分に置くべきだと、わたくしはこのところ考えるようになった。

上の図を日本語で示せば、すなわち、




ーー言語(語表象)の箇所は、フロイトの別の表現「外界」にしてもよいし、ラカンなら大他者Aである。だがここでは簡潔に最晩年のラカンの《象徴界は言語である Le Symbolique, c'est le langage》(S 25, 10 Janvier 1978)に則っている。

自我理想と理想自我の区分とは、最も簡潔に言えば、象徴的同一化と想像的同一化にかかわる。

ミレールに依拠して言えば、想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)


だがここでの話題は、超自我と自我理想の区分である。

前期ラカンは、この「超自我/自我理想」を「母なる超自我/父なる超自我」としている。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)

この「太古の archaïque」という語は、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ論文の表現によって補えばよい、《「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えているのである。》(『終りある分析と終りなき分析』1937年)

母なる超自我、あるいは原大他者は次のように表現されている。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…母なる超自我に属する全ては、母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

原初にあるのは女の支配なのは当たり前である。それは個人史においても、太古の歴史においてもーー生む女・母なる大地等ーー同様である。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


上に掲げた「母なる超自我」は、臨床的には「母なるシニフィアン」である。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

父の機能は後にS1と言い換えられる、《S1 とは構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père 》(S17、1969)、それが《父の機能(縫合機能)を持てば、どんなシニフィアンでもよい。quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître》(同S17)

⋯⋯⋯⋯

たとえば、現在日本で最も「まともな」思想家である柄谷行人でさえ、あの憲法超自我論でこの区分ができていない、《私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです》[参照]。ただしさすが柄谷である、その痕跡はある。憲法一条(象徴天皇制)と九条との密接な関係を示しているのだから。

戦後日本における「象徴天皇制」とは、明治以降半世紀ばかりのあいだ「疑似一神教」として機能した天皇制とは異なり、江戸期を代表しつつもさらに古代に遡った「母なる超自我」の機能をもつ。この母なる同一化とほぼ相同的な内容として、若き浅田彰のとても優れた日本文化論の断片がある。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)

ーーこれと似たような認識を柄谷行人は1990年前後に示している。

他方、憲法九条に代表される戦後憲法とは、外部から与えられた「父なる超自我」=「自我理想」である。

したがって次のように図示できる。




(天皇制は、サントームの二つの意味、一つの意味である「リビドー固着」ではなく、もう一つの意味である「固着から距離をとって」三界を縫合するものとしてのサントームと捉えることもできるが、ここではその議論は割愛)。

ようするに天皇制という「母なるシニフィアン」の「父なる代理シニフィアン」が憲法九条である。そしてラカンが言うように、この父なるシニフィアンS1はどんなシニフィアンでもよい、それが父の機能を果たせば。したがってラカン派観点からは憲法九条は変えられる。だが天皇制の廃止は、それが原超自我である限り無理である。これは一神教国でない日本の或る意味での宿命であり、ほかの原縫合機能を新たに探すのはまったく容易ではない。

原縫合機能とは、「女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」で示したように、原穴埋め機能である。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴(トラウマ)を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)


⋯⋯⋯⋯

この二つの超自我の観点はフロイト自身のなかにもないではない。

たとえば最晩年のフロイトは次のように言っている。

「偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1939)

この神とは、ラカンによって補えばよい、《一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。》(ラカン, S17, 18 Février 1970)


『モーセと一神教』には次の文もある。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlungen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939 年)

最初に個人の行動を監視するのは、父ではなく母(母親役)に決まっているのである。したがって母が原超自我である。

超自我概念を始めて明瞭に提出した『自我とエス』の第三章「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」においてさえ、この思考の痕跡はある。

最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想 Ichideals の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化 bedeutsamste Identifizierung des Individuums, die mit dem Vater der persönlichen Vorzeit.である。(フロイト『自我とエス』1923年)

この文には註が付されている。

註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如 Penismangels に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。

Vielleicht wäre es vorsichtiger zu sagen, mit den Eltern, denn Vater und Mutter werden vor der sicheren Kenntnis des Geschlechtsunterschiedes, des Penismangels, nicht verschieden gewertet.(フロイト『自我とエス』1923年)

この超自我と自我理想の区別(母なる超自我と父なる超自我の区別)は、柄谷行人だけではなく、日本ではわたくしにとって最も信頼がおける精神科医中井久夫でさえ区別ができていない。ことほどさように、おそらく現在まで日本オベンキョウ社交界の連中は全滅である筈だ・・・




2018年12月27日木曜日

神の顔へ向けての祈り

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)

⋯⋯⋯⋯

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)
女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)

《「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。》(ジャック=アラン・ミレール、 Des semblants dans la relation entre les sexes、1992)

⋯⋯⋯⋯


【女の顔という神の顔】
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
なぜ人は「大他者の顔のひとつ une face de l'Autre」、つまり「神の顔 la face de Dieu」を、「女性の享楽 la jouissance féminine」によって支えられているものとして解釈しないのか?(ラカン、S20, 20 Février 1973)
私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」、これが「最後の審判 le Jugement Dernier」の作用である。この意味は、われわれが享楽しえない何ものかがある il y a quelque chose dont nous ne pouvons jouir.ということである。それを「神の享楽 la jouissance de Dieu」と呼ぼう、「性的享楽 jouissance sexuelle」の意味を含めて。(ラカン、S23、13 Janvier 1976)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

⋯⋯⋯⋯

──オマンコを一年撮り続けたら、顔が一番卑猥に見えてくるっていう意味のことを書いておられましたね。(⋯⋯)

荒木経惟)裸を撮っても、じゃあ最後トドメ行くぞって時は顔なんだ。もったいない話だよ。裸になってるのに顔だけしか撮らないんだから。ほかから見たら変だろ(笑)。(「ほぼありのままあの荒木経惟」)






【「中心の空洞」に向けての祈り】
――Kさんの友人の文化人類学者が、日本文化に特有のかたちとして「中心の空洞」ということをいうよね? たとえば戦前の国家権力を洗い出してゆくと、結局、中心の天皇の場所が空洞になっていて、責任の究極の取り手がない。あるいはやはり天皇家と関わるけれど、東京という大都市の中心は皇居で、そこが緑の空洞になっている。ギー兄さんの、なかになにもないかも知れない繭というのも、「中心の空洞」ということで、いかにも日本人的な信仰のかたちなんだろうか?

――「中心の空洞」ということを考えるとして、それが本当に日本人固有なものかねえ。量子力学にしてからがその直喩に立っているんじゃないの? それならばヨーロッパにあり、アメリカにあり、またアジアの人間も共有する、というもので……

ともかく私は繭の「中心の空洞」に集中するとして、もっと通りの良い言葉でいえば、それに向けて祈るとして、いつまでもそこからなにも現れないままで、決して不都合だとは考えないと思うよ。「中心の空洞」に向けて祈りを集中しているとして、人間の側の営為として、いまの私にはどんな不協和音も兆してこないよ。

――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈るんだろう?  とあきらかに今度はゲームのようにでなく、ザッカリー・K・高安は尋ねた。

――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう?  ……まあ、そのように感じて、祈る者や祈らぬ者や、お互いをキョロキョロ見交わすのが、私たちの集会の出発点かも知れないなあ。

――僕はギー兄さんの考え方を、無神論のカテゴリーに、あるいは人間的なニヒリズムに、つまり若いころのKさんみたいな、実存主義者のものに分類するけれども、とザッカリー・K・高安はいった。しかし、そういう考え方の連中がなお教会を建てるということに、僕は関心を持たないではいられないね。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)



【LȺ Femmeに向けての祈り】

「斜線を引かれた女性の享楽」を現わすS(Ⱥ) とは、Ⱥ(大他者のなかの穴)あるいはフロイトのモノdas Ding を指し示す「境界表象 Grenzvorstellung」である。このフロイト概念こそラカンのコルク栓の意味である。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

通常、上に引用したようにLⱥ femmeと記されてきたが、LȺ Femmeのほうがより相応しい。

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme (LȺ Femme)を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

Ⱥとはフロイトのモノdas Ding にかかわる。

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

よく知られているように日本は女神の国である。

日本人が一神教文化(男神)を基盤とした欧米の議論を読むとき、常にこの保留をしなくてはならない。



一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年)

ようするに (?)LȺ Femme あるいは LȺ Mère に向けての祈りとは、享楽の空胞 vacuole de la jouissance に向けての祈りである。母なる享楽の空胞と呼んでもよい。日本人はそんなことは昔からよく知っている。欧米の議論に洗脳された学者やインテリ、フェミニストたちのみが不感症になってしまっているだけである。

享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

2018年12月26日水曜日

あれなくしてエロというものはあるんだろうか?

男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』)


第402回 スーパーコンパニオンよりも 代々木忠(2018年10月05日)

 女がセックスで10感じるとしたら男は1くらいしか感じないというのが喧伝されてきた。まぁ10倍以外にも、数倍から数百倍までかなり幅はあるものの、要は女の快感は男の比じゃないというわけである。

 しかし、僕はこれまで現場で男が女と同じくらい感じ、失神までするのを何人も目にしてきた。加藤鷹、日比野達郎、チョコボール向井、平本一穂、青木達也……。女と同等の快感を体験した彼らに共通しているのは、そのとき「受け身だった」という一点である。

 いま男たちはセックスに自信がないとか、興味がないという。恋愛も難しく、セックスにまで至るのは至難の業だとも。夫婦もセックスレスがもう当たり前の時代だ。さんざん書いてきたことだが、とりわけ男はつねに考えて考えて、思考主導で生きざるを得ないという現実がある。だから、恋愛もできない。

 セックスでも男が女を満足させなければならない、そうじゃないと男としてカッコ悪いという刷り込みがある。だから、そのプレッシャーに腰が引ける。本当はそうじゃないのに。もっと言えば「かくあらねばならぬ」という思考が作り出した既成概念を捨てて、感じるまま女の前でヨガッてみれば、もう虚勢を張る必要もなく、本当の自分のままラクに生きられるのに……。

 老子の言葉に「跂者不立」というのがある。「跂(つまだ)つ」とは「爪先立つ」の意。つまり、自分をよく見せようと背伸びして爪先で立とうとすれば、かえって足元が定まらないという意味だ。こんな生き方は“道”から見れば余計なことであり、「無為自然」がいい――と老子は言う。これはそのままセックスにも当てはまる。なぜならば、セックスもまた自然に属しているからである。

 女はヨガる男をけっして見下したりはしない。それどころか、これは余談だが、今回の撮影で卓と玉木が面接に来た女の子から攻められているとき、彼らが声を出すたびに後ろにいるエキストラたちから吐息とも溜め息ともつかぬ「ああ~」という声が聞こえてきた。男がヨガッていると、思わず声が出てしまうくらい彼女たちも共鳴していたのである。




◆加藤鷹『イケない女神たちーーAV男優のセックスノート』1994年

ボクは四年前、代々木監督の『いんらんパフォーマンス 密教昇天の極意』という作品で、イクということをはじめて体験した。この作品は、男のオーガズムを追求するという意図でつくられたものだった。

ボクと相手役の栗原早紀は、いつにも増して、自分の中へ中へと意識を下ろしていった。努力することを放棄して、期待することを放棄して、とにかくあらゆる意識を放棄して、同じ殻の中にいることを実感として感じながら求めあった。ほどなくして、意識が性器からふっと離れたとき......。そこからの記憶がない。何をどうして、自分がどうなっていたのかがまったくわからなくなってしまった。ただ、たとえようのない快感、幸福感に包 れて浮かんでいた。射精とはまったく違う感覚。それとは較べようもないほどの満足感と充実感で身体が満たされているのを実感した。性別をこえた快感。根拠はないのだが、そう実感できた。

…栗原早紀がこういった。「鷹、おぼえてる? わたしがおちんちんさわろうとしたら『さわらないで。そのまま抱きしめて』っていったのよ」まるで記憶になかった。ボクの性器は、これ以上は小さくなれないほどに縮み上がっていて、射精もしていなかった。身体中に鳥肌がビッシリと立っていた。気がつくと涙もこぼれていた。男の幸福感はかならずしも射精にあるわけではなかった。性器を使わなくても達するセックスがある。予想していたこととはいえ、ショックだった。と同時に、ことばにあらわすことができないほどの至福のときに包まれてもいた。

⋯⋯⋯⋯

さて、代々木忠の言う《女と同等の快感を体験した彼らに共通しているのは、そのとき「受け身だった」という一点である》をまずはめぐる。

マゾヒズムは三つの形態がある。…性感的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen である。第一の性感的マゾヒズム、すなわち苦痛のなかの快 Schmerzlustは、他の二つのマゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年)

この「苦痛のなかの快 Schmerzlust」がラカンの「享楽」概念の最も代表的な意味合いのひとつである。

私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)


(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
享楽は現実界である。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel(ラカン、S23, 10 Février 1976)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の心的生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

《フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼岸には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。》(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、 1998年)


ーー上の図でバーハウは、フロイトの「受動的立場」とラカンの「女性の享楽」を等価なものと置いている。女性の享楽とは女性的マゾヒズムあるいは女性の受動性のことだという想定だ。これですべてだとは言わないが、たぶん大半の理解はこれでいける。身体の欲動蠢動(欲動興奮)になすがままになるのも受動性である。これこそまさに反復強迫=女性の享楽である。




心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

※Triebregungen という語のフロイトの使い方の他のサンプルは、「原抑圧・固着文献」を見よ。

メカニズムとしては「異物」が肝腎。それは、「内界にある自我の異郷 ichfremde」で集中的に記した。



リビドー固着(欲動固着)と異物の関係とは、より詳しく記せば次のような形にある。



欲動固着は欲動興奮を最初に飼い馴らす母による「身体の上への刻印」。これは誰もが知っていることだ。幼児の身体的な興奮をなだめる鞍を母が置くことは。

だがすべての欲動興奮が飼い馴らされるというわけにはいかない。固着の残滓がエスのなかに居残ること、これがサントーム=女性の享楽にとって決定的である。

この残存物=異物によって、トラウマへの固着と同じメカニズムの反復強迫が起こる。

リビドーのトラウマへの固着


そして、大きなファルスや小さなファルスというのは、欲動固着をさらにカバーすること。




最も簡単にいえば次のことだ。

「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽(=女性の享楽)は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)

ーーこれは父の名≒父の機能だけの話だが、フェティッシュも同様。


繰り返せば、エスの奔馬の完全な飼い馴らしは不可能で、かならずリビドー固着の残存現象(異物)がある。それが、ラカンの対象aだ(参照:ラカンの対象aとフロイトの残存現象)。

⋯⋯⋯⋯

閑話休題(あだしごとはさておき)。

荒木の撮った石倭裕子さんってのはじつにすばらしいな。



ネットには小さな画像しか落ちていないのだが、とくに左の写真の表情ってのは、めったに出会えない。切なくなるね。彼女は《悲しく、一途で、おびえた目 yeux tristes, jaloux, peureuxでレンズを見ている regarde l'objectif。なんと不憫で切なく思慮深い様子であろう quelle pensivité pitoyable, déchirante! だが実は何も見ていないのだ il ne regarde rien。そのまなざしは愛と恐れを心のうちに引きとめているのである il retient vers le dedans son amour et sa peur。》(バルト『明るい部屋』)

荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。(石倭裕子ーー桐山秀樹『荒木経惟の「物語」』1998年)




ーー昔からよく言われるが、やっぱり赤い耳が肝腎なんだろうな、ほかは演技できるって言ったのは吉行淳之介じゃなかっただろうか。

で、なんの話だっけ・・・

大他者の享楽の対象になること être l'objet d'une jouissance de l'Autre、すなわち享楽への意志 volonté de jouissance が、マゾヒスト masochiste の幻想 fantasmeである。(ラカン、S10, 6 Mars 1963)
他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier 1963)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823、1960年)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)




倒錯者 inverti たちは、女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠 embryon をもっている。(プルースト「ソドムとゴモラ」)



よく希っていれば、望みはかなうねえ! それもまだ僕たちが若さを失ってしまわないうちに! (大江健三郎「大いなる日に」第一章『燃え上がる緑の木』第三部)
僕ハ、ズット、コノヨウナ性交ヲ夢見テイタヨ。コレマデズット、ズット…… 生レル前カラ、ズット、ダッカカモ知レナイホド。(大江健三郎「大いなる日に」第二章)




娘ノ扮装ヲサセテ若衆ニ鶏姦サレルコト……、アルイハ娘ニ張形ヲツケサセテ鶏姦サレルコト (大江健三郎「大いなる日に」第五章)

大江が書いていること以上に男にとって肝腎なのは、「嫐られる」である。「嬲る」ではないのである。

⋯⋯⋯⋯

オカマというのはよがりますよね。枕カバーがベットリ濡れるくらい涎を流したりするでしょう。するとやっているうちに、こっち側になりたいという気になってくる。だからオカマを抱いちゃうと、大体一割くらいのケースで、オカマになりますね。(野坂昭如ーー岩井志麻子『猥談』より)

きみたちもはやいところやっとかないとダメだよ、ーー《それなくして、エロというのは生まれるものでしょうか?》

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。⋯⋯⋯結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,(Lacan, S23, 11 Mai 1976)

上にも図を貼り付けたように、女性の享楽=自閉症的享楽というのを前回みたところだが、女性の享楽は多形倒錯でもあるんだな。

フロイトの多形倒錯 perverse polymorpheとは、自らの身体を自体性愛的 auto-érotiqueに享楽することである。…この多形倒錯は、私が「自閉的症状 symptôme autiste」と呼ぶものの最初のモデルである。自閉的症状とは、他のパートナーを通さない身体の享楽 jouir du corps を示し、人は性感帯の興奮のみに頼る。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

さらに言えば、人はひとつの性だけ愛するなんていう究極のヘンタイにならないようにしなくちゃな。

問いは、人が倒錯者になるのはなぜか? ではないのだ。そうではなく「多形倒錯 polymorphe Perversität」として生まれたはずの我々は皆、なぜ倒錯者のままではないのか、である。

ラカンの答えは《男の規範 norme-mâle》のせいだ。これは「悪い規範 norme mal」のことでもある。

晩年ゲイ男に惚れたデュラスはこう言っている。

男性のセクシャリティや女性のセクシャリティはない。一つのセクシャリティしかない。すべての関係はこの一つの性のなかで泳いでいる、同性愛的単独性が防水加工されてるわけはない。Il n’y a pas de sexualité masculine ou féminine. Il y a une seule sexualité dans laquelle baignent tous les rapports. La singularité homosexuelle n’est pas étanche. (デュラスMarguerite Duras: «The Thing» (entretien au «Gai Pied», 1980)

(Yann Andréa and Marguerite Duras)


もし男性諸君が、男に惚れるのが抵抗があるなら、まずレズ女に惚れてみることだな。そうすれば世界は違ってみえてくるよ、

男というものと女というものはない。ただ男性性と女性性の異なった度合い、異なった色合いがあるだけである。There are no Men and Women, only different degrees, different shades of masculinity and femininity.(アレンカ・ジュパンチッチAlenka Zupancic『性とは何か What IS Sex? 』2017)
人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性または女性 reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年註)
バイセクシャル Bisexualität の相と親しむようになってから、わたしはこれこそ決定的要因と見なし、バイセクシャルの考慮なしで、男性と女性の性的表出 Sexualäußerungen von Mann und Weibを理解するようになることは殆ど不可能だと考えている。(フロイト『性欲論三篇』1905年本文)
…この意味で、すべての人間はバイセクシャルである。人間のリビドーは顕在的であれ潜在的であれ、男女両方の性対象のあいだに分配されているのである。alle Menschen in diesem Sinne bisexuell sind, ihre Libido entweder in manifester oder in latenter Weise auf Objekte beider Geschlechter verteilen.(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)



2018年12月25日火曜日

女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽

以下、資料集。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)



◆セミネール20における「享楽の図」の書き直し




⋯⋯⋯⋯

人はラカンがファルス用語でシニフィアンを書こうとする試みに出会って、あらゆる難解さを見る。

ラカンは分析経験において外立する(外部にある ex-sistant)シニフィアンを、(-φ)と書く。去勢としての(-φ)である。恐怖を生む最後の真理 vérité dernière qui produirait de l'horreur としての去勢である。…

次にラカンは、大きなファルス Φ として去勢を書く。現実界的ファリックシニフィアンsignifiant phallique réelである。彼はΦは否定不可能だと明示的に言っている。ラカンは(-φ)とΦを、一つのシニフィアンと別のシニフィアンとして関連づけることによって複合構築construction complexe の試みをしている。

ラカンはなぜそれで満足しなかったのか? なぜなら、ファルスは繋辞 le phallus c'est une copule だから。そして、繋辞は大他者と関係がある la copule c'est un rapport à l'Autre。これは、斜線を引かれたA[grand A barré](Ⱥ)の論理と反対である。したがってラカンは(a)と書く。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽の様式 mode de jouissance を刻んでいる。

人が、対象a と書くとき、正規の身体の享楽 jouissance du corps propreに向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-siste する享楽に。

ラカンは対象a にて止まらない。なぜか? 彼はセミネールXX、ラカンの教えの第二段階の最後で、それを説明している。対象a はいまだ幻想のなかに刻まれた 「享楽する意味 sens-joui」である。

我々が、この用語について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界の審級なかに享楽を孤立化する isoler la jouissance comme de l'ordre du réel こと、すなわち、意味において外立的 ex-sistant au sens であることである。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de LacanーーLE LIEU ET LE LIEN 6 juin 2001)




倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)

・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)


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自閉症的享楽としての正規の身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome Σと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)


自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
愛 Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)



自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
エスや超自我のなかにリビドーの振舞いの何ものかを言うのは困難である。リビドーについてわれわれが知りうるすべては、自我に関わる。自我のなかにすべての利用可能なリビドー量 Betrag von Libido が蓄積される。われわれはこれを絶対的な、原ナルシシズム(一次ナルシシズム primären Narzissmus)と呼ぶ。この原ナルシシズムは、自我がリビドーを以って対象表象 Vorstellungen von Objekten に備給 besetzenし、ナルシシズム的リビドー narzisstische Libido を対象リビドー Objektlibido に移行させるまで、続く。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)




丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)
ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)



ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)

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ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (miller, 9 du 30 mars 2011)




ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。(Florencia Farìas 「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」2010)


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大他者、それは身体である!L'Autre, …c'est le corps ! (ラカン、S14、10 Mai 1967 )
大他者の享楽、大他者という身体の享楽 la jouissance de l'Autre, du corps de l'Autre(ラカン、S20, 21 Novembre 1972)
われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger (S23、11 Mai 1976)
享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の大他者、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての大他者を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての大他者があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009)


⋯⋯⋯⋯

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、欲動の固着 (リビドー固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)

精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの(≒身体に突き刺さった骨)、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からーである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)



私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)
 欠如の欠如 manque du manque (=穴)が現実界を生みだす。それは唯一、コルク栓 bouchonとして、そこに現れる。(Lacan、AE573、1976年)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)




穴、それは非関係によって構成されている、性の構成的非関係によって。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexuel, (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧(=固着)自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)
リビドーは、その名が示しているように、に関与せざるをいられない。身体と現実界が現れる他の様相と同じように。 La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou, tout autant que des autres modes sous lesquels se présentent le corps et le Réel (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



⋯⋯⋯⋯

※付記

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

⋯⋯⋯⋯

享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)





ーーここでの栓とはコルク栓 bouchon(穴埋め)のこと。母栓、父栓は上にみた通り。自栓とは、「フェティッシュとしての見せかけa」のこと。

セミネール4において、ラカンは「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes, 1992)

・対象aは、「喪われたもの・享楽の控除 perte, le moins-de-jouir」の効果と、その「喪われたものを補填する剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。

・「現実界はコルク栓であるle réel est bouchon」と言うことは、ボロメオの環の構造のなかに現実界を置くことである。栓をされるものは、常に穴である Ce qui se bouche, ce sont toujours des trous。(コレット・ソレール Colette Soler 、Les affects lacaniens 、2011)

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ](穴)と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère,(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
モノは無物とのみ書きうる la chose ne puisse s'écrire que « l'achose »(ラカン、S18、10 Mars 1971)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

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あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。(⋯⋯)

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. (……)

対象a、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)



貨幣フェティッシュの謎 Das Rätsel des Geldfetischsは、ただ、商品フェティッシュの謎 Rätsei des Warenfetischs が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』第1巻)
利子生み資本では、自動フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第3巻)
穴は非関係によって構成されている un trou, celui constitué par le non-rapport,(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

※参照:資本の論理(文献列挙)





2018年12月23日日曜日

ロスコとプロトパシー

ロスコと女」から引き続く。

ロスコの絵というのは、「身体的なもの」としての原始感覚性を触発する筈だよ。人にはそれぞれ感じ方があるのだから、あまり強調して言うつもりはないけど。それに比べたら、精密なデッサンや構成で成り立っている絵画作品は、すくなくとも受け手にとっては「心的なもの」として捉える割合が多いんじゃないか。この箇所は何の象徴なんだろう? とかね。

もちろんあらゆる「まともな」芸術は、身体のリアルと心的幻想とのあいだの境界を彷徨っているのだろうけど。

芸術が基盤としているのは、リアルは内在的かつ手の届かないものという想定である。リアルは、つねに表象に「突き刺さっている」。表象の他の側あるいは裏面に、である。裏面は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。(……)芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,2013、PDF




今グールドのバッハを貼り付けたのは、冒頭のようなことを記すと「構成」や「形式」をバカにしていると思われてしまうかもしれないからだ。最高のフーガの構成がなされている作品の一つ「フーガの技法」が、演奏によっては「窮極の身体的なもの感」を与えてくれるというのは、いまもって謎だな、ボクにとっては。後にすこしだけ記すが、子宮のなかで聞いた声みたいなんだ、これ。鼻の奥がツンとしてきて脳までくる。鳥肌もんだね。

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2017年に英ランカスター大学のヴィンセント・リード教授チームは、「The human fetus preferentially engages with face like visual stimuli(人間の胎児は顔のような視覚刺激により強く反応する)」という論文を発表している。





実験では赤い光を3点組み合わせて、二つの目と口のように見える配置にしたパターンと、それを反転させて三角形に見えるパターンを、妊娠後期(28〜39週)の胎児に1パターンにつき5回ずつ見せた。

 胎児の頭の近くに光を照射する実験を計195回行った結果、「顔」のような光を目で追いかけるようすは40回確認されたが、「三角形」の光には14回しか反応しなかったという。リード教授は「お腹の中の赤ちゃんは視覚刺激に反応できるのに、今まで誰も胎児の能力に注目してこなかったのです」と言う。

 2011年の研究では、明るい夏の日に母親が服を着ないで過ごすと、子宮の中の胎児は、部屋にいるのと同じくらいの明るさを感じていると言う実験結果を発表している。(赤ちゃんはお腹の中でも「顔」を見てる 胎児の視覚 英研究で明らかに

あの逆三角形を「顔のようなもの」としてしまうのは、わたくしはあまり好まないが、あの形のほうが胎児はより強い反応をするのは、われわれ成人のことを考えても当然だろう。上部からの鮮やかな色により多く襲われるほうが。





あの逆三角形の印象が強くあるな、ロスコの多くの作品は。胎内でみた光景とまで言わずとも出産直後の何週間、まだひどく視力が弱い時期には世界とはあのように見えるんじゃないか。たとえば母の乳房でさえ。


中井久夫はすでにこう書いている、《視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか》。赤児とあるが文脈から母胎内の胎児のことであるのははっきりしている。そして「やわらかな明るさが身体を包んでいる」ことが、人間の視覚における原始感覚性 protopathy の重要なひとつであることは間違いない。

胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。

触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口-身体-指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)


以下の文は、出産後の乳幼児期をめぐる記述だが、《視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある》とされている。

成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体 harmonious mix-up の感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。

これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」2012年『徴候・記憶・外傷』)

ーーそもそも幼児が《視力が1.0になるには、3歳頃まで時間を要する》そうだ(参照:寺師恵子「赤ちゃんの視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の不思議な発達!」)。


蓮實重彦はヴェンダースとの対談で、《ああ、偉大な映画作家は、やはりみんな近眼なのだ。フォードも、フィリッツ・ラングも、そしてあなたも(笑)。》(『光をめぐって』)と口走っているが、マーク・ロスコもかなり強い近眼だ。





中井久夫は上に引用して文に引き続き、「共通感覚的」と「原始感覚的」なもの以外に「絶対性」をトラウマ性感覚としている。

私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性 coenaesthesiaと原始感覚性 protopathyとを挙げた。

もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。(……)

私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。(……)

私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。

絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。

私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。

ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである。(……)音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。

視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)


⋯⋯⋯⋯

もしラカン派の美の定義、「美は現実界に対する最後の防衛」を受け入れるなら、この意味は、「美はトラウマに対する最後の防衛」でもあり(参照)、トラウマとはすなわち「身体の出来事」(身体の上への刻印)であり(参照)、つまりは「美は身体の出来事に対する最後の防衛」となる。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un 、2 février 2011)

ーー何度か掲げているがラカン「ボロメオの環」のフロイト変奏版における、「固着 」とは次のポジションにある。




ーーラカンはリビドー固着の場にあるものを骨象[osbjet]と呼んでいる(参照)。すなわち身体に突き刺さった骨。

そして原「身体の出来事」は母胎内で起こるのは疑いようがない。

①触覚や圧覚という身体の出来事、《指を口にくわえること⋯⋯指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態⋯⋯口-身体-指が作る一つの円環⋯⋯はウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型》、ーーこれは彫刻制作者における原始感覚でありうる。

私は彫刻家である。
 
多分そのせいであろうが、私にとって此世界は触覚である。触覚はいちばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的なものであると言える。彫刻はいちばん根源的な芸術である。

人は五官というが、私には五官の境界がはっきりしない。空は碧いという。けれども私はいう事が出来る。空はキメが細かいと。秋の雲は白いという。白いには違いないが、同時に、其は公孫樹の木材を斜に削った光沢があり、春の綿雲の、木曾の檜の板目とはまるで違う。考えてみると、色彩が触覚なのは当りまえである。光波の震動が網膜を刺戟するのは純粋に運動の原理によるのであろう。絵画に於けるトオンの感じも、気がついてみれば触覚である。口ではいえないが、トオンのある絵画には、或る触覚上の玄妙がある。トオンを持たない画面には、指にひっかかる真綿の糸のようなものがふけ立っていたり、又はガラスの破片を踏んだ踵のような痛さがあるのである。色彩が触覚でなかったら、画面は永久にぺちゃんこでいるであろうと想像される。

音楽が触覚の芸術である事は今更いう迄もないであろう。私は音楽をきく時、全身できくのである。音楽は全存在を打つ。だから音楽には音の方向が必要である。(高村光太郎「触覚の世界」)

ーーこの高村光太郎の言葉遣いからすれば、原始感覚性 protopathyのみを強調するのではなく、共通感覚性 coenaesthesiaを言わなければならないのかもしれない。するとすべてが触覚にかかわってくるとさえ言いうる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚等だけではなく聴覚、視覚でさえ、身体的な触覚でありうるのだ。ひょっとしたらフロイトの「リビドー固着」、すなわち身体の上への刻印、あるいはラカンの「身体の出来事」自体、「触覚」と翻訳できうるかも。

とはいえここでは原始感覚性という語を基盤として記述し続けよう。

②聴覚、母の心音、一分間七〇ビートの音楽(音楽家)

③視覚、やわらかな明るさが身体を包んでいること(画家)





そして詩人にとっての原始感覚的基盤もまた母の言葉である。

し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

※より詳しくは「羊水をとおしての刻印」。


出産直後の身体の出来事は羊水の吐き出しであり、それに引き続く空気吸入、母乳吸入である(参照:出生時の呼吸動態の変化




(新生児における)呼吸システムへの最初の空気吸入、消化システムへの最初の母乳吸入は、おそらく外傷体験と呼びうる。(The Mark, the Thing, and the Object: On What Commands Repetition in Freud and Lacan by Gertrudis Van de Vijver, Ariane Bazan and Sandrine Detandt, 2017年)

「最初の空気吸入」にかかわる身体的アートとしては、ヨガをすぐさま思い浮かべることができる。そして母乳吸入にかかわる口唇欲動は、性器を使った性行為に先行した原性行為アートの根でありうる。フロイトは、フェラチオをこの母乳吸入としての口唇欲動に関連付けた。

ペニスを吸うという倒錯的幻想は、最も無邪気な源から発している。それは母または乳母の乳房を吸うという、先史的ともいえる幻想の改変されたものである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』「症例ドラ」)

ーーもはや紋切り型ではあるが、性行為後の喫煙とは、口唇欲動が十分には満足されなかったためであることが多い。ラカンの言い方なら「性交の成功」による不満足である。

男は、間違って、ひとりの女に出会い rencontre une femme、その女とともにあらゆることが起こる。つまり、通常、性交の成功が構成する失敗 ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel が起きる。(ラカン、テレヴィジョン、1973)

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中井久夫によるトラウマの定義は、《人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶》であり、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》である。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

ーーこの「異物」はフロイト用語である(参照:原抑圧・固着文献)。そして「異物 Fremdkörper」は《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23, 11 Mai 1976)のことである。

⋯⋯⋯⋯

ロスコの最後の作品は次のものである。




1970年に66歳で自殺。病気(大動脈瘤)や私生活上のトラブルなどの理由で、ということになっている。スタジオで手首を切り血まみれになって死んでいたという話があるが詳しいことはしらない。