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2017年3月7日火曜日

何もかもつまらないよ

にわかにいくつか詩みたいなもの書いたんだ
こういう文体をつかんでね一応
きみはウツ病で寝てるっているけど
ぼくはウツ病でまだ起きている
何をしていいか分からないから起きて書いてる
書いてるんだからウツ病じゃないのかな
でも何もかもつまらないよ
モーツァルトまできらいになるんだ
せめて何かにさわりたいよ
いい細工の白木の箱か何かにね
さわれたら撫でたいし
もし撫でられたら次にはつかみたいよ
つかめてもたたきつけるかもしれないが
きみはどうなんだ
きみの手の指はどうしてる
親指はまだ親指かい?
ちゃんとウンコはふけてるかい
弱虫野郎め

ーー谷川俊太郎「飯島耕一に」『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』


何もかもつまらなくなったとき
なにかに触りたくなるのはたしかさ
でも白木の箱じゃものたりない
粘土をこねるのも試してみた
だがそのうちその柔軟性
可塑性の高さに苛立ってくる

患者の自傷他害についてはどう考えるのかということですが、患者さんがそういう行為に出るという場合はいくるかありますね。全然医療いかかっていない時期、つまり発病の間際に行うことが意外に多いんですが、これはおそらく自己感覚が薄れてくるからだと思います。離人症という名前がついていますし、もっと広い意味でもいいんですが、そういうとき、自己感覚を強めるためにスリルを求める。いっときは自己感覚が取り戻せます。

例えば自分の手首を切るとか、中二階から飛び降りるとか、あるいは行きずりの人を殴るということがありますが、殴るという行為の瞬間は心身が一まとまりになるのです。乱暴する瞬間はいわば皮質下的な統一があるのですね。皆さんも壁でも叩いてみるとおわかりだと思います。(……)

こういう場合にどうするかということですけどね、私が使った手段は、なんと粘土の塊を渡すことでありました。まだ駆け出しの精神科医の頃にやったんですね。何かを握っているのは実在感があるんですよ。壁を叩くよりも、粘土をこねまわしているほうが実在感がよみがえってきます。赤ちゃんが最初に子宮の中で自分を認識するのは指しゃぶりであり、自分の身体を触ることなんですよね。そのような対象に粘土を使う。何も細工しなくていんです、粘土をこねていれば。(中井久夫「統合失調症の経過と看護」『徴候・記憶・外傷』所収)

触っていたいんだ
土器や大理石などのもっとかたいものを


(縄文ヴィーナス)

古木の幹の瘤でもいいよ
プルメリアの瘤ってのは最高だよ
庭まで出ていかなくちゃならないのが
玉に瑕だけど
壁を叩きそうになったら
飛んでいくのさ



すべてのものは球か、円錐か円筒形である...それは事実だ。その観察を最初に(自分が)したのではないのは、なんともうまくない(残念だ)。セザンヌは正しかった。(ジャコメッティーーメルセデス・マッター『試論』)

《秘訣とは卵のあの曲面ですよ。なぜなら、陶工の轆轤がまずはじめに形を仕上げていれば、見かけ倒しの部分はもうなくなっているから。》(アラン『彫刻家との対話』)

彫刻がばかでかくなったのは
ばかげている
卵かそれよりもすこし大きい形の彫刻
美の起源はそこにしかない

古代ギリシャ文明の彫刻だったら
その最初期のキクラデス彫刻のなかにしかないよ




「古代の彫刻…これらには、どこかに共通したところがあります。卵型、壺の丸み、これが共通点です。面のどの起伏も、どの凹みも、すべてあの偉大な法則に服従しているでしょう。ところが、そうだからこそ、何か表情が出ている。表情、そういっていいでしょうね。ただし、何も表現していない表情。そういえますね」

「そういっていい」と私は答えた「いや、そういわねばならない。というのも、言語で説明できそうな感情を彫刻が表現しているとき、われわれは彫刻の外にいるわけだから。それでは完全にレトリックの分野に出て、調子のいいことをしゃべっているだけのことになる。だから私としてはこういいたいと思うのだが、ほんとうの彫刻というものは、ある存在の形体以外のいかなるものも絶対に表現していない。存在の形体、つまり存在のもっとも深い内部という意味だよ。そういう深みから、存在の形はうみ出されて来るし、また奇型の形成を拒否しつつこの世に押し出されもしたのだから」 (アラン『彫刻家との対話』杉本秀太郎訳)

でっかい彫刻なんてのは
完全にレトリックの分野に出て
調子のいいことをしゃべっているだけさ

クメールの市場で手に入れた
銀製のコップってのはオレの救いさ
毎朝うがいするときに使ってるのだけど
その重みと手触り
ああ生きていこうって思うよ


もうすこし丸みがあったら
きっとこれで満足するのにな



ジャコメッティと女たち

あなたにとっての「世界で一番カッコいい人物」」第二弾。

あの頃ロダンを愛したのはリルケが褒めていたせいだ
あの頃ドガを愛したのはヴァレリーが褒めていたせいだ
あの頃ジャコメッティを愛したのはサルトルが褒めていたせいだ

人が褒めていたから愛するようになったに過ぎない
ジャコメッティは森有正が褒め加藤周一が褒め
そのため矢内原を読んだ

1959年8月3日、矢内原は2年ぶりにオルリー空港に降り立つ。パリを走るバスのなかから認めたアネットの姿。「彼女はぼくのほうに走ってくる、彼女は喜んでいる」。矢内原の眼には、街も人も変わっていない。アルベルトはまだスイスだ。そこでアネットと公園のなかを散歩、サン=ジェルマン=デ=プレに出かけて食事をとり、ホテルに帰って愛しあう。(矢内原伊作『完本 ジャコメッティ手帖』 II

(ジャコメッティとアネット、矢内原撮影)


ジャコメッティ夫妻は、有名になり金銭的な余裕が充分にできても浴室も流し台もない、パリ最下層のアトリエに二人で住み、食事はほとんどつねにカフェでとっていたと言われている。




ジャコメッティは娼婦にところに「もらい湯」にいっていたというが、もちろんそれだけではないだろう。

以下、James Lord、Giacometti portraitから引用するが、必ずしも全面的に信用する必要はない。それは矢内原伊作の叙述もある意味そうだが、朝吹登水子や石井好子などによって人はいくらか矢内原の叙述がそれほど間違いでないだろうと憶測する「証拠」がないではない。



娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(James Lord、Giacometti portraitより)

(ジャコメッティが晩年まで愛した Caroline Tamagno)


(アネットととものジャコメッティ)

仕事がうまく進まなくて神経がたかぶっている時に〈椿姫〉や〈冬の旅〉などが聞こえてくると『アネット! なぜヘンデルをかけないのだ』とどなったりした。ジャコメッティは他のどの音楽家のものよりも特にヘンデルのものが好きなのだ。ヘンデルの音楽は、いささかのわざとらしさも誇張もなく、全く自然で、最も『開かれた』音楽だ、と彼は言うのである。ヘンデルにくらべれば、ベートーヴェン以後のロマン派音楽はあまりにも技巧的主観的であり、『芸術』的であり過ぎる、というのが彼の意見だった。最もすぐれた芸術は『芸術』を感じさせない芸術にある。(矢内原伊作「ジャコメッティ」)

彼のなかにはニーチェだっているじゃないか! --《優れたものは軽やかであり、一切の神的なものは華奢な足で走る》(ニーチェ『ヴァーグナーの場合』トリノ書簡)

四分の三の力―― ひとつの作品を健康なものらしく見せようというなら、それは作者のせいぜい四分の三の力で産み出されていなくてはならぬ。

これに反して、作者がその極限のところまで行っていると、その作品は見る者を興奮させ、その緊張によって彼を不安におとしいれる。

あらゆるよいものは、いくぶん呑気なところがあって、牝牛のように牧場にねそべっている(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的』)



アネット夫人はどうしても近代音楽の価値を夫に認めさせようとしてしきりに論じたが、ジャコメッティの方も近代芸術よりも中世或いは古代の芸術のほうが優れているという説を主張して譲らない。(……)「しかしあなたがそういう風に言うのも、あなたが近代人であり、現代の芸術家だからではありませんか」と僕が述べると、これには彼も賛成して、「確かにそうだ、(……)近代の目で見るからこそ古代や中世のものに動かされるのだ、つまり私はグレゴリアン聖歌を最も近代的、或いは最も現代的な音楽としてきいているのだ」と言った。「それならどうして(……)今日の芸術家はエジプトやビザンティンのような美術、或いはグレゴリアン聖歌のような音楽が作れないのかしら。」ジャコメッティは呟くように、しかし即座に答えて言った、「一人の力で社会を作ることは出来ないからだ」と。(同、矢内原伊作)

しかも彼はヘンデルさらにいっそうグレゴリオ聖歌を愛している。「僕の趣味と同じじゃないか!」

当時わたくしは立教に女友達があり、彼女に導かれて皆川達夫のグレゴリオ聖歌の話をこっそりききにいっていた。《まぎれもなく生月島の歌オラショ『ぐるりよざ』の原曲となった聖歌『オ・グロリオザ・ドミナ O gloriosa Domina (栄光の聖母よ)』、夢にまで見たそのマリア賛歌の楽譜が記されていたのである。》(皆川達夫


(La femme qui marche,1932-1936)


乳房の下にある窪みに人差し指や中指を入れて感触を愛しんでいたくなるような作品だ。

彼の20歳代の作品の窪みだっていい。

(Watching Head,1927)


わたくしは若いころルーヴルの土産物ショップで手に入れた キクラデス Cycladesの小さな模造彫刻を撫でまわすだけで今のところ我慢しているが、どうも最近はくぼみが欲しくてたまらない。




ブランクーシのイミテーションでも手に入れるべきだろうか。




だがすぐにくぼみが物足りなくなる気がする。

おそらくコンスタンティン・ブランクーシ Constantin Brâncuşi の作品群はおおむね女性向けなのではなかろうか・・・



…………

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

 Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti)




ジャコメッティは若き時代、毎夜眠りにつく前に、自分が二人の男を殺し、二人の女をレイプして殺害することを想像した。(James Lord、Giacometti portraitより)

美には割れ目以外の起源はない。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,2000ーー「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」


(Suspended Ball 1930-1931)

ーーこの作品はアンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ等を魅了した。ジャコメッティはこの作品制作前後にシュルレアリストグループに入る(1934年に父の死があり、作風の変化をブルトンに難詰され1935年にブルトングループから離反する)。

ジャコメッティはシュレアリストのある会合にて、次の問いに答えるよう求められた。「どうやって女たちを選ぶのか?」「あなたは暗闇に身を隠す。女が通り過ぎるとき、彼女目掛けて身を投じ、強姦する」(James Lord、Giacometti portraitより)

(LE COUPLE,1928-1929)

1926ー27年に同じカップルと題された作品は、次のもの。




1925年から関係が続いていた4歳年上の米女性Flora Mayaとは1929年に別れている(Giacometti Chronology, MoMA、2001,PDF





ジャコメッティの母は、彼の家族のなかで「支配者」であり、彼は強い依存関係にあったとされる。(James Lord、1986)




さてここまで精神分析的記述を敢えて避けてきたが、ここですこしだけフロイトとラカン派の記述にお出まし願っておこう。

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』ーー自分の屍骸を解剖してその病状を天下に発表する義務

(左端、ジャコメッティ)

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねに fascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(ポール・バーハウ1995,Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,PDF


すべての女性に母の影が落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ1998,Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

ジャコメッティの母の名は、Annetta Giacometti-Stampaである。

そして1943年にBrasserie Centraleにおけるディナーで、ジャコメッティは20歳になったばかりのAnnette Armと出逢う。



ーーとても美しい写真だ。



いやあ、徹底的に美しい。ブランクーシ的抱擁! 




わたくしは不幸にも若いころ、ブランクーシを褒めている人物に誰も出会わなかったので、長いあいだ彼の作品にはほとんど関知していなかったが、とてもすばらしい彫刻家であるに相違ない。もっとも現実とはこういうものではない。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。ロマンティックな恋愛に引き続いた結婚の教訓とは次のようなことである。――あなたはあのひとを熱烈に愛しているのですか? それなら結婚してみなさい、そして彼(彼女)の毎日の生活を見てみましょう、彼(彼女)の下品な癖やら陋劣さ、汚れた下着、いびき等々。結婚の機能とは、性を卑俗化することであり、情熱を拭い去りセックスを退屈な義務にすることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,私訳ーーうんざりすることのない愛しい妻



ーーアネット! 私のグレゴリア聖歌をヴェルディだけにはしないようしてくれ

…………

※付記

蛇足ながら、ここに写真として貼り付けたジャコメッティの作品群のほとんどは、通説では、いわゆる「真のジャコメッティ」となったと言われる1945年のモンパルナスの映画館の出来事以前のものであることを断っておく(他の作家の作品の提示も、いささかキクラデス彫刻への偏愛気味のことろがあるわたくしの「趣味」に大いにかかわっている)。

「でも、空間についてのぼくのいっさいの考えをくつがえし、ぼくを、ぼくが今いる道に決定的に導き入れてくれた真の啓示、真の衝撃ともいうべきものを、ぼくは同じころ、1945年に、ある映画館で体験したのだ。ニュース映画を見ていたのだけれどね、突然、ぼくには、そこに映っている人の姿のかわりに、三次元の空間を動いている人々のかわりに、平たい布の上のいくつかの斑点が見えたのさ。ぼくには画面に映った人々の存在がもう信じられなくなっていたんだな。

ぼくは隣にいる人を見た。すると、これがまた対照的に、何か途方もない深みを帯びているのだ。ぼくは突如として、あの深みを意識していたのだ。ぼくたちは皆、この深みのなかに身を浸しているけれども、慣れているせいで気づかないんだよ。ぼくは外に出た。すると、モンパルナスの大通りが、まるで見知らぬものに思えた。何もかも、別物になっていた。あの深みが、人々も、樹々も、事物も、変形させていたのだ。おそろしく静かだったな―苦しいほどだったよ 。あの深みの感情が沈黙を生みだし、事物を沈黙のなかに沈めているのだ。

この日に、ぼくは理解した、写真だとか映画とかは、真の意味での現実性を何ひとつも表現していないってことをね。とくに、空間という第三の次元を少しも表現していないということをね。ぼくにはわかったのだ。現実に関するぼくのヴィジョンは、映画などが持っているいわゆる客観性とは反対の極に位していることが。ぼくがこんなに強く感じているこの深みを描くように試みなければならない、ということがね」 」 (ジャン・クレイ「アルベルト・ジャコメッティとの最後の会話」 )

キクラデス彫刻にかかわっていえば、20世紀最大の古代キクラデス作家モディリアーニを忘れてはならない(モディリアーニはブランクーシに学んだが、貧困のため画家に転向したと言われている)。



ほかにもわたくしの住まいの比較的近場に存在するクメール彫刻群が、至高の「愛の呼びかけ」を以て、常にわたくしを待っているという幸福をもっている。




もちろんときには生身のほうがよいとすれば、カンボジアジプシーと当地の人が呼ぶ女たちの踊りを歩いて五分の市場裏広場にて年に数度観賞することさえできる。




ーーいやあ、ぜんぜんジャコメッティの女の話じゃなくなってしまった・・・

とはいえ、ニーチェを再掲すれば、《優れたものは軽やかであり、一切の神的なものは華奢な足で走る》(『ヴァーグナーの場合』トリノ書簡)のである。すなわち《最もすぐれた芸術は『芸術』を感じさせない芸術にある》(ジャコメッティ)なのだ。




James Lordによれば、ジャコメッティは足フェチだったそうだが、彼ははたしてこんな美しい足たちに遭遇できたであろうか? もちろん蚊居肢散人がひどい足フェチであるのは知る人ぞ知るである。




われわれは、ユーラシア大陸西端の陸塊にすぎない「ヨーロッパ半島」の女たちの美を過大評価してはならない。

かつまた人は、《笑うことによって厳粛なことを語る ridendo dicere severum》(ニーチェ)ーーのでなくてはならぬ。



2017年3月5日日曜日

現実の苦痛から逃れるための手段

………人間は誰しも、現在の苦痛から逃れて自由になりたいという切実な希求をもって生きている、と彼は思った。そしてこの希求を確実に果たしてくれるものが死以外にないとすればこんな芝居でもしてみるのかも知れない。

「性の放浪」が章に伝えたモティーフは虚無・疑似死であった。あの漫才師のような男は、あの映画のなかで、いつでも引き返すことの可能な死ーー蒸発の楽しみを演じてみせてくれたのであった。現代に於いて性は衰退の象徴として何時でも厭わしい屍臭をまとっているのであるから、章がそれを嗅ぎつけて怖れ、同時にそれに引き寄せられたことは自然であった。(藤枝静男「欣求浄土」)

現実の苦痛から逃れるための手段とは、何があるのか。

中井久夫『治療文化論』p.120の図表には次のようにある。

①地理的救済(転居、転職、移住、移民、旅行、放浪(国内・国外))

②“歴史的”救済(現状のまま努力を倍加したり、スポーツなどを始めたりして、現状のパラメーターを変えようとする)(病い性を否認)。“歴史的”というのは、これまでの自己蓄積の上に立ち、それを増大させようとするから。

③超越的・宗教的救済(既存の軌道による)ーー坐禅、巡礼、仏門、修道院入り

④非宗教的・愛他的救済(他者の治療によって自己治療が代替される)--ヴォランティアなど → 時にプロの治療者となろうとし、時に成功する。

⑤美あるいは芸術による救済

⑥犯罪・ルール違反による救済

⑦叛乱ー英雄による自己救済

⑧宗教あるいは宗教等価物(自然科学あるいは他の分野も含む)

ーーみなさんもそれぞれどれかをやっているか、さらにより軽めの精神衛生維持方法をとっているはずである。

人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。

通常の友人家族による精神衛生の維持に失敗したと感じた個人は、隣人にたよる。小コミュニティ治療文化の開幕である。(米国には……)さまざなな公的私的クラブがある。その機能はわが国の学生小集団やヨットクラブを例として述べたとおりである。

もうすこし専門化された精神衛生維持資源もある。マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化は無視できない広がりをもっている。古代ギリシャの昔のように、今日でも「体操教師」(ジョギング、テニス、マッサージ)、料理人(「自然食など」)、「断食」「占い師」が精神科的治療文化の相当部分をになっている。ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュート(売春婦)も、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。カウンセリング行動はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』pp.129-130)

とはいえ酒や、ホステス、プロスティテュートなどによる精神衛生活動に耽溺しすぎると、(わたくしのように)地理的救済が必要になるから厄介である。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)


『性の放浪』(若松孝二、1967)

「そう。君らにはわかるまいが、五十六十の堂々たる紳士で、女房がおそろしくて、うちへ帰れないで、夜なかにそとをさまよっているのは、いくらもいるんだよ。」(川端康成『山の音』)


飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

ーー谷川俊太郎「武満徹に」

(『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』所収)




きみが怒るのも無理はないさ
ぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言っている
しかもしらふで

にっちもさっちもいかないんだよ
ぼくにはきっとエディプスみたいな
カタルシスが必要なんだ
そのあとうまく生き残れさえすればね
めくらにもならずに

(……)

ーー「谷川知子に」

…………

冒頭に引用した藤枝静男「欣求浄土」における『性の放浪』のすぐれて喚起的な叙述を「在庫」から貼り付けておこう。

……若い友人が、自分の感心したというピンク映画を見ることを勧めてくれた。三本立ての最後の番組みで「性の放浪」というのがそれだと云うので、早速映画館に電話をかけて上映時間を確かめておいてから夕食後しばらくして出かけた。しかし実際には定刻に十分ばかりおくれたせいで、館の前の電灯は半分消されていて切符売りは居なかった。章がしかたなしになかへ入って行くと、角刈りの男が菓子売場のケースに白布をかけていた。

「もう駄目か」

「いいです」

彼が料金の二〇〇円を渡すと一〇〇円返してよこした。

短冊型に細長い場内の向こう端いっぱいのスクリーンに、田舎のプラットホームのベンチに腰かけている三〇前後の男の上半身がうつっていた。田舎だということは、男の後方にひろがっている貧弱な風景でわかった。漁村のようでもあった。たった二、三〇人ばかりの観客が、身体をずらせて両脚を前列の椅子の背にのばしかけたりして散在していた。

章は真中あたりの席に坐り、禿隠しの鳥打帽をぬいで煙草に火をつけて画面に見入った。入口の看板に「カラー作品」とあったから、これはひとつ前のやつかしらと思ったが、そうでないことは後でわかった。

ザーザー、ザーザーという騒音が絶えず耳につくので、はじめ何だろうと思ったが、じきに、これはこの映画館と抱き合わせ経営になっている隣接のパチンコ屋で玉を洗っている音だということがのみこめた。彼の席の左手の壁のすぐ向こうが、ちょうど洗い場になっているのだ。

ベンチに腰を下ろした男が、通りがかりの駅員に、ここはどこだと訊ねている。駅員が答えると、柱に書いた何とか云う駅名がうつった。男が、どうして俺はこんなところに来たんだろう、と独りごとを云って不思議そうな顔をする。次に、この男が会社(たぶん東京らしい)を出て来る姿がちょっと映って、また男がしきりに首をふる大写しが出る。

つまりこの男は会社からひけた瞬間に記憶を喪失してフラフラと汽車に乗りこんで、そしてここまで運ばれてきて正気にもどったが、自分が誰であるかはまた分らない。しかし現在は一切の拘束から脱した状態にある都会の平均的サラリーマンの一人であるというのが、この映画の設定らしい。その証拠に、あるいは芝居が下手なせいかも知れぬが、とにかく彼はたいして心配そうな表情も見せずに、改札口を出て漁師町をブラブラ歩いて行く。パチンコの玉洗いの音が場面によく合っている。

この主役俳優は都会のサラリーマンにしては汚なすぎる、と章は思った。テレビに出る南都雄二という漫才師とよく似た身体つきで、撫肩胴長だが胸の筋肉は一枚筋のように発達している。皮の固そうな厚い掌と短い指が、不器用な鋳型で抜いたように角ばっている。ことによると、インテリというような見せかけの武装あるいは見栄から自由になった都会青年の慾望を、映画はこの姿態によって象徴しているのかも知れない。

――彼は上衣を脱いで肩にかけ、汚れたハンカチで顔の汗を拭きながら、不思議にも人影のまったくないカンカン照りの往来を歩いて行く。

ある場所で彼が立ち止まって首をまわすと、その方角に明けっぴろげになった小さな家が映り、次にその奥が大写しになると若い夫婦が性交している。チャブ台の向こう側で脚や腕がさかんに動いている。仰向いた女の美しい胸と首と、そこに無闇に顔をこすりつける男の後頭部が映る。男の手首が女の太股の下のほうから撫であげたり、女の肉付きのいい脚が曲がったり伸びたりする。――彼は道に立ってぼんやりそれを眺めている。それから歩き出す。

彼がまたすこし歩いて街角をまがり、首をかしげて近づいて行って或る家をのぞきこむと、透戸の裏側で男女が性交している。今度は和服の女と真っ裸の男だが、動作は前とまったく同じである。男は女を揉むようにしてやたらと押しつぶし、女は脚をバタつかせたり、顔をしかめて首を振ったりするが、彼等はぶっ違いになっていて、脚は決して交叉することがない。男はパンツをはいているし、女の剥き出しの尻も映らない。これはもちろん検閲がある以上当然だが、章は何となくもの足らぬ気がした。

突然スクリーン全体がぱっと赤く染まったので章はオヤと思った。――箱型のせまい部屋の真中に敷かれた蒲団から、真っ裸のおんなが、すれすれのところを毛布で覆った桃色の上半身を起こしていて、それからこちらの方をジッと見つめながらゆっくりと迫るように近づいてくる。肩が骨張っていて、下腹部は削げ落ちている。

男がひるんだような、しかし持ちまえらしい鈍い表情を見せる。――これはたぶん彼の日常生活での妻の性慾の圧迫を表現したものである。しかし、この赤硝子を透かしただけの光景の挿入がカラーという看板の意味だとわかると、章は騙されたような気がした。

サラリーマンはまた首をわずかに振って歩いて行く。

彼はやがて白波の打ち寄せる真昼の海岸に出る。しかし、そこでまた岩陰をのぞくと予想どおり若い男女が性交している。前より一歩進んで両名とも真っ裸である。男の毛深い太腿や、女の白い股には砂粒が沢山ついている。やることは前二回ともちろん同じで、盛にエネルギッシュに揉み合う。

ただ今度の場面では、性交が終わったと思われるころにカメラが急に後方に退くと、この岩陰から男女が真っ裸のまま跳び出して(局部を清めるためか、または青春の歓喜を表現するためか)手をつなぎ合って海へ飛び入るのである。そしてお互いに水をかけあったり、身体を波に沈めて戯れたりする。女は長い髪をなびかせて走る。むこう向きで背中と尻だけのときと、臍から下が水に漬かるときだけは大写しになる。非常に美しい身体をしている。

章が最も面白く感じたのは、男の方がガニ股のずんぐりした身体つきで同じく大写しになり、正面または横向きに走る姿であった。このとき、彼は局部を隠すために両腕をV字型に前へまわして掌で睾丸を摑むように覆い、同時にできるだけ膝を高くあげて身体の前に波しぶきを蹴立てて駈けるのであった。これを彼は一人考えでやっているのか、監督の指図でやっているのか、どちらにせよ章は好意を感じた。

さて男はそこを離れてまた町に引きかえして行く。すると今度は短い飛白の筒袖を着て手足のよく伸びた漁師の娘と行きちがう。彼が呼びとめると、彼女は筋書きどおり直ぐに応じて、浜辺の網小屋に彼を導いて行く。

こういうところで手間どらないのは、今の小説とちがって流石に性映画のよいところだ、と章は思った。時間もいつのまにか夜になっている。

娘がパンツ一枚になってせまい小屋の砂の上に寝て、男がスボンを脱ぎはじめると、スクリーン全体が急に真赤に染まって、また痩せた裸女が出現する。今度は椅子にまたがって腹と局部を隠して、いどむような眼つきでこちらを見る。そして近づいてくる。

そこで男がインポテになる。しきりに額の汗をふいて娘を揉むが、結局は娘に突きとばされて、情けない顔つきをして一〇〇〇円とられる。

彼は波打ちぎさをとぼとぼと歩いて行く。そして岩陰に上衣を投げ出し、それを枕に寝そべると、画面が眼を閉じた彼の顔から岩に移り、岩に沿ってぐるりと裏側にまわって行く。するとそこでも男女が交接している。

今度は非常に長い。しかしやることはこれまでと全く同じで、頭を振って接吻し、身体をこすりつけて伸び縮みをし、手で太腿を撫であげ、むやみに相手を圧さえつける。

岩に、四角い、指の短い手首がうつり、それから男が首をのばして上からのぞく。男女が吃驚して逃げ出して、暗い海へ飛んで入る。しかしそれかは後は一向平気で、前回と同様に真裸で愉快そうに走りまわっている。今度は夜だから主にシルエットであるが、男の方がやはり両手で睾丸をつかんで駈けるところは、何度見ても面白い。

翌日か翌々日か、太陽のカンカン反射している白い道路の端を、彼が上衣をかかえて汗を拭き拭き歩いている。

立派なスポーツカーが後ろから寄って来て止まり、素晴らしい美人が彼を車に誘い入れる。

「あなたはテレビの××○○子さんじゃあありませんか」

彼が驚いてたずねると彼女がニッコリ笑って

「そうよ」

と答える。

「わたしは普通のセックスでは不感症なのよ、あんたのような道端で拾った識らない人とでなければ駄目なの」

と云いながら山間いの道に乗り入れて行く。そして車の中で交接する。彼の四角い掌が靴下をはいた女の脚をはいまわる。彼ははじめて成功するのである。

やがて彼等は海に面した丘の上のドライヴインのバルコニーで楽しげに食事する。可愛い顔をした女給仕がサインを求めたりする。それから食事が終わると女が、

「お化粧を直してくるから待っていてね」

と云って立って行く。なかなか戻って来ないので男がぶらぶらと手摺りの方へ行って見下ろすと、目の下の駐車場から女の車が走り去って行く。結局彼は食事代の足りない分を働いて返すことになって汚い部屋に放りこまれる。

しかし夜になると、サインをねだった女給仕が寝衣で入ってきて二人は性交する。

その翌晩もまた性交しながら、今度は店の金をさらって逃げる相談をする。

次の夜、二人は金を盗んで丘を駆け下り、道路に沿って走って逃げる。するとダムプカーが来て拾いあげてくれる。

しかし二人は金をまきあげられるとすぐ引きずり下ろされて、猿轡をはめられ両手をしばられた男の眼の前で、女は運転手と助手に輪姦され、それが終わると女だけが再びダムプに乗せられて車は走り去って行く。

次の場面は山の中である。やはり陽がカンカン当っている。

男が疲れた様子でよたよた歩いてきて、灌木の陰にどさりとひっくり返って眼をつむっている。

急に若い男女の華やいだ笑声と合唱がきこえ、すこし離れた小道を数人のハイカーが一列にならんで行く姿がうつる。なかの一人の女がそれて男の寝ている方に登って来る。男の顔のすぐわきに女の運動靴がくると、男が急に手をのばしてスカートを引っぱって女を倒す。そして身体を起こしてその上に乗りかかって行く。分厚い掌で太腿を撫であげると大写しになり、運動靴がバタついたり脱げたりする。

強姦が終わると女はぐったりして気を失っている。男が女の鼻のところへ掌をあてて生存を確めて、それから近くに放り出されたハンドバッグから金を盗んで逃げて行く。

次はまたちがう町になる。やはり通行人は一人もなくて、男が立ち止まって首を曲げると、その家の奥で夫婦が交接している。また少し歩いて見当をつけてのぞくと、その家でも交接している。みんな同じことをしている。

以上が「性の放浪」の主要部分であった。

最後に、この男が東京の上野駅らしいところの改札口から出てくるところがうつる。男が沢山の乗客にまじって吐き出されてくると、駅の構内では映画のロケーションをやっている。カメラの横に反射板を持った男が立っている。板の裏には「蒸発」と、題名らしいものが書かれている。そして全身ピンク色に染まって出てきた彼の痩せた妻が、いま俳優の一人として、ポーズをつくってカメラに向かって歩いて行く。ここのところは前に新聞の映画欄で読んだ問題映画と同じだ。

真面目な映画だ、と章は思った。(藤枝静男「欣求浄土」)

…………

※付記

中井久夫の精神衛生維持方法とは、フロイトの「昇華」をめぐる叙述とともに読むことができる。

【人生の目的とは?】
……人間にとって人生の目的と意図は何であろうか、人間が人生から要求しているもの、人生において手に入れようとしているものは何かということを考えてみよう。すると、答はほとんど明白と言っていい。すなわち、人間の努力目標は幸福 Glück であり、人間は幸福になりたい、そして幸福の状態をそのまま持続させたいと願っている。しかもこの努力には二つの面、すなわち積極的な目標と消極的な目標の二つがあり、一方では苦痛と不快が無いことを望むとともに、他面では強烈な快感を体験したいと望んでいる。狭い意味での「幸福 Glück」とはこの二つのうちの後者だけを意味する。(……)

【われわれが幸福である可能性の制約】
厳密な意味での幸福は、どちらかと言えば、相当量になるまで堰きとめられ蓄えられていた欲求 Bedürfnisse が急に満足させられるところに生まれるもので、その性質上、挿話(エピソード episodisches)的な現象としてしか存在しない。快原理が切望している状態も、そのが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しかい与えられないのである。人間の心理機構そのものが、状態というものからはたいして快を与えられず、対照(Kontrast)によってしか強烈な快を味わいえないように作られているのだ。つまり、われわれが幸福でありうる可能性は、すでにわれわれの心理機構によって制約されているのである。

【三つの不幸の可能性】 
しかも皮肉なことに、不幸を経験するのははるかに簡単だ。そうして苦難の原因は三つある。第一は自分自身の肉体――結局は死滅するよう運命うけられていて、警報として役立つため苦痛や不安をすら欠くことのできない自分自身の肉体――であり、第二は、われわれにたいし、破壊的で無慈悲な圧倒的な力をもって荒れ狂うことにある外界であり、第三は、他人との人間関係である。この最後の原因から生まれる苦難は、おそらく、他のあらゆる苦難にもましてわれわれには苦痛と感ぜられる。この種の苦難も、他の原因から生ずる苦難に劣らず宿命的で、どうにも避けようのないものであるかもしれないにもかかわらず、とかくわれわれは、いわばそれを余計なおまけのように考えがちである。(……)

【不幸対策:孤独・麻薬・ヨガ修行等】
人間関係が原因で生まれることのある苦痛にたいして身を守るいちばん手っとり早い方法は、すすんで孤独を守ること、ほかの人間との関係を断つことである。当然ながら、この方法によって手に入れる幸福は、平安の幸福である。(……)

もちろん、これと違った、もっとよい方法もある。すなわち、人類社会の一員として、科学が生んだ技術の力を借り、自然を攻撃する態度へと移行し、自然を人類の意志に隷属させるのである。その場合には、万人とともに万人の幸福のために働くことになる。しかし苦難を防ぐ方法としていちばん興味深いのは、自分の身体組織を変えてしまおうとする試みである。あらゆる苦難も所詮は感覚以外の何物でもなく、われわれがそれを感ずるかぎりにおいてしか存在しないのであり、われわれがそれを感ずるというのも、われわれの身体組織に備わっているある種の装置のせいにすぎないのだから。

身体組織を変えてしまおうとするこの試みのうち、もっとも野蛮かつもっとも効果的な方法は、化学的な方法、つまり中毒である。(……)幸福を獲得し悲惨を避けるための戦いでの興奮剤の効果は一種の恩恵として高く評価され、人類は、個人としても集団としても、これら興奮剤に、自分のリビドーの管理配分体制内における確固とした地位を認めている。興奮剤は、直接快感を供給してくれるだけではなく、われわれが希求してやまない外界からの独立をも部分的には手を入れさせてくれる。(……)

けれども、われわれの心理機構は複雑であるから、これを左右する方法は、他にもまだたくさんある。欲動満足 Triebbefriedigung がわれわれを幸福にしてくれるのと反対に、外界の事情によって飢えなえればならなかったり、欲求 Bedürfnisse を充分に満たすことができない場合は激しい苦痛の原因になる。

そこで、この欲動の動き Triebregungen に働きかけることによって苦痛の一端を免れることができるのではないかという希望が生まれる。この種の苦痛防止法は、もはや感覚器官そのものに手をつけるのではなく、欲求 Bedürfnisse が生まれる内的源泉を制御しようとするのである。それが極端に走ると、東洋の哲学の教えやヨガ修業の実践からわかるとおり、欲動 Triebe を全部殺してしまう。これが成功すると、もちろんその他の活動もすべて同時に停止され(人生も犠牲にされ)るわけで、方法こそ違え、手に入るのはこれまた平安の幸福に他ならない。

【常軌を逸した衝動のもつ抗しがたい魅力】
欲動生活 Trieblebens の制御だけを目差す場合も、これと同じ方法によるが、目標はそれほど極端ではなくなる。そして主導権は、現実原則に屈服した高次の心理法廷が握ることになる。この場合には、欲動を満足させようとする意図はけっして放棄されたわけではないが、ただ、制御された欲動のほうが、不羈奔放な欲動よりは、不満足に終わった場合の苦痛が少ない点を利用して、苦痛をある程度防止しようというのだ。そのかわり、享受可能性 Genußmöglichkeiten の低下は避けられない。自我に拘束されない荒々しい欲動の動きungebändigten Triebregung を堪能させた場合の幸福感は、飼い馴らされた欲動 gezähmten Triebes を堪能させた場合の幸福感とは比較にならないほど強烈である。常軌を逸した衝動 Impulse の持つ抗しがたい魅力はーーいやおそらくは、禁じられたもの一般の持つ魅力もまたーーここにその心理エネルギー管理配分機構上の存在理由を持っているのである。

【学問、芸術という「上品かつ高級な」欲動の昇華】
苦痛防止のもう一つの方法は、われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen で、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにするのだ。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない

 【上品かつ高級な欲動昇華の限界】
けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。しかし、この方法の第一の弱点は、それがすべての人間に開放されておらず、ごく少数の人々しか利用できないことである。この方法を使うには、それが有効であるために必要な量ではかならずしもざらにあるとは言えない特殊な素質と才能を持っていなければならない。しかも、そのごく少数の人々も、たとえこの方法によっても、苦痛を完全に免れることはできないのであって、この方法は、運命の矢をすべてはね返す鎧を提供してくれるわけではなく、自分自身の肉体が原因で生まれる苦痛の場合には役に立たないのが通例である。(フロイト『文化への不満』1930旧訳著作集3 pp.442-444、但し一部変更、新訳名『文化の中の居心地の悪さ』)

2017年3月4日土曜日

口にしちゃいけないこと

それがほんとうに「彼」だったにしろ、

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ(中也)

との思いに襲われる・・・

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、 過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』1978

ーーであるにしろ、そのようにおのれをふるいたたせるためには、
できるだけ若いうちがいいのはまちがいない

ところで「知命の年」に燃料計をみるなんてのは早過ぎはしないだろうか

……今までは、自分は何年生きてきた、と積算してきた。自動車でいえば走行距離計を見ていたということか。その意味がぐっと減った。もし、あと何年生かせてもらえば、ここまで行けるだろう。これができるだろう。できなければそれでもよしという気持に変わった。ガス・メーターのほうを見るようになったという違いである。(中井久夫「知命の年に」『記憶の肖像』所収)

とっくに「知名の年」は超えたのだが、
そろそろ燃料計を見るようにしたほうがいいんだろうか

本当のことを言うとね、空襲で焼かれたとき、やっぱり解放感ありました。震災でもそれがあるはずなんです。日常生活を破られるというのは大変な恐怖だし、喪失感も強いけど、一方には解放感が必ずある。でも、もうそれは口にしちゃいけないことになっているから。(古井由吉「新潮」2012年1月号又吉直樹対談) 

燃料が切れる前に「世界崩壊」が起こってくれないもんだろうか

焼跡とひと口に言われるが、たとえば昭和二十年三月十日の江東深川大空襲の跡は、すくなくともその直後においては、焼跡と呼ぶべきでない。あれは地獄であった。同様にして広島長崎の原爆の跡も、すぐには焼跡とは呼ばない。(古井由吉「太陽」1989年7月号)
三月十一日の午後三時前のあの時刻、机に向かっていましたが、坐ったまま揺れの大きさを感じ測るうちに、耐えられる限界を超えかける瞬間があり、空襲の時の敵弾の落下の切迫が感受の限界を超えかけた境を思いました。(古井由吉『永劫回帰』「新潮」2012 年4 月号)
人は年を取っても、年を取らない日付がある。三月十一日がそれでしょう。私にとってはも うひとつ、三月十日という日付があります。六十七年前、東京の本所深川を中心とした一帯が大空襲により炎上した未明のことです。十万人に及ぶ犠牲者を出した。(古井由吉『言葉の兆し』2013年)
むこう千年とは言わず、百年という歳月を、近未来の危機として、つきつけられたことにな る。やがて七十五歳になるこの私が。いや、あと三十年ほどで世界は危機域に入る、と思えば今は幼い孫たちの顔が浮かぶ。(『言葉の兆し』2013年)

あと三十年ほどでは遅すぎる
せめて十年先にしてほしいもんだ

・近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。

・その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

なんで日本人ってあんなに「現実主義者」ばかりなんだろ

現実主義者ってのは、既存の体制がいつまでも続くと思い込んでいる最悪の夢想家のことさ。

国債長期金利が2%を超えたら一発だぜ、日本崩壊は。
日本崩壊を端緒に世界崩壊だって継起するかもな

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」


あなたにとっての「世界で一番カッコいい人物」

恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

《作家であること》ーーでなくてもいい。きみたちには「人間であること」ーー《その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀》を真似してみたいと思った人物があるだろうか?  

世界で一番カッコいい人物というのでもいいさ

「きみたち」と問いかけたが、このきみたちのなかには当然、わたくしも入る。

さあて?

詩人や作家たち? あるいは音楽家たちだって? 
御免被るね

わたくしには一人しかいない

電気も水道もない部屋を借りて、食事はカフェでとり、入浴は知り合いの娼婦のところで「もらい湯」をするという非生活者として生きたあの人物に決まってるさ




もともと電気もスイスもないスイスの山の中で育った彼。きょうだいのなかで一人だけ母親をみつめる彼。

彼はほほえむ。すると、彼の顔の皺くちゃの皮膚の全体が笑い始める。妙な具合に。もちろん眼が笑うのだが、額も笑うのである(彼の容姿の全体が、彼のアトリエの灰色をしている)。おそらく共感によってだろう、彼は埃の色になったのだ。彼の歯が笑う――並びの悪い、これもやはり灰色の歯――その間を、風が通り抜ける。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)




私はモリエール女子高等中学校で教えていた。……私たちはキャフェ・ドームを根城にしていた。(……)

サルトルやオルガとしゃべっている時には、私は出たり入ったりする人を眺めるのが大好きだった。(……)とりわけ私たちの興味をそそり、何者だろうと思った男がいた。ごつごつした美しい顔に、髪はぼさぼさ、貪るようなまなざしの男で、彼は毎夜、ひとりきり、または非常に美しいひとりの女性と連れだって、通りを徘徊していた。彼は岩のように強固な、同時に妖精よりも自由な様子をしていた。あんまりすばらし過ぎる。私たちは外見に騙されてはならないことを知っていたし、彼の風貌はあまりにも魅力に溢れていて、見かけ倒しではないかと思いたくなるほどだったのである。彼はスイス人で彫刻家、その名はジャコメッティといった。(ボーヴォワール『女ざかり』ーー「娼婦と「もらい湯」」)




ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。

尊敬をささげた対象を君の前にならべてみるのだ。そうすればおそらくそれらのものは、その本質とそのつながりによって、一つの法則を、君の本来的自己の原則を示してくれるであろう。

そういう対象を比較してみるがよい。一つが他を捕捉し拡充し、凌駕し浄化して行くさまを見るがよい。そして、それらが相つらなって、君が今日まで君自身によじ登ってきた一つの階梯をなすさまを見るがよい。

なぜなら、君の本質は、奥深く君のうちにかくされているのではなくて、君を超えた測りしれない高い所に、あるいは少なくとも、普通きみが君の「自我」と取っているものの上にあるからだ。(ニーチェ『反時代的考察 第三篇』1874 秋山英夫訳)

2017年3月3日金曜日

性別化と四つの言説における「非全体」




以下はほぼジジェク2012による次の「仮説」にもとづいた記述である。

S1 = Master = exception       S2 = University = universality
$ = Hysteria = no-exception   a = Analyst = non-All  (ジジェク、2012)

この仮定を冒頭の性別化の式にそのまま当てはめれば次のようになる(左側=男性の論理、右側=女性の論理である)。




ーー記号「∀」は、アルファベットのAを逆にした記号で、「全ての」という意味(ALLの頭文字)。 記号「∃」は、アルファベットのEを逆にした記号で、「少なくとも一つ存在する」という意味(EXISTの頭文字)。 Φはファルスである。ファルス関数 Φxとは、ほとんど概念に近い(フレーゲの定義では関数≒概念である)。記号の上にある棒線はもちろん否定のマークである。
 
さらにブルース・フィンクの性別化の式読解(2002)の記述に結び付ければ次のようになる(フィンク注釈はxを享楽として捉えている)。

S2:男の享楽の全体は、ファルス享楽である。
S1:だが(例外として)他の享楽があるという信念がある。

a:女の享楽の非全体は、ファルス享楽である。
$:ファルス享楽でないどんな享楽もない(どんな享楽も「ある」ことはない)。

ーー最後の括弧内の文は、《il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique》(ラカン、アンコール)のフィンクの読み方である。

より一般的に言えばたとえば次のようになる。

男性の論理の 「普遍性・全体(S2)」とは「例外S1」によって支えられている。たとえば、女は男にとって全てである、キャリア・公的な生活の例外S1を除いて。

他方、女性の論理の「非全体a」とは、「例外なし$」ゆえの非全体である。例外がないため全体・普遍性はない(非一貫性)。したがって非全体が「外立」する。たとえば女の性生活にとって、男は非全体 pas-tout である。なぜなら女にとって性化されない何ものもないから。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、2012ーー形式化の極限における内部崩壊


《非全体が「外立」する》における「外立ex-sitence」とは、ラカンにとって現実界である、《現実界は外立する  Le Réel ex-siste 》 (S.22)。もともとはハイデガー用語 Existenzの仏訳である。

ここではーーやや古い論文だがーー、リルケ研究者塚越敏による「リルケ文学解明に於けるハイデッガーの誤謬(1956)」から抜き出しておく。

・Ex-sistenz のEx はaus,heraus,hinaus を、即ち「外に出る」ことを意味している。ハイデガー自身の説明によればーー「存在の真理のなかに出で立つこと」 Hinausstehen in die Wahrheit des Seins と言い、Das stehen in der Lichtung des Seins nenne ich die Wahrheit des Seinsと言っている。(この語の訳語は「開存」「出存」「脱存」「脱我的実存」などさまざまであるが、以下では「開存」という邦訳語を使用する)この開存によって世界(世界とは存在の開示性 Offenheit,Offenbarkeit を意味している)は開かれる。ハイデガーは人間の本質をこの開存にありとする。即ち Lichtung des Seins, Offenbarkeit des Seins のなかに出で立つこと、逆に云えば、存在者を照らすLichtung des Seins, Offenbarkeit des Seins のなかに出会うことである。
・Lichtung とは、森のなかの開けた場所、森林の空地を意味する。また光を点ずるという意味もあるから、「存在の開け」「存在の明るみ」「存在の光」とも邦訳できるであろう。

この記述からすれば、非全体とは、森の空地 Lichtung (ラカン的にはファルス秩序のなかの裂け目、亀裂)のなかに出で立つこと、となる(わたくしはハイデガーにまったく不案内であることを断っておく)。

森の空地あるいは亀裂とは、おそらく次のようなものではなかろうか・・・

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

ーーとはいえ外立するために鉈の使用は必要はないはずである。通常、鉈の使用をファルス享楽といい、非全体に外立するものは、「無性的なもの (a)sexuée 」とされる。

ファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。

身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(対象a? の[解剖学的]構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ポール・バーハウ2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

ーー「無性的なもの (a)sexuée 」は「非性的なもの」と訳したほうがいいのかもしれないが、ここでは通常訳とした。

ところでジジェク2012は次のような言い方をしている、《La Femme n'existe pas》、しかし《il y a de jouissance féminine》。ーー「女は存在しない」、しかし「女は外立する」ともで訳すべきか。

ジジェクは直接には言及していないが、このジジェクの言葉を、わたくしは次のラカン文とともに読む。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

ラカンによる「非全体」についての記述はーー大他者の大他者はない、すなわち非一貫性の思想家であるためでもあろうーー、けっして一貫性があるとは言えない(たえず問い直している)。ここでは一つだけ抜き出しておくが、これはもちろん「全てではない pas tout」。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

…………

ここで性別化の式にあてはめられたマテームを、ラカンの四つの言説に適用してみよう。

主人の言説に当てはめれば次のようになる(上段=男性の論理、下段=女性の論理)。




ヒステリーの言説に当てはまれば次の通り(左側=女性の論理、右側=男性の論理)、




時計周りすれば、さらに分析家の言説と大学人の言説(知の言説)が現われるが割愛。

ここでは四つの言説の各々の基盤にある形式的構造の図を掲げる。



この図の最も基本的な説明は次の通り。

話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。こうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )



上に掲げたヒステリーの言説を同じように読んでみよう。




「例外なしの主体$」は「例外S1」に話しかける。話し手の無意識を支える「非全体a」を元にして。この「非全体a」は間接的に「例外S1」に対しても向けられる。そして例外S1は「全体S2(知・理論)」の生産物にて応答する。

ーーということになる。

ジジェクはこのヒステリーの言説をめぐって次のように記している。

典型的なヒステリーのポジションは、理論家に直面した詩人のポジションである。詩人は、理論家が彼の作品を抽象理論の例証に還元してしまったことに不平不満を言う。しかし同時に詩人は理論家を挑発する、もっと続けて有効に作品を把握しうる理論を生み出すようにと。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

たしかにラカンは、人間の昇華形式の三様式として、芸術=ヒステリー、宗教=強迫神経症、科学=パラノイアとしている。

…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(Lacan,S.7)

$が芸術家=ヒステリーであるであれば、同じく$は詩人であるに相違ない。

私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだな[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan,Le séminaire ⅩⅩⅣ、1976,12.14)

ほぼ同時期のラカンは次のように言っている(ジジェクの言っている詩人とは意味合いが異なるが参考までに)。

私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème. (Lacan,17 mai 1976 AE.572)
ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez (S.24.1977).(ラカン、S24. 17 Mai 1977).

…………

男でないすべては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は「全てではない(非全体) pas « tout » 」のだから、どうして女でないすべてが男だというのかい?

Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (S.19, 10 Mai 1972)

ジジェクによる「非全体=女」の解釈のひとつは次のようなものである。

女性の非全体 pas-tout とは、次のことを意味する、女性の主体性には、ファルス的象徴機能に徴づけられないものはなにもない。それどころか、女は男よりもより「言語のなか」にいる。この理由で、前象徴的な「女性の実体」に言及するすべては、人を誤解に導く。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

このジジェクの言明は、次の文にある《女はファルス関数のなかに十全にいる[ elle y est à plein]》によって裏付けられる。

…全核心は、女はファルスに接近する別の仕方、彼女自身にとってのファルスを保持する別の仕方を持っていることである。女が「全てではない pas du tout」のは、ファルス関数において「非全体 pas toute 」であるからではない[parce que c'est pas parce qu'elle est « pas toute » dans la fonction phallique qu'elle y est pas du tout.]

女はそこで「全てではない 」のではない [ Elle y est pas « pas du tout »](ヘーゲル的二重否定・「否定の否定」:引用者)。

女はファルス関数のなかに十全にいる[ elle y est à plein] 。 しかし何かそれ以上のものがあるのだ mais il y a quelque chose en plus…

ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps …ファルスの彼方の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、セミネール20、20 Février 1973)

これは十全に象徴界の住人であればこそ、非全体(ファルスの彼方の享楽)が外立するということである。森の空地に外立するためには、森を十全に熟知していなければならない、ということでもあろう。

女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、 S18、20 Janvier 1971ーーーー真理と嘘とのあいだには対立はない

女のほうが森という象徴界(見せかけ semblant)の熟知者なのである。他方、《男はマヌケにも信じている、象徴的仮面に下に、己の実体、隠された宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを》(ジジェク、2012)

《女は男よりもより「言語のなか」にいる》をめぐってのよりわかりやすい説明は、比較的初期ジジェクの次のレクチャアがよい。

◆Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture(1995

さて私の要点に戻ることにしよう、すなわち幻想に。もちろんラカンを読むことで、我々は知っている、究極的な幻想とは性関係の幻想だということを。だからもちろん幻想の横断の方法は、ラカンが意味する「性関係がない」ことを詳述化することだったわけだ。それはラカンの性差異の理論化、いわゆる性別化の式を通してのものだった。

ここでの私のポイントは何だろう? それは次の通り。性別化の式においてふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――「女は存在しない」は、象徴秩序の外部にある、言葉で言い表せ得ない女性的エッセンスのたぐいに言及しているのでは決してないということだ。それは、象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。

私はラカンにぞっこん惚れこんでいるのは、きみたちは気づいているかどうか知らないが、ラカンのスタイルがまさにレーニン風だからだ。なんのことかわかるかい? まったく寸分ちがわない何か。きみたちはレーニン主義者をどのように感知してるだろう? 典型的なレーニン主義者のひねりは、たとえば誰かが「自由」と言ったとすると、彼らの問いは、「誰のための自由だい? 何をするための自由かい?」だ。たとえば、ブルジョアが労働者を食い物にする自由とかね。

君たちは気づいているだろうか、『精神分析の倫理』にて、ラカンが「善」に対して、まさにほとんど同じひねりを加えているのを。そうだ、至高善について。だれの善なのか、なにをするための善なのか? 等々と。

だからここでも、ラカンが「女は存在しない」と言うとき、同じようにレーニスト風に考えなくてはならない。そしてこう問うべきだ、「どの女だって?」、「誰にとって女は存在しないんだ?」と。ふたたびここでのポイントは、女がふつう思われているような仕方、象徴秩序の内部に存在しないとか、象徴界に統合されるのに抵抗するとかではないことだ。私は言いたくなる、これはほとんど正反対だと。

単純化するために、最初に私のテーゼをプレゼンしよう。大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられ次のように言うのだ、「そうだわ、女たちのすべてが、ファルス秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足は神秘的な女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。

私のテーゼは、とても単純化して言うなら、全ラカンの要点は、我々は女を統合化できないから、例外がないということなんだ。別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方だ。これは究極的な男性の幻想だ。そして、ラカンが「女は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?

おわかりだろうか? もちろんおわかりでない方もいらっしゃることだろう・・・

男たちはサイバースペースを孤独な遊戯としての自慰装置として使う傾向が(女たちに比べて)ずっとある。馬鹿げた反復的な快楽に耽るためにだ。他方、女たちというのはチャットルームに参加する傾向がずっとある、サイバースペースを誘惑的コミュニケーションとして使用するために。

この例というのは標準的なラカンの誤読を取り扱うのに決定的である。その誤謬というのは女性の享楽というのは言葉の彼方にあるた神秘的至福、象徴秩序から逃れた領野にあるという考え方だ。まったく逆に、女たちは例外なしに言語の領域に浸かり込んでいる。(Slavoj Zizek、THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004)

ーーさあてこれならどうだろう?

ラカン派臨床家の見解もかかげておくが、もちろんこの解釈も「全てではない」。

女が、自然、欲動、身体、ソマティック(流動する身体)等々を表わし、他方、男は文化、象徴的なもの、プシュケー(精神)を表わす等々。しかしこれは、日常の経験からも臨床診療からも確められない。女性のエロティシズムやアイデンティティは、男性よりもはるかに象徴的なものに引きつけられているようにみえる。聖書が言うように、またそうでなくても、女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑される。反対に、なににも介入されない、欲動に衝き動かされたセクシャリティは、ゲイであれストレイトであれ、男性のエロティシズムの特性のようにはるかに思える。(ポール・バーハウ2004、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、Paul Verhaeghe)

…………

※付記

ファルスのシニフィアンとは、その現前・不在が、男 manと女 womanを区別する機能ではない。性別化の式において、それはどちら側(男性側 masculine と女性側 feminine)にも機能する。どちらの場合も、S と J (話す主体と享楽)とのあいだの不可能な関係(非関係)の作因子として作用する。ーーファルスのシニフィアンとは、象徴秩序に受け入れられた存在、つまり「話す存在」にアクセス可能な享楽を表す。

したがって、ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽autre jouissance」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

他の享楽 l'autre jouissance大他者の享楽 la jouissance de l'Autreとはまったく別ものであり、大他者の享楽は実質上は、ファルス享楽に過ぎない。《the jouissance of the Other is actually equivalent to phallic jouissance.》(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)
享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「大他者の享楽 la jouissance de l'Autre 」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「大他者の享楽 la jouissance de l'Autre 」)は母-女を示していたことを。
これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(ポール・バーハウ2009,PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、私訳,PDF

大他者の《新しい意味は、自身の身体を示している》とあるが、実際に《異者としての身体(フロイトの異物 Fremdkörper[参照]) corps qui nous est étranger》(S23)という表現がある他、さらに中期ラカンにも 《大他者は身体である L'Autre … c'est le corps ! (S14) 》という表現がある。これは前期ラカンのイマジネールな身体のことではけっしてない。

ーーさて仮にポール・バーハウのいうことが正しいとしてみよう。そのとき次のラカンの文はどちらの享楽(他の享楽、大他者の享楽)なのだろうか?

J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない。大他者の大他者はないのだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,Séminaire XXIII Le sinthome Décembre 1975)

ロレンツォ・キエーザは、J(Ⱥ)を「他の享楽autre jouissance」だとしている(ロレンツォによれば上のセミネール23の文はミレール版では奇妙な形で変更されているらしいが、今かかげた文は、音声聴き取り版)。


2017年3月2日木曜日

自分の屍骸を解剖してその病状を天下に発表する義務

涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる。(夏目漱石)
われわれの悲しみが協力した作品は、われわれの未来にとって、苦しみの不吉な表徴であるとともに、なぐさめの幸福な表徴である、と解釈もできる。 (プルースト)

ーーほとんど同じことを言っている、この同時代の作家二人は。

夏目漱石  1867年2月9日   - 1916年12月9日
プルースト 1871年7月10日 - 1922年11月18日

しばしば語られる「創造による癒し」ということでもあるだろうが、なぜその癒しのシーニュを《天下に発表する義務》があるのだろう? 

【漱石】
詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠に上のぼった時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑する必要はない。軽便であればあるほど功徳になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否いなやうれしくなる。涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる。

これが平生から余の主張である。(夏目漱石『草枕』1906)

【プルースト】 
悲しみが協力した作品が未来の苦しみの不吉な表徴だと解する第一の見方からすると、作品はもっぱら一つの不幸な愛と考えられ、その愛はさらにほかの不幸な愛を宿命的にまえぶれし、その結果、生活は作品に似ることになり、詩人にはもう書く必要がほとんどなくなるほど、彼はすでに書いたもののなかにこれから起ることの先どりされた形を見出すだろう。そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような相違を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていたのであ(る)。(……)
しかし、第二の見方からすれば、作品は幸福の表徴なのだ、なぜなら、作品は、どんな恋愛のなかにも普遍は特殊と並存することをわれわれに教えるとともに、また作品は、悲しみの本質を深めるために悲しみの原因である相手を閑却させながら、悲しみにたいする一種の強化訓練によって、特殊から普遍に移ることをわれわれに教えるからである。そういえば、のちになって私が経験しなくてはならなかったように、人は、愛して苦しんでいるときでも、天職がいよいよ自覚されたとなると、仕事の時間中、愛する女がより広大な現実のなかに溶けこむのを非常にはっきりと感じて、ときどき彼女を忘れてしまい、仕事をしながら、自分の恋のことをあまり苦しまなくなる、(……)
われわれはその苦しみを普遍的な形のもとに考えなくてはならないのであって、そう考えることは、苦しみの束縛からある程度われわれをのがれさせ、すべての人をわれわれの苦痛の共有者にするのであって、そのことはいわば一種のよろこびにならないわけではないのである。(プルースト「見出された時」)

このプルースト文のドゥルーズによる解釈は次の通り。

われわれが反復するのは、そのたびごとに、ひとつの個別的な苦しみである。しかし、反復それ自体は常に楽しいものであり、反復という事実は、ひとつの一般的な歓びを形成する。あるいは、事実は常に悲しく、個別的であるが、そこから抽出される観念は一般的で楽しいものである。なぜならば、愛の反復は、苦しみを歓びに変えるような意識の把握にわれわれが近づく、進行の法則と不可分だからである。われわれは、苦しみが対象に依存しなかったことを認める。それはわれわれが自分自身に向ってする《芸》であり、《道化》でありあるいはむしろ、イデアの罠と媚態と、本質の陽気さであった。反復するひとには悲劇的なものがあるが、反復の行為には喜劇的なものがあり、もっと深いところでは、法則に含まれた反復、あるいは法則の理解からえられる歓びが存在する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳)

《反復それ自体は常に楽しいものであり、反復という事実は、ひとつの一般的な歓びを形成する》とは、フロイト的には「快の獲得」、ラカン的には「剰余享楽」に相当する。《フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。》(Lacan, S21)

「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作働する。人はその目的を見失い、人はその運動を反復する。何度も何度も試みる。したがって真の目標は、もはや意図された目的ではなく、目的に到ろうとする反復運動自体である。(ジジェク2016, Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー二種類の対象aとフロイトの快の獲得 Lustgewinnung)

…………

さて冒頭近くの問いに戻る。なぜ癒しのシーニュを《天下に発表する義務》があるのだろう? 

わかるかい? わたくしにはわからないな、すくなくとも「義務」ではないのではなかろうか。なにか別の必然的な「強制」があるのではなかろうか。《無理に、強制される contraints et forcés》何か(ドゥルーズ=プルースト)があるのではないか。

岡崎乾二郎によれば次の理由で、人間は常に「他者」が必要だということを言っている。

「他人が見ている青と自分が見ている青が同じかどうか確かめられない」どころか、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめられない」という条件を我々の感覚はもっている。(岡崎乾二郎『ルネサンス・経験の条件』「あとがき」)

それ以外にもーーもちろん食べていくために発表するということは当然あるだろうがそれはここでは割愛ーー、人間は常に愛されたいんじゃないだろうか?

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年ーー人間の宿命:「愛されたいという要求」

ここでの「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」とは、承認欲求、「承認されたい欲望 désir de faire reconnaître son désir.E.151」とほとんど等価である。

そして「他人の役に立ちたい」とは、精神分析的にいえば、その裏に隠されている「私を見て!」の投影機制である。

また観客無視(読み手に背中を向けて書く)とは、ほとんどの場合、承認欲求がないふりをする承認欲求である。

自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである(ラ・ロシュフーコー)

観客無視が上のメカニズムから逃れている稀な事例のひとつは、神という「他者」に向かうとき(いや、だがやはり神に承認されたいのではなかろうか)。

グレゴリア聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(ミシェル・シュネデール、グールド『孤独のアリア』)

死ぬまで未発表の書き物を秘蔵した作家がいないわけではないが、なぜ保存していたのか、なぜ燃やしてしまわなかったのか、という風に問えば、あの振舞いも「他者」に承認されたい欲望を免れているわけではない。

他者が標準的な人とは別の「他者」であるだけである。

ここでクンデラによる「誰かに見られたい」四つのカテゴリーを示そう。

誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

ーーこれは四種類の「他者」として読み替えうる。

【第一のカテゴリー】
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。

【第二のカテゴリー】
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。

【第三のカテゴリー】
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。

【第四のカテゴリー】
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

このクンデラの考え方は、ラカンの四つの言説理論のマテームを使用すれば、「形式的には」次のようになる。

①主人の言説:S1 → S2
②大学人の言説(知の言説):S2 →  a
③分析の言説(倒錯の言説):a   →  $
④ヒステリーの言説:$  → S1

「形式的には」としたのは、それぞれのマテームの読み方は多様であるから。

例えば、aとは、イマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、この囮の背後にある空虚であったりする。③の「a」を前者として読めば、倒錯の言説であり、後者なら分析の言説である。②の場合の「a」は、基本的には飼い馴らされていない「小文字の他者a」と読む。

※詳細はラカンの「四つの言説」における「機能する形式」を参照のこと。

マテームのさらに最も基本的な読み方は、ラカンのセミネール17の冒頭近くにある次の文がよいだろう。

S1(ファルス的主人のシニフィアン) が「他の諸シニフィアンS2 autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何か quelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)



…………

とはいえ、これだけなのだろうか? おそらくそうではない。そこをしばらく考えていたのだがよくわからない。

なぜ詩人、いやそれだけでなく芸術家たちは作品を公表するのだろう。

たとえば「自分の中にいる一人の読者」という言い方がある。

小説を書く場合、私は依然として読者を意識することができない。(略)自分の中にいる一人の読者だけを意識して作品を書き上げた後に、私は自分と精神構造や感受性の似た少数の読者が、あるいはこの作品を愛読してくれるかもしれぬ、とはかない期待を抱く。しかし、大して大きな数字を予想することはできない。(吉行淳之介全集 第12巻

この「自分の中にいる一人の読者」も「他者」である(参照: 神と女をめぐる「思索」)。わたくしの最も内部にいるものは、「他者」である。

《「私」とは他者である ''JE est un autre.''》 ( ランボー)

《私は他者だ ''Je suis l'autre''》 (ネルヴァル)




親密な外部、この外密が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S..7)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S.16)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité

a が外密 Extimité であるならーーここでの a は実は、 空虚・穴としてのȺ とも書きうる[参照]ーー、Aは言語としてもよい。


我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「シニフィアンの集合 la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。(……)

S1 はそこに介入する。それは「特別な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

生きている個人から分け隔てられるとは、リアルな身体の(ある意味で動物的な)存在を喪失することでもある。これを象徴的去勢と呼び、われわれ人間の宿命である。

・人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)

・去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化 articulation signifiante 以外のどの場からも生じない。 (Lacan,S17, 18 Mars 1970)

この前提で、次のヴァレリーを読んでみよう。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。
(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)

ーー訳者恒川氏によれば、この「他者」は言語Aである。だがかならずしもそれだけではない、と考え得る。つまりクンデラの四つの他者やラカンの四つのマテームのそれぞれを想起しうる。

やあまた、こうやってラカンに戻ってしまう。だがラカン的解釈からはずれる何かはないのだろうか。それがよくわからない。なにかウッカリ抜かしていることはないのだろうか・・・

(わたくしは象徴的登録ということをしばしば考えるのだが(たとえばこのブログ記事もそうだ)、これは「形式的には」第四のカテゴリーのはずである。)

最後にコメント抜きで福島震災後の谷川俊太郎の言葉を付記しておく。

震災後の世界で、詩がそれほど役に立つとは思っていない。詩は無駄なもの、役立たずの言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。震災後、みんなが言葉を求めていると聞いて意外。僕の作品を読んだ人が力づけられたと聞くと、うれしいですが。

詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。(谷川俊太郎ーー震災後 詩を信じる、疑う 吉増剛造と谷川俊太郎)。



2017年3月1日水曜日

21世紀の「想像的ディスクール」流行

藤田博史の内田樹批判から引用するが、ツイッターなどでみる言説は大半この「想像的ディスクール」だろう。若い人たちはもはやこれが当然になってしまっているのではないか。

……つまり、最初に相手の主張を自分の都合の良いように改変する。読者に共感してもらうために、大概は「×××原理主義」であるかのように捏造する。そして捏造された「×××原理主義」の極端さや権威主義的な側面を批判する。このトリックに引っかかった読者はその語りに乗ってくる。彼の語り口は意図的に「上から目線」ではなく「下から目線」であるかのようになされ、日常のなかで「上から目線」で圧迫を受けている人たちの共感を引き出す。そして、わたしは読者の味方ですよ、原理主義、上から目線、いやですね〜、と読者を引き寄せる。あらかじめ自分で批判用に捏造しているのだから、批判できるのは当たり前である。

 つまり内田樹が誰かを批判する場合、その手口は一定のパターンがある。それはこんな風だ。原理主義的仮想敵の捏造→原理主義に対する批判→自分は極端に走らないバランスの取れた人間だという自己宣伝、で結ぶ。あらかじめ読者を味方につけるために、意図的に相手の主張を都合よく捏造する。ここに見られるのは「自作自演」という常習的に嘘をつくという病的な傾向をもった人たちがよく使う手法とまったく同じである。(……)

内田樹の文章は、客観性に乏しく、一人芝居的。殆どの話題や対象は、自分流に改変され、あたかも幼児が玩具を自分の周りに散らかして、そのなかで空想物語を作り続けているようだ。自分の空想のなかで、対象どうしの関係を想像的に決めて語り続ける。語りは「私は~」という一人称で連続してゆく。つまり、論考自体が自閉的な性質を持っている。精神分析ではこういう語りを「想像的ディスクール」と呼んでいる。すべての価値は判断主体である「私」との双数的関係のなかで決まっており、何でも言えるし、何を言っても仕方のない領野である。

したがって、「私」の物語は外部に向かって開かれていないので、時々その信憑性を確かめたくなって、外の世界にちょっかいを出すのだろう。そしてすぐ自分の殻のなかへと避難する。子供がよくやる「ピンポンダッシュ」に見られるような、幼児的な自我の防衛機制である。……(藤田博史→‎内田樹

この想像的ディスクールにかかわる藤田スキーマは次の通り。




ようは象徴的ファルスΦ を迂回してAs(見せかけ semblant)の介入を通しての(φ)⇔(− φ)のディスクール、つまり自分の想像的オチンチンに話しかけているというわけだが、若い人のツイートならことさら、これを免れている鳥語を見出すのが難しい。

(φ)⇔(− φ)とは、 i(a) ⇔ i'(a)と相同的であり、鏡像段階的ディスクールということになる。



これは「私に似たsemblant」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちとの関係にある言説ということでもあるけれど、もはや言説環境自体がそうなっているのだから、文句を言ってもどうなるものではない。もはやあきらめたほうがいいんじゃないか。

そもそも日本社会においては、その言語構造により自我理想(象徴的ファルス)は正常に機能しないという観点さえある(参照)。時枝誠記の「日本語は敬語的」とは日本語はイマジネールファルス的(二項関係的)という意味である。

現在「父の名」の斜陽により世界的に二項関係的になりつつあるるのだが、この意味では、日本は想像的ディスクールの先進国とさえ言える(かつてからの「いじめ天国」とはその一つであり、現在世界的に陰湿な「いじめ」増加が起こっている)。

ーーと記して想い起したが、中井久夫の実にすぐれた日本文化論の断片を引用しよう。

……日本文化に内在するいじめのパターンがあるのではないか。戦時中のいじめーー新兵いじめをさらに遡れば、御殿女中いじめがある。現在でも新人いじめがあり、小役人の市民いじめがあり、孤立した個人にたいする庶民大衆のいじめがある。医師の社会にもあり、教師の社会にもあるだろう。ねちねちと意地悪く、しつこく、些細なことをとらえ、それを拡大して本質的に悪い(ダメな)者ときめつけ、徒党をくんでいっそうの孤立を図る。完全に無力化すれば、限度のないなぶり、いたぶりに至る。連合赤軍の物語で私を最もうんざりさせたのは、戦時中の新兵いじめ、疎開学童いじめと全く同じパターンだったことである。(……)

こういうものは何によって生まれるのか。私には急に答えられないが、思い合わせるのは、実験神経症である。些細な差にたいする反応のいかんによって賞か罰かが決まるような状況におけば、無差別的な攻撃行為や自分を傷つける行為が起こる。新兵いじめでは些細な規律違反が問題になった。御殿女中では些細な行動が礼儀作法にかなっているかどうかが問題になった。連合赤軍では些細な服装や言葉づかいが、かくれた「ブルジョア性」のあらわれではないかと問題になった。いずれも、閉鎖社会であり、その掲げる目的を誰もほんとうには信じていない状況であった。

戦時中の教師はよく殴ったが、それで日本精神を注入して戦争に勝てるとはほんとうに思っていなかったにちがいない。人間は、自分が信じていないということを自覚しないで、信じているぞと自他に示そうとするとかなり危険な動物になる。

もちろん、信じていないことをしなければならないことはしばしば起こる。誰もが英雄ではないし、英雄には英雄の問題がある。最低、必要なのは、自分の影をみつめることのできるユーモア精神だと私は思う。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年初出『記憶の肖像』所収)

ツイッターでしばしば起こっているじゃないか、今でも。わたくしは上野千鶴子さんの味方ではけっしてないほうだが、最近でも上野叩き、--あれは、彼女の挑発文を「敢えて」文字通りに受け取っての、日本的「いじめ」の一種でなくてなんだろう?

さて話しを戻して、想像的ディスクールにおける競争・文句・嫉妬・ナルシシズムとは次のようなものである。

【競争】:ボクは連中よりももっとファルス(想像的ファルス)を持っているよ
【文句】: あの人たちは、アタシにじゅうぶんにファルスをくれないの…
【嫉妬】: ボクじゃないんだ、連中のほうがファルスを持ってるんだ……
【ナルシシズム】: ボクはファルスを持ってるさ /アタシはファルスよ

ツイッターなどにおいてこれらから免れている稀な例外はーー詩・俳句的囀りとか、引用とかを除けば、ーー年配層を中心に生き残っている大きなファルス(象徴的ファルス Φ)囀りだろう(上の想像的ファルスとは小文字 φ で記される)。

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

どっちがいいかってのも考えもんだからな、権威的ファルス囀りと想像的オチンチン囀りと。(←この語り口が想像的ディスクールである。鏡像的関係を取り結ぶ「私の同類たち」と互いに湿った瞳を交わし合い頷き合うために好都合の言説・・・)

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。

しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。

だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)

問題はエクリチュールなどと言っていたら、この時代には商売にはならないことだ。

「いいものは売れなくて当然(蓮實重彦ーー「愚かさに対するほとんど肉体的な厭悪/蓮實重彦×磯崎憲一郎」2015年)

商売にならなくていい人はそれなりにいるのだろうが、他者の共感を引き出せないことに耐えうる人はおそらくそれほどいない。

※補足:資本の言説と〈私〉支配の言説