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2016年8月6日土曜日

フロイトとマルクスにおける「形式」

労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、形態 Form そのものから来る。(マルクス『資本論』)
夢というのは、われわれの思考の一特殊形式 Form 以外のものではない。(フロイト『夢判断』)

…………

フロイトは『夢判断』第六章「夢の思考」(VI  DIE TRAUMARBEIT)の最後に(1925年版)、次の註を付け加えている。

私は昔、読者に夢の顕在内容と潜在内容との区別を納得してもらうのに大骨を折った覚えがある。記憶に残った未判断の夢(顕在内容)を基にした議論と抗議とはその跡を絶たず、夢判断の必要を唱えてもひとは耳をかそうとしなかった。

ところがすくなくとも精神分析学徒だけは顕在夢を分析して、その本当の意味をその背後に見つけることに慣れてはきたのだが、そうなると彼らのうちの若干の者は今度は別の混同を犯して、前と同じようにそれを頑固に執着しているのである。つまり彼らは夢の本質をもっぱらこの潜在的内容に求めて、そのさい、潜在夢思想と夢作業とのあいだに存する相違を見のがしてしまうのである。

夢というのは結局、睡眠状態の諸条件によって可能になるところの、われわれの思考の一特殊形式以外のものではない。この形式を作り出すのがほかならぬ夢作業である。そして、夢作業のみが夢における本質的なものであり、夢という特殊なものを解き明かしてくれるものなのである。

[Der Traum ist im Grunde nichts anderes als eine besondere Form unseres Denkens, die durch die Bedingungen des Schlafzustandes ermöglicht wird. Die Traumarbeit ist es, die diese Form herstellt, und sie allein ist das Wesentliche am Traum, die Erklärung seiner Besonderheit.]

私はこのことを、夢のかの悪評高き「予見的傾向」の評価のためにいっておく。

夢が、われわれの心的生活に与えられている諸課題の解決の試みに従事するということは、われわれの意識的な覚醒時生活がそれに従事することに比して決してひどく珍しいことえはないのであって、ただそこに、すでにわれわれに知られているように、夢の仕事は前意識のうちにおいても行われうるということを付け加えるにすぎないのである。(フロイト『夢判断』文庫 下 高橋義孝訳pp.255-256)

冒頭に掲げたマルクスの「形式(形態)」をめぐる箇所に引き続いて現れる文は、名高い「商品のフェティシズム」の叙述である。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態そのものからである。

[Woher entspringt also der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts, sobald es Warenform annimmt? Offenbar aus dieser Form selbst.]

(… )

商品形態の謎めいた性格とは偏に次のことにある;

商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって「超感覚的な物あるいは社会的な物 sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge」になる。

労働の社会的性格が商品の社会的性格に転化するという関係は、人が視神経に結ぶ物の像ーーそれは外部の物から視神経が受ける主観的な刺激にすぎないーーを物そのものの姿として認識するのに喩えることができる。

だが、物の像が人に見えるという現象が物理的関係--外部の物が発する光が別の物である眼に投射されるーーを表しているのに対して、商品形態とそれが表れる諸商品の価値関係は何らの物理的関係も含んでいない。

だから(商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物 Produkt が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。

これを私は商品の呪物崇拝と名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。

[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.]

(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

ところで、形式とは具体的には何なのだろうーー。

それは次のフロイトの叙述がとてもわかりやすい。

この患者は、分析に必要な夢を、はじめのうちはどうしても私に向かって話そうとしなかった。理由は「その夢はとても曖昧で混乱しているから」というのであった。押し問答の末やっとこういことが判明した。つまりその夢の中にはたくさんの人物が入れかわりたちかわり現れてくる。彼女自身、彼女の夫、彼女の父親など。そして彼女には、夫が父なのかどうか、そのどれが一体全体父なのか、あるいは夫なのか、わからなくなっていたのである。この夢と、分析診療における彼女の思いつきをとを並置してみると、この夢の問題は、女中はみごもったが、「誰がいったい(お腹の子)の父親なのか」本人にも疑わしかったのである。だからしてこの夢が示した不明瞭性はこの場合もまた夢を惹き起こした材料の一部分なのであった。この内容の一部分が夢の形式で表現されたのである。

夢の形式ないし夢を見る形式は、じつに驚くほどしばしば、隠蔽された内容の表現のために利用される。[Die Form des Traumes oder des Träumern wird in ganz überraschender Häufigkeit zur Darstellung des verdeckten Inhaltes verwendet.]

(フロイト『夢判断』 下巻 高橋義孝訳 文庫 p.34)

《形式は内容の一部分であり、その抑圧された形式は回帰するという命題は、その反転によって補足すべきである。すなわち、内容はまた、究極的には、その形式の不完全性・その「抽象的」な特徴の効果に過ぎない、と。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

初期ジジェクも掲げておこう。

マルクスとフロイトの両者においては、ーーより正確にいえば、商品の分析と夢の分析とのあいだには、根本的相同性がある。どちらの場合も、核心は、形式の裏側に隠蔽されていると信じ込まれている「内容」へのフェティッシュな眩惑を避けることである。すなわち、分析を通してヴェールを剥がされる「秘密」は、形式(商品の形式、夢の形式)によって隠された内容ではない。そうではなく、この形式自体の秘密である。

夢の形式の理論的知恵は、顕在内容から「隠された核」・潜在夢思考へ入り込むことで成り立っているわけではない。そうではなく、次の問いへの応答で成り立っている。

すなわち、なぜ潜在夢思考はあのような形式を取ったのか、なぜ一つの夢の形式に変形されたのか。商品も同じである。真の問題は、商品の「隠された核」・生産過程のなかで使われた労働量による商品価値の確定に入り込むことではない。そうではなく、なぜ労働は商品の価値形式を取ったのか、なぜ生産物の商品形態のなかにのみ社会的性質を主張しうるのか、である。
フロイトは絶えず強調している。潜在夢思考のなかには「無意識」的なものは何もない、と。潜在夢思考は、日常の共通言語の統語法のなかで分節化されうる全く「正常な」思想である。トポロジー的には、意識/前意識のシステムに属する。主体は通常それを知っている。過度に知っているとさえ言える。潜在思考はいつも彼をしつこく悩ます…
構造は常に三重である。すなわち、「顕在夢内容」・「潜在夢内容あるいは夢思考」・「夢のなかで分節化される無意識の欲望」。この欲望は自らを夢に結びつける。潜在思考と顕在テキストとのあいだの内的空間のなかに自らを挿し入れる。したがって、無意識の欲望は潜在思考と比べて「より隠された、より深い」ものではない。それは、断固として「より表面にある」。(…)

言い換えれば、無意識の欲望の唯一の場は、「夢」の形式のなかにある。無意識の欲望は、「夢の仕事」のなか、「潜在内容」の分節化のなかに、自らをはっきりと表現する。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989、手元に邦訳がないので私訳)

ーーマルクスの商品分析概説については、「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)」を見よ。


※付記


『ブリュメール一八日』にもどって考えるならば、われわれは特に精神分析を必要としない。なぜなら、ここでマルクスは、ほとんどフロイトの『夢判断』を先取りしているからである。彼は短期間に起こった「夢」のような事態を分析している。その場合、彼が強調するのは、「夢の思想」すなわち実際の階級的利害関係ではなく、「夢の仕事」すなわち、それらの階級的無意識がいかにして圧縮・転移されていくかである。フロイトはつぎのようにいっている。

《夢はいろいろな連想の短縮された要約として姿を現しているわけです。しかしそれがいかなる法則に従って行われるかはまだ解っていません。夢の諸要素は、いわば選挙によって選ばれた大衆の代表者のようなものです。われわれが精神分析の技法によって手に入れたものは、夢に置き換えられ、その中に夢の心的価値が見出され、しかしもはや夢の持つ奇怪な特色、異様さ、混乱を示してはいないところのものなのです。》(『精神分析入門続』高橋義孝訳)

フロイトは「夢の仕事」を普通選挙による議会になぞらえている。そうであれば、われわれは、マルクスの分析に精神分析を導入したり適用したりするよりは、『ブリュメール一八日』から精神分析を読むべきなのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』P.225)

柄谷)ドゥルーズは超越論的といいますが、これもまさにカント的な用法ですが、これを正確に理解している人はドゥルーズ派みたいな人にはほとんどいない。カントの超越論という観点は、ある意味で無意識論なんです。実際、精神分析は超越論的心理学ですし、ニーチェの系譜学も超越論的です。(中略)

ア・プリオリという言葉がありますけど、ア・プリオリというものは、実際には事後的なんです ―――無意識がそうであるのと同じように。それがほとんど理解されていない。さっき言った様相のカテゴリーはア・プリオリですが、それはたとえば可能性が先にあってそれが現実化されるというような意味ではまったくない。可能性とは事後的に見いだされるア・プリオリです。最近、可能世界論などといっている連中は、こんな初歩的なこともわかっていない。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津/蓮實/前田/浅田/柄谷行人)

二年近く前だが、このフロイトの「無意識」をまったく分かっていないドゥルーズ研究者(ひょっとして日本で最も著名らしい)をからかってみたことがある・・・すると、この「ジジェク馬鹿」との応答が、ツイッター上であるのにしばらくして気づいたが無視させていただいた(「夢の臍、あるいは菌糸体」)。

《ジジェク馬鹿にいいたいのは ○○はフロイトの夢判断が読めていない→そのとおりでございまして私はフロイトやラカンに関心をもったことはあり良くよんだことはありますが理解できず断念しました。理解できていない、そのとおりで全く自覚てきでず ちなみにラカンは嫌いですが偉いとおもっています》

ーーというわけで、このブログはおおむねジジェク馬鹿の記述なので、ヨイコは信用しないようにしてクダサイ



2016年8月4日木曜日

価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)

以下、「マルクスとラカンの三角形」補足資料。

…………

……シニフィアンの定義から引き出される結論は、私の象徴的(代)表象には、常にある種の残余があることだ。その残余とは、私の発話の具体的な、血肉化された宛先にかかわる。この理由で、具体的な宛先に届くことに失敗した手紙でさえ、ある意味で、真の目的地に到達点する。その目的地とは〈大他者〉、他の諸シニフィアンという象徴的システムである。(SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.2004ーーラカンの「四つの言説」における「機能する形式」

注):《このように、ラカンのシニフィアンの公式(シニフィアンは他のすべての諸シニフィアンに対して主体を代表象する)は、マルクスの商品の公式(価値形態論)と構造的な相同性がある。そこにもまたシニフィアンの公式と同様な二項一組 dyad を伴っている。

すなわち商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する。ラカンの公式におけるヴァリエーションでさえ、マルクスの価値形態表現の四つの形式への参照として体系化されうる(『為すところを知らざればなり』の第一部を見よ)。この線に沿えば、決定的なのは、ラカンがこの過程の剰余-残余を、剰余享楽(plus-de-jouir)としての対象a として規定したことだ。これは、マルクスの剰余価値への明示的 explicit な参照である。》





◆ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳)より

ーー以下、図やラカン仏文は、わたくしがつけ加えた(図については、わたくしの誤解がなければあのように書けるだろう、ということ)。

最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成しているのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々)は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。

その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。

《「あなたの姉さんの裸について、そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか?」 「姉の足のあいだに僕は奇妙なことに気づいたんだ」 「彼女の足の間には何もなかったはずですが」 「そこが不思議なんだ」》(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

《「そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか」 「あの晩の、犬の不思議な行動に注意なさるといいでしょう」 「犬は何もしなかったはずですが」 「そこが不思議というのです」とホームズは言った。》(シャーロックホームズ「白銀号事件」)

ここで、「昼(日中 day)」と「夜 (night)」という二個一組のシニフィアンの例を取り上げる。この二組は、単純には補完的シニフィアンではない。二つが組み合わされば(「昼」+「夜」)、全体を形作るものではない。むしろ、核心は次の通り。

《人間は「昼」をそれ自体として置く。それによって、昼は、夜という具体的な背景ではなく昼の潜在的不在ーーこの不在のなかに夜が位置づけられるーー という背景に対して、昼として現れる。もちろん逆もまた真である。》(ラカン、S.3.p.331)

《…que l'être humain pose le jour comme tel. Que le jour vient à la présence du jour et sur un fond qui n'est pas un fond de nuit concrète, mais d'absence possible de jour, où la nuit se loge, et inversement d'ailleurs,…》(Lacan,S.3)

したがって、シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。

《主体とは、それ自身を徴示する signifying 表象の不可能性以外の何ものでもない。》(Žižek, The Sublime Object of Ideology, 1989、私訳)

しかしながら、この点に至って、事態は複雑化し始める。同じことが言えるのだ、最初のシニフィアンが「連接される accoupled」ことになるすべてのシニフィアンに対して。すなわち、どのシニフィアンも最初のシニフィアンに対してその潜在的な不在(主体)を表象する。

言い換えれば、最初には、主人のシニフィアンはない。というのは、《偶発的な機能 fonction éventuelle が主体を他の諸シニフィアンに対して主体を表象するなら、どんなシニフィアンも主人のシニフィアンの機能を想定しうる》(S.17)から。

《Assurément au départ il n'y en a pas, tous les signifiants s'équivalant en quelque sorte, pour ne jouer que sur la différence de chacun à tous les autres, de n'être pas les autres signifiants.

C'est aussi par là que chacun est capable de venir en position de signifiant Maître, et très précisément en ceci : que c'est sa fonction éventuelle… c'est ainsi que je l'ai défini de toujours …de représenter un sujet pour tout autre signifiant.》(S.17)

人は、すべてのシニフィアンに与えうる、そのシニフィアンに対して、その記銘の場の空虚を表象するシニフィアンの「等価物」の終わりなきシリーズを。我々は自分自身をある種の拡散されたーー繋がりの非全体化されたネットワークのーー状態のなかに見出す。すべてのシニフィアンが他の諸シニフィアンとの一連の個別的関係性に入り込む。

この袋小路から抜け出す唯一の可能な道は、一連の等価物をシンプルに反転し、一つのシニフィアンに主体(記銘の場)を表象する機能を付与することだ。それは、全ての他の諸シニフィアンに対して、である(こうして非全体は全体化される)。このようにして、正当的な主人のシニフィアンが生み出される。

ここで共通点、『資本論』の最初の第一章の価値形態の叙述との共通点に瞠目させられる。

まず、「単純な、個別的な、あるいは偶然的な価値形態」において、商品 B は、商品 A の価値の表現として現れる。





次に、「拡大された価値形態」において、等価形態は多数化される。商品 A は、その等価形態を、一連の諸商品、B, C, D, E に見出す。それらの諸商品は商品 A の価値に表現を与える。






最後に、「一般的な価値形態」において、「拡大された価値形態」をシンプルに反転し、「一般的等価物」のレヴェルに至る。こうして、商品 A 自体が全ての他の諸商品、B, C, D, E E ....の価値に表現を与える。




マルクス・ラカンのどちらの場合でも、出発点はラディカルな矛盾である(商品の使用価値と(交換)価値、シニフィアンとその記銘の空虚-場、すなわち S/ $ )。矛盾の最初の局面(使用価値、シニフィアン S)は、まさに初めから二個一組として置かれねばならないためである。

・商品は、他の商品の使用価値においてのみ、その(交換)価値を表現しうる。

・シニフィアンは、他のシニフィアンの現前においてのみ、その記銘の場ーーその潜在的不在 ($) ーーを表象しうる。

したがって、ラカンのシニフィアンの公式の異なったヴァージョンにおける単数形と複数形の戯れ、かつまた S1 と S2 とのあいだの場の交換は、三つの価値形態の継起への参照手段によって説明しうる。

《un signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant.》(E.819)

《Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet》(同 E.819)

① 「単純な形態」:あるシニフィアンに対して、他のシニフィアンが主体を表象する(つまり、一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.])

② 「拡大された形態」:あるシニフィアンに対して、他のどんな諸シニフィアンも主体を表象しうる。

③ 「 一般的な価値形態」:ある(一つの)シニフィアンが他の全ての諸シニフィアンに対して主体を表象する。

もちろん、転回点は、②から ③への移行、「拡張された」形態から「一般的な」価値形態への移行である。一見、ただ関係性を逆にしただけに見える(一つのシニフィアンに対して主体を表象する諸シニフィアンの代わりに、他のすべてのシニフィアンに対して主体を表象する一つのシニフィアンを我々は見ることができる)。だが、実際には、この移行は付加的な「再帰的 reflective」な次元を導入することにより、表象の全経済を移動させる。

この次元を識別用するために、再度、『精神分析の裏面 L'Envers de la psychanalyse』(S.17)から上に引用した文節へと戻ろう。ラカンは引き続いてこう言っている、主体は《このレヴェルにおいて、表象されると同時に表象されない》(これが、我々の「マルクス的」読解における、「拡大された価値形態」であり、厳密な意味では、いまだ主人のシニフィアンS1 はない)、《何かがこの同じシニフィアンへの関係性において隠蔽されている》。

◆S.17

《Assurément au départ il n'y en a pas, tous les signifiants s'équivalant en quelque sorte, pour ne jouer que sur la différence de chacun à tous les autres, de n'être pas les autres signifiants.

C'est aussi par là que chacun est capable de venir en position de signifiant Maître, et très précisément en ceci : que c'est sa fonction éventuelle… c'est ainsi que je l'ai défini de toujours …de représenter un sujet pour tout autre signifiant.

Seulement le sujet, le sujet qu'il représente n'est pas univoque : il est représenté, sans doute, mais aussi n'est pas représenté. Quelque chose - à ce niveau - reste caché en relation avec ce même signifiant.》


主体は、己を「十全に」表象する「正しい proper」シニフィアンを持たない。どの徴示するsignifying 表象も誤表象である。いかに微細(感知できないもの)であろうとも、常に-既に主体を置換・歪曲する誤表象である。

そして、まさにこの、徴示する signifying 表象の削減されえない機能不全が、「単純な形態」 から「拡大された形態」への移行を誘いだす。すなわち、どのシニフィアンも主体を誤表象するため、表象の動きは次のシニフィアンへと動き続ける。究極の「正しい」シニフィアンを探し求めて、である。その結果は、徴示する signifying 表象の、非全体化された「悪の無限」である。

しかしながら、決定的な核心は次の点にある。すなわち、「一般的な形態」の出現にともなって、すべての他の諸シニフィアンに対して「一般的等価形態」として置かれるシニフィアンは、最終的に見出された「正しい」シニフィアン・誤表象を免れた表象ではない。

「一般的等価形態」として置かれるシニフィアンはーー、同じレヴェル・同じ論理的空間内部ではーー、他の諸シニフィアン(「拡大された形態」から来るすべての他のシニフィアン)として主体を表象しない。逆に、このシニフィアンは「再帰的 reflective」シニフィアンである。そこでは、まさに機能不全・シニフィアンの表象の不可能性が、この表象自体のなかに投影される。言い換えれば、この逆説的シニフィアンは、主体を徴示する表象の、まさに不可能性を表象(具現)する。擦り切れたラカンの公式に頼るなら、「シニフィアンの欠如のシニフィアン」として機能する。欠如しているシニフィアンが、欠如のシニフィアンへと再帰的倒置する場として。……(ジジェク『為すところを知らざればなり』1991、私訳)

この「再帰(投影)的シニフィアン」はあきらかにファルスのシニフィアン Φのことを言っている。そして、ある時期以降のラカンにとって(多くの場合)、Φ=S1である。たとえばジジェク 2012には、phallic Master‐Signifier という表現が頻出する(参照)。

【ファルスのシニフィアンの三つの水準】
(1)ポジション:喪われた部分、主体がシニフィアンの秩序に入るとともに喪いかつ欠けてしまった何かのシニフィアン。

(2) 否定:この欠如のシニフィアン。

(3) 否定の否定:欠如している/喪っているlacking/missing シニフィアン自体。(ジジェク、2012


…………

※付記

◆Conversations with Ziiek Slavoj Zizek and Glyn Daly 2004より(邦訳『ジジェク自身によるジジェク』からだが、手元に邦訳がないので、私訳)

ーー1989年のあなたの本、『イデオロギーの崇高な対象』は発売と同時に古典となりました。この成功についてはどう説明します?
興味深いことは、この本のずっと前に私はすでにフランスでいくつかの出版をしていたけれど、むしろ失敗であまり売れなかった。今、あなたが『イデオロギーの崇高な対象』は、発売と同時に古典になったと言うんだが、それを私が自分自身で判断できるとは思わないね。

何と言ったらいいのか、そう、古臭い退屈な言い方をするならば、この本が占める場に、よりいっそうかかわるんじゃないか。固有の質とはあまり関係がない。たぶん知らないままで、私は当時の場にふさわしい調子で語ったというほうが大きいんだろう。私が思うに、人びとは標準的な分析手法にたぶんうんざりしてたんじゃないか。シンプルにそういった移行の時だった。私はちょうど正しい時にたまたまそこにいたということだ。つねにこういった幸運の時がある。

たとえば、ハイデガーの『存在と時間』、ーーやあ、もちろん偉大な書だ。でもまた幸運の時という面もある。正しい時にそれが現れたという意味でね。

あなたが訊ねていることについて言えば、そうだな、例えば私の二番目の本、『為すところを知らざればなり』(For They Know Not What They Do,1991)は、理論的によりいっそうの実際の価値があった。けれど、よくあることだが、みだらな冗談やらが少なくて、受けがいいというわけにはいかなかった。

だから多くは環境によるのさ。私の最初の本(ヒッチコックについての論集を勘定に入れないでのだが)、Le Plus Sublime des Hystenques は、三分の二までがーー、言ってしまえば、『崇高な対象』と重複している、全部じゃないけど。…でも大失敗だったよ、何のまともなインパクトも残していない。というわけで、これであなたは分かるだろう、いかに事態は運まかせであるかが。ここで爆発したって、ほかの場合は萎みっぱなしさ。


…………

※付記2:(「価値形態論と例外の論理」より)

普遍性と構成的例外の論理は、三つの段階において展開されるべきである。

(1)まず、普遍性への例外がある。どの普遍性も特殊な要素を含んでいる。その要素は、形式的には普遍的次元に属しているにもかかわらず、突出しており、普遍的次元にフィットしない。

(2) 次に、普遍性のどの特殊な例あるいは要素も、例外であるという洞察が来る。「標準的な」特殊性はない。どの特殊性も突出している。それは、普遍性の観点からは、過剰/欠如している(ヘーゲルが示したように、存在するどの国家も「国家」の概念にフィットしない)。

(3) 次に弁証法プロパーのひねりが来る。例外への例外である。それはいまだ例外であるが、唯一の普遍性としての例外・要素である。その要素の例外は、普遍性自体に直接な繋がりがある。それは普遍性を直接的に表す(ここで注意しておこう、この三つの段階はマルクスにおける価値形態論と共通していることを)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


◆THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE Slavoj Zizek、2002

セミネールXXにて、ラカンは「非全体 pas-tout の論理」と普遍性を構成する「例外の論理」を展開した。

(普遍性に属する要素の)シリーズ series とその例外のあいだの関係性のパラドックスとは、たんに「例外が普遍的規則を基礎づける」という事実にあるのではない。すなわち、どの普遍的シリーズもある例外の除外を含んでいる--例えば、すべての男は譲渡することのできない権力を持っている。狂人、犯罪者、未開人、無教養者、子供等の例外を除いて--という事実にあるのではない。

正当的弁証法の核心は、むしろある意味で、シリーズと諸例外は直接的に一致するいうことだ。シリーズは常に「諸例外」のシリーズである。すなわち、ある例外的な質を示す実体のシリーズであり、それがシリーズに所属するための資格を付与する(英雄の、我々のコミュニティのメンバーの、真の市民の、等々のシリーズ)。

思い起こそう、標準的なスケコマシ male seducer の女性征服リストを。どれも「例外」である。どの女も、特殊な「言葉で言い表しえないもの je ne sais quoi」のために誘惑される。そしてこの女性のシリーズは、まさに例外的な人物像のシリーズである。(私訳)
注):私はこの点をアレンカ・ジュパンチッチとの会話に負っている。もう一つ例を挙げよう。ここにはまた、ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ボーヴォワールとのあいだの「開かれた結婚」関係の袋小路がある。

彼らの書簡を読むことから明瞭になるのは、二人の「パック」は、事実上、非対称的であり機能していないということだ。それはボーヴォワールに数々のトラウマを引き起こした。彼女は期待した、サルトルは他の愛人の「シリーズ」を持つにもかかわらず、彼女は「例外」、唯一の本当の愛の関係だと。

他方、サルトルにとっては、ボーヴォワールは「シリーズ」のなかの唯一の女ではなかった。彼女は、まさに諸例外の一人だった。サルトルのシリーズは、女たちのシリーズであり、どの女も彼にとっては「例外的な何か」だった。




2016年8月3日水曜日

「途方もない好い女」による BWV 878

やあ、やっぱりピアニストはアジアの乙女たちがいいんじゃないか

不思議に日本の女性ピアニストに魅かれたことがないのだが
(なんだか生臭く感じて)
あれは西洋化されすぎているせいなんだろうか・・・

…………

おそらく(世界的には)いまだまったく無名であるはずのピアニスト、
シンガポールのSee Ning Hui (1996年生まれ)のデビューコンサートより

◆Bach - Prelude & Fugue No. 9 in E, BWV 878



ーー実に惚れ惚れする。何度もくり返して聴いてしまった。
(ふたつほど気になる音?があるが、そんなものはへいっちゃらさ)

なんというのか、インティメートで、抒情的で、上品で、節度があって、--あたかもオレが弾くように、肝腎かなめの箇所でひどいミスタッチがあってーー下手な小細工をせずに、自然にーー”魂のこと”をするようにーー演奏されたSee Ning Hui =バッハの奇跡!

いやあ、種々の名高い演奏家のものとききくらべてしまったよ。

グールドだけでなくーーグールドにはCD版やヴィデオ版だけではなく、初期の1957版があるようだ、初期から緩急緩の移行ーー、グルダリヒテル、それに Edwin FischerRosalyn Tureck や Helene Grimaud やらと。すくなくとも「この今」は、See Ning Hui ちゃんがナンバーワンだね・・・

クララ・ハスキルはなんでこの曲やらなかったんだろ?

カザルスの録音はないんだろうか?

・これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。

・Schumann シューマン、Mozart モーツァルト、Schubert シューベルト・・・Beethoven ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。Bach バッハでなくては。

どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない((パブロ・カザルス 鳥の歌 ジュリアン・ロイド・ウェッバー編

くり返して「観賞」しているうちに、つまり、彼女の眼差し、腕や軀の動かし方のすみずみまでなめるように観察していると、侯孝賢の女たちーーとくに辛樹芬(シン・シューフェン)ーーを思い出して、胸キュンとなっちゃったよ。

しかもオレの最も愛する曲をデヴューコンサートでやるなんて。




あなたの口は「いや」という、あなたの声とあなたの眼は、もっと優しい一言を、もっと上手に語っている。[Votre bouche dit non,votre voix et vos yeux disent un mot plus doux,et disent bien mieux] (Andre Chenier)

ーー《己は生涯忘れることが出来まい。あの伏目になった様子が己の胸に刻み込まれてしまった。》


ファウスト

もし、美しいお嬢さん
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、
溜まらなく嬉しいのだ。


しかも伏目がちにて「魂のこと」をされたら、わたくしは魂をうばわれざるをえない。

車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充満性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。画面は、やがてわたしが愛することになるものを聖別しているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』ーー「魂を奪われる」一目惚 coup de foudre




《女の眼の語ったことを、誰が忘れようか。シェイクスピヤもいったように、その眼のなかに全世界を読みとることさえあり得るからだ。》(加藤周一『絵のなかの女たち』)

私の少年時代は主に渋谷ですごされた。生まれたのは、牛込区新小川町三丁目であるが、三歳の時、赤十字病院前麻布区笄町(現、南青山七丁目)に引っ越した。
私はこの電車(皇城の外濠を一巡する路線「外濠線」)が好きで、その頃家にいた母方の祖母くにに抱かれて、外濠線を一巡したということである。一枚の切符で一巡する者はあまりなかったろうが、毎日乗るので、車掌も顔見知りになり、なんにもいわれなかった、と伝えられている。

(……)私にはまったく記憶がない。突然外界が動き出す驚きに似た感覚を覚えているような気がするが、それは多分後の経験がこの時期に投射されたものだろう。新小川町の家で、私の唯一の記憶はーーそしてそれは私の最初の記憶になるのだがーーどこかの家の庭の植込みを抜け、座敷へ近づいて行く感覚である。障子を開け放った座敷の中には、一人の少女がいて、ピアノを弾いていた。(大岡昇平『幼年』)



《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫の恋文

とはいえ、王羽佳(ユジャ・ワン)だって、いつまでたってもあの朝礼の少女、「障子を開け放った座敷の中」の少女さ




ああ、「あんなに行儀が好くておとなしくて、そのくせ少しはつんけん」しているユジャ・マルガレエテ(グレエトヘン)ちゃん!

◆Yuja Wang in Carnegie Hall - Gretchen am Spinnrade(糸を紡ぐグレートヒェン)




《あの女の目や、頬や、唇にはことばがある。いや、脚も話しかけてくる。[There's language in her eye, her cheek, her lip, Nay, her foot speaks. ]》( (シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』) )

私の記憶は、前に書いた、ピアノを弾く嘉子さんだけである。明治三十二年生れだから、この頃十一、二歳である。はっきりした映像は残っていない。ただ薄暗い木陰から明るい庭の向うの座敷で、ピアノを弾く少女の方へ近づいて行く感じだけである。(……)

その時の私の感情も思考についても何の記憶もない。しかし私の最初の記憶がこういう場面であったということは、後年、私がピアノに特別な愛着を持ったことに関連するかも知れない。中学生の時ピアノを習いたいといったが、許して貰えなかった。一九六二年、胃潰瘍をやって、三ヶ月、運動も執筆も禁止された時、私がピアノと作曲をやることとしたのは、少年の日の充たされなかった夢を、齢五十をすぎて、実現さたということだったかも知れない。

それらをみなこの最初の記憶のせいにするのは牽強附会にすぎようが、これはその後今日までの私の生活態度、或いは私の書いたものから抜けない、なにか上品で、女性的で、きれいなものに対する憧れ、要するにスノビスムと関連があるだろう。(大岡昇平『幼年』)

といっても、ユジャ・ワンちゃんのこの時期は知らなかった・・・





ーーと、ふと調べてみると、
SEE NING HUI ちゃんのホーム・ページを開けば、
こんな写真が唐突に飛び込んでくる・・・




けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの
青白い
終りを

ーー西脇順三郎『禮記』


ところで、わたくしは実は、隣りにいるまぶしいばかりの中学時代の同級生の少女とーー苦心惨憺してーー結婚したのだが、いまは別の国に住み、別の少女と暮らしている・・・

《女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。[Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.]》( Troilus and Cressida )

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳)

《得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。》(永井荷風『歓楽』)

結婚とは崇高化が理想化のあとに生き残るかどうかの真のテストの鍵となるものだったらどうだろう? 盲目的な愛では、パートナーは崇高化されるわけではない。彼(彼女)はただ単純に理想化されるだけだ。結婚生活はパートナーをまちがいなく非―理想化する。だがかならずしも非―崇高化するわけではない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

理想化と崇高化? 理想化と崇高化を混同してはならない。

誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

オレはいつまでたっても「理想化」傾向がある人間かもしれぬ。今では、惚れてしまったら、できるだけはやく欠点を見いだそうとする習慣を身につけようとはしているのだが。

いまの「少女」とはビリヤード場で知り合ったのだが、
ビリヤードも伏目にて「魂のこと」をする一種であった・・・

◆Three Times 百年恋歌( 最好的時光)- Opening Scene "Smoke Gets in Your Eyes"(侯孝賢、スー・チー 舒 淇)




人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。(加藤周一『絵のなかの女たち』)

最後にルネ・フレミングとアバドのグレートヒェンを貼り付けておこう。オレはアバドのよれよれになって音楽に溺れているような表情がひどく好きでね、だいたいこんな顔して音楽聴いてるんだろうな、オレも。

◆Renee Fleming sings Schubert's "Gretchen am Spinnrade"




2016年8月2日火曜日

マルクスとラカンの三角形

一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される。(マルクス『資本論』)
一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ]》(ラカン、E.819)

➡ 一商品は他の商品に対して価値を表象する。


【単純な価値形態(マルクス)】

20エレのリンネル = 1着の上着
(相対的価値形態) (等価形態)

マルクスがここでいっているのは、「亜麻布は上衣と等価である」ということではなく、「亜麻布の価値は上衣の使用価値で表示される」ということなのである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

➡ 1着の上着(等価形態)は、20エレのリネン(相対的価値形態)に対して価値を表象する。

…………




➡ あるシニフィアン「20エレのリンネル」に対して、他のシニフィアン「1着の上着」が主体(価値)を表象する。




➡ 1着の上着(等価形態=S1)は、20エレのリネン(相対的価値形態 = S2)に対して価値(主体$)を表象する(シニフィアン S1は、シニフィアン S2 に対して、主体 $ を表象する。[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ])。



シニフィアンとは、主体に代わって対象を表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。そして主体とはシニフィアンの内的な裂け目である。(ジュパンチッチ、「剰余享楽が剰余価値と出会うとき」、2002、私訳)

➡ 価値とは、「商品」自体の内的裂け目である

貨幣の呪物崇拝の謎は、ひるがえっていえば、商品自身には価値は内在せず、他の商品(貨幣)と交換されるほかに価値を与えられないという条件にもとづいている。(柄谷行人『探求Ⅰ』P.97)

➡ 価値とは、己を徴示する表象の不可能性以外の何ものでもない。

主体とは、それ自身を徴示する signifying 表象の不可能性以外の何ものでもない。(Žižek, The Sublime Object of Ideology, 1989、私訳)

ラカンはセミネールⅩⅦ(「精神分析の裏面」)の冒頭からおおよそ次ぎのようなことを言っている。

主体の発生以前に、世界には既に S2s(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2s に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、その S1 は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2s との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。


ーー以上、「試作品」(?)なので、そのうち修正するかもしれない。

→「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)

…………

(……)そのときはそれでよかった
ぼくは若かったから
だがいまだにこんなふうにして「何か」を書いていいのだろうか
ぼくはマルクスもドストエフスキーも読まずに
モーツアルトを聴きながら年をとった
ぼくには人の苦しみに共感する能力が欠けていた
一生懸命生きて自分勝手に幸福だった

ーー谷川俊太郎、そよかぜ 墓場 ダルシマー 

 
昨晩、読み返しよ(少しばかり)、『資本論』をね‼ ぼくはあれを読んだ数少ない人間の1人だ。ジョレス〔当時代表的な社会主義者〕自身は--(読んでいないように見える)。(…)『資本論』といえば、この分厚い本はきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさえすればいい。これはかなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、無益にやたらと衒学的であったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが言いたいのは、物事をとらえる際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ているということであり、彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。対象の違いは重要ではない。それに結局をいえば、対象は同じなんだから!(ヴァレリー、1918年5月11日、ジッド宛書簡、山田広昭訳)

というわけで、ほんの少しばかり、マルクスの『資本論』読んじゃったよ、第一章冒頭のわずかばかりだけど。そして《彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できる》な。

さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう。その交換価値がどうであれ、 この関係はつねに一つの方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦= a ツェントネル鉄というふうに。この方程式は何を物語るか?

二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様に a ツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。

したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値である限り、こうして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。
一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。

一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1―に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。



この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性であることはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、商品の交換価値をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの老バーボンが言っているように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違または差別がない。(マルクス『資本論』第1章 岩波文庫 pp.71-72)

…………


わたくし自身はマルクスもほとんどまともに読まず、柄谷行人、岩井克人の解釈におおむね依拠していたのだが、ひとつだけ(両者ともに)気になる点がある。それは相対的価値形態と等価形態をソシュール図式(シニフィアン/シニフィエ)に依拠して解釈しているようにみえる点だ。




そして両者は、ときにまったく逆のことを言っているように見えてしまう場合がある(わたくしの勘違いでなければ)。

柄谷行人、1978】

相対的価値形態=シニフィエ
等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)

【岩井克人、1993】

リンネル(相対価値形態)=価値を表現する「主体」の役割
上着(等価形態)=価値を表現される「客体」の役割(参照


ラカン的にどちらとも(相対的価値形態と等価形態とも)シニフィアンとして扱うなら、よりすっきりと語ることができたのではないだろうか?

そしてそうすれば剰余価値 a の地位も容易に見えてくる。

〈一〉と他 autre との関係の不十分性 l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (LACAN,S.20)

ーーシニフィアン « Un » には、常に残余としての対象 a(剰余享楽)がある(マルクスには「剰余価値a 」があるように)。

シニフィアンのそれ自身に対するこの不十分性とは、二つの名を持っている。言わば、二つの異なった実体 entities において現われるのだ。それはラカンのディスクール理論のシューマにおける二つの非徴示的要素 nonsignifying elements である。すなわち主体 $ と対象 a (剰余享楽)である。(ジュパンチッチ、「剰余享楽が剰余価値と出会うとき」、2002、私訳)




…ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。

この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるいは非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「関係からの分離 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

《貨幣の無限性。それは(……)有限に対する無限定ではなく、閉じられた現実的無限である。》(柄谷行人『探求Ⅱ』p。305)



2016年8月1日月曜日

日常の底に潜む恐怖

何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」にて、

①《現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である ( “Le reel est un impasse de formalization,” )》(ラカン、セミネール20)

②《法のない現実界(le Réel sans loi)》、あるいは《本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない[Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre]》(セミネール23)

この(一見した)対立のどちらの立場をとるかで、①ジジェク、②ミレールの対決を記したのだけれど、②とは、ラカンがーー老境に入ってーー、合理論から経験論への移行した、という捉え方が(ひょっとしたら)できるかもしれない。

 セミネール23で法のない現実界といったのは、1976年のことで、ラカンはすでに75歳である。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。

ーービシャ(フーコー『臨床医学の誕生』より)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。

ーーリルケ「ドウイノの悲歌」より



安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

死とは、《象徴化あるいは形式化の袋小路である》と解釈できるものだろうか、それとも 《法のない現実界》だろうか。あるいはそれとも……

もう小説という形では書きにくい。かなり随想風の作品になるでしょう。この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。それをできるだけ平静な筆致で書きたいと思っています。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖毎日新聞2016年5月14日

いずれにせよ、《人生は、自己流儀の死への廻り道である。大抵の場合、急いで目標に到達する必要はない》(ラカン、セミネール17)であるに相違ない。

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

なにはともあれ、最後まで合理論を貫き通す人物というのは、稀有だろう。

戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。(浅田彰「憂国呆談」

…………

いつのまにかいなくなった人たち スラマット・アブドゥル・シュークルは80歳になっても元気で作曲していた ある日転んで ほどなく亡くなった 今年2015年3月26日スラバヤだった もう一人の友人ジャック・ボディの70歳を祝う本のために歌曲を送った すると 治療できないガンだとわかったという知らせがあり その後本人から昔ニュージーランドで会った年をたずねるメールが届いた その時は 思い残すこともなく安らかにすごしているということだった 今年5月10日にウェリントンのホスピスで亡くなった 杉本秀太郎は しばらく会っていないと思いだしたとき 白血病で 治療を一切せずに亡くなっていた 今年5月27日

たよりがなくなり 消息が絶え 人はいつかいなくなっている さまざまなしごと 作曲家だったり エッセイストで 作品を知っていたとしても 思い出すのは そういうことではない 会って交わしたことばでもない その人もそこにいた空間の いつどこともわからない空気に通うそよ風のような感触 行き交い すぎてゆく 人びとの影(高橋悠治「糸ほどの」2015.7