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2015年9月19日土曜日

暴力と精神衛生

一つの悪徳を行使しなくては、自国の存亡にかかわるという容易ならぬばあいには、悪徳の評判などかまわずに受けるがよい。
私は、用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神が女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な行き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである。

要するに、運命は女性に似て、若者の友である。つまり、若者は、思慮は深くなく、あらあらしく、きわめて大胆に女を支配するからである。(マキャベリ『君主論』)

…………

なにやら言ってくるヤツがいるが、二つの投稿にある文が矛盾していると。

《おまえらよく「秩序を以て行列をつくる国民」のデモをいまだやってられるな、感心するぜ!》(「きたるべきメーメーアイコク・ヒツジさんたち」)

《デモぐらい行けよ、だがデモの熱狂を疑えよ》(「で、どうおもう、〈あなた〉は?」)

ーーそうかい? そうかもな。

オレはつねに矛盾しているのさ。なにが善でなにが悪かなど、オレのようなどこかの馬の骨にわかるわけないだろ。気に入らなかったら読むなよ!

馬の骨とケンソンしてしまったが、「不確実性の知恵」さ、おまえらのように、コトアルゴトニ、「非暴力の抵抗」っていってるヤツラにはウンザリなのさ。

人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 )

韓国人のようにアツクなったらダメかい、ときには? オレはたまに当地で仕事をしている彼らとテニスをするんだが、やつらはアツイねえ、ダブルスのペアなんか組んで迂闊なヘマをするとラケットが飛んできそうな顔するぜ。

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。このような人たちが、激しいデモや抗議活動に向かうことはめったにない。

 私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」

で、貴君は惚れこんだ女がヒドイ目にあってもその暴漢野郎に仕返ししないタイプかい? 非暴力に終始するわけかい?

まあそれはそれでいいさ、オレはたぶんそのタイプではないというだけだな

「何も恐れることはない。どんなときでも君をまもってあげるよ。昔柔道をやっていたのでね」と、いった。

重い椅子を持ったままの片手を頭の上へまっすぐのばすのに成功すると、サビナがいった。「あんたがそんな力持ちだと知って嬉しいわ」

しかし、心の奥深くではさらに次のようにつけ加えた。フランツは強いけど、あの人の力はただ外側に向かっている。あの人が好きな人たち、一緒に生活している人たちが相手だと弱くなる。フランツの弱さは善良さと呼ばれている。フランツはサビナに一度も命令することはないであろう。かつてトマーシュはサビナに床に鏡を置き、その上を裸で歩くように命じたが、そのような命令をすることはないであろう。彼が色好みでないのではなく、それを命令する強さに欠けている。世の中には、ただ暴力によってのみ実現することのできるものがある。肉体的な愛は暴力なしには考えられないのである。

サビナは椅子を高くかざしたまま部屋中を歩きまわるフランツを眺めたが、その光景はグロテスクなものに思え、彼女を奇妙な悲しみでいっぱいにした。

フランツは椅子を床に置くとサビナのほうに向かってその上に腰をおろした。

「僕に力があるというのは悪いことではないけど、ジュネーブでこんな筋肉が何のために必要なのだろう。飾りとして持ち歩いているのさ。まるでくじゃくの羽のように。僕はこれまで誰ともけんかしたことがないからね」とフランツはいった。

サビナはメランコリックな黙想を続けた。もし、私に命令を下すような男がいたら? 私を支配したがる男だったら? いったいどのくらい我慢できるだろうか? 五分といえども我慢できはしない! そのことから、わたしにはどんな男もむかないという結論がでる。強い男も、弱い男も。

サビナはいった。「で、なぜときにはその力をふるわないの?
「なぜって愛とは力をふるわないことだもの」と、フランツは静かにいった。

サビナは二つのことを意識した。第一にその科白は素晴らしいもので、真実であること。第二に、この科白によりフランツは彼女のセクシャル・ライフから失格するということである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P131-132)

集団行動の熱狂はキライだが、一貫した非暴力もキライさ、わるかったな、アバヨ!!


※附記:「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ」より

……事後的な言語化の意味と効用について述べたが、皮肉なことに、行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。(中井久夫「「踏み越え」をめぐって」『徴候・記憶・外傷』所収)
行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp311-313)

2015年9月18日金曜日

きたるべきメーメーアイコク・ヒツジさんたち

@OesWords: しかし、いまここに来て見ると、若い人が力強い声を発している。民主主義の基本の力がこのように活発で失われていない以上、自分たち老人がもう希望はないとへたり込んでしまうことはできない。(2015.9.14国会前)大江健三郎

ーーということをおっしゃっているようだが、辺見庸氏のブログが「おひさしぶり」(9月15日)に更新されて大江健三郎にも触れている。前投稿は8月8日であり一カ月以上の空隙がある。体調でも崩されかとシンパイしていたが、おゲンキなようだ。

・おひさしぶりだというのに、あまりにも唐突で恐縮ですが、あの醜いブチハイエナは、ちょっと嗅ぎでもしたらたちまち失神するか、あなたが虚弱体質のばあい、ころりと死にいたるほど、とんでもなくくさい屁をするのだ。食性はいうまでもなく肉食で、ものすごいアゴの力で骨までばりばりと嚼みしだく。並はずれた体力と(無)神経をもち、10数種類の鳴き声をときにおうじて器用に鳴きわける。英名はspotted hyenaだが、ひとをこばかにして「アハハハ…」「へへへへ…」「ヒヒヒヒ…」などとよく笑うことから、 laughing hyenaともよばれる。いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう(ex.inada gas-hyena)。ブチハイエナは雌雄ともいっぱんに無用のけんかをこのまないが、いったんしかけられたら、集団であいてを傷めつくし殺しつくすまでたたかう。しかるのちに敵を食いつくし、みなで放屁しながら「アハハハ…」「アへへへへ…」「アヒヒヒヒ…」と笑うのである。ブチハイエナは、つまり、本質的には超過激で超強力な暴力集団であることをわすれてはならない。話などつうじるものではないのだ。さて、数十頭の群れ(クラン)からなるブチハイエナ集団を覆滅するにはどうすればよいのか。それが問題だ。そろいの字体のプラカードをぶらさげた無害なヒツジさんたち数万頭で、ブチハイエナたちをミンシュテキに包囲し、メ―メ―メ―メ―鳴けばよいというのか。メ―メ―メ―メ―・オマワリサン・ケフモ・オツカレサマ・コンバンモ・ゴクロウサマ!まいどおなじみ大江健三郎たちに、やくたいもないスピーチをさせて、メ―メ―メ―メ―、無傷でもりあがろうってか!?おい、大江、このクニに戦前も戦後もいちどだって民主主義なんてありえたためしがないことぐらい知っているだろうが。まもるものなんてヘチマもない。ならば、大江よ、なぜそう言わないのだ。なぜこうなったのかをかたらないのか。このていたらくのわけを。血のいってきもながさずに、無傷ではなにもできはしない、虫がよすぎる、と。たとえ50万いや100万のヒツジさんたちが、ペンライトをケツの穴から夜空に照らして、メ―メ―メ―メ―、ミンシュテキに鳴いてみたところで、takaichi gas-hyenaの屁いっぱつ、たちまち異臭さわぎで全員気絶だぜ。おい、大江、もうちょっとましな演説ができないのかね。あんたも、もうかるくいっぱつ、頭にかまされたんとちがうか。なに?オナラは暴力ではない?あくまでミンシュテキに、ボウリョク・ハンタイだと?……ああ、見解のそういですな。ひつようなのは、laughing hyena集団の国家暴力をはばむ対抗暴力のイメージだ。やかましい、メ―メ―メ―メ―鳴くんじゃない、きたるべきアイコク・ヒツジさんたちよ、さっさとブチハイエナどもに骨ごと食われてしまえ。いでよ、ふかき憎悪もて、群れず、ひとり闇をさまようもの。暗きうちを歩みて、おのが往くところを知らず、これ暗黒がその眼をくらましたればなり……。されど、いでよ!(2015/09/15

ーーでこの「名文」を引用すれば、ガンジーの非暴力やらなんたらと言ってくる連中がいるかもしれないのを憂え、ここでガンジーの言葉をも引いておこう。

侵略者達にあなたがたの屍の上を歩かせなさい、罪のない人々の屍の上を踏み越してゆくような軍隊は二度と同じ経験をくりかえすことはできないでしょう。(ガンジー『非暴力の精神と対話』)。

屍になるまでの覚悟があるなら非暴力もよろしい。ブチハイエナどもに貪り喰われる覚悟があるのなら。

そして《いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう》ブチハイエナどもである。

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」《不滅》クンデラ

ーーなぜこうなのか? いやいやソンナコトハナイ、ある種の男たちの錯覚である・・・

だがある種の女たちもどうやらそうであるのではないかとシンパイしているらしい。

イギリスのラディカル・フェミニスト・グループの創設者の一人であったジュリエット・ミッチェルJuliet Mitchellは精神分析フェミニズム系のフェミニストで名高いが、21世紀になって、ラカン派の臨床医の書(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、PAUL VERHAEGHE 2009)の序文をーー序文にしてはいささか長すぎるほどの文をーー書いている。

このヴェルハーゲの書のフロイト・ラカンの女性論をめぐる箇所のまとめ(のいくらか)は「古い悪党フロイトの女性論」にある。だがいまはその話ではない。ラディカルフェミニストの序文の話である。

ジュリエット・ミッチェルはその長々しい序文で、シルヴィア・プラスの詩、 「すべての女はファシストを崇拝する Every woman adores a Fascist(Sylvia Plath)」を引用して、なにやらを説明しようとしている。ただし、女のほうが残酷である、などということは口が裂けても記さない、ただ「父なる超自我」/「母なる超自我」に近いことを口に出そうとはしている。

「母なる超自我」とは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない「猥褻かつ苛酷な形象」[ la figure obscène et féroce ] (Lacan)である。

ーーというわけで女性のみなさん、フロイト・ラカンなどは決して読まないようにしましょう! そんなものを読めばラディカルフェミニストでもこんなことを口にだそうとしてしまいます!


さてなんの話だったか?


ベンヤミン(『暴力批判論』)は問う、「係争をなんとかして非暴力的に解決することは可能なのか?」

彼の答えは、非暴力的な解決が可能なのは、礼儀、共感、そして信頼のある「内輪の人間どうしの関係において」である、としている。「暴力を行使せず人間同士が合意する領域というものが存在するのは、それが隈なく暴力を受けつけない場である場合だ。すなわち、「理解」(悟性)に固有の領域、言語である。」

ブチハイエナとメーメーこひつじさんたちは、「内輪同士の関係」にあるつもりなのだろうか。それなら「非暴力」に徹したらよろしい。


ところでヒトラーにひとは「非暴力」で対抗できるだろうか。




《ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。》

彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。(小林秀雄『ヒットラーと悪魔』)
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。(同上)


ところでヒットラーは1930年代の日本を羨んだらしい。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収

この「会社主義」の主要な原因(のひとつ)はなにか。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号

 父権的/母性的などとある。これもある種の男たちの錯誤である・・・

とはいえかの上野千鶴子さんーー思想界の注目すべきメス個体、《陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう》などとはわたくしはケッシテイワナイーーがひどくお好みになっているらしい精神科医中井久夫もこっそりとこんなことを言っている、→「母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)」。

というわけで、女性のみなさん、「思想家」の本など読まないようにしましょう! 穏やかでスカスカの人生指南書のたぐいだけ読みましょう!

…………

※附記:念押ししておけば、ここでの男/女は解剖学的な性別ではない。たとえばラカン派では男と女とはシニフィアンにすぎない(参照)。

いまの総理大臣をどうして「男」だと決めつけるのか、あの解剖学的には男であるらしい人物が実は「女」であると推定してどうしてワルイわけがあろう?


…………

で、何が言いたいんだってーー。

おまえらよく「秩序を以て行列をつくる国民」のデモをいまだやってられるな、感心するぜ!

たしかに権力者に人民への恐怖はある。連合艦隊司令長官山本五十六は、東京が空襲されれば「近衛や自分などは3度ぐらい八つ裂きにされる」と言ったという。だが、それどころか、実際に起こったのは敗戦をお詫びする人民の群れであった。当時の首相は一億が総懺悔せよと言った。

今、原発の真実を知らなかったと自分を責める普通の人たちがいる。その気持ちはどこか私にもある。しかし、一億総懺悔に陥ってはなるまい。どこに、当日、秩序を以て行列をつくる国民があるか。こんな治めやすい国があろうかと多くの国の為政者は羨ましく思ったにちがいない。しかし、不信や「なめるな」の思いが積もっていった。風評被害はその延長上にある。(中井久夫 「清陰星雨」(9.18)より

※補遺→ 暴力と精神衛生

2015年9月17日木曜日

ラカンのシニフィアンの定義:「シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」

まずラカン「無意識の位置」(エクリ)より。

E840

 シニフィアンの領域は、シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象するという事実を基礎に成立しています。これはすべての無意識の形成物、すなわち夢、いい間違い、機知の構造です。これと同じ構造はまた、主体の原初的分裂[division]を説明してくれます。シニフィアンはいまだ位置づけられていない《他者》の場所に作り出され、いまだ話すことのできない存在から主体を生み出します。しかし、このことはその存在を凍りつかせてしまうということをその代償とするのです。《そこにあった[il y avait]》今にも話さんとするものは消え去り、もはやシニフィアン以外の何物でもないものになります。ここで私が「il y avait」と申し上げたのは、フランス語の半過去の二つの意味を念頭においています。つまり、今にも話さんとするものを前の瞬間に位置づける(すなわち、そこにあったがもはやなくなってしまった)という意味と、後の瞬間に位置づける(すなわち、そこにありえたのだから、少し時が経てばそこにあるであろう)という意味です。

E841

 この操作が疎外[alienation]と呼ばれるのは、この操作が《他者》のなかで始まるからではありません。主体にとって《他者》が主体のシニフィアンの原因であるという事実は、どんな主体も自身の自己原因にはなれないということを説明してくれるだけです。これは主体が《神》ではないからというだけではなく、《神》を主体としてとらえた場合、《神》自身も自己原因になれない、ということから明らかです。聖アウグスティヌスはこのことを非常に明確に理解していたので、個人としての《神》に「自己-原因」としての性質を与えることを拒んだのです。(松本卓也訳

ーーなるほど松本卓也氏はすでに2004年にこのように訳しているのだな、2004年といえば彼はまだ20歳前後じゃないか。

オレのように耳順の齢をすぎてから英文(のみ)を斜め読みしている人間とはわけがちがう。

The register of the signifier is instituted on the basis of the fact that a signifier represents a subject to another signifier. This is the structure of all unconscious formations: dreams, slips of the tongue, and witticisms. The same structure explains the subject's original division. Produced in the locus of the yet-to-be-situated Other, the signifier brings forth a subject from a being that cannot yet speak, but at the cost of freezing him. The ready-to-speak that was to be there—in both senses of the French imperfect "ily avait" placing the ready-to-speak an instant before (it was there but is no longer), but also an instant after (a few moments more and it would have been there because it could have been there)—disappears, no longer being anything but a signifier.

It is thus not the fact that this operation begins in the Other that leads me to call it "alienation."The fact that the Other is, for the subject, the locus of his signifying cause merely explains why no subject can be his own cause [cause de soi], This is clear not only from the fact that he is not God, but from the fact that God himself cannot be his own cause if we think of him as a subject; Saint Augustine saw this very clearly when he refused to refer to the personal God as "self-caused" [cause de soi].

松本くんの訳文に出合った記念に、彼に敬意を表して、ほとんど縁のない仏原文をも掲げておこう。

Le registre du signifiant s'institue de ce qu'un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant. C'est la structure, rêve, lapsus et mot d'esprit. de toutes les formations de l'inconscient. Et c'est aussi celle qui explique la division originaire du sujet. Le signifiant se produisant au lieu de l'Autre non encore repéré, y fait surgir le sujet de l'être qui n'a pas encore la parole, mais c'est au prix de le figer. Ce qu'il y avait là de prêt à parler ,- ceci aux deux sens que l'imparfrait du français donne à l'il y avait, de le mettre dans l'instant d'avant : il était là et n'y est plus, mais aussi dans l'instant d'après : un peu plus il y était d'avoir pu y être, -ce qu'il y avait là, disparaît de n'être plus qu'un signifiant.

Ce n'est donc pas que cette opération prenne son départ dans l'Autre, qui la fait qualifier d'aliénation. Que L'Autre soit pour le sujet le lieu de sa cause signifiante, ne fait ici que motiver la raison pourquoi nul sujet ne peut être cause de soi. Ce qui s'impose non pas seulement de ce qu'il ne soit pas Dieu, mais de ce que Dieu lui-même ne saurait l'être, si nous devons le penser comme sujet -saint Augustin l'a fort bien vu en refusant l'attribut de cause de soi au Dieu personnel.


ところで、《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》とは、ラカンのテキストに驚くほど繰り返し出現するのだが、たとえば『同一化セミネール』では次ぎのようにラカンは語っている(参照:ラカン派の「記号」と「シニフィアン」)。

シニフィアンは記号とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(セミネールⅨ、向井雅明試訳)

冒頭だけ仏原文を掲げておこう。

Le signifiant… à l'envers du signe, n'est pas ce qui représente quelque chose pour quelqu'un …c'est ce qui représente précisément le sujet pour un autre signifiant. Séminaire 9 Staferla 版p.78


ラカンは後年セミネールⅩⅦで「四つの言説」概念を提出したが(参照)、そこでも《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》という文をとくに「主人の言説」を例に挙げて説明している(Staferla 版、P.19)。

これらは解釈者たちによって次のように説明される。

◆Lacan’s fifth Discourse, introducing the Capitalist Discourse(Philippe Gendrault)




ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.2004

ラカンの名高いシニフィアンの「定義」、シニフィアンは主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象する…主人の言説が基本の母胎を提供してくれる。すなわち主体はもうひとつのシニフィアン(「ふつうの諸シニフィアン」の鎖あるいは領域)に対するシニフィアンによって表象される。象徴的表象化に抵抗する残余ーー喉に刺さった骨ーーは対象aとして出現する(生産される)。そして主体は幻想的な形成を通してこの過剰に向けて彼の関係性を「正常化」しようと努める(これが主人の言説の式の下段が幻想のマテーム $ – a を示している理由である)。(私訳)


◆Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility 2006

主体は諸シニフィアンの鎖の効果であり、ほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって表象される。主体は「己れ」を読むために主人のシニフィアンが必要である。セミネールXXにおいて、ラカンはこう言っている、主人のシニフィアンは封筒のようなものであり、その包みを通して諸シニフィアンの全ての鎖ーー知knowledgeーーは存続しうる、と。(Seminar XX, 129-131)


ここではもうひとつ、上に掲げたエクリにある《どんな主体も自身の自己原因にはなれない》にも注目してみよう。セミネールⅩⅣには、「シニフィアンはそれ自身をシニフィアン(徴示)することができない」、というふうに要約できる文がある。

英訳:it is of the nature of each and every signifier that it cannot signify itself”.(The Logic of Fantasy)

仏原文;il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( Logique Du Fantasme l966-67 )


さらに、《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》とは、ジュパンチッチのバディウ論によれば、”a major breakthrough of contemporary thought”だそうだ。しかもラカンの現実界の定義にもかかわり、pas-tout(非全体の論理)もかかわる、と。


■THE FIFTH CONDITION Alenka Zupancic

A conception that finds its most concise formulation in Lacan's statement: ‘a signifier represents a subject for another signifier'. This was a major breakthrough of contemporary thought, a breakthrough that could in fact provide philosophy with its ‘fifth condition', i.e. its own distinctive conceptual space. For in this conception, representation is not a ‘presentation of presentation' or the state of a situation but rather a ‘presentation within presentation' or a state within a situation. In this conception, representation is itself infinite and constitutively not-all (or non-conclusive), it represents no object and does not prevent a continuous un-relating of its own terms (which is how Badiou defines the mechanism of truth). Here, representation as such is a wandering excess over itself; representation is the infinite tarrying with the excess that springs not simply from what is or is not represented (its ‘object'), but from this act of representation itself, from its own inherent ‘crack' or inconsistency. The Real is not something outside or beyond representation, but is the very crack of representation.


この最後の現実界の定義めいたものは、ジジェクが『LESS THAN NOTHING』(2012)でいっている「波打ち際」にもかかわるのだろう(参照:“A is A” と “A = A”)。

ラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の 喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式 signifying formula of enjoyment に還元された文字の jouis‐sense を、である。

ここに後期ラカンの最終的な「ヘ ーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異は己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

…………

※追記

セミネールⅢにもすでに次ぎのように出て来ていることに注目しておこう。

Il n'y a pas d'autre définition justement scientifique des subjectivités que par cette possibilité de manier le signifiant à des fins purement signifiantes, et non pas significatives, c'est-à-dire qui n'expriment aucune relation directe de l'ordre de l'appétit, et font jouer l'ordre du signifiant, et non pas simplement à l'état de signifiant constitué. p.421

そしてラカンのシニフィアンの捉え方の説明として初期から後期までのラカンの主体概念を綿密に解釈するおどろくべき書『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』 (Lorenzo Chiesa. 2007)における冒頭近くにある軽いジャブ程度のシニフィアンの定義を掲げておこう。

(1)《シニフィアンはどんな対象とも関係しない記号である》(S.3)。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(S.3)。さらにシニフィアンは必らずしも(文のなかの)言葉に相当しない。音素から文までの言語のあらゆる階層的レヴェルでの対立するユニットはシニフィアンとして機能しうる。人のボディランゲージもーー例えば、頭を振ったり頷いたり手を振ったり等々ーーそれが多義的である限りにおいてシニフィアンとして働きうる。

(2) 記号とは、厳密に言えば、コード概念、あるいは「生物学的な記号」と重なり合う何かである。索引と指示物とのあいだのとゲシュタルト的/想像的なーー両-一義的な bi-univocal ーー関係である。これは動物のコミュニケーションの領域である(思い起こしてみよう、例えば動物においてある色の出現はそのパートナーにおけるある性的反応を惹き起こす仕方を)。このように動物のコミュニケーションは「(特別の)意味をもつ significant」。他方、人間のコミュニケーションは「徴示する signifying」。その意味はけっして「両-一義的 bi-univocal」でないことである。というのは根絶できない虚偽の可能性ーー象徴的局面の精髄ーーが間違いなくあるのだから。

(3)「主体性のどんな科学的定義もない、次ぎのように考え始める以外は。すなわち意味する先ではなくnot significant ends、純粋に徴示するものpurely signifyingに対するシニフィアンを扱うことの可能性から始めること。これは、欲求の秩序とのどんな直接の関係性もないことを言っている」(Seminar. III, p. 189) この定義はすでに1960年代初めのラカンの名高い公式の基本を提示している。その公式によれば、主体はほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって代表象される。主体はシニフィエに還元され得ない。シニフィエの主体the subject of the signified とは自我egoに相当する。他方、主体はシニフィアンにさえ同一化できない。というのはシニフィアンの行為そのものが言表内容と言表行為のあいだで主体を分裂させるからだ。どんなシニフィアンも主体を十分に徴示するsignifiesことはない、それが「特権的なシニフィアン」であってさえも。(私訳)

そしてシニフィアンを考える上で肝腎なことは次ぎのようなことだ。

医療診断学において、症状は、底に横たわる障害を指し示す記号として解釈される。その記号は、孤立化されると同時に一般化される。臨床的な精神診断学においては、われわれはシニフィアンに直面する。そのシニフィアンは、患者と〈他者〉とのあいだのその折々に見合った相互作用において絶え間なく移動する意味をもっている。(……)

臨床的な精神診断学の問いは、「この患者はどんな病気を持っているか?」というものではそれほどなく、むしろ「この症状は誰に、何に、差し向けられているのか?」というものである。底に横たわる、しかし目に見えない構造――患者に交差するすべてを決定する構造――があるに違いないというものである。

医療診断学は特定化(症状symptom)から始め、一般化に向かう(症候群syndrome)。それは、個々人の苦情に完全に焦点を絞った記号的なシステムsemiotic systemを基礎としている。臨床的な精神診断学は一般(化)(始まりの苦情)から始めて、個別化(N = 1)に進んで行く。それは、主体と〈他者〉とのあいだのより広い関係性の部分であるシニフィアンのシステムを基礎としている。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

これはなにも精神分析臨床の実践の場のみにはかかわらない。われわれはたとえばツイッター上での発言を記号として捉えるか、シニフィアンとして捉えるか、そこに人の発言を判断する「分析」の要(のひとつ)がある。

精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』ーー「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」(フロイト))

ーーでは、〈あなた〉は「精神科医」でないのだから、人の発言を「額面通り」とるのだろうか? それが好きならそうしたらよろしい。だがそれでは、たとえば「政治家」の発言をなにも解釈できないだろう。

…………

※追記:別に投稿しようと思ったがあえてそうするまでもない気がしてきたのでここに追記しておく。

ジジェクによるラカンの「波打ち際 littorale」のよりわかりやすい説明は次ぎの文がいいだろう。

Levi R. Bryantは『The Democracy of Objects』(2011)にてジジェクの『為すところを知らざればなり』から引用して次ぎのように記している。

the bar which separates [the symbolic and the real] is strictly internal to the Symbolic, since it prevents the Symbolic from “becoming itself”. The problem for the signifier is not its impossibility to touch the real but its impossibility to “attain itself”—what the signifier lacks is not the extra-linguistic object but the Signifier itself, a non-barred, non-hindered (Cf. Žižek, For They Know Not What They Do, p. 112.)
In short, the real is not something other than the symbolic, but rather is a sort of effect of the symbolic resulting from the difference that haunts every signifier by virtue of the split between the signifier and its place of inscription. Because the signifier always embodies this difference between itself and its place of inscription, the signifier always and everywhere necessarily fails to attain identity with itself. However, this very failure to attain identity with itself is precisely the very essence of its identity. As Hegel playfully remarks in the Science of Logic, if A were identical with itself, why would I need to repeat it? The repetition of an identity in a tautology like “A = A” actually marks the difference or non-identity of A with itself.

彼は同じ書で、ラカンのシニフィアンの定義をヒステリーの言説にて説明している。



In the discourse of the hysteric, the subject addresses the Other or master from the standpoint of his split. This split results from the inability of the symbolic or language to provide the subject with a signifier that would fix or name his identity within the symbolic.

In short, the hysterical subject calls on the other to tell him what he is. This inability of language to provide a signifier that would found the subject arises from the essence of language itself.

As Lacan remarks in The Logic of Fantasy, “it is of the nature of each and every signifier that it cannot signify itself”.273

Insofar as the signifier cannot signify itself, it always requires another signifier to produce effects of signification.

In this respect, signifiers have the structure of sets that do not include themselves, and Lacan does not hesitate to draw a parallel with Russell's paradox pertaining to the impossibility of a set of all sets that do not include themselves. The net result of this is that there cannot be a “universe of discourse” or totality of language because it will always be beset by paradox from within.274

The consequence of this is that there can be no stable signifier that could ground the subject's identity, for each signifier will necessarily refer to another signifier without any possibility of completeness. It is this structure of language that accounts for the divided structure of the subject.

Moreover, in the position of truth in the discourse of the hysteric, we encounter objet a as that remainder that is always lost within language. It is this remainder that literally drives the subject forward, forever looking for that signifier that would ground identity, and further alienating himself through his speech.

The product of this discourse, we note, is knowledge, S2, produced as a result of the hysteric's demand. Indeed, Lacan claims that the discourse of the hysteric is the only discourse that produces knowledge.275 In this connection, we can treat Φ and the master or S1 to which the hysteric addresses himself as equivalent.

ようするにシニフィアンの定義の文は四つの言説のいずれであっても説明可能であり、核心は四つの言説の基底にある形式的構造である。








2015年9月15日火曜日

で、どうおもう、〈あなた〉は?

特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』フロイト著作集6 P219)

…………

小田実bot ‏@odamakoto_bot

デモやってると、警官が出てきて怒鳴りまくるやろ。「何ぬかすか、アホ!」ってこっちも言ってやる。そうすると恐怖も共有するし感動も共有する。精神が躍動するでしょう。しかも歩いとるんだから、いちばん健康にいいというのが私の説なんです(笑)。『小田実の世直し大学』2001

――で、どうおもう、〈あなた〉は?

抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)
人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。──不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、──阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」((ニーチェ『権力への意志』「第三書 原佑訳)

あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』)
義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』) 

小田実の「精神が躍動する」とは攻撃欲動、権力への意志の発散と言い換えてもいいんじゃないかい?

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫『「踏み越え」について』2003)


…………

東浩紀 ‏@hazuma

言葉がなくても酒飲めばわかりあえる、肩組んでビースとか言っているひとがもっとも危険で、戦争に行ったらばんばん人殺すひとに生まれ変わるというのは自明で、そして近代社会というのはそういうひとの勝手にさせないために面倒な仕組みを作っている世界なので、ぼくはその点では徹底して近代人です。(2015.9.15)

――で、どうおもう、〈あなた〉は?

私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。しかしその悪癖がいまでは、群れを破壊へ導きかねない。たったひとりの気紛れが全体の、永遠にも似た忍耐をいきなり破る。(古井由吉『哀原』女人)
@yoshimichi_bot: 私が数を背景にした集団行動を嫌う理由は、集団行動は原理的に醜いから、原理的に不正だから、原理的に悪だからである。それは一時的な戦術であるにせよ、自分たちは完全に正しいという姿勢をとる。相手は完全にまちがっているという単純な二元論を演技する。『日本人を<半分>降りる』中島義道
@yoshimichi_bot: 考えない者の強さ、考えることができない者の強さ、しかもそれでヨシとしている者の強さ、「俺、バカだから」と居直る者の強さは、筋金入りの強さである。まさにニーチェの語るごとく「悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪に勝る害悪はない」。『エゴイスト入門』中島義道
……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)


…………

権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」と(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

――で、どうおもう、〈あなた〉は?

オレかい? オレの見解は、戦争法案反対というのは「論理的には」難民受け入れデモにつながるはずというものだ。彼らが「賤民」でないならね(参照:「おまえらおれたちばかりにやらせるなよ すこしは世界の警察官の仕事手伝ってくれ」)。


東浩紀@hazuma
難民受け入れを求めるデモってあるのかしら。戦争反対デモには乗れないが、難民受け入れデモなら参加できそうな気がする。(2015.9.05)

ーーたまたま東浩紀氏のツイートをふたつも掲げてしまったが、わたくしは彼のファンでもなんでもない、ただし「地頭は最高の人」(鈴木健)かも知れないとは思う。すくなくともそのあたりの「学者」よりはずっとましだ。

二つも続けて引用した「反動」のために次ぎの文を掲げておく誘惑から逃れられない。

たとえば東浩紀氏が書いたものがわたしの心に響いてこないのは、それがカタログ的な知から構成されているように見えるからです。基本にあるのはジャック・デリダや量子力学の名を借りた思想カタログもしくは思想フィクショ ンです。実際に砂漠のなかを歩いたか、ジャングルのなかを歩いたか、実際に異国の地で何年も過ごしたか、という ような、生身の体験や根源的な危機感が感じられない。自らは安全な場所に身を置いて、頭の中で順列組み合わせで 知識を再構成している。厳しい言い方をすれば、人も羨むエリート大学卒業生が書斎で捏造した小賢しいフィクショ ンです。迷える子羊たちはその人の言うことについてさえ行けば何とかなると思ってしまう。(藤田博史『セミネール断章』 2011年12月


で話を戻せば、あの敬すべきデモ参加の人たちが難民デモがあった場合に果たして十分の一でも居残るだろうかについて思いを馳せるね、--さてどうだろう?

いずれにせよ、こうだ。

……みなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。 われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。(辺見庸

デモぐらい行けよ、だがデモの熱狂を疑えよ、そういうことだ。

街頭でのデモ(示威行進)は古い、という人たちがいる。また、インターネットなどの普及で、 さまざまな抗議の手段が増えたという人たちがいる。しかし、市街戦や武装デモは古いが、 古典的なデモは今も、西洋やアジアで存在している。いかに非能率的に見えようと、それ はやはり効果がある。というより、丸山真男や久野収が強調したように、民主主義は代表 議会制度だけでは機能しない。デモのような直接行動が不可欠なのである。 ところが、日本にはデモがない。それはインターネットなどのせいではない。たとえば、韓 国ではインターネットはデモの宣伝や連絡手段として役立っているが、日本ではむしろそ の逆である。人々はウェブ上に意見を書き込んだだけで、すでに何か行動した気になっているのである。(柄谷行人 丸山真男とアソシエーショニズム (2006))

ーーで、2011年を経て、デモが真っ盛りになってしまったが、それが《国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか》(中井久夫)でないかどうか疑うことを忘れてはならない、《表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口》だけではないか、と。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

…………

※附記

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

◆ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より。

……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(私訳)
註)フロイトの選挙投票の選好(フロイトの手紙によれば、彼の選挙区にリベラルな候補者が立候補したときの例外を除いて、通例は投票しなかった)は、それゆえ、単なる個人的な事柄ではない。それはフロイトの理論に立脚している。フロイトのリベラルな中立性の限界は、1934年に明らかになった。それは、ドルフースがオーストリアを支配して、共同体国家(職業共同体)を押しつけたときのことだ。そのときウィーンの郊外で武装した衝突が起った(とくにカール マルクス ホーフの周辺の、社会民主主義の誇りであった巨大な労働者のハウジングプロジェクトにて)。この情景は超現実主義的な様相がないわけではない。ウィーンの中心部では、有名なカフェでの生活は通常通りだった(ドルフース自身、この日常性を擁護した)、他方、一マイルそこら離れた場所では、兵士たちが労働者の区画を爆撃していた。この状況下、精神分析学連合はそのメンバーに衝突から距離をとるように指令していた。すなわち事実上はドルフースに与することであり、彼ら自身、四年後のナチの占領にいささかの貢献をしたわけだ。


ジジェクは《フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる》としているが、フロイトは次のように書いてもいる。《集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある》。

集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


再び『LESS THAN NOTHING』より。

われわれはフロイトの立場に少なくとも三つの点を付け加えるべきだ。第一に、フロイトは人為的集団の教会モデルと軍隊モデルのはっきりした区別をしていない。“教会”はヒエラルキー的な社会秩序を表わし、平和と均衡を必要にせまられた妥協をもって維持しようとする。“軍隊”は、平等主義の集団を表わし、内的なヒエラルキーによって定義されるのではなく、彼らを破壊しようとする敵への対抗勢力として定義される。――ラディカルな解放運動は、常に軍隊がモデルであり、決して教会ではない。千年至福の教会millenarian churchesは実のところ軍隊のように組織されている。第二に、“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。最後に挙げるがけっして重要性に劣るわけでないものとして、そもそも野性的な暴徒とは、本当に社会的つながりの野放しのゼロ度なのだろうか? むしろ社会組織に及ぶギャップもしくは非一貫性への自制心を失った反動なのではないか。暴徒の暴力は、定義上、社会的ギャップの外部の原因として、(誤)認知された対象に向かう(たとえば、ユダヤ人)。まるでその対象が破壊されれば社会的ギャップが廃棄されるかのようにして。



2015年9月13日日曜日

「この世の不幸のもとは安倍政権だ」

主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
彼がユダヤ人を標的にしたことは、結局、本当の敵——資本主義的な社会関係そのものの核——を避けるための置き換え行為であった。ヒトラーは、資本主義体制が存続できるように革命のスペクタクルを上演したのである。 (ジジェク『暴力』)

ジジェクはここでフロイトの投影理論を援用しているのだが、この文におけるレイシズムの文脈を外して、たとえばこう言えるだろうか。

ーー人びとが「この世の不幸のもとは安倍政権だ」というとき、ほんとうは「この世の不幸のもとは資本主義=現システムへの不安なのだ」、と。

としてみたくなるのは、小熊英二氏の次のような文を読んだからだ(後全文引用)。

現政権は、生活や未来への不安という、国民の最大の関心事に関わる施策を後回しにして、精力の大半を安全保障法制に費やしている。

国会前の若者たちは……「平和」な「日常」が崩れていく不安を抱き、それに対し何もしてくれないばかりか、耳も貸そうとしない政権に、「勝手に決めるな」「民主主義って何だ」と怒りと悲嘆の声を上げているのだ。

一週間ほどまえの記事だが、経済学者の齊藤誠 ‏@makotosaito0724 氏の本日(2015.9.13)のツイートでいまごろ読んだ。

(これが「デモ」を支える(あるいは、「扇動する」〈?〉)「論理」なのか…本当に悲しくなってくる…)国会前を埋めるもの 日常が崩れゆく危機感 小熊英二:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/DA3S11954845.html …


これはなにも若者たちだけではない。岩井克人は《アベノミクスの真の狙いが、お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにあると いうのは正しい》としているが、アベノミクスという名称を嫌ってそれをほかに何と呼ぼうが、あの政策は窮余の策なのであり、すなわちなんとか現システムの崩壊を避けるためののぎりぎりのところでの博打なのであり、そのなかでの消費税増やインフレ政策なのだ。

「お年寄り」たちも今のシステムがいずれ崩れ去るにちがいないことは「無意識的には」わかっているはずだ(参照:マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」)。




日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013 より)

年輩者も「理性的には」自らの(若者にくらべての)厚い社会保障給付(現受給者や近い将来の受給者たちも含め)にひそかな罪責感はあるだろう。




だがその罪責感を否認したい。とすれば自らの疚しさをどかかへ投影したくなる、その恰好の対象のひとつが安倍政権である。

公衆の面前で悪しざまに罵倒することが許される数少ない公的な存在として、世間が○○○○を選んでしまったのである(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

もっとも年輩者たちが既に訪れているか或いは近未来に訪れるであろうみずからの年金や健康保険を守ろうとするのは当然だろう。そして老齢生活資金の(実質上の)目減りがないように消費税増やインフレにならないように願うのも当然である。

経済学的に考えたときに、一般的な家計において最大の保有資産は公的年金の受給権です。(……)

今約束されている年金が受け取れるのであれば、それが最大の資産になるはずです。ところが、そこが保証されていません。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)2011ーー「老特会」結成のすすめ


巨額の財政赤字を減らすには、実のところたとえば二倍ほどのインフレにして借金の実質金額を半分にする他にーー多くの経済学者が実のところそう考えているようにーーそれほど多くの道があるとはおもえない(参照:財政赤字への総力戦(ゲッベルス待望論)

総債務では次の通り。




純債務でもかくの如し。




そして日本の借金は自国でまかなっているからダイジョウブという議論がいかに信憑性のないものかは、まともな経済学者ならとっくに何度もくり返している、たとえば池尾和人氏の「このままでは将来、日本は深刻なインフレに直面する」、日経ビジネス 2015年4月17日)を見よ。

池尾:……日本の場合、みんなが貯蓄を取り崩すようになって、預金が純減し始めるのが2020年代の前半という推計と、後半という推計があるんですけど、いずれにせよ中期的には減り始めるわけです。その時に、どんなことが起きるのか。

 日本の家計が保有する金融資産規模は約1600兆円とか1700兆円とされますが、そのうち家計も住宅ローンなどの負債を抱えているから、それらの負債を引くと純資産は1300兆円くらいです。これに対して、政府が抱える債務のうち、公的年金などが保有する国債は資産でもあるということで、それらを差し引くとネットの債務は650兆円。すなわち、上述の間接保有の構造からすると、家計純金融資産の半分は国債消化に充当されている。

 この部分について家計が使おうとせず預金などの形で持ち続けていれば、問題は生じません。借金をしていても、いつまでも返せと言われなければ、もらったも同然で、負担にはならないわけです。これまでは、家計金融資産は増大する一方だったから、国としてはもらったも同然という意識から抜けられないという感じだった。しかし、あと10年くらいすると、家計金融資産の取り崩しが始まる。すると、国は借金を返せと言われることになる。その時にどのようにして返すのか。増税が難しければ、インフレ(による実質的な増税)しか途が残されていない恐れがあります。
ーー従って、日本は物価高騰を避けられない…

池尾:ですから、それを回避するためには、最低2020年までに財政規律を回復させていく必要があります。2020年までにプライマリーバランス*の黒字化を図るというのは、「適当な目標」ではありません。人口動態から考えると、2020年は延ばしに延ばした最終リミットです。さばを読んだ締め切りではない。プライマリーバランスの黒字化だけで十分と言えるかどうか分かりませんが、一応、そこまでに財政健全化の目途がある程度ついていれば、「財政支配」に陥ることなく、中央銀行が出口政策を追求できる可能性は残るでしょう。

《小黒一正@DeficitGamble: 残念ながら、90%くらいの確率で日本財政は終わった気がする。いま直ぐに破綻はしないですが。》(2014.12.12 ツイート

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ジジェクに次ぎのように要約できる文がある(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)。
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◆社会主義のイメージ(かつてのポーランドでのジョーク)。

社会主義は、かつての歴史上の画期的出来事の最高の達成の統合である。
氏族社会から野蛮さ、古代社会から奴隷制、封建制から独裁的支配形態、資本主義から搾取、社会主義からその名前。

◆ユダヤ人のイメージ(ナチスの独裁制でのレッテル)。

金持の銀行家から金融投機、資本家から搾取、法律家から合法的詐欺、堕落したジャーナリストから情報操作、貧乏人から清潔への無関心、性的自由から乱交、そしてユダヤ人からその名前。


とすれば現在の自民党のイメージとはなんだろうか。二〇世紀の数々の政治体制のまれにみる統合ではないか。

・自由主義から飢える自由(格差是認)、高価な過ちを犯す自由(たとえば経済のために原発再稼動)、戦争の自由(実質徴兵制やら武器輸出など)。

・共産主義から国民の羊化と情報統制。

・民主主義から名もない一般大衆の付和雷同的「衆愚」とレイシズム(異質なものの排除)。

ーー《民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する》(柄谷行人

・ファシズムから独裁と大衆の喝采(ヒステリー的な態度によって「主人」を選出。誤りを犯すことがわかっているような無能な主人が選ばれる)。

・資本主義からバブルと剥き出しな資本の論理。

ーー「経団連、「武器輸出を国家戦略として推進すべき」提言を公表」(2015年09月11日 朝日新聞

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

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SEALDsなどやいわゆるカウンターの人たち(元しばき隊に代表される)などの「社会運動家」たちの口からときおり洩れる「ぼくたちは保守なんだ」という意味にとれる表現の「保守」とはなんなのだろうか、なにを守ろうとしたいのか、という問いがすこしまえからあった。

@kdxn 2014.11.14
とはいえ、安倍政権にしろネトウヨにしろ決して復古主義はなく、自分たちのほうが古い左翼的価値観を打破する最新思想だと思っているので、あながち適用できないわけでもないか。ここ何回も強調しとくけど、現在の日本においては保守を名乗る極右こそが革命勢力で、リベラルは反革命/保守勢力です! (野間易通)

柄谷行人は福島原発事故後、3ヶ月経たときのインタヴュー(2011)でこういっている。

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。( 柄谷行人「反原発デモが日本を変える」

肝腎なことは、2011年以降の「反原発」も「反安倍」もーーどちらも重要なことであるにはちがいないがーーより本質的なこと(経済的下部構造)を忘れるための機能を果たしていないかどうかを疑うことだ(参照:イデオロギー、ヘゲモニー、エコノミー(ネーション、ステート、資本制)の三幅対)。


社会運動家の「保守」を目指す運動をめぐって、小熊英二氏のーーわたくしにはとてもすぐれた分析がなされている思われるーー簡潔な文を上述したようにここに掲げておく「(思想の地層)国会前を埋めるもの 日常が崩れゆく危機感」(2015年9月8日 朝日新聞)。

8月30日に、国会周辺を万余の人が埋めた。その背景は何だろうか。

 この運動は、「68年」とは異質だと思う。「68年」の背景は、経済の上昇期に、繁栄と安定に違和感を抱く学生が多かったことだ。そこには、安定した「日常」からの脱却と、非日常としての「革命」を夢見る志向があった。当然だがそうした運動は、安定を望む多数派には広がらなかった。

 だが「15年」は違う。経済は停滞し、生活と未来への不安が増している。そこでの「日常」は、崩れつつある壊れやすいものであり、脱却すべき退屈なものではない。

 運動が掲げる主張も、およそ「過激」ではない。権力者といえども法秩序を守れという、穏健なものである。「秩序を壊せ」という「革命」志向とは逆の、保守的ですらある主張だ。

 7月24日の国会前では、抗議の主催者である学生団体SEALDs(シールズ)の芝田万奈が、以下のようなスピーチを行った。「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」「仕送りしてくれたお祖母(ばあ)ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せ」「私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたい」(IWJ「女子大生から安倍総理へ手紙」)

     *

 「革命」志向の年長世代には、保守的な主張と映るかもしれない。だがその背景にあるのは、生活の不安感が増している現実だ。SEALDsの中心メンバーの奥田愛基は、「勇気、あるいは賭けとして」(現代思想10月臨時増刊号)でこう述べている。「やってみてわかったのは、家が大変だったり、奨学金の借金を六〇〇万円も抱えていたりするメンバーが半分くらいいるということです。いつも生活費に困っていて、交通費がないからミーティングに来られない奴(やつ)とかがいるんです。たった数百円の余裕もない」

 奥田は「それは戦争の問題とも立憲主義の問題ともかかわること」だという。芝田は自分のスピーチが保守的だという批判に、ツイッターでこう弁明した。「自分が恵まれてるのは痛いほど承知してる。家に帰ったらお母さんがいる家庭なんて今はかなりマイノリティーですよね。だけど、お母さんが死ぬほど働いてるのに子どもはカップラーメンしか食べれない家庭がある現実のなかで、その子どもに戦争行かせて、一体どんな幸せが守れるの?」

     *

 与党の政治家は、彼らは法案を誤解していると言うかもしれない。だが現政権は、生活や未来への不安という、国民の最大の関心事に関わる施策を後回しにして、精力の大半を安全保障法制に費やしている。そこまで優先すべき法案なのかについて、国民は納得のいく説明を受けていない。一部の政治家や官庁が、個人的信条や局部的利害のために、国民の声のみならず、法秩序さえ無視して暴走しているという懸念と反発が広がるのは当然だ。

 国会前の若者たちは、「革命」や「非日常」を夢見ているのではない。「平和」な「日常」が崩れていく不安を抱き、それに対し何もしてくれないばかりか、耳も貸そうとしない政権に、「勝手に決めるな」「民主主義って何だ」と怒りと悲嘆の声を上げているのだ。

 そこでの「戦争反対」「憲法守れ」は、「『平和』と『日常』を壊すな」という心情の表現だ。だからこそ、学生ばかりだった「68年」と違い、老若男女あらゆる層が抗議に参加している。そして国会前の光景は、国民の不安が表面化した「氷山の一角」に過ぎない。

 議員たちに問いたい。いつも黒塗りの車で移動し、地下鉄にすら乗らず、数キロ四方の数千人の中で議論し、業界団体と後援会から民情を聞く。そんな状態で、国民の不安がわかるのか。国内の「人間の安全保障」を疎(おろそ)かにして、何の安保法制なのか。いま国民の声に耳を傾けなければ、事態はさらに悪化する。

※追記:次のツイートを拾ったので附記。

猫飛ニャン助 ‏@suga94491396 9月11日
優秀な社会学者コグマが言うとおり、今のデモは生活保守主義で「動員」されている。先日、武見敬三(自民)とSEALDs等との討論見たが、武見は後者の東アジア情勢への無知たしなめるだけで、両者には何の対立もない。「あなたたちの存在こそ民主主義の証」と武見に褒められて、メデタシメデタシ。(スガ秀実)
同9月12日)コグマの言う生活保守は、少し前に自民党(後に離党)の武藤某が指摘した「利己的個人主義」と同じだろう。だとすれば、コグマ批判のなんリベは、武藤の批判を相対的にでも受け入てから発言すべきかと。コグマをめぐる論争が、学界内のコップの中でしかないように見える理由。アウエイも射程にやれ。
コグマはじめ本当は止められんこと分かってるから、「総括」の早出しが多いなぁ。……