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2019年1月26日土曜日

ボクの悪癖

私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』)

⋯⋯⋯⋯

かつて母親の絶対的な寵児であった者は、生涯あの征服者の感情 Eroberergefühl を、あの成功の確信 Zuversicht des Erfolges を抱きつづけるものである。そしてこの確信は、実際に成功を自分の方へ引き寄せてくることがよくある。(フロイト「『詩と真実』中の幼年時代の一記憶」1917年)

テキトウなことを書くが、建築家ってのは、ーー今、日本の名高い建築家の顔を数人思い浮かべているだけだがーーオッカサマに愛された人格の人が多いんじゃないかな。全能感人格ってのかな。

成人の神経症者に見られるいわゆる全能感は、想定されているような幼児期の全能感に戻ることではない。そうではなく、母の全能性への同一化である。⋯⋯

もっとはっきり言うなら、成人の神経症の全能感は、幼児期における《ファリックマザーとの同一化 s'identifie à la mère phallique》(ラカン、S4)に回帰することである。その意味は、欠如なき母ーー最初期、子どもによってそう感受されるーーあの母との同一化である。(ポール・バーハウ、New studies of old villains、2009)

もっともこのバーハウの文は次のように続くことに注意しなくちゃいけないが。

パラノイアが我々に示すのは、この関係性が取る病理的な形式である。より詳しく言えば、母に殺される・貪り食われる・毒される恐怖(Freud, 1931)である。(同バーハウ、2009)

ようするに次の側面があるから。

母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまうaufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。(フロイト『女性の性愛』1931年)
「母の溺愛 « béguin » de la mère」…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

それは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

ラカンってのはどうみたってパラノイアっぽいからな・・・《女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ。》(ラカン S10, 1963, 摘要訳)

フロイトってのは終生「汽車恐怖症」だしな、家族で汽車旅行中、オッカサマの着替えを見てしまったーーどこまで見たのか、着替えだけだったのかについては種々議論があるがーー「幼少の砌の傷の固着」さ

なにはともあれ、フロイトの『夢解釈』ってのは、実は隠蔽された自叙伝だよ、

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)

《メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.》(ラカン、S4, 27 Février 1957)

ま、ラカンってのはこういうことばかり言っている人物だよ、だからオモシロイんだな、ボクは、だが。

母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢が先立っているのである cette antériorité de la castration maternelle。父なる去勢はその代替に過ぎない la castration paternelle en est un substitut。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

…………

ああ、また話がひどくそれちまった、元に戻さなくっちゃ。

子供の頃に可愛がられていた人間は、後年しぶといものです。孤立無援になった時、過去 に無条件に好かれていたという思いがあれば、辛抱できるんです。

でも、人に好かれないで突き放されて生きていた人は、痛ましい話だけれど、強くてももろいところがあるんです。こういう人は子供の頃に体験できなかった感情を、成人してから調達しようとします。(古井由吉『人生の色気』)


で、作家ってのはーーこれは冒頭の続きだよ、だいぶ前だけどーー、これまた戦前のある時期の作家たちに限るが、オッカサマに突き放された記憶を持っている人が多いんじゃないか。くり返し強調しとくけど、今テキトウなこと書いてるからな。ボクには悪癖があるんだ、こういった思いつき観点で人を見てしまうっていう悪い癖がね(画家や音楽家ってのはバラバラで一般化できないな、今のところ)。

⋯⋯⋯⋯

僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。…僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。…

僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)


幼き春 折口信夫

わが父に われは厭はえ
我が母は 我を愛(メグ)まず
兄 姉と 心を別きて
いとけなき我を 育(オフ)しぬ。

・自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。

・唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。

・芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)

或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。
僕 それは僕の責任ではない。

ーー芥川龍之介「闇中問答」


漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)
六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。……

六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。

十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。

二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。

二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。

四十四が精神病院入院の年。(安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語)
太宰治の自伝に、幼年期及び乳児期といいましょうか、それから、中学時代にかけて、太宰治の自伝的な小説があります。それは初期の作品でいえば、『思ひ出』と か、中期の作品でいえば、『新樹の言葉』という作品がありますけど。そういうのを断片的に拾い集めると、事実らしいものとして残ってくるものがあります。

それを、確からしいとおもわれることを、いくつかあげてみますと、ひとつは乳児の時にじぶんは乳母に育てられたので、 母親に育てられたことはないと言っているわけです。つまり、 母親になんのあれもないと言っています。父親に対してもそうなんですけど、じぶんは乳母におっぱいをもらって育てられた。

……つまり、これを母親に育てられなくて、授乳されたりしなくて、乳母と叔母に育てられたということというのは、太宰治が生と死というのを超えやすい資質をもっていたということに対して、たいへん、ぼくは重要なことだとおもいます。(吉本隆明『シンポジウム・太宰治論』1988年)


そのうち「そこのキミ」も、ボクの悪癖の餌食になるかもな、実名入りで書いちまうかもな。気をつけたほうがいいよ、キミ。

男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。(三島由紀夫「第一の性」)
かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。…おまえは医者に裸を見せるときでも、おまえの病気に化粧をするだろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)



2019年1月25日金曜日

「二つの機械」としての人間

柄谷行人は1989年時点で、デカルトに依拠しながら、「人間は機械だ、言語の機械だ」と言っている。

デカルトは、「人間と動物の間にある差異」を言語に見出している。たとえ動物が言語を話しても、「自分が口にすることは自分が考えていることであるということを明らかに示しながら話すということはできない」。「そして、このことは、動物が人間よりすくない理性をもつ、ということを示すだけではなく、動物が理性を全くもたない、ということを示している」(『方法序説』)。

しかし、言語能力が生得的であることは、人間が動物とはちがった「機械」であることを意味するだけである。それは“精神”の条件であっても、“精神”ではない。そして、“精神”の条件と“精神”は決定的に異なる。したがってまた、言語あるいは言語能力は“精神”があることの「証明」にはなりえないのである。

われわれはある言語体系のなかで語っている。そのような言語体系は機械である。文化は機械である。「無意識は言語のように構造化されている」とラカンがいうのが正しければ、そのような無意識も機械である。機械という言葉を避けて、構造や関係システムといいかえることは、かえって欺瞞的である。そこにはまだ何か「精神的」な色合いが付着しているからだ。

デカルトが“精神”の自律性を主張しているというのに、彼の機械論によって精神がおびやかされていると考えるのは奇怪である。デカルトの“二元論”を攻撃する者こそ、二元論なのである。「精神」は、われわれが属しているシステムの外に立つことを要求する。だが、それは“私”的であって、何一つ根拠をもちえない。「精神」であることは、容易なことでもないし、望ましいことでもない。

ドストエフスキーは、人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、“精神”であることを人は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人は幻想に支配されていると説く[あの]連中のように、夢をみていることを望むのである。柄谷行人『探求Ⅱ』「第二部超越論的動機をめぐって」第一章「精神の場所」1989年)


これは、少し前示した次の図(参照)の左項のことを示している。




ようするに柄谷=デカルトの「人間は機械だ、言語体系のなかの機械だ」とは、「象徴界の中の自動反復」の意味である。

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants、その近代数学的機械 mathématique moderne, des machines …それが(アリストテレスの)オートマトン αύτόματον [ automaton ]である。(ラカン、S11, 05 Février 1964)

ーーこのオートマトンはフロイトの「自由連想」にもかかわる。

ここで断っておかねばならないのは、上の図ーーミレール2005年セミネールの冒頭図ーーの右項の中段にあるオートマトンとは、今記した象徴界のなかの自動反復のことではなく、後期ラカンにおける現実界の自動反復のことであり、フロイト『制止、症状、不安』に出現する「自動反復 Automatismus」(「反復強迫」)のことである(参照)。

柄谷のいっている「機械」は上の図の左項にのみにかかわり、右項は視野のなかに入っていないのは時期的にやむえない。

あの中井久夫でさえ、柄谷がああ記した7年後でも、こう言っていた時代である。

カンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

現在のラカン派的観点では、上図の左項の機械の底には、右項の機械がどの人間にもある。こちらのほうが原症状(サントーム)である。すなわちフロイト・ラカン派においては、人間は二つの機械なのである。

ここでもうひとつ以前に示した図を掲げよう(参照)。



この図は、現実界①と現実界②の相違を示すために主に示したのだが、ここでの話は「象徴界の中の自動反復」と「トラウマ的現実界の自動反復」である。

その意味は、人間の症状は二重構造になっているということだ。つまり先に示した図の左項が上階の幻想機械に相当し、右項が地階が身体機械である。


幻想機械
ーーーー
身体機械


この身体は通常デカルト文脈で解釈される「身体」の意味とはやや異なるかもしれないが。むしろスピノザがいう身体だ。

自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。

Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,(スピノザ、エチカ第三部、定理9)

ーー現在、スピノザ解釈者においては、appetitus は欲動 Trieb とされることが多い。たとえば「Körper Trieb (appetitus) 」あるいは「Appetitus ist Trieb」と注釈されている。

したがって「衝動とは人間の本質に他ならない」とは「欲動とは人間の本質に他ならない」となる(参照)。


「幻想機械/身体機械」は、「欲望機械/欲動機械」と言い換えてもよい。


欲望機械
ーーーー
欲動機械


ここでまた断っておかねばならないのは、ドゥルーズ&ガタリの欲望機械概念は、ジジェクなどがくりかえし厳しい批判をしているように、もし人がフロイト・ラカン的用語遣いの立場に立つなら、到底受け入れ難い表現である。ジジェクは「欲望機械」は「欲動機械」と言い直すべきだ、としているが、仮にそうであっても欲望の自由な流体的運動はありえないと。

ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態l'état libreで、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。(⋯⋯)この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)

ーーこの相の現代ラカン臨床派的観点は「母の言葉の永遠回帰」の末尾に示唆したが、そこでの文献には示していない観点としては、「子宮回帰運動」にて示したフロイトの次の二文が、一見、自由にようにみえる運動の核心である。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い欲動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

ーー後者の欲動満足としての反復強迫(死の欲動)とは、ラカン派用語では、原抑圧という穴(引力)のまわりの自動享楽(自動反復 Automatismus)と言いうる(参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽)。それは原抑圧の穴によって強制された運動なのである。

従って肝腎なのは『アンチ・オイディプス』に(たしか一度だけ)出現する「欲望機械 machines désirantes」では全くなく、ドゥルーズの1960年代後半の仕事において頻出する《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》、これが地階にある欲動機械である(参照)。




上階とは、抑圧の機械、地階とは、原抑圧(リビドー固着)の機械と言い換えてもよい。これは、フロイトが精神神経症/現勢神経症という語彙でいわんとしたことである。

原抑圧(=リビドー固着)は「現勢神経症 Aktualneurose」 の原因として現われ、抑圧は「精神神経症 Psychoneurose」 に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)




原抑圧をフロイトは引力と呼び、ラカンは穴と呼んだ。穴とはラカン派注釈者のあいだではしばしばブラックホールと言い換えられる。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ドゥルーズも1968年にはこう書いているのである。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

したがってフロイト・ラカン派観点からは、1972年に提出された、欲望の自由な運動としての「欲望機械」とは、どう贔屓目にみても、議論の余地なき「退行概念」である。欲望機械とはラカン派観点からいえば、《厳密にフェティシスト的錯誤 strictly fetishistic illusion》(参照)である。

もっともフェティシストでなぜ悪い? という立場もあろう(参照)。

倒錯者は、大他者のなかの穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)

フェティッシュや妄想とは、「世界の夜」に直面した者たちの治療行為でありうるのだから。

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。(フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911ーー「女性の享楽とは死の欲動のこと」)

だが人は妄想やフェティッシュの底にある「世界の夜」、あるいは「世界のネガ」を見据える必要はかならずある。

精神は、否定的なもの(ネガ Negativen)を見据え、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」1807年)

問題は、この世界のネガーーラカン的には「大他者の大他者はない」ーーを一度も見据えることもなく、上層部だけでうわっ滑りしている妄想者やフェティシストである。

・メタランゲージはない。il n'y a pas de métalangage
・大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,
・真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.

ーー見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


なにはともあれ、すくなくとも現在のドゥルーズ研究者は、「欲望機械」/「強制された運動の機械」のふたつの表現の矛盾と闘うべきだと、わたくしは考えているが、今にいたるまで(わたくしの知る限り)その気配はない。

「強制された運動」とは、『差異と反復』、『プルーストとシーニュ』だけではなく、『意味の論理学』にも、フロイトの反復強迫と等価なものであるのを示す、或る意味で決定的な文がある、《le mouvement forcé qui représente la désexualisation, c'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー)

⋯⋯⋯⋯


最後に症状の二重構造について、ポール・バーハウ Paul Verhaeghe とフレデリック・デクラーク  Frédéric Declercq によるきわめて明晰な文で補っておこう。

フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「プシュケ(心的なもの)」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。

これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。この事例において、フロイトは防衛理論については何も言い添えていない。防衛の「精神神経症」については、既に先行する二論文(1894, 1896)にて詳述されている。逆に「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、後の論文『性欲論三篇』にて、「リビドーの固着 Fixierung der Libido(欲動の固着 fixierten Trieben)」と呼ばれるようになったものである。(⋯⋯)

この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、《真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 》(『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way by Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、2002ーー「俺の中のうその真珠」)


2019年1月24日木曜日

母の言葉の永遠回帰

以下、ララング定義集簡潔版。

【ララングという母の言葉】
ラカンはララングを次のように説明する。すなわち、ララング lalangueは、“lallation 喃語”と同音的である。“Lallation”はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声である。が、我々が知っているように、非意味であるにもかかわらず、幼児の満足状態からは分離されていない。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé、2009)
最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声媒体 médium sonore から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のララング lalangue maternelle」はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素 élément différentiel は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素 phonèmeである。母のララングの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lalationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 préverbal 段階のようなものはない、だが前言説的 prédiscursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得 apprend されない。ララング langage は、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕 éclipse 等々で包む。ララング langageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化 dématernalisants をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアルなーー意味外のーー無意識の核 le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化 érotisation の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens、2011)


【ララングという「もの」としての言葉】
・ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne )。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。

・現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé 、2009)
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)
機知 Witze(言葉遊び Wortspielen)のひとつのグループにおいて、そのテクニックは、語の意味ではなく、語音 Wortklangへの心的態度の焦点化によって構成されている。(音声的)語表象 (akustische) Wortvorstellung 自体が、モノ表象 Dingvorstellungen との関係性を与えられることによって、意味作用 Bedeutung の代替となっているのである。(フロイト『機知』1905年)


【胎児期の母の言葉】
少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)


【ララングという母の聖痕】
我々は、母の言葉(ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel 2009, Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law)
サントームは、母のララングに起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・母の欲望・母の享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体pas-toute」としての女性の享楽 jouissance féminineの属性を受け継いでいる。それは無限の法 loi illimitéeである。(Geneviève Morel 2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)



【ララングという身体の出来事】
身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

ーー女性の享楽については、「女性の享楽簡潔版」を参照。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30 mars 2011)


【サントームの永遠回帰】
サントーム、それは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレインpetite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


【身体の出来事の反復強迫】
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

ーー「固着」については、「リビドー固着という人間の根」を参照。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。…それは身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、23/03/2011)
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un- 2/2/2011 )


⋯⋯⋯⋯

※付記

【言語は存在しない。ララングしかない】
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。
il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)

ラカンが「存在しない」というときは、仮象だという意味である。すなわち言語は仮象である。ララングは仮象ではない。

見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。というのは、 言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないからである。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen (WS 1871/72 – WS 1874/75)
言語は、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリステヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection、1980年)


【言葉と音調】
言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。…

事物 Dingen に名と音調 Namen und Töne が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音声(音調 Töne)を発してことばを語るということは、美しい狂宴 schöne Narrethe である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部、1885年)
いまや勝利を得るには、語-息 mots-souffles、語-叫び mots-cris を創設するしかない。こうした語においては、文字 littérales・音節 syllabiques・音韻 phonétiquesに代わって、表記できない音調 toniques だけが価値をもつ。そしてこれに、分裂病者の身体 corps schizophrénique の新しい次元である輝かしい身体 corps glorieux が対応する。これはパーツのない有機体 organisme sans partiesであり、吸入 insufflation・吸息 inspiration・気化évaporation・流体的伝動 transmission fluidique によって、一切のことを行なう(これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体 corps supérieur、器官なき身体 corps sans organes である)。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」1969年)
ラカンは言語の二重の価値を語っている。肉体をもたない意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen, 2016, PDF

→参照:自体性愛と去勢の原像





2019年1月23日水曜日

タガメ教師とカエル研究者

日本ラカン派の「亀の歩み」」で記したけれど、だいたい20年前のラカンだよ、日本で主に「いまだ」語られているのは。

ネットに落ちているフロイト論やラカン論は京大系が多いけれど、若い研究者の論文をチラミすると、こいつら今頃なにやってんだろうな、とおもうからな。→「ここにも一人」、2017年の時点のエッセイがあるけどね。まったく消化できていないのが明らかだな、晩年のラカンが。アンコールどまりのままだ。フロイトの原抑圧もわかっていない。

そもそも晩年のラカンは真理から享楽へ移行したのに(参照)、上尾くんは、いまどき『ラカン 真理のパトス』なんて書名の書を上梓してるわけで、とっても「厚顔無恥な」人物だな。何が書いてあるかは知らないけど。小泉義之が合評会でいじいじ苛めてるんだけど(参照)。上尾くんはどうやら中期ラカンのみがおすきらしい。中期ラカンとは、ラカンがフロイトから最も離れた時期で、彼のフロイト研究とどうやって両立させるんだろ?


なにはともあれ、ロクでもない査読教師のもとで修士論文やら博士論文かいたら、アタマ自体がお釈迦になるよ、「欲求要求欲望の弁証法のお釈迦」で例を出したように。

若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。(蓮實重彦インタビュー、東大新聞2017年1月1日号)

以下の中井久夫の文は、 「文化精神医学の論文」について書かれているけれど、すべての研究論文もおそらく同様。ひところ、深尾葉子さんの『日本の男を喰いつくす「タガメ女」の正体』と『日本の社会を埋め尽くすカエル男の末路』での語彙群が流通していたけれど、中井久夫のいっているのはタガメ教師たちに牛耳られるカエル研究者の話だ。

この際に、職業的精神科医の“研究文化”が精神科医・非精神科医の双方にはめているタガについて一言したい。

文化精神医学の論文は、医学論文ひろくは科学論文としての作法にしたがって執筆される。そのように執筆されたものでないと、編集委員会において、もし委員たちが“開かれた”マインドの持ち主ならば「発想はよいのだけれど」、そうでなければ「論文の態をなさず!」の付箋とともに返却される強い傾向がある。このための研究者の自己規制は、公衆の理解をほとんど超えるものである。民間学者の研究が微笑(あるいは冷笑)とともに無視されるのはこのためである。研究者の最初の五年のトレーニングの中にこの作法を身につけ、このタガをみずからはめるためにカリキュラムがあり、相当の時間と精力をついやして遂行される。これが身についてはじめて研究者という自己規定が自他に承認されるからである。

この“研究文化”が自己認識に達しえないのは、そこのルールに従い、そこの「満足の基準」を満たすことを念頭に置いてはたらくのが研究者であることが、研究者自体のみならず、その家族、親族、友人、地域社会、公衆、ジャーナリズムによって支持されているからでもある。「学者は(社会の)まなざしによってつくられる」面もある。反骨の民間学者の著述もしばしば卑屈な(あるいは然るべき)この“研究文化”への追従(あるいは敬意)に満ちている。

注意すべきは、現在、文化精神医学をふくめて、医学ひいては科学の論文が、その掲載する、ほとんどは欧米の雑誌編集委員によって審査されるということである。日本において欧米の書のみを「原書」と称する慣習こそ弱まったが、「国際雑誌」なる語があり、「これに載った」とは、必ず欧米の“一流学術雑誌”に掲載されたことなのである。

……冷厳な事実は、1990年現在なお、日本文化圏より産出される論文は、いわば秀才の生徒が教師に提出する形で、欧米の、しばしば二流学者である編集委員に採点されるのである。(……)

欧米雑誌編集者が投稿論文をしばしば剽窃することは1950年代すでに林髞(慶大生理学教授、作家「木々高太郎」)の警告するとおりであり、さもなくとも、第二級の論文を歓迎しても、第一級の論文は故意かあらずか遅延され、類似論文が先行掲載されることは、少なからぬ日本文化圏の研究者がなめた苦杯である。

私もその列を末席を汚し、以後私たちのグループーー当時私はウイルスと細胞レセプターの相互作用を解析する生物学者であったがーーは、断然チェコスロバキアの雑誌を投稿先に選んだ。彼らとはきわめてよい関係を結び、当時入手困難の辞典などが送られてきた。もし、あのまま私がブラチスラヴァの研究所に赴いていたらーー当時私はひとり身で血も今より熱かったーーひとりの日本人留学生が1968年に彼地で行方不明になったという小記事が昨年あたりどこかの新聞に載ったかも知れない。モンゴル出身者を含め多くの留学生がチェコスロヴァキア学友の側に立って銃をとったからである。

養老孟司が英語論文を断乎やめて日本語で書くことを励行し、せめて日中合同の雑誌をつくろうと念願しておられるのは、氏も苦杯を甞めたか、甞めた同僚知己を身近かに持つからであろう。(……)

ただし、完備した欧米の“研究文化”に属する「国際雑誌」編集委員でも、心ある人の憂えているのは、真のオリジナルな論文を逸することである。真の革命的な論文は、ほとんどつねに当初は体裁のととのわない、いびつな構成の奇妙な代物として、研究エスタブリッシュメントのトップを構成する彼らに映じるからである。この盲点を究極はまぬかれぬとしても、彼らがそれを意識していること自体が重要である。わが国の諸先生にこの意識があるか否か。(中井久夫『治療文化論』1990年)

さて以上でこの話はおわり。いくらか連投したけど。


欲求要求欲望の弁証法のお釈迦

そんな古い話をいまさら、って言ったらシツレイになるかもしれないけど、「欲求要求欲望の弁証法」ってのはほとんどお釈迦になってる筈だよ。ラカンあるいはすくなくとも現代ラカン派が「リビドー固着」を強調しだして以降は(参照)。

それは、《セミネール10「不安」以降、⋯⋯かつての構築物への「偉大なるボロ切れ化ショット grand coup de chiffon」を見るだろう。「剥奪 privation」、「フリュストラシオンfrustration」、「去勢 castration」、「想像的ファルスと象徴的ファルス phallus imaginaire et symbolique」を基盤としたすべての構築物を拭い去る「ひと突き」である》(ミレール、2004)となったのと同様。

これは鏡像段階モデルが否定されたのと同じ流れのなかにある。

光学的図式(鏡像段階モデル)は、私の教えの準備段階に遡るものであり、分析テクニックにおいて過大に見積もられたこのモデルにおける想像界を取り払うdéblayer l'imaginaire 必要がある。われわれはもはやこの段階にはいない。…

私のモデルは対象aに光を当てることに失敗している。このモデルは、イマージュの戯れjeu d'imagesを表すとき、対象aが象徴界から受け取る機能を描写できていない il ne saurait décrire la fonction que cet objet reçoit du symbolique 。(ラカン、Remarques sur le Rapport de Daniel Lagache、E682 、1960年)
(鏡像段階モデル図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)


まず古い解説書を読まないことだな。そもそも、あれって額面通りとってしまったらイミフだよ。

欲望désirは…境界 margeである。すなわち愛の要求 demande d'amour から、欲求の必要性 exigence du besoinを差し引いた結果 résultat de la soustractionである。(ラカン、S5、07 Mai 1958)
欲望は、満足への性向 appétit de la satisfaction でも、愛の要求 demande d'amour でもない。二番目のものから最初のものを差し引くこと soustraction du premier à la seconde から生ずる差異である。(ラカン、ファルスの意味作用、E691、1958年)

で、差し引きして、欲望=愛の要求ー欲求だとして、そのあたりの三文解説書は額面通りに取っているのかもしれないけど、欲望に欲求が含まれていないわけないからな、--《どうやって欲望するというのかね、欲求から原材料を借りてこずに comment ferions-nous nos désirs, si ce n'est en empruntant la matière première de nos besoins ?》ーーこれどこで言ってたかな、ラカン。たぶんセミネール4だと思うけど、いまは確かめないまま。


以下、半年ぐらい前にテキトウに訳した(たぶんかなりイイカゲンなところがあるけど見直さないまま)ミレール2004年の注釈を貼り付けておくけど、要するに1962年以降はリビドー固着が肝腎。むかしの古典的ラカンはサヨナラ、ということだけが分かればいい、というレベルで読むべし。

後半の愛と不安の箇所は、あれだけじゃなく1970年以降さらなる転回があるし、ボクもいまだよく分からない箇所があるから、いままで一度もブログには貼り付けていないけど、あくまで参考として掲げとくよ。

…………

欲望と要求の弁証法 dialectique du désir et de la demand とは何か? 注意しなければならない。この弁証法とは、欲求催促 poussée du besoinから始まり、この要求のパレードdéfilés de la demandeを通してシニフィアンに出会うという差引き déductionなのである。…

初期ラカンの教えにおいては、欲求と要求の遭遇の残余が欲望である le reste de la confrontation du besoin et de la demande, c'est le désir。これはいまだ徴示的機能 fonction signifiant である。換喩としての徴示的連鎖 chaîne signifiante comme métonymique である。…不安セミネール10(1962-1963)以前のラカンの欲望は、リビドーの徴示的アウフヘーベン Aufhebung signifiante de la libido に相当する。だが不安セミネールでは、リビドーはまったく異なったものになる。…リビドーは徴示的残余 reste signifian ではない。…リビドーは逆説的な器官organe paradoxalである。

…この残余の器官reste organe、それは弁証法に対立する。それは欲望の残余 reste désir ではない。そうではなく、享楽の残余 reste jouissance である。アウフヘーベンに反逆したままの reste rebelle à l'Aufhebung 享楽の残余。

「享楽の残余 reste de jouissance」とラカンは一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的アウフヘーベンに反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller 、Introduction à la lecture du Séminaire L'angoisse de Jacques Lacan、2004年)

ーーーーーー

◆後半参考
私はすこし前、ラカンの古典的教えに言及した。最初に欲求があり、要求によって欲求の移行があり、結果が欲望だというものだ。そこでは、欲望は、欲求と要求とのあいだの裂け目décalage entre besoin et demandeのようなものである。…

この初期の教えは、セミネール10「不安」で問題視される。そこでは、享楽が不安によって欲望へと移行するla jouissance passe par l'angoisse pour en venir au désirとなっている。要求は愛の場 la place de l'amour となる。というのは、古典的教えでは、欲求満足への要求demande de satisfaction du besoinと、愛の要求 demande d'amourとのあいだに要求の二重化があるから。

古典的教えでは、シニフィアンは大他者から来る。他方、不安セミネールでは、神話的な享楽のモナドmonade mythique de la jouissance への言及がある。それは、後にラカンが『フロイトの欲動について Du Trieb de Freud』にて明示したものである。《欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose》(E853、1964)

あなた方が知っているように、古典的教えでは、愛と不安 amour et angoisse とのあいだには結びつきがある。要求される大他者(要求の大他者L'Autre de la demande)は満足の対象 objets de satisfactionを所有している。対象は象徴的贈り物 don symboliqueの価値をもつ。愛の証拠 témoignage d'amour である。そして大他者がそれを与えないなら、苦悩détresse、寄る辺なさ Hilflosigkeit がある。こうして対象の欠如あるいは喪失 manque ou par perte d'objet による不安がある。

不安セミネールでは、同じ論理がまったく異なった遠近法を取っている。同じ論理とは、愛の根源的贈り物は愛自体 le don essentiel de l'amour est l'amour lui-même、すなわち無物 aucun objet だということを意味する。それはこう表現されている、《愛は、あなたが持っていないものを与えることだ L'amour, c'est donner ce qu'on n'a pas 》と。すなわち根源的贈り物は欠如 le don essentiel est le manque である。

この不安セミネールにおいての詳述化のなかで、ラカンはフロイトの『制止、不安、症状』を引用して、滅多にない反論の立場を取っている。それは、フロイトが不安を「対象の喪失la perte de l'objet」ーー第11章B冒頭《Objektlosigkeit》ーーと結びつけていることに対してだ。他方、ラカンはこう言う。不安が起こるのは、《欠如が欠如している le manque vient à manquer》ときに起こると。すなわち対象はある。「あまりにも多くの対象があるil y a trop d'objets」とき、不安は起こると。

愛は大他者の欠如の場を存続させるl'amour préserve la place du manque de l'Autre。だが、不安はこの欠如を埋める l'angoisse vient combler ce manque。そして同時に、大他者の抹消 aphanisis de l'Autre がある。この大他者抹消は、確実性 certitude を生む。

唐突に、愛は対象を施すものとなる l'amour dispense des objets。だがそれ自体、厳密に言えば、対象なきものであるil est sans objet。「人が前もって持っていないものを与えるL'amour qui consiste à donner ce qu'on n'a pas s'avance」ことによって構成されている愛は、何かを欠かしている(困窮démuni)。他方、不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet。これは、ラカンが直接的に言った第一の接近法である。というのは、ここでの対象は不安に先立っている l'objet ici précède l'angoisseから。その対象が不安を引き起こすcause l'angoisse。他方、このセミネールでの二番目の動きは、対象を生み出す不安である c'est l'angoisse qui produit l'objet。このアンチノミーは、 l'objet plus-de-jouir (享楽控除の対象・剰余享楽)において克服されることになる。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller 、Introduction à la lecture du Séminaire L'angoisse de Jacques Lacan、2004年)

l'objet plus-de-jouir のアンチノミーはたぶん次のことを言っている筈(参照)。



ま、ミレールを全面的に受け入れなくてもいいし、彼もラカンのセミネールを読むたびに、ああここにも後期ラカンがある、と見出しているところがあるわけで。


次の2013年のミレールは、セミネール4を読んで中期以降のラカンの痕跡がすでにある、と言っているように読めるね。ミレールでさえこうなんだから、ま、仏語に不自由なボクなんかは、もうとっくの昔に諦めてるところがあるな、ラカンをじかに読むことがあっても、誰かが引用してて、その前後を読むっていう程度だな。

ラカンによって幻想のなかに刻印される対象aは、まさに「父の名 Nom-du-Père」と「父性隠喩 métaphore paternelle」の支配から逃れる対象である。

…この対象は、いわゆるファルス期において、吸収されると想定された。これが言語形式のもと、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」とラカンが呼んだものによって作られる「父性隠喩」である。

この意味は、いったん欲望が成熟したら、すべての享楽は「ファルス的意味作用 la signification phallique」をもつということである。言い換えれば、欲望は最終的に、「父の名」のシニフィアンのもとに置かれる。この理由で、「父の名」による分析の終結が、欲望の成熟を信じる分析家すべての念願だと言いうる。

そしてフロイトは既に見出している、成熟などないと。フロイトは、「父の名」はその名のもとにすべての享楽を吸収しえないことを発見した。フロイトによれば、まさに「残余 restes」があるのである。その残余が分析を終結させることを妨害する。残余に定期的に回帰してしまう強迫がある。

セミネール4において、ラカンは自らを方向づける。それは、その後の彼の教えにとって決定的な仕方にて。私はそれをネガの形で示そう。ラカンによって方向づけられた精神分析の実践にとって真の根本的な言明。それは、成熟はない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望にはどんな成熟もない ni de maturité du désir comme inconscient である。(ミレール、大他者なき大他者 L'Autre sans Autre 、2013)



2019年1月22日火曜日

知的絞首刑

だいたい「欲望」ってのはイミフの言葉だからな。諸派やそれを語る個人の心的構造によってまったく異なった意味で使われている。

フロイト・ラカン派では主にーーこれまた「まともな」フロイト・ラカン派のみだがーー、エディプス期以後が「欲望の主体」で、エディプス期以前が「欲動の主体」だよ(参照)。(より厳密にいえば後者は「欲動固着の主体」→[参照])

ここでフロイト・ラカン派ではない中井久夫を引用しておくけど。
精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収ーー「言語の深部構造」)

で、「「欲望の対象」と「欲望の原因」」について質問もらってんだが、以下、ボクの偏ったアタマではこう考えているということをテキトウに書くよ。

ようするに「欲望の対象」とは、エディプス期以後の主体の得意分野で、「欲望の原因」とは、エディプス期以前の主体が得意分野だな、簡単にいえばだが。前者の「欲望の対象」の底にはかならず「欲望の原因」があることに注意しなくちゃいけないけど。





そもそも神経症的主体と倒錯的主体が同じ「欲望」を語っていても、まったく別のこと話してる場合が多いよ。たとえば日本言論界の若手だったらコクブンとチバの欲望はーーボクはああいったボク珍たちの言説はもはやわずかに垣間見るだけになっているがーー根のところでは、まったく違う筈だ。

これがまずは「「欲望の対象」と「欲望の原因」」で引用したミレールの言ってることだ。

ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

前者の(倒錯者の)対象a(「欲望の原因」)は主体の側にある。…

後者の(神経症における)対象a(「欲望の対象」)は、大他者の側にある。神経症者は自らの幻想に忙しいのである。神経症者は幻想を意識している。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appât である。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004、摘要訳)

もう一つあったな。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム sinthome(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


さきほど掲げた「エディプス期以後の主体/エディプス期以前の主体」の図は、ミレール2005の図を、そのままその下に置ける(参照:女性の享楽は享楽自体のこと)、ーー厳密な区分は無視すれば、ということだが。たとえばどっちつかずの境界例というものもあるわけで。



もう一度、先ほどの図貼り付けておくよ。わかりやすいようにね。




ーーいやあ、ボクの頭ではピッタンコだな。

で、父なる超自我と母なる超自我とは次の内容。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…母なる超自我に属する全ては、母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S5, 02 Juillet 1958)

この「母なる超自我/父なる超自我」とは、「母なるシニフィアン/父の機能」に置き換えてもいい。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

で、誰でもそう読めるだろうように、これで「エディプス期以後の主体/エディプス期以前の主体」の意味がより鮮明化された筈。

ようするにオットサン(あるいは言語の法)に支配されているか、オッカサン(あるいはリビドー固着)に支配されているかどっちかということだ。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


で、欲望の対象とは、欲望の原因のたんなる覆いだよ、それは父なる超自我が母なる超自我のたんなる覆いに過ぎないように。

享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003ーー女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽

だから前エディプス的主体が、エディプス以後の主体をバカにするのは、ある程度はーー強調しておくが或る程度だーーやむえないことだな。


⋯⋯⋯⋯

ボクに言わせれば、最も大切なのは「エディプス期以後の主体」が「エディプス期以前の主体」に教訓垂れたら絶対ダメだということを知ることだな。ツイッターなんかたまに覗くと、神経症主体がそればっかりやっているように見えることがあるけどさ。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の大他者である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が通常、失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、大他者に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押しつけに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)

※もういくらか詳しくは、 「倒錯者と神経症者における「倒錯行為」の相違」を見よ。


大他者に貪り食われる不安とは、究極的には原大他者、つまり母なる大他者に呑み込まれる不安ということ。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)

このあたりについての真の根は、フロイトや後期ラカンもふくめてより広汎な文献を「子宮回帰運動」で示したばかりだから、そっちを参照。

ま、ボクはモロ倒錯者だからな、たとえばあきらかに神経症的社会学者たちやらツイフェミなど、あれら、もっともらしいこといってる神経症的インテリみると、攻撃性発露か、すくなくともハイネ気分になるんだな。血圧に悪いね。

私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本―――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう―――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』)

Ich habe die friedlichste Gesinnung. Meine Wünsche sind: eine bescheidene Hütte, ein Strohdach, aber ein gutes Bett, gutes Essen, Milch und Butter, sehr frisch, vor dem Fenster Blumen, vor der Tür einige schöne Baume, und wenn der liebe Gott mich ganz glücklich machen will, läßt er mich die Freude erleben, daß an diesen Bäumen etwa sechs bis sieben meiner Feinde aufgehängt werden. Mit gerührtem Herzen werde ich ihnen vor ihrem Tode alle Unbill verzeihen, die sie mir im Leben zugefügt — ja, man muß seinen Feinden verzeihen, aber nicht früher, als bis sie gehenkt werden.« (Heine, Gedanken und Einfälle.)



わかるかな、これで。ボクはどっちかというと若いお嬢さんらしき方だけには一応親切なんだけどさ。でも写真付き質問に限ることにしようかな、今後は。ボクの言いたいこと、わかる? めんどいんだよ、もう。

もっともこの程度だったらいいさ。だいたい最近のボクのブログは、文章のある塊を画像を貼り付けるように貼り付けるだけにほとんどなっているからな。連鎖反応式に。ここで新しいのは「エディプス期以後の主体/エディプス期以前の主体」の図だけだな。このスタイルそろそろ変えないとな、退屈してきたよ。

で、アタシほんとはオンナだって、あんたシッテル?




実際は、ヒトのなかにはいろんな主体がいるはずさ、上に記したことなんかウソッパチだよ、ほんとは。




女性性賛歌

向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている

ーー西脇順三郎「近代の寓話」

男たちは自らが性的流刑の身であることを知っている。彼らは満足を求めて彷徨っている、渇望しつつ軽蔑しつつ決して満たされてない。そこには女たちが羨望するようなものは何もない。(カーミル・パーリア Camille Paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

美容師と女あんまは愛らしいひょうたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる

ーー「失われた時」

不安セミネール10(1962ー1963)において、le moins phi (– φ)は、もはや想像的去勢・象徴的去勢 castration imaginaro-symboliqueではない。そうではなく器官の(– φ)[le -φ de l'organe]である。…(– φ)は事実上、もはや去勢のシンボル symbole de la castrationではない。そうではなく男性器官 organe mâle の肉体的属性 propriété anatomique である。そしてこの男性器官は、力能の想像化 imaginarisation de puissance とはまったく相反する。なぜなら享楽の瞬間 moment de sa jouissance に、この男性器官を襲う萎縮 détumescence があるから。…

フロイトの真理 vérité de Freud において、去勢 castrationは、女性のペニス不在 absence de pénis de la femme の把握に基盤がある。対象関係論(セミネール4)のラカンは、この分析的ドクサ doxa analytique に則って、想像的レヴェルでの「女性にとっての劣等感 sentiment d'infériorité chez la femme」を語った。…

以前のラカンはこのように、象徴的弁証法においてdans la dialectique symbolique、女性はマイナスサインを以て入場する la femme entre avec le signe moins とした。なぜなら対象の欠如は、徴示化されるファルス phallus signifiantisé 、ファルス的象徴対象 objet symbolique phalliqueだから。だがセミネール10「不安」以降、それはまったく異なるのである。…

このセミネールで、あなた方は、かつての構築物への「偉大なるボロ切れ化ショット grand coup de chiffon」を見るだろう。「剥奪 privation」、「フリュストラシオンfrustration」、「去勢 castration」、「想像的ファルスと象徴的ファルス phallus imaginaire et symbolique」を基盤としたすべての構築物を拭い去る「ひと突き」である。…「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンは強調する、「それは明らかだ ça saute aux yeux 」と。…

最初の転倒がある。享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅 disparition de l'organe instrument を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体 sujet mâleである。

そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌 éloge de la féminité が。女性の劣等性 infériorité ではなく優越性 supériorité である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…

ラカンはティレシアスの神話 mythe de Tirésiasに援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性 la supériorité féminine を示している。…

不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。欠如するのは男 homme qui manqueなのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である Il apporte la mise, et c'est lui qui la perd。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま restant intacte, intouchéeであることを示している。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)


イボタの繁みから女のせせら笑いが
きこえてくる。

ーー「六月の朝」





坂を上つて行く 女の旅人
突然後を向き
なめらかな舌を出した正午

ーー「鹿門」

どの女も深淵を開く。男はその深淵のなかに落ちることを恐れ/欲望する。カミール・パーリアは、この関係性を『性のペルソナ』で最も簡潔に形式化した。米国ポリティカルコレクトネスのフェミニスト文化内部の爆弾のようにして。パーリア曰く、性は男が常に負ける闘争である。しかし男は絶えまなくこの競技に入場する、内的衝迫に促されて。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness、1998年)

竹藪に榧の実がしきりに落ちる
アテネの女神に似た髪を結う
ノビラのおつかさんの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉も未だ今日はきかない。

ーー「留守」

宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。……

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアCamille Paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)


女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
女の中に種があんべ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂か風みたいなものだ

ーー「旅人かえらず」

性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である。(ティレシアス)
性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)
われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは…かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス・イリウス・プロクルス)とある皇后(クラディウス帝の妃メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ『エセー』)

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー『梨の女「詩の幽玄」』


女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。

元来、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。…

自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある。
女の身体は海である。月の満ち欠けに従う海である。女の脂肪組織[fatty tissues] は、緩慢で密やかに液体で満たされる。そして突然、ホルモンの高潮で洗われる。

…受胎は、女のセクシャリティにとって決定的特徴を示している。妊娠した女はみな、統御不能の冥界の力に支配された身体と自我を持っている。

望まれた受胎において、冥界の力は幸せな捧げ物である。だがレイプあるいは不慮による望まれない受胎においては、冥界の力は恐怖である。このような不幸な女たちは、自然という暗黒の奈落をじかに覗き込む。胎児は良性腫瘍である。生きるために盗む吸血鬼である。
…かつて月経は「呪い」と呼ばれた。エデンの園からの追放への参照として。女は、イヴの罪のために苦痛を負うように運命づけられていると。

ほとんどの初期文明は、宗教的タブーとして月経期の女たちを閉じ込めてきた。正統的ユダヤ教の女たちはいまだ、ミクワー[mikveh]、すなわち宗教的浄化風呂にて月経の不浄を自ら浄める。

女たちは、自然の基盤にある男においての不完全性の象徴的負荷を担っている。経血は斑、原罪の母斑である。超越的宗教が男から洗い浄めなければならぬ汚物である。この経血=汚染という等置は、たんに恐怖症的なものなのか? たんに女性嫌悪的なものなのか? あるいは経血とは、タブーとの結びつきを正当化する不気味な何ものかなのか?

私は考える。想像力ーー赤い洪水でありうる流れやまないものーーを騒がせるのは、経血自体ではないと。そうではなく血のなかの胚乳、子宮の切れ端し、女の海という胎盤の水母である。

これが、人がそこから生まれて来た冥界的母胎である。われわれは、生物学的起源の場処としてのあの粘液に対して進化論的嫌悪感がある。女の宿命とは、毎月、時間と存在の深淵に遭遇することである。深淵、それは女自身である。
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。……

西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)


けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの
青白い
終りを
(⋯⋯)

路ばたにマンダラゲが咲く

ーー西脇順三郎「禮記」


2019年1月20日日曜日

子宮回帰運動

《以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, 》(フロイト『快原理の彼岸』1920年)


安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)








エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

⋯⋯⋯⋯



【喪われた子宮内生活への回帰運動】
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎Mutterleib への回帰運動(子宮回帰 Rückkehr in den Mutterleib)がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)


【母の去勢・去勢の原像】
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


【母なる大地・沈黙の死の女神】
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)


【エロス/タナトス、融合/分離、引力/斥力、欲動混淆】
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


【マゾヒスムという自己破壊欲動】
外部(現実)の危険 äußere (Real-) Gefahr は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
※上文註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実的不安 Realangst に幾分か欲動不安Triebangstがさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus (…)

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向Tendenz zur Selbstdestruktionから逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露(開示)だろうか! (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

……………


【享楽という原マゾヒスム】
真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)
享楽はその根源においてマゾヒスム的である。(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)


たしかにすぐさまというわけにはいかなかった。1919年(フロイト63歳)においてもまだ次のように言っている。

マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行によって、対象から自我へと方向転換したのである。

…daß der Masochismus keine primäre Triebäußerung ist, sondern aus einer Rückwendung des Sadismus gegen die eigene Person, also durch Regression vom Objekt aufs Ich entsteht. (フロイト『子供が打たれる』1919年)


だが翌年以降、方向転回がある。

自分自身の自我にたいする欲動の方向転換とみられたマゾヒズムは、実は、以前の段階へ戻ること、つまり退行である。当時、マゾヒズムについて行なった叙述は、ある点からみれば、あまりにも狭いものとして修正される必要があろう。すなわち、マゾヒズムは、私がそのころ論難しようと思ったことであるが、原初的な primärer ものでありうる。

Der Masochismus, die Wendung des Triebes gegen das eigene Ich, wäre dann in Wirklichkeit eine Rückkehr zu einer früheren Phase desselben, eine Regression. In einem Punkte bedürfte die damals vom Masochismus gegebene Darstellung einer Berichtigung als allzu ausschließlich; der Masochismus könnte auch, was ich dort bestreiten wollte, ein primärer sein.(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
マゾヒズムは三つの形態で観察される。①性興奮に課された条件として、②女性的本質の表現として、③生活態度の規範として。したがって我々は、性愛的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen を識別する。第一の性愛的マゾヒズム、すなわち苦痛のなかの快 Schmerzlustは、他の二つのマゾヒズムの根である。(⋯⋯)

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残余として内部には本来の eigentliche、性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。

ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化Legierung von Todestrieb und Eros が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行する regrediert と聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年)
後に、心的装置の構造、そこで作用する欲動の種類についての確とした仮定に支えられた考究の結果、マゾヒズムについての私の判断は大幅に変化した。私は原初の primärenーー性愛 erogenen に起源をもつーーマゾヒズムを認め、そこから後に二つのマゾヒズム、すなわち女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズム der feminine und der moralische Masochismusが発展してくる、と考えるようになった。実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズムに合流するのである。Durch Rückwendung des im Leben unverbrauchten Sadismus gegen die eigene Person entsteht ein sekundärer Masochismus, der sich zum primären hinzuaddiert.(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)


【死の欲動一元論】

フロイトは上に引用したように、1924年には《(厳密さを期さなければ)有機体内で作用する死の欲動ーー原サディズムーーはマゾヒズムと一致する der im Organismus wirkende Todestrieb –; der Ursadismus –; sei mit dem Masochismus identisch》と言っている。

こうしてラカンの欲動一元論が生まれる。

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

つまりエロス欲動もタナトス欲動も、実質は、死の欲動だと。



【喪われた対象の廻りの循環運動】

ラカンにとって死の欲動は、「喪われた対象 verlorene Objekt」(フロイトのモノdas Ding)の廻りの永続的な循環運動である。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)


【廃墟となった享楽】
(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu (=モノ)の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


【享楽と去勢】
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)



【享楽と死】
・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(ミレール Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)
ラカンにとって、享楽と死の危険のあいだには密接な関係がある。Il y a donc pour Lacan une connexion étroite entre jouissance et risque de mort (Marga Auré, A risque de mort, 2009)
・享楽と死はきわめて接近している Jouissance and death are quite close

・享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)


【享楽のさまよい(死のさまよい)】
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)
われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534、1973)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

……………



【幻想の式からエロトスの式へ】


何度か示している次の図は、上に引用したフロイト・ラカンの考え方の基本を、ーー精神分析に疎遠な人たちにでも可能な限り把握しうるようにーー図示したもので、これは「エロトスの式」と呼びうる。






エロトスとは荒木経惟の造語だが、ここでは【エロス/タナトス、融合/分離、引力/斥力、欲動混淆】の項で示した、エロスとタナトスの欲動混淆という意味で使う。

無意識の主体$がめざすAとは、究極的には「母」であるがーー《原大他者 Autre primitif は母》(ラカン、S4、06 Février 1957)ーー、フロイトのいう「母なる大地」「沈黙の死の女神」にしてもよいし、プルースト的に「時」としてもよい。

すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまちにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。

時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死 mort」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそと hors du temps に存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう? (プルースト『見出された時』井上究一郎訳だが、一部変更)

プルースト的体験と同質のものでありながら、標準的な人でもかならずあるだろう、より穏やかな吉行淳之介の文をも掲げておこう。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『『砂の上の植物群』)

いくらこういった瞬間が歓喜的で眩暈がするものであっても、時との融合が長引けば、堪え難くなり、分離欲動が生じる。これこそなによりもまず、引力と斥力(エロスとタナトス)の関係である。

無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

⋯⋯⋯⋯


現在のラカン派では、ラカン理論の核心(のひとつ)を現わすためには、ラカンが示した幻想の式 [$ ◊ a] では不十分だとされ、いくつかの修正版ヴァリエーションがある。

たとえば、こうである(ポール・バーハウによる)。





a/-φ とは次の意味である。

-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)


ポール・バーハウ2011はトーラス円図にても示している。





あるいはジャック=アラン・ミレール2011によるトーラス円図。



この図は、こう書き直せるだろう。





次のように示すラカン派もいる(David Hendrickx 、Freud and Lacan on fetishism and masochism/sadism as paradigms of perversion 、2017)。








上の図は、【母の去勢・去勢の原像】と【喪われた対象の廻りの循環運動】で示した出産外傷(フロイトは「原トラウマ Urtrauma」とも呼んでいる)を視野に入れたトーラス円図として読みうる。







すなわち母子融合状態にあった原享楽あるいは原エロスの状態(子宮内生活)が出産によって分離されて、$+a、Ⱥ+aとなる図である。あくまで架空の話としてだが、ラカンはセミネール10にて「享楽の主体 le sujet de la jouissance S」(原主体 sujet primitif)を語ることによって、上の David Hendrickxによるトーラス円図に還元できる内容を語っている(参照)。




トーラス円図の重なり箇所が、(a)とされたり、(a/-φ)とされたりするのは、主に、(a)の二重の価値にかかわる。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる「 le plus-de-jouir」の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

穴埋めのほうの plus-de-jouir についてはラカンはこう言っている。

剰余享楽 plus-de-jouir とは⋯⋯享楽の欠片 lichettes de la jouissanceである(LACAN, S17、11 Mars 1970)

したがってplus-de-jouirの両義性は次のように整理できる(いま上に記した内容とともに、すこし前の【享楽と去勢】項を参照のこと)。



穴埋め(コルク栓)という用語は、後期ラカンに頻出するのだが、いまは一文だけ掲げる。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

非全体(非一貫性)とはすなわち穴のことである。

Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

ーーミレールはここで「欲望の場処 le lieu d'un désir」としているが、最も肝腎なのは「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の原因 cause du désir」の区別である。ここでミレールが言っているȺとは、「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」(享楽の対象 objet de jouissance)の側にあることに、くれぐれも注意しなければならない(参照:「欲望の対象」と「欲望の原因」)。

穴埋めに相当するほうの「plus-de-jouir」についてラカンはこうも言っている。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)
まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

この「快の獲得 Lustgewinn」とは、「享楽欠如の享楽 jouir du manque à jouir」(コレット・ソレール、2011)に相当する(参照)。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」⋯⋯「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation »2013-2014セミネール)


ようするに剰余享楽(反復強迫=死の欲動)とは、穴の廻りの循環運動である(参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽)。

そしてフロイトによれば、この循環運動自体(「享楽欠如の享楽」運動)が欲動満足を生む。

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い欲動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

これが上に示した剰余享楽=快の獲得 Lustgewinn の真意である。はてしなく(endlessly)、無目的的な(end-less)な循環運動。これは、マルクスが「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」という表現で資本の欲動を言わんとしたことでもある。

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第3巻)

ラカンはこのマルクス的フェティッシュに相当するものを、「黒いフェティッシュ」とも呼んだ。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年)

ーー《純粋対象 pur objet、黒いフェティッシュ fétiche noir.》(S10, 16 janvier 1963)


⋯⋯⋯⋯

あらためていうまでもないかもしれないが、ここで記された内容は、エスにかかわる話であり、自我にかかわる話ではないことを強調しておく。

エスの力能 Macht des Es は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安Angst の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事 Aufgabe des Ich である。…

エスの欲求緊張 Bedürfnisspannungen des Es の背後にあると想定される力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

自我のレベルでは誰でも「あたしはそんなことはけっしてないわ」と思っているのである。

⋯⋯⋯⋯

ところで冒頭近くに掲げた安永浩と中井久夫の「ファントム空間」図ってエロいなあ、眺めれば眺めるほどそう思えてきた。


ーーああ、ああああ、パックリ母だあああ。

母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢が先立っているのである cette antériorité de la castration maternelle。父なる去勢はその代替に過ぎない la castration paternelle en est un substitut。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)



だいたい中井久夫の文読んで、「エロトス Erotos」感じないやつって不感症だと思ってるけど。→「五月のたわわな白い花のすこしただれたかおり

菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。……菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。…

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)




幼少の砌の傷への固着

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

少し前にも記したけれど(参照:「女性の享楽とは死の欲動のこと」)、フロイトの死の欲動(死の本能)は、戦争外傷神経症が起源にあることを忘れてはならない。第一次大戦最後の年の1918年夏、ブタペストでの精神分析学会には、ドイツ=オーストリア軍の戦争神経症患者のあまりの多さに、軍の指導的将軍たちが出席するという異常事態が起こったわけで、ここにフロイトがそれまで固執し続けていた「快原理(快原則)」に対する問い直しの主要な起源の一つがあるのだから。

次の古井由吉の文は、いままで何度も引用してきたけれど、フロイト・ラカン派の「死の欲動」を把握するためのとてもすぐれた導きの糸だな。


【幼年の砌の傷への固着】
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。

小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)


この文脈における、フロイトの核心的文を二つ掲げよう。


【事故的トラウマへの固着】
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)


【病因的トラウマへの固着】
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自身の身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


フロイトは病因的トラウマについては五歳までの出来事としているけれど、反復強迫(死の欲動)は、事故的トラウマも含めて考えれば、五歳までには限らない。それは、フロイトが《外傷神経症は、外傷的事故の瞬間への固着がその根に横たわっている》と言っているように。

核心は、《感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃》の外傷的出来事への固着だ(場合によっては、詩人的資質をもつ者は生涯、免疫の薄いままでありうる)。あるいは成人以降でも、中井久夫の言うように、《ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない》。これが、事故的トラウマも含めたトラウマへの固着による反復強迫の主要要因である。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


このトラウマ的出来事は、主に「静止画像」に近接した不気味なものとして居残る(置き残される)。フロイトにおいて「居残る」あるいは「置き残される」の意味は、身体的な経験が心的装置に移行されず、《暗闇のなかに異者(異物)のようなものとして蔓延る》(フロイト、1915)ということである。

そしてこの不気味な異物(ラカンの対象a)が反復強迫をもたらす。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
心的無意識のうちには、欲動興奮 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

ーーなによりもまずこの内的反復強迫がタナトスである。この基本さえ現在ではほとんど忘れられているが。それはフロイト研究者においてさえそう感じざるをえないときがある。あいつら、精神分析のなにを研究してんだろ、と。

ボクはなんどか記したけど、三歳の時の「鎮守の森」静止画像に徹底的に悩まされたんだな、18歳の夏に女とはじめて性交してすこしは収まったんだけど。




ーーいやあ、いまでもあんまりじっくりは眺めたくないね・・・


中井久夫の「静止画像」とは、フロイトのいう隠蔽記憶(スクリーンメモリー)とほぼ同じものと扱いうる、《その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。》(フロイト『モーセと一神教』)。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。(中井久夫「私の三冊」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
成人文法性成立以後に持ち越されている幼児型記憶は(1)断片的であり、(2)鮮明で静止あるいはそれに近く、主に視覚映像であり、(3)それは年齢を経てもかわらず、(4)その映像の文脈、すなわちどういう機会にどういういわれがあって、この映像があるのか、その前後はどうなっているかが不明であり、(5)複数の映像間の前後関係も不明であり、(6)それらに関する画像以外の情報は、後から知ったものを綜合して組み立てたものである。(「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


中井久夫の幼児型記憶とは、フロイトの次の文とともに読むことができる。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)

そして、フロイトのいう《幼児期の純粋な出来事的経験》が、ラカンのいう原症状(サントーム)としての身体の出来事である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

中井久夫は三歳までの自らの「静止画像」を10枚あげているのだけれど、ラカン的に言えば、この画像はたんなる静止画像ではない。

隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4、30 Janvier 1957)
スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réel が、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想 fantasme と呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象 représentation と呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation(=欲動代理) を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966)
表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧(=リビドー固着)の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。(ラカン、S11、1964、03 Juin 1964)


ボクにとっては、バルトの「ゆらめく閃光 un éclair qui flotte」という表現がボクの何枚かの静止画像によく合致する。

・・・かなりひどい高所恐怖症があるんだけどさ、なんどもツレの女たちに笑われたよ。

外部(現実)の危険 äußere (Real-) Gefahr は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。
※上文註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実的不安 Realangst に幾分か欲動不安Triebangstがさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

いいな、きみたちは。面の皮がとっても厚そうで。

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さて、これらの文脈から読み換えれば、古井由吉の「幼年の砌の傷への固着」とは、「トラウマへのリビドー固着」のことである。

トラウマの記憶は、中井久夫自身、かならずしも視覚映像ではなく、「共通感覚」・「原始感覚」という形で表現している。

外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


とはいえ、「静止画像」とその「反復強迫」から、人はまず「死の欲動」を考えたらよいと思う。幼少期の静止画像って少なくとも数枚は誰にでもある筈だ、よっぽど面の皮が厚くなければ。フロイトはこの面の皮を「刺激保護壁 Reizschutzes」と呼んだけど、古井由吉が言ってるように静止画像がないヤツのほうが病気だよ、《幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される》。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『心理学草案 』に次のような形で現れる。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる。

フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

この文脈のなかでラカンはこう言うのである。

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

ーーこの文は、ふたつともまさに反復強迫のことを言っている。

※参照:フロイトの「自動反復 Automatismus」とラカンの「現実界」


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1937年生れの古井由吉において「幼年の砌の傷への固着」の重要な一つは、戦争体験である。

僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』)
焼け跡で交わる男女⋯⋯焼き払われると、境がなくなってしまうんですね。敷地と敷地の境も、町と町の境も、それから時間の境もなくなってしまう。そういう無境の中で、男女が交わる。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

この「静止画像的光景」だろう記憶が、作品のなかで「昇華」の形で表現されているのである。

どこかの部屋で、先の男女が裸体を合わせている。ひとしきりやみくもに愛しあっては、お互いに興奮からこぼれ落ちて、まわりのひと気なさに、馴れぬ耳を澄ましている。そのつど熱の吸い取られていくのをそれぞれに不思議がって、ますます熱したみたいに肌を押しつける。 (古井由吉『山躁賦』無言のうちは)