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2016年7月30日土曜日

「恋愛のみだらさ L'obscène de l'amour 」

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)。

ニーチェの『反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung』は、仏語訳では旧訳が Considérations intempestivesで新訳は Considéra tions inactuelles となっている。

後者は、非アクチュアル的考察ということになる。

ドゥルーズは何度か、『反時代的考察』から引用しているが、たとえばその邦訳は次の如し。

能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」宇野邦一訳)

ところでサドは、時代に逆らって行動した作家だった。


作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

サドはサドの時代に逆らって、当時にとっては「淫らなこと」を模範的な文体で書いた。

彼女は裸同然でわたしたちのそばに座っていました。彼女の見事な胸はほぼわたしたちの顔の高さにあって、彼女はそれをわたしたちに接吻させて面白がっておりました。彼女はわたしたちをじろじろと観察して、それからわたしたちの血に染まった受け皿を見ていました。わたしたちはまずクリトリスを、次に、玉門と尻の穴を手をかえ品をかえていじくりまわされました。わたしたちはこれら体の孔を両方ともクンニリングスされたのです。その後、わたしたちの両足を紐で結び直して持ち上げ、それを宙で支えると、まあだいたい人並みの男根が代わるがわるわたしたちの玉門と尻のなかに挿入されたのです。(サド『ジュリエット』)

だが我々の時代の「淫らなこと」とは何だろう。

1977年に出版されたロラン・バルトの「恋愛のみだらさ L'obscène de l'amour 」の項にはこうある。

・歴史的転倒。今や下品とされるものは性的なものではない。実際にはそれもまた別の道徳にほかならぬものによって非難された感傷性 la sentimentalité こそが、下品なのである。

・あらゆる侵犯行為に対して社会が課す税金は、今日、セックスよりはむしろ情愛の方に重い。Xが性生活について「深刻な問題」をかかえているのであれば、誰もが理解を示してくれるだろう。しかし、Yがその感傷的情熱についてかかえている問題には、誰ひとり関心をもとうとしない。恋愛がみだらなのは、それが、セックスのかわりに感傷をおこうとするからである。

・「わたしたち二人」――雑誌のタイトルーーは、サドにもましてみだらである。

・現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。恋愛主体はこの感傷性を、わが身ひとりを衆人環視の中にさらすたぐいの、強度な侵犯行為として引き受けざるをえなくなっている。つまり、ある種の価値転倒により、今日では、この感傷性こそが恋愛のみだらさをなしているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)


感傷性 la sentimentalité を記すことが「みだらなこと」だ、サドのように書くことよりも「わたしたち二人」を書くことが、より猥褻だ。1977年当時よりも現代ではますますそうではないだろうか、「非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動する」ために「わたしたち二人」を書かなければならぬ・・・

ロラン・バルトの文は、思いがけなくも、ジジェクの次の文とともに読める。


(現在のわれわれの)状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意することだ。われわれは、これまで以上に、ヴァルター・ベンヤミンが遺してくれた注意事項を心に留めなければならない。その注意事項とは、ある理論(あるいは芸術)が社会闘争に関わる自分の立ち位置をどのように決定するかを訊ねるだけでは不十分であり、それが闘争においてどのようなアクチュアルな機能を発揮しているかもまた問われねばならない、というものである。 例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交であり、また芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』)

ーーとネット上で拾ったのだが、ジジェクの翻訳の多くは誤訳がないかどうか確かめねばならない・・・みなさんドウゾたしかめてください・・・

one should be especially careful not to confuse the ruling ideology with ideology which SEEMS to dominate. More then ever, one should bear in mind Walter Benjamin’s reminder that it is not enough to ask how a certain theory (or art) declares itself to stay with regard to social struggles — one should also ask how it effectively functions IN these very struggles. In sex, the effectively hegemonic attitude is not patriarchal repression, but free promiscuity; in art, provocations in the style of the notorious “Sensation” exhibitions ARE the norm, the example of the art fully integrated into the establishment.

さて、サドの淫らさは、家父長的抑圧が支配的イデオロギーであったときには、反体制として機能した。

サド的淫蕩/家父長的抑圧
 ------------
   家父長的抑圧

だが、現在では家父長的抑圧は「支配しているように見えるイデオロギー」に過ぎず、実際は、自由な乱交が「支配的イデオロギー」である。「歴史的転倒」があったのだ。

すなわち、

侵犯行為/支配的イデオロギー
--------------
支配的イデオロギー(自由乱交)

という形に母胎に自由乱交がある時代の侵犯行為とは何か?

感傷性/自由な乱交
-----------
  自由な乱交

感傷性がこの時代の侵犯行為である。

感傷性が、《非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動すること》である。

乱交やらサドマゾやら変態やらでは、この現代では、「支配的思想=支配階級の思想」(柄谷行人)の範疇に属する・・・それは、「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家ども」の振舞いである。


セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の違反に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である(それだけが残存する唯一の倒錯形式ではないにしろ)。実際、25年前の神経症社会と比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。

この変貌の下で、我々は性的な楽しみの大いなる増加を期待した。それは「自然な」セクシャリティと「自然な」ジェンダーアイデンティティの高揚の組み合わせによって、である。その意味は、文化的かつ宗教的制約に邪魔されない性の横溢だ。ところがその代わりに、我々は全く異なった何かに直面している。もっとも、個人のレヴェルでは、性的楽しみの増大はたぶんある。それにもかかわらず、より大きな規模では、抑鬱性の社会に直面している。さらに、ジェンダーアイデンティティの問題は今ほど混乱したことはなかった。Paul Verhaeghe, (2005). Sexuality in the Formation of the Subject、私訳 ーーセックス戦争における最大の犠牲者たち

少なくとも、セクシャリティの領野で反時代的に振舞いたければ、幼児性愛と性的暴力を記さねばならぬ・・・

だがそれ以上に反時代的なのは、「わたしたち二人」である。

「わたしたち二人」とともに幼児性愛を書いたナボコフはなんと偉大だろう!

しかしあのときのミモザの茂み、靄に包まれた星、疼き、炎、蜜のしたたり、そして痛みは記憶に残り、浜辺での肢体と情熱的な舌のあの少女はそれからずっと私に取り憑いて離れなかった──その呪文がついに解けたのは、二四年後になって、アナベルが別の少女に転生したときのことである。(ナボコフ『ロリータ』)


見よ、谷川俊太郎の詩集『女に』1991における「わたしたち二人」は、なんと淫らなことだろう・・・




声はまわり道をした
あなたを呼ぶ前に声は沈んでゆく夕陽を呼んだ
森を呼んだ 海を呼んだ ひとの名を呼んだ
けれどいま私は知っている
戻ってきた谺はすべてあなたの声だったのだと



ーーというわけだが、どこかに論理的なあやまりはないだろうか・・・




2016年7月29日金曜日

「内面」とは言語の結果である

現実界は、形式化の袋小路においてのみ記される。[…le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation](ラカン、セミネール20)

→《現実界とは、象徴化あるいは形式化の行き詰まり以外の何ものでもない。》(ジジェク、2016(Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge)

主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

…………

以下、備忘。

このところ柄谷行人によるマルクスの「価値形態論」をめぐる叙述を追っているのだが、上に記したようなラカン派的態度ーーもちろんラカン派だけではないーーと同様な考え方を取っていることに関しては、柄谷行人は一貫している。

いったい私たちはなぜ「書く」のか。「話す」ことによっては、もはやいい足りぬ何かをもつからだ。それこそ、ひとが「内面」とよぶものである。このような「内面」を、文字をもたぬ子供はもたない。「内面」そのものが、文字の結果なのだ。にもかかわらず、文字があたかも「内面」からもっとも疎遠なものであるかのようにひとは考える。その理由は、文字が音声的文字であり、たんに音声を表記しただけのようにみなされるところにある。それゆえに、われわれは、貨幣=音声的文字を、「内部」つまり商品に内在的な価値からではなく、マルクスのいう象形文字としての価値形態から考えねばならない。超越論的な意味や価値を表示するために文字が発明されたのではなく、文字が逆にそれをもたらしたのだ。そしてそのこと自体、貨幣=音声的文字の確立の結果である「意識」にとっておおいかくされる。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978 p.47)

この文の細部にはーーわたくしのやや偏った見方?ではーーいくらかの齟齬感をおぼえるが、つまり「書く」と「話す」の区別をしないでもこう言え、もし「書く」/「話す」とするなら、シニフィアン/記号とすべきではないかとは思うが、核心箇所には異和はない、《「内面」そのものが、文字の結果なのだ》。

シニフィアン/記号のラカンの観点は次の通り。

シニフィアン signifiant は記号 signe とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(ラカン、セミネールⅨ「同一化」ーー犬と人間(記号とシニフィアン)

そして、柄谷行人が『探求Ⅰ』1986で、次のように書いたとき、上の1978年の書の記述にかすかにあった異和は消え去る。

ここで、混乱をさけるために、「話す」と「聞く」、あるいは「書く」と「読む」といったいいまわしに注意しておこう。すでにいったように、われわれは、話すとき、それを自ら聞いている。「話す主体」は「聞く主体」なのであり、そこに一瞬の“遅延”がおおいかくされている。

ウィトゲンシュタインは、「動物は考えないから、話さないのではない、たんに話さないのだ」といった。逆にいえば、人間は考えがあるから話すのではなく、たんに話すのである。ロラン・バルトは、「書く」という動詞は他動詞ではなく、自動詞だといったが、「話す」という動詞も同様である。つまり、ひとは何か考えを話すのではなく、たんに話すのだ(たとえば、幼児は“意味もなく”たんにしゃべる)。だが、それをわれわれ自身が聞くとき、その言葉が何かを意味していると思うのみならず、まるで前もってそのような「意味」が内的にあったかのように思いこむ。

デリダが、明証性を「自分が話すのを聞く」ことにあり、そこで“差延”が隠蔽されるのだというのは、いわばこのことである。結局「話す」立場に立つというとき、われわれは実際は「聞く」立場に立ってしまっている。私が「教える」立場という言葉を用いるのは、そのためであって、それは「話す=聞く」立場とまったく異なる。

ところで、このことは、「書く=読む」立場についてもそのまま妥当する。デリダの「音声中心主義」への批判は、まるで書くことや読むことの優位性を意味するかのように受けとられている。しかし、「書く」ことや「読む」ことが、純粋に存在することなどありはしない。

たとえば、われわれは一語あるいは一行書いたそのつど、それを読んでいる。書き手こそ読み手なのだ。そして、書き手の“意識”においては、この“遅延”は消されてしまっている。実際はこうだ。われわれは、一語または一行書くとき、それが思いもよらぬ方向にわれわれを運ぶのを感じ、事実運ばれながら、たえずそれをわれわれ自身の「意図」として回収するのである。書き終わったあとで、書き手は、自分はまさにこういうことを書いたのだと考える。

このような錯誤は、語られ書かれることを、われわれ自身が聞き読んでしまうということに存する。ここでは、他者とはわれわれ自身であり、したがって《他者》ではない。そして、語られ書かれることが、他者にとってはたして「意味している」かどうかは、すこしも疑われない。だが、他者が、あなたは、語り書く以前あるいは過程で、内的にべつのことを意味していたはずだと主張するとき、われわれにはそうではないと証明するすべはない。

このことは、しかし、テクストを「読む」者の、優位性あるいは創造性を意味するわけではない。読む者は、自らの読解を示したければ「書く」ほかない。そうでなければ、彼の読解は「私的言語」にすぎないからだ。そして、彼が「書く」とき、先にのべた過程をたどるほかないのである。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986,PP.27-28)

その後、たとえばこう言う。

ハイデガーが「存在者と存在の差異」というのは、たんに文法的にいえば、概念になりうるものと、概念になりえないのみならず、あらゆる概念(主語と述語の位置におかれる)をつなぎ支えるものとの差異である。(柄谷行人「非デカルト的コギト」『ヒューモアとしての唯物論』1993,p.91ーー“A is A” と “A = A”

そして、2001年の書で、カントに依拠しつつ、こう言い放つことになる。

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

これらは、ヴァレリー主義者、マルクス主義者ーー主義者という言葉は語弊があるかもしれないがーーとしての一貫性であろう。

作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の〈神秘的〉性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。マルクス像についても同様のことがいいうる。”真のマルクス”などというものはありはしないのである。

読むことは作者を変形する。ここでは”真の理解”というものはありえないので、もしありえたとすれば、いわば歴史というものが完結してしまう。ヘーゲルの美学がその歴史哲学と同様に、”真の理解”によって完結してしまうのはそのためだ。それは、作品というテクストが、作者の意識にとっても読者の意識にとってものりこえられず還元もできない不透明さをもって自立するということをみないからである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』pp.79-80)

 ※ヴァレリー自身がどう言っているかについては、「芸術作品とフェティシズム Fetischismus」を参照のこと。


……マルクスは貨幣と商品の関係をつぎのようにいっている。

《ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている。》(「資本論」)

王(貨幣)は、超越論的なものであるがゆえに王(貨幣)であるかにみえるが、逆にその超越性は諸党派(諸商品)の差異(関係)の消去によって可能なのだ。「価値形態論」における難解な論点は、ボナパルトという一党派が王位につく秘密にすでに示されている。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』p.99)
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。それは、「人間と人間の関係が物と物と物の関係としてあらわれる」とか、関係が実体化されることを意味するのではない。(……)

くりかえしていえば、マルクスは、価値形態、交換関係の非対称性が経済学において隠蔽されていることを、指摘したのである。同じことが、言語学についてもいえるだろう。それは、いわば、教えるー学ぶ関係の非対称性を隠蔽している。非対称的な関係を隠蔽するということは、関係を、あるいは他者を排除することと同じである。それゆえに、言語学は、ヤコブソンがそうであるように、古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』P.17)


「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」は、虚構である。古典経済学(アダム・スミスに代表される)は、この虚構の上の理論である。それはほとんどの哲学も同様である。実際は、「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)’」なのであり、これが前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインの移行であり、ラカンの例外の論理から非全体の論理への移行である。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述化した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ー 「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのの捏造


これをマルクスの図式、C–M–C(商品–貨幣–商品) M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])に則って記されたものが、「快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir」におけるジジェク、2016の文である。

唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)

ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。

《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)ーー(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)

前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインの移行、あるいはラカンの例外の論理から非全体の論理への移行とは、マルクスの貨幣のフェティシズムから商品のフェティシズムへの遡行と等価である。

マルクスによる価値形態論は、古典経済学が「高慢に冷笑し」去った、貨幣の呪物崇拝(フェティシズム)を再び正面から見さだめようとする企てである。なぜなら、この呪物崇拝こそ、古典経済学が無視しているにもかかわらず、資本主義の原動力として存続しつづけているからだ。したがって、価値形態論が、貨幣の呪物崇拝を否定しているかのようにみえても、それはけっして啓蒙主義的な批判ではなく、むしろ啓蒙主義=古典経済学への批判なのである。すなわち交換に合理的な根拠があるという考えへの批判にほかならない。

マルクスは、古典経済学が冷笑した“幻想”をこそ重視したのである。価値形態をとりだすということは、価値尺度や流通手段にとどまらないような呪物としての貨幣をとりだすことであり、あるいは交換の非合理性(無根拠性)をとりだすことである。だが、この解明が、貨幣のフェティシズムから商品のフェティシズムのレベルに遡行されてなされるとき、それがもはやいかなる意味でも啓蒙主義的でありえないことに注意すべきであろう。それは、“幻想”を批判しうるような合理的立場にいたるのではなく、商品であれ言語であれ、交換という行為にともなう“悲劇的”な条件を照らし出すことになるからである。(柄谷行人『探求』pp.91-92)


実際、柄谷行人はジジェクが2012年の書で「家族的類似性」について言ったのと同じことを、1986年にマルクスの価値形態論に依拠しつつ、既に言ってしまっている。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランスと同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。(註2) この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』PP.69-70)
(註 2) マルクスがいう「社会的関係の隠蔽」は、一般に、物象化として、すなわち本来関係的なものが実体化されることとして理解されている。そんなことなら、マルクスでなくても他の人でもいえるだろう。さらに、たとえば、言語にかんして、それが、本来差異的な関係体系(分節化)なのに、物象化されて、世界が“実体的に”そうであるかのようにいられるというたぐいの批判も、それと同じことである(丸山圭三郎)。

ここから一つの“根源的な”批判と治療法が提起されてしまう。だが、それらの理論こそ“社会性”の隠蔽である。われわれは、遡行すべき、共同主観的世界も、分節化をこえた連続的・カオス的世界ももたない。それらは、言語ゲームの外部にあるがゆえに無意味であるか、またはそれ自体言語ゲームの一部にすぎない。それらはたんに物語として機能する。

さらに柄谷行人を続ける。

ソシュールが、言語をシニフィアンとシニフィエの結合としてみたことは、それを意味(概念)と記号(音声)の結合としてとらえるならば、すこしも新しくない。実際に彼がめざしたのは“意味”が積極的なものとしてあるかのような考えを否定することである。そのために、彼は価値という考えをもちこんでいる。

《価値という語をめぐってわれわれがのべたことは、次の原理を措定することにもいいかえることができる。すなわち、言語の中には(つまり一言語状態の中には)差異しかない。差異というと、われわれは差異がその間に樹立される積極的な(ポジティヴ)な辞項を想起しがちである。しかし、言語の中には積極的な辞項をもたない差異しかない、という逆説である。そこにこそ、逆説的真理があるのだ。》(「一般言語学講義」)

だが、誰でも自国語のなかで考えているかぎり、意味が積極的に在るという実感をぬぐい去ることはできない。事実、現象学はこの明証性から出発するのである。ところが、右のような認識は、それを拒否するところからしか生じない。ソシュールは、意味が価値から派生するものでしかないことをいいたかったのだ。マルクスの用語にいいかえると、ソシュールのいう意味は、価値に対応し、価値は価値形態に対応している。価値の概念をもちこんだとき、ソシュールは、いわば言語学に価値形態をもちこんだということができるかもしれない。(『探求Ⅰ』PP.19-20)


そして柄谷行人にとってのヴァレリーやマルクスの向うには、きっと小林秀雄がいる。

マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふるまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。

《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」)

むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。くまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』p.24)

小林秀雄の「様々なる意匠」から、もういくらか抜き出しておこう。

吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。
脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)

1929年、すなわち小林秀雄27歳の論である。

柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』は 1978年出版だが、マルクス論自体は『群像』1974-1975に発表されている。33-34歳時に書かれたことになる。

彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」『小林秀雄をこえて』1979所収)

蓮實重彦が小林秀雄批判をしたのは、『表層批評宣言』、1979だが、その前に『展望』か『現代思想』かに発表されている。

……つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではない環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりしまい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批評宣言』所収)

もっとも柄谷行人ものちにーー蓮實重彦との対談でーー次のような発言をしている。

柄谷行人) 小林秀雄の有名な言葉で、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」というのがある。しかし「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない(笑)。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない。とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね。「美はひとを沈黙させる」なんてことも、書くべきではない。(『闘争のエチカ』1988)

…………

冒頭近くに掲げた次の文をもういくらか補足しておこう。


《主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。》(ジジェク、2012)

ラカンは、フロイトの Ich-Spaltung(自我の分割)概念ーーフロイトによって、フェティシズムと精神病の病理的領域に限られた概念--をすべての主体に拡張した。それは、まさに言表内容の主体と言表行為の主体とのあいだの言語学的区別に言及することによって、である。主体は、《彼が話す限りにおいてのみ主体となるという理由で que le sujet subit de n'être sujet qu'en tant qu'il parle》(E.634)、分裂(分割 Spaltung)をこうむる。

話すことにおいて、そして話すために、主体はけっして十全に自分自身を現しえない。それは、言表内容のなかに現れないのではなく、言表行為によって前提とされ喚起されるものによる(言語の法等々)。(ロレンツォ・キエーザ,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDF)。
父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)

幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。( 同上、ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、2007)

たとえば、乳幼児は、「寒い、温めて!」と喃語で要求したのに、母はお腹が減ったと誤解釈する。

この観点はラカン派ではほぼ一貫しているはず。たとえば臨床家でもあるヴェルハーゲの文。

乳幼児はおそらく、最初の内的欲動を周辺的な何かとして経験する。どんな場合でも、それは〈他者〉の現前を通してのみ消滅する。〈他者〉の不在は、内的緊張の継続の原因と見なされる。しかし、この〈他者〉が現前して、言葉と行動で応答してさえ、この応答は決して充分ではありえない。というのは、〈他者〉は継続的に子どもの泣き叫びを解釈せねばならず、この解釈と緊張とのあいだの完全な一致は決してありえないから。この点において、我々はアイデンティティ形成の中心的要素に遭遇する。すなわち、欠如・欲動の緊張への十全な応答の不可能…。要求ーーそれを通して子どもが欲求を表現する要求は、残滓が居残ったままだ。その意味は、〈他者〉の要求解釈は決して元来の欲求と一致しないということである。〈他者〉の不十分性は、内的にうまくいかないことの責めを負わされる、常に最初のものであるように見える。(ヴェルハーゲ、Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004)

人はこのように「言語」を使用することによって、「疎外」される。

主体の最も深刻な疎外は、主体が我々に彼自身について話し始めたときに、起こる。[Car c'est là l'aliénation la plus profonde du sujet de la civilisation scientifique ele sujet commence à nous parler de lui ](Lacan,Ecrits, 28ーー岩井克人版「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」)

「言い得ぬもの」は、象徴界(快原理)の彼岸にあるのではなく、言語固有のものである。こうして、$(分割された主体の空虚)は、《「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」》だ、と語られることになる。これは言語を使用する人間の宿命ということになる。


最後に、柄谷行人1978の《「内面」そのものが、文字の結果なのだ》という文を、次の文と「ともに」読んでおこう(L'effet du langageを「言語の効果」と訳したが、もちろんそれは「言語の結果」と等しい)。

言語の効果は遡及的である。まさにそれが展開すればする程、いっそうーー厳密に言ってーー存在欠如を顕す。L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.(ラカン、セミネール17、1969-1970)

ーー言語の効果は遡及的である。われわれは話せば話すほど、「内面」が現われる。

2016年7月28日木曜日

快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir

私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.](ラカン、セミネール11)

…………

《あなたは私自身の内部よりもなお内部だった。[tu autem eras interior intimo meo]》(アウグスティヌス『告白』3.6.11)

私は長い沈黙のうちに瞑想にふけりました。人間は愚かにも、みずからのもっとも高貴な部分をなおざりにして、さまざまなことに気を散らし、むなしい眺めにわれを忘れては、内部にこそ見いだせるはずのものを外にもとめているのだと(ペトラルカ「『自然と人間との再発見』)

《神は自己の外部に求められるべきではない。なぜなら、神はすでに「内部」のそこにいるから。神は、私が私自身である以上に私にとって永遠に親密なものである。私自身の「外部」にあるのは「私」なのである。内部の神が、探求を開始し・動機づけ・道案内をする。したがって、その場のなかに神は見出される。》(Denys Turner,The Darkness of God: Negativity in Christian Mysticism)

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、 サントーム)

これらはーーわたくしの知る限りでのラカン派解釈においてはーー、すべて対象aにかかわる。

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語「 extime (外密).」である。それは主体自身の、実に最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 e xに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー防衛と異物 Fremdkörper

…………

対象a という語は、ーーその内実が理解されないままーー用語そのものとしては、いささか流通しすぎて、陳腐化したり手垢がつきすぎている。(主に)「剰余享楽」としたらよいのではないだろうか(そうすれば、マルクスの剰余価値への依拠がおそらく少しは高まるだろう)。


◆ポール・ヴェルハーゲ.Enjoyment and Impossibility,2006より

享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの徴 unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの徴 unary trait とシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。

この考え方は、セミネールXVIIを通して、異なった名のもとに現れる、「対象a(objet a)」 、「喪失(déperdition)」、「エントロピー(entropy)」、 「剰余享楽(plus-de-jouir)」 。しかしながら、シニフィアンもまた喪失の原因である。すなわち、主体と有機体としての身体のあいだの分割の原因である。それゆえ、享楽を獲得する手段としてのシニフィアンは、必然的に失敗しなければならない。そしてこの失敗において、原初の喪失がなおいっそう確認される。ここで、我々は二番目の曖昧な関係に遭遇する。知、それがいったんシニフィアンに導入されたものとしての知は、享楽への手段でもあり、かつ享楽の喪失の原因なのだ。ヴェルハーゲ、2006,ーー「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)



◆ジジェク、2016(Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge)より

ヒッチコックは、トリュフォーとの会話で、『北北西に進路を取れ』に挿入したかった濃縮された場面を想い起こしている。この場面はけっして撮影されなかった。というのは疑いもなく、彼の作品の基本母胎をあまりにも直に示してしまうからだ。そんなことをしたら、実際の映像は下品な効果を生んでしまう。

《私は、ケリー・グラントと工場の労働者の一人とのあいだの長い対話をいれたかった。そう、フォード自動車工場でね。二人は組み立てラインを歩いているんだ。彼らの向こうには一台の車が少しづつ組み立てられていく。最後に、二人が見ている車は、シンプルにボルトをナットにねじ込んで完成する。さて、ガスとオイルを入れて、ラインから脱け出すすべての準備は完了だ。二人の男はたがいに見つめあい言うんだ、「すばらしいじゃないか!」と。そうして彼らは車のドアを開ける。すると死体が転げ落ちる。》

我々がこのロング・ショットのなかで見るものは、生産過程の基本的ユニットだ。そのとき、どこからともなく nowhere 生み出されて謎のように転げ落ちる死体は、剰余価値ーー生産過程を通して「無から our of nowhere」生み出される剰余価値ーーの完璧な代理物ではないだろうか? この死体は、最も純粋に剰余対象、主体に対する対象的 objectal 相対物、主体の活動の剰余産物である。この剰余には三つの形式がある。剰余価値、剰余享楽、そして(しばしば無視されている)剰余知識だ。これらは、ラカンが対象a と呼んだもの、欲望の対象-原因の外観のすべての形式である。

 以下に、フロイトの Lustgewinn という用語が出現するが、ラカン自身、Lustgewinnとは、plus-de-jouirのことだと言っている(セミネール21、後引用)。

対象a は、ラカンの教えにおいて、長い歴史がある。マルクスの『資本論』における商品分析への体系的依拠よりも10年以上先行している。しかし疑いもなく、このマルクスへの言及、とくに剰余価値 Mehrwert 概念への参照は、剰余享楽(plus-de-jouir, Mehrlust)としての対象a 概念を「成熟」させた。

ラカンによるマルクスの商品分析へのすべての参照に浸みわたる支配的モティーフは、マルクスの剰余価値とラカンが名付けた剰余享楽とのあいだの構造的相同性である。剰余享楽は、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだ現象であり、それは、快に単純に駆け上ることを意味しない。そうではなく、快を得ようとする主体の努力のなかで、まさに形式的迂回路によって提供される付加的な快である。

(……)リビドー経済において、反復強迫の倒錯行為に煩わされない「純粋な」快原理はない。倒錯行為とは、快原理の観点からは説明されえない。同様に、商品の交換の領野において、別の商品を買うために商品を貨幣に交換するという直接的な閉じられた循環はない。もっと多くの貨幣を得るために商品を売買する倒錯的論理によって蝕まれていないような循環はないのだ。この論理においては、貨幣はもはや単なる商品交換のための媒体ではなく、それ自体が目的となる。

唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)

ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。

《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)

「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作用する。人は目的地を見失い、人は動作を繰り返す。何度も何度も試みる。本当の目標は、もはや目指された目的地ではなく、そこに到ろうとする試みの反復動作自体である。形式と内容の用語でもまた言いうる。「形式」は、欲望された内容に接近する様式を表す。すなわち、欲望された内容(対象)は、快を提供することを約束する一方で、剰余享楽は、目的地を追求することのまさに形式(手順)である。

口唇欲動がいかに機能するかの古典的事例がある。乳房を吸うという目的は、母乳によって満たされることである。リビドー的獲得は、吸啜の反復性動作によってもたらされ、したがってそれ自体が目的となる。

(……)Lustgewinn(快の獲得)の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快の断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は、抑圧の欲望へと反転、等々。すべての事例において、獲得は「パフォーマティヴな」レベルで発生する。すなわち、目的地に到達することではなく、目的地に向かっての動作の、まさにパフォーマンスによって生み出される。(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)


フロイトの著作においては、おそらく1908年にはじめて Lustgewinn という語が現われるが、以下は最晩年の著作においての簡潔な叙述。

まずはじめに口 der Mund が,性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける.精神の活動はさしあたり,その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される.これは当然,第1に栄養による自己保存にやくだつ.しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない.早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている.これは――栄養摂取に由来し,それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである.ゆえにそれは‘性的 sexuell’と名づけることができるし,またそうすべきものである.(Freud,S.1940 "Abriss der Psychoanalyse" 「精神分析学概説」


◆ラカンによるフロイトのLustgewinnへの言及(セミネール21)

…un but utile, c'est : - ou ça qu'elles anstreben, qu'elles attirent - ou bien …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir,

à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».

Car qu'est-ce que ça veut dire un Lustgewinn ? Un gain de Lust. Si là l'ambiguïté de ce terme Lust en allemand, n'est-ce pas, ne permet pas d'introduire dans le Lustprinzip… traduit principe du plaisir …justement cette formidable divergence qu'il y a entre la notion du plaisir telle qu'elle est commentée par FREUD lui-même selon la traduction antique, seule issue de la sagesse épicurienne, ce qui voulait dire « jouir le moins possible ».


2016年7月27日水曜日

芸術作品とフェティシズム Fetischismus

昨晩、読み返しよ(少しばかり)、『資本論』をね‼ ぼくはあれを読んだ数少ない人間の1人だ。ジョレス〔当時代表的な社会主義者〕自身は--(読んでいないように見える)。(…)『資本論』といえば、この分厚い本はきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさえすればいい。これはかなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、無益にやたらと衒学的であったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが言いたいのは、物事をとらえる際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ているということであり、彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。対象の違いは重要ではない。それに結局をいえば、対象は同じなんだから!(ヴァレリー、1918年5月11日、ジッド宛書簡、山田広昭訳)

…………

要するに、芸術作品とは一個の対象物(オブジェ)であり、ある個人たちにある種の働きかけを行おうとしてつくられた、人間による制作物であります。個々の作品とは、あるい言葉の物質的な意味における物体(オブジェ)であり、あるいは、舞踊や演劇のように行為の連鎖であり、あるいは―――音楽がそうなのですが―――同じく行為によって産出される継起的印象の合計であります。こうした対象物を起点とする分析によって、私たちは、私たちの芸術概念を明確にしようと試みることができます。こうした対象物こそ、私たちの探求の確実な要素にほかならぬと見なしうるものなのです。こうした対象物を考察することによって、そしてまた、一方ではそれらの作者へと遡行し、他方ではそれらが感動作用を及ぼす人間へと遡行することによって、私たちは、〈芸術〉という現象がふたつのそれぞれ完全に区別されて変形されうるということを見出すのです(それは経済学において生産と消費のあいだに存在する関係と同じ関係であります)。

きわめて重要なのは、これらふたつの変形作用――作者からはじまって製造された物体における変形作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変形作用――が、相互に完全に独立しているということです。その結果として、このふたつの変形作用は、それぞれべつべつに考えられるべきである、ということになります。

みなさま方は、作者、作品、観客あるいは聴き手という三つの項を登場させて命題をお立てになる。しかし、この三つの項を統合するような観察の機会は、けっしてみなさま方のまえにあらわれないだろうという意味で、そういう命題はすべて無意味な命題なのです。(……)

……私の辿りつく点というのはこうです。―――芸術という価値は(この言葉を使うのは、結局のところ私たちが価値の問題を研究しつつあるからですが)この価値は本質的に、いま申したふたつの領域(作者と作品、作品と観察者)の同一視不能、生産者と消費者のあいだに介在項を置かねばならぬというあの必然性に従属しているということです。重要なのは、生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬということなのです。(……)

芸術家と他者(読者)このふたりの内部にそれぞれなにが起こったか、それを厳密に比較するための方法など、絶対にいつになっても存在しないでありましょう。そればかりではありません。もし、一方の内部で起こったことが他方に直接的に伝達されるのだとすれば、芸術全体が崩壊するでありましょう。芸術のもつ力のすべてが消失するでありましょう。他者の存在に働きかける新しい不浸透性の要素の介在がせひとも必要なのです。(ヴァレリー『芸術についての考察』 清水徹訳)


柄谷行人は上の文を引用して次のようにコメントを入れている。

こうして、ヴァレリーは、作品の価値の窮極的な根拠を、両方の過程が互いに切りはなされていて不透明であるところに求めている。(…)

ここでヴァレリーのいう価値は、マルクスのいう剰余価値にあたっている。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』)

ラカン派によれば、剰余価値とは剰余享楽と相同的であり、剰余享楽=対象a(の重要な意味のひとつ)は、フェティッシュ(呪物)である。

また対象a=フェティシュは、「見せかけsemblant」ともされる。

「見せかけsemblant」は、フェティッシュとして(……)現実界との遭遇にて生じる恐怖あるいは不安を避けるものとして機能する。

したがってラカンにとって、「見せかけ」は人を惑わすこととと騙すことの両方の含意がある。我々は「見せかけ」を信じる。いやむしろ、現実界を覆うために「見せかけ」を選択する。というのは、「見せかけ」は、満足の手段、あるいは不快を避ける方法だから。「見せかけ」が崩れ落ちたとき、不安が現れる。「見せかけ」は、何かがあるべきなのにない場所へ来て、欠如を埋める。(…)「見せかけ」は、何かの代替物の形式である。それは、不安を引き起こす別の対象の代わりとして、満足の源泉を提供する。

「見せかけ」を観察する二番目の方法は、ジャック=アラン・ミレールにて取り出された。彼は言う、「見せかけ」の機能は《無を覆う》ことだと[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J.A. Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)。

ここでふたたび「見せかけ」の二重の側面が現れる。この定義において強調されているのは、ヴェールの機能と、このまさにヴェールに注意を誘引する機能だ。ミレールは続けて言っている、「見せかけ」のこの二重の側面のために、ヴェールはファルス化され、とくに身体がファルス化する、と。(Russell Grigg、「ラカンの教えにおける見せかけ概念」The Concept of Semblant in Lacan's Teaching、2007ーー資料:見せかけ/ファルス

ここで、マルクスによるフェティシズムの叙述箇所をひとつだけ抜き出そう。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態そのものからである。Woher entspringt also der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts, sobald es Warenform annimmt? Offenbar aus dieser Form selbst.(… )

商品形態の謎めいた性格とは偏に次のことにある;

商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって「超感覚的な物あるいは社会的な物 sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge」になる。

労働の社会的性格が商品の社会的性格に転化するという関係は、人が視神経に結ぶ物の像ーーそれは外部の物から視神経が受ける主観的な刺激にすぎないーーを物そのものの姿として認識するのに喩えることができる。

だが、物の像が人に見えるという現象が物理的関係--外部の物が発する光が別の物である眼に投射されるーーを表しているのに対して、商品形態とそれが表れる諸商品の価値関係は何らの物理的関係も含んでいない。

だから(商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物 Produkt が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。

これを私は商品の呪物崇拝と名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.

(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

マルクスは、《謎めいた性格は(……)この形態》にあると言っているように、フェティシズムの核心は、ーー呪物崇拝とか物神崇拝とか訳されるがーー、形態、つまり「物」ではなく「神」のほうにあり、さらに言えば、ここでの「神」とはそれが占める場にかかわる(の場合が多い、と付け加えておこう)。

《「神はヴェールである」という表現は、二つの相反する内容を統合するヘーゲルのスペキュラティブ判断として読まなければならない。(1) 神は、われわれの想像力がヴェールの裏にある空虚を埋める究極的な夢想 reverieである。 (2) 神は究極の創造的力である。》(ジジェク、2012)

対象a は象徴的体系内部の非徴示的変調 non-signifying glitch であるにもかかわらず、それは、場のなかを埋め合わせるものとしての要素から形式的構造を分離する裂け目の背景においてのみ把握できる。ジャック=アラン・ミレールは最近、構造と変換の話題についてのこに裂け目を詳述した。彼はラカンの四つの言説の母体を取り上げる。そこでは、時計回りとは逆の動きで、四つの用語のそれぞれ(主体―$、主人のシニフィアン―S1、知識の連鎖―S2、対象―a)が、構造における(代理人、他者、真実、生産物)の四つの場すべてを占めていく。いかになにかが不変であり、同時に何かが変わるかの事例である。


何が不変なのだろうか? 場、関係性と場のあいだの関係性である。何が変化するのかは、それらの場を占める用語である。……これは、われわれにまさにこう言い得ることを許してくれる。すなわち、構造において、変形は置換である、と。また置換による発話は、構造を力動的にさせる方法、試みであると。さらに言い得ることは、一と多を分節化するためのある構造的な解決だと。場は固定されており、そして用語の置換により、われわれはヴァリエーションを得る。この(固定された)構造的場と、これらの場を占める(変化する)用語のあいだの相違は、その場の用語のフェティシュな凝固作用を崩すために決定的である。それはわれわれに気づかせてくれる、ある範囲までは、対象から発するアウラは対象の直接的な特性ではなく、それが占める場であるということを。

この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器である。それは、小便器自体が展示されることによってアートの対象となった。デュシャンの成果は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。

彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「ひとびとはある人を王とみなすのは、彼が王だからではない。人々が彼を王とみなすから、彼は王なのだ」ということだ。

日常生活において、われわれはこの種の具象化の犠牲者なのである。すなわち、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、 給金なしで一しょに芸をしてくれる


…………

※付記

マルクスが 『資本論』 で説く物象化 Versachlichung 物化 Verdinglichung が,彼の指摘する Fetischismus(物神崇拝) Fetischcharakter (物神的性格) と密接な関係にあることは周知の通りである。(廣松渉 『マルクス主義の地平』 1969)
作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の〈神秘的〉性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。マルクス像についても同様のことがいいうる。”真のマルクス”などというものはありはしないのである。

読むことは作者を変形する。ここでは”真の理解”というものはありえないので、もしありえたとすれば、いわば歴史というものが完結してしまう。ヘーゲルの美学がその歴史哲学と同様に、”真の理解”によって完結してしまうのはそのためだ。それは、作品というテクストが、作者の意識にとっても読者の意識にとってものりこえられず還元もできない不透明さをもって自立するということをみないからである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』)


2016年7月26日火曜日

マルクスの価値形態論(岩井克人と初期柄谷行人)

仲の良い友人同士の関係が長く続いた柄谷行人と岩井克人だがーー《私にとってはどんなことでも話し得る友人》(柄谷『終わりなき世界』1990)ーー、岩井克人の『貨幣論』1993と柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』1978 におけるマルクスの価値形態論の説明箇所で、ふたりがまったく正反対のことを言っている箇所をーーたまたまーー見出したので、ここにメモしておく。

【柄谷行人、1978】

相対的価値形態=シニフィエ
等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)


【岩井克人、1993】

リンネル(相対価値形態)=価値を表現する「主体」の役割
上着(等価形態)=価値を表現される「客体」の役割


…………

◆岩井克人の『貨幣論』より、まず図式を掲げる。









※柄谷行人によるマルクス価値形態論の説明(『トランスクリティーク』2001)を参照(価値形態論と例外の論理)。


・岩井克人による「貨幣形態 Z」



※図に貨幣とした箇所は、実際は、「8ポンド・スターリングの貨幣」となっている。

この岩井克人による「貨幣形態 Z」自体は、柄谷行人が初期からくり返している W (商品)-G(貨幣)-W’(商品) と G(貨幣)-W(商品)-G’(G+剰余価値)を、よりわかりやすく説明したものとしてよいように思う。

貨幣形態=音声文字=意識において、すでに価値形態はかくされてしまっている。しかし、なぜこのことが重要なのか。それは、貨幣のこのような性質が「貨幣の資本への転化」の根拠であるにもかかわらず、同時にそれがおおいかくされているからである。もし貨幣がたんに商品の価値を表示するものでしかないならば、G(貨幣)-W(商品)-G’(G+⊿ G )という過程はありえないだろう。すなわち、資本所有者が商品を買い、それを売ることで⊿ G (剰余価値)を得ることがなければ、資本もまたありえないはずである。

しかし、貨幣のあるところには、必ず商人資本がある。それは人間に利潤を求めようとする性質があるからではない。交換が利潤(剰余価値)を生みだすような必然的根拠があるところでのみ、そのような”人間性”が発生するにすぎない。さしあたって、G-W あるいは W-G’ のいずれをみても、剰余の発生する余地はない。あるとすれば、詐欺である。しかし、一時的な詐欺は資本ーー自己増殖する貨幣ーーの持続的根拠ではありえない。すると鍵は、W-G と G-W’ が時間的・場所的に切りはなされているということにしかありえないのである。つまり、貨幣が価値を表示するたんなる価値尺度ではなく、いわば不透明なテクストであるということでしかない。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978)

…………

さて、岩井克人は、価値形態論のまとめの箇所で、簡潔に「全体的な価値形態 B」 と、「一般的な価値形態 C」、「無限の循環する貨幣形態 Z 」を次のように説明している。

全体的な価値形態 B とは、主体としての商品がほかのすべての商品を媒介としてじぶんの主体性を社会化する関係のあり方

一般的な価値形態 C とは、客体としての商品がほかのすべての商品の媒介となることによってじぶんの客体性を社会化されている関係のあり方

無限の循環する貨幣形態 Z のなかで、社会化する主体(全体化された相対的価値形態)と社会化される客体(一般化された等価形態)という役割を同時にはたしている存在が、貨幣

ーー「マルクスの貨幣形態 D」は、柄谷行人が言うように、《「一般価値形態」の発展としてある。しかし、貨幣形態の核心はすでに一般形態において示されている》(『トランスクリティーク』)ので、ここでは省かれているのだろう。

いま、岩井から抜き出した表現は、次の文にある。

……単純な価値形態 A を出発点として、紆余曲折のすえにわれわれが到達した貨幣形態 Z とは、全体的な価値形態 B と一般的な価値形態 C とのあいだの無限の循環論法によって成立しているものであった。ここで、全体的な価値形態 B とは、主体としての商品がほかのすべての商品を媒介としてじぶんの主体性を社会化する関係のあり方であり、一般的な価値形態 C とは、客体としての商品がほかのすべての商品の媒介となることによってじぶんの客体性を社会化されている関係のあり方である。そして、この無限の循環する貨幣形態 Z のなかで、社会化する主体(全体化された相対的価値形態)と社会化される客体(一般化された等価形態)という役割を同時にはたしている存在が、貨幣なのである。それは、すべての商品にじぶんとの直接的な交換可能性をあたえられ、すべての商品から直接的な交換可能性をあたえていることになる。

貨幣とは、それゆえ、貨幣形態 Z のなかにおいて貨幣の位置を占めているから貨幣なのであり、その存立のためには、モノとして使用されるための人間の欲望もモノとして生産されるための人間の労働も、さらにはそれを支払手段として流通させるための共同体的な規制や中央集権的な強制も必要としないことがしめされることになった。すなわち、なんの役にもたたない金属のかけらや紙のきれはしや電磁気的なパルスでも、たんに貨幣として使われることによって、実体的な価値をはるかにこえる価値をもってしまうことになる。無から有となるという「神秘」がここにある。(岩井克人『貨幣論』1993,PP.150-151)


ここで、上の岩井の文を次の柄谷の文とともに読むと、どうなるか?




マルクスは「単純な、個別的な、また偶然的な価値形態」をつぎのように説明している。

《x 量商品 A = y 量商品 B 、あるいは x 量の商品 A は y 量商品 B に値する。(亜麻布 20エレ=上衣 1着、または、20エレの亜麻布は 1着の上衣に値する)》

右の例において、「亜麻布がその価値を上衣で表示する」場合、マルクスは亜麻布は相対的価値形態にあり、上衣は等価形態にあるといっている。つまり、マルクスがここでいっているのは、「亜麻布は上衣と等価である」ということではなく、「亜麻布の価値は上衣の使用価値で表示される」ということなのである。 《一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される》。しかし、たとえば亜麻布の価値なるものが内在的・超越論的に存在するわけではない。ここには、たんに亜麻布と上衣という「相異なる使用価値」があるだけなので、その関係のなかから「価値」が出現するのである。

この関係が価値形態、つまり相対的価値形態と等価形態の結合にほかならない。《相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、またそうごに対立する極位である》。ソシュールにならっていえば、相対的価値形態は「意味されるもの(シニフィエ)」、等価形態は「意味するもの(シニフィアン)」であり、これらの結合としての価値形態が記号(シーニュ)なのである。右の例でいえば、上衣という使用価値は、シニフィアンである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978)

柄谷行人は、

相対的価値形態=シニフィエ
等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)

としている。

他方、岩井克人は次のように言っている。

リンネル(相対価値形態)=価値を表現する「主体」の役割
上着(等価形態)=価値を表現される「客体」の役割

ーーもちろん通常の解釈では、シニフィアン=主体、シニフィエ=客体である。

ここで、ジジェクを挿入しよう。マルクスの価値形態論に触れつつ、《商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する》としている。

ラカンのシニフィアンの公式(シニフィアンは他のすべての諸シニフィアンに対して主体を代表象するun signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.)は、マルクスの商品の公式(価値形態論)と構造的な相同性がある。そこにもまたシニフィアンの公式と同様な二項一組 dyad を伴っている。

すなわち商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する。ラカンの公式におけるヴァリエーションでさえ、マルクスの価値形態表現の四つの形式への参照として体系化されうる(『為すところを知らざればなり』の第一部を見よ)。この線に沿えば、決定的なのは、ラカンがこの過程の剰余-残余を、剰余享楽(plus-de-jouir)としての対象a として規定したことだ。これは、マルクスの剰余価値への明示的 explicit な参照である。(ジジェク、2004,--ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」

これは明らかに、初期柄谷の《等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)》側にある解釈と捉えられる。

さらに、シニフィアン($)と剰余享楽a をめぐってジジェクは次のように言っている。

シニフィアンの主体 ($) が、象徴的普遍性の例外であり、対象a が、享楽の過剰(剰余享楽)を表すその対照的要素である限りにおいて、ラカンの幻想の式 ($‐a) は、同じコインの裏表のあいだの非関係(その場を埋め合わせる要素のない空虚の場/その場のない過剰の要素)である。(……)

$ と a の不可能な結合(非関係)は、主体 $ は空虚・空の場だ。述語のない主語である。他方、a は、主語のない述語である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳) 

すなわち、

$ /a = 要素のない空虚の場/場のない過剰の要素
         =述語なしの主語/主語なしの述語


もちろん剰余享楽と剰余価値は相同性がる。とすれば当然、

G(貨幣)-W(商品)-G’(G+剰余価値)

と関連づけることができないでもない(とはいえ、ここでは曖昧なままにしておこう・・・)。

いずれにせよ、肝腎なのは、次の「主人の言説」の構造と価値形態論の構造とを互いににらめっこさせることだろう。



(ラカンの「四つの言説」を知っているものなら誰でも、先ずは、G ➡ W/G’と思いつくはずだ)。


いや、わたくしが曖昧なままにしておくのは、主人の言説以外にも「資本家の言説」というものがあるからだ(わたくしの知る限り、ジジェクはこの「資本家の言説」に一度も触れていない。あれだけラカンを解釈しまくっているジジェクのもっとも大きな謎である・・・そのため、ジジェクによるマルクスの価値形態論解釈は、話半分にしか聴くことができない)。


危機 la crise は、主人の言説というわけではない。そうではなく、資本家の言説 discours capitalisteだ。それは、主人の言説の代替として、今、開かれている。

私は、次のようにあなた方に言うより他にない。すなわち、資本家の言説は醜悪な何か、そして対照的に、狂気じみてクレーバーな何かだと。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本家の言説とは、我々が描き出した言説のなかで最も賢いものだ。もっとも、それにもかかわらず、破滅に結びついている。

この言説は、じじつ、支えられない。支えられない何かのなかにある。私はあなた方に説明しうる…。

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルに S1 と $ とのあいだの。$ …それは主体だ…。ルーレットのように作用する marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。

自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う。さあ、あなた方はその上に乗った…資本家の言説の掌の上に…。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私意訳)




この言説には四つの言説の母胎となる形式構造における impossibles も impuissance もない(参照:「四つの言説」(ラカン)概説)。ラカンが、《こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く》と言っているのは、(先ずは)そのことの筈。まさに ∞(無限)の形をした言説構造をもっている。






すこし後にある次の文は仏文のままで掲げよう、《c'est uniquement de la plus-value. La plus-value, c'est ça... c'est le plus de jouir, hein !》

De très braves gens, mais tout à fait inconscients de ce que disait Marx lui-même, s'en marrent... sans Marx.

Et voilà que Marx leur apprend que ce dont il s'agit, c'est uniquement de la plus-value. La plus-value, c'est ça... c'est le plus de jouir, hein !


ーー《人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。[Chercher l'origine de la notion de symptôme… qui n'est pas du tout à chercher dans HIPPOCRATE …qui est a chercher dans MARX]》(Lacan,S.22,18 Février 1975)

さてひどく話がそれてしまったが、岩井克人の説明に戻る。彼の解釈は上にも掲げた次の二文のなかにもある。

・全体的な価値形態 B とは、主体としての商品がほかのすべての商品を媒介としてじぶんの主体性を社会化する関係のあり方

・一般的な価値形態 C とは、客体としての商品がほかのすべての商品の媒介となることによってじぶんの客体性を社会化されている関係のあり方


◆岩井克人による「単純な価値形態 A」の詳述箇所より

マルクスは、この「単純な価値形態のなかに価値形態の、したがってまた簡単にいえば貨幣形態の、秘密を発見する」ことができるという。いったいこの単純な表現のどこに「貨幣形態の秘密」がひそんでいるのだろうか?

右にしめした単純な価値形態において、一見対称的な関係にあるようにみえるリンネルと上着は、まったくちがった役割をはたしているとマルクスはいう。リンネルは「相対的価値形態」にあるといわれ、上着との直接的な交換可能性によってその価値を表現している。上着は「等価形態」にあるといわれ、この価値表現の材料として役だっている。一方のリンネルは価値を表現する「主体」の役割を演じており、他方の上着は価値を表現される「客体」の役割を演じている。

主体は客体をつうじて主体となり、客体は主体によって客体とされる。それゆえ、少々まわりくどくなるのを覚悟でこの主体客体関係を商品語的にいいなおすと、つぎのようになる。一方の相対的価値形態にあるリンネルという商品は、じぶんとは異質のモノである上着をじぶんと直接に交換可能なものとすることによってじぶん自身を表現している。他方の等価形態にある上着は、モノとしてのあるがままの姿で、リンネルという商品からそれと直接に交換可能なものという性質をうけとっている。じっさい、このキルケゴールをおもわせる表現のまわりくどさが、『資本論』の初版のなかの「リンネルは、ほかの商品をじぶんに価値として等価することによって、じぶん自身を価値としてのじぶんに関係させる」という文章を、本書で使っている国民文庫版もふくめた数多くの邦訳がこぞって誤訳してしまうという、笑うに笑えぬ喜劇をうみだすことになってしまったのである。(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』、岩波書店、参照)。
いずれにせよ、このまわりくどい言いまわしがあきらかにしてくれるのは、「貨幣形態の秘密」は相対的価値形態のなかにはひそんでいないということである。なぜならば、相対的価値形態にあるリンネルの価値は、じぶんとはまったく異なったほかのモノとの相対的な関係によって表現されており、それがなんらかの意味で「社会的関係」をになっていることはだれの目にもあきらかだからである。

だが、等価形態については話はべつである。なぜならば、等価形態にある上着は、そのあるがままの姿でリンネルとの直接的な交換可能性をもつことになり、あたかもそれじだいで価値をもっているような錯覚をうみだしてしまうからである。金銀そのものに価値があるから金銀はあらゆるものを手にいれられるのだと重金主義者がいうように、上着そのものが価値をもっているからリンネルという商品と直接に交換できるのだというふうに。たしかに、上着がリンネルと直接に交換可能なのは、リンネルがじぶんとの直接的な交換可能性を上着にあたえているという社会的関係の結果にすぎない。しかし、モノの性質とはモノそのものに内在しているという日常生活に根ざしたひとびとの先入観によって、上着もまたリンネルとの直接的な交換可能性を、重さがあるとか保温に役立つとかいう性質と同様に、うまれながらにもっているように錯覚されてしまうのだとマルクスはいう。それは、ちょうどつぎのような王と臣下との関係とおなじである。

《この人が王であるのは、ただ、他の人々がかれにたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、かれらは、反対に、かれが王だからじぶんたちは臣下なのだと思うのである。》

社会的な関係とモノそのもの(または人間自体)の性質との「とりちがえ(quid proquo)」--この「とりちがえ」をうみだす等価形態の不可解さこそ、単純な価値形態のなかにひめられていた「貨幣形態の秘密」なのだとマルクスはいう。そして、この「不可解さは」、

《〔等価〕形態が完成されて貨幣となって経済学者の前にあらわれるとき、はじめてかれのブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。そのとき、かれはなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品をもちだし、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賤民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。かれは、20エレルのリンネル=1着の上着、というようなもっとも単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気づかないのである。》

しかしながら、マルクス自身のこみあげてくる満足にもかかわらず、もしこの「とりちがえ」が「貨幣形態の秘密」のすべてであるならば、それは古典派による重金主義批判の水準をすこしもこえるものではない。ここではまだ、等価形態にかんする「とりちがえ」はたんなる主観的な呪物崇拝(フェティシズム)にすぎず、なんの必然性ももっていない。……(岩井克人『貨幣論』文庫 PP.43-46)


ーー貨幣が王であるのは、ただ、他の商品が貨幣にたいして 臣下としてふるまうからでしかない。ところが、かれらは、反対に、貨幣が王だからじぶんたちは臣下なのだと思うのである。


こうして(?)柄谷行人は、後年、次のように言うことになる。

◆『トランスクリティーク』2001

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(同前)。単純な価値形態においては、リンネルは相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのか決定できない。具体的にいうと、リンネルの所有者がリンネルと上着を交換したとき、リンネルで上着を買ったと考えているなら、リンネルは等価物であるが、他方、上着の所有者は上着でリンネルを買ったと考える。つまり、上着等価物であるということがありうるのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001ーー価値形態論と例外の論理

…………

※付記

普遍性と構成的例外の論理は、三つの段階において展開されるべきである。

(1)まず、普遍性への例外がある。どの普遍性も特殊な要素を含んでいる。その要素は、形式的には普遍的次元に属しているにもかかわらず、突出しており、普遍的次元にフィットしない。

(2) 次に、普遍性のどの特殊な例あるいは要素も、例外であるという洞察が来る。「標準的な」特殊性はない。どの特殊性も突出している。それは、普遍性の観点からは、過剰/欠如している(ヘーゲルが示したように、存在するどの国家も「国家」の概念にフィットしない)。

(3) 次に弁証法プロパーのひねりが来る。例外への例外である。それはいまだ例外であるが、唯一の普遍性としての例外・要素である。その要素の例外は、普遍性自体に直接な繋がりがある。それは普遍性を直接的に表す(ここで注意しておこう、この三つの段階はマルクスにおける価値形態論と共通していることを)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー価値形態論と例外の論理