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2017年4月15日土曜日

パパよ、戻ってきてくれ!(パパーママーボクの三角形)

前回、「「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行」に記したことを簡潔に言ってしまえば、さんざん非難されてきた《パパーママーボクの三角形》のパパはとっくの昔に消えてしまったけれども、今度はその「パパ」に戻ってきてくれ! という話である。

さて今回は、まずフロイトの『集団心理学と自我の分析』における名高い「自我理想」図を掲げる。




この図を、仏女流ラカン派分析家の第一人者コレット・ソレールは簡略化させて次のよう図示している。




これはパパーママーボクの図と同じ構造である。




そしてコレット・ソレールは、いなくなってしまった「パパ」の役割の「再構成・再導入」の必要性があると言っている(Paul Verhaeghe、The collapse of the function of the father and its effects on gender rolesより、pdf

これは何も彼女独自の見解ではない。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)

この最晩年のラカンが言っているのは、男根的なパパはいらないが、パパの機能はやっぱり必要だということである。

それは柄谷行人が次のように言っているのと同じ意味である。

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

柄谷の世界史の構造の図に「パパ推移」をつけ加えれば次の如し。


 ーー世界はパパがいないと弱肉強食になるのである。




けれども昔のような帝国パパでは、いまさらいくらなんでも困る。

だから帝国(パパ)を否定し且つパパ(の機能)を回復することが必要なのである。

なぜパパの機能が必要なのか? ーーその機能がないと二者関係的になってしまって食うか食われるかになるからである。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』p169)
重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ1999,Verhaeghe, P., Social bond and authority,PDF

実際、パパがいなくなってからーー1968年の学園紛争による権威のパパの斜陽を経て、1989年の冷戦終結によるイデオロギーのパパの消滅ーー、次のような状況になっている。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

だからやっぱりパパが必要なのである。「パパなき自由」などありえないのである。

人間は「主人」が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できない享楽主義 inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016、pdf

 このジジェク文は、ハンナ・アーレントが1954年に書いたことと同じことを言っている、《権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する。》(『権威とは何か』)

ところでいま上に引用したジジェク文には、次の註がついている。

注)真の「主人」でありうるのは、容易なことではない。「主人」であることの問題は、ドゥルーズによって簡潔に定式化されている。すなわち、《あなたが他者の夢の罠に嵌ったら、墓穴を掘る。si vous etes pris dans le reve de l'autre, vous etes foutu 》。

そして「主人」は、全くその通りに、他者・臣下の夢に囚われる。この理由で、主人の疎外は、臣下の疎外とは比べようもなく根源的である。主人は、この夢のイメージに従って、行動しなくてはならない。すなわち彼は、他者の夢のなかの人物像として振舞わなければならないのだ。(ジジェク、2016)

ーーパパはとっても難しい仕事だ、と。日本でも明治からの疑似一神教体制のなかで、昭和天皇はいつのまにか、臣下の夢の罠に嵌って墓穴を掘ってしまった。

で、こういうふうにならないパパとは何なのか。
それが問題である。誰も分からない。

だがこれを解決しないと、このままの二者関係的食うか食われるかの世界がますますひどくなる。

つまりは他者蹴落とし・攻撃欲動の社会が、いっそう輪をかけて進展していくのである。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014,Paul Verhaeghe What About Me? )

もちろんこの考え方を否定して、別の理由を見出す努力をしてもよろしい。たとえばレイシズム、ナショナリズム、原理主義等々の1990年以降の猖獗の理由を。

(もっともここでつけ加えておくが、ラカン自身、父の機能はまったく失われたわけではない、と1972年には言っている。「ウケる épater」ことができる父、印象づけ驚かすことができる父、「オヤジ言葉」で演技する父がいる、と。この父なら現在のトランプ大統領だってそうではなかろうか・・・すくなくとも爆弾落として驚かすのは得意そうなタイプである・・・)

だがどうもまともな父として機能する存在をーーそれは「理念」という父や、レヴィ=ストロースのいうマナやら浮遊するシニフィアン signifiant flottant(象徴的効果 L'efficacité symbolique)やら、すなわち世界的な「象徴天皇制」(柄谷いわくの江戸時代風の)でもいいはずだがーー誰も探しだせているようにはおもえない。

イズレニセヨ無邪気なドゥルーズ愛好家だったミナさん、オメデトウ! 

わたくしの手許には残念ながら『無人島』はないので、中山元氏の書評から抜き出しておく。

ドゥルーズ『無人島 1969-1971』

ドゥルーズがガタリと共同で執筆し、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』などを出版したころに発表していた論文を集めた「ドゥルーズ思考集成」の第二巻に相当する。とくに精神分析批判が中心となるのは、まあ予想された通りであり、いくつかの論文やインタビューは、すこしはしゃぎ過ぎなほどに、パパ-ママ-ボクの三角形の批判を展開する。(中山元:書評『無人島 1969-1971』ジル・ドゥルーズ

ドゥルーズ&ガタリの言い方を斜め読みすれば、世界は「充実した」他者蹴落しの「器官なき身体」になったのである。

・資本とは資本家の器官なき身体である…。Le capital est bien le corps sans organes du capitaliste, ou plutôt de l'être capitaliste.

・器官なき充実身体…死の本能、これがこの身体の名前である。Le corps plein sans organes…nstinct de mort, tel est son nom, (『アンチ・オイディプス』)

この器官なき身体は、他者蹴落しと金目のものには、蜘蛛のごとく獲物に襲いかかるのである。

器官なき身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

この蜘蛛は、たとえば原発災害があれば、ボロ儲けできる「除染」には飛ぶように急ぐが、金目になりそうにない「被災者住宅建設」には、眼も鼻も口もなく知らんぷりという器官なき身体である。

ドゥルーズははしゃぎ過ぎた甲斐があったのである。彼の予想を超えて、《欲望機械 Les machines désirantes》、つまり《ある純粋な流体 un pur fluide が、自由状態 l'état libreで、途切れることなく sans coupure、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走》する機械が、レイシズムやら原理主義やらナショナリズム、そして勝ち組/負け組の分断に精を出す世界が訪れたのである。

なんという「欲望する機械 Les machines désirantes」の滑走!
なんという「純粋流体 pur fluide」! 
なんという「自由 libre」!

いやあ、オメデトウ!!!


「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行

以下、「自我理想と超自我の相違(基本版)」に記したことにかかわるが、なによりもの核心は、ジジェクの「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」論ーーーーわたくしの知る限り2012年の書にはじめてあらわれたーーであり、その2016年版である。

◆Slavoj Žižek 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? PDF

眼差しと声は、標準的社会関係の領野において、恥と罪の仮装の中に刻み込まれる。恥は、大他者の眼差しにつながっている。すなわち、私が恥じ入るのは、 (公的)大他者が剥き出しの私を見たり、私の汚れた内面が公けに曝露されたとき等々である。反対に罪は、他者たちが私をどう見るか、彼らが私について何を話すかについては関係がない。すなわち、私が自分自身において有罪と感じるのは、私の存在の核から送り届けられる声から生じる、内部から来る罪の圧迫による。

したがって、「眼差し/声」の対立は、「恥/罪」の対立と同様に、「自我理想/超自我」の対立とつなげられるべきである。超自我は、私に憑き纏い非難する内部の声である。他方、自我理想は、私を恥じ入らせる眼差しである。

この対立のカップルは、伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行の把握を可能にしてくれる。ヘゲモニー的イデオロギーは、もはや自我理想としては機能しない。自我理想の眼差しに晒されたとき、その眼差しが私を恥じ入らせる機能はもはやない。大他者の眼差しは、その去勢力を喪失している。すなわちヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである。(ジジェク 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint?)

冒頭にも記したとおり、2012年のLESS THAN NOTHINGにもほぼ同様の叙述がある。ただひとつだけ新しいのは、《伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行》と「恥から罪への移行」(自我理想から超自我への移行)を明瞭に関連付けていることだ(もっともジジェクを読み込めば、1990年前後からすでにそれを暗示しているという観点もあるだろう)。

これは「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」で引用した岩井克人の「資本の主義/「資本の論理」にダイレクトにつながる。

じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。 

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

「資本の主義」の時代から「資本の論理」(資本の欲動)の時代への移行とは、ラカンの「主人の言説」から「資本の言説」への移行のことでもあり(参照)、現代ラカン派内では、「20世紀の神経症の時代から21世紀のふつうの精神病の時代へ」と言われたり、「ふつうの倒錯の時代へ」と言われたりすることにもかかわる(資本の言説が倒錯の言説でありうるのは、「四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)」にやや詳細に記した)。

イデオロギーあるいは主人(父の名)の斜陽の時代とは、「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」(フロイト)の観点からは、三者関係から二者関係への移行があったということである(それはエディプス的超自我から前エディプス的超自我への移行でもある[後述])。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』

中井久夫が、《今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である》(「アイデンティティと生きがい」)とするとき、やはりすくなくとも冷戦終結後1990年からーー実態は学園紛争後の1970年代から漸次である(ラカンが「主人の言説」から「資本の言説」への移行を指摘したのは、1972年である)ーー、世界的な文化病理として、三者関係から二者関係への如実な移行があったことを示している。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ1999,Verhaeghe, P., Social bond and authority,PDF

ここで、名高いアーレントの見解ーー長い間、時代錯誤的として捉えられていたーーを引用することもできる、 《権威とは、人びとが自由を保持する服従を意味する》(ハンナ・アーレント『権威とは何か』)

※参照:「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン)

もっとも一神教でない日本では、父の権威などかつてからなく(明治以降敗戦までの疑似一神教時代を除いて)、神経症的ではなくむしろ精神病的あるいは倒錯的社会と言われてきたので、この移行は、それほど鮮明には感知されていないかもしれない(参照:日本社会において自我理想は正常に機能しない)。

いずれにせよ、ここで一つの問いがある。日本では恥の文化ということが言われてきた、《日本は「恥の文化」だけあって恥のかかせ方も恥の感じ方も実に微妙で隠微だ》(中井久夫「暴力について」)。この観点を考え出すと、ジジェク風の「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」は、安易には首肯しがたくなる。

それともある時期までの日本には自我理想に相当するものが何か機能していたのだろうか?

(日本において)主体がおのれの基本的同一化として、 単一の徴(一の徴 le trait unaire=自我理想) にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。(ラカン、「リチュラテール Lituraterre, 1971, in Autres Écrits

この問いはここでは宙に放り出したままにしておくが、中井久夫には別に、「恥」ではなく「意地」を強調する日本文化論がある。

「日本人の意地は欧米人の自我に相当する」とは名古屋の精神科医・大橋一恵氏の名言である。中国人の「面子」にも相当しよう。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・外傷・記憶』所収)
意地について考えていると、江戸時代が身近に感じられてくる。使う言葉も、引用したい例も江戸時代に属するものが多い。これはどういうことであろう。

一つは、江戸時代という時代の特性がある。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。………(中井久夫「意地の場について」--「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ

「意地」とはおそらく二者関係的なものだろうが、このあたりは一神教の伝統内の理論であるフロイト・ラカン派の考え方をそのまま日本に適用できないことに注意しなくてはならない(ラカンの指摘する「自我理想」が機能しない日本とはこれにかかわる)。

さて難題は当面脇に置くことにして、ジジェクの「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」論が大きく依拠しているのは、ラカンは学園紛争後、つまりは権威の実質的な死の時代に突入したときに言い放った次の言明であるはずだ。

きみたちは言いうるだろう、もはやどんな恥もないと。vous pouvez dire qu'il n'y a plus de honte. (Lacan,S.17, 17 Juin 1970 )

ーー恥とは去勢の敬意のことである。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972ーー四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)

日本が西欧とは異なるとはいっても、旧世代の人間たちは、以前とくらべて今の若者たちに「恥」の喪失があるのではないかとは、たぶんわたくしだけではなく、多くの人が感じているのではなかろうか。

もっともこういう言い方は気をつけなくてはならない。ここで梅崎春生の名言を想い起しておこう、《近頃の若い者云々という中年以上の発言は、おおむね青春に対する嫉妬の裏返しの表現である》。

…………

【補足】

以下、この数か月の間に繰り返してきたことの拾い集めである。

表題をシンプルに眼差しから声への移行とせず、「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行としたのは、次の引用群などからのわたくしの想定である。

まず基本的な「超自我」の考え方のベースを提示する。

・超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7)

・享楽を強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「享楽せよ!」 Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »,(ラカン、セミネール20)

冒頭に引用したジジェクによる、現代の《ヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである》は、上のセミネール20の「享楽せよ!」にかかわる。

だが超自我の命令は不可能な命令である。というのは先ずなりよりも、われわれは言語使用による物の殺害(象徴的去勢)を経た存在ーー《言語によって囚われ拷問を被る主体  le sujet pris et torturé par le langage》(S3)--であり、《享楽欠如manque-à-jouir》(AE435)の存在なのだから。

もちろんラカンはファルスの彼方の享楽(フロイトの快原理の彼方=不気味なもの[参照])を語ってはいる、《ファルスの彼方には Au-delà du phallus、身体の享楽 la jouissance du corps がある。》(S20)。《非全体の起源 pas toute…それは、ファルス享楽 jouissance phallique ではなく他の享楽 autre jouissanceを隠蔽している。いわゆる女性の享楽 jouissance féminine を。》(S19)

だがその享楽はファルス秩序の裂け目に不可能なものとして現われるのみであり、出会い損ねとして遭遇するだけである。

テュケーTuchéの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね rencontre manquée」としての「現前 présence」である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ)

むしろ(標準的な)人間にとっては、耐え難い出会いなのである(参照)。

ここでやや文脈からはずれるが、ドゥルーズ=プルーストを引用しよう。

無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。

…les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

よく知られているように(?)、無意志的記憶とは、トラウマのことである(参照:Involuntary memory:Wikipedia)

「レミニサンス réminiscence」 あるいは「無意志的記憶 la mémoire involontaire」は、基本的にはトラウマと同じ構造をもっている。《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》(中井久夫)のと同じように。

トラウマの不透明性 l’opacité du traumatismeーーフロイトの思考によってその初期作用 fonction inaugurale のなかで主張されたものであり、私の用語では、意味作用への抵抗 la résistance de la signification であるがーー、それはとりわけ想起の限界 la limite de la remémorationを招くものである。(ラカン、セミネール11, 15 Avril 1964)
私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値 valeur を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。

…私は、現実界 le Réel は法のない sans loi ものに違いないと信じている。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

※参照:「 レミニサンス réminiscence」と「穴馬 troumatisme」

…………

次に、「父の眼差し」/「母の声」という想定をした核心的なラカン文を引用する。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

ーー上に自我理想から超自我への移行(資本のイデオロギーから資本の論理への移行) が、エディプス的超自我から前エディプス的超自我への移行である、としたのはこれらの文に依拠する。

超自我とは確かに「法」である。しかし鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「単一」unary のシニフィアンとしての法である。…超自我は、独自のunique シニフィアンから生まれる形跡・パラドックスである。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我は、父の名によって隠喩化され支配される以前の「母の欲望」にひどく近似している。超自我は、法なき気まぐれな勝手放題 capricious whim without law としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996,PDF)

ミレールの文に出現する穴 trouとは、Ⱥとも書かれ、原トラウマ(原対象a)のことでもある。 《経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 》(フロイト『制止、症状、不安』1926年) 。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
対象a、それは穴のことである。 l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ここにあるように穴とは欠如ではない。欠如とはファルス秩序のみの用語である。ファルスの彼方にあるのは、欠如の欠如である。《欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel》(Lacan、1976 AE.573)

すこしまえテュケーとの出会いは人間には耐えがたいと記したが、テュケー、つまりブラックホールȺとの遭遇にいかに耐えうるというのか?

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ーーもちろんこのブラックホールであるヴァギナデンタータは、非全体の比喩として読んでもよい。

こういった「詩的な」表現がお嫌いな方々のために、初期柄谷行人が、マルクスの《超感覚的なもの、あるいは社会的なもの sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge》( 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」から読みとった「非全体」の記述にて補足しておこう、《無根拠であり非対称的な交換関係》(『マルクスその可能性の中心』1978年)。

…………

次に、上の記述を裏付けうる現代ラカン派の代表的論者たちの引用を列挙する。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)

 …………

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕 stigmata を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF
サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

母の法は非全体を受け継いでいる、とある。母の法 S(Ⱥ)=サントームΣとはーーサントームには別に「縫合SUTURE」の意味もあるにしろーーまずなによりも原抑圧(原固着)であり、《享楽の原子》(ジジェク、2012)、かつまた初期フロイト概念の「境界表象 Grenzvorstellung」である。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡(フィリス宛)、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

ーーもちろんここでの「抑圧」は--当時のフロイトには原抑圧概念はなかったーー、「原抑圧」として捉えなければならない。そして境界表象とは、上に引用したコレット・ソレール曰くの「原リアルの名 le nom du premier réel」・「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

…………

父親は不在で、父の機能(平和をもたらす法の機能、「父の名」)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我 maternal superego は恣意的で、邪悪で、「正常な」性関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想 paternal ego-ideal が不十分なために法が獰猛な母なる超自我 ferocious maternal superego へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』原著1991年)

ーーここでジジェクは「父の名」を、父性的自我理想とし、「母なる超自我」を前エディプス的超自我としている。

以下のポール・バーハウの倒錯をめぐる注釈も同じことを言っている。

倒錯者の不安は、エディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安としてしばしば解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

…………

ところで超自我と、自我理想・父の名とはどう異なるのか。

超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School

超自我は、基本的に、「母なる超自我」である(幼児は誰もが最初に「母なる大他者」に世話をうける)。 父の名・自我理想・父の法に超自我の側面があるのは、父の名が母なる超自我・母の法(≒母の欲望)を覆いつつつも、それを徴示しているからである(これがコインの裏表の意味)。

ミレールの文を再掲しよう。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

父の名は、母なる超自我をたしかに覆う。だがそこには必ず「残存現象」がある。 これは、最晩年のフロイトが記述したことである。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり以前の段階の現象が部分的に進歩から取り残されて存続するという事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

最晩年の微妙な表現は別に、標準的なフロイトにのみに依拠した超自我論は、--フロイトは超自我=自我理想としているーー父の名(自我理想あるいは父なる超自我、父の法)と本来の超自我(原超自我あるいは母なる超自我、母の法)の 関連がみえてこない(日本の大半の論者、たとえば柄谷行人の九条=超自我論の曖昧さはここにある)。

もっともある時期までは、ラカン派でさえ、超自我の機能については曖昧なままであった。

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF

わたくしが今、上のように記したことは、最近になっての議論を参照にしつつの、あくまで「想定」であり、ラカン注釈者たちが明瞭に上のように言っているわけではない。 その意味で、ジジェクの最近になっての叙述は貴重である、とわたくしは思う。

フロイト自身は終生エディプスの父に固執したとされるが、いくつかの論でほとんど超自我の起源は母であると口に出しかかっている。

最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である(註)。(フロイト『自我とエス』旧訳p.278、一部変更ーー参照
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわち陰茎の欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。……(同『自我とエス』)

そして1939年上梓の論文と死後出版1940年の論文には次のようにある。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
・超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。

・患者が分析家を彼の父(あるいは母)の場に置いた時、彼は自らの超自我が自我に行使する力能を分析家に付与する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

あるいはこう引用してもよい。

誘惑者 Verführerin はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933年)
母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版1940、私訳)

※より詳しくは、「二種類の超自我と原抑圧」を参照。




2017年4月14日金曜日

わたしの中心

音楽をたまに貼り付けるけどさ
16歳のときに出会ったマタイ
カール・リヒター1958年ヴァージョンの
この一分間の合唱
これがわたしの中心だね、おそらく生涯の。

◆Bach-karl ritcher"Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen"




そして中心の横には次の二分間の合唱が居座ってるのさ




2017年4月13日木曜日

そこの〈きみ〉! きみは自閉症じゃなくて倒錯者だよ

倒錯者の言説(マゾヒストの言説)」で引用した次の文、これはたとえば日本人だったら半分くらいはこの状況にあるんじゃないか。

乳幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、彼は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外を通して、自己のアイデンティティの基礎を獲得する。いったんこの基礎のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。(……)

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。したがって、子供は自身の欲動の表象能力を獲得できない。ましてやそれに引き続く自身の欲望のどんな加工も不可能である。

構造的用語で言えば、これはファルス化された対象 a に還元されるということである。その対象a を通して、母は彼女自身の欠如を塞ぐ。母からの分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる。…

こうして子供は自らを逆説的なポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなることは子供にとって勝利である。他方で、このために支払う代価は高い。分離がないのだ。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe ,2010,PDF)

ーー《第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる》なんてね・・・

もちろんこれだけで倒錯者になるわけではないだろうけど。
母と子が分離するためには、なんらかの第三の形象が必要だ

お父さんのようにはならないで下さいお願いだから(谷川俊太郎「ザルツブルグ散歩」『モーツァルトを聴く人』)
父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。 (中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)

ふたりともよく倒錯者にならずにすんだな、中井久夫が祖父が第三の形象だったのは、そのエッセイをすこし読めばすぐ明らかになるけど、谷川俊太郎ってのはどうだったんだろう?


子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた
外出している母がもう帰ってこないのではないかと思って
母はどんなにおそくなっても必ず帰ってきて
ぼくはすぐに泣き止んだけれど
そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた
だがずっとあとになって母が永遠に帰ってこなくなったとき
もう涙は出なかった

ーー谷川俊太郎「なみだうた」より 『モーツァルトを聴く人』所収


ぼくは、ひとりっ子で、
すごい母親っ子だったんです。
母親はけっこう厳しかったんだけど、
わりと、父親が家庭をかえりみないで
ずっと外にいる人だったから、
その代わりにぼくを可愛がったような
ところがありました。
そのせいでぼくは、
すごくマザコンだったんですよ。

自分ではそんなこと自覚してなかったんだけど
恋愛というものがいつでも
自分の母親の願望に
すごく染められていた、というか。

だから「いったん好きになったら一生もんだ」
みたいな発想があったんです。
それを、ぼくはいいことだと思ってたわけ。
俺はもう、一婦一夫制を狂信的に信じている、と。
一婦一夫制を守るためだったら浮気はおろか、
もう離婚も辞さないって(笑)、
公言してたわけです。

自分がひとりの女にずっと誠実でいる。
実際にぼく、そういう行動をしてたんだけど、
でもそれがだんだん、
「何、これって? 母親とひとり息子の
 関係の再生産じゃないの?」
と思うようになったのね。

母親を求めることは意識下の欲求だから、
最初は思うだけで、
そこから自由じゃなかった。
だけど、そうとう年取ってから、やっと、
マザー・コンプレックスの気持ちじゃなくて、
相手の女性を対等に見られるようになったことが
いちばんマシになったところなんですよ、自分では。(谷川俊太郎×糸井重里

谷川俊太郎は「倒錯者」には見えないけどさ、支えは何だったんだろ。
支えがなくて倒錯者じゃなければ、旧套のラカン構造論なら精神病者だけどな

それとも名高い哲学者のお父さんの名が、「父の名」としてそれなりの支えとなっていたのだろうか?

初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係から解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、Les Noms-du-Père と。

疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけることを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体にもともとのシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。

これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(ポール・バーハウ1999、Paul Verhaeghe,Social bond and authority: everyone is the same in front of the law of difference、PDF)


飲んでるんだろうね今夜もどこかで
氷がグラスにあたる音が聞える
きみはよく喋り時にふっと黙りこむんだろ
ぼくらの苦しみのわけはひとつなのに
それをまぎらわす方法は別々だな
きみは女房をなぐるかい?

ーー谷川俊太郎「武満徹に」

(『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』所収)




きみが怒るのも無理はないさ
ぼくはいちばん醜いぼくを愛せと言っている
しかもしらふで

にっちもさっちもいかないんだよ
ぼくにはきっとエディプスみたいな
カタルシスが必要なんだ
そのあとうまく生き残れさえすればね
めくらにもならずに

(……)

ーー「谷川知子に」


母子二者関係でもひょっとして第三項、たとえば音楽やピアノがあれば
「父の名」として機能することだってありえるのかもしれない


六十年生きてきた間にずいぶんピアノを聴いた
古風な折り畳み式の燭台のついた母のピアノが最初だった
浴衣を着て夏の夜 母はモーツァルトを弾いた
ケッヘル四八五番のロンドニ長調
子どもが笑いながら自分の影法師を追っかけているような旋律
ぼくの幸せの原型

――「ふたつのロンド」

母の記憶で「ぼくの幸せの原型」といえるようなものがあるのはうらやましいよ
オレにはないね・・・



いやあそうでもないか

母が「精神の病」からやや復活した中学校二年のとき

ーーいやあ唐突に家からいなくなる症状でね
じつに《子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた》んだな
で、《そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた》のさ
いまだってあやしいね

その母の症状の頻度がかなりすくなくなった頃、
母はグールド=バッハのラルゴ入りのレコードの贈り物をくれた




ーーここにあるのかもな、「ぼくの幸せの原型」は

母が50歳で死んだのはグールドが50歳で死んだ同じ年の同じ4日だった
棺桶に二枚のバッハのレコードをいれたよ
上のものともうひとつカンタータBWV4入りのレコードをね

ぼくの母はピアノが上手だった
小学生のぼくにピアノを教えるときの母はこわかった
呆けてから毎晩のようにぼくに手紙を書いた
どの手紙にもあなたのお父さんは冷たい人だと書いてあった
お父さんのようにはならないで下さいお願いだから
五年前に母は死に去年父も死んだ

ーー「ザルツブルグ散歩」

…………

ところで、そこの〈きみ〉!  
自閉症と診断されてるらしいけど
〈きみ〉はあきらかに倒錯者だよ
ツイートいくらか眺めればすぐ分かるな

現在世界的なヤブ診断基準ってのは信用しちゃいけない
長年倒錯者を自認して研究尽した(?)
蚊居肢散人がいうんだから間違いない

かんじんなのは倒錯者には一対一の臨床は機能しないことだ
おそらく集団精神療法しかない


【倒錯の三つの特徴】

①頑固な(融通のない)前性器的シナリオがある。
②そのシナリオが倒錯的主体に強迫的に課されている。
③それを通して、彼(女)は権力と支配の関係性を設置する。
①は古典的特徴である。もっともここでの強調は形容詞に置かれる。すなわち「融通性のない」性格である。疑いもなく、神経症的文脈内でも、前性器的シナリオはいたる処にある。固有の倒錯的特徴は、自由の欠如と組み合わさった「頑固さ」に関わる。

シナリオからのどんな逸脱も、不安と緊張の源泉である。精神分析的観点からは、これを「反復強迫 Wiederholungszwang」の形式ーー「反復 Wiederholen」の形式ではなくーーとして理解しうる。事実、我々が神経症的文脈から知っているように、どの「反復」も、絶えず移行する想像的な欲望の弁証法の内に、何か新しいものを含んでいる。対照的に「反復強迫」ーーフロイトによって外傷神経症のなかに見出されたもの--は、外傷的現実界からの何かを象徴化するその試みにおいて、きわめて融通のなさ(執拗さ)を伴っている。
②の特徴は、倒錯にかんする神経症者の「薔薇の絵(羨望)」とは合致しない。倒錯者はエロティックな官能主義者ではない。全く正反対である。倒錯的主体は基本的に不自由である。彼は殆ど一定不変のシナリオの上演に向かって、衝動的な形を以て駆り立てられている。その上演はとてもしばしば何か奇妙なものとして倒錯者に経験される。そして目的は、まず何よりも不安と緊張の削減である。

上演後、倒錯者は安堵感に出会う。しかしまた、恥・罪・鬱の感情を抱く。言い換えれば、倒錯的主体は分割された主体である。彼は、自身の奇妙な振舞いへと駆り立てる要因自体にさえ気づいていない場合がある程に、二つの部分に分割されている。これが説き明かすのは、倒錯者はその社会生活において、とても正常な人物・社会適応した人物でありうることである。分割された他の部分が彼を乗っ取ったときにのみ、倒錯が瞭然とする。
③は最も興味深い特徴である。そしてこれはいくつかの点にかかわる。臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。(ポール・バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDFより)

で、〈きみ〉のツイート眺めると
嫌悪感でいっぱいになるな
鳥肌が立っちまう

どうしてかって?

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)



倒錯者の言説(マゾヒストの言説)

…私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S11)

幻想の式 $ ◊ a の読み方(の一つ)は、「シニフィアンの象徴的効果によって分割された主 体は、対象 a と関係する」である。倒錯においては、この幻想の式が裏返される。すなわち、 a ◊ $

ジジェクはここから、分析家の言説は倒錯者の言説と形式的には一致するとしている(分析家の言説の上部構造は a → $ であり、a ◊ $ と相同的である)。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

対象aが囮の背後の空虚であれば分析家の言説、幻想的囮/スクリーンであれば倒錯者の言説ということになる。

さてジジェクの倒錯の言説の読み方を掲げる。 

動作主、マゾヒストの倒錯者 a(典型的倒錯者)は、他者の欲望の対象-道具のポジションを占める。倒錯者はこのような形で、彼の(女性の)犠牲者を通して、彼女をヒステリー化された/分割された主体 $ーー彼女が欲するものを知らない主体ーーとして据える。倒錯者は、彼女が欲するものを知っている。すなわち、彼は知 S2 のポジションから(彼女の欲望について)語るふりをする。これによって彼は、他者への奉仕が可能になる。そして最終的に、この社会的つながり(社会的紐帯)の生産物は、主人のシニフィアンである。すなわちヒステリー的主体$は、倒錯者が奉仕する主人S1(女王様)の役割へと昇華される。(同上、ジジェク2016) 

ーー実に鮮やかな読み方である。 《マゾヒストは専制的女性を養成せねばならない。(……)マゾヒストは本質的に訓育者なのである》(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)--この過程がすぐれて形式的に描写されている。




倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S18)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823)
倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存dépendance de son amour,、すなわち母の欲望への子供の欲望 le désir de son désir によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 l'objet imaginaire(想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)

…………

より一般的に言えば、倒錯者とは受動的なポジションに立っているように見えながら、他者をコントロールしようとする性格(症状)類型者である。

おそらく現在、境界例や軽度の自閉症等と診断されている人たちは、かなりの割合で倒錯者である可能性があるのではないか、とは下記の論文の共著者のひとり、ポール・バーハウの見解である。

乳幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、彼は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外を通して、自己のアイデンティティの基礎を獲得する。いったんこの基礎のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を 通して、安定した関係にまだ執着している。このような方法で、母を喪う不安は何とか対処されうる。標準的には、エディプス的状況・父の機能が、子供のさらなる発達が発生する状況を創り出す。母の欲望が父に向けられるという事実がありさえすれば。

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。したがって、子供は自身の欲動の表象能力を獲得できない。ましてやそれに引き続く自身の欲望のどんな加工も不可能である。

構造的用語で言えば、これはファルス化された対象 a に還元されるということである。その対象a を通して、母は彼女自身の欠如を塞ぐ。母からの分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる。…

こうして子供は自らを逆説的なポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなることは子供にとって勝利である。他方で、このために支払う代価は高い。分離がないのだ。自身のアイデンティティへのさらなる発達の道は塞がれてしまう。代りに、子供はその「勝利」を保護する企図のなかで、独特の反転を遂行する。彼は自ら手綱を握りつつ、しかも特権的ポジションを維持したままで、受動ポジションを能動ポジションへと交換しようとする。

臨床的用語では、これは最も歴然としたマゾヒズムである。マゾヒストは、全シナリオを作成してそれを指令しながら、自らを他者にとっての享楽の対象として差し出す。これが他者の道具となる 側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、瞭然と受動-能動反転がある。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。 (……)倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせる。 (When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe ,2010,PDF)


バーハウの2001年の論文からもいくらか抜き出しておこう。

臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。(ポール・バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II)
ほとんどの事例で、男性の倒錯者は、彼が事態を支配しなければならないとしてさえ、大他者の全的享楽の対象として自らを表す。女性の倒錯者は母のポジションから出発する。その意味は、彼女は自身の欠如を埋め合わせる対象として他者を定義づけるということである。(……)

要約しよう。母は自分の子供を想像的ファルスの位置に保ったままにする。父は受動的観察者の位置に還元される。母の想像的ファルスの位置に同一化した息子は、大他者の位置にある他者に対して同じ過程を能動的に反復する。娘は彼女自身の子供に焦点を当てる傾向がある。こうして原初の過程を反復する。(同 Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF

2017年4月12日水曜日

世の常識を逆なでする関係構造論

くり返すが、ラカンの四つの言説とは、なによりもまず「社会的つながり」の関係構造をめぐっている。支配・教育、欲望、分析の四つ+倒錯の社会的絆があるという「理論」であり、合理論である。それが「四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)」に記したことだ。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 、2006)

人はふつう経験論者として生きており、日本ではことさら構造主義的な関係構造(合理論)観点が欠けてしまっている。つまり経験論が途轍もなく支配的イデオロギーの国である、ということはしばしば言われてきた。

経験論が支配的イデオロギーとは語弊があるかもしれない。日本的経験論とはじつは無イデオロギーのことである。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。 イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎな い。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないん じゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていい たくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけではなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間 が見えなくなったところからきている。しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山真男、針生一郎との対談『丸山座 談5』)

わたくしもはっきりいってしまえば途轍もない経験論者の一人だが、たまたま合理論の考え方のひとつを知ったので、ときにはそこに立ってみるというだけである。

構造主義的考え方は、レヴィ=ストロースによればマルクスが始祖であり、それがどのようなものかとは、たとえば蓮實重彦が次のように記している。

実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

上にあるように関係構造の観点ももちろん「虚構」である。そしてラカンの四つの言説理論は、《個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産》であるという虚構の理論である。

ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いていない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇(カテゴリー)の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」1867年)


柄谷行人は上の文を引用して次のように言っている。

『資本論』が考察するのは…関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえようと存在するのである。

こうした構造主義的な見方は不可欠である。マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的非難をしなかった。むしろそこにこそ、マルクスの倫理学を見るべきである。資本家も労働者もそこでは主体ではなく、いわば彼らがおかれる場によって規定されている。しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる。(柄谷行人『トランスクリティーク』p40-41)

この考え方は人を途方に暮れさせるだけでなく、 「世の常識を逆なで」する。

理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。
(……)

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その真理に内在していた盲点と限界とが同時の露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

日本ではドグマに転落するどころか、構造主義をやり過ごしてしまった。

蓮實)それにも、こっちはやや責任がないわけではないけれども、構造主義が定着しなかったのは、そもそも構造というものが思考しがたいというのが、ひとつあるわけでしょう。構造は図式ではなく機能する形式だという点で、思考の対象たりがたい。それはやはり歴史的な体験の欠如からくるものでしょうね、たぶん。だから機能する構造の歴史を見てゆけば、構造主義になるはずだということがあると思うわけ。

ただし、もうひとつ機能する形式に対する感性の不在ね。三島由紀夫だってそうした形式に対しての感性はまったくないと思うわけ。

柄谷)ないね。

蓮實)形とかフォルムとか、そういうものに対する感性が彼には欠けている。彼が持っているのは、機能を停止したあとの形式のイメージにすぎない。だからせいぜい安保の対応をどうかするという程度のことでしょう。形式は生きられていないですよね。

その形式に僕は魅かれます。だからレヴィ・ストロースを読んで、いろんな不満があったって、最終的にはやっぱり偉い人だ。三島を読むより、文学的に高度な興奮を与えてくれますもの。しかし、なぜ批評がフォルムを括弧に括った形で平気でいられるんだろう。

いわば形式に眩惑されていないわけね、眩惑されれば恐ろしくて逃げるやつが出てくると思う。それはいいのです。フォルムなんて怖くてやってられないっていって。ところが怖くて逃げているわけじゃなくて、それはそういうものもあるだろうけれども、適当にそれなしでやっていけると高を括って無感覚に安住する形で避けているだけなんですね。(蓮實重彦/柄谷行人『闘争のエチカ』)

たとえば蓮實重彦の小説の構造分析。いまこういったものはーーすくなくともわたくしの知る限りーーどこかにいってしまい、旧態依然の経験論者ばかりがはばをきかせている。

どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故に、男は発見の旅へと出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。儀式はある共同体内部での「権力の譲渡」にかかわるものであり、そこで譲渡されべき権力と発見される貴重品とは、深い関係にあるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。協力者は、同性であるなら分身のような存在だし、異性であれば妹に似た血縁者である。二人の協力者は、どこかしら近親相姦的な愛か、倒錯的な関係を物語に導入し、純粋な恋愛の成立をはばみつつ、貴重品の発見へと向けてもろもろの妨害を乗りこえることになるだろう。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』P250)

このように物語構造が洗い出されてしまった作品群は主に次ぎの七つの長篇小説だった。

村上春樹『羊をめぐる冒険』(1982)
井上ひさし『吉里吉里人』(1981)読売文学賞、日本SF大賞
丸谷才一『裏声で歌えよ君が代』(1982)
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)野間文芸新人賞
中上健次『枯木灘』(1977)
大江健三郎『同時代ゲーム』(1979)
石川淳『狂風記』(1980)

蓮實重彦の「依頼」「宝探し」「権力の委譲」、そして「一人の男」と「分身の協力者」による「発見の旅」等々の語彙群を、ラカンの四つの言説に(無理やり)あてはめることはしないでおくが、最もシンプルに考えても、たとえば「権力」は主人のシニフィアンS1、「一人の男とその分身」とは、分割された主体$とすることができる、「宝」はもちろん対象aである(もっともこれらの小説の「主人のシニフィアンS1」は、父の法ではなく、母の法に限りなく近いという読み方を、今のわたくしはしている、《母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである》(Lacan.S5)。いわば1980年代のこの時期の「すぐれた」小説家の長編小説の隠されたテーマは、母性的であるだろう「天皇制」にかかわるのではないか、と。)

そしてーーややここはいくらかの齟齬を疑いつつもーー発見の旅を、S2というシニフィアンの集合をまさぐることと捉えることができないではない。

我々はS2 という記号 le signe S2 で示されるものを「シニフィアンの集合 la batterie des signifiants」と考える。それは「既にそこにある déjà là」。(……)

S1 はそこに介入する。それは「特別な徴 trait spécifique」であり、この徴が、「主体 le sujet」を「生きている個人 l'individu vivant」から分け隔てる。(ラカン、S17、26 Novembre 1969ーー「一の徴」日記②)

そしてここに同じセミネール17の、《主人S1の言説は主体$の支配とともに始まる。主人の言説が、超限定された神話・それ自身のシニフィアンに同一化すること [ $ ≡ S1 ] によってのみ支えられる傾向がある限りで》、を考慮すれば、主人の言説か資本の言説のどちらかに蓮實重彦の構造分析は当てはまる。




(もし父の法ではなく母の法という観点に拘るなら、あれら小説群の構造は、左側のエディプス的な主人の言説ではなく、右側の前エディプス的な資本の言説に理論上は当てはめるべきかもしれない)。

いずれにせよ蓮實の物語構造分析とは「社会的つながり」の関係構造の分析である。

これが合理論というものであり、小説(長編小説)でさえ、このような驚くべき類似構造があるという指摘にかつては瞠目したものだ。

というわけだが、こういったことを記して何が言いたいわけでもない。途轍もない経験論者であっても日常生活はとくに困ることはない。ただ合理論の観点から眺めれば、ナイーブ野郎だと感じるだけである。《まぁ、 世界というのはその程度のものだと思います》(蓮實重彦)

※柄谷行人の関係構造論者としての側面は、「それ自身に対して差異的であるところの差異体系(柄谷行人、ラカン)」を参照のこと。



2017年4月11日火曜日

ポエジーという分析の言説

写真は絶対的な「個 Particulier」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの Contingence」であり、「あるがままのもの Tel」である(ある特定の「写真」であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然 Tuché(テュケー)」の、「機会 Occasion」の、「遭遇 Rencontre」の、「現実界 Réel」の、あくことを知らぬ表現である。(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳)

…………

人々の妄想の鏡のなかですでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ(吉岡実「人工花園」 )




《ただ この子の花弁がもうちょっとまくれ上がってたら いうことはないんだがね》(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』)

…………

ラカンによる言説とは、「社会的つながりを作り上げるもの」という意味である。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。 (Lacan, ミラノ、1972)


分析家の言説において、動作主としての分析家は、論理的に a と表記される、いわゆる対象a として、「他者」に直面する。この対象a は、欲動あるいは享楽に関係した残余(S16: « Je » de la jouissance を参照)を示す。それは名づけ得ないものであり、欲望を刺激する。例えば、分析家の沈黙ーーそれは、相互作用における交換を期待している分析主体(被分析者)をしばしば当惑させるーー、その沈黙は対象a として機能する(Lacan, S19, p. 25)。

分析家は対象a のポジションを占めることにより、自由連想を通して、主体の分割($) が分節化される場所を作り出す。分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された「観念と病理」 (S2)を脇に遣る。こうして分析主体(被分析者)の主体性を徴す鍵となる諸シニフィアン S1 が形成されうる。それは、分析家の対象a としての立ち位置を刺激する。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdfーー基本版:「四つの言説 quatre discours」)

分析家aは、知S2を隠蔽して、まずは「沈黙」しなくてはならない。



ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、(この妻の姿勢は)分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

aに直面した分割された主体(ヒステリーの$)は、テュケーという穴に(偶然に)遭遇する。



対象a、それは穴のことである。

C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

原対象aとは、穴Ⱥのことである(参照:三種類の穴埋め師:S(Ⱥ)- I(Ⱥ) - F(Ⱥ))。穴とは欠如の欠如である。《欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel》(Lacan、1976 AE.573)

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

…………

テュケーとは、トラウマ、穴 Ⱥ のことである(参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))。

《我々は皆知っている。というのは、我々すべては現実界のなかの穴を埋める combler le trou dans le Réel ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。》(ラカン、S21、19 Février 1974 )

テュケーTuchéの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ)

テュケー(現実界)とは、オートマン(象徴界)の穴に偶然として出現するものである。ラカンはこの出現を、ハイデガー用語「外立 Existenz」を使う。外立の語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。

散文的に記せば、テュケー(現実界)は、分節化された象徴界の内部の非全体 pas-tout の領域に外立 ex-sistence する、である。

ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。

オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。

テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。

しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency)

テュケーはオートマトンの裂目である。

オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る遇発性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身)

プンクトゥムは、ストゥディウムの裂け目に出現する。

ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。(……)

プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな斑点 petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

プンゥトゥムは、ストゥディウムのなかに穴を開けるものである。

現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18)

精神分析とは、ストゥディウム(象徴界)を揺らめかすことである。

精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール)

享楽(現実界)とは、快楽(象徴界)を揺るがすものである。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽(享楽 jouissance)のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがす fait vaciller もの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

享楽とは、欲望の不意を襲う(宙吊りにする)ものである。

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』)

美とは、欲望を宙吊りにするものである。

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7)

《エクリチュールとは……、認識や主体を揺るがせる fait vacillerものである。》(ロラン・バルト『記号の国』)

詩とは、象徴界に穴を開けるもの、象徴界を揺るがすものである。

エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)

詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を

ーー谷川俊太郎「理想的な詩の初歩的な説明」より

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez (ラカン、S24. 17 Mai 1977)

まさに、ごくわすかなこと、ごくかすかなこと、
ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ
一つの息、一つの疾過、一つのまばたきーー
まさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。

静かに。――(ニーチェ「正午」)

トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance(Lacan,E 853)

詩とは欲望の生垣に穴をあけるものである。

人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」より)

同じことだが、分析の言説とは、欲望の生垣$に覗き穴aを開けるものである。生垣を揺らめかすといっても同じことである。




だがなぜ生産物としてS1が生まれるのか。S1とはファルス、あるいは父の名ではなかったか?



分析の言説の産出物は「父の名」であるに相違ない。だがイデオロギー的父の名ではなく分析主体(被分析者)固有の父の名である。この父の名をサントームΣとも呼ぶ。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008

《私に想い起こさせるのは、いくつかの民話や妖精の物語である。そこでは愛された人、欲望の対象(a)は、あれやこれやの理由で、もはや話すことができない。そのため主人公($)は、解決策を自ら創造しなければならない。その解決策において、彼は、以前には知られていなかった彼自身の存在に遭遇する。》(Paul Verhaeghe-From-Impossibility-to-Inability, 1995)


詩の擁護又は何故小説はつまらないか  谷川俊太郎

ーー「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳)

初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を
MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない
そんなのは小説のやること
詩しか書けなくてほんとによかった

小説は真剣に悩んでいるらしい
女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか
それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか
そこから際限のない物語が始まるんだ
こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの
やれやれ

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね

人間の業を描くのが小説の仕事
人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事

小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ
詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く

どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが
少なくとも詩は世界を怨んじゃいない
そよ風の幸せが腑に落ちているから
言葉を失ってもこわくない

小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に
宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら
祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする

人類が亡びないですむアサッテの方角へ

ーーもちろん柿の木とはS1のことである。

小説/詩の関係は、場合によっては映画/写真の関係と相同的でありうる(ハリウッド風の三文欲望映画ならことさら)。

プンクトゥムに関する最後の問題。プンクトゥムは、その位置が限定されていてもいなくても、補足的なものである。私が写真につけ加えるものであり、しかもすでにそこにあるものである。(……)映画の場合、私は映像に何かをつけ加えたりするだろうか?――私にはそうは思われない。私にはそんな時間はない。スクリーンの前では、私は目を閉じる自由をもっていない。そんなことをしようものなら、目を開けたとき、ふたたび同じ映像を見出すわけにはいかなくなる。私はたえずむさぼり見ることを強制される。映画には他の多くの長所があるが、思考性だけはない。私がむしろフォトグラム(映画のコマ写真)に関心をもつのはそのためである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


(ゴダール=ナタリー・バイ Sauve Qui Peut)

すこし前方に、べつの一人の小娘が自転車のそばにひざをついてその自転車をなおしていた。修理をおえるとその若い走者は自転車に乗ったが、男がするようなまたがりかたはしなかった。一瞬自転車がゆれた、するとその若いからだから帆か大きなつばさかがひろがったように思われるのだった、そしてやがて私たちはその女の子がコースを追って全速力で遠ざかるのを見た、なかばは人、なかばは鳥、天使か妖精かとばかりに。(プルースト「囚われの女」)




一台の自転車
その長い時間の経過のうちに
乗る人は死に絶え
二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
みどりの植物が繁茂する
美しい肉体を
一周し
走りつづける
旧式な一台の自転車
その拷問具のような乗物の上で
大股をひらく猫がいる
としたら
それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
禁欲的に
薄明の街を歩いてゆく
うしろむきの少女
むこうから掃除人が来る

ーー吉岡実「自転車の上の猫」



私たちはまた坂をくだっていった、すると、一人また一人とすれちがうのは、歩いたり、自転車に乗ったり、田舎の小さな車または馬車に乗って坂をのぼってくる娘たちーー晴天の花、ただし野の花とはちがっている、なぜなら、どの娘も、他の花にはない何物かを秘めていて、彼女がわれわれの心に生まれさせた欲望を、彼女と同種類の他の花でもって満足させるというわけには行かないからーーであって、牝牛を追ったり、荷車の上になかば寝そべったりしている農場の娘、または散歩している商店の娘、または両親と向かいあってランドー馬車の腰掛にすわっている上品な令嬢などであった。(プルースト「花さく乙女たちのかげに」)



ーーいやあ欲望を宙吊りにしない美だってあるかもしれない・・・

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。(ラカン、S7)

ラカンの戯言ではなかったか、と疑ったってよい。

「美とは関心なし(ohne interesse)に人の気に入る(gefallen)何かである」とカントは言った。この定義を、本当の「鑑賞者」であり芸術家である人がなした定義と比較して頂きたい。つまりスタンダールは、美は幸福を約束するものと呼んだのである。ここではいずれにせよ、カントが美的状態において浮き彫りにしたことがまさに拒絶され、消し去られているのである。それは無関心(le désintéressenment)である。果たしてカントが正しいのかスタンダールか。もっとも我らの美学者諸氏がカントを贔屓目にこんな事を量りに掛けてみたらどうだろう。美という魔法が掛けられて、いやそれどころか一糸纏わぬ女性の銅像を「関心なしに」観ることができるかどうかということである。おそらく彼らの無駄な努力に人はいささか笑いを禁じ得ないだろう。芸術家の諸々の経験はこのデリケートな点に関して「より関心を引く」ものであり、またピグマリオンが「審美的でない(unästhetisch)人間」であったというのはいずれにせよ当を得ていないのである。(ニーチェ『道徳の系譜』1887年)

もちろんいろいろな解釈がある。 《美はおそるべきものの始まりである》(リルケ『ドゥイノ』)

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti)


(Suspended Ball 1930-1931)


ーーアンドレ・ブルトンやダリを魅了した若きジャコメッティの「宙吊りになった玉」である。

美とは何か? ーーそれはそれぞれの人が考えたらよろしい。すくなくともエロス的人格(ヒステリー)とタナトス的人格(強迫神経症)では、(表面的には)異なるに相違ない。

基本的には、母に愛され過ぎた人間はタナトス的になり、十分愛されなかった人間はエロス的になると言われている(前者は融合不安、後者は分離不安に起因し、その反動としてタナトス(分離)/エロス(融合)がそれぞれ生まれる)。だがこれもそういう見解がある、という範囲にとどめておいたほうがよい。

「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』

わたくしの場合、なによりも魅惑されるのは裂目である。




身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅apparition-disparition の演出である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

かつまた出現ー消滅の演出だって種々のヴァリエーションがある・・・




この正午、……
トカゲも壁の割れ目にもぐり、
墓守ヒバリも見えない時刻なのに。
……
実もたわわなスモモの枝が
地面に向かってしなだれる。

――テオクリトス『牧歌(Idyllia)』




ここでフロイトが『夢解釈』の冒頭を飾る夢として選んだ、イルマの注射の夢のさわりを想い起しておこう。フロイトは若い女性患者イルマの喉を覗き込む。彼がそこに見たものは、原初的な肉、〈モノ=対象a〉としての波打つ生命物質という〈現実界〉だった。

肝腎なのは、原初の「波打つ生命物質」である・・・《谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ》(老子「玄牝の門」)

そしてしばしば誤解があるのだが、《他の性 l'Autre sexe とは、男たちにとっても女たちにとっても〈女〉La Femme である》(Jacques-Alain Miller,The Axiom of the Fantasm)。

…………

馬鹿げたことじゃない、精神分析がイカサマ escroquerie に陥りうると言うのは。(ラカン、S24、15 Mars 1977)

藪精神分析家や藪心理療法士の類には十分注意しなければならない。詩にめぐりあうか、ブラックホールȺに(ふんだんに)出会ったほうが、よほど分析効果がある、--ということはありうる(わずかしか出会わなかったら逆効果かもしれない・・・)。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

人は、《笑うことによって厳粛なことを語る ridendo dicere severum》(ニーチェ、トリノ書簡)ーーのでなくてはならぬ。


2017年4月10日月曜日

回答2

質問者を受けて主人の場に立たされた者は、そのまま主人として応答するのではなく、大学人の言説にずらして応答する場合が多い。

45度回転させれば、そうなる。



大学人の言説とは「教える-学ぶ」の関係における教育する者の場に立つことであり、教育機関としての「大学」とは全く関係がない。

教育の主体S2は、欲望の対象-原因としての対象aに向けて、知のシニフィアンを送る。生徒としての受け手は、(主に飼い馴らされていない)小文字の他者aである。

この対象aは、上の図にあるように、眼差しscopiqueともされる。

教育者S2 は、「あなたの知を私に見せて!」という生徒の眼差しに促されて、いっけん中立的知の「見せかけ semblant」の装いをもって、知識を垂れ流し、生徒はその知を受けとる。 

そもそも、《見せかけでない言説はない D'un discours qui ne serait pas du semblant 》(ラカン、S19) 。そしてラカン派における「言説」とは、フーコーの言説とは異なり、「社会的つながりlien social」を意味する。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。

Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social. (Lacan, ミラノ、1972)

この教育の言説において、知識を受け取った小文字の他者が生み出すものが、分割された主体$となっているのはなぜか。



生徒がよほどの馬鹿でなければ、差し出された知を鵜呑みにすることはない。生徒はいくつかある知識のあいだを揺れ動く。これが大学人の言説の産出物である分割された主体の意味であり、具体的にいえば不平不満 $ である。

大学人の言説(社会的つながり)の抑圧された真理の場には、主人S1がある。これを「隠蔽された支配欲」とも読む。その意味で、啓蒙的思想家たちの中立的知の仮装をした言説は、もしあなたに嗅ぎ分ける鼻があるなら、鼻を抓んで読まねばならない。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

そもそも世の中には精神の悪臭にひどく鼻が利く人間とそうでない人間がいるには違いない。小さな「共同体」のなかの土人であるならば、馴れによって仲間の悪臭に不感症になる。文芸愛好家ムラ、学者ムラ、詩人ムラなどの住人が厚顔無恥な臭気を振り撒いていても恥じる様がないのはそのことに由来する。

人はニーチェほどでなくても、せめてロラン・バルトほどの鼻をもつ必要がある。

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。(『彼自身によるロラン・バルト』)

内田樹や中島義道などーー(時に)それなりに役立つことを否定はしないがーー、ひどい悪臭を漂わせた啓蒙的知識人の典型である。とはいえ彼等だけではない。

最近の日本には、ラカンから学んでいる(らしい)にもかかわらず、啓蒙書やら「勉強本」などのたぐいさえ出版する「中立的知識人」がいるが、あれは読者の嗅覚をよほど甘く見積もっている証拠か、たんなる馬鹿かのどちらかである。

30歳代から40歳代の「思想家」がこのテイタラクなので、もっと下の層では次のようなことをさえ言う「ラカンお勉強家」が出現する。文明とともに《愚かさは進歩する!》(フローベール)。

片岡一竹@『稲妻に打たれた欲望』発売中!@take_one1994

夏くらいに某書店から出す入門書を今書いているのだが、ラカン入門書の決定版にしようと思っています。たぶんこれまで出た本の中で一番分かりやすいと思う……。自分的には「これ以上は簡単にできない」というレベルです。取り敢えずこれを読めば『みな妄』と『ラカン入門』が読めるはず。

この片岡君というのは、どうやら向井雅明グループの若手らしいが、はて杞憂なのであろうか・・・

『想起、反復、徹底操作』1914は、フロイトの概念化における主要な転回を示している。悲しいことに、この論文は容易に読め、転回は単純には気づかれない。ラカンは《あまりに容易に理解される》(S.3)あり方の一定のスタイルについて正当にも指摘している。あまりにも素早く理解に到るなら、理解されるのは、既に以前に知られていることのみである。(ポール・バーハウ、1999)

さて、やや話が脇道にそれたがーー大学人の言説における「真理」のS1とは「隠された支配欲」だけではなく、(ラカン派等の)「ドグマ」でもあるのでやむえないーー、以上が、教育の言説としてのわたくしの回答である。




もちろん当然のこと、鼻を抓んで読まなければならない。


2017年4月9日日曜日

回答

質問を受けるとは、主人のポジションS1に立つということである。 
これが、ヒステリーの言説が表わしていることだ。 



被質問者が主人の場に立つとは、彼が実際上、主人(支配者)なのか否かは関係ない。 欲望の主体$ →主人S1という「社会的つながり(=言説)」の場に立たされるのであって、《彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es》(マルクス)。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』序文)

質問に応じれば、S1は、知S2を生み出す。 
だが、この知 S2は、質問者の隠された真理の場にある a とは合致しない。 
このa は原初に喪われた対象であり、口唇 oral 対象(母の乳房)とされることもある。 




この観点をとれば、質問という行為は、母の乳房に到りたいという原動因に駆り立てられている、ということになる。 

だがこの原動因は抑圧されているので、「私に教えて! 私の欲望を」という形をとる。

主人S1としての私は、上の図の右側にあるように、分割された主体$を隠蔽して、エラそうに答えをひねり出す。

それはヘーゲルの主人ー奴隷なら、奴隷S2に向けてである。
ようするに、答えを受け取るものは、奴隷のポジションに置かれる。
奴隷はその返事をうけて、糞a(肛門Anal 対象)を生みだす。

これが支配者としての、わたくしの回答である。