2017年3月30日木曜日

資本家の言説について

質問をもらったが、資本家の言説については実のところあまり語りたくない。

解釈者たちが語り始めたのもごく最近のことで、信頼がおけるかどうかはわからない。あのジジェクさえ資本家の言説という言葉を一度も使用していない。

前回、基本的な前提条件として、「主人の言説」と「資本家の言説」は、「抑圧の言説」と「原抑圧の言説」と記したのは、次の考え方に由来する。

結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は、欲求が要求のなかに分節化された時の、欲望の疎外に相当する》(E690:摘要)。明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。

他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的エゴの統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味での原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、根本幻想の形成化に相当する。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007)

二種類の原抑圧がある。主人の言説とは、父性隠喩にかかわる。これは母の欲望を抑圧する。主人の言説が機能しなければ、裸の「原抑圧」とでもいうものーーこれは「原超自我」にかかわるーーが現われる。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

裸の原抑圧とは、ラカンが後年、《原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier》と 言っていることにもかかわる。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではないのです。

とはいえ、そこから経験へと出発するという考えがフロイトに浮かんだのはまったく自然なことです-この経験とは、分析的ディスクールのなかで定義されるものをいいます。結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier いう考えに傾いていったのです。総体的に言うと、それが第二の局所論の大きな変化です。フロイトが超自我の性格だと言う大食漢 La gourmandise dont il dénote le surmoi は構造的なものであって、文明の結果ではありません。それは「文化の中の居心地の悪さ(症状)« malaise (symptôme) dans la civilisation »」なのです。(ラカン、テレビジョン、向井雅明試訳、1973、一部変更)

このところ次の図を提示している。



父性隠喩にかかわるエディプス的原抑圧にかかわるのは、S1とS(Ⱥ)のあいだの線であり、他方、最初にある原抑圧・前エディプス的な原抑圧とは、S(Ⱥ)とȺのあいだの点線(初期フロイトはこれを境界表象Grenzvorstellungと言っている)と想定できる。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

この時期のフロイトには原抑圧概念はないが、上の文の「抑圧」は「原抑圧」と等価である(ポール・バーハウ1999による)。

このような意味で、わたくしは資本家の言説は原抑圧の言説としている(これは誰もそう言っていないので、わたくしの仮定である)。

とはいえ大きな依拠は次の文である。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012

いずれにせよロレンツォ・キエーザの二種類の原抑圧の指摘は、ラカン派内でさえいまだあまり理解されていない。

コレット・ソレールは、ほぼ同じことを指摘しており、いままでの理解を諫めている。

精神病における欲望の問題は別の話です。それはいかに誤った(身丈に合わない)教義が臨床的事実の無視に導くかを示すよい例です。

父は去勢不安にて欲望を生みだすために必要不可欠であるという前提から始めて、私たちは他の分析家が、精神病は欲望を締め出すという結論してしまうのを見ます。けれども、精神病の最も顕著な人物像を観察すれば、彼らが欲望を欠如させているなどということがどうやって支持しうるというのでしょう?(Interview with Colette Soler for the “Estado de Minas” newspaper September 10, 2013

向井雅明氏でさえ、2010年になってようやく二種類の原抑圧に相当するものを指摘し始めているように、過去のラカン派辞典のたぐいはほどんどすべて二種類の超自我にかかわる記述が欠けている。

……注目すべき点は、私たちが通常の知覚を獲得したり、シニフィアンを使用して言語的表象行うことができたりするようになるには、ばらばらの印象から一つのまとまったイメージへの移行と、イメージからシニフィアン的構造化への移行という二つの翻訳過程、二つの契機を経なければならないという論理だ。一般的にラカン理論では二番目の移行に相当する原抑圧、もしくは父性隠喩の作用による世界のファルス化という唯一の過程のみで心的装置の成立をかんがえる傾向にあるが、たとえば精神病を父の名の排除という機制だけで捉えることは、精神病者においても言語による構造化はなされているという事実をはっきりと捉えられなくなってしまう。心的装置の成立過程に二つの大きな契機があるとかんがえると、主体的構造の把握がより合理的に行われるように思われる。向井雅明『自閉症と身体』2010、PDF)

驚くことに「原抑圧」をめぐっては、現在のラカン派精神分析家の大半よりも1968年のドゥルーズの方が先行していることになる。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる"正式の"抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』私訳)
……そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉un refoulement dit « primaire » と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

※参照:二種類の超自我と原抑圧

…………

さて核心の「資本家の言説」だが、ラカンは実のところこの言説についてわずかしか語っていない。だから注釈者たちに依拠するよりほかはない。

わたくしが当面依拠しているのは次の二つの論文。だが、全面的に信頼しているわけではない。

①capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2010、pdf
②Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016、pdf

とはいえ日本の注釈者たちがほとんど分かっていないぐらいは分かる。

たとえば小笠原晋也氏は、まったく分かっていなかった。





実は、まったく知らないようだったので、わたくしが教えたのだが、それにしては資本家の言説をめぐってわかったようなことを繰り返し言っていた人物である。

もうひとり、たとえば藤田博史氏のセミネール録から抜き出そう。

◆セミネール断章 2012年 11月10日講義より、PDF



こっちのほうは重症度は低いが、やはり分かっていない(とわたくしは思う)。

主人の言説から資本家の言説への移行とは次の図である。




核心は主人の言説の上部にある不可能 impossibilitéと、下部にある不能 impuissance が消えてなくなったこと。そしてS1と$のポジションが変わり。矢印の向きが下方向になったこと、右下から左上への a→ $ が、倒錯の式 a◊$と近似したものになっていること。

資本家の言説について僅かしか語っていないラカンだが、資本家の言説を特徴づけるのは、排除、去勢の排除だとは言っている。

Ce qui distingue le discours du capitalisme est ceci : la Verwerfung, le rejet. Le rejet en dehors de tous les champs du symbolique avec ce que j'ai déjà dit que ça a comme conséquence. Le rejet de quoi ? De la castration. Tout ordre, tout discours qui s'apparente du capitalisme laisse de côté ce que nous appellerons simplement les choses de l'amour, mes bons amis. Vous voyez ça, hein, c'est un rien (Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)


つまり倒錯もしくは精神病の言説だというふうに、たぶん捉えられる。すなわち前回記したミレールの「ふつうの精神病」、あるいは「現勢神経症」にかかわる言説であるだろう。

たとえば資本家の言説の $ は消費者、S1は資本もしくは市場、S2は商人・製造者、aは剰余価値と置ける。

だがいくらでもパラフレーズできる。たとえばツイッターとは「ふつうの精神病」あるいは「倒錯」生産装置である。



欲望する主体$ はツイッター装置 S1に書き込む。するとそれをツイッター社交界住人である他者 S2 が受け取り、反応する(ファボ、リツイート、メンション、フォロワーの増減等々)。これが剰余価値aであり、欲望の主体はそれを受けてツイートの再生産とその半永久的な循環が生じる。

本来のコミュニケーションの不可能 impossibilitéと不能 impuissanceを否認した主体は、自分の鳥語がまともに受け取られていると錯覚してしまう。これはまさに倒錯装置である。

リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。(ジジェク、2016,Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー至高の「倒錯」思想家(マルクス・フロイト・ラカン)

以上、もちろんわたくしの記していることも誤謬があるかもしれない。




2017年3月29日水曜日

「父の溶解霧散」後の「文化共同体病理学」

あらゆる堅牢なものが溶けて霧散し、あらゆる聖なるものが世俗のものとなり、人はついには自分たちのほんとうの生活状態および仲間との関係に、醒めた感覚で直面せざるをえなくなる。(マルクス・エンゲルス『共産党宣言』)

《あらゆる堅牢なものが溶けて霧散する》とは、仏訳では《Tout ce qui paraissait solide et fixe s'évapore》である。ラカンが1968年の学園紛争のおりに言い放った《évaporation du père》 とは、この仏訳のパクリらしい。訳して「父の溶解霧散」とでもしておく。

…………

フロイトは『文化の中の居心地の悪さ』(旧訳名『文化への不満』1930年)の結論箇所で、「文化共同体病理学」のすすめを叙述している。

……文化発展のさまざまな相の中に超自我の役割を探ろうとするこの観察方法は、まだまだ数多くの解明をあたえてくれそうに思われる。

私は(……)一つの疑問だけはどうしても避けて通ることができない。文化の発展と個々の人間の発展のあいだにこれほど広範囲な類似が見られるとすれば、文化ないし文化時期の中のあるもの、場合によっては全人類が、文化努力の影響によって「神経症」になっていると診断してもよいのではないかという疑問である。

もしそうだとすると、文化ないし全人類にかかわるこの神経症を精神分析の手段を使って詳細に分析した上は、その治療方法についての提案も出てきてよいわけで、そうなれば、実際問題として大きな関心の的になるにちがいない。精神分析の対象を文化共同体 Kulturgemeinschaft にまで押し広げようとするこうした試みが馬鹿げたことないし失敗するにきまったことであるかどうかは、断定の限りではあるまい。けれども、もしそうした試みをするとすれば、非常に慎重な態度が必要だろう。

われわれは、文化の発展と個々人の人間の発展とはいくつかの点で類似しているだけで同一ではないこと、および、人間の場合だけではなく、概念 Begriffen の場合にも、それが発展してきた場所から引き抜いて他の場所へ移すことが危険なことを忘れてはなるまい。

それに共同体神経症 Gemeinschaftsneurosen の診断には独特の困難がつきまとう。つまり、個人神経症の場合には、病人とそのいわゆる「正常な」周囲との対比が、診断にとってのさしあたりの手がかりになりうる。ところが、集団全体が同様に侵されている場合には、対比の対象となるこうした背景がないわけで、どこか別のところからそうしたものを探してくる必要があるだろう。

それに、診断がきまりそれを治療に応用する件に関して言えば、社会全体の神経症 sozialen Neurose がどれほど正確に分析されたとしても、その集団に無理にでも治療を押しつけるだけの権力を持った者は誰もいないのだから、結局はそれも無駄ではないのか。

これらのさまざまの困難があるにもかかわらず、われわれとしては、いつの日か、この種の文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften という冒険をあえて試みる人が現われることを期待せずにはいられない。

(……)私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。そしてわれわれの期待は、「天上の二つの力 himmlischen Mächte」のいま一方である永遠のエロスが、自分と同じく不死身であるこの相手との戦いに負けないよう一所懸命に頑張ってくれることにかかっている。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』、1930年)

上の文でフロイトは、「共同体神経症」や「社会全体の神経症」という言葉を出しているが、これは一般的にラカンのいう「主人の言説(支配の言説)」の時代の病理である。

他方、ラカンは1968年の学園紛争後、「主人の言説」から「資本家の言説」への移行を語っている(参照)。

日本でも中井久夫が次のように言っている。

中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ここでの中井久夫の「超自我」とはラカンの主人S1である。ようするに1970年前後から「父なき」時代に入ったのである。それがいっそう鮮明になるのは、1989年の冷戦終結後だが。

社会構造が異なれば、社会の病理も異なる。「文化共同体病理学」を念頭に置くとき、そのことを忘れてはならないだろう。これはマルクスの教えでもある。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論序文』)

…………

ところでフロイトにはーーほとんど忘れられているがーー「現勢神経症」と「精神神経症」の区分がある。上にも記したが、フロイトの『文化の中の居心地さ』に現れる「共同体神経症」や「社会全体の神経症」の「神経症」とは、その文脈からみるに「精神神経症」のことを示している。だが超自我≒自我理想(精神神経症にかかわる)の斜陽時代である現代は、現勢神経症をもふくめて考える必要がある。

以下、まずフロイトの精神神経症/現勢神経症の記述をいくらか抜き出そう。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」。(フロイト『自己を語る』1925)
……もっとも早期のものと思われる抑圧(原抑圧 :引用者)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合は根元的な当初の危険状況に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)外傷性戦争神経症という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』1926ーーフロイト引用集、あるいはラカンのサントーム

最後の『制止、症状、不安』にて、フロイトは抑圧/原抑圧を、精神神経症/現勢神経症の区分としている。

21世紀に入る前後に、ジャック=アラン・ミレールは、《20世紀の神経症の時代からふつうの精神病の時代へ》(ミレール)と言っているが、ミレールのいう神経症とは「精神神経症」のことであり、他方「ふつうの精神病」は「現勢神経症」とほぼ等価である。

ほぼ等価とは、たとえば次のように言われていることが示している。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・バーハウの「現勢神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis, Jonathan D. Redmond, 2013、PDF

ーー臨床的には若干異なるところはあるようだが、ここではそれに触れることはしない。

さて、主人の言説から資本家の言説への移行とは、おおむね、抑圧の時代から原抑圧の時代への移行といってよい。

危機 la crise は、主人の言説というわけではない。そうではなく、資本家の言説 discours capitaliste だ。それは、主人の言説の代替として、今、開かれている。

私は、次のようにあなた方に言うより他にない。すなわち、資本家の言説は醜悪な何か、そして……、狂気じみてクレーバーな何かだと。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。(……)

資本家の言説は……ルーレットように作用する marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。

自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う。さあ、あなた方はその上に乗った…資本家の言説の掌の上に…。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳ーーマルクスの価値形態論(岩井克人と初期柄谷行人)

このルーレットのように作用する資本家の言説は、主人の言説の「拘束」がない「一次過程」の自由に流動するエネルギーにかかわり、一次過程とは原抑圧と相同的である(参照:「父の名/母の欲望」→「S1/S(Ⱥ)」 、「I(Ⱥ)/S(Ⱥ)」

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

事実、現在ラカン派では次のようなことが言われている。

資本家の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)
臨床的観点からは、主人の言説から資本家への言説は、現代的精神病理の中の、ある変貌において証拠づけられている。このいわゆる現代的症状については、ラカン派のあいだで数多くの議論がなされている(例えば Miller, 1993; Loose, 2002; Verhaeghe, 2004, 2014; Voruz and Wolf, 2007; Goldman-Baldwin et al., 2011; Redmond, 2013)。

この現代的症状は、依存症、パニック障害、境界例等を含むものだが、解読されるべき隠喩的構築物ではなく、圧倒的な剰余享楽(すなわち心的に破壊的影響をもたらす身体上の緊張)に直面した主体の表出あるいは反応として捉えられている。言い換えれば、これらの症状は、もはや本質的には他者との関係における相剋や不可能性を反映しているのではなく、根本的「非関係non-rapport」との遭遇への反応における危機である。(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis Stijn Vanheule、2016、PDF
…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012

…………

上に、現在は抑圧の時代から原抑圧の時代に移行しているとしたが、原抑圧の時代といっても、欧米基準の話であり、日本はもともと超自我という「父」など機能していなかった社会(もともと原抑圧の社会)だったという捉え方がある。

とすれば、日本人は元来「精神神経症」的ではなく「現勢神経症」的な民だったとすることさえできる。もっともここでの現勢神経症はフロイト自身の定義よりもやや広義の意味で使用している、つまり精神病的なものだけではなく倒錯も含めている。[参照]。

(Adam Phillips,2014)



つまり、上の図に則れば、倒錯より左側の症状すべてが「現勢神経症」という捉え方をしている。これはポール・バーハウの観点であり、彼は「現勢病理」と呼んでいる。標準的な言葉遣いをすれば、精神神経症/現勢神経症とは、エディプス的病理/前エディプス的病理であり、ラカン語を使えば、象徴界病理/現実界病理としてもよいかもしれない。

「標準的な言葉遣い」というのは次の文がよく表している。

今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。

この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。(中井久夫「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』所収)

もう一つ、日本では「超自我」(父なる超自我)など機能していなかったとは、これも中井久夫の観点である。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

日本の環境で、「文化共同体病理学」を試みるとき、欠かせないのが厄介な中井久夫のいう「疑似一神教」から象徴天皇制への移行もふくめた「天皇制」の機能であるだろう。

たとえば、浅田彰は1980年代にすでに次のように言っている。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)

「共感の共同体」とは、丸山昌男の「無責任の体系」と直結しており、そして丸山が無責任の体系の起源を「天皇制」としたのはよく知られている。

浅田彰は「前言語的(イマジナリー)」、「母性的なレヴェル」という表現をしているが、現在のラカン派観点からはイマジネールとリアルとの間にあるS(Ⱥ)の病理のことと捉えうる。



ーーこのボロメオの環の変更版の意味合いについては、「三種類の穴埋め師:S(Ⱥ)- I(Ⱥ) - F(Ⱥ)」を参照のこと。

浅田彰の「母性的なもの」という表現は次の図が表している。

(参照:二種類の超自我と原抑圧


たとえばジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ミレール曰く、母の欲望は、 S(Ⱥ)とほぼ等価であり、その S(Ⱥ)の上にS1が課されなければならない。そうでないと身体の享楽(欲動興奮)は飼い馴らされないままである

市場原理主義(新自由主義)とは、(ラカン派的には)資本の欲動が放し飼いになっている時代だという意味である。

これは浅田彰の表現なら、オブラートが溶けてしまった、えげつない資本の素顔の時代ということである。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰『憂国呆談』2012.8より)

民主主義というイデオロギーの仮面も機能しない、ともあるが、柄谷行人の表現なら、ヘゲモニーの衰退による弱肉強食の社会ダーウィニズムの時代である。

「帝国主義的」とは、ヘゲモニー国家が衰退したが、それにとって代わるものがなく、次期のヘゲモニー国家を目指して、熾烈な競争をする時代である。一九九〇年以後はそのような時代である。いわゆる「新自由主義」は、アメリカがヘゲモニー国家として「自由主義的」であった時代(冷戦時代)が終わって、「帝国主義的」となったときに出てきた経済政策である。「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。しかし、アメリカの没落に応じて、ヨーロッパ共同体をはじめ、中国・インドなど広域国家(帝国)が各地に形成されるにいたった。(柄谷行人 第四回長池講義 要綱

最後に初期岩井克人の資本の論理(資本の欲動)の定義を掲げておこう。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)

これこそラカンのいう資本の言説ーー《ルーレットように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。/自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う》ーーである。




2017年3月28日火曜日

アポロンの玉を食う

デメテールへの愛」で記したことをいくらか焦点を絞ってもうすこし考えてみる。

マゾッホは、偉大な人類学者でヘーゲル派の法律学者でもある同時代人のバッハオーフェンを読んでいた。(……)バッハオーフェンは、発展段階を三つ識別していたのだ。第一のものは、古代ギリシャの娼婦的な段階、アフロディテ的な段階であって、繁茂した沼の渾沌のうちにかたちづくられ、女と男たちとの入り乱れ気分まかせな関係からなっているが、そこでは父親は「人格」を持たなかったので、女性的原理が支配していた(とりわけアジアの女王として扱われる娼妓が代表するこの段階は、神聖なる売春という制度のうちに生き伸びることになるだろう)。第二期は、大地の女神デメテール的なもので、アマゾーヌ的社会にその黎明期を迎える。それは、女権的秩序、苛酷な農耕的秩序を創設するが、その秩序の支配下では沼沢地は感想しきっている。父親なり夫なりも一定の地位を獲得しはしたものの、女性の専制下におけれつづけていたことにはかわりがない。最後に、家父長的な、もしくはアポロン的な体系が力を帯びるが、それがアマゾーヌ的な堕落形態、あるいはディオニソス的でさえある堕落形態のうちに母権制を退化させることもままあったのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

このドゥルーズの記述は、バッハオーフェンの記述では次のようになっている。

第一段階:アフロディア Aphrodite的女性支配
(中間段階:アマゾーヌ Amazon的男性排除)
第二段階:デメテール Demeter的女性支配
(中間段階:ディオニソス Dionysus的女性解放)
第三段階:アポロン Apollon的男性支配

「古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描」(松田義幸・江藤裕之,2007, PDF)の注釈を掲げれば次の通り。

第一段階は Aphrodite的女性支配である。バハオーフェンはどの民族においても、無秩序な両性関係と娼婦性的生活の存在した痕跡のあったことを指摘している。正確に言えば、バハオーフェンは、この第一段階を母権制以前の低次の段階と位置づけ、第二段階以降を紀律化された高次の段階と区別している。人類の始原において無秩序な両性関係と神殿娼婦が存在していたことを記述している。(……)

中間段階は Amazon的女性支配である。始原の無秩序な両性関係は、いずれ、男性の横暴な性欲によって品位を奪われることになる。女性たちは安定した地位と純粋な生活を求め絶望の果てから武器を取り、抵抗とへ駆り立てられた。これが Amazon的女性支配にならざるを得なかった背景である。Amazon的女性支配は、月女神に従い、永遠に満ちかける月の表情 は、まさに死をもたらす恐ろしい Gorgonの三姉妹の表情であった。しかし、Aphrodite的女性支配、Amazon的女性支配を支えた食料事情は、野性的・自然的生産に依存し、「母なる大地」から成長する「野生生物」頼りの泥土的沼沢地生活であったが、やがて農耕生産に移行していく。

第二段階は、Demeter的女性支配である。穂や穀粒、根菜、果樹などの植物を中心にした農耕生活は、 農耕神の Demeterと女家長の女性支配の下での紀律ある婚姻制度を生み出すことになった。農耕生活には 男手を必要とする。そこで、厳格な紀律に従う婚姻制度ができたのである。仕事の手順はすべて女性が決める。それは、季節、月、週がすべて、「宇宙原理=自然原理=女性原理」でとらえることができるからである。しかし、バハオーフェンによれば厳しい紀律の Demeter的女性支配と自由で自然な Aphrodite的女性支配との間に長い対立があったのであり、葡萄栽培の普及と葡萄酒の祭りの Dionysus宗教が広がるにつれて、女性たちを再び Aphrodite的性の解放に目覚めさせたのである。

中間段階は Dionysus宗教支配である。Demeter的 女性支配は、婚姻制度を敷くことにより、男性に家族、社会における役割を与え、男性もよくその期待に 応えた。しかし、Dionysus宗教は、女性たちを Aphrodite的原理に回帰させることになり、男性たちの尊厳を奪いさってしまったのである。ここに紀律ある Demeter的母性を象徴する麦穂とパンが、再び生殖の神の豊かな果実を象徴する葡萄酒の前に屈したのである。Aphroditeと Dionysusらが手を結んだミルクと蜜と水が再び官能的なトランス・エクスタシーの境地を与えてしまったのである。男性たちは、 Demeter的原理の下で得た幸せをいかにして取り戻すか。そこで第三の Apollon的段階への移行が始まるのである。

第三段階は Apollon的男性支配の原理である。紀律を遵守するということは精神性、道徳性の問題である。男性たちは男神を創造し、男神に支えられながら精神性の高い「父性的―天界的」原理を立てて父系で家父長制(patriarchy)の父権制社会への転換を企てたのである。 バハオーフェンは、母権制社会から父権制社会への移行を文明の進歩と認識しておりながら、母系による女性支配の母権制に強い愛情を寄せている。

ドゥルーズはフロイトを援用して次のようにも記している。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なものの基本的イメージに符合している。

すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。

―ーそれから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。

――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。この第二番目の母親も、また最後に姿をみせるもののように思われる。滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧するものだからである。彼女は最終的な勝利者となる。

それ故フロイトは、『三つの箱の選択』の中で、このタイプの母親を、多くの神話的・民族伝承的な主題に従って提示しているのである。「それはまさしく母性そのものであって、そのイメージに従って男性が選ぶ恋する女性なのであり、煎じつめれば、改めて男性を迎え入れる<母親>としての<大地>なのである……。宿命的な娘たちのうちで、この第三番目のもののみが、すなわち沈黙する死の女神だけが、男をその胸の中に迎え入れることになるだろう」。

だが、この母親が占めるべき真の位置は、避けがたい展望図のもたらす幻想によって必然的に転移させられているとはいえ、なお両者の中間にすえられるべきものなのだ。そうして視点に立ってみると、ベルグレールの次のごとき概括的問題提起は完全に根拠のあるものだと思われる。すなわち、マゾヒスムに固有の要素は、口唇的な母親――子宮的母親とエディプス的母親の中間に位置する冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死をもたらしもするあの理想像なのだというのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

前回、このように引用して、それと敢えて関係づけずに次の図を掲げた。


※このラカンに依拠する図の意味合いについては、「二種類の超自我と原抑圧」を見よ。

さて、敢えてバッハオーフェンの考え方と、上のラカン由来の図を結びつけるならどうなるか。

第一段階:アフロディア Aphrodite的女性支配
(中間段階:アマゾーヌ Amazon的男性排除)
第二段階:デメテール Demeter的女性支配
(中間段階:ディオニソス Dionysus的女性解放)
第三段階:アポロン Apollon的男性支配

◆まずアポロン的男性支配をS1、すなわち「父の法」とすることはできる。

もっともラカンの S1 とは「(父なる)超自我」でありながら、自我理想でもある。

超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School

だがミレールは次のように言っていることを注記しておこう。

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDFーー自我理想と超自我の相違(基本版)

実際、ラカンの叙述をいくらか追っていると、自我理想・超自我・父の名の区別が判然としなくなるところがある。

私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ(笑)

la seule chose dont je n'ai jamais traité, c'est du surmoi [ Rires ] (Lacan、le séminaire XVIII. 10 Mars 1971)
私に教えを促す魔性の力…それは超自我だ。

Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (le séminaire XXⅣ 08 Février 1977)

ーー1977年とはラカン最晩年である。ようは生涯、フロイトの「超自我」(あるいは「父の名」)を問い直し続けていたのである。

しかも父の諸名、それにかかわるサントームという概念もある。

父の諸名 les Noms-du-père 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことである。(ラカン、セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)

ここではミレール、ポール・バーハウの上の記述に則る。

その観点からは、アポロン的男性支配とは、まずは自我理想、あるいは父の名にかかわり、その裏に「父なる超自我」あるいは「超自我」があるとすることができる。


◆他方、デメテールを安易にS(Ⱥ)、「母の法」とすることはできない。というのは、S(Ⱥ)とは、Ⱥ(原トラウマ)の境界表象に過ぎず、つまり欲動の本源的アナーキー Ⱥ の仮面に過ぎないのだから。

初期フロイト概念「境界表象 Grenzvorstellung」とは、中期フロイトの「欲動の心的(表象的)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes」であり、そのまま後期フロイトのタナトスにかかわる。

デメテールの特徴の記述を再掲しよう。

第二段階は、Demeter的女性支配である。穂や穀粒、根菜、果樹などの植物を中心にした農耕生活は、 農耕神の Demeterと女家長の女性支配の下での紀律ある婚姻制度を生み出すことになった。農耕生活には 男手を必要とする。そこで、厳格な紀律に従う婚姻制度ができたのである。(「古代母権制社会研究の今日的視点」)

これはラカンの母の法の記述、(母なる)超自我の記述とは合致しない。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

 むしろ第一段階のアフロディア (あるいはアマゾーヌ)が、S(Ⱥ)に相当する。

第一段階は Aphrodite的女性支配である。バハオーフェンはどの民族においても、無秩序な両性関係と娼婦性的生活の存在した痕跡のあったことを指摘している。
中間段階は Amazon的女性支配である。始原の無秩序な両性関係は、いずれ、男性の横暴な性欲によって品位を奪われることになる。女性たちは安定した地位と純粋な生活を求め絶望の果てから武器を取り、抵抗とへ駆り立てられた。これが Amazon的女性支配にならざるを得なかった背景である。(「古代母権制社会研究の今日的視点」)

アフロディアは「原穴の名」と呼ばれるべきものに近似する。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ラカンによる「穴trou」の意味の核心は、トラウマである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

とすればデメテールとは何とすることができるのか。わたくしはサントームという名をここで口にだす。

ラカンのサントーム Σ には、大きくいって二つの意味合いがある。

・もうこれ以上還元できない原抑圧(原固着)としてのサントーム。これはS(Ⱥ)に相当する。

・想像界・象徴界・現実界の縫合機能としてのサントーム。農耕の神デメテールはこの「縫合」機能としてのサントームに近似する。

ョイスについてのセミネールが明示しているのは、サントームが父の名の役割を取り得ることだ。ラカンは、皆にジョイスの例に従い〈大他者〉の欠如の場所に自身のサントームを創造するようにと勧めている。この創造行為の目標は、父の名のシニフィアンなしで〈大他者〉を機能させることである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq“Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way”、2002)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008

この二つの指摘は、ラカンの次の文にもかかわる。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)
分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化s'identifierではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつ garanties d'une espèce de distance, à son symptômeである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。(ラカン、S24, 16 Novembre 1976)

こうして次の図が書ける。




前回次のように記した。

かつてはS1はS(Ⱥ)に蓋をしていたのだが、第一次世界大戦の「西欧の父の危機」(ヴァレリーの『精神の危機』)、1968年の学園紛争の実質的な「権威の死」、1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」により、S1はボロ屑となった。

ーー現代社会で肝腎なのは西欧規範の「アポロン」ではない。「デメテール」である。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ーーミレールによれば「母の欲望」とは、「母なる超自我」、あるいは「母の法」とほぼ等価である。

いずれにせよ「父の名 S1」は「母の穴の名 S(Ⱥ)」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、「原トラウマ Ⱥ」≒「本源的な欲動のアナーキー l'anarchie de ses pulsions élémentaires」(ラカン)は飼い馴らされる。「父の名」がないなら、かわりのサントームΣでふさがなければならない。

穴Ⱥとはようするにブラックホールのことである。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ヴァギナ・デンタータ(有歯膣)と言ってさえよい。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ヴァギナデンタータの名が、アフロディアである。ドゥルーズの叙述なら《原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親》である。

ここでさらにドゥルーズを再掲しよう。

ベルグレールの次のごとき概括的問題提起は完全に根拠のあるものだと思われる。すなわち、マゾヒスムに固有の要素は、口唇的な母親――子宮的母親とエディプス的母親の中間に位置する冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死をもたらしもするあの理想像なのだというのである。(『マゾッホとサド』)

アフロディア的母 S(Ⱥ) とエディプス的アポロン S1 の中間に位置する《冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死をもたらしもするあの理想像》、それがデメテールでありサントーム Σ である。

以上、「思いがけなく」論理的にはこうなるということを示した。だが《こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない》(藤枝静男)。

アポロン(近代的合理精神)の玉を食っただけである。

次手に言うと、章は同じく小学校入りたての七つ八つのころ父から「蒙求」と「孝経」の素読を授けられていたが、ときおり父が「子曰ク」という個所を煙管の雁首で押さえながら「師の玉あ食う」と発音してみせて、厭気のさしかかった章を慰めるようなふうをしたことを、無限の懐かしさで思い起こすことができる。多分、父はかつての貧しい書生生活のなかで、ある日そういう読みかたを心に考えつき、それによって僅かながらでもゆとりと反抗の慰めを得たのであったろう。そしてその形骸を幼い章に伝えたのであろうと想像するのである。(藤枝静男「土中の庭」1970年)

2017年3月27日月曜日

デメテールへの愛

私は政治的には天皇制は廃止されて当然だと考える常識人(浅田彰のドタバタ日記、2008年)

ところで、〈あなた〉は「常識人」だろうか?

わたくしの母は天皇嫌いだったが、実家には神棚があった。母が拝んでいた記憶はないから、父の趣味だったのかもしれないが(そういえば神棚の世話は父がしていた)。だが母は桃の節句には雛人形を嬉々として飾った。

結婚式もそうですが、お雛様も向かって左に男雛、右に女雛と決まっています。ところが、大正時代以前と、現代でも京都では、これが逆なのです。 日本の礼法では向かって右が上座だったので、雛人形も男雛が右でした。 俗に京雛と呼ばれ、雛人形のお内裏様は天皇・皇后の姿を模しています。 この左右が入れ違ったのは昭和の始めでした。 昭和天皇の即位式が紫宸殿で行われた時、欧米にならい向かって左に天皇陛下、右に皇后陛下がお並びになったことから、 当時の東京の人形組合がお雛様の左右を入れ替えて飾ることに決めたからです。(雛人形

もちろん正月には(母も)神酒を飲み神社に詣でた。わたくしは旧正月祝いの国に住んでおり、この国では一月一日は一年の始まりというだけだが、それでも日本酒はなんとなく飲みたくなる。これは天皇制が染み付いているせいではなかろうか。

その意味で「土人の国」の土人であることから、一生免れそうもない。

実のところ、私は最低限綱領のひとつとしての天皇制廃止を当時も今も公言しているし、裕仁が死んだ日に発売された『文學界』に掲載された柄谷行人との対談で、「自粛」ムードに包まれた日本を「土人の国」と呼んでいる。それで脅迫の類があったかどうかは想像に任せよう。(図像学というアリバイ 浅田彰、2001)
中上)…しかし、西洋史のあなた達柄谷さんと浅田彰さんが、対談(「昭和の終焉に」・文学界1989年2月号)して、天皇が崩御した日に人々が皇居の前で土下座しているのを、「なんという”土人”の国にいるんだろう」と思った、と言う。

柄谷)でも、あの”土人”というのは北一輝の言葉なんだよ。(笑)

…だから天皇って何かというと、…女文字・女文学と切り離せない。つまり母系制の問題というところにいくと思う。

中上)…何故ここで被差別部落のような形で差別が存在するか、被差別部落が存在するか、と問うのと、なぜここに天皇が存在するのかと問うのとは、同じ作業ですよ。

柄谷)…あれは、あの対談の前に僕が北一輝の話をしていたんですよ。北一輝は、明治天皇をドイツ皇帝のような立憲君主国の君主だと考えていた。それ以前の天皇は土人の酋長だ、と言っているわけす。(『柄谷行人 中上健次全対話』)

天皇とは母系制の問題とある。ラディカル・フェミニストであることがヨクシラレテイル蚊居肢散人は、《天皇制は廃止されて当然だと考える常識人》でありえそうもない・・・

もっとも最近、溝口睦子さんの著書により皇祖神の起源は、母性的な天照大神(アマテラスオオミカミ)ではなく、男根的な高御産巣日(タカミムスヒ)だとされているそうだが。

◆「精神構造」論としての天皇制 -赤坂憲雄の天皇制論の整理・検証を通して-(長山恵一、2016、PDF)

溝口(『王権神話の二元構造』2000)によれば、古い皇室の皇祖神はもともとタカミムスヒであり、記紀編纂の直前の天武、あるいは持統朝といった新しい時代にアマテラスが皇祖神の地位に就いたことは学界の定説になっていると言う。

ではなぜ、タカミムスヒからアマテラスへという皇祖神の移行・転換が 7 世紀末から 8 世紀にかけて宮廷で進行したのかについて、溝口は当時の国際情勢と国内情勢との関連で次のように述べている。

7 世紀後半の日本(天智天皇~天武天皇の時代)は白村江の惨敗と朝鮮半島からの全面撤退、さらには新羅・唐の日本への侵攻の脅威といった国家存亡の危機的な状況に直面していた。こうした東アジアの緊張関係の中で、日本は古い部族的な国家体制(伴造制・国造制といわれる)から脱却して、直接に国家が全国津々浦々の人民を掌握する政治体制の確立に迫られていた。大化の改新以降、中国(黄河文明)文化が流入していた当時の日本は、天武・持統天皇の時代に急速に唐の政治制度や思想を取り入れて律令天皇制を作りあげた。天武・持統朝の政治大改革の中で天皇家の守護神・皇祖神の変更が行なわれたと溝口は言う。

タカミムスヒは天皇家に直属する伴造系という氏にのみ親しまれ信奉された男性神であり、一般には馴染みの薄い旧体制の党派的色彩の強い朝鮮由来の新来のカミだった。それに比して、アマテラスはタカミムスヒより古く、南方的な海洋的・水平的世界観をもつ農耕的な太陽神(女性神)だった。アマテラス神話群はイザナキ・イザナミ、アマテラス・スナノヲなど豊かな内容を有しており、それは皇室と一体であった伴造系ではなく、地域に基盤をもち、半独立的な存在であった臣系・国造系の氏の神話と祖先神だった。天武・持統朝は臣系・国造系の氏の協力を得て全国統一の達成という大改革を成し遂げるためにも、宗教改革(神話改革)政策として、アマテラスをタカミムスヒと並立・融合させて新しい神祇信仰(天神・地祇)の中心の国家神に据えようとしたのである。つまり、天神としてのタカミムスヒと地祇としてのアマテラスの融合である。こうした政治的配慮のもとに、もともと全く異質な世界観を持った二つの神話群(ムスヒ系神話群とイザナキ・イザナミ系神話群)が記紀神話の中で接合された。

とはいえわれわれの天皇の「表象」は、やはり農耕神だろう。すなわち、大地の女神デメテール Demeter である。

このデメールの語源は次のようなものだそうだ。

Demeter はオリンポス神話では農耕の女神と言われているが、母権制社会では、女陰を通じての「創造→維持→破壊」 「処女(Kore )→母親(Demeter )→老婆(Persephone) 」の三相一体の女神であった。De はギリシア語の Delta の三角形で「女陰」を表わしていた。Delta はサンスクリット dwr 、ケルト語duir 、ヘブライ語 daleth で、誕生、死、性的楽園の入り口を意味した。meterは「母親」の意味である。(「古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描」(松田義幸・江藤裕之,2007, PDF

ここにはドゥルーズ=マゾッホがいる。

マゾッホは、偉大な人類学者でヘーゲル派の法律学者でもある同時代人のバッハオーフェンを読んでいた。(……)バッハオーフェンは、発展段階を三つ識別していたのだ。第一のものは、古代ギリシャの娼婦的な段階、アフロディテ的な段階であって、繁茂した沼の渾沌のうちにかたちづくられ、女と男たちとの入り乱れ気分まかせな関係からなっているが、そこでは父親は「人格」を持たなかったので、女性的原理が支配していた(とりわけアジアの女王として扱われる娼妓が代表するこの段階は、神聖なる売春という制度のうちに生き伸びることになるだろう)。第二期は、大地の女神デメテール的なもので、アマゾーヌ的社会にその黎明期を迎える。それは、女権的秩序、苛酷な農耕的秩序を創設するが、その秩序の支配下では沼沢地は感想しきっている。父親なり夫なりも一定の地位を獲得しはしたものの、女性の専制下におけれつづけていたことにはかわりがない。最後に、家父長的な、もしくはアポロン的な体系が力を帯びるが、それがアマゾーヌ的な堕落形態、あるいはディオニソス的でさえある堕落形態のうちに母権制を退化させることもままあったのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

ドゥルーズによるバッハオーフェンの三段階説は、実際には、その中間段階の過程がある。

第一段階:Aphrodite的女性支配
(中間段階:Amazon的男性排除)
第二段階:Demeter的女性支配
(中間段階:Dionysus的女性解放)
第三段階:Apollon的男性支配

マゾッホによる三人の女性は、母性的なものの基本的イメージに符合している。

すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。

―ーそれから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。

――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。この第二番目の母親も、また最後に姿をみせるもののように思われる。滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧するものだからである。彼女は最終的な勝利者となる。

それ故フロイトは、『三つの箱の選択』の中で、このタイプの母親を、多くの神話的・民族伝承的な主題に従って提示しているのである。「それはまさしく母性そのものであって、そのイメージに従って男性が選ぶ恋する女性なのであり、煎じつめれば、改めて男性を迎え入れる<母親>としての<大地>なのである……。宿命的な娘たちのうちで、この第三番目のもののみが、すなわち沈黙する死の女神だけが、男をその胸の中に迎え入れることになるだろう」。

だが、この母親が占めるべき真の位置は、避けがたい展望図のもたらす幻想によって必然的に転移させられているとはいえ、なお両者の中間にすえられるべきものなのだ。そうして視点に立ってみると、ベルグレールの次のごとき概括的問題提起は完全に根拠のあるものだと思われる。すなわち、マゾヒスムに固有の要素は、口唇的な母親――子宮的母親とエディプス的母親の中間に位置する冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死をもたらしもするあの理想像なのだというのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)

いずれにせよわたくしはデルタをひどく愛するので、農耕神を否定することはできない。

彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…

「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」

「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」(ソレルス『女たち』)

ーーデボラは、ソレルスのパートナー、クリステヴァがモデルとされている。

ラカンの最初のエディプス理論とは次のような形で説明されている。母は子供を、ほとんど致死的な deadly 仕方で享楽する。主体は唯一、父の介入を通してのみ、母による潜在的に命取りのlethal 享楽から救われる。

同じ理屈が、三つの宗教書のなかに漸増する形で見出される。初めにすべての悪の源としてイヴ、次にカトリックの性と女への不安と憎悪、最後にムスリムのベール等への強制。

すなわち女は男を誘惑し破滅させるので、寄せつけないようにしなければならない、ということである。これは次のように読むべきだ。我々自身の享楽、我々の身体から生じる欲動は、享楽的であるだけではなく、我々が統御する必要のある、明らかに脅迫的な何かだ。統御するための最も簡単な方法は、その享楽を他者に帰して、もし必要なら、この他者を破壊することだ、と。

事実、享楽と他者とのあいだの、この発達的に基礎付けられる繋がりは、主体にとって享楽にかんする相克を外部化する道を開く。そうでもしなければ、自身の内部に留まったままになりうる。…

フロイトはくり返し言っている、人は内的な脅威から逃れうるのは、唯一外部の世界にそれを投影することだ、と。問題は享楽の事態に関して、外部の世界はほとんど女と同義だということである…。(ポール・バーハウ2009, PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

左翼系の天皇制廃止論者が、宮廷道化師との批判を蒙らないためには、母権性社会を念入りに研究してからのほうがよいのではなかろうか。あるいは欧米規範の侍僕に陥らないためには。

『精神分析の倫理』のセミナールにおいてラカンは、「悪党」と「道化」という二つの知的姿勢を対比させている。右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者であり、破滅にいたるに決まっている「ユートピア」計画を報ずる左翼を馬鹿にする。いっぽう左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師である。社会主義の崩壊直後の数年間、悪党とは、あらゆる型式の社会連帯を反生産的感傷として乱暴に退ける新保守主義の市場経済論者であり、道化とは、既存の秩序を「転覆する」はずの戯れの手続きによって、実際には秩序を補完していた脱構築派の文化批評家だった。(ジジェク『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』)

すこし前掲げた、岩井克人の九条改正案は判断保留するにしても、皇室典範の改正案程度にとどめておくべきではないだろうか。天皇制の廃止ではなく、である。

私は、日本の憲法九条と皇室典範は次のように改正すべきだと考えています。

憲法九条については、日本国民は、一、自らの防衛、二、国連指揮下にある平和維持活動、三、内外の災害救助に活動、の三つの目的にその活動を限定した軍隊を保持することを世界に明言した内容に改正します。

皇室典範については、一、皇族は男女ともに皇位継承資格をもち、二、皇位継承者はその資格を放棄する権利をもち、三、天皇自身も皇位を放棄する権利をもつ、という内容に改正します。皇位継承の資格を放棄した旧皇族は、一国民として、参政権をはじめとするすべての市民権を享受しうることになります。

憲法九条の改正も皇室典範の改正も私がはじめて言い出したことではありません。いずれも左右のさまざまな政治的立場から繰り返し主張されてきたことです。ただ私は、 この二つの改正案をどちらも欠かせない一対のものとして提示したいと思っているのです。なぜ私がそう思っているのかは、これから順を追って説明していくつもりです。(憲法九条と皇室典範改正案(岩井克人)

この改正案を実施すれば、宮廷道化師左翼たちの繰り言である「無責任の体系」(丸山昌男)の側面は消滅ーー低減するといっておこうーーのではなかろうか。

だが問題は、《皇位継承者はその資格を放棄する権利》があったら、天皇のなり手がなくなるのではないか、という懸念である。おそらく兄弟同士で譲り合って血肉の争いになるのではないだろうか。たとえば次期天皇の来るべき皇后は「いじめ文化」の象徴に、すでに妃の段階でになっている。かの夫婦はホンネではなんとしても皇位をまぬがれたいのではなかろうか。

ところで、いじめとは母系制社会の際立った特徴ということは・・・まさかあるまい?

ノーベル賞作家でありかつまたかつてのフェミニストのアイコンのひとりだったドリス・レッシングは自伝にて次のように言っている。

子どもたちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子どもが悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。(ドリス・レッシングーー「The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles」 Paul Verlweghe 2000より孫引き))

これはエディプスの斜陽によってこのような現象が生まれた、という見解である・・・父の権威が弱まれば母系的なものがあらわれるのである・・・

二種類の超自我と原抑圧


父の権威は、S1であり、母系的なものは、S(Ⱥ)である。S(Ⱥ)は、Ⱥの境界表象に過ぎず、つまり欲動の本源的アナーキー Ⱥ の仮面に過ぎない。初期フロイト概念「境界表象 Grenzvorstellung」とは、中期フロイトの「欲動の心的(表象的)代理 psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes」であり、そのまま後期フロイトのタナトスにつながってくる。

かつてはS1はS(Ⱥ)に蓋をしていたのだが、第一次世界大戦の「西欧の父の危機」(ヴァレリーの『精神の危機』)、1968年の学園紛争の実質的な「権威の死」、1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」により、S1はボロ屑となった。

これが、ラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールの《私たちは、父たちを彼らの役割へと教え直したい世紀のなかにいる》( Colette Soler)の意味である。

もちろん晩年のラカンも同じ意味合いのことを言っている。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)

で、何がいいたいのか。母権的あるいは多神教的日本にとっての父の名(父の機能)とは何か、という問いである。欧米のサルマネはする必要はまったくないのだ、彼らもコケつつあるのだから(参照:多神教的「父なるレリギオ」のために)。


2017年3月26日日曜日

三種類の穴埋め師:S(Ⱥ)- I(Ⱥ) - F(Ⱥ)

◆Logic of Sexuation, Ellie Ragland,2012,PDFより




Ellie Raglandはどんな方だったか?



ははあ・・・

彼女は Lacan.com の常連、つまりミレール傘下の方ではある。すなわち信頼するに値する。わたくしはいくつか小論を読んだだけだが、たとえば、最近の「What Lacan thought Women Knew: The Real and the Symptom」など素晴らしい。

だがここでは、わたくしにはやや難解なところがある Logic of Sexuation からである。

In his Seminars on James Joyce, Lacan maintained that Joyce sought to fill the void by making the real voice suture all the crevices in being and body: ∅/a.(Logic of Sexuation, Ellie Ragland,2012)。

と彼女は記しているが、この ∅/a という記述に則れば、他のふたつも、Φ/a、−φ/aとなるはずだ。

とはいえ、Φ/a はまだしも、−φ/a は一般には逆の形に記されてきた、a/−φと。

たとえば、ポール・バーハウ2001には次の図がある。


これはいわゆるファルス化された対象aを示しており、a の多様な位置づけのせいでこのように記述されるし、ミレールにもしばしば同様の記述がある。

だが、−φ/aにおける a をリアルな対象a、あるいは穴と捉えれば、−φ/a と記しても、おそらく何の問題もない、とわたくしは思う。すなわち対象aのいくつかある定義のなかの一つは《シニフィアン化される前の、すなわち S(Ⱥ) 以前の Ⱥ 》(Lorenzo Chiesa、2007)であり、このように捉えた場合のaである。

セミネール7の《親密な外部、この外密が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(S7)、つまり《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(S.16)としての対象a、あるいはセミネール11におけるラメラ神話の叙述箇所の《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》としての原リアルな対象a、これらはファルス化された対象aや剰余享楽としての対象a とは異なり、原初の対象a [objets a primordiaux]にかかわる。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらは原初の対象a [objets a primordiaux]の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre Athens, May 2013)

(究極の)対象a は穴 trou である、とラカン自身も言っている。

C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel, qui est mis en question pour nous dans sa relation au sujet. (Lacan、S16, 27 Novembre 1968)

とはいえ、ラカン派の方々は、ボロメオの環の図について一般的にあまり饒舌ではない。たとえば次のようなことさえ言われる。

後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也氏ツイート)

いずれにせよーーEllie Ragland がマニアックなのか否かは知らないがーー、彼女のように空集合マーク ∅を使っている人は初めて見た。

女は空集合なのだから、これも別に何の問題はない。

Mais La femme c'est… disons que c'est « Toutes les femmes », mais alors c'est un ensemble vide, parce que cette théorie des ensembles, c'est quand même quelque chose qui permet de mettre un peu de sérieux dans l'usage du terme « tout ». Ouais…(ラカン、S22、21 Janvier 1975)

そして「一のようなものがある Ya d’l’Un」 とは、女 la femme のことである(参照:「一の徴」日記⑥:誰もがトラウマ化されている)。

Ya d’l’Unは、S(Ⱥ)でもある(参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)。

つまり、 ∅ はS(Ⱥ)である。

上に究極の対象aは穴であることを見た。 穴trouとは、Ⱥとも書かれる。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

すなわちボロメオの真ん中のaは、Ⱥとすることができる。

ゆえに、∅/a は、S(Ⱥ)/Ⱥと記すことができる。

次に、「「父の名/母の欲望」→「S1/S(Ⱥ)」 、「I(Ⱥ)/S(Ⱥ)」」で見たように、父の名は、I(Ⱥ) とも記せる(ミレールによる Idéal du moi(自我理想)のマテーム)。

とすれば象徴的ファルスΦは、I(Ⱥ)と記してもよいことになる。

さて最後に残った想像的ファルス−φ を、(Ⱥ)を使って記すにはどうしたらいいか?

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S10)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)


F(Ⱥ)と記してみたらどうだろう?






いやあ、実に整然としたーーȺを中心にしたーーボロメオの環である。

もちろんもともとのラカン自身による記述である、S(Ⱥ)をJȺ、I(Ⱥ) をJΦとするのが正当的であるには決まっている。ここでの肝は、JsのポジションにおけるF(Ⱥ)である。




肝とはようするに、フェティシストを自認する蚊居肢散人の正当的なポジションをボロメオの環のなかに見出しえたことである。

われわれの生は、どれかを選択して生きている。Ⱥというブラックホールの吸引力に怯えつつ、なんらかの穴埋めをするために。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ジイドのように、どの穴埋め=コルク栓も取れてしまえば、そこに現れるのは、女性の享楽である。女性の享楽(身体の享楽)は一般的に、S(Ⱥ)とされるが、ここでわたくしが言いたいのは、Ⱥのことである。

女の享楽 la jouissance de la femme は、非全体の穴埋め une suppléance de ce « pas-toute » を基礎としている。彼女は、非全体であるという事実を基礎にして、この享楽にとってのコルク栓 le bouchon を見出す。(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)

 この穴埋めの三つのタイプが 、S(Ⱥ)、 I(Ⱥ) 、 F(Ⱥ)である。S(Ⱥ )であれば精神病、I(Ⱥ) であれば神経症、F(Ⱥ)であれば倒錯である。

ーーというわけだが、この図、あるいは注釈は、まったく間違っている可能性が多分にあるので信用しないように。このあまりにも分かりやすく変更された図が、間違っていなかったら誰かがとっくの昔にこう記しているはずである。いまはどこか間違っているのか思案中である・・・

…………

ボロメオの環について、最晩年のラカンは次のように言い残していることを付記しておこう。

ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(Lacan, séminaire XXVI La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])

かつまたーー、21世紀のボロメオの環は、腰抜け・妄想家・詐欺師、あるいは脆弱 – 妄想 – 詐欺 Débilité – délire – duperieーー《これが、21世紀の分析臨床上の、《想像界・象徴界・現実界の結び目の谺、鋼鉄製の三幅対》[Débilité – délire – duperie, telle est la trilogie de fer qui répercute le nœud de l'imaginaire, du symbolique et du réel]である》(ミレール、2014ーー腰抜け・妄想家・詐欺師)、などという話もある。

私が上に記した叙述が正しいとすれば、そしてミレールのいささか過激な記述に依拠すれば、

S(Ⱥ)、すなわち精神病者は、腰抜けー詐欺師としての穴埋め師
I(Ⱥ)、すなわち神経症者は、妄想家ー詐欺師としての穴埋め師
F(Ⱥ)、すなわち倒錯者は、腰抜けー妄想家としての穴埋め師

ということになる。

この三種類の類型とは、各人それぞれ異なった仕方で性関係の不在の穴埋め(昇華)をして生きているという意味であり、タイプが異なるだけで(上に記した混合型だけではなく純粋型もあるだろうが)、穴埋め師から免れることはない。

…………

※付記

ボロメオの環のJȺは、S(Ⱥ)と等価である。このJȺについてもラカン派で饒舌な人は少ない。その少ない例外のなかで、ロレンツォ・キエーザ2007は、JȺ をサントームとしている。サントームは、S(Ⱥ)である(ミレール、2002)。

JȺは、大他者の享楽 la jouissance de l'Autreでは決してないことに注意。そうではなく「他の享楽 l'autre jouissance」である。

J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない。大他者の大他者はないのだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,Séminaire XXIII Le sinthome Décembre 1975)

※参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)


2017年3月24日金曜日

「父の名/母の欲望」→「S1/S(Ⱥ)」 、「I(Ⱥ)/S(Ⱥ)」

ラカンのセミネールⅤには、おそらくラカンを掠め読んだだけの者でも、さらにはラカンの初心者向け解説書のみを読んだだけの者でさえ、ほとんど誰もが知っているだろう、次の図がある。




この図は、ラカンの記述に則って、通常は次のように書き直される。





だが、母の欲望の下に「主体のシニフィエ」とあるのは、後のラカンからいえば、やや問題があるのであって、たとえば、セミネール17にはこうある。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(S17)

S1とは、このセミネール17の時点のラカンにとって父の名、あるいは(象徴的)ファルスであり、その前段階の 母の欲望が「来るべき主体」を徴示する(シニフィアンする)ときは、いまだ正式の「主体」はない。

その意味で、たとえば向井雅明氏の1990年代の論文(精神分析と心理学)の次の図のように、(ラカンの記述に則って)「x」としておくほうが、より正しい。



「x」とは、幼児が母とのイマジネールな関係においての困難さを示す、《l'enfant va assumer la difficulté de la relation imaginaire à la mere》。ようは《母が行ったり来たりするのは何なんだろ? Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?》(S5)に直面した来るべき主体の原不安、呼んでもやってこなかったり、呼ばないときにやってくる不気味な存在ーーそれにもかかわらず「生死」にかかわる必要不可欠な存在ーーへの不安感覚である。

ラカンはのちに《(構造化されていない)不安、その鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》(ラカン、S10)としているが、これを Ⱥ の原初的出現と呼ぶ。

かつまた《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S10)とも呼んでおり、後にはいっそう簡潔に《欠如の欠如 Le manque du manque》(AE573、1976)としている。ようするにブラックホールのことであり、原初の母の(幼児にとっての)全能性の言い換えである。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”)

そして図の右側の(A)、つまり大他者によってシニフィエされる「ファルス」とは、母の欲望の対象であり(le phallus est objet du désir de la mère)、象徴的ファルス Φ ではなく、想像的ファルス −φ を示している。



とはいえ、この図にいくらか問題があるのは、1959年以降、父の名の意味合いが変わったことに由来する。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネールⅥ で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013年ーー超越的法/超越論的法

この意味で右辺の、



は、もはや素直には使いがたい。つまり「大他者A」の「大他者(父の名)」はないのだから(超越的父の名から超越論的父の名への移行)、この図は誤解を招きやすい。

他方、左辺の


あるいは、



は、これは今でもよく使われる。とくに後者は次のような略号で頻出する。




これらの変奏として、最初に掲げた「DM/X」の図式のほうを、たとえば次のように記してもよいはずである。




こういう風に記している人をわたくしは直截には知らないが、この図の起源は、次の三つに由来する。



超自我とは確かに「法」である。しかし鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「単一」unary のシニフィアンとしての法である。…超自我は、独自のunique シニフィアンから生まれる形跡・パラドックスである。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我は、父の名によって隠喩化され支配される以前の「母の欲望」にひどく近似している。超自我は、法なき気まぐれな勝手放題 capricious whim without law としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996,PDF)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

ーー母の法、母なる超自我が、S(Ⱥ) と相同的ということである。

もうひとつ、NP/DM、つまり「父の名/母の欲望」の図式の変奏は次のようになる。




これもラカン文を援用した、「父なる超自我S1」/「母なる超自我S(Ⱥ)」という想定である。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

コレット・ソレールの最近のセミネールの表現をとれば、S(Ⱥ)とは、「原リアルの名」、「原穴の名」に相当する。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

そのときȺとは何か。それは、上のポール・バーハウ1999の図にあった「トラウマ的現実界」であると同時に、たとえば「身体の享楽」である。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ジャック=アラン・ミレールは、S1/S(Ⱥ)の図に相当するものとして、次のようなことを(どこかで)言っているらしい。出典不明だが、Esthela Solanoによる次のような指摘がある。

J.-A. Miller a produit le mathème suivant : I(A) barré sur S(A) barré.(Un exercice de lecture、Esthela Solano, PDF)

 I(A) barré sur S(A) barré とは、S(Ⱥ) の上に I(Ⱥ) を課すということである( I(Ⱥ)とは、 Idéal du moi(自我理想)のマテーム )。

すなわち、


である。

これは結局、以前掲げた次の図と同じことを言っている。



ここで肝腎なことの一つは、S1も I(Ⱥ)ーー自我理想シニフィアンーーも、後年のラカンにとってはどんなシニフィアンでもよくなったことだろう。

すなわち S1 は、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことであり(S17)、それが父の機能(縫合機能)を持てば、なんでもよい。

c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître.(ラカン、S.17)

実際、われわれの具体的な人生においても(標準的には)、父に同一化したり祖父母に同一化したり、その後、教師、思想家や芸術家に同一化したりしてゆくだろう(例外的に(?)母なる超自我に同一化したまま人生を送る人もいるが)。

倒錯者の不安は、エディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安としてしばしば解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

いずれにせよS1との同一化、それはS(Ⱥ)を覆い隠すためである。そのことを別の観点から、「昇華」や「脚立」といったりもする(参照:芸術家集団による美の「脚立 escabeau」)。

超自我・父の名・自我理想の関係については、次の文を参照されたし(フロイト自身は、超自我と自我理想を区別をしていないが)。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School
超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)

※より詳しくは、「二種類の超自我と原抑圧」を参照。

そして《原抑圧はS(Ⱥ)にかかわる》(PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST?、1999)。

S(Ⱥ)は、後期ラカンにおいてはΣ(サントーム)のことでもあり(ミレール、2002)、ラカンはセミネール23にて、サントームと原抑圧を関連づけている(参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)。

こうして現代ラカン派では次のような考え方がなされるようになる。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress 2012ーー「二種類の超自我と原抑圧」)

とはいえ驚くことに、固着(原固着)や、欲動の根とは、初期フロイトの境界表象にかかわる概念であることだ(バーハウ、1999)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

すなわち「境界表象 Grenzvorstellung」(境界シニフィアン)とは、ラカンのS(Ⱥ)、「一のようなものがある Y'a d'l'Un」、サントームΣ と(ほとんど)同じものである。

《サントーム……それはYadlunと等価である》(ミレール2011)ーーであるなら、サントームは「境界表象」でありうる。

とはいえ《身体の出来事 un événement de corps》(ラカン、AE.569、1975)が、サントームあるいは原抑圧(原固着)であるとして、それは具体的に、どんな出来事なのだろうか。

おそらく、幼児にとっての最初の大他者(母なる大他者)の介入による欲動興奮の《馴化》あるいは《拘束》にかかわる、《リビドーによる死の欲動のかかる馴化(飼い馴らし) Bändigung des Todestriebes durch die Libido》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924年)

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

「一次過程」とは、現代ラカン派が原抑圧と等価のものとする「我々の存在の核」にかかわる(この表現が出て来る『夢解釈』の時期には、フロイトはいまだ原抑圧概念はないが)。

私は心の装置における心的過程の一方を第一次的過程と名づけたが、私がそう名づけたについては、地位の上下や業績能力を顧慮したばかりではなく、命名によって時間的関係をも同時にいい現わそうがためであった。

第一次過程しか持たないような心的装置はなるほどわれわれの知るかぎりにおいては存在しないし、また、その意味でこれは一理論的仮構にすぎない。しかし第二次過程が人間生活の歴史上で漸次形成されていったのに反して、第一次過程は人間の心のうちにそもそもの最初から与えられていたということだけは事実である。そしてこの第二次過程は第一次過程を阻止してそれを覆い隠し、そしておそらくは人生の頂上をきわめるころおいにおいてはじめて完全に第一次過程を支配するにいたるものなのである。第二次過程の、こういう遅まきの登場のために、無意識的願望衝動からなっているところの我々の存在の核 Kern unseres Wesens)は、無意識に発する願望衝動にもっとも合目的的な道を指し示すという点にのみその役割を制限されているところの前意識にとっては把握しがたく、また、阻止しがたいものとなっている。(フロイト『夢解釈』1900年)

原抑圧とはシステム無意識にかかわり、抑圧がシステム前意識にかかわる(ここでは簡略して記すが、この関係は、おおむね S(Ⱥ)とS1の関係でもある)。

・前意識システム System Vbw においては、二次過程 Sekundärvorgang が支配している。

・一次過程 Primärvorgang(備給の可動性 Beweglichkeit der Besetzungen)は、無時間的であり、外部の現実を心的現実に置換する。これはシステム無意識 System Ubw に属する過程のなかに見出しうる。(フロイト『無意識』1915年)

…………

※付記

以下の文に力動的無意識とあるのは、「システム前意識 System Vorbewußt (Vbw)」のことである。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)



2017年3月23日木曜日

純粋過去Ⱥと潜在的対象S(Ⱥ)

・潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur

・潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial
(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)



剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)



享楽とは本当は、斜線が引かれている、ーー「享楽

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能にかかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »

上の二つの図は、すくなくとも構造的には、次の図と相同的である。




S(Ⱥ)は、原抑圧にかかわる。Ⱥとは、トラウマにかかわる。

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』)

トラウマとは、言葉で表象されえないもの、--これがフロイト・ラカン派の定義である。つまりはシニフィアンの彼岸、それがトラウマである。《au-delà de cette signification - à quel signifiant… non-sens, irréductible, traumatique, c'est là le sens du traumatisme 》(ラカン、S11)

対象aの意味合いは、(現実界・象徴界・想像界のそれぞれにかかわって)何種類もあるが、その一つは、Ⱥ のことである(Ⱥが穴であるのは、末尾のミレール注釈を見よ)。

対象a、それは穴のことである。

C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

ーーブルース・フィンクは、《S(Ⱥ) は、S(a)と書けるかもしれない》(Fink, THE LACANIAN SUBJECT, 1995)としているが、これは Ⱥ=a の場合がある、ということである。

かつまた、S(Ⱥ)は、初期フロイトの「境界表象 Grenzvorstellung」概念に相当する(ポール・バーハウ、1999)。それが上の図において、S(Ⱥ)がȺのエッジに置かれていることの意味合いである。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

ーーここでフロイトが抑圧と言っているのは、原抑圧のことである。

トラウマとは、また穴 trou とも呼ばれる、--《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)》(ラカン、S22)。いわゆる駄洒落ラカンの気味もあるが。

原抑圧とは穴の名である(「原リアルの名 le nom du premier réel」・「原穴の名 le nom du premier trou 」)(コレット・ソレール、2013-2014セミネールーー参照:二種類の超自我と原抑圧

以下の文で、ラカンはフロイト概念、夢の臍 Nabel des Traums(時期によって、菌糸体 mycelium、真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle、我々の存在の核 Kern unseres Wesen、欲動の固着 Fixierungen der Triebe、欲動の根 Triebwurzel 等とも呼ばれる)を、原抑圧・穴に結びつけている。

◆ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975

夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞の機能によって欲動を特徴づけたことを。

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である

さて、なぜ三つの図が相同的なのか。

まずドゥルーズは、潜在的対象にかかわって、原抑圧という語を出している。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)l'objet virtuel (objet = x) に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。

潜在的対象の遷移 Le déplacement de l'objet virtuel は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisement とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

反復は、実在性(レアリテ réalité)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。

したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化 la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。

そうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復)

そして冒頭に《潜在的対象は純粋過去の切片である》とも引用した。

純粋過去とは何だったか。

マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたちになっている。コンブレーは、かつて現在であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、無意識的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、実在(リアリティ)においてではなく、その真実において現われる Combray apparaît tel qu'il ne pouvait pas être vécu: non pas en réalité, mais dans sa vérité。コンブレーは、純粋過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の無意識的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現実的な(アクチュアルな)ものである現在 présent qui est actuel と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去のそれ自体における存在〔即自存在〕である。《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、局在化した時間の本質である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

(プルーストの作品は)ジョイスの聖体顕現 épiphanies とはまったく異なった構造をもっている。しかしながらまた、それは二つの系列の問いである。 すなわち、かつての現在(生きられたコンブレー)と現勢的 actuel な現在の系列。疑いもなく経験の最初の次元にあるのは、二つの系列(マドレーヌ、朝食)のあいだの類似性であり、同一性でさえある(質としての味、二つの瞬間における類似というだけでなく自己同一的な質としての味覚)。

しかしながら、秘密はそこにはない。味覚が力能をもつのは、それが何か=X を包含するenveloppe ときのみである。その何かは、もはや同一性によっては定義されない。すなわち味覚は、それ自身のなか en soi にあるものとしてのコンブレー、純粋過去の破片 fragment de passé pur としてのコンブレーを包んでいるenveloppe Combray 。それは、次の二つに還元されえない二重性のなかにある。すなわち、かつてあったものとしての現在(知覚)、そして意志的記憶 mémoire volontaire によって再現されたり再構成されたりし得るかもしれないアクチュアルな現在への二重の非還元性のなかにある。

それ自身のなかのこのコンブレーは、己れの本質的差異 différence essentielle によって定義される。「質的差異 qualitative difference」、それはプルーストによれば、「地球の表面には à la surface de la terre」存在せず、固有の深さのなかにのみ存する。この差異なのである、それ自身を包むことによって、諸々の系列のあいだの類似性を構成する質の同一性を生み出すのは。

したがって再びまた、同一性と類似性は「差異化するもの différenciant」の結果である。二つの系列が互いに継起するなら、それにもかかわらず、二つの系列に共鳴を引き起こすもの、すなわち対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレーとの関係において共存する。さらに、二系列の共鳴は、その系列をともに越えて溢れ返る déborde 死の本能 instinct de mort をもたらす。たとえば半長靴と祖母の記憶である。

エロスは共鳴 résonanceによって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼方に、その輝かしい核を見出す)。プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰 l'éternité du retour dans le temps を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

上に引用したラカン文に《欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する》とあった。この原穴の名、原リアルの名は、ドゥルーズのいう「死の本能」と相同的である(参照:死の本能と死の欲動の相違(ドゥルーズ))。

フロイトの言い方なら、引力である。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

こうして次の図が書ける。



わたくしは長い間ーーもしかりにラカン概念に結びつけるならーー、純粋過去のほうが、S(Ⱥ)で、潜在的対象は、Ⱥではないか、と(なんとなく)考えていたが、ドゥルーズをいくらか読み返してみると、どうもこうならざるをえない。

だがそのとき純粋差異はどちらのポジションになるのだろう。純粋差異とは、S(Ⱥ)であるように思えてならないのだが、ちょっと今はあまりはっきりしたことはいえない。


【絶対的差異・内的差異】
究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne であり、《われわれに対して世界が現われてくる仕方の中にある質的差異 différence qualitative、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異》(プルースト)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

【単独的差異・内的差異・差異の差異化】
反復とは…一般的差異 différences générales から単独的差異 différence singulière へ、外的差異 différences extérieures から内的差異 différence interne への移行として理解される。要するに、差異の差異化 le différenciant de la différenceとしての反復である。(『差異と反復』)

起源的差異・純粋差異・即自的差異】
永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的・純粋な・総合的・即自的差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』)

ーーいやあ、間違ってないかな・・・「起源は差異である」なんてあるな・・・純粋差異と純粋過去の「純粋」という語に導かれて、純粋過去をS(Ⱥ)とし、潜在的対象をȺとするかもしれないよ、・・・だいたいラカン派だって、ȺとS(Ⱥ)、どっちかどっちだかいいかげんだからな、まあ、いいさ。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

ま、徴示するのか、その徴示されるのかのどちらかなのだが、だいたいシニフィアンの彼岸にあるȺ(大他者の大他者はない)を徴示しようとするのが奇妙なのであって、だから初期フロイト概念の「境界表象」(境界シニフィアン)が貴重なのである・・・あるいは厳密さを期そうとせずに、本来はȺもひっくるめて S(Ⱥ)でよいのである・・・

次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

《潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。》(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

ーーいやあ、まいったな、この文とは合致しそうにはないよ、せっかく書いたから投稿はするが、だれかアタマのいい人、考えてくれよ、オレはもういいからさ。

冒頭にかかげたドゥルーズの《潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial 》ってのが、ひょっとして間違っているってことはないだろうか?

部分対象ってのは、(ラカン派的には)フェティッシュ化、あるいはファルス化された対象aなんだから、やっぱ外側にあるはずなんだけどさ・・・

いずれにせよ肝腎なのは遡及性概念である、「原初 primaire は最初 premier のことではない」(S20)。すなわちȺは、S(Ⱥ)によって遡及的 rétroactivement に構成されて現勢化する。

とすれば、純粋過去は、潜在的対象によって遡及的に構成されて現勢化するんだろうか。それとも、潜在的対象は、純粋過去によって遡及的に構成されて現勢化するのだろうか。

いやあどっちだろ?

純粋差異についてだが、ジジェクはこう言っている。

ドゥルーズの超越論的経験論の用語では、純粋差異は、現勢的 actual アイデンティティの潜在的支えもしくは条件である。或る実体 entity が「(自己)同一的(self‐)identical」であると受け取られのは、その潜在的支えが純粋差異に還元された時(時のみ)である。ラカン派においては、純粋差異は、潜在的対象(ラカンの対象a)の補填(穴埋め)にかかわる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここでの補填という用語は、コルク栓にかかわる。《女性の享楽は非全体の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 le bouchon を見いだす》(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)

…私は、対象の、考えうる唯一の概念、欲望の原因としての対象、欠如している対象を考えだした。

欠如の欠如が現実界を生みだす。それは唯一、コルク栓として、そこに現れる。このコルク栓は、不可能という語によって支えられている。現実界についてわれわれが知っている僅かなことは、すべての本当らしさへのアンチノミーとして示される。

Je l'ai fait d'avoir produit la seule idée concevable de l'objet, celle de la cause du désir, soit de ce qui manque.

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible, dont le peu que nous savons en matière de réel, montre l'antinomie à toute vraisemblance. (Lacan, PRÉFACE À L'ÉDITION ANGLAISE DU SÉMINAIRE XI,AE573 , 17 mai 1976)


《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ》(『トランスクリティーク』)の表現を援用して言えば、「現実界」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない、となる。

さて、そこの〈あなた〉!、わたくしの記述を、わたくしの図を、訂正してクダサイ!

…………

※付記

穴の概念は、欠如の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンと以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、空間は残ったままだ。欠如とは、空間のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は空間の秩序に従う。空間は、欠如によって影響を受けない。これがまさに、ある要素が欠けている場に他の諸要素が占めることが可能な理由である。その結果、人は置き換えすることができる。置き換えとは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権威 legitimate authority である。

ちょうど反対のことが穴について言える。それは、ラカンが後期の教えでこの概念を詳述したように。穴は、欠如とは反対に、空間の秩序の消滅を意味する。穴は、組み合わせ規則の空間自体の消滅である。これが、Ⱥ の最も深い特性である。Ⱥは、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場のなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。穴との関連において、外立 ex-sistence がある。それは、残余にとっての正しい場であり、現実界の正しい場、すなわち意味の追放の正しい場である。(ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

2017年3月22日水曜日

死の本能と死の欲動の相違(ドゥルーズ)

まず以前から気になって仕方がないドゥルーズのプルースト論の叙述を引用する。

祖母の思い出の中に、何が起こったのか。ひとつの強制された運動が、ひとつの反響(共鳴)とかみ合うのである。死の観念を持った拡がりが、共鳴する瞬間を除去してしまった。しかし、見出された時と、失われた時とのあいだの、あれほど激しい矛盾は、両者のそれぞれを、その生産の系列と関連させている限り、解決される。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos),である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964-1970-1976「三つの機械 Les trois machines」)

ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』は、初版1964年、第二版1970年、第三版1976年とある。初版は第二版にあらわれる「第八章 アンチロゴスまたは文学機械」が欠けた小さな本だった(ほぼ倍増の書物になっている)。第三版は、章の組み換えや章題の変更等以外には、最後の章として「狂気の現存と機能ークモー」がつけ加えられいるが、大きな変化はない。

とはいえ「思考のイマージュL'image de la pensée」の章の三度にわたる位置変動が、ドゥルーズの何かへの拘りを示してはいる(そもそも彼がこのようにいったん出版した書物をいじくりまわしたのは、このプルースト論だけである)。

以下の水色の枠が「思考のイマージュ」の章である。


だが今はこの話をもうこれ以上するつもりはない。

ここでは、上に引用した「三つの機械 Les trois machines」の文は、1970年版に初めて現れる、ということが言いたいだけである。

ところで、1968年上梓の『差異と反復』には次のようにある。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

この1970年と1968年の叙述を、1967年上梓の『マゾッホとサド』とともに読むとどうなるか。

『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。

なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混同された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。

従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。

無意識に「否Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。

ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。

すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)

もしドゥルーズのエロスとタナトスの捉え方に変化がないのなら、これらの三つの叙述をどのように捉えたらよいだろう?

マゾッホ論には、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、生の欲動 puIsions de vie と混同された形で現れるとあった。すなわち死・破壊欲動が《エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなもの》とされている。

とすれば、『プルーストとシーニュ』の記述にあった、次の三区分をどう振り分けるべきか。

①部分対象の機械(欲動あるいは衝動)machines à objets partiels(pulsions)
②共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
③強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)

①②を、ドゥルーズはエロスの審級としていると仮定することができないだろうか? それはマゾッホ論の次の記述からの類推である。

フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。(ドゥルーズ、1967)

そして《破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう》ともあった。

もしこの想定をとれば、③の「強制された運動の機械(タナトス)」のみが、ドゥルーズが死の本能と呼ぶものということになる。この③は、『差異と反復』における《時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式》だろう。

①部分対象の機械(欲動)+②共鳴の機械(エロス)が上辺とすれば(ラカン的には象徴界)、③強制された運動の機械(タナトス・死の本能)が、下辺(現実界)ということになる筈である。


① 部分対象の機械(欲動)+② 共鳴の機械(エロス)
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③ 強制された運動の機械(純粋状態のタナトス・死の本能)



もちろんこれは、ドゥルーズの1967年から1970年のあいだの考え方の変化がなかったら、とした場合の想定である。

ドゥルーズの《強制された運動の機械》とは、ラカンの現実界にかかわる表現のひとつ、《書かれぬことをやめぬもの ce qui ne cesse de ne pas s'écrire》(Lacan, S.20)に相当するはずである。

上辺の(死の)欲動がエロスの審級と混同されるという観点については、フロイト自身にも、「欲動混淆 Triebvermischung」、あるいは「死の欲動とエロスとの合金化 Legierung von Todestrieb und Eros 」という表現があり、ほぼ同様の考え方とすることができうる。

リビドーによる死の欲動のかかる馴化(飼い馴らし) Bändigung des Todestriebes durch die Libido がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも百パーセントに純粋な死の欲動や生の欲動というものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混合型 Triebvermischung (欲動混淆)がいつも問題にされざるをえないのだということである。同様にして、ある種の作用の下では、いったん混合した二欲動がふたたび分離することもあるらしいが、死の欲動のうちどれほどの部分が、リビドー的付加物に拘束することによる馴化を免れているかは、目下のところ推察できない。

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に転移され終わったのち、その残余として有機体内には本来の性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として生命体そのものを自己の対象とする。かくてこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化 Legierung von Todestrieb und Eros  が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向けられた投射されたサディズム、あるいは破壊欲動がふたたび摂取され内面に向けられうる projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb wieder introjiziert, nach innen gewendet werden kann のであって、かかる方法で以前の状況に組みいれられると聞かされても驚くには当たらない。これが二次的マゾヒズムなのであって、これは本来の(一次的)マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus (1924) フロイト著作集6 pp.303-304からだが一部変更)

そしてドゥルーズの言う③、つまり「死の本能 Instinct de mort 」あるいは「純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur」とは、ひょっとして次のフロイト文にある《以前のある状態を再回復Wiederherstellung しようとするもの》ではなかろうか。

…欲動的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか? ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されていなかったーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーー欲動の特性、おそらくはすべての有機的な生 Leben 一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。

要するに、欲動とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を再回復Wiederherstellung しようとするものであろう。以前の状態とは、生命体 Belebte が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。

また欲動とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機的な生における鎮静傾向の表出であるとも言えよう。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

このフロイト文は、ラカンの次の文とともに読むことができる。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

上の『快原理の彼岸』に典型的にあらわれているフロイトの欲動 Trieb をめぐる表現のいくつかを、攻撃欲動 Aggressionstrieb(あるいは《破壊欲動 Destruktionstrieb とか征服欲動 Bemächtigungstrieb とか権力への意志 Wille zur Macht》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924年)と同じものと扱うわけにはいかない。それがドゥルーズの言っていることであるだろう。

たとえば次の文を攻撃欲動や破壊欲動、征服欲動と同じものとして読むのは、(それじたいとしては)いささか無理がある。

有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920)

もっともフロイトは後々まで、たとえば次のように言っているわけだが。

攻撃欲動は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)

さてもうひとつ、ドゥルーズのマゾッホ論1967年に、Todestriebは《本源的に沈黙する essentiellement silencieux 》ものとあったが、これは直接には、『自我とエス』の次の文に由来しているだろう。

死の本能(死の欲動)は本質的に唖であり、生命の騒乱はもっぱらエロスから発するという印象は避けがたい。

…müssen wir den Eindruck gewinnen, daß die Todestriebe im wesentlichen stumm sind und der Lärm des Lebens meist vom Eros……(フロイト『自我とエス』1923年)

『快原理の彼岸』にも似たような表現がある。

死の欲動Todestriebeは、目立たずにunauffällig その仕事を行うように見える。

Arbeit unauffällig Todestriebe ihre Arbeit unauffällig zu leisten scheinen.(フロイト『快原理の彼岸』1920年、最終章)

この「本質的に唖」であったり、「目立たずにunauffällig その仕事を行う」ものとしてのTodestriebeは、死の欲動ではなく死の本能と呼ぶべきだというのがドゥルーズの捉え方であり、この観点はーーわたくしの知る限り、誰も注目していないようにみえるがーー、ひどく豊かな示唆を今でももっている、と思う。

(以上、そのうちたぶん続く)

…………

※付記

本能と欲動について、ラカン自身は晩年まで次のように言っている。

セミネールⅩⅠの6、7、8、9、そして13、14章を読んで、Trieb を本能 instinct と訳さないことによって得られるもの、そしてこの欲動 pulsion を漂流(逸脱dérive)と呼び、子細に検討して、フロイトに密着しながら、その奇妙さを分解したのち、組み立て直すことによって得られるものを実感しないひとがいるでしょうか。(ラカン『テレヴィジョン』1973年)

ただし上の文にあるように、pulsion という仏語訳には異和があったようだ。同じ時期、次のようにもくり返している。

…私は、欲動 Trieb を翻訳して「漂流 dérive」・享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。…j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20, 08 Mai 1973)

さらに三年後にも、はっきりとpulsionという訳語に異議表明をしている。

人は円環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの以外に、どんな進展もない il n'y a pas de progrès que marqué de la mort. …

それはフロイトが強調したものだ、« trieber »、Trieb という語で。フランス語では pulsionと翻訳される…どうしてか知らないがね je sais pas pourquoi… …la pulsion, la pulsion de mort, もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流(逸脱)」という語はどうだろう…on n'a pas trouvé une meilleure traduction alors qu'il y avait le mot dérive.(S23 16 Mars 1976)