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2016年2月7日日曜日

ベケットの非私とフロイトの否定 [Die Mutter ist es nicht ]

It is not mine. I have none: I have no voice and must speak. that is all I know. It's round that I must revolve, of that I must speak - with this voice that is not mine. bul can only be mine, since there is no one but me. (Or if there are others, to whom it might belong, they haw never come near me.) (Beckett, The Unnamable、ベケット『名づけえぬもの』)

…………

おれはいま母の部屋にいる。なぜここにいるのか。おれはこんなところに来たくなかった。 誰かが連れてきた。が、誰だったか思いだせない。ひとりでここに来るはずはない。そうだ、誰かが無理やりに連れてきた。おれじゃない。おれは母の部屋に来たくない。隙間風が吹いてる。なぜ風が吹きこむのか。戸は閉まっている。建てつけが悪いせいか。いつからそうなったのか。北向きの暗い部屋だ。大きな三面鏡がある。昔のままだ。鏡台の前でヤリたいという女がいた。遊びにきてよ、旦那が休日出勤だから、という。料理の腕前はなかなかだ。蛸のサラダ。パテ。サフランライス。白ワインとチーズはおれの持参。ベランダで、とも言った。電話がかかってきた(当時は据置き電話だ)。が、体の向きをかえ、ふたたびおれに尻を差しだした。その格好で電話先の友だちとかすかに笑いながら話している。呻り声はもうでない。せいぜいくぐもった声だ。ときおり吐息を洩らすだけ。優しく淫らな声。あの女は旦那に退屈してた。奈良の女子大出のインテリ女だ。実に女たちというのはなんでもやりかねない。おれは東京の国立女子大の女子寮で数日過ごしたことがある。ドアをあけると部屋の左右に二段ベッドがふたつ。四隅に机が四つという部屋。盆休みのさなかで、女以外はほとんど誰もいない。おいで、大丈夫だから。門限はすぎ、門扉は閉まっている。塀をよじのぼって飛びおり寮棟めがけて走る。サッカーができそうなくらいの広さの前庭。二段ベットの上でヤッたのははじめてだ。かなり揺れる。女臭い部屋だ。どうも女は臭い。恥垢がにおった。母の膝で耳かきをしてもらったときだ。この女も舐めたらその臭いがした。いや、味がした。母のを舐めたことはない。でも同じ臭いでびっくりした。若いころの母はひどく美しかった。あのころの母より美人はそういない。でもあの若い母とヤリたいわけじゃない。樹がざわざわしている。上のほうからだ。なんの樹というのだろう。実家の母の部屋の外には大きな樹木はなかった。

母が寝込んでいた祖父の屋敷の部屋。南向きなのに薄暗かった。屋根の庇が深く、その部屋の前の庭には大きな樟の木があった。風が吹くとザワザワ鳴った。樟は美しい樹だ。樟だけじゃない。おれは大きな樹が好きだ。それに並木道がひどく好きだ。樹々に抱かれている気分になる。おれは母に抱かれた記憶がない。いやそんなことはない。風邪をひくと、母が部屋に飲み物をもってきた。林檎の絞り汁だ。それから母は蒲団に入ってしばらく抱いてくれた。母の長い病が治ってからだ。いつあの病は治ったのだろう。その記憶もない。おれには考えたくない記憶がある。あの祖父の古い屋敷が好きだった。どの柱も黒く光っていた。渡り廊下があちこちにあった。便所の戸を開けてさえ廊下があった。あの屋敷におれの秘密があるにきまっている。秘密? どんな秘密だというのだ。

おれは母が死んでも悲しくなかった。ほっとしたといえばいいすぎだ。女が、てっきりマザコンだと思っていたのに驚いたわ、と言った。母は最期のころ、小さくなった躰を車の後部席でさらにちぢこめて、こうやってアンタに遊びに連れていってもらいたかったわ、とボソッと言った。助手席の父が、もうひとふんばり、と空しく言った。あの赤い中古のスポーツカーはよい買物だった。自動車会社の技師のドイツから帰ってきたばかりの父の弟は、あのエンジンはひそかな自信作だった、と言った。最期の一年ほどは、京都から故郷の町へ二百キロの道を毎週帰郷した。実によいエンジンだった。その後、ホンダとサーブに乗ったが、あのトヨタには全然かなわない。

母の葬式後、夢をみなくなった。田舎の一本道をひとりで遠くまで歩く夢。向こうには鎮守の森がある。そこが目的地だ。だがひどく遠い。冷や汗がでて目醒めた。何度もくり返してみた夢。今でも遠くまで続く一本道をみると寒いぼが立つ。愛するのは大きな樹に囲まれた並木道だ。あの樟の木のように、頭上でザワザワしてくれたらもっといい。それと海に向かう急坂。自転車ででこぼこ道を駆け下りると、頭の斜め上に、鳩たちが歩む海が浮かぶ。今ではこの道は廃道となっている。何人もが自転車のハンドルをとられ、傍の藪に突っ込み転がり落ちる、という事故があった。ヴァレリーのあの詩を読んだのは、この十六歳の伊古部の海の経験のあとだ。鳩たちは伊古部の海の東にある赤羽根漁港の漁船だった。《鳩歩む この静かな屋根は/松と墓の間に脈打って /真昼の海は正に焔。 /海、常にあらたまる海! /一筋の思ひの後のこの報ひ、 /神々の静けさへの長い眺め 》

…………

◆Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic(Lacan and Philosophy: The New Generation Lorenzo Chiesa, editor、2014, PDF)より。

…………

分節化ーー代数的な(アルジェブラ的な)分節化という意味だがねーー、その見せかけ semblance の分節化ーーそれは、文字だけを伴うものだーー、そしてその効果。これが唯一の装置だよ、その装置を用いてのみ私が現実界とは何かを示しうる。現実界とは、この見せかけのなかに、穴を開けるfait trou もの、あるいはその穴を開けるのを構成するものだ。科学的言説としての分節化された見せかけに穴を穿つことだ。科学的言説は進んでいくんだ、それが見せかけであるかどうかさえ心配せずにだ。問題となっているのは、単にネットワーク、ネット(網)、格子だ、…それが、正しい場所に正しい穴が現れるようにする。どんなほかの参照項もない、この演繹 deductions が不可能に到る以外のものは。この不可能が現実界だ。物理学において、我々は唯一目指そうとする、論証的装置を用いて、現実界的である何かに。まさにその厳密さをもって、一貫性の限界に遭遇するわけだ。しかし、我々に関心を与えるものは、真理の領野だ。(Le séminaire, livre XVIII. D'un discours qui ne serait pas du semblant,)

«Réel qui fait trou dans le discours scientific » (Lacan,séminaire, livre XVIII). →« Réel qui fait trou dans le symbolique »


【限界としての現実界】ーー波打ち際 littorale」としての現実界

この「精神分析的実在論」の決定的な核心は、現実界は、存在の実体ではなく、正確な意味で、その限界であることだ。すなわち、現実界とは、伝統的存在論が「存在としての(qua)存在」を語りうるために切り捨てcut off なければならなかったものである。我々は唯一「存在としての存在」に到る、それから何かを取り去ることによって。そして、この何かがまさに「穴」なのだ。それは、存在として十全に構成されるために欠如しているもののことだ。現実界の領野は、存在自体内部の合間にある。その理由で、非在が「存在としての存在」である。非在が唯一、存しうるのは、それがある以外に何かがあることによって、である。人は、もちろん問いただすことができる、そこにないものを切り捨てて何の問題があるのだ、と。だが、とても重要なのだ、切り捨てたとき、それが何かになるという理由だけでなく、その何かになったものが、精神分析学のまさに対象であるという理由で。


【純シニフィアン】ーー「純シニフィアンの物質性

(……)われわれは言うことができる、現実界の次元を構成する空間が歪曲することは、原因かつ結果をもっている、と。その原因とは、純シニフィアンの出現であり、結果とは、新しい種類の対象の出現である。しかし、これまた次のようにも言いうる、純シニフィアンのようなものはない、と。というのは、裂け目が純粋で明瞭になればなるほど、触知でき縮減不能の--あるいはシンプルな現実界の--対象を生み出すから。


【フロイトの否定 [Die Mutter ist es nicht ]】

これは、たとえば、Verneinung(否定)という精神分析の概念の基本的教えである。この「否定」という題をもつフロイトの短いエッセイは、最も興味深く複雑なもののひとつだ。それは、とりわけ、ひとつのシニフィアンを扱っている。「いいえ no」、あるいは「否定」である。そしてもし、フロイトがかつて言ったと報告されているように「時には、葉巻はただの葉巻だよ」であるなら、このエッセイの要点は、「いいえ」は決してただの「いいえ」ではない、ということだ。そして、その語の使用が「道具的」であればあるほど(すなわち、純シニフィアンとして機能すればするほど)、何かほかのものがそこに貼りつくようになりうる。

フロイトの最も有名な例はもちろんこれだ、「夢のなかのこの人物は誰かとおっしゃいますが、母ではありません [Die Mutter ist es nicht ]」。フロイトはつけ加える、どの場合でも、質問が解決されれば、それが実に母であることが確認できる、と。だが、フロイトの議論をさらに追っていくと、一段ごとに明らかになってくることは、この否定によって導入後されたものは、「それは私の母です/それは私の母ではありません」の二項択一以外の何かほかのものだということだ。


【「検閲 censorship 」としての無意識】


こういわけで、一歩一歩進もう。彼の夢のなかでのある人物が誰を演じているかを尋ねられることはないままで、患者は、母という言葉に向かって突き進み、自発的にその言葉を口に出す。否定を伴いながら、である。あたかもその語を言わなければならなかったかのようであり、しかし、それと同時に、言うことができないかのようだ。否応なしであると同時に不可能なのだ。結果は、言葉は否定されたものとして口に出る。抑圧は、意識的に話されたものとともに共存する。

ここで最初に避けねばならない間違いは、この人物は彼の夢のなかで実際に何を見たかという観点、そして、意識的な検閲 censorship のせいで、分析家に嘘を吐いたという観点からこれを読むことだ。というのはーーこれは否定 Verneinung を理解するために決定的だけでなく、フロイトの無意識自体を理解するためにも決定的であるーー、この事例における無意識というのは、まずなりよりも「検閲」のことであり、たんに「母」というその対象ではないから。

ここでは、無意識は歪曲自体(否定)にしがみついている。そして、主体がおそらくほんとうに夢のなかで見たもののなかには隠されていない。別の人物、知っていたりか知らなかったりする人物が実際に夢のなかに現れたということは充分にありうる。しかし、精神分析にとって関心がある無意識の物語とは、夢の報告において起こった、この「私の母ではない」に始まる。


【消去しえない抑圧を生み出した裂け目、亀裂の構造】--原抑圧

しかし、事態はいっそう興味深くなる。というのは、フロイトが続けてこう言うからだ、分析において、我々がこの人物から「いいえ not」を引っ込め、抑圧されたもの(その内容)を承認させてさえ、「抑圧的な過程自体は、これによっては、未だ取り除かれていない」。抑圧、症状は居残るのだ、被分析者が抑圧されたものに意識的になって後にも。これは次のようにもまた定式化できる。すなわち、我々は(抑圧された)内容を受け容れ、それを消去する。しかし、抑圧を生み出した裂け目、亀裂の構造を消去しえない、と。我々はまたこうも主張できる、患者が言いたかったことは、まさに彼が言ったことだ、と。すなわち、それは、母以外の他の人物でもなければ母でもない。そうではなく、「非-母 not-mother」、あるいは「母に非ず mother-not」だ、と。

《内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が全てではない not all ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。》(ジジェク,2012


ジュパンチッチの文は、以下、次のように続く。

エルンスト・ルビッチの『ニノチカ』からの秀逸なジョークが、「母に非ず mother-not」という単独な対象 singular object のよりよい把握のための手助けを、ここでしてくれるかもしれない。男がレストランに入って、ウエイターに言う、「クリームなしのコーヒーをください」と。すると、ウエイターは応じる、「すいません、クリームを切らしておりまして。ミルクなしではいかがですか?」

これはジジェクのLESS THAN NOTHINGに、ジュパンチッチ= ルビッチを引用してのとても長い説明がある。いまはそれには触れない。

…………

今日は旧正月の大晦日だ。妻や息子たちがざわざわしている。階下からだ。頭上ではない。樟の木のざわざわとはちがう。だがこのざわざわもまたいい。






2016年2月6日土曜日

せめて新しい倒錯を発明しようではないか、ラカン派の諸君!

きみたちは、私が何度もくり返したことを聞いたはずだ、精神分析は、新しい倒錯を発明することさえ成功できていない、と。ああ何と悲しいことだ!(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)

Vous m'avez entendu très souvent énoncer ceci : que la psychanalyse n'a même pas été foutue d'inventer une nouvelle perversion. C'est triste !

…………

倒錯とは、多くの場合、否定的に語られる病理だろう。たとえば、ラカン派のなかのメルマン派は、二十世紀の神経症の時代から二十一世紀の「倒錯」の時代へ、と言う(ミレール派の「ふつうの精神病」の時代へに対して)。この倒錯の否定的側面については、日本でも立木康介氏が『露出せよと現代文明は言う』にて詳述したそうだが、わたくしはその内容については知らない。ただ書評にはこうある。

立木氏は、倒錯を「真の倒錯」と「普通の(それほど異常性が顕著でない)倒錯」とを区別する。真の倒錯が、(サディストのように)他者を道具化し、そこに仮初の全能的自己を上演するのに対し、「普通の倒錯」では、自らにナルシス的全能感の放棄を迫る契機をことごとく否認し、主体化を拒否し、想像的世界への自閉に固執するという形を取る。それは、「主体がある享楽に捉われ、そこから抜け出せなくなっていることを告げている。その享楽とは、つまるところ、主体が否認に訴え、否認共同体に守られて手放さずにいる、その「幼児的万能感」に由来するものだ。フロイトにおいて「母の去勢」と名指されていたものを、ルブランはもっぱら「幼児的万能感の喪失」と捉える。」(書評『露出せよと現代文明は言う』)

このあたりのメカニズムについては、「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)」にて、いくらか記述した。

…倒錯者は自らを〈他者〉の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。

倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。(Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010、PDF

ようは、二十一世紀においては、現在は「幼児的万能感」を抱いた連中ーー母なる超自我と同一化した連中ーーがウヨウヨしているという臨床的判断であり、これは確かにその通りだろう。

ところで、ラカンの四つの言説における分析家の言説の上部 a →$は、ラカンが示した倒錯者の言説の形式的構造 a◇$と類似している。




これはかつて、Serge Andréの『 L'imposture perverse』(1993)にて指摘されているし、ジジェクも同様に指摘している。

ヒステリー者とは対照的に、倒錯者は完全に知っている、彼が大他者にとって何なのかを。知が、大他者の(分割された主体の)享楽の対象としての彼のポジションを支えている。この理由で、倒錯の言説の公式は、分析家の言説の公式と同じである。ラカンは倒錯をひっくり返した幻想として定義した。ラカンによる倒錯の公式は a – $ であり、それはまさに分析家の言説の上部にある。

倒錯者と分析家の社会的紐帯 social link のあいだの相違は、ラカンにおける対象a の根源的な両義性に根ざしている。対象a は、イマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、この囮が曖昧化されたもの、囮の背後にある空虚であったりする。

こういうわけで、我々が倒錯から分析家の社会的紐帯へと移行するとき、エージェント(分析家)は自身を空虚に還元する。空虚、すなわち主体を彼の欲望の真理に直面するように誘い込む空虚である。「SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.」2004ーー「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)」)

倒錯者は、自らを「a」のポジション(大他者の享楽の道具)に置く。己れが否認する去勢を$ へと移転させるためだ(倒錯者の幻想は、去勢されているのは彼ではなく、他者たちなのだという事態に支えられている)(参照:倒錯の形式的構造)。

これがラカン理論の分析家の言説の構造と類似するのは、一見奇妙なことだが、冒頭に掲げたラカン曰くの「新しい倒錯」とはこの文脈で捉えうる。

ところで、自らを「a」のポジション(大他者の享楽の道具)に置くという倒錯者あるいは分析家の形式的ポジションは、あきらかにソクラテスのイロニーと類似する。

ソクラテスが一般的な見解を受けいれ、それを提示せしめるということが、彼が自ら無知をよそおって、人々をして口を開かせるという外観をとるーー彼はそのことを知らない、そこで彼は人々をして語らしめるために無邪気さを装って問いかける。そして彼に教えてくれるように人々に懇願する。さてこれが有名なソクラテスのイロニーである。

イロニーはソクラテスに於ては弁証法の主観的形態である。それは交際に際しての振舞いの仕方である。弁証法は事象の根拠であるが、イロニーは人間の人間に対する特殊な振舞いの仕方である。彼がイロニーによって意図したところは、人々をして自己を言表せしめ、自己の根本的な見解を提示せすめるにあった。そして一切の特定の命題からして、彼はその命題が表現していることの反対のものを展開せしめた。即ち彼は、その命題ないし定義に対して反対の主張をなしたのではなく、その規定をそのままとりあげて、その規定そのものに即して、いかにそれ自身と反対のものがそのうちにふくまれているかを指摘したのである。――かくしてソクラテスは、彼の交友たちに対して、彼らが何も知っていないということを知ることを教えたのである。(ヘーゲル『哲学史講義』)

ジジェクはこのソクラテスのイロニーを「プロソポピーアprosopopoeia (Greek: προσωποποιία)」という観点から捉え、次のように叙述している。


ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により対話者の立場の矛盾を露わにし、相手の立場を彼自身によって崩壊させる。(……)ヘーゲルが女は“コミュニティの不朽のイロニーである”と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を“プロソポピーア”に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者はおのれの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになり、彼らが権威化のありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威化は崩れおちる。それはまるでイロニーの聴きとれえない反響が、彼らの会話につけ加えられたかのようなのだ。その反響とは、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (……)神秘的な“パーソナリティの深層”はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。(……)彼は脱-主体化されてしまうのだ。これをラカンは“主体の脱解任”と呼んだ。

プロソポピーアとは、“不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法”と定義される。(……)ラカンにとってこれは会話の性格そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの言表行為の主体と言表内容の主体の区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭いindirect”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』 私訳)

こられから判断するかぎり、ソクラテスの態度は、倒錯者と同じ形式的構造をもっている。もちろん、ここでドゥルーズのマゾッホ論から、《マゾヒスト的服従のうちにある嘲弄という嘲弄、そしてその外面的な従順性に隠れた挑発性というか批評の力》という文を抜き出すこともできるし、このマゾッホ論の訳者の「倒錯的戦略」という言葉を想起することもできる。そもそもフローベールの「紋切型辞典」の戦略は、「形式的には」倒錯者の戦略である。 《ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐ろしくなり、誰もがもう口がきけなくなるようにしなければなりません。》(フローベール私信)。

この辞典が倒錯的なのは、選ばれた少数者から無知な群集へと向う知の伝播の形式そのものがくつがえされているからである。というのも、その各項目に集められているのは、世の中とうまく折り合いをつけた大多数の人間が、どうしても他人とうまくやって行けそうもないごくかぎられた少数者に対して、その居心地の悪い思いをとり除くにはただこう鸚鵡がえしに口にすればそれでよいと保証するたぐいの語彙ばかりだからである。それ故、ここにあるのはもはや啓蒙ではない。かりにそれが啓蒙というものであれば、むしろそれは倒錯的な啓蒙とでもいうべきものだ。(……)

編纂者の目ざすところは、誰もが容認する匿名の物語が、その説話論的な磁場そのもののうちで自己崩壊をとげるということにほかならない。物語が、その物語そのものによって、物語の語り手から物語を奪うという事態が起こらねばならないのだ。無償の饒舌が無償の饒舌を沈黙させること。説話論的な装置としてのこの辞典の機能は、その装置をそっくり機能停止へと導くことになるのである。要するに難儀して作りあげた機械が、いざ完成したとなると、まさにその瞬間に、自分自身をむさぼり喰ってしまうような装置が夢見られているのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』)

ここでもうひとつ、蓮實重彦から次ぎの文を抜き出しておくことにしよう。

……装置の語る物語には読みえない肯定と愛と幸福とが、倒錯者には見えていはしまいか。いやいやそんなことはない、と倒錯者は思わず口ごもる。錯乱する装置の過剰なる機能など誰も目にはしなかったし、ましてやそんなものを嫉妬したりはしなかった。荒唐無稽な支離滅裂の祭典、そんなものを夢みたりはしなかったし、探し求めたりもしなかった。無差別なる肯定への意志が幸福だなどと、まさか。肯定するのは装置ばかりであり、装置を超えた肯定など、思いもよらないことだ。愛も、肯定も、装置の歴史をなぞる物語の中にしかありはしない。自分は、そもそもはじめからその愛、その肯定、その幸福のみを口にしていたにすぎない。装置を超えた過剰なる機能の汪溢だと。そんなものは夢かまぼろしであろう。物語に憑かれたものの見る白昼夢だ。物語の忠実なる聞き手には起こりえない錯乱だ。装置にとって過剰なるものなどありはしない。それこそ虚構というものだ。制度がその嘘を逐一あばきながら秩序を回復してくれるだろう。ほら、瞳を凝らしてみるがよい。あれが境界線だ。その向こうには不可視の領域が拡がっている。これが世界の調和ある表情というものだ。だから、間違っても過剰だの荒唐無稽だのを口にせず、装置の不断の機能ぶりを信頼することだ。装置は肯定する。愛も幸福も、その不可視の圏域に身をひそめている。その見えないものに注ぐべき視線を鍛えておくことだ。倒錯者は、そんなふうにつぶやきながら、何ごともなかったように物語と折合いをつける。何ごともなかったように、というのが倒錯者にふさわしい唯一の姿勢だ。事実、何ごとも起りはしなかったのである。

そして、あるとき、倒錯などと徹底して無縁であったものが、何の前触れもなく、一人過剰なるものと遭遇して錯乱する。たぶん、「記号」としか呼びようがない荒唐無稽の何ものか、事件としてある「作品」ののっぺらぼうな顔のようなものの不意撃ちをくらったのだ。彼、あるいは彼女は、生のありあまる汪溢に身をまかせ、手あたり次第に無差別の肯定を実践する。そして、みずからをいっせいにおしひろげ世界の荒唐無稽なる無表情と合一し、そのすみずみにまで自分自身を拡散させる。彼は、彼女は、欠落と思われていたものが過剰として回復したことに支離滅裂な感動をおぼえ幸福だと思う。そしてその幸福をかつて一度たりとも探求したことのない自分を発見する。彼または彼女は、顔もなく名前もなく、失われていた過去さえ持たぬ豊かな無表情といったものに自身を譲りわたし、そのことで何ひとつ放棄していない事実を嘘のように肯定する。この肯定が愛だ、と愛が教えてくれる。放棄することと発見することを同じ資格で戯れさせること。それが愛だ、と愛が愛につぶやく。この理不尽なる愛の過剰。それもが嘘のように肯定される。愛の歴史が事件として生なましく露呈するのは、そんな無方向の時空においてである。だが、倒錯者は、そんな事件についてはいささかも語りはしないだろう。もちろん、そのような一瞬は装置の歴史にも刻みこまれていはしない。だから、そんな話は誰も信じたりはしないのだ。そこで倒錯者は何ごとも起りはしなかったかのように愛の物語に耳を傾け、装置の機能ぶりもますます円滑なものとなってゆく。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」」『表層批判宣言』所収)

この文は、あきらかに戦略的倒錯の顕揚としてとらえうるだろう。われわれは倒錯の否定的側面だけではなく、肯定的側面にも目をそそがなければならない。

ここで飛躍して附記しておけば、巷間のほどよく聡明な=凡庸なインテリくんたちは、この倒錯の肯定的側面のメカニズムについて、いまだまったく不感症の連中である。

もし、一方で、哲学は、m'être (私-在、私-支配)の言説を典型的に表すなら、つまり、「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的な信念の言説、もっと正確に言うなら、《m'être à moi même》(Lacan,S.17)という言説であるなら、他方で、精神分析はこの支配 mastery の古臭い存在論ーーそれは、ボククラシー[je-cratie]も同然である:ーー、《理想のボクの神話、支配するボクという神話、少なくとも何かがそれ自身、つまり話し手と一致するというボクの神話》(Lacan,S.17)--を代替すべきだとする。それは、par-être の言説への代替である。パラ存在 para-being としてある言説、横にずれてある[être à côté]言説だ。(Lorenzo Chiesa、2014ーー「「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち」)


2016年2月3日水曜日

たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを「安易に」口にだす連中

「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち」にて、例外の論理/非全体の論理(男性の論理/女性の論理)をめぐって記したが、より具体的な例を掲げよう。

前期ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」、後期ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」がまずは例外の論理/非全体の論理となる。前回、中井久夫の家族的類似性をめぐる叙述を引用したが、その核心箇所を再掲すれば、次の通り。

「究極には「世界を一つの宇宙方程式に還元する」ことをよしとする人と「世界は多様であること」をよしとする人があるのであろう。(……)前者を「公理指向性」、後者を「範例〔パラダイム〕指向性」と呼んだことがある。(中井久夫『治療文化論』)

この「公理指向性」と「範例指向性」の対比を前提とするなら、まずは、例外の論理は大陸法のようなものであり、非全体の論理はイギリス法のようなものと考えたらよいはずだ。なおかつ、われわれのこうやって使っている「言語」自体が「非全体 le pas tout」であることを忘れてはならない。このことが、ラカンが「メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage」と「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre.」と言い続けたことの核心のひとつである(参照)。

…………

さて、ここでの話題(表題をめぐる)に入ることにする。

《たかだか根源的なと呼ばれる程度の問いを口にして書くことの不自由を曖昧にやり過ごすのではなく、「批評」について書きつらねられようとする言葉そのものを途方もなく希薄化し、遂には凡庸な匿名性へと埋没させてしまう力が何であるか、その機能するありさまを事件として生き》ること。(蓮實重彦『表層批判宣言』)

蓮實重彦はここで、実は「非全体の論理」を語っていると捉えうる。それは、巷間に猖獗する「例外の論理」を罵倒しつつ、である。非全体の論理とは、前回も記したように、パラ存在 para-being としてあること、横にずれてある[être à côté]ことだ。

対して、例外の論理とは、「たかだか根源的なと呼ばれる程度の」もの、物自体やら存在の深淵やら表象の不可能性やらを「向う側」に・彼岸に「神」のように設置して語る言説である(前回もみたように、ラカン派の立場からは、デリダにもメイヤスーにもその気味がある)。

人はここで、アドルノやデリダなどによるハイデガー批判の文脈での、《深遠な理念であれ、深さを誇るならすぐさまいかがわしいものと堕する》という言葉を思い起すこともできる(ジャック・デリダ「異邦人の言語」)。

(ハイデガーの)「存在者の存在の中」というような存在論とこじつけめいた語源学のたぐいは、ある肝心な事柄を見失わせる。それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ。(柄谷行人『探求 Ⅱ』ーー  「“A is A” と “A = A”」より)

さて、これらの議論は、ここのところ続けた「得体の知れないものは形式化の行き詰り以外の何ものでもない」や「「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない」などを見ていただくとして、蓮實重彦に戻ろう。

以下の文で、蓮實重彦は、大江健三郎と江藤淳の「例外の論理」(男性の論理)を批判している。

江藤氏の想像力が「海」、大江氏のそれが「森林」というイメージをほとんどロマンチックなまでに希求し、いわば、いまここにはない失われた風景としての「海」と「森林」とを背景として、「航海者」と「狩猟者」の相貌を浮きあがらせずにはいないのだから、二人の言葉の類似ぶりはただごととも思えないのだが、実はそうした類似するさして重要なものではない。真に驚くべき類似は、にもかかわらず江藤氏と大江氏とがたがいに違ったことを語っていると信じ込み、しかもその確信において、才能の点で自分たちより遥かに劣っているはずのあまたの「批評家」や「小説家」たちといともたやすく馴れあって、薄められた「貧しさ」としての「戦後文学」のうちに埋没してしまう自分に無自覚だという類似であろう。書こうとする個体の意志や欲望にさからいもなくしなだれかかり、馴致されつくしているかとみえる言葉が、実は素直さを装って気軽に存在を招き寄せ、そのしなやかな可塑的流動性によっていとも円滑に筆に乗るかとみせて人目を欺き、かえって言葉への至上権をかすめとって、その洞ろな内面に充実ぶりの錯覚をそっとまぎれこませてしまうという危険を顧みることもなく、書けば書けてしまうという事実のうちに「作家」の特権的視座が確立しうると思いこむことの類似性、それが今日の「文学」的頽廃をあたりに蔓延させているのだが、そんな頽廃を江藤氏も大江氏もまぬがれていないのだ。誰もがそれなりに二つや三つは存在の暗部に隠し持っているだろう「切実な主題」をめぐり、「文学」がたえず捏造してやまない幾つもの疑問符に言葉を妥協させ、前言語的地熱の程よい高まりが、「普遍的」かつ「現代的な課題」と折合いをつけるのを待つといった怠惰な作業が、それにしてもいつから、書くことなどと信じられてしまうようにいたったのか。(蓮實重彦「言葉の夢と「批評」」『表層批判宣言』所収)

もっとも大江健三郎はこれだけではない(例外の論理だけではない)のは、「蓮實重彦の「大江健三郎殺し」」に記した。そもそもすぐれた小説家が例外の論理(男性の論理)による書き手であるはずはない。

中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。(金井美恵子 『小説論』)

…………

かつては、不可能な享楽、不可能なリアルを強調しすぎた、とジジェクは『ジジェク自身によるジジェク』2004で語っている。

彼は最近は次のように言う、《われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。》。つまり不可能な例外にリアルはあるのではなく、非全体の論理における象徴界の非一貫性、その裂け目にリアルはある、と。それは、「現実界は分節化された象徴界の内部に外立Ex-sistenzする」(Paul Verhaeghe)ということでもある。ここで上に引用した柄谷行人の言葉を再度ならべておこう、《肝心な事柄……それは、彼らが「立った」のは、共同体の外だということだ》と。

ジジェクのいっている意味は次ぎのようなことだ。

現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためだ。というのは、現実界 the Real は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者的」重要性を与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり、よろめいたりするというだけではない。そうではなく、現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

ここにも暗黙に「外立」がある(外立の詳細については、「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」を参照のこと)。

ジジェクの上の文は、あたかも蓮實重彦のジジェク罵倒に応えているかのようである。

映画批評が存在しなければいけないという決定的な原理はなにもありません。なにごとについてもそうだといえばそれまでですが、映画批評というものが存在しなければいけないということを原理的に説明しようとすると、比較の問題としてないよりあったほうがいいんじゃないということぐらいで、絶対になければならないということは誰もいえずにいる。じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、「réel」など論じてほしくない。

 これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原=翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

 だから、「réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原=翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2


蓮實重彦は、『表象の奈落』の「あとがき」でもほとんど同じ内容をくり返している。

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)

これらの考え方は、浅田彰もはやい時期から、蓮實重彦を引用しつつ次のように記している。

……クリステヴァが差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千言万語を費しているのを後目に、デリダは初めから差異と同一性や共時態と通時態の双対性をとびこえた差延化のたわむれを語ってみせるのである。それにしても、差延化といい、パルマコンといい、hymenといい、デリダがのっけからあからさまに舞台に上せるこれらの言葉たちは、蓮實重彦が述べたように(『事件の現場』)、それを言ってしまえば何もかもおしまいだという類の言葉ではなかったろうか? 口に出して言わずにおいたまま、それに無限に漸進していく長い長い道筋を辿る方が、有効な戦略だとしたら? それは措くとしても、デリダの戦略は侵犯のエネルギーを中性化してしまうという、クリスティヴァの弱々しい批判を、簡単に黙殺するわけにはいかないだろう。ともあれ、デリダの恐るべき手がそうした言葉たちを敢えて書きつけてしまった時から、我々はそれを避けて通ることができなくなったのである。(浅田彰『構造と力』PP.97-98)

とはいえ、人は表象不可能なものや深淵を語るのが好きだ。たとえば、高橋悠治は次ぎのように書いている。これは詩の形式をとっているという理由で、〈あなた〉は許せるだろうか?

存在の夜にめざめている詩人だけが その一瞬の深淵を感じとる
だからことばは おのずから生まれる 向こうからやってくる
言語がまずあり 意味が決められている単語を組み合わせ あやつって造り上げる詩なるもの ではない
詩と同時に生まれることばでなくては 詩は世界に向かい合っていない
ゲーテの原言語よりも 原植物に近い 言語にならないことば
滝の前の歌い手は じっさいには習い覚えた歌の一節をうたっているだけだ
それは歌い手の内部ではじける滝の音の粒子である移された炎を 覆い隠している殻 残り火に内部から照らされる消し炭の白い灰
そのように ことばにひそむうごき ことばという殻の外から察知される内部の空洞

ーーー高橋悠治「声・文字・音」より

わたくしもかつてはひどい「深淵愛好家」症状をもっていたのだが・・・

さらにふたたび

ライネル・マリア・リルケ Rainer Maria Rilke 堀辰雄訳

さらにふたたび、よしや私達が愛の風景ばかりでなく、
いくつも傷ましい名前をもつた小さな墓地をも、
他の人達の死んでいつた恐ろしい沈默の深淵をも
知つてゐようと、さらにふたたび、私達は二人して
古い樹の下に出ていつて、さらにふたたび、身を横たへよう
花々のあひだに、空にむかつて。




……作品はロダンの手を離れると、全くまだ一度も人の手をふれたことのないもののようです。光と影はこの物の上では、もぎたての果実の上でのように、いっそうのやわらかさを持ち、朝風にはこばれて来たようにいっそうの動きに充ちているのです。(……)

或るところでは光はゆるやかに流れているかと思うと、或るところでは滝のように落ちており、あるいは浅く、あるいは深く、あるいは鏡のように輝くかと思えば、またにぶく淀んでいる、--きわめて変化に富んだ傾斜を持つ一種独特なこの表面によって、そういうふうに光が動きを余儀なくさせられるのです。こういう作品の一つにふれる光は、もはやただの光でいることができません、もはや偶然の方向を持つことはできないのです。物が光を所有することになり、自分のもののように使うことになるのです。

明確に決定された表面を持つことから、こういうふうに光を獲得し、わがものとすることを、彫刻的事物の本質的な性質の一つとしてロダンは再認したのです。(……)ロダンは光の獲得を自分の発展の一部とすることによって、太古からの伝統の中へ身を置いたのでした。

実際そこには、リュクサンブール美術館にある『思い』とよばれる、あの石塊の上のうつむいた顔のように、自分自身の光を持った石があります。この顔は影になるまで前に傾いて、石の白い微光の上にささえられていますが、この石の輝きのために影は融け去り、一種の透明なうすら明かりへと移って行くのです。(リルケ『ロダン』高安国世訳)

ーーかつてはこのような文章を読んでクラクラしたものだ。とはいえよく読んでみると、ここには「深淵」という言葉はない。むしろ今は《明確に決定された表面を持つことから、こういうふうに光を獲得し、わがものとすること》という表現に注目したい。

おそらく「深淵」という言葉は(すくなくとも散文にては)、次ぎのように使うべきなのだ。ここには象徴界の内部の非一貫性(非全体)において垣間見られて裂け目としての「深淵」が語られているのではないか。それはリルケの散文と同じく。

彼の演奏した曲のなかには、世界の果てに位置し、作品の内部から発せられる光に包まれていると思われるものがある。質量なき光、厚みも色もない光、われわれを待ってはいない光、人が見る以前にすでにそこにあった光だ。(この光のことを理解するには、サン=ヴィクトル学派の人々によってなされた、世俗的で苦しみをともなう光〔ルーメン〕と貧しくとも法悦をもたらす光〔ルクス〕との対比をふたたび取り上げなければならない。こうしてグールドは曲のどの部分においても無知のままに問いかける者のようにして歩む。なぜこの音が書かれているのか。この転調はどこにゆこうとしているのか。明るいタッチをここにおくならば夜はどう反応するだろうか。肯定する音楽(バッハの<組曲>を演奏しなかったわけではない。だがそのとき彼が肯定するのは、問いはなおも持続するということだったはずだ。しかも沈黙がある。この沈黙の全体、呼吸するためではなくて、誰かの息が絶えるときのように、もはや自己の内部にあるのか外部にあるのかわからないが、いきなり口をあける深淵。音それ自体があまりにも稠密な光を放っているので、音は裏側にあるくぼみの反射でしかないのではないかと思われてしまう。音たちがみずからあがなうべき影、目に見えるものと目に見えないもののあいだにある絶対的な均衡の法則にしたがって音たちが死者の国から連れてくる影。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)
グールドの場合には、なによりもヘルダーリンが望んだ表現の透明さ die Klarheit der Darstellungがある。このような透明な光は熱狂的な憑依体験の対極にあるわけではない。このような光は、静謐なものでもなければ抑制されたものでもない。それは奪い取ることであり、切開を意味するのだ。それでいてこの光は冷たく遠くにある。神的なるものの訪れは火、炎、煙の上がる光景を意味しない。グールドを訪れた神はヘルダーリンを訪れた神と同一である。ディオニュソスではない。熱狂的な暗闇の神ではない。アポロンであり、正しきもの、透明なるものなのだ。(同上)

さて〈あなた〉は、たとえばハイデガーの Abgrund[深淵]やら Zerklüftung[裂開]、Riß[断裂]、Lichtungーーー 「森林の空地 」「開存」「出存」「脱存」「脱我的実存」「存在の開け」「存在の明るみ」「存在の光」]などをどう取るだろうか。

これらはラカンが béance[裂口]、coupure[切れ目]、fente[裂け目]、refente[裂割]、division[分裂],faille[断層]、trou[穴]などの語彙群で言い換えたものだーー。

そしてこれらの中心となる概念が、ラカンのex-sistence(ハイデガーのExsistenzの訳語)やExtimité( 最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 ex に現れ、捉えがたいもの)である。

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきでしょう。(ラカン、セミネールⅩⅥ)

…………

おそらく最も大切なのは、「深淵」を安易に語ることによって、次の罠に陥っていないかどうかをつねに自問することだろう。

人がかくも熱心に言葉を取り交わしあって止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか。(浅田彰)
人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦)

2016年2月2日火曜日

「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち

《私が哲学を攻撃してるだって? そりゃひどく大袈裟だよ!》(ラカン、Seminar XVII)

…………

まず「哲学書の読み方」で引用したいくつかの文を再掲する。

ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら。(バディウ、2005)
デリダにおいて、全体化する例外の論理は、正義の公式においてその最高の表現を見いだすことができる、つまり「脱構築の脱構築されない条件indeconstructible condition of deconstruction」だ。全ては脱構築される、「脱構築の脱構築されない条件」自体以外は。たぶん、これこそが、全ての領野を暴力的に均等化する仕草だ。このようにして、全領域に対して、「例外」としての己れのポジションを形式化している。これは最も初歩的な形而上学の仕草である。(ジジェク、2012,私訳)

こうしてデリダの脱構築でさえ、例外の論理として、貶められる。

この批判、ラカンがセミネールⅩⅩにて公式化した男性の論理/女性の論理にかかわる。

男性の論理が〈例外〉を伴う〈不完全性〉の論理、女性の論理は境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の論理だ。

ラカンは、性差を構成する非一貫性を、「性差の式」にて詳述した。そこでは、男性側は、普遍的な機能とその構成要素である例外とによって定義される。そして女性側は“すべてではない”(pas‐tout)のパラドックスによって定義される(例外はなく、そしてまさにその理由によって、すべてではない、すなわち、非-全体化される)。想いだしてみよう、ウィトゲンシュタインの語り得ぬものの移りゆく地位を。前期ヴィトゲンシュタインから後期ヴィトゲンシュタインの移動(家族的類似性)とは、「すべて」(例外を基盤とした普遍的全体の領域)から、「すべてではない」(例外なしでその理由で非-普遍的、非-全体の領域)への移動である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHINGーー「“A is A” と “A = A”」)

…………

というわけで、ラカン派の観点からはほとんどの哲学者がその批判の餌食になる。いま流行りのメイヤスーも同じく。

ラカン派の立場からは「必然性は非全体である」(非一貫性の論理)だが、メイヤスーの「すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は」とは、「無神論者の神」つまり、「神がいないことを保証する神」だ、と(例外の論理)。

メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、不在の〈原因〉absent Causeの絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。それは、すべての法(則)の偶然性を保証するのだ。我々は「無神論者の神」のような何かを扱っている。つまり、「神がいないことを保証する神」を。

(これに対して)ラカンの無神論とは、(あらゆる)保証の不在、もっと正確に言えば、外的(メタ)保証の不在という無神論である。つまり支え(保証)は、それが支えるもののなかに含まれている。どんな独立した保証もない。それは、保証(あるいは絶対的なもの)がないと言っているわけではない。これが、構成的な例外という概念とは異なって、非全体(pas-tout)概念が目論むことだ。すなわち、そこでは、ひとつの論証的理論を論駁しうる。そして論証的領野内部から来る別のものを確認しうる。

(……)例外の論理・或る「全て」を全体化するメタレヴェルの論理(全ては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は)の代わりに、我々は「非全体」の論理を扱っている。ラカンの格言、それは「必然性は非全体である」と書きうるが、それは偶然性を絶対化しない。…(ジュパンチッチ、Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、2014, PDF)
……メイヤスーが、嫌味たっぷりに、いかにカント的な観念論者の「理性的形而上学」が「非合理的信念主義」にとっての空間を開くかに注目するとき、彼は奇妙にも見過ごしている、同じことが彼自身のポジションにとっても真実であることを。すなわち、相関主義 correlationism への唯物論者の「批判」もまた新しい神性 divinity を開くのではないか? (我々はメイヤスーのほとんどは未発表のテキスト--存在しない潜在的な神 inexistent virtual God をめぐるテキストーーから知るように)。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING、2012、私訳ーー「神の復活(神の死の死)」)

ーーという具合だ。

ところで、上に引用したジュパンチッチ、2014の論文が掲載されている“Lacan and philosophy : the new generation / edited by Lorenzo Chiesa”の編集者ロレンツォ・キエーザによる序論にはこうある。

もし、一方で、哲学は、m'être (私-在、私-支配)の言説を典型的に表すなら、つまり、「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的な信念の言説、もっと正確に言うなら、《m'être à moi même》(Lacan,S.17)という言説であるなら、他方で、精神分析はこの支配 mastery の古臭い存在論ーーそれは、ボククラシー[je-cratie]も同然である:ーー、《理想のボクの神話、支配するボクという神話、少なくとも何かがそれ自身、つまり話し手と一致するというボクの神話》(Lacan,S.17)--を代替すべきだとする。それは、par-être の言説への代替である。パラ存在 para-being としてある言説、横にずれてある[être à côté]言説だ。(Lorenzo Chiesa、2014) 

《m'être à moi même》とは訳しにくいのでそのままにしたが、《我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる》(S.17)言説という意味だ。 ラカンには、 petit Maître, comme « moi »(S.17) という表現もあり、つまりボククラシー(je-cratie)の言説とは、〈私〉という小さな主人を信じる言説(言表行為と言表内容の一致)がその典型例のひとつということになる。

(この je-cratie というラカン造語の意味は、デモクラシーが大衆による支配であることを想起すれば判然とする、つまり「私を支配する」ということ、「私が自らの言説の主人となる」妄想ということだ。)

このボククラシー(je-cratie)の言説とは結局、自己という共同体の言説であるだろう(自己意識と共同体的である)。

超越論的な自己は、……自己意識ではない。自己意識は、たしかに自分の属している世界をこえる。しかし、それは反省にすぎず、つまり鏡像のなかにあるにすぎない。したがって、《超越論的》であることは、たんに自己関係(自己言及)的であるのではなく、共同的なシステムに対して自己関係的であるのでなければならない。(柄谷行人『探求Ⅱ』P.178)
……誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(同『探求Ⅱ』p201-202)

このように男性の論理/女性の論理は、超越的/超越論的の対比としても捉えうる。

ここで中井久夫が、ヴィトゲンシュタインの家族的類似性を範例指向性と呼んだことを思い出しておこう。

分類には、共通項による分類のほかに、1930年代に論理哲学者ヴィトゲンシュタインが抽出した「家族類似性」という、共通項のない分類がある。(……)分類についての、個々人の基本的な構えも、各自異なる。究極には「世界を一つの宇宙方程式に還元する」ことをよしとする人と「世界は多様であること」をよしとする人があるのであろう。(……)前者を「公理指向性」、後者を「範例〔パラダイム〕指向性」と呼んだことがある。「単一精神病」論者と多数の「下位群」を抽出する人との間には心理的因子の相違がある。おそらく気質的因子もあるだろう。(中井久夫『治療文化論』)

ジュパンチッチのメイヤスー批判は、彼の「公理指向性」(あるいは「統合指向性」)姿勢批判でもある。

もとより ”統合指向性” による解決に適した問題も存在する。しかしすべての問題をこの解決法に委ねるならば事態は急速に悪夢化する。とくに、自我同一性を決定すべき思春期から青年期にかけては、個物をつねに全体との関係において多少とも一般的・抽象的に位置づける”統合指向性” が、世界の中を実践的に動きまわって実例を探り、枚挙・比較・考量する ”範例指向性paradigmatotropism” によって補完されなければ、現実原則の枠内では解決しえない問題が続々と生起し、自我同一性を危殆に瀕せしめるであろう。ここで悪夢化とは、いうまでもなく、心的事態が深淵にのぞむような不安と激越な自律神経症状を伴い、しかも三者が相互誘発的に破局的な強度にむかって一意的に進行することである。 (中井久夫「精神分裂病状態からの寛解過程」『分裂病』所収 )

さて話を元に戻せば、上の文でロレンツォが言っている「哲学的言説」とは、フロイトの決定的な文、《自我は自分の家の主人ではない“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”》(『精神分析入門』)、あるいは、フロイトの公式のラカン版“Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”(シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する)を真に受けとめていない言説ということもになる(参照:現前と再現前(表象)by Alenka Zupancic)。これらが、冒頭近くに引用したバディウの《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら。》の意味合いのひとつのはずだ。

他方、ボククラシー(ボクらしい)言説でないバラ存在論の言説とは何だろう。横にずれてある[être à côté]言説とされているように、まずこの表現からユーモアの言説を思いおこす。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)

ユーモアの言説とは横にずれること、視差(パララックス)、超越的ではなく超越論的な言説である。《超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ》(柄谷行人『探求Ⅱ』)(参照:「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)。


ここでもう一度、ロレンツォ・キエーザの序論に戻ろう。

パラ存在論とは何か? それは、なによりもまず、シニフィアン(文字としての)の偶然性と物質性、その結果として、そのシニフィアンの上に乗る言語の法の偶然性と物質性にかかわる横方向からの lateral 存在論である。

(……)パラ存在論でさえ、必然性の存在論に陥る危険はある。それは、文字の偶然性という必然性の存在論だ。だから反哲学的「悪魔払い」は…結局のところ充分ではない。

ラカンは充分にこの危険に気づいていた。たとえば、セミネールXVIIにて、彼はこう言う、《哲学によるどんなアカデミックな言明、…もしそれが哲学ならいずれにせよ、ボククラシー[je-cratie]が避けがたく出現する》。

しかしながら、ラカンは同じように気づいていた、彼もそれを避けられない事実を(同様に、彼の精神分析的言説もまた、同じレヴェルで、原支配 Ur-mastery の言説だという印象を完全には追い払いえないという事実を)。

要するに、我々はまず、哲学的存在論を m'être(私-存在)の言説として読むことを学ぶべきだ。それは、究極的に、つねにを「一」としての「世界 uni-verse(一界)」を支配しようとする挫折される試みを前提としている。したがって、その存在論に沿って、いやむしろその傍らでーー哲学的存在論と平行して動いている存在の「裏面 l'envers 」にて--、パラ存在(横にずれてあること[être à côté])を見いだすべきだ。

しかし、最も重要なのは、我々はまた、次のことを認めねばならないことだ。一方で、《言語は、哲学的言説の領野、その言説がそれ自身を繰り返して刻むたんなる領野より、その資源のなかにはるかに豊かさを証している》のだが、それにもかかわらず、「哲学的言説によって言い表されたある参照点」は存続する。《その言説は、どんな言語の使用からも完全には消去することは難しい》(S.17)から。

哲学によって支えられた伝統的な存在論は、ある程度は、超えがたいものだ。パラ存在論は、その名がはっきり示しているように、哲学的存在論を打ち負かしたり揚棄するものではない。哲学的存在論が…無意味だとして、それを除去しようとする動きを装っているのでさえない。(……)そうではなく、パラ存在論はむしろ、哲学的存在論の「全体化への欲望」を弁証する(結び目を解く unsuture)のだ。そして、文字の偶然性と物質性を指差し、その裏面 envers を暴く。……(Lorenzo Chiesa、2014) 

このようにラカン自身、みずからの言説が原支配 Ur-mastery の言説であることを怖れていたわけで、実際、そうみえないこともない。かつまた、ラカン派の連中が安易に「非全体」の論理を強調すれば、それは非全体の論理の絶対化にみえなこともない。

だが、非全体の論理とは、本来は、「知りたいという欲望」、「全体化への欲望」の結び目を解くことを促す考え方なのだ。それはユーモアの言説・視差の言説も同様だ(参照:言説の横断と愛の徴)。

おそらく、このようなことがわかってしまっている「哲学者」は、論文形式からエッセイー形式に向かおうとするだろう。

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファルス」なのである。(花輪光『ロマネスクの作家 ロラン・バルト』)

…………


参照1、ロレンツォのいっているシニフィアンの物質性をめぐっては、「純シニフィアンの物質性」を見よ。たとえば、

(身体部分への)記銘 inscription はシニフィアンの体制 order には属していない(そしてそれ故、大他者には属していない)。しかしその記銘は、ラカンが「文字」として理解しようと奮闘するなにかを通して、起こる。ここでは「使用価値」が「交換価値」よりはるかに重要である。(……)

文字は後々まで、大他者の非全体 pas-tout の内部に外立 ex-sisting し続ける。(ポール・ヴェルハーゲ、2002)

参照2、ジュパンチッチとロレンツォ両者の議論の根のひとつについては、「構造とメタ構造、現前と再現前(表象)presentation and representation とのあいだの関係性」をめぐっており、「現前と再現前(表象)by Alenka Zupancic」を見よ。


2016年2月1日月曜日

「ただ彼らは臭うんだ」

目に見えるだけではすこしも害にならない人間がいる。僕たちはそういう人間にほとんど気がつかないで、すぐにまた忘れてしまっている。しかし、そういう人間たちがどうにかして目に見えるのではなくて、耳に聞こえると、耳のなかで育ち、いわば孵化し、場合によっては、犬の鼻孔からはいりこむ肺炎菌のように、脳のなかへまで匐い入り、脳髄を食い荒らしながら成長する。

それは隣人である。

僕はひとりぼっちで漂白するようになってから、数えきれないほど多くの隣人を持った。階上の隣人、階下の隣人、右隣りの隣人、左隣りの隣人、あるいは、この種類の隣人を同時に持ったこともある。僕は隣人の物語が書けそうである。大著述になるだろう。、むろんそれは僕が隣人に悩まされた神経衰弱の物語になるだろう。隣人はそのたぐいの生物と同じく、僕たちのある組織内に生じさせる障害によってのみ存在を感じさせるのが特徴である。(リルケ『マルテの手記』)




たぶん、下層階級と中流階級とのあいだの鍵となる相違は、臭いにかかわる。中流階級の人びとにとって、下層階級は臭う。彼らは規則正しく身体を洗わない。あるいは中流階級のパリジャンのおなじみの応答を引用するならこうだ。彼らは地下鉄の一等車に乗るのを好むのはなぜだ、と問われ、「私は二等車に労働者と一緒に乗るのを気にしないよ、でもただ彼らは臭うんだ」。

これが教えてくれるのは、現在、隣人とは何を意味するかの「定義」のひとつだ。「隣人」は臭う者と定義できる。これが、今日、脱臭剤や石鹸が重要な理由だ。それは隣人を最低限は我慢できるものにする。私は隣人を愛する用意がある…もし彼らがひどく臭わなかったら。(……)

ラカンは、フロイトの部分対象のリスト(乳房、糞便、ペニス)を補った、声と眼差しという二つの対象をつけ加えることによって。我々は、たぶん、このシリーズにもう一つ加えるべきだろう、すなわち臭いを。(Tolerance as an Ideological Category 、Autumn 2007、Slavoj Zizek


※メトロの一等車/二等車は最近廃止されたという情報もあるが、詳しいことは知らない。





声:   もうすこしシズカにしていただけませんか?
眼差し:そんなにジロジロみないでくださる?

ーーあ、ごめんなさい!


臭い:その臭いなんとかなりません?

ーー(冷汗がでてさらに臭くなる……)

生物が、外部環境を識別するために発達させた感覚機能には、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の 5つがあります。いわゆる「五感」です。そのなかであえて順位をつけると、生物学的に一番重要だと考えられる感覚は嗅覚です。その理由として、まず「こちらからコンタクトしなくてもその存在が確認できる」という点があげられます。たとえば視覚であれば、対象物が自分の視野に入ってはじめて認識することができます。味覚の場合は、対象物を口に入れる、というこちらからの積極的なコンタクトが必要になります。しかし嗅覚はどうでしょう。嗅覚は、相手が見えなくても、接触しなくても、そのにおい物質が空気中を拡散して伝われば、その存在を認知できるシステムになっています。(福岡伸一「生物の進化と“ におい ”の関係」


ところでフランス人とイタリア人の体臭はどちらが強いだろうか?

ーーふつうは調理にバターを使う国のほうが、オリーヴ油を使う国のほうが臭いはずだよ


世界には、ニュックマム人種とショウユ人種の体臭の違いってのもあるしな(ニュックマム種族というのは、じつにみごとな美女でも腋臭がときにあらあらしい野生のにおいがするよ、ーーどんなときだかは言わないでおくが・・・)




「他者」に関して、われわれの神経を逆撫でし、苛々させるのは、他者がその享楽を作り上げるその(こちらからみると)奇怪なやり方である(食べ物の臭い、「騒がしい」歌や踊り、風変わりな身振り、仕事に対するおかしな姿勢、等々。(ジジェク『斜めから見る』1991)
…… エイリアンたちはまったく人間にそっくりに見えるし、人間そっくりの行動をするのだが、ちょっとした細部(眼がおかしなふうに光るとか、指の間や耳と頭部の間に皮膚が余分についているとか)から彼らの正体がばれる。そのような細部がラカンのいう対象aである。些細な特徴がその持ち主を魔法のようにエイリアンに変身させてしまう。( ……)ここでは人間とエイリアンとの違いは最小限で、ほとんど気づかないほどだ。日常的な人種差別においても、これと同じことが起きているのではなかろうか。われわれいわゆる西洋人は、ユダヤ人、アラブ人、その他の東洋人を受け入れる心構えができているにもかかわらず、われわれには彼らのちょっとした細部が気になる。ある言葉のアクセントとか、金の数え方、笑い方など。彼らがどんなに苦労してわれわれと同じように行動しても、そうした些細な特徴が彼らをたちまちエイリアンにしてしまう。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

ーーというわけで、「正しい」反人種差別主義者になるためには、修業がいるぜ
まずは臭いに不感症にならないとな

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』