2017年12月31日日曜日

マグノリアと泰山木

ひとくちに木蓮あるいはマグノリアというが、次のように多種らしい。

モクレン属 (Magnolia) は、およそ210種を含む大きな被子植物モクレン目モクレン科の属である。

モクレン属の分布は比較的不連続である。北米東部、中米、西インド諸島および東アジア、東南アジアである。いくつかの種は南米産である。今日多くのモクレン属の種と現在も増え続けている交配種が観賞用樹木として北米、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランドで植栽されている。園芸関係では属名からマグノリアと総称される。(Wiki

我が家の庭に、こちらでマグノリアと呼ばれる喬木が三本あるのだが、日本で木蓮と呼ばれる木や花のように美しくない。ただし一年に四五回は花が咲き、においはとても香り高い。

我がマグノリアは、ホオノキ Magnolia obovata やコブシ Magnolia kobus の葉っぱや花の形は似ているが、いまネット上の写真をながめるかぎりでは、ホオノキほど葉は大きくなくコブシほど葉が小さくもない。



ーーま、デもこんな感じではある。




ーー残念ながら、ぜんぜんこうではない




ーー処女をよそおったヴァギナデンタータって感じだな、これ




ーーこの花だったらじつに「蚊居肢」にふさわしいのに、残念である・・・


泰山木 Magnolia grandiflora とはとても美しい木だ



太陽よ、太陽は万能ではなかったか?
鳥よ、鳥は絶えず動いてやまない喜びの瞬間ではなかったか?
かがやきよ、かがやきは雲の大胆ではなかったか?
庭よ、庭は花の泰楽堂ではなかったか?
暗い根よ、根は泰山木を吹くフルートではなかったか?

ーーエリティス「アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩」中井久夫訳

花だけでなく、葉がツヤツヤしていて。



蕾だってやたらにセクシーだ



私が挙げうる地中海的な詩の特徴があるとすれば、光と影、生と死、エロスとタナトス、太陽とその他の天体(星)、朝と夕べ、昼と夜、海と港と船、夏と冬、嵐と凪、そして、これらの対照のきつさである。ヴァレリーの詩にこれに該当しないものがあるだろうか。また、日本の詩の桜、紅葉に当たる詩的な特権を持った樹木がある。椰子(棕櫚)、鈴懸、オリーブ、泰山木、ザクロ、糸杉……(中井久夫「ヴァレリーと私」『日時計の影』所収)




一流と二流の演奏家

◆Schiff: Schubert And Syncopated Subtleties




シフは、音楽において最も美しいものは沈黙だ、と言っているけれど、
この二人の音楽の質はかなり異なるな、
超一流と、二流の演奏家の相違というのが、わかる

上の映像にあらわれるシフとその生徒 Cornelia Herrman の、
たとえばバッハのフランス組曲の演奏を聞き比べてみると、
ああ、こんなにも違うのだ、というのがつくづくわかる

◆Cornelia Herrmann: J.S.Bach French Suite No.2




◆András Schiff - Bach. French Suite No.2 in C minor BWV813




とはいえ、一流とはいえないだろう演奏家でも
思いがけないお気に入りの演奏に行き当たることがある。

たとえば、シンガポールのSee Ning Hui (1996年生まれ)のデビューコンサートのBWV878ーーこのフーガは平均律のなかで最も好きなものだがーーは、とってもいい(わたくしのシロウトの耳には)。

◆Bach - Prelude & Fugue No. 9 in E, BWV 878





もちろんグールドのビデオ版ーーわたくしには彼のCD版はぜんぜんダメだーーに比べるわけにはいかないが。

◆Glenn Gould - Fugue in E Major from The Well Tempered Clavier Book 2 - BWV 878





顔はブー

◆Interpretation Class: Schubert - "Du bist die Ruh" & "Lachen und Weinen"




かなり緊張してるのかな、でもわるくはない
このシューベルトはこの冒頭の彼女の歌い方でも十分美しい

だが教師の教えによって、短いあいだに大きく変わっていく
たしかに彼女の歌っているようにはプロフェッショナルの歌手は歌っていない
フレーズに伸びがある。

たとえば、Barbara Bonney; "Du bist die Ruh"; Franz Schubert

でも、目新しくて彼女の最初の歌い方でもいいよ、
フレーズが消え入るようでさ、新鮮だね

なにはともあれ、
(顔はブーだけど、)
いい身体の線をしている女性だよ
プルーストを引用したっていいくらいだね

われわれは美と幸福とが個性的なものであることをいつも忘れている、そして、いままでに気に入ったさまざまな顔や、かつて経験したいろんな快楽をつきまぜ、そこから一種の平均をとってつくりあげる一つの因習的な型を、心のなかで、美や幸福に置きかえてしまい、無気力な、色あせた、抽象的な映像しかもたなくなっている、そうした映像には、かつて知ったものとは異なる、新しい、ういういしいあの性格、美と幸福とに固有のあの特徴が失われているというわけだ。そしてわれわれは、人生について悲観的な判断をし、それを正しいと思っている、そのじつ、美も幸福も見おとして、それらの一原子さえもふくまれない綜合に置きかえながら、両者を考慮に入れたつもりになっていた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」ーー牛乳売の娘と「あしたには Morgen」





2017年12月29日金曜日

わたしの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて

「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために」(プルースト「スワンの恋」)

《ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために》とは、もちろん「わたしをたのしませもしなければ、わたしの趣味にもあわなかった男のために」と言い換えることができる。

愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

(以下、削除)

2017年12月28日木曜日

Naoumoff、愛し愛しつづける人(amateur)

ふたたびナウモフの即興。

◆Improvisation 5675




◆Improvisation 5676




ーーなぜやらないんだろうな、ほかのピアニストたちは。プロフェッショナルのせいだろうか、アマトゥールではなくて。


◆Faure Andante Opus 121



いやあ、ナウモフは、永遠の童貞みたいな男だな、ボクとソックリだ・・・

バッハの結婚カンタータ「しりぞけ、もの悲しき影 Weichet nur, betrübte Schatten」の編曲に、一番最初に惚れ惚れしたんだが。

◆Naoumoff's transcription of Bach's Cantata 202




◆Naoumoff plays his own piano transcription of Bach's Aria from Cantata BWV202 Weichet nur betrubte schatten




でもこんな映像もあるな、生徒とヤッチまうこともあるかもな、いい肢だよ、この娘は。






愛の猥褻さ

この語が(愛 Liebe )がこれほど頻繁にくりかえされてしかるべきものとは思えなかった。それどころか、この二音綴は、まことにいとわしきものと思えるのだった。水っぽいミルクとでもいうか、青味を帯びた白色の、なにやら甘ったるいしろもののイメージに結びついていた 。(トーマス・マン『魔の山』)

ロラン・バルトは、『恋愛のディスクール』(1977)の「愛のみだらさ L'obscène de l'amour」の項で、このトーマス・マンの文を引用しつつも、次のように記している。

・歴史的転倒。今や下品とされるものは性的なものではない。実際にはそれもまた別の道徳にほかならぬものによって非難された感傷性 la sentimentalité こそが、下品なのである。

・あらゆる侵犯行為に対して社会が課す税金は、今日、セックスよりはむしろ情愛 passion の方に重い。Xが性生活について「深刻な問題」をかかえているのであれば、誰もが理解を示してくれるだろう。しかし、Yがその感傷的情熱についてかかえている問題には、誰ひとり関心をもとうとしない。恋愛がみだらなのは、それが、セックスのかわりに感傷をおこうとするからである。

・「わたしたち二人 Nous deux」――雑誌のタイトルーーは、サドにもましてみだらである。

・現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。恋愛主体はこの感傷性を、わが身ひとりを衆人環視の中にさらすたぐいの、強度な侵犯行為として引き受けざるをえなくなっている。つまり、ある種の価値転倒により、今日では、この感傷性こそが愛のみだらさをなしているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

『恋愛のディスクール』の序文にはこう書かれている。

『恋愛のディスクール・断章』⋯⋯⋯このような書物が必要とされるについては、恋愛にかかわるディスクール(愛の言説 discours amoureux)が今日、極度の孤立状態におかれているという考察があった。このディスクールは、おそらくは幾千幾万の人びとによって語られているだろう(本当のところは知りようもないが)。しかし、これを公然と宣揚する者はひとりとしていない。恋愛のディスクールは、これをとりまくもろもろの言語活動から完全に見捨てられている。無視され、軽んじられ、嘲弄され、権力はおろかその諸機制(科学、知、芸術)からも遮断されてしまっている。このように、一個のディスクールが、その本性ゆえに、現実ばなれしたものとしての漂流状態 la dérive de l'inactuel に陥り、集団性の埒外へと運び出されるとき、かかるディスクールに残されているのは、もはや、ひとつの確認の場(いかに狭小なものであれ)となることでしかない。要するに、そうした確認のことが、ここに始まる書物の主題なのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

上にあるようにバルトの『恋愛のディスクール』(1977)は、「無視され、軽んじられ、嘲弄され、諸機制(科学、知、芸術)からも遮断されてしまっている」愛の言説のささやかな確認の書であるが、さらに言えば、ある意味で「愛の言説」の顕揚の書でもある。

つまりは、20世紀のある時期以降、ラカン的には「資本の言説」(資本家の言説 discours capitaliste)の時代以降、《単純に「愛の問題 les choses de l'amour」は脇に遣られている》(ラカン, Le savoir du psychanalyste » 1972)のであり、その時代の潮流への抵抗の書である、と言いうる(参照:「科学精神」という魂の墓場)。

さらにここでニーチェを引用しよう。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

いま反時代的に行動するためには、「愛のみだらさ」を語らねばならない。セックスなどなんの猥褻さもない。

ーーと、さる方にエアリプを送っておこう、あなたはとてもニーチェ的である、と。

現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』)

(ボクもそれなりに愛のみだらさを書こうとしてきたんだけど、あなたにはまったくかなわないよ。)

朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚(中井久夫)
処女にだけ似つかわしい種類の淫蕩さというものがある。それは成熟した女の淫蕩さとはことかわり、微風のように人を酔わせる。(三島由紀夫)

ーーちょっとこれ以上は書けないね、残念だけど。身近な赤鬼による怒涛の検閲の身でね

《人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe》(ラカン、S20, December 19, 1972) 

女性が改悪した自然の力が女性に反対して、女性によって解放されるであろう。この力とは死の力である。Une force naturelle que la femme avait altérée va se libérer contre la femme et par la femme. Cette force est une force de mort.

それは性の暗い貪欲さを持っている。それが呼び覚まされるのは女性によってであるが、統率されるのは男性によってである。男性から切除された女性なるもの、かつて女性が踏みにじった男性たちの鎖に繋がれた優しさがあの日一人の処女を復活させたのだ。しかしそれは身体なき処女、性なき処女であって、ただ精神のみが彼女を利用できるのである。

ELLE A LA RAPACITÉ TÉNÉBREUSE DU SEXE. C’EST PAR LA FEMME QU’ELLE EST PROVOQUÉE MAIS C’EST PAR L’HOMME QU’ELLE EST DIRIGÉE. LE FÉMININ MUTILÉ DE L’HOMME, LA TENDRESSE ENCHAÎNÉE DES HOMMES QUE LA FEMME AVAIT PIÉTINÉE ONT RESSUSCITÉ CE JOUR-LÀ UNE VIERGE. MAIS C’ÉTAIT UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE, ET DONT L’ESPRIT SEUL PEUT PROFITER.(アルトー存在の新たなる啓示』)

2017年12月27日水曜日

五月の夜に咲くバラ

傷が私の肉にうえつけたのは、私が傷を負った五月の夜に咲くバラである。 (ジョー・ブスケ『傷と出来事』)

ーーアリアドネの「救急車」をいまごろ読んだ。

迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)
アリアドネは、アニマ、魂である。 Ariane est l'Anima, l'Ame(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)

◆Lesley Garrett - 「 Lascia ch'io pianga 私を泣かせてください」(Bo Widerbergsの Lust Och Fagring Stor 、1995)




傷は、それを負わせた槍によってのみ癒されうる die Wunde schliesst der Speer nur, der sie schlug( ワーグナー、Parsifal)
美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)
ある本質 une essence(心の傷 blessure の本質)⋯それは変換しうるものではなく、ただ固執 l'insistance (執拗な視線 regard insistant によって) という形で反復されるだけである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

《もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。》(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)

それから幼年時代をふちまで一ぱい満たしていた
あの悩みが、どんなに個性もなく、
すべての人々の上を過ぎていったかを予感し見ぬくこと……
そうして、それでも出て行くこと、手から手をふりほどき、
癒やされた傷口をあらためて裂くように。(リルケ「放蕩息子の家出」)


外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.109)

⋯⋯⋯⋯

私の歴史において実現されるものは、もはやそうであったものとしての定過去 passé défini ではなく、私があるところの現在完了でさえもない。そうではなく私が生成変化 train de devenir の過程にあるところのそうなるであろうという前未来 futur antérieur である。(ラカン、 精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野 Fonction et champ de la parole et du langage「ローマ講演、1953」)
過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

《傷によって生気は増し、力は生長する increscunt animi,virescit volnere virtus》 (Furio Anziate 、II sec. a. C.)

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

プルーストにとってのレミニサンスとは、「ソドムとゴモラ」の「心情の間歇 Les intermittences du coeur」の章ーープルーストは『失われた時をもとめて』の題名を最初は「心の間歇」にしようと考えていたーーにあらわれる《残存者と虚無との痛ましい再統合 》であるとともに(参照)、「見出された時」にあらわれる《あのような幸福の身ぶるい》を与えてくれる《きらりとひらめく一瞬の持続 、純粋状態にあるわずかな時間》でもある。

2017年12月26日火曜日

純愛を捧げるべき恋人

純愛に必要なものは距離である。 身近にいる限り倦怠を募らせるしかない女性を、 誠実に、永遠に、みのり豊かに愛し続けるには、その不在の影と戯れねばならない。残された一ふさの髪の毛で結ばれている母親との間には時間的な距離が拡がっているが、では、純愛を捧げるべき恋人との間には、いかなる距離を介在させることが可能か。すぐさま予想されるとおり、空間的な距離、つまりは地理的な拡がりがあればそれで充分だ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』P.245)

いやあ、ボクは純愛者、あるいは純愛の対象としてのピッタリの条件をそなえているようだ。

ようするに「異郷にて In der Fremde」住むボクは、「秘めた愛 Verschwiegene Lieder」にとって、つまりは日本人女性へ純愛を捧げたり、日本人女性から純愛を捧げられたりするためには、条件的にはピッタリである。しかもオチンチンの不自由をかかえる還暦間近の男であるから、さらにいっそう純愛の能動者かつ受動者としてこよなく相応しい・・・

――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人にういてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)

人はここで、「異郷にて In der Fremde」と「秘めた愛 Verschwiegene Lieder」を聴かねばならない。

◆Schumann, Eichendorff Liederkreis Op 39 - 1. In der Fremde (Régine Crespin)




◆Régine Crespin; "Verschwiegene Lieder"; Eichendorff-Lieder; Hugo Wolf

  

ーーなんと美しいのだろう、このレジーナ・クレスパンのシューマンとヴォルフは。

だがいまは音楽の話ではない。ふたたび蓮實重彦に戻ろう。

いずれにせよ、 何か貴重なものが自分から奪われている欠如の実感なしに、 人は思考することもなければ、 また文章体験に向かうこともしない。 だから、 マクシムにおける純愛の主題は、 それが現在という時空にうがたれた空洞として意識される限りにおいて、あらゆる作家に共通する書くことを正当化する直接の契機となりうるものだ。人びとは、 誰しも倦怠によって筆をとる。 もちろんその倦怠は、 何もすることがない人間を詩へ、 小説へ、 批評へと向かわせる暇つぶしとして文学を正当化するものではない。 現在を、 貴重な何ものかの喪失に端を発した崩壊の一過程として捉え、 その困難を耐えぬくための試練を、 成熟に到る通過儀礼として特権化することに、 倦怠が貢献するのだという意味である。 あるいは、 なし崩しの頽廃としてしか生きられることのない現在を、 あらかじめ奪われた何ものかの過渡的な不在として捉え、 その欠如を語ることで実現さるべき未来を先取りしようとする欲望を、 その倦怠が正当化するといってもよかろう。 肝腎なのは、 生なましく触知しえない現在に苛立つ者たちだけが、思考すべき切実な課題とやらを文学に導入し、 何とか欠如を埋めようと善意の努力を傾けようとする点だ。 思想とは、 この欠如を充填すべく演じられる身振りにほかならぬ。 そしてその身振りは、 いくつもの解決すべき問題を捏造する。 イデオロギーとは、そうして捏造された諸問題がおさまるべき体系化された風景にふさわしい抽象的な名称なのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』P.244)

ーー《生なましく触知しえない現在に苛立つ》おバカなボクは、《詩へ、 小説へ、 批評へと向かわせる暇つぶし》をしているのである。お気をつけを!

とはいえかねてより、生なましく触知しうる現在の愛好家でもありたいと願うことしきりでもある。

・・・なにはともあれボクは、ジボナノンド・ダーシュの至高の詩句、『美わしのベンガル』(臼田雅之訳)の愛好家である。


君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に


ここでさらに安吾を引用したってよい。

浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」1951年)

とはいえボクの女房は「精神的な」浮気さえ許さないタイプではある・・・しかも当地は日本と異なり「父の名」がいまだ機能している国であり、昔風のヒステリーの発作もすぐさま起こる。

幸にして自然は緩和剤としての歇私的里(ヒステリー)を細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下に俯伏になって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端に蹲踞っている彼女を、後から両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。 

そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧として夢よりも分別がなかった。瞳孔が大きく開いていた。外界はただ幻影のように映るらしかった。 枕辺に坐って彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安が閃めいた。時としては不憫の念が凡てに打ち勝った。彼は能く気の毒な細君の乱れかかった髪に櫛を入れて遣った。汗ばんだ額を濡れ手拭で拭いて遣った。たまには気を確にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。 発作の今よりも劇しかった昔の様も健三の記憶を刺戟した。 

或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐た。紐の長さを四尺ほどにして、寐返りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。 或時の彼は細君の鳩尾へ茶碗の糸底を宛がって、力任せに押し付けた。それでも踏ん反り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。(夏目漱石『道草』)

もっともこの一週間、《毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐た》のは、妻側からなされ、夜間おしっこにいくのも一緒であった・・・さらにはあらゆる携帯機器、パソコンでさえ彼女の管理下にあり、彼女の現前外で許されたのはステレオ機器、あるいはYouTubeだけであったため、音楽をたっぷりきけるという「幸運」にみまわれた。




色が白くて小さい尻をした蕎麦屋の娘

 死ぬ前に、もう一度、その町に行ってみたい。町はず
れに月見草の咲く丘があって、静かな海が見える、その
小さい町だ。

 その丘に立って、ひととき、涼しい風に吹かれながら、
遠い沖合で、立ち上がっては崩れている白い波頭を眺め
ていたい。

 そうしていると、あたりに、いつのまにか、私と同じ
ように、海を見ている人たちが来ている。それぞれが、
一人一人、それぞれの場所に立って、海を見ている。

 その面立ちは定かでないし、服装もさまざまだが、私
にはわかる。みんな、過ぎ去った日々に私が出合ったこ
とのある、懐かしい人たちだ。

 みんな、一言もことばを交わさず、黙って、そこに立
っている。彼らのなかには、私が、死ぬような思いで、
別れなければならなかったひともいるが、そのひとも同
じように海を見ている。
(⋯⋯)
 遠い沖合で、白い波頭が立ち上がっては崩れている。
 遠い沖合で、白い波頭が立ち上がっては崩れている。
 私は、しかし、涼しい風に吹かれて、いつまでも、海
を見ているだけだ。おそらく、私は、もう私ではなくい
いのだ。これが、最後になるかもしれない。

 懐かしい人たちとともに、私は、次第に、自分の名前
の要らない私になってゆくのである。


ーーいやあ、ひどくほろりときてしまう詩だな、
わたくしは「理論的には」次の立場をとるし、
「経験的にも」今までのところそうだったけれど。

私はつぎのことを知っていたからだ、――バルベックの美 la beauté de Balbec は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。

またしてもまんまとだまされたくはなかった Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。(プルースト「見出された時」ーー「愛する理由(プルースト版)」)




以前にも粕谷栄市の詩にほろりときたことがある。


粕谷栄市「西片町」(「歴程」580 、2012年07月10日発行)

 夏の日、涼しい縁側で、片肘をついて、寝転んでいた
い。久しぶりに、おふくろのいる家に戻って、何もしな
いで、ゆっくりしていたい。
 一人前の左官職人になって、間もない私は、その日は、
仕事の休みの日だ。何もすることがないし、したいこと
もない。ただ、ぼんやり、横になって、片肘をつき、垣
根に咲いている、青い朝顔の花を眺めていたいのだ。
 考えていることといえば、まだ、よく知らない娘のこ
とだ。娘は、たしか、自分と同い年で、片西町の蕎麦屋
につとめている。色が白くて、小さい尻をしている。
 思えば、この私には、一生、そんな日はないのだけれ
ど。夢のなかの西片町の蕎麦屋に行くこともないのだけ
れど。もう、とっくに死んでいて、どこかの寺の墓石の
下で、若い左官屋の幻をみているのだけだけれど。


粕谷栄市「烏瓜」(「現代詩手帖」2011年12月号)

壁に懸けたそれを、枕から頭を起こして見て、女は、
悦んだ。からだの具合が悪くて、しばらく、彼女は、寝
たきりだった。どこにも行けなかったのだ。枕元に、薬
と粥を運ぶつらい日々だったが、烏瓜は、それでも、貧
しい暮らしを、少しは華やかにした。

 それは、思ったより長持ちして、いつまでも色褪せな
かった。けれども、ある日、私が、仕事から帰ると、女
は、死んでいた。
  何ともいいようのない思いだった。こんなにたやすく
人間の今生の別れはくるのだ。つい半月ほど前、せがま
れて、私は、痩せた彼女のからだを抱いていたのに。私
は、もう、そこにいられなかった。彼女を葬り、その家
を離れた。再び、戻ったことはない。

 それから、永い年月が過ぎている。今となっては、一
切が、遠い夢のようだ。だが、その夢のどこかに、あの
烏瓜がある。
 そこだけが明るい湖の舟の上で、彼女が、それを私に
指で教えている。松の木に絡んで、灯のように、烏瓜が
連なっている。

 それは、私の願いである。もし、天国があるとしたら、
死んで、私の行くところは、彼女のいるその舟の上なの
である。


2017年12月25日月曜日

美女度

◆ Brahms Symphony No.3 in F Major, Op.90 3mvt



SNU (Seoul National University ソウル大学校) Symphony Orchestraの映像だけれど、やけに美人揃いにみえる・・・(イヤイヤ、たぶんボクの気のせいだろう)

とはいえ、たとえば日本の桐朋学園オーケストラの面々の(現在の)美女度はどうなのだろうか、とふと思いを馳せることにはなる。

◆Yurii Bashmet Plays Brahms 1/3 : Clarinet Quintet







2017年12月24日日曜日

わたしの愛人

こんにちわ。玉河です。

おじいさん、孫が50人以上いるけど、わたしがいちばんきれいだっていってくれるわ。夫はうそつきよ、わたしはまだきれいなままだわ



ちょっとテニスのやりすぎでまえより黒くなっただけだわ




わたし、とっても機嫌がわるいの、わたしのディミトリー・ホロストフスキーが1月前、55歳で死んでしまってから。だから気をつけて。へんなこと言ってこないで。




Dmitri Hvorostovsky...his last great applause and a lot of tears



Сranes - Журавли́ - Zhuravli - Dmitri Hvorostovsky



"Где-То Далеко" Дмитрий Хворостовский (4.2003)





2017年12月23日土曜日

(無題)

妻がこのblogをオヨミになっているのを発見した。ボクにとっては驚天動地である・・・blogだけならまだしも・・・何ガ起コッタノカハ全ク記スコト不能デアル

彼女は難しい漢字を使用していない日本語文ならすらすらオヨミになられるのを今頃シッタ

数日前、妻から過去の写真やビデオの整理の手伝いをたのまれたのだが、そのうちのいくつかをここに貼り付けて、我が「日記」の読者である、20年前の初々しい少女に捧げ・・・(以下略)














人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。

私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女たちとも同じでないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』)

デハ、左様ナラ




2017年12月17日日曜日

ひとりの女とは何か?

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)


症状には大きく二つの意味がある。

①象徴界的症状、すなわち抑圧されたシニフィアン、あるいは欲動の心的表象

②現実界的症状、すなわち欲動自体にかかわるもの(Frederic Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE、2004)

フロイト概念においては、今ではほとんど注目されていない「現勢神経症」の症状が②に近似する(精神神経症が①)。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
…現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「心的に選択された、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論 Zur Onanie-Diskussion』1912)


冒頭のラカン文における症状は、現実界的症状ーーほとんど現勢神経症の症状としてよいーーであり、かつまた同じ時期(1975年)にラカンは言っているのだから、「症状=他の身体の症状」のことと判断しうる。

では「他の身体」とは何か。おそらく《われわれにとって異者としての身体(異物としての身体) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)(参照)に相当する。

《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》とはフロイト概念「異物Fremdkörper」のことである。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

※独語Fremdkörper の仏訳は corps étranger

この異物は、外密、モノ、あるいは対象aに相当する。

親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)


かつまた他の身体(症状)とは、他の性にかかわる。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。(Florencia Farìas 「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」(2010.PDF
他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)
性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体と⋯その「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)

⋯⋯⋯⋯

最近のジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdfーー女性の享楽と身体の出来事

ミレールのいう「身体の出来事」とは次のラカン文にある。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome(原固着・原症状)」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)

結局、このトラウマ的身体の出来事が、(ほぼ)ラカンにとっての〈女〉のことであるだろう。

⋯⋯⋯⋯

※附記

前中期のラカンはこう言っている。

大他者、それは身体である!L'Autre, …c'est le corps ! (ラカン、S14、10 Mai 1967 )
何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

このA(大他者)が、われわれにとっても最も親密な外部(異者)であり、トラウマ的身体の出来事である。ミレールを再掲すれば、

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

そして身体の出来事とは、構造的トラウマにかかわる。

我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、構造的トラウマ(性的ー欲動的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(ポール・バーハウ、1998, Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN)

ゆえに、《われわれは皆、トラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ミレール、«Vie de Lacan» , 17 mars 2010)


フロイト的にはトラウマ、あるいは原トラウマは次の状況にかかわる。

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit をトラウマ的 traumatische 状況と呼ぶ。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そして後に「事故的トラウマ」の寄る辺なさに遭遇すれば、原初の「構造的トラウマ」が蘇る傾向がある。

現在の(寄る辺なき)状況がむかしに経験した外傷的状況を思い出させる die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

2017年12月16日土曜日

真のアマチュア

かつての天才少年ナウモフが毎日、Youtubeに即興をアップしているのを知ったので、このところ就寝前にきいている(ほとんど聴かれていないようで、再生回数は一週間前のものでも20回程度)。

彼は真のアマチュア(愛する人)だ、ーー「amator」、すなわち、愛し、そして愛しつづける人ーー、彼の即興の多くには、バッハ、フォーレの痕跡、あるいは師匠の Nadia Boulanger の痕跡があるように感じるが、次のものは、スクリャービンの香りがする。

◆Improvisation 5650




◆Horowitz - Scriabin: Etude for piano in C# minor, Op. 2 no. 1



⋯⋯⋯⋯



Nadia Boulanger en Emile Naoumoff (by Bruno Monsaingeon)

◆Improvisation 5649




ーーみなさん、ぜひこのよれよれ男ナウモフを愛してあげてください!

コンサート・ピアニストとしてのナウモフのほうが実は仮の姿であり、上のよれよれ男が真のナウモフです。

◆Naoumoff's Schubert Sonata D.960







二つの現実界

ラカンは必然性 Le nécessaire、偶然性 le contingent、不可能性 l'impossibleについて、次のような言い方をしている(ここでは直接ラカンからではなく、Du « réel contingent »  Chantal Bonneau、2014、pdfから引く)。

①Le nécessaire c'est ce qui ne cesse pas de s'écrire
②le contingent c'est ce qui cesse de ne pas s'écrire
③l'impossible c'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 

③の l'impossibleとは、いわゆる現実界のことである(究極的には性的非関係のこと)

私の定式: 不可能性、それはリアルである ma formule : l'impossible, c'est le réel. (ラカン、RADIOPHONIE、AE431、1970)

この現実界、ne cesse pas de ne pas s'écrireは、英訳では次のように訳される。

・which does not stop not writing itself
・it does not stop not being written

すなわち、

・己を書かないことを止めないもの
・それ(現実界)は書かれないことを止めない

とすれば冒頭の文は次のように訳せる

①必然性 nécessaire :ne cesse pas de s'écrire 書かれ事を止め
②偶然性 contingent :cesse de ne pas s'écrire 書かれ事を止め
③不可能性 impossible:ne cesse pas de ne pas s'écrire 書かれ事を止め

ーーいやあ、自分で訳していても何のことか分からなくなる。

ところで②の偶然性について、ラカンは次のように言っている。

偶然性 la contingence を、わたしは、書かれぬ事をを止める cesse de ne pas s'écrire で示した。というのも、そこにはまさに出会い rencontre があるからである。(Lacan, S20、26 Juin 1973)

この出会いとは、テュケーのことである。

テュケー tuché の機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね rencontre manquée 」としての「現前 présence」である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマ traumatisme という形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、S11、12 Février 1964)

このセミネール11でラカンは、アリストテレスのテュケー/オートマン(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])を参照しつつ、「現実界との出会い rencontre du réel/シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」としている。

この考え方に依拠しつつ、上に示した必然性、偶然性、すなわち

①必然性 nécessaire :ne cesse pas de s'écrire 書かれる事を止めぬ
②偶然性 contingent :cesse de ne pas s'écrire 書かれぬ事を止める

は、次のように解釈されてきた(わたくしの知る限り)。

すなわち①は「シニフィアンのネットワーク」 、②は「現実界との出会い」と。

①は「シニフィアンのネットワーク」であるゆえに、「象徴界について、書かれる事を止めぬ」 とすることが、おそらくできる。たとえばフロイトの「自由連想」はこの領域にある(ポール・バーハウ,2001による)。

だがあるときその行き詰まりとして、③の「不可能性 impossible:ne cesse pas de ne pas s'écrire 書かれぬ事を止めぬ」に出会う。そのとき「書かれぬ事を止めぬ」ものである現実界は「書かれぬ事を止める」。

これが現実界との「出会い損ね rencontre manquée 」としての「現前 présence」である。

こういう解釈をとると、ラカンの次の文とピッタリくる。

現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)

すなわちシニフィアンのネットワークの形式化の行き詰まりに現れるものが、現実界である、とすることができる。

例えば、ジジェク の現実界の定義は、こういった解釈のもとにある。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


ところが、である。

ラカン臨床派の代表的二人はジジェクとは異なったことをいっている。その二人とは、ラカンの娘婿でもあるラカン主流派の首領ジャック=アラン・ミレール、そして女流分析家の第一人者コレット・ソレールである。二人とも、ラカンの現実界は1973年、セミネール20「アンコール」のある時期からラカンの現実界は変貌した、と。

とくに次の文が現代(臨床)ラカン派では注目されている(参照)。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )


ところでジジェクは、最近になってかつての師匠ミレールーー2004年には「私のラカンはミレールのラカンである」といったーーの現実界の捉え方を罵倒している(参照:「何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」)。

ミレールが「途方もなく間違っている」とジジェクがいうのなら、ジジェクが「途方もなく間違っている」可能性を疑わねばならない。

ミレールとソレールの解釈が依拠しているだろう、ひとつの核心的な文は、

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女La Troisième、1974)

である。

とすれば、

①必然性 le nécessaire :ne cesse pas de s'écrire 書かれ事を止め
②偶然性 le contingent :cesse de ne pas s'écrire 書かれ事を止め
③不可能性 l'impossible:ne cesse pas de ne pas s'écrire 書かれ事を止め
④症状 le symptôme: ne cesse pas de s’écrire du réel 現実界について書かれ事を止め

となる。④は①の必然性の表現と同じである。

ただし、わたくしの理解するかぎりでは、上にも示したように、

①は象徴界について、書かれ事を止め
④は現実界について、書かれ事を止め

であると思う。だが必然性はテュケーではなくオートマンであるには相違ない。

ゆえにミレールは次の図を示している(Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)




ーーこの図は、「いままでの常識的な解釈なら」、テュケーとオートマンの位置が逆になるはずである。

コレット・ソレールも2009年の書でしきりに強調している。象徴界内部の「形式化の行き詰まり」とは異なった、象徴界外にあるもうひとつの現実界を。

ここでは敢えて英訳のまま掲げる。

As for the Real, it ex-sists. Ex-sistence outside. This is very different from knocking up against a limit to formalisation in the symbolic combinatory, against an impossible to write. This latter limit, according to Lacan's expression, is a “function of the real” in the Symbolic, and to be distinguished from the Real outside the Symbolic, which is rather on the side of the living being. This is a living being about which we have no idea, which cannot be imagined and about which the Symbolic knows nothing—despite the life sciences.(Colette Soler 2009、L'inconscient Réinventé)

ソレールのいう「象徴界外」とは、たとえばラカンの次の文にある。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

この文にある他の享楽とは、女性の享楽のことである(参照:女性の享楽と身体の出来事

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

身体の出来事とは次の文に依拠する。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの文における「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》  (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)

そもそもトラウマ的な身体の出来事、その刻印の反復強迫が、象徴界の形式化の行き詰まりに現れるなどという定義には当てはまり難いのは確かであろう(典型的にはPTSD)。あの症状は「現実界について書かれる事を止めぬ」ものである。

フロイトの命題ーー『制止、症状、不安』のフロイトーー、それは断言している、すべての主体にとって、症状は不安から来ると。未知の享楽の出現、見られ聞かれ感じらた享楽の顕現、それとのトラウマ的、不意打ちの遭遇によって生み出された不安から来ると。すなわち「身体の出来事」である。この理由で私は信じている、フロイトは、症状的享楽を説明するなかで、決して大他者に有罪を着せていない、と。フロイトのあらゆるエディプス構築にもかかわらず、である。(コレット・ソレール2009、L'inconscient Réinventé)


※付記

上の文はかなり曖昧なまま書いているので要注意。ジジェクの現実界の定義を信用してきた者としては、なんとかあの定義文におさまる範囲で(あるいはいくらかの微調整で?)解釈できないものか、との思いがいまだある。二つの現実界などといわずに。




2017年12月15日金曜日

君はわが憩い

昨日、R・シュトラウスの「あしたには Morgen」で、ふと聴いた Janet Baker の「君はわが憩い」っていいな、高音部にやや難があるが(ボクの趣味では)、冒頭からの静けさがとってもいい(彼女のバッハとフォーレは「一聴では」はダメだった)。

◆Dame Janet Baker; "Du bist die Ruh"; Franz Schubert




この、長いあいだ好んできた「君はわが憩い」ーー9才のときからーーは、Gundula Janowitz と Elly Ameling の歌唱が好きだった。とくに Gundula Janowitz には崇高さがある。

この二人はさておき、Janet Bakerと、現在のボクのふたりの恋人とどっちがいいだろう。

◆Barbara Hendricks; "Du bist die Ruh"; Franz Schubert



◆Bernarda Fink; "Du bist die Ruh"; Franz Schubert




Bernarda Finkは曲全体というよりも、ある箇所でとてつもない裂目があらわれ、ああ、ああ! と叫びたくなる歌手だよ

「夜咲きすみれ Nachtviolen」のあの箇所、何度も記しているが、とてつもなく囚われちまったんだ。Bernarda Fink, "Nachtviolen"; Franz Schubert(1:38~

それとも顔がオッカサマに似ているせいかな・・・




つばさの玉虫色

八千矛神よ、この私はなよなよした草のようにか弱い女性ですから、私の心は浦や洲にいる鳥と同じです。いまは自分の思うままにふるまっている鳥ですが、のちにはあなたの思うままになる鳥なのですから、鳥のいのちは取らないでください……(高橋睦郎『古事記』現代語訳)


ムリな注文したらダメだよ、鳥のいのちをとるつもりは全くないね

すこし前方に、べつの一人の小娘が自転車のそばにひざをついてその自転車をなおしていた。修理をおえるとその若い走者は自転車に乗ったが、男がするようなまたがりかたはしなかった。一瞬自転車がゆれた、するとその若いからだから帆か大きなつばさかがひろがったように思われるのだった、そしてやがて私たちはその女の子がコースを追って全速力で遠ざかるのを見た、なかばは人、なかばは鳥、天使か妖精かとばかりに。(⋯⋯)

それらの鳥たちはいままたこの世界の美をつくりだしていた。それらの鳥たちはかつてはアルベルチーヌの美をつくりだしていたのであった。かつては私は彼女をそんな神秘な鳥のように見ていたのだ、ついで私は彼女をこの浜辺の大女優、みんなの欲望に訴える女、もしかすると誰かのものになっている女のように見たのだ。だからこそ彼女をすばらしい女だと感じたのであった。ある夕方堤防の道をゆったりした足どりであゆんでいるのを私が見かけた鳥、どこからきたかわからない鷗のようなほかの少女たちの団結にとりかこまれていた鳥、あのアルベルチーヌも、ひとたび私のところで囚われの身になると、そのつばさの玉虫色をことごとく失うとともに、ほかの者たちが彼女をわがものにする機会をもことごとく失ってしまったのだ。彼女はすこしずつその美を失ってしまったのだ。私が彼女を浜辺のかがやきのなかにもどしてその姿をふたたび目に見るためには、彼女がその種の散歩に私にではなく誰かほかの女なり若い男なりに言葉をかけられているのを私が想像する必要があった。(プルースト「囚われの女」) 


2017年12月14日木曜日

牛乳売の娘と「あしたには Morgen」

若い娘たちは若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいだいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう! (プルースト「ゲルマントのほうⅡ」井上究一郎訳)

◆R. Strauss "Morgen" Elisabeth Schwarzkopf/Glenn Gould




……そんなとき、突然私が目にとめるのは、雨にぬれた路面が日ざしを受けて金色のラッカーと化した歩道にあらわれて、太陽にブロンドに染められた水蒸気の立ちのぼるとある交差点の舞台のハイライトにさしかかる宗教学校の女生徒とそれにつきそった女の家庭教師の姿とか、白い袖口をつけた牛乳屋の娘とかであって、(……)バルベックの道路と同様に、パリの街路が、かつてあんなにしばしばメゼグリーズの森から私がとびださせようとつとめたあの美しい未知の女性たちを花咲かせながら、それらの女性の一人一人が官能の欲望をそそり、それぞれ独自に欲望を満たしてくれる気がする、そんな光景に接するようになって以来、私にとってこの地上はずっと住むに快く、この人生はずっとわけいるに興味深いものであると思われるのであった。(プルースト「ゲルマントのほうⅠ」)

◆Lotte Lehmann: "Morgen!" (R. Strauss)




私は窓のところに行き、内側の厚いカーテンを左右にひらいた。ほの白く、もやが垂れて、あけはなれている朝の、上空のあたりは、そのころ台所で火のつけられたかまどのまわりのようにばら色であった、そしてそんな空が、希望で私を満たし、また、一夜を過ごしてから、ばら色の頬をした牛乳売の娘を見たあんな山間の小さな駅で目をさましたい、という欲望で私を満たした。(プルースト「逃げさる女」)

◆Arlene Augér "Morgen" R.Strauss




風景が変化を増し、けわしくなり、汽車が二つの山のあいだの小駅にとまった。山峡の底、渓流のほとりに、一軒の番小屋が見えるだけであったが、その家は、窓とすれすれのところを川が流れ、まるで水中に落ちこんでいるようだった。かつてメゼグリーズのほうやルーサンヴィルの森のなかをひとりでさまよったとき、突然あらわれてこないものかとあんなに私がねがったあの農家の娘よりもひときわまさって、ある土地の生んだ人間にその土地独特の魅力が感じられるとすれば、このときその小屋から出てきて、朝日が斜めに照らしている山道を、牛乳のジャーをさげながら駅のほうへくるのを私が見た背の高い娘は、まさにそれであったにちがいない。

山がけわしくて他の世界から隔絶しているこんな谷間では、彼女が見る人といっては、わずかのあいだしか停車しないこうした汽車の乗客よりほかにはけっしてないだろう。彼女は車輌に沿って歩きながら、目をさました数人の乗客にミルク・コーヒーをさしだした。その顔は朝日にぱっと映え、空よりもばら色であった。私はその娘をまえにして、われわれが美と幸福との意識をあらたにするたびに心によみがえるあの生きたいという希望をふたたび感じた。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげにⅠ」井上究一郎訳、以下同様)

◆Janet Baker sings 'Morgen' by Richard Strauss (Pianist: Gerald Moore)




われわれは美と幸福とが個性的なものであることをいつも忘れている、そして、いままでに気に入ったさまざまな顔や、かつて経験したいろんな快楽をつきまぜ、そこから一種の平均をとってつくりあげる一つの因習的な型を、心のなかで、美や幸福に置きかえてしまい、無気力な、色あせた、抽象的な映像しかもたなくなっている、そうした映像には、かつて知ったものとは異なる、新しい、ういういしいあの性格、美と幸福とに固有のあの特徴が失われているというわけだ。そしてわれわれは、人生について悲観的な判断をし、それを正しいと思っている、そのじつ、美も幸福も見おとして、それらの一原子さえもふくまれない綜合に置きかえながら、両者を考慮に入れたつもりになっていた。

だから、新しい「名作」だといわれても、ある文学通は、そんなものにたいして、読みもしないまえから退屈のあくびをする、なぜなら彼は、いままでに読んだ名作の一種の合成物を想像するからである、それにひきかえ、ほんとうの名作というものは、特殊なもの、予見できないものであって、それ以前の傑作の総和から生まれるものではなく、この総和を完全にとりいれてもまだ見出すのに十分ではない何物かから生まれるのである、なぜなら、真の名作はまさにその総和のそとにあるのだから。そうした新しい作品を知ったとなると、先ほどまで無関心だった文学通も、そこに描かれている現実に興味を感じる。

このようにして、私がひとりでいるときに思考に描く美のモデルとは異質なこの美しい娘は、たちまち私にある種の幸福の味(われわれが幸福の味を知ることができるのは、そういうつねに特殊の形式のもとでしかない)、彼女のそばで暮らせば実現されるであろうと思われる幸福の味を私にあたえた。しかし、ここにもやはり習慣の一時的休止が多分に作用しているのであった。彼女と向かいあっているのは、強い悦楽を味わうことの可能な充実した状態にある私の存在だったということで、私は偶然その場にあらわれたこの牛乳売の娘を特権化しているのであった。

◆Gundula Janowitz, Soprano. Richard Strauss, Morgen



普通はわれわれは自己の存在を最小限に縮小して生きているのであって、われわれの能力の大部分は眠っている、なぜならわれわれの他の能力は習慣の上に寄りかかって休息していて、習慣はただ自分のやるべきことだけを知っていて、われわれの他の能力のたすけを必要とはしないからである。ところがこの旅行の朝は、私の生活の慣例の中断や、場所と時間との変化などが、他の能力のたすけを欠くことのできないものにしてしまったのであった。いつも部屋にとじこもって生活し、朝早く起きることがなかった私の習慣は、欠陥をあらわし、その欠陥を補うために、私の他のあらゆる能力がはせ参じ、たがいに熱心をあらそいーーすべてが波のように一様につねよりも水準を高めーーもっとも低級なものからもっとも高尚なものへ、つまり呼吸、食欲、血液循環から、感受性、想像力へと高まったのであった。

この娘が他の女たちに似ていないと私を信じさせたかぎりにおいては、この地方の野生の魅力が娘の魅力に花をそえていた、といっていいのかもしれないが、しかし彼女もこの土地に魅力をそえていた、といえるのであった。せめてこの娘といっしょに、つぎからつぎへと時間をすごし、渓流のところまで、乳牛のところまで、汽車のところまで、連れだってゆき、いつも彼女のそばにいて、彼女に気心を知られていると感じ、彼女の思考のなかを自分で占めることができたら、人生はどんなにたのしいものに思われるだろう。彼女は田舎暮らしの魅力と早朝の数時間の魅力とを私に教えてくれるだろう。

◆Jessye Norman sings "Morgen" by Richard Strauss



私はミルク・コーヒーをもってきてくれるように合図した。娘に目をつけてもらいたい欲求が私にわきおこっていた。彼女は私を見なかった、私は彼女を呼んだ。非常に大柄なからだの上の、その顔の色は、じつにあざやかな金色とばら色なので、まるでかがやくステーンド・グラスを通してながめられているようだった。彼女はこちらにひきかえしてきた、私は彼女の顔から目を離すことができなかった、その顔はだんだん大きくなり、まるで太陽のようで、はじめはじっと見つめられそうだが、だんだん近づいて、こちらのそばまでやってきて、そばでながめられるようになると、ぱっと金色と赤でまぶしく目を射るかのようであった。彼女は私の上に鋭い視線を投げたが、そのとき乗務員がデッキのドアをしめ、汽車は動きだした、私は娘が駅を去って、また元の山道をひきかえしてゆくのを見た、もうすっかりあけはなれた朝であった、私は暁から次第に遠ざかっていった。

この娘が原因で、私の高揚が生みだされたのか、それとも逆に、私の高揚が原因で、この娘を間近に見たときのあの快楽の大部分がひきだされたのか、ともかくも、彼女は私の快楽と非常に深くまじりあっていたので、彼女をもう一度見たいという欲望は、何よりもまず、この高揚の状態をすっかり消滅させたくない、この高揚にそれとは知らずに協力していたひとと永久にわかれたくない、という精神的な欲望になるのであった。それは単にこの状態が快いものであったからばかりではない。それはとりわけ(弦をさらに強く緊張させ、神経をさらに早く振動させるとき、ちがった音色、ちがった顔色を生むように)、この状態が、私の見ているものにちがった色調をあたえ、俳優とおなじはたらきをして、私をかぎりなくたのしい未知の世界に連れこんでいたからなのだ。

汽車が速度をはやめだしたあいだも私はまだじっとその美しい娘を目で追っていたが、その姿は、私の知っている人生とは何かのふちかざりでへだてられた、べつの人生の一部分のようであり、そこにあっては、物の呼びさます感覚は、もはや普通の感覚ではなく、いまそこから出て元の人生に帰ることは、私自身を永久に見すてるにもひとしかったであろう。すくなくとも、そうした新しい人生につながっていると感じる甘美な気持をつづけてもつには、毎朝ここへきてこの田舎娘からミルク・コーヒーを買うことができるように、この小さな駅のすぐ近くに住めばよかったであろう。

◆Barbara Bonney; "Morgen!"; Richard Strauss




しかし、ああ! 私がこれから次第に早くそのほうにはこばれてゆくべつの生活には、彼女はつねに不在なのだ。かならずいつかまたこのおなじ汽車に乗り、このおなじ駅にとまれるようにしよう、そうしたプランを立てないではとても私はあきらめてこれからの生活を受けいれる気にはなれなかった。そうしたくわだては、利己的な、能動的な、実際的な、機械的な、怠惰な、遠心的な、このわれわれの精神のもちかたを、いくぶんひきたててくれる役には立った、というのも、われわれの精神はすぐに努力を回避して、たのしい印象をもったあとでも、それを普遍的な公平な方法で自己のなかに深めてゆくことを怠るからである。そして他方、われわれはそうした印象をいつまでもつづけて考えたい欲望をもつのだから、精神は、そうした印象を未来のなかに想像し、それをふたたび生まれさせることのできるような情勢をなんとかしてうまく準備しようと望む、しかしそのときは、もう印象の本質について教えてくれるものは何も残っていない、精神はただわれわれに、印象をわれわれの内部に再創造する骨折を省かせ、外部からあらたにそれをひきだしてこさせようとするだけなのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅠ」井上究一郎訳)

◆Elisabeth Schumann; "Morgen!"; Richard Strauss




どれがいいとはまったく言えないな、グールドのピアノにことさら惹かれるとはいえ。

Jessye Normanのイントロにおける神々しい表情、あまりきいたことがなかったJanet Bakerの遠くからやってくるような冒頭。それに Lotte Lehmann や Elisabeth Schumannーー戦前の名歌手ーーの濃密な、漲った声音にどうして惹かれないでいられよう(今は名を挙げていない歌手は、バッハ歌いやフォーレ歌いとして、かつてから愛する歌手)。

朝と夕、昨日と今日、魂の高揚と沈着⋯⋯それぞれによって愛する演奏はかわってしまう。

諸君は自分が何を望んでいるか実際に知っているか? ――自分たちは真であるものを認識するには全く役に立たないかもしれない。この不安が諸君を苦しめたことはないか? 自分たちの感覚はあまりにも鈍く、自分たちは敏感に見ることさえやはりあまりにも粗っぽすぎるという不安が? 

自分たちが見ることの背後に昨日は他人よりも一層多くを見ようとしたり、今日は他人とは違ったように見ようとしたり、あるいは諸君がはじめから、人々が以前に見つけたと誤認したものとの一致あるいは反対を見出そうと渇望していることに、気づくとすれば! おお、恥辱に値する欲望! 

諸君はまさに疲れているためにーーしばしば効果の強いものを、しばしば鎮静させるものを探すことに、気づくとすれば! 真理とは、諸君が、ほかならぬ諸君がそれを受け入れるような性質のものでなければならないという、完全で秘密な宿命がいつもある! 

あるいは諸君は、諸君が冬の明るい朝のように凍って乾き、心に掛かる何ものも持っていない今日は、一層よい目を持っていると考えるのか? 熱と熱狂とが、思考の産物に正しさを調えてやるのに必要ではないか? ――そしてこれこそ見るということである! 

あたかも諸君は、人間との交際とは異なった交際を、一般に思考の産物とすることができるかのようである! この交際の中には、等しい道徳や、等しい尊敬や、等しい底意や、等しい弛緩や、等しい恐怖感やーー諸君の愛すべき自我と憎むべき自我との全体がある! 

諸君の肉体的な疲労は、諸事物にくすんだ色を与える。諸君の病熱は、それらを怪物にする! 諸君の朝は、事物の上に夕暮れとは違った輝き方をしてはいないか? 

諸君はあらゆる認識の洞窟の中で、諸君自身の幽霊を、諸君に対して真理が変装した蜘蛛の巣として再発見することをおそれてはいないか? 諸君がそのように無思慮に共演したいと思うのは、恐ろしい喜劇ではないのか? ――(ニーチェ『曙光』539番)

2017年12月13日水曜日

ラカンファンという阿呆

いやあなんか言ってくるヤツがいるが、たかがブログだよ、何を書いたっていいだろ。そもそもラカンなんかいまどき有難がってるヤツがマヌケだよ。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

これが後期ラカン理論の核心だとしたら、フロイトにあるのさ、すでに。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

⋯⋯⋯⋯

女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールはこう言っている。

フロイトの命題ーー『制止、症状、不安』のフロイトーー、それは断言している、すべての主体にとって、症状は不安から来ると。未知の享楽の出現、見られ聞かれ感じらた享楽の顕現、それとのトラウマ的、不意打ちの遭遇によって生み出された不安から来ると。すなわち「身体の出来事」である。この理由で私は信じている、フロイトは、症状的享楽を説明するなかで、決して大他者に有罪を着せていない、と。フロイトのあらゆるエディプス構築にもかかわらず、である。(コレット・ソレール2009、L'inconscient Réinventé)

コレット・ソレールのいってることの、フロイト文を短く抜き出すのは、 やや困難だが、ま、次の文だな、たとえば。

不安――危険――寄る辺なさ(トラウマ)Angst – Gefahr – Hilflosigkeit (Trauma) という系列の順序にしたがって、次のように総括することができる。危険状況は、知られた、思いだせる、予期される erkannte, erinnerte, erwartete 寄る辺なき状況 Situation der Hilflosigkeitである。

不安はトラウマにおける寄る辺なさHilflosigkeit im Traumaにたいする原反応であって、この反応は後になって危険状況におかれたとき、援助の信号として再生される。

トラウマを受動的に体験した自我は、能動的にこの反応の再生を、よわめられた形ではあるが繰り返す Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt hat, wiederholt nun aktiv eine abgeschwächte Reproduktion desselben。…

子供はすべての苦痛な印象にたいして、それを遊びで再生しながら、同様にふるまうことをわれわれは知っている。このさい子供は、受動性から能動性へ移行することによって、彼の生活の出来事を心的に克服しようとするのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

主流ラカン派の首領ジャック=アラン・ミレールだってこう言っている。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)

ようは『制止、症状、不安』を読んどけばいいのさ、まずは。

 コレット・ソレールのいっているようにエディプス理論はだめだよ、でもそのエディプスさえ「抜き取り」すれば、ラカンなんてのはほとんどいらないよ、ラカンは熱心なフロイト注釈者にすぎない、どうも「ほとんど」そうらしいな(ま、これは言い過ぎかもな)。

エディプス・コンプレックス自体、症状である(« complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD、ラカン )。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

ようはエディプスコンプレクスとか去勢不安、ペニス羨望は鼻をつまんで読む必要はたしかにある。これらの概念は、ドゥルーズ が『シネマ』でベルクソンやパースの哲学を一新しようとしたときの手法「抜き取り」をしなくちゃな、エディプスなんてのは特に《固定化した不変の要素、何か澱んだ、生成変化(devenir)から切り離された要素》(Deleuze et Bene 1979)なんだから。


※付記

上のポール・バーハウの文に症状との同一化とあるのは、そのままの同一化ではなく、同一化しつつ距離をとること。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)




愛する理由(プルースト版)

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

⋯⋯⋯⋯

【人間版:愛する理由】
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト「ゲルマントのほうⅡ」)
出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト「逃げ去る女」)
ところで、ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。(プルースト「逃げ去る女」)
相手の人間に愛をそそられるよりも、相手にすてられることによって愛をそそられるのは、ある種の年齢に達した者の運命で、その年齢は非常に早くくることがある。すてられていると、相手の顔面はわれわれに不明瞭で、相手の魂もどこにあるのかわからず、相手を好きになりだしたのもごく最近で、それもなぜなのかわからず、ついに相手のことではたった一つの事柄しか知ろうとしなくなる。つまり、苦しみをなくすためには、どうしても相手から、「お会いになっていただけるでしょうか?」という伝言をわれわれのもとにとどけさせる必要がある、という一事だけだ。「アルベルチーヌさまはお発ちになりました」とフランソワーズが告げた日の、アルベルチーヌとの離別は、ほかの多くの離別の一つのアレゴリー、むしろひどくは目立たない一つのアレゴリーといってもよかった。ということは、われわれが愛していることを発見するためには、またおそらく、愛するようになるためにさえも、しばしば離別の日の到来が必要だということなのである。(プルースト「逃げさる女」)
知りあう前に過ちを犯した女、いつも危険な状態にひたりきった女、恋愛の続くかぎり絶えず征服し直さねばならない女がとくに男に愛されるということがある。(プルースト「 囚われの女 Ⅱ」)


【風景版:愛する理由】
私はつぎのことを知っていたからだ、――バルベックの美 la beauté de Balbec は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。

またしてもまんまとだまされたくはなかった Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。(プルースト「見出された時」)


【芸術版:愛する理由】
人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。

それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)


運命強迫

真に自己自身の所有に属しているものは、その所有者である自己自身にたいして、深くかくされている。地下に埋まっている宝のあり場所のうち自分自身の宝のあり場所は発掘されることがもっともおそい。――それは重さの霊がそうさせるのである。(……)

まことに、人間が真に自分のものとしてもっているものにも、担うのに重いものが少なくない。人間の内面にあるものの多くは、牡蠣の身に似ている。つまり嘔気をもよおさせ、ぬらぬらしていて、しっかりとつかむことがむずかしいのだーー。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

《もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。》(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

人皆の根底にはその人の「原則」が巨大な文字で彫りつけてある。それをいつも見つめているわけではない。一度も読んでいないことも稀ではない。だが人はそれをしっかり守り、人の内部の動きはすべて、口では何と言おうとも、書かれているところに従い、決して外れることはない。考えも行いもそれに違うことはない。心の奥のそこには傲慢、弱点、頬を染める羞恥、中核的恐怖、孤立、なべての人が持つ無知がきらめいていて、世にあるほどのバカげた行為をいつも今にもやらかしそうだ―――。

愛しているものの中にあれば弱く、愛しているもののためとあらば強い。(ヴァレリー『カイエ』Ⅳ 中井久夫訳)

⋯⋯⋯⋯

精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎに三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)

以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び、fort-da「いないいないばあ」のこと:引用者)。

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い衝動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。

運命強迫 Schicksalszwang とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

「ぼくは彼女とは生きられない、だがまた彼女なしでも生きられない」

あの女をごらん、
彼女をせせら笑っているみたいに開いている戸口の
明りを浴びて、君の方へためらっている。
その彼女の着物の裾は裂け
砂利で汚れているだろう、
彼女のまなじりは
曲ったピンのようにねじれているだろう。

ーーエリオット「風の夜の狂想曲』 深瀬基寛訳


(Vivien Eliot、1920)


「いつもでわたしは信じていますのよ、
あなたはわたしの気持を理解してくださる、共感してくださる、
底なしの溝を超えて、あなたのお手をさしのべてくださると。

なんてあなたは不死身なのね、アキレス腱もないのだわ。
あなたはそれでいいのでしょう、それで押し通していったなら、
おっしゃれますわね、世間のたいていの人間がつまずくのは此処だとね。
でもわたしには、でもわたしには、いったいあなたに
なにがあげられるっていうの? あなたはなにをわたしから受けとれるっていうの?
旅路の果てもそろそろ近づこうという女の
差しのべる友情と思いやりだけのものではないのかしら。
みなさんにお茶でも入れながら、わたしはここの坐って暮すのね……」

ーーーエリオット「或る婦人の肖像」より 深瀬基寛訳





性差の相反する特徴(参照)が意味するのは、性関係への障害として現れたものが同時に、性関係の可能性の条件であることである。ーーここでの「否定の否定」は、障害から免れるとき、我々はまた、障害が妨げていたものを喪失するということである。

我々は現在、エミリー・ヘイル Emily Hale が T. S. エリオットの「沈黙の淑女」、すなわち目立たない愛着の対象であったことを知っている。長い年月のあいだの妻ヴィヴィアンとの離れ離れの生活において。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

(Vivienne Haigh-Wood Eliot and T.S. Eliot, 1931)


この、ほとんど20年の間中、エリオットは、エミリーと結婚するために自由になる時を待ち続けていた。しかし何が起ったのか、エリオットが、1947年1月23日ヴィヴィアンの死を知らされた時。

彼は妻の死に動顛したのだが、その後の成行きはさらに驚かされるものだった。今、予期せずエリオットは、自由にエミリー・ヘイルと結婚できるようになった。この15年間の間、彼女と彼の家族はそれがエリオットの望むところだと信じていた。だが唐突に彼は悟ったのだ、共に生活しようとするどんな情熱も欲望もないことを。

「おれは中年の男としての己に出会った I have met myself as a middle‐aged man」と新しい詩劇『カクテル・パーテイ』の主人公は言う。主人公は気づいたのだ、彼の妻がいなくなったあと、輝かしい、献身的なシーリア Celia と結婚しようという切望を喪失してしまったのだ。最悪の瞬間、と彼はつけ加える、それは、もっとも手に入れたいものへのすべての欲望を失ったと感じたとき、と。

(Emily Hale、1914)


問題は、妻のヴィヴィアンが、その期間を通してエリオットの「症状」のままだったことにある。彼の多義的なリビドーの注入の「つなぎ目」だったのである。「ヴィヴィアンの死は、エリオットの責苦の焦点の喪失を意味する」(Lindall Gordon)、あるいは、エリオット自らが『カクテル・パーティ』の主人公を通して、このトラウマのフィクションによる開陳であるならば、「ぼくは彼女とは生きられない、だがまた彼女なしでも生きられない I cannot live with her, but also cannot live without her」。

《ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である!

Pour qui est encombré du phallus : « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! 》(ラカン、S22、21 Janvier 1975)


ヴィヴィアン-〈モノ das Ding〉の堪えがたい核心は、彼女のヒステリー的暴発に凝縮される。エリオットは決してヴィヴィアンをその保護施設に訪うことはなかった。というのは彼は怖れたのだ、「彼女の激情する要求…抵抗しがたい‘Welsh shriek’(ウェールズ女の金切り声の力」(Lindall Gordon)を。

ヴィヴィアンはレベッカのようであり、それに対してエミリーは新しいウィンター夫人だ。「絶え間ない圧迫と非現実性/その役割をもって彼女はほとんど私に押しつけようとした/執拗な、無意識の、人間の奈落にある力で/ある種の女が備えているもの The whole oppression, the unreality / Of the role she had almost imposed upon me / With the obstinate, unconscious, sub‐human strength / That some woman have」

このように、彼女はエリオットの欲望の対象-原因だった。それが彼にエミリーを欲望させたのだ。あるいは彼は彼女を欲望していると信じさせたは不思議ではない。そしてヴィヴィアンが消え去った瞬間、彼女とともにエミリーへの欲望も消え去った。エリオットのもつれた糸から引き出せる結論は明白である。すなわちヴィヴィアン、あるいはエミリーとの関係のいずれにも愛はなかった。というのは、ラカンが指摘するように、愛は性関係の不可能性を補うものだから。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)


※モノ=対象a

親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)

1947年の安吾

1947年6月1日

坂口安吾といふ三文々士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主にならうとしたり五年間思ひつめて接吻したら慌ててしまつて絶交状をしたゝめて失恋したり、近頃は又デカダンなどと益々もつて何をやらかすか分りやしない。もとより鑑賞に堪へん。第一奴めが何をやりをつたにしたところで、そんなことは奴めの何物でもない。かう仰有るにきまつてゐる。奴めが何物であるか、それは奴めの三文小説を読めば分る。教祖にかゝつては三文々士の実相の如き手玉にとつてチョイと投げすてられ、惨又惨たるものだ。 

ところが三文々士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、専らその方に心掛けがこもつてゐて、死後の名声の如き、てんで問題にしてゐない。教祖の師匠筋に当つてゐる、アンリベイル先生の余の文学は五十年後に理解せられるであらう、とんでもない、私は死後に愛読されたつてそれは実にたゞタヨリない話にすぎないですよ、死ねば私は終る。私と共にわが文学も終る。なぜなら私が終るですから。私はそれだけなんだ。(坂口安吾「教祖の文学」 初出:「新潮 第四四巻第六号」1947(昭和22)年6月1日発行)
我々小説家が千年一日の如く男女関係に就て筆を弄し、軍人だの道学先生から柔弱男子などと罵られてゐるのも、人生の問題は根本に於て個人に帰し、個人的対立の解決なくして人生の解決は有り得ないといふ厳たる人生の実相から眼を転ずることが出来ないからに外ならぬ。(坂口安吾「咢堂小論」初出1947(昭和22)年6月1日)
哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾「金銭無情」初出:「別冊文藝春秋 第二巻第三号」文藝春秋新社 1947(昭和22)年6月1日発行)


1947年1月1日
坂口安吾などというのが、本当はインチキそのものなので、私が偉そうに、先輩諸先生をヤッツケ放題にヤッツケているのなど、自分自身のインチキ性に対する自戒の意味、その悪戦苦闘だということを御存知ない。(坂口安吾「戯作者文学論――平野謙へ・手紙に代えて――」初出:「近代文学 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)
編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」初出:「新小説 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)


1947年は安吾もっとも多作の年であり、かつまた梶三千代と出会い、結婚した年である(参照)。

私は知っている。彼は恋に盲いる先に孤独に盲いている。だから恋に盲いることなど、できやしない。彼は年老い涙腺までネジがゆるんで、よく涙をこぼす。笑っても涙をこぼす。しかし彼がある感動によって涙をこぼすとき、彼は私のためでなしに、人間の定めのために涙をこぼす。彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。(坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」 初出:「愛と美」朝日新聞社 1947(昭和22)年10月5日発行)





2017年12月10日日曜日

女性の享楽と身体の出来事

ラカン概念の「女性の享楽」は(一部で)神秘的に語られすぎていように思える。ここでは、この概念の脱神秘化のための資料のいくつかをーー長くなり過ぎないようにできるだけ簡潔にーー掲げる。

 まず晩年のラカンの身体の出来事という表現のある文を示す。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》  (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)

ラカンはこの症状(サントーム)を、「他の身体の症状 symptôme d'un autre corps」、「ひとりの女 Une femme」とも表現している。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

アルゼンチンの女流ラカン派 Florencia Farìas ーーほとんど無名だろうーーは、次のように記している。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。(Florencia Farìas 「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」(2010.PDF

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さてここから、本題である女性の享楽、--ジャック=アラン・ミレールによってようやく最近になって明瞭に注釈されるようになった「女性の享楽 jouissance féminine」をめぐる。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

「トラウマ」あるいは「固着」という用語が出てきているように、実際はフロイトにすでにある。

たとえば次の文には、出来事、固着という用語が出てきているように直接的にラカン概念「女性の享楽」にかかわる、とわたくしは思う。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917

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つぎにフロイトによる「トラウマ」(そして異物)をめぐる記述をいくらか抜き出す。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。

das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この「異物 Fremdkörper」の仏訳は「corps étranger」(異物、異者)であり。 晩年のラカンの《我々にとって異者である身体 un corps qui nous est étranger》(S23)に相当する(参照:女とは「異者としての身体」のこと)。

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次に固着である。この固着とは事実上、原固着のことであり、原抑圧のことである。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(フロイト『抑圧』1915)
もちろん人間はだれでもすべての可能な防衛機制 Mechanismen nicht aufgelassen を利用するわけではなく、それらの中のいくつかを選ぶのであるが、その選ばれた防衛機制は、自我の中に固着 fixierenし、その性格の規則的反応様式 regelmäßige Reaktionsweisenとなって、その人の生涯を通じて、幼児期の最初の困難な状況に類似した状況が再現されるたびに反復される。かくしてそれは幼児症 Infantilismenとなり、有効期間を超えてもなおあとまで残ろうとする社会制度と同じ運命を分かつものとなるのである。詩人の嘆くように、「道理は不合理となり、博愛は苛責になる Vernunft wird Unsinn, Wohltat Plage」のである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

原抑圧とほぼ等価なものとして、フロイトは次の語彙群を使用してもきた。

・夢の臍 Nabel des Traums
・菌糸体 mycelium、
・我々の存在の核 Kern unseres Wesen
・真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle
・欲動の固着 Fixierungen der Triebe
・リビドーの固着 Fixierung der Libido、Libidofixierung
・欲動の根 Triebwurzel


原抑圧(固着)にかかわる表現として、ラカンにも種々の表現の仕方があるが(参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)、ここでは「欲動の現実界」のみを掲げる。

・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトが言った)「夢の臍 Nabel des Traums」 を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

この穴 trou は「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」とも呼ばれる(ラカン、S21、19 Février 1974 )

⋯⋯⋯⋯

以上、女性の享楽は(基本的には)解剖学的女性とは関係がない。

なによりもまず身体の享楽、これが女性の享楽である。

非全体 pas toute の起源…それは、「ファルス享楽 jouissance phallique」ではなく「他の享楽 autre jouissance」を隠蔽している。いわゆる「女性の享楽 jouissance dite proprement féminine」を。 …(ラカン、 S19,、03 Mars 1972)
ファルスの彼岸 au-delà du phallus には、身体の享楽 jouissance du corps がある。(ラカン、S20、20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

上にある、女性の享楽に相当するファルス享楽の彼岸の「他の享楽」は、現代ラカン派では「自ら享楽する身体 le corps qui se jouit」 ともされる。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )

この話す身体 le corps parlant が、自ら享楽する身体である。


言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、(自ら)享楽する身体corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

上に「女性の享楽は(基本的には)解剖学的女性とは関係がない」としたが、実際のところファルス秩序(象徴的法、言語の法)に囚われているのは、解剖学的男性のほうが解剖学的女性よりも多い、とはいえる(父の法への服従)。もし「女性」というシニフィアンがなんらかの意味合いをもつならそこにある。


ーーこの図の注釈は「ヒステリー的身体と女の身体」を見よ。

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※付記

わたくしはアルトーをほとんど読んだことがないので、ここでは憶測として記すが、《私の内部の夜の身体を拡張することdilater le corps de ma nuit interne》とするアルトー、あるいは「身体なき処女」「性なき処女」を語るアルトーは、あきらかに女性の享楽の人であるだろう。


女性が改悪した自然の力が女性に反対して、女性によって解放されるであろう。この力とは死の力である。Une force naturelle que la femme avait altérée va se libérer contre la femme et par la femme. Cette force est une force de mort.

それは性の暗い貪欲さを持っている。それが呼び覚まされるのは女性によってであるが、統率されるのは男性によってである。男性から切除された女性なるもの、かつて女性が踏みにじった男性たちの鎖に繋がれた優しさがあの日一人の処女を復活させたのだ。しかしそれは身体もなく、性もない処女であって、ただ精神のみが彼女を利用できるのである。

ELLE A LA RAPACITÉ TÉNÉBREUSE DU SEXE. C’EST PAR LA FEMME QU’ELLE EST PROVOQUÉE MAIS C’EST PAR L’HOMME QU’ELLE EST DIRIGÉE. LE FÉMININ MUTILÉ DE L’HOMME, LA TENDRESSE ENCHAÎNÉE DES HOMMES QUE LA FEMME AVAIT PIÉTINÉE ONT RESSUSCITÉ CE JOUR-LÀ UNE VIERGE. MAIS C’ÉTAIT UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE, ET DONT L’ESPRIT SEUL PEUT PROFITER.(『存在の新たなる啓示』)

事実、ラカン派(ミレール派)のPierre-Gilles Guéguenは、次のように語っている。

ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF

これを読めばアルトーの 「グロソラリ(舌語)」を想起せざるをえない。

ーーララング(母の言葉、母の舌語)とともに語られることの多い女性の享楽だが、それは「ララングという母の言霊」を見よ。

かつまた Pierre-Gilles Guéguen は次のようにも言う。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を示す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016)

自閉症的享楽、これが「自ら享楽する身体」である。

なぜラカンは、このセミネール10「不安」において、執拗なまでに、小文字のaを主体の側に、大他者ではない側に位置させたのであろうか。小文字のaは、いわば、己れ固有の身体の享楽 jouissance du corps の表現、変形であり、自閉症的 autistique、閉じた fermé 享楽だからである--ラカンは、aを、フロイトのもの das Ding とも呼べる次元まで閉じたferméeものにしたのである--、他方、欲望は大他者と関係する le désir est relation à l'Autre。それゆえ、享楽と欲望とのあいだには二律背反 antinomie 、裂目 béance がある。享楽は、簡単に言ってしまえば、場処としてcomme lieu、己れ固有の身体 le corps propreであるが、欲望は大他者との関係を結んでいる。このような腑分けはまた、10年後、セミネール「アンコール」で大きな展開を見ることとなる。(J.-A. Miller, Introduction à la lecture du Séminaire L'angoise de Jacques Lacan, 2005 )

 上にみたように身体の享楽=女性の享楽であり、女性の享楽とは、自ら享楽する身体を表現する。だがなぜ自ら享楽するのか。

それはトラウマ的な純粋な身体の出来事のせいだ、というのが現代主流ラカン派の解釈である、《女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps》 (ジャック=アラン・ミレール 、Cours L'Être et l'Un 2011)



2017年12月7日木曜日

男女の「愛の条件」

愛することは、愛されたいということである」で、一応メモしたけどさ、あんまり難しいこと考えないで次の文でいいんだよ。

ーーわたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

それはフロイトが Liebesbedingung と呼んだものです、すなわち愛の条件 la condition d'amour、欲望の原因 la cause du désir(対象a) です。これは固有の特徴 trait particulier なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛される人を選ぶ決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの風変わりで内密な個人的歴史にかかわります。この固有の特徴はときには微細なものが効果を現わします。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の「鼻のつや Glanz auf der Nase」でした。
――そんなつまらないもので生まれる愛なんて全然信じられない!

無意識の現実 La réalité de l'inconscient はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、《神の宿る細部 divins détails》によって基礎づけられているかを。

とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュのようなものが愛の進行を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の想起、あるいは兄弟や姉妹、あるいは幼児期における誰かの想起もまた、愛の対象としての女性の選択に役割をはたします。

でも女性の愛のあり方は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的 érotomaniaqueです。女性は愛されたい veulent être aimées のです。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(E733)ってラカンは言ってるけどさ、ニーチェの《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。》(『ツァラトゥストラ』)だっていいさ。

もちろん最近は男も女性化してんだから、男のなかには「彼女は欲する」ってのがいいヤツがいっぱいいるかもしれない。父なき時代は、《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(ラカン、エトゥルディ、1972)の時代だからな(女性への推進力、男性への推進力)。

オレは愛なんて何なのかなんてわからんね、わからんからメモってるだけさ。ま、たぶんおおむねそんなんだろうっていう程度さ、人によって違うし、男や女のなかにもいろいろある。

なんで男女の相違がそうなるのか、ってのもおおむねたぶん次のようだろう、ってだけだな。

男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。…

反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。…

この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な帰結は、彼女たちは関係性それ自体により多く注意を払うようになるということである。(ポール・バーハウ1998、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、Paul Verhaeghe)


2017年12月5日火曜日

愛することは、愛されたいということである

愛する者 L'amoureux は錯乱 délire している(彼は「価値観を転倒せしめる」のだ)。ただし、その錯乱はおろかしい bête ものである。愛する者ほどおろかしい者があるだろうか。

…(おろかしさ、それは不意打ちを喰うということである。愛する者はたえず不意打ちを喰っている。彼には、変形させたり、検討を加えたり、保護したりしている余裕がない。おそらくは彼にも自分のおろかしさがわかっている。しかし、彼はそれを非難することをしない。あるいはまた、彼のおろかしさは、裂け目 clivage というか倒錯というか、そのような働き方をする。彼はいう、いかにもおろかしいことだ、でもそれは真実なのだ。)

(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

⋯⋯⋯⋯

《愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. 》(ラカン、S11, 17 Juin 1964)

愛するということには、一つだけではなく、三つの対立関係が可能である。愛するーー憎むという対立関係の他に、愛するーー愛されるという対立関係があり、さらに、愛すると憎むとをいっしょにしたものが、無頓着あるいは無関心という状態に対立する。以上三つの対立関係のうち、愛するーー愛されるという対立関係は、能動性から受動性への転換に全面的に対応している。…その基本的状況とは、自分自身を愛する sich selbst lieben ことであり、これはナルシシズムの特性にほかならない。(フロイト『欲動とその運命』1915)

《人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib》(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

人は愛する Man liebt:

1)ナルシシズム型では、

a)現在の自分(自己自身)
b)過去の自分
c) そうなりたい自分
d)自己自身の一部であった人物

2) アタッチメント型 Anlehnungstypusでは、

a) 養育してくれる女性
b) 保護してくれる男性

ーーフロイト『ナルシシズム入門』1914

⋯⋯⋯⋯

我々はフロイトの次の仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(ジャック=アラン・ミレール、1992『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』、pdf

《「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂い folle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。 》(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé ーー「マヌケ男とキチガイ女の不可能な出会い」) 

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…

フロイトは見出したのである、対象x(≒対象a)、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。(Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、1992、pdf

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

⋯⋯⋯⋯

あゝ麗はしい距離(ディスタンス)、
   つねに遠のいてゆく風景・・・・

   悲しみの彼方、母への、
   捜り打つ夜半の最弱音(ピアニシッモ)
 
            吉田一穂『母』 


quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère ». (ラカン、S20、09 Janvier 1973)
…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性 Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

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《愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない。Nos amours ne s'expliquent pas par ceux que nous aimons, ni par nos états périssables au moment où nous sommes amoureux. (……)

われわれの愛には、根源的な差異 différence originelle が支配している。それは恐らく母のイメージ image de Mère であり、女性、ヴァントゥイユ嬢にとっては父のイメージである。しかしもっと深いところでは、それはわれわれの経験を越えた遠いイメージ、われわれを超越するテーマ、一種の原型である。それはわれわれが愛するひとたち、そしてわれわれが愛するただひとりのひとにさえ、分散するにはあまりにも豊かなイメージであり、観念であり、あるいは本質である。しかしそれはまたわれわれの連続する愛の中で、また孤立して捉えられたそれぞれのわれわれの愛の中で反復されるものである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)