2017年10月24日火曜日

ベルトルッチの女たち

わたくしはかつてから映画をそれほど観るほうではない。最近は環境が悪いせいもあり、まったくみない。新しい作品を小さな画面で観る気にはまったくならない。

だが愛する女優はいた。たとえばベルトルッチの二人の女は、強い印象が残っている。

マリア・シュナイダーとドミニク・サンダはまったく異なったタイプだなどというなかれ。それは外見だけである。









たぶん趣味があう(?)のであろう・・・ゴダールの女たちでも、コッポラの女たちでも、あるいはエリック・ロメールの女たちでもないのだ、今思い返せば、わたくしが真に思い返すのは。

◆『光をめぐって』(1991)より(ベルトルッチインタヴューは、1982.10帝国ホテルにて)

蓮實重彦)……ある一つの事実に気がつきました。それは、あなたの映画では、人は決してベッドで寝られないという事実です。まるで、ベッドから追いはらわれるように、公園とか庭先の椅子といったところで熟睡するのです。

ベルトルッチ)ああ、そうだろうか。

――ええ、もちろん、あなたの映画にベッドはたくさん出てきます。でも、そこでは誰も熟睡できず、むしろ不安な表情で目覚めている。『革命前夜』の美しい叔母は、一晩、ベッドの上で眠れぬ夜を過し、『暗殺の森』のコンフォルミストも、冒頭から正装のままベッドに横たわり目覚めていた。彼らは、ベッドの上で眠れないだけではなく、そこで愛戯にふけることもできない。『ラストタンゴ・イン・パリ』でも『1900年』でも、男女は、床の上や藁の中といったところで交わり、もっぱらベッドを避けているようです。後者でのロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデューとは、女に誘われてその部屋に行き、着ているものを脱ぎすてさえするのですが、ベッドに裸身を横たえる女が突然引きつけを起してしまうのでそのまま何もできない。ベッドに横たわる唯一の人間は、『ラストタンゴ』のマーロン・ブランドの死んだ妻ばかりです。こうしてみると、あなたの映画ではベッドが不吉な場所ということになるのですが……。

ベルトルッチ)なるほど、おっしゃる通りです。そう、こういうことがいえるかもしれません。私の父の小説に『寝室』というのがあります。イタリア語では文字通りベッドのある部屋となりますが、その小説は私や兄弟たちの少年時代は、家庭では『ベッドルーム』と英語で呼ばれていました。父が、とりすましたふりをしてそう呼んでいたのです。もちろん、子供たちにはベッドルームという音の響きが何を意味しているかはわからなかった。十五、六歳になって英語を習ってから、はじめてこの小説の題の意味が理解できたのです。

もし私の映画にそうしたイメージが恒常的に現れるとすれば……。

――もっと多くの例も引けますよ(笑)。

ベルトルッチ)……それはまぎれもなく、タブーを意味しています。フロイトのいう原光景という奴です。つまり、そこで両親がセックスをする場所であったわけで、この原光景は、それを見る必要はない、想像されるだけでよいのだとフロイトはいっています。しかし、そんなことは、こうした場面を撮るときは考えてもいなかった。

――意図的な表現ではなかったわけですね。

ベルトルッチ)いや、自分ではあなたに指摘されるまで考えてもいなかったことです。私は、撮影にあたっては、理性的、合理的ではありません。私はちょっと音楽を演奏するように撮るのです。したがって理性に導かれてというよりは、情動に従って映画を作ります。ですからそうした問題を模索するといったことはしません。たしかピカソが、「私は探すのではない、発見するのだ」といいましたが、まあ、それに近い状態です。

しかし、こうした統一性を誰か他人が発見してくれるのは、何とも不思議な気がします。なるほどおっしゃる通り、ベッドはずいぶん出て来ますね(笑)。で、『革命前夜』では、二人はベッドの上にいるが、女が写真をベッドの上に置いてみたりして遊んでいて、実際に二人が抱き合うのは別の場所です。そう、こうした映画は、自分が成熟した大人とは思っていない人間たちを描いているわけだから、ベッドで抱擁することができない。ベッドで愛戯をするのは、大人になっていなければいけないのです。デ・ニーロはドミニク・サンダと農家の麦藁の中で寝るし、ドパルデューは人民の家で、ステファニア・サンドレッリと抱き合う。レーニンの肖像の前で。……











2017年10月23日月曜日

システムのゼロ度としての〈作家=女〉

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」
どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

⋯⋯⋯⋯

上に見たように、ラカン派ではなくてもしばしば語られてきた「言説行為の主体/言説内容の主体」ーー直接的なラカン派の起源は、フロイトの《私は自分の家の主人ではない dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus》(『精神分析入門』)であるーーをめぐるジジェクを記述をまず抜き出す。

プロソポピーア Prosopopoeia とは、「不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法」と定義される。(……)ラカンにとってこれは発話の特徴そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの「言表行為の主体」と「言表内容の主体」とのあいだの区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、「私自身」が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は「間接的」である。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

「私はあなたを愛しています」をめぐっては、「私は嘘をついている」にて引用したラカンのセミネール9の次の箇所を抜き出しておこう。

…教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。

「私は思う Je pense」に「私は嘘をついている Je mens」と同じだけの要求をするのなら⋯⋯まずそれは「私は考えていると思っている Je pense que je pense」という意味がある。

これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」 、 「彼女は私を愛していると私は思う Je pense qu'elle m'aime」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。(ラカン、S9、15 Novembre 1961)

かつまたラカンは「言表内容の主体 sujet de l'énoncé 」と「言表行為の主体 sujet de l'enonciation」が一致している思い込んでいる言説を、《私は私自身の主人 m'être à moi même》言説、《「私」支配 je-cratie》と呼んでいる。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたマヌケ con-vaincu のことである。(Lacan, S20, 13 Février 1973ーー資本の言説と〈私〉支配の言説)

さてだがいまは(直接的には)その話題ではない。冒頭の文に前段に書かれたジジェクの叙述がーーいままで何度か引用しているがいくらか訳語を変えてここに掲げるーー、わたくしにはすこぶる面白い。

ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により、対話者の立場の非一貫性を露わにし、相手の立場を相手自らの言述によって崩壊させる。

ヘーゲルが女は《コミュニティの不朽のイロニーである》と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を「プロソポピーア」に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者は自らの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになる。そして彼らが自らの権威づけのありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威づけは崩れおちる。それはまるで、イロニーの無言の谺が、彼らの発話につけ加えられたかのようなのだ。その谺は、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。

この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? …神秘的な「パーソナリティの深層」はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。

(⋯⋯)対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を、魔術的にプロソポピーアに変貌させる。彼の言葉を脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任」と呼んだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

主体の解任をめぐるラカン自身の言葉は、「主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten」を見てもらうことことにして、ここではラカンの四つの言説の図から分析の言説の図をまず掲げる。




そしてベルギーのラカン派臨床家による分析の言説の注釈ーーひとつの注釈でありこれが全てではないーーを掲げる(参照:基本版:「四つの言説 quatre discours」)。

分析家の言説において、動作主としての分析家は、論理的に a と表記される、いわゆる対象a として、「他者」に直面する。この対象a は、欲動あるいは享楽に関係した残余(S16: 「享楽の私« Je » de la jouissance」を参照)を示す。それは名づけ得ないものであり、欲望を刺激する。例えば、分析家の沈黙ーーそれは、相互作用における交換を期待している分析主体(被分析者)をしばしば当惑させるーー、その沈黙は対象a として機能する(Lacan, S19, p.25)。

分析家は対象a のポジションを占めることにより、自由連想を通して、主体の分割($) が分節化される場所を作り出す。分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された「観念と病理」 (S2)を脇に遣る。こうして分析主体(被分析者)の主体性を徴す鍵となる諸シニフィアン S1 が形成されうる。それは、分析家の対象a としての地位を刺激する。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdf)

ーーそれぞれのマテーム、a、$、S2、S1が簡潔に説明されている。


⋯⋯⋯⋯

さてジジェクに戻る。彼が指摘するように、女は(ときに)対象aとして(あるいは分析家として)機能するのである。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。(ジジェク、2012)

とはいえ、もっとも注意すべきなのは、対象aの両義性である。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

女は男にとって幻想的囮/スクリーンとしての対象aとして機能している場合が多いだろう。だが肝腎なのは後者の空虚である。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

原対象aとは、穴Ⱥのことである(参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)。そして穴とは、欠如の欠如である。《欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel》(Lacan、1976 AE.573)。

ラカンは「カントとサド」(1963)において、《享楽が純化されたとき、黒いフェティッシュ fétiche noir になる(形態 forme 自体になる)》としているが、同時期のセミネール不安でも《pur objet, fétiche noir. 純粋対象、黒いフェティッシュ》とある。これはブラックホールのことだろう。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

バルトが次のように言うとき、作家とは読者にとって穴として機能すべきだと、彼は考えていると捉えうる。

作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes )にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge である。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

ーー「システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes」 とは、もちろんラカンの「絵のなかのシミ tache dans le tableau」=対象aである。

そしてときとして、女がこのシミとして機能するのは、たとえば安吾が「ジロリの女」で叙述した文が示している。

女の感覚は憎悪や軽蔑の通路を知るや極めて鋭く激しいもので、忽ちにして男のアラを底の底まで皮をはいで見破ってしまう。(坂口安吾「ジロリの女」)

安吾は女に次のように語らせているーーひょっとして「魂の孤独」を語り続けた安吾の自己分析でありうるーー。

彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』)

分析家の言説とは、精神分析臨床だけの話と考えてしまいがちだが、人が、理想を語る夫に直面した妻のようにーー沈黙で他者に対応すれば、分析の言説と同じ機能を生む場合がある。そしてそれはまず、他者の《言説のヒステリー化 hystérisation du discours》(S17)を促す。

ここでのヒステリーとは巷間に流通する通念としてのヒステリーではない。たとえば症状なきヒステリーでありうる。《私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだよ  je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme〉(Lacan, S24、1976)

金井美恵子は次のように言っている。

中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。(『小説論』)

すぐれた小説家の作品の多くは、たしかに、システムの染み、あるいは穴としての対象a、ジジェクのいう〈女〉として機能しているはずである(もちろん読み手の資質によるが)。

「男の言葉を女の言葉に/近づけることを考えなければならない」(西脇順三郎)

ーーとはいえ、そもそもここまでの記述自体が、女にバカにされうることは十分承知している・・・

おそらく最も肝腎なのは、ドゥルーズのいう「芸術のシーニュ」を創造することなのである。

社交のシーニュの神経的興奮、愛のシーニュの苦悩と不安。感覚的シーニュの異常な歓び(しかし、そこではなお、存在と無との間で存続している矛盾として、不安が現われている)。芸術のシーニュの純粋な歓び。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』ーー社交・愛・感覚・芸術のシーニュ」)

ああ、《何もかもつまらんという言葉が/坦々麺をたべてる口から出てきた》(谷川俊太郎)



2017年10月22日日曜日

享楽という原マゾヒズム

フロイトのマゾヒズムとサディズムの思考をいくらか追っていくと、起源にあるのは原マゾヒズムであり、つまり「原マゾヒズム(一次的マゾヒズム) → サディズム → 二次的マゾヒズム」と言っているように見える。

もっとも後年まで、《原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致する》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)という形で、原サディズムという言葉を使ってはいるが。

たとえば、1933年(77歳)のフロイトは次のように言っている。

マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus (フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)

ーーすなわち自己破壊欲動は、他者攻撃欲動よりも先にある。そして、

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!(同上)

この考え方を受け入れるなら、フロイトが攻撃欲動というとき、先にあるのは自己攻撃欲動なのである。

攻撃欲動 Aggressionstrieb は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)

ここで挿入的に、ラカンの考え方をいくらか見てみよう。ラカンの核心概念「享楽」とは(究極的には)原マゾヒズムのことであるようにみえる。

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)

ラカンは、フロイトが書いていないことまで書いていると言っている、《FREUD écrit :   « La jouissance est masochiste dans son fond »》(S16, 15  Janvier  1969)   。とはいえこの「享楽」を「死の欲動」に置きかえれば、フロイトはほぼそう言っている。

あるいは、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance 》(ラカン、S.17、26 Novembre 1969)とは、ラカンが享楽をどう考えたかを知るためのひとつの核心である。

さらには、

享楽は現実界である。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

たしかにすぐさまというわけにはいかなかった。1919年(フロイト63歳)においてもまだ次のように言っている。

マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行によって、対象から自我へと方向転換したのである。

…daß der Masochismus keine primäre Triebäußerung ist, sondern aus einer Rückwendung des Sadismus gegen die eigene Person, also durch Regression vom Objekt aufs Ich entsteht. (フロイト『子供が打たれる』1919年)

だが一年後に次の叙述が現われる。

自分自身の自我にたいする欲動の方向転換とみられたマゾヒズムは、実は、以前の段階へ戻ること、つまり退行である。当時、マゾヒズムについて行なった叙述は、ある点からみれば、あまりにも狭いものとして修正される必要があろう。すなわち、マゾヒズムは、私がそのころ論難しようと思ったことであるが、原初的な primärer ものでありうる。

Der Masochismus, die Wendung des Triebes gegen das eigene Ich, wäre dann in Wirklichkeit eine Rückkehr zu einer früheren Phase desselben, eine Regression. In einem Punkte bedürfte die damals vom Masochismus gegebene Darstellung einer Berichtigung als allzu ausschließlich; der Masochismus könnte auch, was ich dort bestreiten wollte, ein primärer sein.(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

だが、決定的なのは1924年(フロイト68歳)の二つの記述である。

◆『マゾヒズムの経済論的問題』1924年

マゾヒズムは三つの形態で観察される。①性興奮に課された条件として、②女性的本質の表現として、③生活態度の規範として。したがって我々は、性愛的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen を識別する。第一の性愛的マゾヒズム、すなわち苦痛のなかの快 Schmerzlustは、他の二つのマゾヒズムの根である。(⋯⋯)

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残余として内部には本来の eigentliche、性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。

ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化Legierung von Todestrieb und Eros が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行する regrediert と聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年)

ーーラカンは、セミネール10(「不安」)で、上にあるフロイトの三つの区分、性愛的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen はあまり意味がないと言いつつ、次のように言い直している。《倒錯者のマゾヒズム、道徳的マゾヒズム、女性的マゾヒズム du masochisme du pervers, - du masochisme moral, - du masochisme féminin》。


◆『性欲論三篇』1905年における1924年の註

後に、心的装置の構造、そこで作用する欲動の種類についての確とした仮定に支えられた考究の結果、マゾヒズムについての私の判断は大幅に変化した。私は原初の primärenーー性愛 erogenen に起源をもつーーマゾヒズムを認め、そこから後に二つのマゾヒズム、すなわち女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズム der feminine und der moralische Masochismusが発展してくる、と考えるようになった。実生活において使い果たされなかったサディズムが方向転換して己自身に向かうときに、二次的マゾヒズム sekundärer Masochismus が生じ、これが原マゾヒズムに合流するのである。Durch Rückwendung des im Leben unverbrauchten Sadismus gegen die eigene Person entsteht ein sekundärer Masochismus, der sich zum primären hinzuaddiert.
(フロイト『性欲論三篇』1905年における1924年の註)

⋯⋯⋯⋯

以上のことは、わたくしも最近になってようやく気づいたのだが、上のフロイトの思考発展を受け入れるなら、たとえば柄谷行人と浅田彰が次のように語った内容は、二次的マゾヒズムであって、一次的マゾヒズム(原マゾヒズム)ではない、ということになる。

柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)

⋯⋯⋯⋯

なぜ原マゾヒズムが始原なのか。生物学的な思弁のなかでフロイトは《有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった》(『快原理の彼岸』)とはある。あるいは受動ー能動の用語で説明されることもあるが、わたくしはいまだ十分には納得できていない。

受動的立場 passive Einstellung は…やっきになって抑圧されるものであるenergisch verdrängt(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
容易に観察されるのは、性愛の領域ばかりではなく、心的体験の領域においてはすべて、受動的にうけとられた印象が小児には能動的な反応を起こす傾向を生みだす、ということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。それは、小児に課された外界を征服しようとする仕事の一部であって、苦痛な内容をもっているために小児がそれを避けるきっかけをもつこともできたであろうような印象を反復しようと努める、というところまでも導いてゆくかもしれないものである。

小児たちの遊戯もまた、受動的な体験 passives Erlebnis を能動的な行為 aktive Handlung によって補い、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置をくりかえすのである。受動的なことに反抗し能動的役割 aktiven Rolle を好むということが、この場合は明白である。(フロイト『女性の性愛について』1931年)

原初の母子関係において、幼児はマゾヒスト的立場に置かれていることは確かだろう(参照)。

フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼方には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。(ポール・バーハウ1988, Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE )

ーー《他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. 》(ラカン、S10,l6 janvier l963)

このラカンは、いくらかフロイトの原マゾヒズムの定義(自己破壊欲動)とは異なるが、幼児は誰もが「母なる大他者」の欲望の対象であるには相違ない。

…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

 究極の「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」とは、母なる大他者と融合したい欲求あるいは欲動であるだろう。

母親への依存性 Mutterabhängigkeit(受動性)のなかに…パラノイア Paranoia にかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(食われてしまう?)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。Denn dies scheint die überraschende, aber regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?) zu werden, wohl zu sein.(フロイト『女性の性愛』1931年)

母なる大他者ーーフロイトのいう 《偉大な母なる神 große Muttergottheit》(『モーセと一神教』1939)ーーに貪り喰われるのが、究極の願いだったらどうだろう?

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

死の枕元にあったとされる最後のフロイトの草稿をも掲げよう。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

ーーこの文は1926年に現れた《愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden》とともに読むことができる。

だが次の文はどうか? エスの目的には、《己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること》はない、と言っている。

エスの力能 (権力 Macht) は、個々の有機体的生の真の意図 Einzelwesens を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs…(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

⋯⋯⋯⋯

※付記

ニーチェ『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレから引用してみよう。

おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
享楽 Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての享楽 Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!「酔歌」

Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«

ーー手塚富雄訳だが、「悦び lust」を「享楽」に変更した。

ここでのニーチェの「悦び(享楽 Lust)」とは、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)とほとんど等価である。

そしてラカンはこの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》をなによりもまず「享楽」(jouisssance = déplaisir)とした。

享楽が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」)

※現代ラカン派解釈におけるニーチェの永遠回帰をめぐっては、「ララングとサントーム」を見よ。

ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。

Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung)

⋯⋯⋯⋯

最後にラカンの享楽をめぐる二つの語彙とクロソウスキーのニーチェ論の文を並べてみよう。

まずラカンによる「享楽への意志 volonté de jouissance」と「享楽回帰 retour de la jouissance」。

大他者の享楽の対象になること être l'objet d'une jouissance de l'Autre、すなわち享楽への意志 volonté de jouissance が、マゾヒスト masochiste の幻想 fantasmeである。(ラカン、S10, 6 Mars l963)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

そしてクロソウスキー解釈によるニーチェの「権力への意志 volonté de puissance」と「永遠回帰 Éternel Retour」。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

ラカンの「享楽回帰」・「享楽への意志」は、死の欲動という原マゾヒズム(苦痛のなかの快)である。他方、ニーチェの「永遠回帰」・「権力への意志」は、至高の欲動である。

ここで先ほど引用した「酔歌」の次の文を加えて読むと、ふたりはほとんど同じことを言っているようにみえる。

享楽 lust は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)


2017年10月21日土曜日

蚊遣線香の匂い

視覚の感受性、聴覚の感受性、嗅覚の感受性など、それぞれ作家には感度の鋭さや鈍さがあるだろう。どの作家に惹かれるのかは、これもまた読者の感受性による。たとえば谷崎潤一郎は触覚の作家だろう。一般に視覚の作家が愛でられることの多いのは、読み手も視覚の感受性が他の感受性に比べて際立つひとが多いせいではないか。

成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体harmonious mix-upの感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」2002年初出『徴候・記憶・外傷』)

⋯⋯⋯⋯

たとえばわたくしは、こう書く吉行淳之介がひどく好きだ。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『『砂の上の植物群』)

あるいはこう書くプルーストが。

……彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)

さらには、《その光は、ほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ》と書いたロラン・バルトが。

……私の二番目の南西部は一つの地方ではない。一つの線、体験したことのある一つの道のりだ。パリから自動車できて(この旅はいく度も繰り返している)アングレームを過ぎると、ある兆で私は自分が家の敷居をまたいで、幼児期の郷里に入ったことを知らされる。それは、道の脇の松林、家の中庭に立つ棕櫚の木、地面に影をおとして人間の顔のような表情を映し出す独特の雲の高さ。そこから南西部の大いなる光が始まる。高貴でありながら同時に繊細で、決してくすんだり淀んだりしない光(太陽が照っていないときでさえ)。それはいわば空間をなす光で、事物に独特の色あいを与える(もう一つの南部はそうだが)というより、この地方をすぐれて住み心地のよいものにするところに特徴がある。明るい光だ、それ以外にいいようがない。その光はこの土地でいちばん季節のいい秋にみるべきだ(私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ)。液体のようで、輝きがあり、心を引き裂くような光、というのも、それは一年の最後の美しい光だから。(ロラン・バルト「南西部の光」)

あるいはまた「女から発散するにおい」を書いた古井由吉が。

・石をおろしてひときわ深い息をついたとき、覚えのある甘い匂いが、怒った時も潤んだ時も同じ興奮した佐枝の匂いが、戸の内でもほのかにふくらんだ。

・佐枝が寄ってきて、背中の荷物を上手におろさせるとすばやく炉のほうへ押しやり、火照った頬を肩に埋めた。声が潤んで昨夜と同じ匂いをふくらませた。(古井由吉『聖』)

ボードレールを思いだしてもよい、《Aux émanations de ton corps enchanté》

両の眼を閉じ、………
お前の熱い乳房の匂いを嗅ぐと、
幸福の岸辺がひろがるのが見える

ーー「異国の薫り」Parfum exotique

ああ、さらには、ジボナノド・ダーシュ! 《知らなかった こんなにやわらかな匂いが立つとは 美しい女(ひと)の結いあげた髪に》 (『美わしのベンガル』)

《汗や脂や腋臭の粘り気のあるにおいと、食物が腐敗して行く死の繁茂のにおい》、あるいは《人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおい》を書いた金井美恵子だって好きだ。

腐敗した水のにおいだけではなく、路地の家々の壁には小便のにおいがしみついていて、粘り気のある有機質のにおいに混じったきな臭いアンモニアのにおいが充満してもいるのだ。腐敗した牛乳の匂いに似た、皮膚の表面から分泌する、汗や脂や腋臭の粘り気のあるにおいと、食物が腐敗して行く死の繁茂のにおいが建物の中庭に咲いているジャスミンと薔薇のにおいと混じりあり、甘ったるい吐き気のする睡気になって私の身体を包囲する。(金井美恵子『沈む街』)
(この中年男の)機械的に熱中ぶりを操作しているといったふうな長広舌が続いている間、わたしは濡れた身体を濡れた衣服に包んで、それが徐々に体温でかわくのをじっと待っていたが、部屋の空気は湿っていたし、それに、すり切れた絨毯や、 同じようにすり切れてやせた織糸の破れ目から詰め物とスプリングがはみ出ているソファが、古い車輌に乗ったりすると、時々同じようなにおいのすることのある、人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおいを発散させていたので、その鼻を刺激する醗酵性のにおいに息がつ まりそうになり、わたし自身の身体からも、同じにおいを発散させる粘り気をおびた汗がにじみだして来ては、体温の熱でにおいをあたりに蒸散させているよう な気がした。(金井美恵子『くずれる水』)

プルーストがいうように、《われわれの過去は、知性の領土の外、その勢力範囲の外で、何か思ってもみなかった物質的な対象の中に(その物質的対象が与えるであろう感覚の中に)隠されている》のである。

もちろん人には別々の「身体」がある。《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》(ロラン・バルト)。これは冒頭に掲げた文にある《どの作家に惹かれるのかは、これもまた読者の感受性による》にかかわる。

プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって記憶が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、記憶や欲望、死、不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それは匂いである。(『彼自身によるロラン・バルト』)

わたくしは下等人なのである。《見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう》。

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)

わたくしは、理知的な人、あるいは視覚偏重主義者を「にぶい」といってバカにすることがあるが、彼等はじつは「敬すべき」高等人なのである。連中は嗅覚や聴覚、触覚よりも視覚が《常に先に来るのである》。魂の中に先に書き込まれることはないのである。

弁証法に対する批判の全部を要約してプルーストが言うように、理知は常に先にくるのである l'Intelligence vient toujours avant。

『失われた時を求めて』においては、これとは全く同じではない。質的生成、相互融合、《不安定な対立 instable opposition》は、魂の状態の中に書き込まれる inscrits dans un état d'âme のであって、もはや、物や世界の状態の中に記されるのではない。夕陽の斜めの光線・匂い・味・空気の流れ・束の間の質的複合体は、それらが入り込んで行く《主観的側面 côté subjectif》においてのみ価値を持つはずである。それが、レミニサンス réminiscence が介入してくる理由である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)

もっとも視覚についても、高村光太郎のような言い方ができる(彼にとっては香も味も音楽もすべて「触覚」である)。

私は彫刻家である。 

多分そのせいであろうが、私にとって此世界は触覚である。触覚はいちばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的なものであると言える。彫刻はいちばん根源的な芸術である。

人は五官というが、私には五官の境界がはっきりしない。空は碧いという。けれども私はいう事が出来る。空はキメが細かいと。秋の雲は白いという。白いには違いないが、同時に、其は公孫樹の木材を斜に削った光沢があり、春の綿雲の、木曾の檜の板目とはまるで違う。考えてみると、色彩が触覚なのは当りまえである。光波の震動が網膜を刺戟するのは純粋に運動の原理によるのであろう。絵画に於けるトオンの感じも、気がついてみれば触覚である。口ではいえないが、トオンのある絵画には、或る触覚上の玄妙がある。トオンを持たない画面には、指にひっかかる真綿の糸のようなものがふけ立っていたり、又はガラスの破片を踏んだ踵のような痛さがあるのである。色彩が触覚でなかったら、画面は永久にぺちゃんこでいるであろうと想像される。(高村光太郎「触覚の世界」)

ーー《赤ちゃんが最初に子宮の中で自分を認識するのは指しゃぶりであり、自分の身体を触ることなんですよね。》(中井久夫「統合失調症の経過と看護」『徴候・記憶・外傷』所収)

だが母胎内では、指しゃぶり以前に、母の心音や血液の流れ、かつまた母の声を聴き(聴覚)、羊水に揺られ(振動覚)、またそのにおいを嗅いでいる(嗅覚)。すなわち触覚以前の根源的な感覚がある筈である。いやいや、これらも皮膚感覚(触覚)と言いうるかもしれない・・・

わたくしは「きのこの匂い」を書いた中井久夫がひどく好きだ。

……実際、背の下にふかぶかと腐葉土の積み重なるのを感じながら、かすかに漂う菌臭をかぎつつ往生するのをよしとし、大病院の無菌室で死を迎えるのを一種の拷問のように感じるのは、人類の歴史で野ざらしが死の原型であるからかもしれない。野ざらしの死を迎える時、まさに腐葉土はふかぶかと背の下にあっただろうし、菌臭のただよってきたこともまず間違いない。

もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収)

灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に
麦の穂や薔薇や菫を入れた
籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。
生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。

ーー西脇順三郎「秋」


世界は、《小雨が降り出して埃の香いがする》(西脇順三郎『第三の神話』)、すると神々しいトカゲが走るのである。 《軽やかな音もなく走りすぎていくものたち、 わたしが神々しいトカゲ göttliche Eidechsen と名づけている瞬間》(ニーチェ『この人を見よ』) の閃光が走るのである。

まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。

――わたしに何事が起ったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(『ツァラトゥストラ』第四部「正午」手塚富雄訳)

わたくしは、「匂いの記号論」を書いた「詩人」中井久夫がひどく好きだ。精神科医とは、なによりもまず詩人でなければならない。

無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S11)

ーー《ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。》(ラカン、S.24.1977)

最初の記憶のひとつは花の匂いである。私の生れた家の線路を越すと急な坂の両側にニセアカシアの並木がつづいていた。聖心女学院の通学路である。私の最初の匂いは、五月のたわわな白い花のすこしただれたかおりであった。それが三歳の折の引っ越しの後は、レンゲの花の、いくらか学童のひなたくささのまじる甘美なにおいになった。

家が建て込むにつれてレンゲは次第に私の家のあたりから影をひそめたが、家々がきそって花壇をつくるので、ことに三月下旬の初めごろの散歩は、次々にちがう花のかおりに祝われた祝祭となった。色彩も夕暮にはアネモネの赤が沈み、レンギョウの黄がはげしい自己主張をした。

青年時代の京都の生活は、腐葉土のかもしだす共通感覚、すなわち、いくばくかのキノコのかおりと焦げた落葉のにおいと色々の人や動物の体臭のごときものとを交え、さらに水の流れなくなってまだ乾かないうちの石づくりの流水溝の臭気を混ぜたうえで、冷気としめり気とをあたえてひんやりさせ、地を低くはわせたときの共通感覚と切り離すことができない。もっとも同じ京都とはいえ、嵐山のあたりは少しちがって、ある歯切れのよさがある。定家の晩年の歌にはそれを反映したものがあると私は思う。また西山の竹林の竹落葉には少しちがったさわやかさがあって私の好みではあるが、触発される思考の種類さえ京都の東部とは変わってしまう。

これに対して中年期の東京の私の記憶は、何よりもまず西郊の果樹の花のかおり、それも特に桃と梨の花の香と確実にむすびついている。蜜蜂の唸りが耳に聞こえるようだ。むろん、風の匂いは鉄道沿線によって少しずつ異なる。おそらく、その差異の基礎は、土のかおりのちがいであろう。国分寺崖線を境に土の匂いがはっきり異なって、私は、その南側のかおりの記憶のほうに親しみを感じる。国立、小平の家の庭の土と、調布上石原のあたりの土のかおりの差を感じないひとはあるまい。

立川段丘は地元で「ハケ」と呼ばれ、狛江から始まって、特に谷保のあたりでは立派な森になっている。樹種が多いのはむかしの洪水によって流れついたものの子孫だからであろう。ハケ下の小さな、今ではほとんど下水になっている流れが二千年前の多摩川である。川越からその北にかけてのさまざまな微高地の上に生えていた(今でもあるであろうか)樹々のつくる森とは、同じ腐葉土でも、かおりが決定的にちがう。秋にはハケの上の茂みにアケビが生った。珍しい樹種に気づいて驚くこともあった。私の住んだ団地の植栽はずいぶん各地から運んだらしく、ついてきて、頼まれないのに生えている植物を、日曜日ごとに同定してまわったら、六〇種を越えた。ハケの森の樹種はもっと多種だろう。

嗅覚はよくわからない、と首をかしげられる方は視覚のほうなら納得されるだろう。

まず中央線沿線の最初の印象は、長い水平の線が多いということだった。縦の線は短く、挿入されるだけである。これはたしかに譜面の与える印象に近い。京王線では、何よりもまず、葉を落とし尽した欅の樹がみごとな扇形を初冬の空に描いている。もっとも、分倍河原駅を出て多摩川を南西に越えると、匂いも視覚も一変する。小田急線は、多摩川を越えて読売ランドの南側の「多摩の横山」を背にした狭隘地を抜けると次第に匂いが変化して、京王線の西部のかおりに近づく。

もっとも、小田急線は長く、さまざまの文化を通過し、車窓の風の香もつぎつぎに変化する。本線が小田原に向かって大山を背に南下するところ、酒匂川が豊かな水量の布を盛大に流している、二宮尊徳の生家の東がわの、見えない海のかおりが、もうかすかに混じるのを感じさせるところに来るとほっとする。

塩味のまったくない空気は、どうも私を安心させないらしい。鎌倉の最初の印象は、“海辺にある比叡山”であった。ふとい杉の幹のあいだの砂が白かっただけではない。比叡の杉を主体とした腐葉土の匂いが、明らかに海辺の、それもほとんど瀬戸内海の夏の匂いでしかありえないものとまじるのが驚きのもとであった。もっとも、比叡山のかおりにも、杉とその落葉のかおりにまじって、琵琶湖の水の匂いが、なくてはならない要素である。この水の匂いゆえに、京都時代の私は、しばしば、滋賀県に出て屈託をいやした。比良山は、六甲山に似て、草いきれがうすく、それでいてわびともさびともちがう、淡いながらに何かがたしかにきまっているという共通感覚をさずけられるのが好きであった。好ましく思うひとたちとでなければ登りたくない山であった。

ふつうは「匂いの記号論」とよばれるであろうか、実はそれを問題にしたところの個人史の一部をここに終る。本稿もこれで終りである。近畿のひとには、神社の森ごとにちがうかおりを語ればいちばんわかってくださるであろう。(中井久夫「世界における索引と徴候」)





2017年10月20日金曜日

すべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうる

一人しかいない筈の子供について、《私の女房は前夫との間に二人の子供がある》等々と書いた安吾(1950年)は妄想期だったのかな、とふと考えた。

もう大分以前から彼は人に逢いたがらなかったのだが、私も彼を人に逢わせたくなかった。あさましい位、彼の外貌は変り果ててゆき、人の言葉をまともに聞くことはなくなった。すべては陰謀としか思えないらしく、私がそのあやまりを正すと悪鬼の如く、いかりたけると云うふうになり、当時の女中さんのしいちゃんは私の手下で、私としいちゃんとはしじゅぅ陰謀をはかり奸計をめぐらしていると云うふうにとるようになった。私が彼に出来ることは、彼の云いなりになると云うこと以外には何もない。
読まれない新聞が、彼の枕元にうず高くつまれ、ふと気がついて、彼がその新聞をとりあげ、片目をつぶり、日付を見て、こんなはずはないと云い出す。誰々が来て、それから三十分ほどねむっただけなのに、あれからもう一週間もたっていると云う法はないと云い出すのだった。新聞の日付迄、私や女中が按配すると思い込んだりした。(坂口三千代『クラクラ日記』)

冒頭の文章が書かれている安吾の『我が人生観 (一)生れなかった子供』(1950年)は精神病院入院前だったのか、とwikiを眺めてみると、1949年(昭和24年)2月23日に 東京大学医学部附属病院神経科に入院し、4月に自主退院しているようだ。だが1950年にも中毒症状の発作を起こしている、とは記されている。

ーーということはどうでもよくなり、wikiの坂口安吾の項で、三島由紀夫のとても美しい文章に出会った。

坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。底の底まで見透かしてゐたから、明るくて、決してメソメソせず、生活は生活で、立派に狂的だつた。坂口安吾の文学を読むと、私はいつもトンネルを感じる。なぜだらう。余計なものがなく、ガランとしてゐて、空つ風が吹きとほつて、しかもそれが一方から一方への単純な通路であることは明白で、向う側には、夢のやうに明るい丸い遠景の光りが浮かんでゐる。この人は、未来を怖れもせず、愛しもしなかつた。未来まで、この人はトンネルのやうな体ごと、スポンと抜けてゐたからだ。太宰が甘口の酒とすれば、坂口はジンだ。ウォッカだ。純粋なアルコホル分はこちらのはうにあるのである。(三島由紀夫「内容見本」(『坂口安吾全集』推薦文))

いやあじつに美しい。これでいいのである、ひとはこういう風に安吾を読んだらいいのである。風が吹きとおる、そして向こうの路地奥から光が差してくる。そしてそこに「柿の木」がみえたらいいのだ。

路地を通り抜ける時試に立止って向うを見れば、此方は差迫る両側の建物に日を遮られて湿っぽく薄暗くなっている間から、彼方遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくっきり限られて、いかにも明るそうに賑かそうに見えるであろう。殊に表通りの向側に日の光が照渡っている時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度燈火に照された演劇の舞台を見るような思いがする。(永井荷風『日和下駄)』

谷川俊太郎は、散文をバカにして「柿の木」を語っているが、荷風の随筆や安吾の短編による「柿の木」だってとってもいいさ。

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

ーー谷川俊太郎「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」  

とはいえわたくしの場合は、向こうにあるのは《ガランとしてゐて、空つ風が吹きとほつて》という具合にはいかず、古い屋敷の庭にあった、重苦しい「樟の木のざわめき」なんだが。


ここで、わたくしの好きな、《すべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうる》とするフーコーの文をも掲げておこう。

私を驚かせることは、私たちの社会において、芸術がもはや事物 objets としか関係しておらず、諸個人または生と関係していないということです。そしてまた,芸術が特殊なひとつの領域であり、芸術家という専門家たちの領域であるということも私を驚かしました。しかしすべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうるのではないでしょうか。なぜ,ひとつの画布あるいは家は芸術の対象 objets であって、私たちの生はそうではないのでしょうか。 (Michel Foucault (1984) , ≪À propos de la généalogie de l'éthique : un aperçu du travail en cours ≫,(1994) DITS ET ECRITS, TomeⅣ, p.617(守中高明訳(2002) , 「倫理の系譜学について─進行中の作業の概要」 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅹ』)

安吾の『続堕落論』には、こう書かれている。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。

「堕落」などという語を使わないまでも、個人のの生が「芸術作品」 でありうるのは、まずなによりも、この「善人」から逃れることではあろう。




2017年10月19日木曜日

《触るなかれ!》

タンブラーでマン・レイの1933年の作品に行き当たった(シュールレアリストたちの雑誌に掲載されたもの)。



次は、1930年の作品。




どちらが先行して制作されたのかはわからないが、わたくしは、すぐさまジャコメッティの「宙吊りになった玉 Boule suspendue」(1930)を想い起した。


(Alberto Giacometti - Boule suspendue (Suspended Ball) 1930-1931)

1930 年代にアルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)がパリで制作した彫刻作品の多くは、当時の芸術家達との関わりから、「シュルレアリスム期」として位置づけられる。中でも 30 年 4 月に発表 された『吊るされた球』(Boule suspendue 1930-31)は、後にブルトンによって買い上げられ、彼の死までアトリエの壁の中央に置かれていた。また、ダリがこの作品を「象徴的作用のためのオブジェ」 と呼び、「欲望とエロティックな幻想を引き出す」と表現したことにより、当時のシュルレアリスト達のフロイト的な見方を助長することになった。(藤本玲「アルベルト・ジャコメッティにおける「宙吊り」の問題」、pdf)



ジャコメッティは娼婦以外はインポテの時期があった。

娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(James Lord、Giacometti portraitより)

とはいえ、アレはどの男にとって怖いのである。いわゆる魅惑と戦慄である。宙吊りの玉 Boule suspendue はヴァギナデンタータ Vagina dentata にきまっているのである。

宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………

社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア「性のペルソナ」ーー縄文ヴァギナデンタータ

美、それは《恐るべきものの始まり》(リルケ、ドゥイノ)であり、《触るなかれ! beau : ne touchez-pas 》(ラカン)である。

美は、欲望の宙吊り suspendre・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。

…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7)

オッカサマが恐いとヴァギナデンタータはよりいっそう怖くなるのである(参照「ジャコメッティと女たち」)




身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り食おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret

信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っています。それはあなたがたも知っているとおりです。(『ベトロの手紙,五八』)

ラカンの名高い鰐の口は、もちろんこのペテロの手紙が起源である。

ーー《ラカンの母は quaerens quem devoret と一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として》(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である

やあ、私は人を安堵させる rassurant 何ものかを説明しようと試みている。…単純な事を言っているんだ(笑 Rires)。私は即席にすこし間に合わせを言わなくちゃならない(笑Rires)。

シリンダー rouleau がある。もちろん石製で力能がある。それは母の顎の罠にある。そのシリンダーは、拘束具 retient・楔 coinceとして機能する。これがファルス phallus と呼ばれるものだ。シリンダーの支えは、あなたがパックリ咥え込まれる tout d'un coup ça se refermeのから防御してくれるのだ。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


(Alberto Giacometti's Woman with Her Throat Cut ,1932)

ーージャコメッティが、この作品の真の名を隠蔽したのは歴然としている・・・

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねに fascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(ポール・バーハウ1995, Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL1995)

女たちとは、遠くから眺めるのが一番である。





2017年10月18日水曜日

オッカサマという「ふるさと」

いやあ、なにか言ってくるヤツがいるかなと心配したが、すぐに言ってくるんだな、どうせファルス秩序の囚人だろ

十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。(坂口三千代『クラクラ日記』ーーオッカサマがオレを助けに来て下さる

で、なにが問題なんだい? こんなことはまともに「深淵」を見詰めたものには誰にでもある、《おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。》(ニーチェ『善悪の彼岸』146節)

たとえば終生「知的」であった小林秀雄にもな、《おっかさんという蛍が飛んでいた》

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。(……)

母が死んだ数日後の或る日、妙な体験をした。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。

ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に付する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。

以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直接か経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。という事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。(小林秀雄「感想」)

小林秀雄が「童話」という言葉を出してるようにおっかさんに「文学のふるさと」があるのさ→冥府という「ふるさと」、わかんねえだろうよ、お前さんには。

もちろん真顔でいえば「おっかさん」とはイマジネールなおっかさんではない。安吾や小林の発言はその隠された「真意」を読みとらねばならない。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ま、世界には三人目の女のことにまったく関知しない木瓜が跳梁跋扈しているのは知ってるさ、

ここに描かれている三人の女たちは、男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。すなわち、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女 Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin である。

あるいはまた、人生航路のうちに母の形象が変遷していく三つの形態であることもできよう。すなわち、母それ自身 Die Mutter selbst、男が母の像を標準として選ぶ愛人 die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 die Mutter Erde, die ihn wieder aufnimmt である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、女の愛 Liebe des Weibes をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者 die dritte der Schicksalsfrauen、沈黙の死の女神 die schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』、1913)

ま、巷間の学者だって大半三人目の女に関知してないから、どこかの馬の骨がそうであっても仕方がないがね、

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

いずれにせよ「最も静かな時刻」を知らない連中とかかわりあいたくはないね、正午の刻限を知らないヤツとはな、《正午にそれは起こった。「一」は「二」となったのである。Um Mittag war's, da wurde Eins zu Zwei...》(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年「高き山々の頂きから Aus hohen Bergen」)

だいたいオレが《触らないで、というものを身に纏っている 処女》(ケベード)なのがわかんねえのかな、それを不感症だっていうんだよ

36歳のとき、わたしは、わたしの活力の最低点に落ちこんだーーまだ生きてはいたものの、三歩先を見ることもできなかった。当時――1879年のことだったーーわたしは、バーゼルの教授職を退いて、夏中まるで影のようにサン・モーリッツで過ごした。が、それにつづく、わたしの生涯でもっとも日光の希薄であった冬には、ナウムブルクで影そのものとして生きた。これがわたしの最低の位置だった。『さすらい人とその影』が、その間に生まれた。疑いもなく、わたしは当時、影とは何かをよく知っていたのである……(ニーチェ『この人を見よ』)
人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『さすらい人とその影』308番)
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)

2017年10月17日火曜日

オッカサマがオレを助けに来て下さる

私が精神病院へ入院したとき小林秀雄が鮒佐の佃煮なんかをブラ下げて見舞いにきてくれたが、小林が私を見舞ってくれるようなイワレ、インネンは毛頭ないのである。これ実に彼のヤジウマ根性だ。精神病院へとじこめられた文士という動物を見物しておきたかったにすぎないのである。一しょに檻の中で酒をのみ、はじめはお光り様の悪口を云っていたが、酔いが廻るとほめはじめて、どうしても私と入れ代りに檻の中に残った方が適役のような言辞を喋りまくって戻っていった。

ヤジウマ根性というものは、文学者の素質の一つなのである。是非ともなければならない、という必須のものではないが、バルザックでも、ドストエフスキーでも、ヤジウマ根性の逞しい作家は、作家的にも逞しいのが通例で、小林と福田は、日本の批評家では異例に属する創造的作家であり、その人生を創造精神で一貫しており、批評家ではなくて、作家とよぶべき二人である。そろって旺盛なヤジウマ根性にめぐまれているのは偶然ではない。

しかし、天性敏活で、チョコ〳〵と非常線をくぐるぐらいお茶の子サイサイの運動神経をもつ小林秀雄が大ヤジウマなのにフシギはないが、幼稚園なみのキャッチボールも満足にできそうにない福田恆存が大ヤジウマだとは意外千万であった。(坂口安吾『安吾巷談 07 熱海復興』)

⋯⋯⋯⋯

さて「『青鬼の褌を洗う女』のモデル」等にて引用を控えた『クラクラ日記』の残余の「愉快な」文ーーくり返せば、わたくしは手元にこの書がなくネット上から拾ったものであり、正確な引用がなされているものなのか否かは分からないことを断っておくーーをここに掲げる。もちろん冒頭に示唆したとおり、ヤジウマ根性からである。

彼はいかり狂ってあばれまわり始めると、必ずマッパダカになった。寒中の寒、二月の寒空にけっして寒いとも思わぬらしかった。皮膚も知覚を失ってしまうものらしい。それで恥ずかしいとも思わぬらしいのだが、私は恥ずかしかった。女中さんの手前もあるし、私は褌を持って追いかけて行く。重心のとれないフラフラと揺れる体に褌をつけさせるのは容易ではなかった。身につける一切のものはまぎらわしく汚らわしくうるさいと思うらしかった。折角骨を折ってつけさせてもすぐにまた取りさって一糸纏わぬ全裸で仁王さまのように突っ立ち、何かわめきながら階段の上から家財道具をたたき落とす。階段の半分くらい、家財道具でうずまる。
もう大分以前から彼は人に逢いたがらなかったのだが、私も彼を人に逢わせたくなかった。あさましい位、彼の外貌は変り果ててゆき、人の言葉をまともに聞くことはなくなった。すべては陰謀としか思えないらしく、私がそのあやまりを正すと悪鬼の如く、いかりたけると云うふうになり、当時の女中さんのしいちゃんは私の手下で、私としいちゃんとはしじゅぅ陰謀をはかり奸計をめぐらしていると云うふうにとるようになった。私が彼に出来ることは、彼の云いなりになると云うこと以外には何もない。
代りに用いていたものは、喘息の薬のセドリソと云う覚醒剤であった。朝から少量ずつ飲んで昼も少量飲み、それが蓄積されてやっと夕刻頃効いてくると云う薬だった。疲れて休息したい神経をむりやりたたきおこす薬で、二日でも三日でも徹夜に耐えうる神経にするための薬だ。そう云う薬で無理無態に仕事をしようとしていた。

(⋯⋯)睡眠薬と覚醒剤を交互に常用しているうちに、その性能が全く本来の姿とは異り、まるでアベコベに作用するようになっていた。すなわち睡眠剤を飲めば狂気にちかくなり、覚醒剤を飲んでモーローとするようになっていた。
十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。
おかしかったのは、小林秀雄さんがお見舞に見えた時で、持続睡眠療法がおわり、後遺症状が未だ残っていて、毎日相当量のブドウ糖を打っていた時だが、彼がドモって思うように口がきけないのにひきかえ、小林さんにペラペラとベランメエでまくしたてられて、数十回も「テメエは大馬鹿ヤロウだ」といわれていた時だった。彼が何かドモリながら口をきこうとすると、小林さんはおっかぶせるように「テメエは大馬鹿ヤロウだよ」と追打ちをかけるものだから、しまいに彼が幾らか気の毒にもなった。

小林さんはドストエフスキーやゴッホのお話をしていたようだったが、ゴッホも分裂症だといわれているがテンカンではなかったかというようなことで、私にはむずかしすぎるのでよく覚えていない。小林さんは本郷に下宿していらした学生時代に、「毎日ベントウのオカズになっとうを一本ぶらさげて大学に通ったもんだよ」とおっしゃっていたのが印象に残っている。キリキリとひきしまった浅黒い顔が急に若い学生の小林さんの顔にみえ、その当時もこんなにきつい印象だったんだろうかと思ったりした。お土産の「鮒佐」のつくだ煮はおいしかったが、彼は小林秀雄は粋な人だから、といっていた。数十回の「テメエは大馬鹿ヤロウだ」が実は小林さん一流の励ましの文句であった。彼は終始嬉しそうにニコニコしていた。(坂口三千代「クラクラ日記」)

「おい、三千代、ライスカレーを百人前……」
「百人前とるんですか?」
「百人前といったら、百人前」
 云い出したら金輪際後にひかぬから、そのライスカレーの皿が、芝生の上に次ぎ次ぎと十人前、二十人前と並べられていって、
「あーあ、あーあ」
 仰天した次郎が、安吾とライスカレーを指さしながら、あやしい嘆声をあげていたことを、今見るようにはっきりと覚えている。(檀一雄『小説 坂口安吾』)

檀家の庭の芝生にアグラをかいて、坂口はまっさきに食べ始めた。私も、檀さんたちも芝生でライスカレーを食べながら、あとから、あとから運ばれて来るライスカレーが縁側にズラリと並んで行くのを眺めていた。

当時の石神井では、小さなおそばやさんがライスカレーをこしらえていて、私が百人まえ注文に行ったらおやじさんがビックリしていたがうれしそうにひき受けた。(坂口三千代『クラクラ日記』)

⋯⋯⋯⋯

ーーと引用して想い出したので、三人の作家の文を掲げておく。

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五)
身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)
認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうからだ。(……)

私は、偉大で魔力的な美の小道で数々の冒険を仕遂げて、『人間』を軽蔑する誇りかな冷たい人たちに目をみはります。-けれども羨みはしません。なぜならも し何かあるものに、文士を詩人に変える力があるならば、それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。 すべての暖かさ、すべての善意、すべての諧謔はみなこの感情から流れ出てくるのです。(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』)

とはいえ、こうも引用しておかねばならない。

……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)



『青鬼の褌を洗う女』のモデル

以下、ほぼ引用の列挙である。

まず『クラクラ日記』と『青鬼の褌を洗う女』から二つの文を並べる。

私くらいお前を愛してやれる者はいないよ。お前は今より人を愛す事があるかも知れないけど、今よりも愛される事はないよ」それは説得するような調子であった。私はしかし、それが本当の事だろうと思う。彼よりも私を愛してくれる人に再び会う事はないだろうと思う。 (坂口三千代『クラクラ日記』)
終戦後、久須美は私に家をもたせてくれたが、彼はまったく私を可愛がってくれた。そしてあるとき彼自身私に向って、君は今後何人の恋人にめぐりあうか知れないが、私ぐらい君を可愛がる男にめぐりあうことはないだろうな、といった。 

私もまったくそうだと思った。久須美は老人で醜男だから、私は他日、彼よりも好きな人ができるかも知れないけれども、しかしどのような恋人も彼ほど私を可愛がるはずはない。(⋯⋯)

私は誰かを今よりも愛すことができる、しかし、今よりも愛されることはあり得ないという不安のためかしら。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』 初出:1947年10月5日)

坂口三千代さんが安吾の小説の叙述に引き摺られて回想録を書いたという可能性をまったく否定するつもりはないが、(ここでは素直に読めば)『クラクラ日記』の上の文は、『青鬼』とそっくりである。

『クラクラ日記』には、『青鬼』のモデルは三千代さん自身だという示唆がある(30年ほどまえにざっと読んだだけで手元にこの書がなく、殆どその内容を失念しているが、ネット上で探る範囲ではそうらしい)。

作中、安吾が新作の自著短篇小説『青鬼の褌を洗う女』の掲載された雑誌を三千代に差し出し、主人公は三千代がモデルであることを安吾が示唆する場面がある。掲載誌の発行日(1947年10月5日)から、1947年10月初旬のできごとである。同年、安吾と三千代は正式に結婚する。(WIKI「クラクラ日記」の項

だが安吾は次のように書いている。

「青鬼の褌を洗う女」は昨年中の仕事のうちで、私の最も愛着を寄せる作品であるが、発表されたのが、週刊朝日二十五週年記念にあまれた「美と愛」という限定出版の豪華雑誌であったため、殆ど一般の目にふれなかったらしい。私の知友の中でも、これを読んだという人が殆どなかったので、淋しい思いをしたのであった。(……)

「青鬼の褌を洗う女」は、特別のモデルというようなものはない。書かれた事実を部分的に背負っている数人の男女はいるけれども、あの宿命を歩いている女は、あの作品の上にだけしか実在しない。(坂口安吾「わが思想の息吹」1948)

基本的には安吾のいうのが「正しい」だろう。たとえばプルーストは次のように記している。

文学者はひとたび書けば、その作中の諸人物の、身ぶり、独特のくせ、語調の、どれ一つとして、彼の記憶から彼の霊感をもたらさなかったものはないのである。つくりだされた人物の名のどれ一つとして、実地に見てきた人物の六十の名がその下敷きにされていないものはなく、実物の一人は顔をしかめるくせのモデルになり、他の一人は片めがねのモデルになり、某は発作的な憤り、某はいばった腕の動かしかた、等々のモデルになった。 (プルースト「見出された時」)

とはいえ、『青鬼の褌を洗う女』には、三千代さんのことが直接的に書かれていると思われる叙述がふんだんにある。

私は病気の時ですら、そうだった。私は激痛のさなかに彼を迎え、私は笑顔と愛撫、あらゆる媚態を失うことはなかった。長い愛撫の時間がすぎて久須美が眠りについたとき、私は再び激痛をとりもどした。それはもはや堪えがたいものであったが、私はしかし愛撫の時間は一言の苦痛も訴えず最もかすかな苦悶の翳によって私の笑顔をくもらせるようなこともなかった。それは私の精神力というものではなく、盲目的な媚態がその激痛をすら薄めているという性質のものであった。七転八倒というけれども、私は至極の苦痛のためにある一つの不自然にゆがめられた姿勢から、いかなる身動きもできなくなり、生れて始めて呻く声をもらした。久須美は目をさまし、はじめは信じられない様子であったが、慌てて医師を迎えたときは手おくれで、なぜなら私はその苦痛にもかかわらず彼が自然に目をさますまで彼を起さなかったから、すでに盲腸はうみただれて、腹の中は膿だらけであり、その手術には三時間、私は腹部のあらゆる臓器をいじり廻されねばならなかった。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』1947年)

この文は、1950年に書かれた次のエッセイ風文とともに読むことができる。
 
私は元々、女房と一しょに住むつもりではなかったのである。私はどのような女とでも、同じ家に住みたいと思っていなかった。 

私は彼女に云った。

「家をかりてあげる。婆やか女中をつけてあげる。私は時々遊びに行くよ」 

彼女はうなずいた。私たちは、そうするツモリでいたのである。

ところが、彼女をその母の家から誘いだして、銀座で食事中に、腹痛を訴えた。医者に診てもらうようにすすめたが、イヤがるので、私の家につれてきて、頓服をのませて、ねかせた。一夜苦しんでいたのだが、苦しいかときくと、ニッコリしてイイエというので、私は未明まで、それほどと思わなかった。超人的なヤセ我慢を発揮していたのである。私が未明に気附いた時には、硬直して、死んだようになっていた。
女房は腹膜を併発して一月余り入院し、退院後も歩行が不自由なので、母のもとへ帰すわけにいかず、私の家へひきとって、書斎の隣室にねかせて、南雲さんの往診をうけた。やがて、人力車で南雲さんへ通うことができるようになったが、部屋の中で靴をはいて纏足の女のような足どりで、壁づたいに一周したり、夜更けに靴をだきしめて眠っているのを見ると、小さな願いの哀れさに打たれもしたが、それに負けてはいけないのだ、という声もききつづけた。
 
しかし、こういう偶然を機会に、女房はズルズルと私の家に住みつくことゝなったのである。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年)

次の文は、三千代さんが安吾に向けて似たような形で言ったのかどうかは判然としないが、すくなくとも安吾が青鬼の主人公になりかわって自己批評しているという風に読めないでもない。

私は知っている。彼は恋に盲いる先に孤独に盲いている。だから恋に盲いることなど、できやしない。彼は年老い涙腺までネジがゆるんで、よく涙をこぼす。笑っても涙をこぼす。しかし彼がある感動によって涙をこぼすとき、彼は私のためでなしに、人間の定めのために涙をこぼす。彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。 

私はだから知っている。彼の魂は孤独だから、彼の魂は冷酷なのだ。彼はもし私よりも可愛いい愛人ができれば、私を冷めたく忘れるだろう。そういう魂は、しかし、人を冷めたく見放す先に自分が見放されているもので、彼は地獄の罰を受けている、ただ彼は地獄を憎まず、地獄を愛しているから、彼は私の幸福のために、私を人と結婚させ、自分が孤独に立去ることをそれもよかろう元々人間はそんなものだというぐらいに考えられる鬼であった。

しかし別にも一つの理由があるはずであった。彼ほど孤独で冷めたく我人ともに突放している人間でも、私に逃げられることが不安なのだ。そして私が他日私の意志で逃げることを怖れるあまり、それぐらいなら自分の意志で私を逃がした方が満足していられると考える。鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった。そしてそんなことができるのも、彼は私を、現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私は、ていのよいオモチャの一つであるにすぎないせいでもあった。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』)

ーー《鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった》という表現があるのに注目しておこう。

安吾は、矢田津世子を理想化した(参照:「ふたつの理想化(菊乃と津世子)」)。

男性作家たちは女に勝手な夢を託したり、女を勝手に解釈したりしてきたが、彼らが描いた 夢の女と現実の女性との距離の大きさこそが、男の内面の風景を絢爛たるものにしたのだ。( 水田宗子『物語と反物語の風景─文学と女性の想像力』1993 年)

『青鬼』の一か月前に『理想の女』というエッセイが発表されている。

⋯⋯私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。 

私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。

私といへども、私なりに、ともかく、理想の女を書きたいのだ。否、理想の人間を、人格を書きたいのだ。たゞ、それを書かうと希願しながら、いつも、醜怪なものしか書くことができないだけなのだ。 

虚しい一つの運動であるか。死に至るまで、徒に虚しい反覆にすぎないのか。書き現したいといふこと、意慾と、そして、書きつゞけるといふ運動を、ともかく私は信じてゐるのだ。それが私のものであるといふことを。(坂口安吾『理想の女』 初出:1947年(昭和22)年9月1日発行「民主文化 第二巻第六号」中外出版)

安吾は最後まで最も気に入った作品は『青鬼』だったそうだが、矢田津世子の理想化から逃れる試みとしてこの作品はあったとすることができるかもしれない。いや「青鬼の褌を洗う女」こそ真の「理想の女」を書く試みだったかも。

このまま、どこへでも、行くがいい。私は知らない。地獄へでも。私の男がやがて赤鬼青鬼でも、私はやっぱり媚をふくめていつもニッコリその顔を見つめているだけだろう。私はだんだん考えることがなくなって行く、頭がカラになって行く、ただ見つめ、媚をふくめてニッコリ見つめている、私はそれすらも意識することが少くなって行く。

私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』)

数年後のエッセイには次のようにある。

私の女房は(⋯⋯)私と一緒のうちも浮気をしない、浮気をする時は、別れる時だ、ということを、かなりハッキリ覚悟している女であった。
彼女の魂は比類なく寛大で、何ものに対しても、悪意が希薄であった。私ひとりに対してなら、私は苦痛を感じ、その偏った愛情を憎んだであろうが、他の多くのものにも善意と愛情にみちているので、身辺にこのような素直な魂を見出すことは、時々、私にとっては救いであった。 

私のようなアマノジャクが、一人の女と一しょに住んで、欠点よりも、美点に多く注意をひかれて、ともかく不満よりも満足多く暮すことができたというのは、珍しいことかも知れない。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年
浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」1951年

ーー愛妻物語の記述には、21世紀の現在なら大いに反撥が(なかんずくフェミニストたちなら)ありうるだろう。

歴史的に見れば、不在のディスクールは「女 la Femme」によって語りつがれてきている。「女」は家にこもり、「男」は狩をし、旅をする。女は貞節であり(女は待つ)、男は不実である(世間を渡り、女を漁る)。不在に形を与え、不在の物語を練り上げるのは女である。女にはその暇があるからだ。女は機を織り、歌をうたう。「糸紡ぎの歌」、「機織りの歌」は、不動を語り(「紡ぎ車」のごろごろという音によって)、同時に不在を語っているのだ(はるかな旅のリズム、海原の山なす波)。そこで、女ではなくて男が他者の不在を語るとなると、そこでは必ず女性的 féminin なところがあらわれることになる。待ちつづけ、そのことで苦しんでいる男は、驚くほど女性化 féminisé するのだ。男が女性化するのは、倒錯的になるinverti からでなく、恋をしている amoureux からである。(神話とユートピア、その起源は、女性的なところをそなえた主体 sujets en qui il y a du féminin のものであったし、未来もそうした人びとのものとなるだろう。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)「不在の人」)

矢田津世子との恋愛においては、安吾は《驚くほど女性化 féminisé 》している。それは滑稽なほどである(参照)。《愛は、男性において常にいささか滑稽である》。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

だが1947年以降の安吾はどうだっただろう?

わたくしは今なんらかの判断をするつもりはない。だが安吾にさえ「流行作家の宿命」の気配を読む人があっても不思議ではない・・・

文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。だが(⋯⋯)一人前の作家として世間に認められたとき、『遠因』が消え失せてしまう、とおもわせるところがある。(吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』

いずれにせよ、わたくしの偏った読み方からは、《二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう》が(おそらく流行作家の多忙のせいもあったのだろう)実現されなかったのが残念である。

六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。(安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語、初出1951年)
六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。

十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。

二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。

二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。

四十四が精神病院入院の年。(同上、1951年)

ーーもちろんたとえば1952年に書かれた『夜長姫と耳男』という「文学のふるさと」的傑作があるではないか、という安吾ファンがいるのを知らないわけではない。

⋯⋯⋯さてエッセイ『理想の女』に戻る。

批評家は、作家のめざしてゐるものを見よ。最高の理想をめざして身悶えながら、汚辱にまみれ、醜怪な現実に足をぬき得ず苦悶悪闘の悲しさに一掬の涙をそゝぎ得ぬのか。然り。そゝぎ得ぬ筈だ。おん身らは、かゝる苦闘を知らないのだから。日本文学の伝統などといふものを表面の字づらの上で読みとり、綴り合せて、一文を草することしか知らないのだから。 

島崎藤村や夏目漱石がロマンだなどゝは大間違ひです。彼らは、理想の女を書かうともしてゐないではないか。理想の女をもとめる魂、はげしい意慾のないロマンなどがあるものか。 

永井荷風が戯作者などゝは大嘘です。彼は理想の女をもとめてはゐない。現実の女を骨董品の如き好色慾をもつて紙上に弄んでゐるだけで、理想の女をもとめるために希願をこめて書きつゞけられた作品ではない。まだしも西鶴は八百屋お七を書いてゐる。(坂口安吾『理想の女』1947年)

安吾にとっての1947年ーー梶三千代との恋愛と結婚の年ーーは精神の高揚期である。

まことに、昭和二十二年は、坂口にとって画期的な年であった。長短あわせて六十余りの作品を書くという、彼の生涯の最も多産の年であり、また小説集八冊、評論集二冊(もちろん、それらに収められているのが、すべてこの年の作ではないにしても)の刊行も、彼の旺盛な創造のあとをしのばせるに十分だ。(兵藤正之助「坂口安吾論」)

ーーたしかに1947年は突出している。短いものだけではない。六十余りの作品のなかには探偵小説『不連続殺人事件』というひどく長い作品も含まれている( 参照:坂口安吾 全作品(小説・探偵小説・エッセイその他(発表年順)。

梶三千代とは1947年3月(あるいは4月)に出会っているそうだ(於新宿闇市のバー「チトセ」)。

今まで見た事もない顔だった。厳しい爽やかさ、冷たさ、鋭く徹るような、胸をしめつけられるような、もののいえなくなるような顔(『クラクラ日記』)

おそらく三千代さんとの出会いが安吾を支えたのだろう。

彼は亡くなるまで「青鬼の褌を洗う女」という作品を大切にしていた。それは作品の出来、不出来に関係はない。人に聞かれてあなたは御自分の作品中代表作はといわれると、「代表作などというものはないです。人が決めるものです」という。

ではお好きなのはと聞くと、「青鬼の褌を洗う女」という風に答える。

彼が時たま彼の部屋で仰向けに寝て「青鬼の褌」を読んでいるのを見た。

私はそんな時、私を愛しているからだろうか、と思ったりするのだが、違うかも知れないと思ったりもする。彼があの小説を愛するのは彼のあの当時の感動を愛しんでいるのかも知れないと思う。(坂口三千代「クラクラ日記」)

安吾は「魂の孤独」を語り続けて来た。

人性の孤独ということに就て考えるとき、女房のカツレツがどんなに清潔でも、魂の孤独は癒されぬ。世に孤独ほど憎むべき悪魔はないけれども、かくの如く絶対にして、かくの如く厳たる存在も亦すくない。僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるが故に、又、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。 

魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖せだ。僕はこの夏新潟へ帰り、たくさんの愛すべき姪達と友達になって、僕の小説を読ましてくれとせがまれた時には、ほんとに困った。すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。僕は僕の姪たちが、僕の処方の催眠薬をかりなくとも満足に安眠できるような、平凡な、小さな幸福を希っているのだ。(坂口安吾「青春論」初出1942年)
堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。 

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾「続堕落論」初出1946年)

名高い「文学のふるさと」ももちろん魂の孤独にかかわるだろう(参照:冥府という「ふるさと」)。

彼の孤独と向き合っていると、その淵の深さに身ぶるいすることがある。誰もひとを寄せ付けない。彼はいつもたった独りでいるような心のありさまで、お酒を飲んでわあわあと言ってる時でも、その奥にたった独りの彼が坐っている。私はそれをちゃんと見抜くことができる。私はいったい彼の何なんだろう。(坂口三千代『クラクラ日記』)


・彼の孤独と向き合っている私はやはり孤独であるのが当然だった。不思議なのは彼が悪鬼のように猛り狂う時、私のこの孤独感がふりおとされることだった。彼が私をののしりわめいている時、私はいつだって動転するが孤独ではなかった。

・彼が暴れ始めると相変わらず私は体が震えて足が変に軽くなってフワフワして来てしまう。もう、涙がふきこぼれてものも言えないということはなくなったが、馴れるということは絶対にできなかった。そのたびに私の心は宙に飛びあがってしまうのだ。

・彼が暴れる原因が何なのか、私にはわからなかった。 人間の心理としてはごく卑近なところのつまらないことに何か原因があったとしても不思議ではないから、あるいは私の故だろうかと思わずにいられない。

・いま考えれば貴方は死ぬためにもどられたようなものですね。十五日の晩おそくお勝手口の方からもどられて、「オーイ」と云ったのであわてて私はとび出して行きました。

そしておどろいたのは顔がちいさく茶いろく見えたことでした。つかれているなと思いました。鞄をあわてて受取ると「坊やは」とお聞きになった。「ええ起きておりますよ、待たしておいたのよ」と答えると、よほど嬉しかったらしく、何遍も坊やを抱きあげながら「よかった、よかった」とくりかえしおっしゃった。(坂口三千代『クラクラ日記』)


ーーこの写真は最晩年のものである(1954年(昭和29年)1月に二人のあいだに子供が出来ている。そして、安吾は1955年2月17日に脳出血で死んでいる)。

最後に中井久夫の二文を掲げておく。

作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。(中井久夫「創造と癒し序説」)
おそらく、諸外国の作家よりもわが国の、特に現代の作家の、自己破壊(自殺、中毒など)が少ないとすれば編集者との関係がより治療的であることもあるのではなかろうか。他方、わが国の著者はいささか幼児的ではないかという気もしないではないが、何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。実際、著者の「創造的退行」の「創造性」をどのように維持するかが、唯一人「現場に関与する者」である編集者の役割である。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

《鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった》という安吾の『青鬼』のなかの文章と、中井久夫の《多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している》とともに、あるいは《著者の「創造的退行」の「創造性」をどのように維持するかが、唯一人「現場に関与する者」である編集者の役割》における「編集者」を《青鬼の褌を洗う女》に置き換えて読んでみたくなる誘惑にかられないでもない。

2017年10月16日月曜日

荷風と安吾への同一化

まず、ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「同一化 Identifications」の項より。

いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似 analogies ではなく相同 homologies を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、双数構造 structure duelle のあるところならどこででもわたしを捕捉するのだ。さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気晴らしによって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人の内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうからだ。今や、この不幸の能動的主辞 agent actif はわたしである。わたしには自分が犠牲者であって同時に死刑執行人でもあると感じられる。

このバルトの「同一化」の項は、おそらくフロイトの次の記述を参照している筈である。

自我が同一化のさいに⋯⋯この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。(⋯⋯)そして、同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

フロイトは同一化するから同情する、と言っている。これは同一化するから愛する、と言い換えることもできる。人は、愛するから同一化するのはなく、同一化するから愛するのである。

ーー《フロイトが「一の徴 einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。》(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

われわれは、…次のように要約することができよう。第一 に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式であり、第二に、退行の道をたどっ て、同一化は、いわば対象を自我に取り入れる Introjektion ことによって、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代用物になり、第三に、同一化は性的衝動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じることである。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化 partielle Identifizieruitg は、ますます効果のあるものになるにちがいなく、また、それは新しい結合の端緒にふさわしいものになるにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

ーーフロイトにとって肝腎なのは「部分的な同一化 partielle Identifizieruitg 」である。

⋯⋯⋯⋯

わたくしは中年過ぎから(真に)愛するようになった(日本の)作家に永井荷風と坂口安吾がある。荷風は三十歳前後、安吾はつい最近(三年ほど前)である。

「好き」であるなら前からそうだったかもしれない。今言っているのは、ロラン・バルトのいう意味での「愛する」である。

ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな斑点 petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ーー《バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、オートマンとテュケーへの応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché》( jacques-alain miller 2011,L'être et l'un

※参照:プンクトゥム=テュケー

⋯⋯⋯⋯

以下、わたくしに強い同一化が起こった永井荷風と坂口安吾の文を掲げる(安吾は荷風を嫌っているが、それはどうでもよいことである)。


◆荷風『断膓亭日記』

大正七戊午年 (荷風歳四十)

八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〻に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。
昭和十二年 (荷風歳五十九)

三月十八日。くもりにて風寒し。土州橋に往き木場より石場を歩み銀座に飯す。家に帰るに郁太郎より手紙にて、大久保の母上重病の由報ず。母上方には威三郎の家族同居なるを以て見舞にゆくことを欲せず。万一の事ありても余は顔を出さざる決心なり。これは今日俄に決心したるにはあらず、大正七年の暮余丁町の旧邸を引払ひ築地の陋巷に移りし際、既に夙く覚悟せしことなり。余は余丁町の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日と思ひなせしなり。郁太郎方への二十年むかしの事を書送りてもせんなきことなれば返書も出さず。当時威三郎の取りし態度のいかなるかを知るもの今は唯酒井晴次一人のみなるべし。酒井も久しく消息なければ生死のほども定かならず。


◆坂口安吾「二十七歳」(1947年初出、安吾41歳)

英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。 

然し、決断がつかないうちに、手紙がきた。本のことにはふれてをらず、たゞ遊びに来てくれるやうにといふ文面であつたが、私達が突然親しくなるには家庭の事情もあり、新潟鉄工所の社長であつたSといふ家が矢田家と親戚であり、S家と私の新潟の生家は同じ町内で、親たちも親しく往来してをり、私も子供の頃は屡々遊びに行つたものだつた。私の母が矢田さんを親愛したのも、そのつながりがあるせゐであり、矢田さんの母が私を愛してくれたのも、第一には、そのせゐだつた。私は遊びに行つた始めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のやうな食卓で、酒を飲まされて寛いでゐた。 

その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まつたく、一睡もできなかつた。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のやうに映り、私の頭は割れ裂けさうで、そして夜明けが割れ裂けさうであつた。 

この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかつたが、私にとつてはすでに得恋の歓喜であつた)は、私の始めての経験だから、これは私の初恋であつたに相違ない。然し、この得恋の苦しみ、つまり恋を得たゝめに幾度かゞ眠り得なかつた苦しみは、その後も、別の女の幾人かに、経験し、先ほどの二人の女のいづれにも、その肉体を始めて得た日、そして幾夜か、睡り得ぬ狂気の夜々があつた。得恋は失恋と同じ苦痛と不安と狂気にみちてゐる。失恋と同じ嫉妬にすら満ちてゐる。すると、その翌日は手紙が来た。私はその嬉しさに、再び、ねむることができなかつた。 

そのころ「桜」といふ雑誌がでることになつた。大島といふインチキ千万な男がもくろんだ仕事で、井上友一郎、菱山修三、田村泰次郎、死んだ河田誠一、真杉静枝などが同人で、矢田津世子も加はり、矢田津世子から、私に加入をすゝめてきた。私は非常に不快で、加入するのが厭だつたが、矢田津世子に、あなたはなぜこんな不純な雑誌に加入したのですか、ときくと、あなたと会ふことができるから、と言ふ。私は夢の如くに、幸福だつた。私は二ツ返事で加入した。 

私たちは屡々会つた。三日に一度は手紙がつき、私も書いた。会つてゐるときだけが幸福だつた。顔を見てゐるだけで、みちたりてゐた。別れると、別れた瞬間から苦痛であつた。「桜」はインチキな雑誌であつたが、井上、田村、河田はいづれも善意にみちた人達で、(菱山は私がたのんで加入してもらつたのだ)私は特に河田には気質的にひどく親愛を感じてゐたが、彼は肺病で、才能の開花のきざしを見せたゞけで夭折したのは残念だつた。彼はすぐれた詩人であつた。 

インチキな雑誌であつたが、時事新報が大いに後援してくれたのは、編輯者の寅さんの好意と、これから述べる次の理由によるせゐだと思はれる。 

ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。 

私がウヰンザアで矢田津世子と始めて会つた日、矢田津世子の同伴した男といふのが、即ち、時事の最高幹部なるWであつた。加藤英倫が私に矢田津世子を紹介し、そのまゝ別れて私が自席で友人達と話してゐると、矢田津世子がきて、時事のW氏に紹介したいから、W氏は一目であなたが好きになり、あの席からあなたを眺めて、すばらしい青年だと激賞してゐられるのです、と言つた。そこで私はWの席へ行き、話を交したのであつた。

「桜」の結成の記念写真が時事に大きく掲載された。私は特に代表の意味で、新しさだか、新しいモラルだか、文学だか、とにかく新しいといふことの何かに就て、三回だかのエッセイを書かされてゐた。それは寅さんの「桜」に対する好意であり、寅さんは又、私に甚だ好意をよせてくれたのだが(寅さんの本名を今思ひだした。彼は後日、作家となつた笹本寅である)私は然し寅さんの一言に眼前一時に暗闇となり、私が時事に書かされたことも実はWの指金であり好意であるやうな邪推が、――私は邪推した。せずにゐられなかつた。Wの好意を受けたことの不潔さのために、わが身を憎み、咒つた。

寅さんの話は思ひ当ることのみ。矢田津世子は日曜毎に所用があり、「桜」の会はそのため日曜をさける例であり、私も亦、日曜には彼女を訪ねても不在であることを告げられてゐたのである。 

如何なる力がともかく私を支へ得て、私はわが家へ帰り得たのか、私は全く、病人であつた。

ーー《時事の最高幹部なるW》とあるのは、当時「時事新報」の社会部長だった和田日出吉氏らしい。Wikiの木暮実千代の項ーー後年の和田氏の妻、《1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚》ーーには次のような記述がある。

和田日出吉:時事新報入社後、中外商業新報の社会部長兼論説委員になる。二・二六事件の時首相官邸に乗り込み栗原安秀中尉と面会し、中央公論1936年8月号に手記を発表。その約2年後新聞記者をやめて満州に渡り、実千代と結婚し帰国する。

⋯⋯⋯⋯

同一化が起っている場合に最も注意すべきことは次のことである。

スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(A)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛は去勢の愛である」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

分かっていても難しい、ということは言える。

真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (ラカン, S17, 14 Janvier 1970)

このラカン派的観点をとるなら、わたくしの場合、荷風や安吾の弱さを探さなくてはならない、ということになる。あるいはロラン・バルトの弱さを。




2017年10月15日日曜日

薬物中毒と「他の享楽 autre jouissance」

日本において、戦前から戦後一時期までの作家とは、覚醒剤などの使用の影響によって「他の享楽 autre jouissance」の領野での叙述をした書き手が多い、とわたくしは思う。わたくしにとって比較的親しい作家、折口信夫、坂口安吾、川端康成等を読んでそう思う(あまり多くを読んでいないが、芥川龍之介も当然そうだろう)。

ロマン・ガリー Romain Gary の『La vie devant soi(これからの一生)』にて探究された美しいテーマ…。一人の子供が麻薬常習者の環境のなかで娼婦によって育てられる。そして彼は選択しなければならない。娼婦について彼は言う、「彼女たちは尻で自己防衛している Elles se défendent avec leur cui」。麻薬常習者については、「彼らは幸福に賭けている。ぼくはこっちの生のほうがいいな Eux, ils sont pour le bonheur, moi je préfère la vie」。子供の選択は後者である。ここに私は見出す、ファルス享楽と(ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽とのあいだの対立を。私の意見では、他の享楽は、薬物中毒の原形態において中心的な享楽である。(ポール・バーハウ、2001、BEYOND GENDER. From subject to drive, Paul Verhaeghe)

ファルス享楽と他の享楽とのあいだの対立とは、ラカンにおいては次のような形で表わされている。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps …ファルスの彼岸の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)
ファルス享楽とは身体外のものである。 (ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽とは、言語外、象徴界外のものである。

qu'autant la jouissance phallique [JΦ] est hors corps [(a)], – autant la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ようするにファルス享楽に対立する他の享楽とは、身体の享楽、女性の享楽と等価である(女性とは解剖学的性差ではないことに注意しなければならない)。


ーー欠如と穴については、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を参照のこと。


フロイト語彙で言い直せば、ファルス享楽はシニフィアン(語表象 Wortvorstellung)につながった「快原理の此岸」の享楽であり、他の享楽とは、「快原理の彼岸」の享楽である(参照)。

ふたたびラカン語彙に戻れば、ファルス享楽/他の享楽とは、「象徴界内部の享楽」とそれを超えた「現実界の享楽」である。

意味作用 signification の彼岸、あらゆるシニフィアンの彼岸、…非意味の、もはや還元されえぬ、トラウマ的なもの…これがトラウマの意味である。

au-delà de cette signification - à quel signifiant… non-sens, irréductible, traumatique, c'est là le sens du traumatisme (ラカン、S11、17 Juin 1964)  
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

ここでのトラウマ≒レミニサンスとは、中井久夫のトラウマの定義とともにわたくしは読む。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

以下、中井久夫の覚醒剤をめぐる記述をも引用しておこう、《覚醒剤使用者には断薬後二〇年以上経っても、少量の覚醒剤あるいはストレスによって大量服薬時の幻覚が発生する》。

「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。では「心の間歇」は「解離」の一種なのか。(……)

現在の精神医学は、解離と呼ばれているものを病的解離と正常解離とにわけている。

病的解離とは多重人格障害 personnalité multiple、遁走 fugue(外からは意識的・合目的に見え、実際、遠方まで車を運転していったりするが当人は記憶していないもの)、種々の健忘 amnésie、夢遊病 somnambulisme、フラッシュバック(白昼に外傷的体験が意図せずして意識に侵入し一時これを占拠するもの)retour en arrière,flash-back、離人 dépersonalisation(自己、下界、身体あるいはそおすべての自己所属感が喪失する)などであり、催眠 hypnotisme はその人工的誘導である。覚醒剤使用者には断薬後二〇年以上経っても、少量の覚醒剤あるいはストレスによって大量服薬時の幻覚が発生する。元来、フラッシュバックという用語はこちらのほうを指していた。なお、実名で『失われた時を求めて』に登場する精神科医コタールの名を冠するコタール症候群 syndrome de Cotard とは自己、自己身体、外界のすべての存在を否定し、「ない」というもので、解離の極端例とも考えられる。(……)

病的解離の代表的なものとは、「心の間歇」は、言葉でいい表せば同じになることでも内実は大いに異なる。たとえば、同じ誘発因子を以て突然始まるといっても、臨床的に問題になる解離は、石段の凹みを踏んだ“深部感覚”、マドレーヌを紅茶に浸して口に含んだ口腔感覚といったものではない。引き金になるのは、性的被害を受けた現場に似ている場所や、戦場を思わせる火災である。さらに、現れる状態は誘発因子との関連が深く、「再体験」といわれる。また、同じく例外的状態といっても、侵入される苦痛の程度が格段に違う。それに、自己意識が消失したり、合目的的ではあるが自動運動に置換されたり、私が私であるという基本的条件が震撼させられる点もちがう。意識内容の一時的支配といっても程度の差は著しい。過去との記憶の関連があるといっても、病的解離においては不動静止画像が多く、時間が停止する。運動は混乱の極みに達し、しばしばパニックを起こす。「心の間歇」では動きがあり、感覚的に楽しささえある(精神医学的には「自我親和的」といってよかろう)。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)



2017年10月13日金曜日

前夫とのあいだの子供(坂口三千代)

あとで泣くなというけれども私は泣くことは覚悟している。人を愛して泣かないで済むことを想像する方が難しい。まして坂口のような人と暮して泣かないで済むだろうとは思わない。彼は好きなように生きる人だ。(坂口三千代『クラクラ日記』)

坂口三千代さんの『クラクラ日記』は、わたくしの手元にない(上の文はネット上から拾ったものである)。30年ほど前に、この1967年に出版された書を読んだことはある。序文は石川淳が書いており、『夷斎小識』に所収されているその文章だけがわたくしの手元にある。

生活に於て家といふ觀念をぶちこわしにかかつた坂口安吾にしても、この地上に四季の風雨をしのぐ屋根の下には、おのづから家に似た仕掛にぶつかる運命をまぬがれなかつた。ただこれが尋常の家のおもむきではない。風神雷神はもとより當人の身にあつて、のべつに家鳴振動、深夜にも柱がうなつてゐたやうである。ひとは安吾の呻吟を御方便に病患のしわざと見立てるのだらうか。この見立はこせこせして含蓄がない。くすりがときに安吾を犯したことは事實としても、犯されたのは當人の部分にすぎない。その危險な部分をふぐの肝のやうにぶらさげて、安吾といふ人閒は强烈に盛大に生き拔いて憚らなかつたやつである。

家の中の生活では、さいはひに、安吾は三千代さんといふ好伴侶に逢着する因緣をもつた。生活の機械をうごかすために、亭主の大きい齒車にとつて、この瘦せつぽちのおくさんは小さい齒車に相當したやうに見える。亭主と呼吸を一つにして噛み合つてゐたものとすれば、おこりえたすべての事件について、女房もまた相棒であつたにひとしい。亭主が椅子を投げつけても、この女房にはぶつかりつこない。そのとき早く、女房は亭主から逃げ出したのではなくて、亭主の内部にかくれてゐたのだろう。安吾がそこにゐれば、をりをりはその屬性である嵐が吹きすさぶにきまつてゐる。しかし、その嵐の被害者といふものはなかつた。すなはち、家の中に悲劇はおこりえなかつた。それどころか、たちまち屋根は飛んで天空ひろびろ、安吾がいかにあばれても、ホームドラマにはなつて見せないといふあつぱれな實績を示してゐる。たくまずして演出かくのごときに至つたについては、相棒さんもまたあづかつて力ありといはなくてはならない。

安吾とともにくらすこと約十年のあとで、さらに安吾沒後の約十年といふ時閒の元手をたつぷりかけて、三千代さんは今やうやくこの本を書きあげたことに於て安吾との生活を綿密丁寧に再經驗して來てゐる。その生活の意味がいかなるものか、今こそ三千代さんは身にしみて會得したにちがひない。會得したものはなほ今後に持續されるだらう。この本の中には、亡き亭主の證人としての女房がゐるだけではない。安吾の生活と近似的な價値をもつて、當人の三千代さんの生活が未來にむかつてそこに賭けてある。この二重の記錄が今日なまなましい氣合を發してゐ所以である。(石川淳「坂口三千代著「クラクラ日記」序」)

ところで「坂口三千代」のWikiの項には次の記述がある。

1923年2月7日、千葉県銚子市に生まれる。千葉県立銚子高等女学校に通う。1943年、当時学生であった政治家の子息鈴木正人と結婚し、一女をもうける。のちに離婚した(『クラクラ日記』)。実家は向島で料亭を営む。

1947年3月初め、24歳のとき新宿のバー「チトセ」で坂口安吾と出逢い、毎週水曜日に荏原郡矢口町字安方127番地(現・大田区東矢口)の坂口家に通う秘書となる。4月に三千代が盲腸炎から腹膜炎となり緊急入院。一か月間病院で安吾が付きっきりで看病し、退院後も坂口家で養生し続け、そのまま9月頃から結婚生活に入る(岩波文庫年譜『風と私と二十の私・いづこへ他十六編』2008年)。

同年10月5日、雑誌『愛と美』(『週刊朝日』25周年記念号)において、安吾が発表した短篇小説『青鬼の褌を洗う女』は、三千代をモデルにしたとされているが(『クラクラ日記』)、作者の安吾自身は、「『青鬼の褌を洗う女』は、特別のモデルといふやうなものはない。書かれた事実を部分的に背負つてゐる数人の男女はゐるけれども、あの宿命を歩いてゐる女は、あの作品の上にだけしか実在しない」と語っている(『わが思想の息吹』)。

《当時学生であった政治家の子息鈴木正人と結婚し、一女をもうける》とある。わたくしも長い間そう思っていた。ところが最近いくらか安吾をまとめて読んでいるなかで、安吾自身が《私の女房は前夫との間に二人の子供がある》と記している文に行き当たった。さてどちらが本当なのだろう? ネット上をいくらか探る範囲では判然としない。

私の女房は前夫との間に二人の子供がある。又、前夫と私との中間には、幾人かの男と交渉があった。それを女房はある程度までは(と私は思うが)打ち開けていたが、私もそれを気にしなかったし、女房も前夫と結婚中は浮気をしなかった、私と一緒のうちも浮気をしない、浮気をする時は、別れる時だ、ということを、かなりハッキリ覚悟している女であった。
私は、一度だけ、女房に云った。「オレの子供じゃないだろうと疑っているのだ」「疑ってるの、知ってたわ。疑るなら、生まないから。ダタイするわ」「ダタイするには及ばないさ。生れてくるものは、育てるさ」「誰の子かってこと、証明する方法がある?」「生れた後なら判るだろう。血液型の検査をすればね」 私はこう云い残して、催眠薬をのんで眠ってしまったから、女房が泣いたか怒ったか、一切知らない。
私は半年ほど前にも、女房の前夫の子供をひきとるか否か、一週間ぐらい考えたことがあった。その子供は女房の母のもとに育っていた。五ツぐらいだろう。別に女房がひきとってくれと頼んだワケではないが、折にふれ子供を忘れかねている様子がフビンであったからである。

しかし、一日、遊びにきた子供を観察して、愛す自信がなかったので、やめることにした。「愛す自信があれば育てるつもりだったが、自信がないから、やめた」「頼みもしないのに。何を云うのよ」「人手に加工された跡が歴然としていて、なじめないし、可愛げが感じられないのだ。コマッチャクレているよ」「そんなこと云うのは、可哀そうよ。あの子の罪じゃなくってよ」 女房は、いささか、色をなして叫んだ。
私は元々、女房と一しょに住むつもりではなかったのである。私はどのような女とでも、同じ家に住みたいと思っていなかった。 

私は彼女に云った。

「家をかりてあげる。婆やか女中をつけてあげる。私は時々遊びに行くよ」 

彼女はうなずいた。私たちは、そうするツモリでいたのである。

ところが、彼女をその母の家から誘いだして、銀座で食事中に、腹痛を訴えた。医者に診てもらうようにすすめたが、イヤがるので、私の家につれてきて、頓服をのませて、ねかせた。一夜苦しんでいたのだが、苦しいかときくと、ニッコリしてイイエというので、私は未明まで、それほどと思わなかった。超人的なヤセ我慢を発揮していたのである。私が未明に気附いた時には、硬直して、死んだようになっていた。
女房は腹膜を併発して一月余り入院し、退院後も歩行が不自由なので、母のもとへ帰すわけにいかず、私の家へひきとって、書斎の隣室にねかせて、南雲さんの往診をうけた。やがて、人力車で南雲さんへ通うことができるようになったが、部屋の中で靴をはいて纏足の女のような足どりで、壁づたいに一周したり、夜更けに靴をだきしめて眠っているのを見ると、小さな願いの哀れさに打たれもしたが、それに負けてはいけないのだ、という声もききつづけた。 

しかし、こういう偶然を機会に、女房はズルズルと私の家に住みつくことゝなったのである。
私は、しかし、不満ではなかったと言えよう。彼女の魂は比類なく寛大で、何ものに対しても、悪意が希薄であった。私ひとりに対してなら、私は苦痛を感じ、その偏った愛情を憎んだであろうが、他の多くのものにも善意と愛情にみちているので、身辺にこのような素直な魂を見出すことは、時々、私にとっては救いであった。 

私のようなアマノジャクが、一人の女と一しょに住んで、欠点よりも、美点に多く注意をひかれて、ともかく不満よりも満足多く暮すことができたというのは、珍しいことかも知れない。 

女房は遊び好きで、ハデなことが好きであったが、私に対しては献身的であった。 ふだんは私にまかせきって、たよりなく遊びふけっているが、私が病気になったりすると、立派に義務を果し、私を看病するために、覚醒剤をのんで、数日つききっている。私はふと女房がやつれ果てていることに気附いて、眠ることゝ、医者にみてもらうことをすすめても、うなずくだけで、そんな身体で、日中は金の工面にとびまわったりするのであった。そして精魂つき果てた一夜、彼女は私の枕元で、ねむってしまう。すると、彼女の疲れた夢は、ウワゴトの中で、私ではない他の男の名をよんでいるのであった。 

私は女房が哀れであった。そんなとき、憎い奴め、という思いが浮かぶことも当然であったが、哀れさに、私は涙を流してもいた。
しかし一人の女と別れて、新しい別な女と生活したいというような夢は、もう私の念頭に九分九厘存在していない。残る一度に意味を持たせているワケではなく、多少の甘さは存在しているというだけのことだ。 

恋愛などは一時的なもので、何万人の女房を取り換えてみたって、絶対の恋人などというものがある筈のものではない。探してみたい人は探すがいゝが、私にはそんな根気はない。

私の看病に疲れて枕元にうたたねして、私ではない他の男の名をよんでいる女房の不貞を私は咎める気にはならないのである。咎めるよりも、哀れであり、痛々しいと思うのだ。 

誰しも夢の中で呼びたいような名前の六ツや七ツは持ち合せているだろう。一ツしか持ち合せませんと云って威張る人がいたら、私はそんな人とつきあうことを御免蒙るだけである。
女房よ。恋人の名を叫ぶことを怖れるな。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年)

三千代さんの前夫とのあいだの子供が何人あろうが、それは実のところどうでもいい。だがもしwikiの記述が正しいとしたら、上に引用したエッセイ風に書かれている文もフィクションの要素が混じり込んでいる書き物として読むべきか否かは(今のわたくしにとっては)どうでもよくはない・・・

ーーということのメモで、ここは終わろう。ネット上から拾った『クラクラ日記』の文の引用のいくらかは、またそのうち投稿することにする。

2017年10月12日木曜日

精神分析的な読書の類型学

ロラン・バルトは、読書の(快楽の)類型学をめぐって次のように記している。

人は、読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。

それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。(⋯⋯)

フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。Le fétichiste s'accorderait au texte découpé, au morcellement des citations, des formules, des frappes, au plaisir du mot.

強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう L'obsessionnel aurait la volupté de la lettre, des langages seconds, décrochés, des métalangages.
(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。

偏執症者(パラノイア)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。le paranoïaque consommerait ou produirait des textes retors, des histoires développées comme des raisonnements, des constructions posées comme des jeux, des contraintes secrètes

(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなる批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。

l'hystérique (si contraire à l'obsessionnel), il serait celui qui prend le texte pour de l'argent comptant, qui entre dans la comédie sans fond, sans vérité, du langage, qui n'est plus le sujet d'aucun regard critique et se jette à travers le texte (ce qui est tout autre chose que de s'y projeter)

(ロラン・バルト『テキストの快楽』既存訳を一部変更)

バルトの類型には、たとえば「分裂病」が欠けているが、ここでは厳密さを期すつもりはなく、こういった観点はほぼ正鵠を射ているのではないか、ということを示したいために、この文を掲げた。

たぶん作家を評価したり批評したりするときにも、それぞれの類型の光学装置ーープルーストのいう「めがね」ーーによって、ある作家を顕揚したり、貶めたりすることが多いのではないか。たとえばフェティシストやパラノイア者は、強迫神経症者による書き物をおそらく評価することが少ない筈である。

プルーストは次のように書いている(バルトは熱心なプルーストの読者であり、以下の文はかならず読んで参考にしている。ドゥルーズもそのプルースト論で引用している箇所である)。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

プルーストの考え方とロラン・バルトの冒頭の考え方を混淆させて言えば、たとえば神経症者は、分裂病者や倒錯者の書き物に新しい世界が開かれた気がすることはあろうだろう。だが真に共感したり理解するところは、たとえば倒錯者が倒錯者の書き物を読んだ場合にくらべれば少ない筈である。すなわち、《読者にはよく読めないことがある》だろう。

⋯⋯⋯⋯

ここで、現在一般に精神分析的類型の区分の仕方の二つの考え方を提示しておこう。先にかかげる図が、ほぼフロイト・ラカン派の区分であり、あとの方の図は、より標準的な区分である(参照)。







わたくしが考えるには、一般的な傾向として、たとえば分裂病者は、神経症者(強迫神経症者とヒステリー症者)の書くテキストどころか、倒錯者やパラノイア者の書くテキストさえも《よく読めないことがある》はずである。

以上は「たとえば」の話であり、もっと基本的な読書の類型学(育った環境や教養等々にかかわる類型学)があるのは言うまでもない。

類型学などと言わないまでも、人はそれぞれ身体が異なり、その身体によってそれぞれの読書の快楽があるのである。

愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
《私の愛するもの、愛さないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌い des goûts et des dégoûts を集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、自由主義的に寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


2017年10月10日火曜日

冥府という「ふるさと」

冥府とは、「文学のふるさと」のことだよ。「人間のふるさと」と言ってもいい。

シャルヽ・ペローの童話に「赤頭巾」といふ名高い話があります。既に御存知とは思ひますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶつてゐるので赤頭巾と呼ばれてゐた可愛い少女が、いつものやうに森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けてゐて、赤頭巾をムシャ〳〵食べてしまつた、といふ話であります。まつたく、たゞ、それだけの話であります。 

童話といふものには大概教訓、モラル、といふものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けてをります。それで、その意味から、アモラルであるといふことで、仏蘭西では甚だ有名な童話であり、さういふ引例の場合に、屡々引合ひに出されるので知られてをります。

愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さといふものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行つて、お婆さんに化けて寝てゐる狼にムシャ〳〵食べられてしまふ。 

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違つたやうな感じで戸惑ひしながら、然し、思はず目を打たれて、プツンとちよん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでせうか。

そこで私はかう思はずにはゐられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、といふこと、それは文学として成立たないやうに思はれるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのやうでなければならぬ崖があつて、そこでは、モラルがない、といふこと自体がモラルなのだ、と。(坂口安吾「文学のふるさと」初出1941年)

1906年生れの安吾だから、こう書いたのは、35歳のとき。わたくしの偏った視点からは、矢田津世子との「性的非関係 non-rapport sexuel」の出来事の経験が、大きくこのすぐれた認識を促した。 もちろんその背後には母との関係がある。

たとえば、「をみな」、「石の思ひ」には次のような叙述がある(自伝ではあるが、あくまでも自伝「小説」の記述として読まなければならない)。

あれほど残酷に私一人をいぢめぬくためには、よほど重大な原因があつたのだらう。私の生れた時は難産で、私が死ぬか、母が死ぬかの騒ぎだつたと母の口からよくきいたが、それが原因の一つだらうか。原因はなんでもいいさ。私を大阪の商人に養子にやると母が憎々しげに嘘をついて私をからかつたときのこと、私がまにうけて本気に喜んでしまつたので、母が流石にまごついた喜劇もある。それから、実は私が継子で、私のほんとの母親は長崎にゐると嘘を語つて、母は私をからかうことが好きだつたが、その話の嘘らしいのが私に甚だ悲しかつた。私は七つ八つから庭の片隅の物陰へひとりひそんで、見も知らぬふるさと長崎の夢を見るのが愉しかつた。(坂口安吾「をみな」初出1935年)
八ツぐらゐの時であつたが、母は私に手を焼き、お前は私の子供ではない、貰ひ子だと言つた。そのときの私の嬉しかつたこと。この鬼婆アの子供ではなかつた、といふ発見は私の胸をふくらませ、私は一人のとき、そして寝床へはいつたとき、どこかにゐる本当の母を考へていつも幸福であつた。私を可愛がつてくれた女中頭の婆やがあり、私が本当の母のことをあまりしつこく訊くので、いつか母の耳にもはいり、母は非常な怖れを感じたのであつた。それは後年、母の口からきいて分つた。(坂口安吾「石の思ひ」初出1946年)


これらのいわゆる「外傷的出来事」をめぐる晩年の安吾自身の叙述には次のようなものがある。

六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。(安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語、初出1951年)
六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。

十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。

二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。

二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。

四十四が精神病院入院の年。(同上、1951年)

これ以外にも「いづこへ」との女の性関係(あの経験ーー貪りつつ貪れれる姉妹との関係ーーも、ラカン的には「性関係はない」の出来事である)も、安吾の「ふるさと」の認識を促した核心のひとつであるだろう。

いまはその内容は引用せず、附記として書かれた文だけ抜き出す。

(附記 私はすでに「二十一」といふ小説を書いた。「三十」「二十八」「二十五」といふ小説も予定してゐる。そしてそれらがまとめられて一冊の本になるとき、この小説の標題は「二十九」となる筈である)(坂口安吾「いづこへ 」初出1946年)

さて「文学のふるさと」に戻る。

⋯⋯⋯なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独、そのやうなものではないでせうか。

それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身は、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。

私は文学のふるさと、或ひは人間のふるさとを、こゝに見ます。文学はこゝから始まる――私は、さうも思ひます。(同上「文学のふるさと」初出1941年)

柄谷行人はかつてこう書いた。

彼がいう「ふるさと」は、普通の意味でのふるさとではない。たとえば、小林秀雄が「故郷喪失」という場合の「故郷」ではない。それは、われわれをあたたかく包み込む同一性ではなく、われわれを突き放す「他なるもの」である。それは意味でもなく無意味でもなくて、非意味である。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

ラカン派において頻出する用語「ab-sens 非意味」という表現が使われている。

フロイトはわれわれを ab-sens [非意味]が性を指し示すということに同意させる。このsens-absexe のふくらみにおいて、語が決するところで一つのトポロジーが展開する。(Il n'y a pas de rapport sexuel ---Deux leçons sur <<L'Étourdit>> de Lacan  Fayard, 2010)

で、冥府下りとは、フロイトの「徹底操作 durcharbeiten」、ラカンの「主体の解任 destitution subjective」、「幻想の横断 traversée du fantasme」のことだよ(参照)。これもわたくしの偏った観点から、と断っておかなくちゃいけないが。

ここで、フロイトが文学や芸術作品をめぐって書いた最初期に属する論から引用してみよう。

精神分析療法とはすべて、ある症状に憫むべき妥協という逃道を見出して抑圧されたままでいる愛を解放する試みである。

Jede psychoanalytische Behandlung ist ein Versuch, verdrängte Liebe zu befreien, die in einem Symptom einen kümmerlichen Kompromißausweg gefunden hatte. (フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)

これがすべての精神分析療法とは、現在では言い難いだろうが(たとえば精神病、なかんずく分裂病、自閉症に対してはこうは言い難い)、すくなくとも神経症であれば、ほぼこのフロイトの叙述が今でも生きている筈である。これが「幻想の横断」であり「徹底操作」である。それは「主体の解任」とも呼ばれる。

その作用において精神分析主体を支えてきた欲望が解消されてしまうと、彼は最後にはもはや欲望の選択、すなわち欲望の残余を格上げしたいとは望まなくなる。この残余とは、彼の分割を決定づけているものであり、彼の幻想を失墜させ、主体である彼の地位を解任する。

…quand le désir s'étant résolu qui a soutenu dans son opération le psychanalysant, il n'a plus envie à la fin d'en lever l'option, c'est-à-dire le reste qui comme déterminant sa division, le fait déchoir de son fantasme et le destitue comme sujet. (Lacan,Autres écrits,p.252、1967)

幻想の主体(欲望の主体)、つまり「見せかけの主体」の底には、何があるのか。この時期のラカンは裸の欲動が現われると言っているが、ここでジャック=アラン・ミレールの最近の注釈を掲げる。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的つながりの現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。

tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant(ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLERーー三人目の女

「話す身体」とは、身体の欲動(欲動の現実界 le réel pulsionnel)のことである。そしてもう一つの社会的関係にかかわる現実界は「性関係の不在」があると言っている。

ーー話が前後するが、上に引用した「グラディーヴァ」の文には《抑圧された愛を解放する試み Versuch, verdrängte Liebe zu befreien》とあった、この「愛 Liebe 」について前段に、《性欲動 Sexualtriebes の多様な成分をすべて「愛 Liebe」としてひとまとめに呼ぶとすれば》云々と記されている。この愛=性欲動は、『ナルシシズム入門』の叙述とともに読まねばならない。

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914

性欲動、性対象とされるものは、原初の大他者(母なる大他者)との融合欲動(エロス欲動)にかかわり、具体的な性行為の欲動(たとえば近親相姦)として捉えてはならない(参照:三人目の女)。

さて話を元に戻せば、人は「幻想の横断」をしたとき、人間関係の「非関係 non-rapport」に出会う。ラカンの「性関係はない」(参照)、あるいは柄谷行人=マルクスの言い方なら《社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係》(『マルクスその可能性の中心』)に出会う。

これをラカンは穴と呼ぶ。《穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport》(S22, 17 Décembre 1974)。

ミレールによる穴Ⱥの定義は次の通り。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

穴とは、また「穴ウマ troumatisme」とも呼ばれる。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を生む。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

こうして、「文学のふるさと」、「芸術のふるさと」は、この穴ウマ(トラウマ)にしかない、ということになる。

以下のすぐれた二人の作家における「傷 blessure」とは、ラカンの「穴ウマtroumatisme」とほぼ等価だろう、とわたくしは判断している。

美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)
ある本質(心の傷のそれ)une essence (de blessure) である。それは変換しうるものではなく、ただ固執する(執拗な視線によって)l'insistance (du regard insistant) という形で反復されるだけである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

最後に、ここでの記述は、すくなくとも今のわたくしはこう考えている、ということであり、そのうち悟り直すかもしれないということを断っておこう。