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2016年12月10日土曜日

プリゴジンの爪の垢

いやあ、またどっかの科学系らしき「馬の骨」がなんたら言ってくるが、ようするにおまえさん、徹底的にマヌケなんだよ。ウンコみたいな無知野郎だな、ま、世界はそんなヤツばかりのことは知っているが。

①科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。…

②宗教は、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定に基づいている。リアルは、不可能で禁じられており、超越的で手の届かないものである。

③芸術は、リアルは内在的で手かないものという想定に基づいている。リアルは、表象に常に「突き刺さっている」、表象の他の側あるいは裏側に、である。裏側は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。どの動きも二つの物を創造する。目に見えるもの/見えないもの、聞こえるもの/聞こえないもの、イメージ可能なもの/不可能なもの。このように、芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。境界の彼方に「ヒーローたち」を送り込むのだ。しかしまた、鑑賞者を境界の「正しい」側に保つ。(ジュパンチッチ、Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、PDFーー地球における最悪の病原菌)

科学者+芸術家であるプリゴジンの爪の垢でも甞めとけよ、そこのオマエさんよ


◆浅田彰、イリヤ・プリゴジンに聞く(1997年7月 18 日,東京、「時間と創造」PDF)

【分析的に明確化できるようになったところはぎりぎりまで分析的に明確化すべき】
浅田――ここでは技術的なディテールに立ち入ることはできませんが,あなたのヴィジョンは科学者以外の人々にも大きな意味をもっていると思います. 今,決定論的・可逆的な世界と非決定論的・不可逆的な世界を,客観と主観に対応させる伝統的な見方を批判されました.大きく言えば, C・P ・スノーの言う 「二つの文化」 の対立,ハー ドな自然科学とソフ トな人文科学, ハードなテクノロジーとソフトなアートの対立といったものも, その見方からくるものだと言えます. あなたのヴィジョンはそういう対立を全体として乗り越える ものですね.

プリゴジン――まったくそのとおりです.

浅田――あなたをそういうヴィジョンに導いた哲学史的・科学史的な背景についてうかがいたいのですが.

プリゴジン――時間の問題は哲学史の起源から論じられてきた大問題です.

浅田――ヘラクレイトスやパルメニデス以来…….

プリゴジン――ええ. それから近代になってニュートン力学が登場し,決定的な解答を与えたかに見えた. 自然の基本法則は決定論的かつ可逆的である, と. しかし, そうする と, 初期条件さえすべてわかっていれば,その後の発展は完全に予知できることになるわけで, これはどうにも納得しがたい. こうしてわれわれが話し合っ ていることも ビッグ ・バンの瞬間から決まっていたなどというのは, 考えられないでしょう.

浅田――いわゆる 「ラプラスの魔物」 の神話ですね.

プリゴジン――そう, それは受け容れられません. それから,今度は量子力学が登場します. そこでは確率を扱うけれど, 確率は人間の測定によって初めて入ってくるとされます.量子力学では, リアリティは測定を通じてしか接近できない. 波動関数はポテンシャリテ ィだけを含んでおり, 測定によって初めてポテンシャリティからアクチュアリティに移行することになるからです. ボーア は, 物理学に自然がどう動いているか問うてはならない, われわれが実験結果をどう表現しうるかだけを問え,と言いました. これは, 自然そのものは理解不能だ, と言うに等しい考え方です.

浅田――量子力学のコペンハーゲン解釈として知られる, 一種の主観主義ですね. アインシュタインは,それを批判したけれど,「神はさいころ遊びをしない」 という言葉に見られるように, 不確定性そのものを退けてしまった.

プリゴジン――それに対して, わたしは,不確定性が自然そのものの中に基本的・微視的なレヴ ェルにおいてすでに含まれていると思います. そして, それを数学的に理論化しえたと考えているのです.

古代哲学に戻れば, これは本質的にエピクロスやルクレチウスがかの有名なクリナメンによって捉えようとしたことです. わたしが正しいと したら, わたしたちはいまやクリナメの真のメカニズムを分析的に理解しようとしているのです.

自然はいたるところでゆらぎをはらんでいます. そうしたゆらぎが, 時に巨視的なレヴェルにまで増幅されて, 非平衡の構造――化学的, さらには生物学的な構造につながってゆく. しかし, ゆらぎはすでに微視的なレヴェルにおいて存在していたのです.

自然は常に試行錯誤を繰り返し, 新しい構造を生み出しています.人間もその中で生まれてきたのであり, 人間の創造活動も自然の創造活動の延長なのです.

逆に言えば, ニュートン的な世界では,生命や,わたしたちの脳が存在する余地はありません. わたしたちは,生命や脳の存在と矛盾しない世界を求めなければならない.そして,わたしはそのような世界を記述しえたと思っ ています. それが確率論的記述でなければならなかったのは, 世界そのものがゆらぎをはらんでいるからなのです.

浅田――確か, 若い頃にベルクソンを読んで時間の問題に関心をもったと言っておられましたね. そうした影響についてはどうでしょうか.

プリゴジン――ベルクソンやハイデガーは, 本質的にはニュートン力学以外に科学がなかった時代の文脈において理解しなければなりません.それは, おっしゃるとおり, 西洋の思考を 「二つの文化」 へと分割してしまった.ベルクソンやハイデガーはその分割の例です.

ベルクソンやハイデガーの批判的な部分は, 今でもなお興味深い. しかし, 建設的な部分は, わたしの見るかぎりでは, もう時代遅れになってしまった.

浅田――科学者と しては当然の見解でしょうね. わたしは, 現代哲学の独自の創造性を評価し, 科学のほうが哲学より優れているとか, 科学の成果を哲学者がよく理解せぬまま誤用しているとかいった, アラン ・ ソーカルのような一方的批判には与しない者ですが, 分析的に明確化できるようになったところはぎりぎりまで分析的に明確化すべきだという点で,あなたに同意します.

ーー浅田彰のいう《分析的に明確化できるようになったところはぎりぎりまで分析的に明確化すべき》とは、似たような表現がくり返されてきたがその代表的なものは「明晰な理解可能性という、貧しい領土にとどまる」だろう。

浅田彰:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。 (平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰

で、それは何の問題もない。とくに科学精神はそうあったらいいわけで、 ただし問題はそれだけではないということだ。


【生物的レヴェルと, 人間的・社会的レヴェルの間のギャップ】
(……)プリゴジン――科学には,まわりの世界を理解するという側面と,その世界における自己の位置を理解するという側面がありますが, 特に後者は,決してニュートラルな問題ではありえません. わたしたちは, 政治運動に参加するのと同じようにして, 科学研究に参加するのです. 政治には情熱がつきものですが, 科学研究についても同じことです.

じつのところ, わたしは自分が思っていた以上の情熱をもっていたことに気づいて, われながら驚かされま した. わたしは,このささやかな科学革命に, 意に反して乗り出してしまったのです.良い抽象画家はできるだけオリジナルであろうとするが, 良い理論物理学者はできるだけオリジナルでなくあろう とする, というハイゼンベルクの言葉を, わたしはいつも引用し, 自分でもそうありたいと思ってきたのですが, どうしてもいささかオリジナルにならざるをえませんでした (笑) .

浅田――あなたは, いわば科学における芸術家だったのかもしれませんね.

プリゴジン――さあ, どうでしょ う. いずれにせよ, わたしの歩みは, わたしが人文系の教育を受け, 後になってから自然科学に移ったという事実を考慮しなければ, 理解できないでしょう.

もう 60年も前の1937年に, まだ学生だった20歳のわたしは 「物理哲学試論」 「進化」 「決定論」 という三つの短いエッセイを発表しています. も ちろん, 特に新しい論点は含まれていません. ただ, わたしがすでに時間の問題に関心をもち, 「二つの文化」のギャップを意識していたことはわかります.

浅田――それから 60年を経て, あなたはそのギャップに橋をかけるところまで到達された?

プリゴジン――まだそこまではいきません. わたしたちの研究は始まったばかりなのです. また, そもそもすべてを説明する統一理論のようなものが可能だとは, わたしには考えられません.

浅田――それに関して, 5年前にあなたを囲むシンポジウム ( 『生命論パラダイムの時代』 ) で提起した疑問を繰り返しておきたいと思います. あなたの研究は, 物理的なレヴェルと生物的なレヴェルのギャップを埋め, 『混沌からの秩序』の原題を借りて言えば 「新しい連帯」 をつくりあげるうえで, 多くの示唆を与えるものでした. さらにそれは, 例えば都市のパターン形成のモデルなどにも応用されています.

ただ, 生物的レヴェルと, 人間的・社会的レヴェルの間には, もう一つのギャ ップがあるのではないでしょ うか.

プリゴジン――もちろんです. 人間はそれぞれが意思決定を行ない,その意思決定は過去の記憶と未来の予測に依存しますが, 分子のレヴェルにそんなものはないのです. ですから, 時間の流れは共通でも,変化のメカニズムは大きく異なります.

浅田――さらにいささか哲学的に言うなら, 人間のレヴェルには生命の論理を超えた部分があるのではないでしょうか.人間は死を意識する. 自殺することもある. マゾヒスティックな快楽を死に至るまで追い求めたりもする. それは人間が言語をもつ存在だという ことと深く結びついています.

生命の論理に関するかぎり, わたしたちはそれを自然の総体の中で統合的に理解する方向を見出しつつあるかに見える. しかし, 人間というのはさらにそれを超えた不可解な存在ではないでしょうか.

プリゴジン――おっしゃるとおりです. わたしたちは人間についてほんのわずかしか理解していない. そして, わたしたちが人間について学べば学ぶほど, 謎はますます深まるばかりであるかのようです.

わたしたちは, 人間の精神が何兆もの神経細胞の相互作用から発生することを知っている. それらはきわめて複雑な構造を形成し, そこにはカオスも関係しているら しい. そこから統一的な意識がいかにして生まれてくるのか. わたしには想像もつかない複雑な問題です.

脳と意識の問題を解明すると自称する本があります. クリックやデネットなどの本です. しかし, それらを読んでもあまり得るところはありませんね.

浅田――言い換えれば, 科学の前にはまだまだ広大な未知の領域が広がっている ということでしょう.

プリゴジン――そう, 最後にはっきりと言っておきたいのですが, わたしは科学の終焉や時間の終焉といった考え方に反対です. ホーキングのような物理学者は, わたしたちがすべてを説明する究極の統一理論を手に入れようとしており, いわば神の視点に近づいている, と主張している. そういう信じがたくナ イーヴな意見にはとても同意できません.

物理学者が時間に敵意を示してきたのは, 時間の不在こそ, 神の視点に近づいていることの証拠だと考えられているからです.神にとって時間は存在しませんからね. これこそアインシュタインの見方であり, ホーキングの見方です. ホーキングは, アインシュタインのヴィジョンを受け継いで, 物理学を幾何学化――つまりは空間化しようとしている. 他方,わたしは物理学を時間化しようとしているのです.

わたしの観点から言えば, 科学の終焉どころか, 科学の始まりを語らなければなりません. わたしたちは, どちらかと言えば未知の宇宙の中にいて, 多様な現象の生成と発展を ようやく理解しはじめようとしているのです.


《いささか哲学的に言うなら, 人間のレヴェルには生命の論理を超えた部分があるのではないでしょうか.人間は死を意識する. 自殺することもある. マゾヒスティックな快楽を死に至るまで追い求めたりもする. それは人間が言語をもつ存在だという ことと深く結びついています》ーーともあるが、これがフロイトの死の欲動であり、ラカンの享楽。

現実界の享楽は…フロイトが観察したように…マゾヒズムを包含している。…マゾヒズムは現実界によって与えられる主要な形式である。

la Jouissance du réel comporte… ce dont FREUD s'est aperçu …comporte le masochisme… Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, (Lacan, S23, 10 Février 1976)

フロイトやラカンが古くなっているはずないだろ、これからの思想家だよ。ラカンの若き友人だったソレルスは、《われわれの時代の最も偉大な思想家であるファルス》(『女たち』1983)としているが、これは小説のなかの話とはいえ、で、ラカン以外に誰がいるんだい、現在? 一人でもいいから、誰かあげてみろよ、科学の世界のことはよく知らないがプリゴジンの後釜でもいいさ、誰がいるんだい?

そしてラカンというのは実は、唯一まともなフロイト解釈者のことだよ。

二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。

これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。……(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」初出1997、『アリアドネからの糸』所収)

「一の徴」日記⑦:トラウマの徴と愛の徴

昼間、学校から家に戻って来た一人の少女。彼女は、母が用意してくれた温かい食事をとるために、台所のテーブルに座る。母はテーブルの向こう側に座っている。母は既に夫と一緒に食事をとったけれど、娘につき合って学校での様子について娘の話をきくことを望んでいる。

少女は美味しい食事を食べ始め、いくつかの母の質問に応える。けれども少女が食事のあいだにほんとうに望んでいるのは、学校の騒動から離れて家庭の静けさと落ち着きに戻って、自分自身と向き合うことだった。

二人はそんなふうに向かい合って座っている。すこしづつ沈黙が領しはじめる。少女は食事に集中してゆく。突然彼女は顔をあげ、目前にぞっとするような眼をふたつ見た。人間的なところは何もない空っぽで不動の両眼が、彼女を見つめている。まるで母は世界から消え去てしまったかのようで、母の場に置き残していったのは、少女を見ないままで見つめている怪物の眼。少女はこの眼差しの下に震えおののく。この光景を前にして目を伏せることができない。

この光景は幼年期に何度も繰り返された。彼女は、思春期をへて、妻になり、仕事をもつ。あの眼差しが戻って来る。そして何年も後の分析治療のあいだに、眼差しはふたたび現れる。常に次の問いを伴ってーー「母はどこにいったのだろう、私に固着した空っぽの眼差しを置き残したとき」。そして常に同じ答えをする、「母はアウシュヴィッツに戻ったんだわ。あんな怪物はアウシュヴィッツ以外の何ものでもありえない」。(Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF

Liora Goder のこの小エッセイは、冒頭に上の文が記されたあと、美しく育った少女のダンサーとの恋と結婚、かつまたこの小論のテーマである女と女性の享楽をめぐって詳述している。そして結論箇所にふたたび上の文が現われ注釈している。

以下の注釈に頻出する「女性の享楽 jouissance féminine 」とは、《ファルスの彼方にある享楽 une jouissance au-delà du phallus》 (Lacan,S20)であり、象徴界の裂目(非一貫性・非全体 pas- tout) に外立ex-sistence する享楽と一般的には言われてきた。

(このあたりの解釈は2010年前後から、ジャック=アラン・ミレールやコレット・ソレールなどの名高いラカン派臨床家が「現実界的無意識 inconscient réel 」を強調しだしてから確たることは言えなくなっているが、ここではアンコール(セミネール20)移行に転回があったとするミレール等の観点は当面外して記す。)

女性の享楽は、別に「他の享楽 l'autre jouissance 」・「身体の享楽 l'autre jouissance 」ともラカンによって呼ばれている(ex-sistenceの語源はエクスタシーである)。

すなわち「女性の享楽」の「女性」は、解剖学的な女性とは直接には関係ない。

ファルスの彼方とは、フロイトの快原理の彼方と相同的であり、フロイト文脈での彼方には「不気味なもの」、「物 das Ding」、「死の欲動」等々がある。ラカン用語なら「絶対的他者 Autre absolu」、「根源的他者性 altérité radicale 」、「外密 extimité」などにもかかわる。

そしてもちろんそれらはトラウマ的なものである、《現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente》(ラカン、S.11、12 Février 1964)

※やや詳しくは、「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を参照。

ラカンの使うトラウマという言葉は用心して扱わなければならない。解釈者によって構造的トラウマ/事故的トラウマと区分される前者のことであり、我々が通常使うトラウマ(事故的トラウマ)とは異なる。たとえば日本でも中井久夫によって《外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である》(中井久夫:幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ))との指摘があって久しいが、この幼児型記憶に近似したものである。

さてLiora Goderの注釈である。

話は理想的で満足感を与えてくれる母のイメージで始まる。けれども突然、この母のイメージはどこかに消え去せ、「女性の享楽」が完全な生身で現れる。母は絶対的な大他者となる。もはや母はいない。母は眼差しの奈落のなかへと消滅し、会話から完全な外部・あらゆる絆の彼方・すべてのコミュニケーションの彼岸へと向かって接触を断つ。

この小さな女の子の「女性の享楽」との出会いは、トラウマ的である。少女は後に、彼女を恐怖で竦ませ戦慄させたこの享楽への魅惑を練り上げるようになる。この光景は反復される。小さな女の子として、思春期の乙女として、若い女性として、彼女は常にこの光景に回帰する。この回帰は同じ問いを伴っている。母はどこに行ったのか? この問いはトラウマ的「女性の享楽」を意味に結びつける試みである。応答として「アウシュヴィッツ」を想像することは、どこでもない場所から彼女の母を取り戻し、母の歴史に再結合しようとする試みである。そうすることによって、母(あの刻限、主体を滅却させてしまった母)を主体として位置づけようとする。

何年も後の若い女性の分析において、何か別のものが現れる。アウシュヴィッツについての無意識的幻想のなかで、彼女の母はハンサムなナチ将校を欲望した。小さな女の子は、母が口にしたことのある「ハンサムなドイツ人」についての発言を元に、この性的幻想を構築した。この幻想は小さな女の子を、トラウマ的「女性の享楽」にファルス的意味合いを繋げることを可能にした。

少女の享楽との出会いは、非ファルス的享楽との出会いであったにもかかわらず、彼女は母を男たちを愛する性的女として位置づけることに成功した。男たちを欲望する母についてのこの幻想は、後年、パートナーの選択を彼女に指定したものとまさに同じ幻想である。しかしパートナー特定の選択を決定づけたものは厳密に、彼女の母の「女性の享楽」に関する少女の魅惑の点だった。

彼女をダンスに誘った若い男が、踊りの最中に己れのなかに没入して、彼自身の顔の上に「女性の享楽」の表出させ、彼女から自身を切り離して遠くに行ってしまったまさにその瞬間、彼女はたちまち恋に落ちた。

目を閉じた若い男の恍惚状態は、男を彼女の母の「女性の享楽」に繋げる特定の徴である。そしてその徴が彼女の愛を鼓舞した。明らかに彼女はそれに気づいていなかった。彼女は途方もなく素敵に踊るハンサムな男に恋に落ちた。彼女は知らなかった。数年の臨床分析を経て、彼女がこの男に魅了されたものは、母のなかに出会ったトラウマ的「女性の享楽」と直かに結びついているのに感づいた。

しかしながらこの享楽は、ファルス的衣装を着せられていた。言い換えれば、小さな女の子にとって非ファルス的享楽は、ファルス的享楽の対象a に変形された。愛の生活のエロス化と標準化を可能にするファルス関数は、享楽の堪え難いトラウマ的臍が、魅惑をもたらすエロス的・性的衣装のなかで、ファルス化された対象a へと変質するような仕方で作用した。

このファルス的衣装が、現実界的対象の恐怖をアマルガム化された対象への移行を可能にする。したがって「女性の享楽」は、彼女のパートナーのなかで既にこの変形を受けていた。少女の母のなかの硬直した・死のような享楽は、享楽で充溢した踊る身体とその童顔へと変形された。このメタモルフォーゼは、既にファルス的衣装ーー恐怖の対象からアマルガム化された対象に向けての移行を促すファルス的衣装ーーの効果をもっている。

この事例では二つの点が興味深い。

第一に、パートナーとして選ばれた男は「女性の享楽」へのアクセスを持つものとして同定された。したがって、性別化の式の女性側に印される。この例は、生物学的な解剖構造によって定義される男が、完全に女性側に己れを位置づけうるという観察を我々に許してくれる。そしてこれは彼をホモセクシャルにするわけではない。

第二に、そして結論として、対象a ーーファルス享楽の対象であり、それ自体、パートナーの魅力とエロス化され性化されたイメージによって衣装を着せられてなければならないーーは、この特徴ある事例では、「女性の享楽」を覆っていた。したがって我々はここで、二重の衣装化をみる。すなわちトラウマ的女性の享楽は対象a によって覆われファルス化される。そしてこの対象a 自体が、魅惑的ダンサーによって覆いを着せられていた。(同 Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF

Liora Goderの叙述は、トラウマの徴と愛の徴とのあいだの関係だけではなく、それらとの対象a のかかわりがとてもよく書かれている論である、--とわたくしは思う(Liora Goderという分析家のことはまったく知らなかったのだが、今回「一の徴」シリーズを記すことによってめぐりあった論である)。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。 (ラカン、セミネール17)

Liora Goder が記す母によるトラウマ的「女性の享楽」 の侵入がそのまま「一の徴」であるかどうかは保留しておこう。だが「一の徴」と同じ機能をもっているには相違ない。

「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)
私は信じている、「一の徴」というシニフィアンの卓越した機能、そして幻想のなかの対象a 、この両者への主体の連携のあいだには関係性がある、と。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm

わたくしが6歳のとき、母は「精神分裂病」と診断された。だが1960年代当時の当時のことである。しかも名古屋の「藪医者」の診断だった(名市大の木村敏・中井久夫による黄金時代はまだ始まっていなかった。もっとも今でもアドラーなどと真顔で語る精神科医が日本には跳梁跋扈しているので、1960年当時に比べてまともになっているわけではないだろうが。日本に流通しているアドラーとは人生指南のたぐいであり、その啓蒙的効用を否定するものではないが、「すぐれた」精神科医がまともに扱う話ではない、とわたくしは思う)。

現在では、50歳で死んだ母は実は「戦争神経症」だったのではないかと疑っている。思い返せば、その証拠のようなものはいくらでもある。

その意味でも少女のアウシュヴィッツの話は、わたくしにとって衝撃的である。そして母自身によってもたらされた何度もくり返された光景がわたくしにもある・・・

とはいえわたくしの母の年頃の人物はなんらかの形で戦争の傷跡を残している人がすくなくないだろう。作家たちを思い浮かべてみても、大江健三郎、古井由吉、中井久夫などが母と同じ世代である。彼らにはそれぞれの仕方で「喪の作業」をしているかに読める作品がある、《戦争について書こうとする作業は、私の一種の喪の作業であることに最近気づいた》(中井久夫「戦争と平和 ある観察」2005)

…もう一つ書きたいと思ったのは、男にとって女とは何かです。母親ではあるんですよ。“一切の女人、これ、母親なり”という、仏典か何かにあるんだそうですね。例えば戦争中に戦地へ送り込まれた兵隊の間で、母親信仰というのが強かったと聞きます。

僕も母親と姉とに引かれて走っているわけですよ。逃げている周りに、やっぱり女性は多かった。これはもういかんというときに、女たちに包まれる。その感覚は成人しても濃厚に残っている。

だから、男女のこと、いわゆるエロティシズムのことだけじゃなくて、男が女に生命を守られるという境。それからもう一つ、女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

親の心の傷は子供に届く。

予想されるように、ホロコースト生存者の子どもは、他の両親の子どもよりも、PTSD になる傾向が高い。しかしながら、奇妙なことに、これらの子どもたちのほうが親たちよりも心的外傷後ストレス障害をよりいっそう経験することが示されている(Yehuda, Schmeidler, Giller, Siever, & Binder-Brynes, 1998)。

これらの親たち--犠牲者自身--が機能している可能性があるのだろうか、その子どもたちにトラウマ経験を飼い馴らす必要不可欠なツールを提供し得ないようなものとして? この問いには容易には答え難い。(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD The Impact of the Other Paul Verhaeghe, and Stijn Vanheule、2005,PDFーーホロコースト生存者の子供たちのPTSD

ーーと引用しても、わたくし自身が PTSD であるなどというつもりは毛頭ない。ただし次のような経験はある。そしてそれは、なんらかの形で「母からの徴」が影響しているのかもしれないと考えられないではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一物の永劫回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎんい三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年,pp,161-163、人文書院旧訳よりだが一部変更ーーあらゆる人間関係が、つねに同一の徴に終わるような人がいる



2016年12月9日金曜日

死の漂流


ーーいやわたくしはわからない。あくまで想定である。

以下、いくらかの引用を貼り付ける。


かつてラカン自身から分析を受けその後分析家になったS・シュナイダーマンは、次のようなに言っている、「ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていた。が、なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽 jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだ」(摘要ーー伊藤正博,1997、PDF )。

・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920)
エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos 闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)
エロスは己れ自身を循環として・循環の要素として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトスでしかありえない。両者は、愛と憎悪、構築と破壊、引力と斥力として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)






リビドー、純粋な生の本能としてのリビドー。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能。 それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものでである。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これの形象化である。

La libido, je vous ai dit, en tant que pur instinct de vie, c'est-à-dire dans ce qui est retiré de vie, de vie immortelle, de vie irrépressible, de vie qui n'a besoin, elle, d'aucun organe, de vie simplifiée et indestructible, de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée. C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.(ラカン、S11、20 Mai 1964)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dérive と命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(S.20、08 Mai 1973)
人は円環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの以外に、どんな進展もない il n'y a pas de progrès que marqué de la mort. …

それはフロイトが強調したものだ、« trieber »、Trieb という語で。フランス語では pulsionと翻訳される…どうしてか知らないがね je sais pas pourquoi… 死の衝動(欲動 la pulsion de mort …

もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう…on n'a pas trouvé une meilleure traduction alors qu'il y avait le mot dérive.(S23 16 Mars 1976)




安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収ーー欲動と享楽の相違

…………

誕生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、すなわち睡眠欲動が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内への回帰である。(フロイト、精神分析概説、1938ーー睡眠=母胎内への回帰(エロス))
エロスとタナトスの二つの欲動は、全く反対の目的を目指す。一方で、融合することが、フロイトがエロスと呼んだものであり、分離することがタナトスである。そしてそれぞれ独自の快を持っている。この観点から、我々はなぜ「とことんまでall the way」行かないのかという我々の問いへの答えを示唆しうる。

まず最初に二つの相克する方向のせいであり、第二にどの方向も主体にとって堪え難い最終的な代償があるせいである。

タナトス欲動は理解するのに簡単だろう。それは解放とゼロテンションにむけて励む。それは最終段階としての死、そして死に向かった強烈な踏み台としてのオーガズムである。フロイトにとって、タナトスの目標とは分離であり、より大きな統一体からより小さな断片への絶え間ない分裂である。主体の水準において、これが意味するのは、他者からの分離であり、強化された個人的特性ーー私はここにいる、独立した人間として存在する、である。

エロスの目標は全く反対だ。それは融合であり、異なった要素を統合して、より大きな全体とすることである。そこでは個々の要素は、その個人的特性を失う傾向にある。生は、絶えず増大する緊張の集合体であり、それは純粋な享楽である。もっとも個人にとってはそうではない。個人は集合体へと消滅してしまう。個人はこの消滅をきわめて怖れることになる。

単独でタナトス欲動に従えば、我々は孤立して最終的には死ぬ。もっぱらエロス欲動に従えば、同様に我々は消滅する。今度はより大きな統合に飲み込まれるのだ。どちらもそれぞれ固有の享楽がある。どの人間も彼(女)自身の道の地図を作らねばならない。フロイトは、標準的な環境においては、二つの欲動は混ぜ合わされ(欲動融合Triebmischung)、各個人の人生において絶え間なく変化するカクテルだと言う。

ラカンはこのフロイトの論拠を引き継ぐ。享楽と死はきわめて近いものだ。享楽への道は、死への道である(Lacan, [1969-70], p. 18)。享楽それ自体、生きている主体には不可能である。というのはそれは自身の死を意味するのだから。唯一残された可能性は遠回りの道筋を取ることだ。目的地への到達を可能なかぎり遠くに延期してその道筋を行ったり来たりすることである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009)

2016年12月8日木曜日

「一の徴」日記⑥:誰もがトラウマ化されている

以下、ほぼ純粋なメモ

…………

【①誰もがトラウマ化されている】

«tout le monde est traumatisé»(Tout le monde est fou Année 2013-2014

C’est dans son tout dernier enseignement que J. Lacan a formulé ce «tout le monde est fou» et J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan», complète par «tout le monde est traumatisé», soit ce qui est universel pour l’ensemble de ceux qui parlent. Cependant, chacun l’est de façon singulière, et ce qu’il s’agit de savoir c’est de quelle façon, c’est-à-dire «Tel qu’en soi-même», comme le souligne J.-A. Miller reprenant les vers de S. Mallarmé: «Tel qu’en lui-même enfin l’éternité le change»(Le tombeau d’Edgard Poe).


【②「誰もが妄想的である」とは、「誰もがトラウマ化されている」ということ】

Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Lacan Tout le monde délire、1979)


セミネール22にて、ラカンはトラウマのことをトロウマ(穴ウマ)といっている。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をもたらす。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

そして身体は穴である。

人間は彼らに最も近いものとしてのイマージュを愛する。すなわち身体を。単に、彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体は私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou.(Lacan J, Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice, juin 1998, tiré à part en 2011)

比較的早い時期のラカンから抜き出してみよう。

何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

大他者とは身体である。A(Autre)とは身体である。

・L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)、

・主体と器官との関係が、我々の経験の核心である。《le rapport du sujet avec l'organe qui est au cœur de notre expérience》(セミネールⅩⅠ)

・もし存在を基礎づける何かがあるなら、それは間違いなく身体である。《Qu'il y ait quelque chose qui fonde l'être, c'est assurément le corps》(セミネールⅩⅩ)

《ラカンが象徴秩序の決定的な影響を強調していたあいだは、身体は、たんなる効果、すなわち、徴示された身体 signified body 、想像化された身体 imaginarised body と考えられていた。事実、我々は、言語の効果と、この言語によって作り上げられた距離の効果としての身体を持っている。だが、いったんラカンが「現実界」を本気で取り上げたとき、別の身体が思考され始めた。それは、「身体」というシニフィアンさえも、本当はふさわしくないものだ。もし現実界が我々の出発点なら、そこで作用しているのは身体ではなく、有機体、もしくは器官である。》(ポール・ヴェルハーゲ2001,Paul Verhaeghe, (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real、PDF)


身体は大他者であり、かつ身体は穴であるとは、身体は Ⱥ であることを意味する。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

そして《症状とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps,》 (ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ここでの症状はサントームと等価なものとして読まねばならない。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


【③Ya d’l’Un とは[ひとつきりの一( l’Un-tout-seul)」】

Avec ce Ya d’l’Un Lacan cherche à montrer que substance jouissante et substance signifiante sont nouées. Il interroge le corps en tant que Un, c’est-à-dire en tant qu’il se jouit. Il se jouit comme l’Un-tout-seul. (Commentaire du paradigme VI, par Rigo de Bortoli、2015)

ーーYa d’l’Un とは、享楽する実体 substance jouissante、シニフィアン化するもの実体 substance signifiante、 「ひとつきりの一l’Un-tout-seul」 にかかわる。


「享楽する実体 substance jouissante」をめぐるポール・ヴェルハーゲ 2001の注釈。
 
ファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。

身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(a 的解剖学的構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的ー対象a性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ヴェルハーゲ、2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDFーー「身体もなく、性もない処女 UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE (アルトー)と(a)-natomie 、(a)sexuée(ラカン)」)



【④Un-tout-seul とは空集合 ensemble vide】
Il me semble que c’est cette opération sur lalangue et sur le signifiant tout seul que J.-A. Miller a reprise cette année dans son Cours29 : « Après vous avoir annoncé cet Un-tout-seul, il faut maintenant que je vous familiarise avec lui. Je dirai d’abord que c’est le Un à partir duquel vous pouvez poser et penser toute marque, parce-que c’est seulement à partir de lui que vous pouvez poser et penser le manque. Il s’agit de la marque originelle à partir de laquelle on compte – 1, 2, 3, 4 … – mais à la condition d’en passer d’abord par son inexistence. Il va falloir que je mette cela au tableau, pour que vous en gardiez quelque mémoire. Ce Un-tout-seul, je l’écris, pour le différencier, à la latine : I. C’est cet Un que vous effacez et qui vous donne le manque, ce manque qui a été attrapé comme ensemble vide à partir de la théorie des ensembles, et dont un Frege a fait le signe de l’inexistence : il n’y a pas, il n’y a pas le Un. Quand ce manque est obtenu, la suite des nombres peut alors se développer par récurrence, et d’abord en inscrivant ce manque comme un 1. La suite des nombres se branche sur le Un effacé. » (L’inconscient et lalangue Jean Pierre Rouillon,2012、PDF

Un-tout-seul とは原徴 marque originelleであり、空集合 ensemble vide、フレーゲの le signe de l’inexistenceにかかわる。




29 Miller J.-A., L’orientation lacanienne, « l’être et le Un », enseignement prononcé dans le cadre du département de psychanalyse de Paris VIII, leçon du 16 mars 2011, inédit.

上のミレールの図にあるように、(身体の享楽の)現実界はゼロにかかわる。

現実界は全きゼロの側に探し求められるねばならない。Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu (S.23、16 Mars 1976)

※ミレールは1996年の時点ですでに「ひとつきりのシニフィアン le signifiant tout seul」と言っている(L'interprétation à l'envers, 1996)。


「ひとつきりのシニフィアン」とは、ラカンのセミネールⅢで詳述化されている要素現象と等しいという見解がある。

「要素現象 phénomènes élémentaires」とは、主体が象徴界のなかの穴に遭遇し、その後引き続いて発生するシニフィアンである。ミレール(2008)によれば、要素現象は、隠喩と換喩の不在のせいによる意味作用の失敗によって特徴付られる。 (Jonathan D. Redmond, 2012, .Elementary phenomena, body disturbances and symptom formation in ordinary psychosis、PDF、摘要)
逆方向の解釈によって取り出されるのは、他の誰とも異なる、それぞれの主体に固有の享楽のモード、すなわち、「ひとつきりの<一者>」と呼ばれる孤立した享楽のあり方である。精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事に相当するだろう。いずれの場合でも、そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。ミレールがいうように、現代ラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならないのである。(松本卓也『人はみな妄想する』)



【⑤女とは空集合のこと】

Mais La femme c'est… disons que c'est « Toutes les femmes », mais alors c'est un ensemble vide, parce que cette théorie des ensembles, c'est quand même quelque chose qui permet de mettre un peu de sérieux dans l'usage du terme « tout ». Ouais…(ラカン、S22、21 Janvier 1975)


・ ③の《Ya d’l’Un とは、「ひとつきりの一 l’Un-tout-seul」》

・④の《Un-tout-seul とは空集合 ensemble vide》

・そして上の⑤の《女 La femme とは空集合 ensemble vide》と重ねれば、
Ya d’l’Un とは女 la femme のこととなる。

ーーこれは「一の徴」日記⑤にて、テキトウに記したことと等価である。



【⑥ファルスとは器官なき享楽だろうか、享楽なき器官であろうか?】

Alors, le phallus, qu'est-ce que c'est ?(……)

C'est la jouissance sans l'organe, ou l'organe sans la jouissance ? Enfin, c'est sous cette forme que je vous interroge pour donner sens – hélas ! - à cette figure. Enfin, je vais sauter le pas.(S22、21 Janvier 1975)

ーーここではラカンによる明示的な答えはない(わたくしの拙い読解の範囲では)。

だがファルス享楽は、間抜け享楽 jouissance de l'idiot、自慰 la masturbationという記述がセミネール20にある。



【⑦ひとりの女は、症状である。ひとりの女は対象aではない】

ーーラカンは以下の文で、la femme を語ることを拒絶し、une femme を語っている(なぜなら la femme は存在しないから)。

Pour qui est encombré du phallus : « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (……)

Une femme, pas plus que l'homme, n'est un objet(a) . Elle a les siens, que j'ai dit tout à l'heure, dont elle s'occupe, ça n'a rien à faire avec celui dont elle se supporte dans un désir quelconque.

La faire symptôme, cette « une femme » c'est tout de même la situer, dans cette articulation, au point où la jouissance phallique, comme telle, est aussi bien son affaire.

Contrairement à ce qui se raconte, la femme n'a à subir ni plus ni moins de castration que l'homme. Elle est, au regard de ce dont il s'agit dans sa fonction de symptôme, tout à fait au même point que son homme.

Il y a simplement à dire comment pour elle, cette ex-sistence, cette ex-sistence de Réel qu'est mon phallus de tout à l'heure… celui sur lequel je vous ai laissés la langue pendante …il s'agit de savoir ce qui y correspond pour elle. Vous imaginez pas que c'est le petit machin là dont parle FREUD, ça n'a rien à faire avec ça ! (S22、21 Janvier 1975)

Une femme とは結局、享楽する実体、穴としての身体 Ⱥ のことである。

すなわち解剖学的女性にはまったくかかわらない。

ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacan,20 Février 1973)

もちろん解剖学的男性は解剖学的女性よりも、ファルスのこちら岸の存在ではあろう。すなわち頭と心臓をふくむ円周で考える。女性のほうは子宮を中心にした円周で考える刻限がある(隠喩としての「子宮」である)。これが身体の享楽、ファルスの彼方にあるものである。

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)

この吉行の言明は、ラカン的観点を通して読むと意義深い。

享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「大他者の享楽 la jouissance de l'Autre」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。(ヴェルハーゲ、2009)

「すぐれた女性研究家」でもあった吉行淳之介を浅墓なフェミニストたちのように馬鹿にしてはいけない。

いにしえの Unerkannt (知りえないもの)としての無意識は、まさに我々の身体のなかで何が起こっているかの無知によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 」と「円環を作る何か、あるいは真っ直ぐな無限と言ってもよい(それは同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である。(ラカン、セミネール23、11 Mai 1976ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)


男性諸君もポリティカル・コレクトネスーー女性擁護に典型的なーーに専念してしまうとものが見えなくなってしまう。

偶然にも、ヒステリーの古代エジプト理論は、精神分析の洞察と再会する一定の直観的真理を含んでいる。ヒステリーについての最初の理論は、Kahun で発見された (Papyrus Ebers, 1937) 4000年ほど前のパピルスに記されている。そこには、ヒステリーは子宮の移動によって引き起こされるとの説明がある。子宮は、身体内部にある独立した・自働性をもった器官だと考えられていた。

ヒステリーの治療はこの気まぐれな器官をその正しい場所に固定することが目指されていたので、当時の医師-神官が処方する標準的療法は、論理的に「結婚」に帰着した。

この理論は、プラトン、ヒポクラテス、ガレノス、パラケルルス、等々によって採用され、何世紀ものあいだ権威のあるものだった。馬鹿げた考え方ーーしかしながら、たいていの奇妙な理論と同様に、それはある真理の芯を含んでいる。

まず、ヒステリーはおおいに性的問題だと考えらてれる。第二に、身体の他の部分に比べ気まぐれで異者のような器官という想念をもって、この理論は事実上、人間内部の分裂という考え方を示しており、我々内部の親密な異者・いまだ知られていない部分としてのフロイトの無意識の発見の先鞭をつけている。

神秘的・想像的な仕方で、この古代エジプト理論は言っている、主体は自分の家の主人ではない(フロイト)、人は自分自身の身体のなかで何が起こっているか知らない(ラカン)、と。(LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、Frédéric Declercq,2004、PDF


【⑧最後のラカンの享楽とアルトーの身体】


最後のラカンの享楽とは、(おそらく)アルトーの「身体」とほとんど等価である(参照:「身体もなく、性もない処女 UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE (アルトー)と(a)-natomie 、(a)sexuée(ラカン)」)

・私の内部の夜の身体を拡張すること dilater le corps de ma nuit interne

・身体もなく、性もない処女 UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE 

だが微妙な差異はある(参照:話す身体と分裂病的享楽)。すくなくともドゥルーズ&ガタリを経由したアルトーの身体とは。

Il est particulièrement sensible dans Radiophonie que Lacan est intéressé par la voie que Deleuze avait dessinée dans sa Logique du sens mais dont Lacan ne prend pas à son compte les analyses de la jouissance que le grand spécialiste de Spinoza produira avec son complice Guattari en supposant des corps machiniques dont les branchements indifférenciés permettraient la circulation de flux de jouissance. Toutefois Lacan fait référence à la double valence du langage, à la fois véhicule du sens qui est incorporel et de la matérialité des mots qui comme les corps sans organessont divisibles à l'infini et connectables par choc entre eux porteurs d'une jouissance schizophrène. Le corps devient alors surface d'inscription du signifiant. Et c'est le signifiant (hors corps) qui découpe sur le corps et ses organes les localisations de jouissance. C'est ainsi qu'il faut entendre la phrase souvent citée de la page 409 des Autres Ecrits :

« Je reviens d'abord au Corps du symbolique qu'il faut entendre comme de nulle métaphore, a preuve que rien que lui n'isole le corps comme à prendre au sens naïf, sans celui dont l'être qui s'en soutient, ne sait pas que c'est le langage qui le lui décerne, au point qu'il ne serait pas faute d'en pouvoir parler. Le premier corps fait le second de s'y incorporer » [4](.LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、Présentation de la première séance du cours « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016,PDF

ここでの鍵は、la circulation de flux de jouissance.だろう。すなわち flux である。

ある純粋な流体 pur fluide が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体の上を滑走している. 。欲望機械は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もない」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。

un pur fluide à l'état libre et sans coupure, en train de glisser sur un corps plein. Les machines désirantes nous font un organisme; mais au sein de cette production, dans sa production même, le corps souffre d'être ainsi organisé, de ne pas avoir une autre organisation, ou pas d'organisation du tout. « Une station incompréhensible et toute droite » au milieu du procès, comme troisième temps: « Pas de bouche. Pas de Io.Hgue. Pas de dents. Pas de larynx. Pas d'œsophage. Pas d'estomac. Pas de ventre. Pas d'anus. » Les automates s'arrêtent et laissent monter la masse inorganisée qu'ils articulaient. Le corps plein sans organes est l'improductif, le stérile, l'inengendré, l'inconsommable. Antonin Artaud l'a découvert, là où il était, sans forme et sans figure. Instinct de mort, tel est son nom, et la mort n'est pas sans modèle.(ドゥルーズ+ガタリ、アンチ・オイディプス)

ヘーゲルとドゥルーズとのあいだの《相違は、内在性と超越論性とのあいだのにあるのではなく、流動と裂け目とのあいだにある。ドゥルーズの超越論的経験論の「究極的事実」は、純粋な生成の絶対的内在性である。他方、ヘーゲルの「究極的事実」は内在性「の/内部の」削減しえない亀裂である》(ジジェク『身体なき器官』)



2016年12月7日水曜日

「一の徴」日記⑤

以下、難解版。つまりわたくしはあまり分かっていない。だが「一の徴」という舟に乗ってしまったので、一応どうわかっていないのかを記しておかねばならない。

……構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「一のようなものがある il y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論(の本質と極めて首尾一貫したものだ。(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009ーー「一の徴」日記②

ーーとされ、ラカン自身もはっきりした答えを出していない部分の「さわり」にかかわるのだろうが、ざっとみるかぎりでは実に諸説紛々である。

 …………

ラカンは「一の徴 trait unaire」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasmーー「一の徴」日記②)

ジャック=アラン・ミレールの言っているのと同様に、S1とは抑圧された「一の徴」である、という指摘がロレンツォ・キエーザーー彼はジジェクの紹介によって名が知られたーーにある。

構造としての無‐意識的な un-conscious 「一の徴 trait unaire」は、主人のシニフィアンS1ーー構造的なもの・メタ構造の側にある無意識的なもの unconsciousーーである 。また S1 とは、抑圧された「一の徴」であるとも正当的に示唆しうる。ラカン自身、「一の徴」とS1とのあいだの類似性を強調している。初めて「主人のシニフィアンS1」概念を導入したセミネールXⅠ にて、彼ははっきりと示している、原狩猟人によって棒切れの上に刻まれた切り込み(セミネールⅨ における「一の徴」をめぐる叙述と同様に)とS1との関係性を。(ロレンツォ・キエーザ2006、Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa,PDF

他方、ジジェクには次のような記述がある。

主人のシニフィアンは無意識のサントームであり、享楽の暗号である。主体は、知らないままに、その主人のシニフィアンに支配されている。(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006、私訳)

・S1は抑圧された「一の徴 trait unaire」(ロレンツォ)
・S1は無意識のサントーム(ジジェク)

ーーとすれば「一の徴」と「サントーム」は等しいのだろうか。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

このミレールの文から「一の徴」と「サントーム」をほとんど等価とする解釈者もいる。

the sinthome as a signifier in the real is clearly linked with symbolic identification and the theory of the “unary trait”(Jonathan D. Redmond, 2012, .Elementary phenomena, body disturbances and symptom formation in ordinary psychosis、PDF)

ある時期のラカン自身、次のように言っている。

「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17、11 Février 1970)
享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、セミネール17、10 Juin 1970)

そして上の文を次の文とともに読んでみよう。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

一見、「サントーム」と「一の徴」は、同じものと扱ってよいようにも思える。だがその相違を指摘する注釈者もいる。ここでラカンの最も厄介な概念「Y'a d'l'Un(一のようなものがある)」に触れなければならない。

ミレール派肝入りの論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPS  Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF から引用する。

ラカンがサントームを「Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーーシニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返しréel essentiel l'itération」を解き放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération においてそれ自体を反復するのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの彼方には、身体と享楽がある。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse  Hélène Bonnaud)
言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

 サントームは「Y'a d'l'Un」の側にあり、「一の徴」ではない、と彼らは言っていることになる。

ほかにも次のような叙述がある。

文字 lettre とは…身体に出会ったシニフィアンの最初の徴である。この意味で、文字は、対象と「一の徴 trait unaire」の徴 marque と関係がある。(Chapitre VIII, commentaire Anne-Marie Le Mercier)

「文字」とは何か。ラカンのセミネール22には、「すべての一は、文字で書きうる」、そして「そこから症状が発生する」とある。

C'est ce qui de l'inconscient peut se traduire par une lettre, en tant que seulement dans la lettre, l'identité de soi à soi est isolée de toute qualité.

De l'inconscient, tout Un… en tant qu'il sustente le signifiant en quoi l'inconscient consiste …tout Un est susceptible de s'écrire d'une lettre. Sans doute, y faudrait-il convention.

Mais l'étrange, c'est que c'est cela que le symptôme opère sauvagement : ce qui ne cesse pas de s'écrire dans le symptôme relève de là. (S22, 21 Janvier 1975)


そして次のような解釈がなされる。

晩年のラカンの「文字 Lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」を理解する彼なりの方法である。(ヴェルハーゲ、BEYOND GENDER. From subject to drive Paul Verhaeghe 2001)

だがミレール派の直近の論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPSの著者たちの叙述に依拠するならば、

・Y'a d'l'Un ≒ sinthome

・文字 lettre≒「一の徴 trait unaire」

であり、サントーム sinthome は、「文字 lettre」でもなく「一の徴 trait unaire」でもない、と言っていることになる。

Y'a d'l'Un がサントームであるだろうことは、ジジェクも疑問符つきであるが語っている。

我々はいかに結びつけるべきか、ラカンがセミネールXX (アンコール)で展開した Yad'lun(一のようなものがある)と一連の「単一の諸シニフィアン unary signifiers」を。後者は、ファルス的主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier を通した単一化 unificationに先立つものである。すなわち無限の自己分割的 S1 (S1 (S1 (S1…)))の系列。…

ラカンの Yad'lun を、(「一のようなもの」の上に)欲動を構成する最小のリビドー的固着の形態として読んだらどうだろうか、 前-出来事的な「一以下の多 One‐less multiplicity」からの欲動出現の瞬間として読んだら? そうすれば、Yad'lun の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が強迫的に反復する痙攣のようなもの)である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

だがここでの問いは、sinthome と trait unaire とが異なるのであればどう異なるのか、である。

Y'a d'l'Unと「一の徴」が同じものではない、というのはラカン自身の言明がある。

「一の徴 trait unaire」は「Y a d'l'Un」とは関係がない。…「一の徴」は反復自体の徴である。(S.19、10 Mai 1972)

ほかにも次のような叙述がある。

« Yad'lun »とは《非二 pas deux》であり、それは即座に《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 》と解釈されうる。(S.19、17 Mai 1972)

ここでもう一度、Pascal Pernot の叙述を再掲しよう。

言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

そしてラカンの叙述を並べてみよう。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

そして冒頭に掲げたミレールの《S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである》をもふたたび想起しておこう。

これらから判断するに、原初から時系列に並べれば、「Y'a d'l'Un」 → 「一の徴 trait unaire」 →「主人のシニフィアンS1」という変遷があるようにみえる。そして順番に最初のもののほうがより原享楽(身体の純粋な享楽)に近いと捉えられないでもない。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララング lalangue によって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDFーー「一の徴」日記②)

ここで三人のラカン派臨床家の文章を並べてみる。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
反復は、最初の遭遇の痕跡を刻印する「一の徴 trait unaire」に起源がある。その痕跡は三度反復されたとき、喪失の反復を引き起こす。一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。したがってエントロピーがある。三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ねrencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。そしてその反復は、これらの徴のセリー(系列)としてのみ享楽を生き延びさせる。結果は、《ré-pétition》である。それは、ラカンが『エトゥルディ L'étourdit,』(AE493)で記したように二つの部分に書かれうる。「請願 pétition」と「欲求 appétit」の反復である。というのはラテン語のpeto は両方の語の共鳴があるから。コレット・ソレール、2003 Colette Soler Ce que lacan disait des femme)
乳幼児はまず最初になによりも母へ訴えなければならない。その訴えとは、欲動興奮と無力感の混淆物を基礎にしてである。母の応答は(鏡像段階を想起せよ)、(欲動興奮を)統御し、徴をつけ、満足を与える形で作用する。子どもがふたたび、同じ享楽(の統御)を見出したとき、母へとその「要求」を呼びかけねばならない。結果として、子どもは母の応答と同一化しなければならなくなる。そして母が既に生み出した徴の点に同一化することになる。 (ポール・ヴェルハーゲ、2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

ミレールとヴェルハーゲの叙述を参照しつつ、コレット・ソレールの叙述の核心部分を抜き出せば、

①一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。
②二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。
③三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ね rencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。

となる。ソレールはこれらのすべてを「一の徴」の三つの段階としているのだが、

①「一のようなものがある Y'a d'l'Un」
②「一の徴 trait unaire」
③「主人のシニフィアン S1」

と「変奏」できないだろうか。

ーーもっともいくらか厳密さを期さずに、ということではある(③をファルス的主人のシニフィアンと一概にはできないのは、「第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢」を参照)。

ジジェクはコレット・ソレール変奏の形で読もうとしているように思える。再掲すれば、

我々はいかに結びつけるべきか、ラカンがセミネールXX (アンコール)で展開した Yad'lun(一のようなものがある)と一連の「単一の諸シニフィアン unary signifiers」を。後者は、ファルス的主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier を通した単一化 unificationに先立つものである。すなわち無限の自己分割的 S1 (S1 (S1 (S1…)))の系列。…

ラカンの Yad'lun を、(「一のようなもの」の上に)欲動を構成する最小のリビドー的固着の形態として読んだらどうだろうか、 前-出来事的な「一以下の多 One‐less multiplicity」からの欲動出現の瞬間として読んだら? そうすれば、Yad'lun の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が強迫的に反復する痙攣のようなもの)である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ここでのジジェクの叙述は、アンコール最後にあるラカンの言葉遊び S1=essaim(ミツバチの密群)次の図の解釈をめぐっている。



ジジェクはこれを次のように読もうとしているようにみえる。


そしていままで記した叙述に則れば、sinthome (lettre (S1 (S1 (S1 (S1…))とも書けることになる。

いずれにせよ Yad'lun とは、現代ラカン派でさえもおそらく誰もがひどく曖昧なままの概念であり、ここでのわたくしの記述は、こう読めもしないか、という想定にすぎない。

かつまた一般には、サントームはすくなくとも三種類ほどの意味があるとされる。

たとえばYoungjin Parkはラカンの叙述を引用しつつ、次のように簡潔にまとめている。

i) the clinical necessity to knot the Imaginary and the Symbolic, and the Symbolic and the Real through splicing or suturing,

ii) Joyce's proper name or ego as a compensation for the lack of the paternal function and the imaginary relation,

iii) sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung).(Post-Fantasmatic Sinthome Youngjin, Park、PDF

すなわち、ここでのわたくしの記述は、三番目の《それ以上縮小できない症状、あるいは原抑圧としてのサントーム》のみをめぐっている。

とはいえ、サントームとはほんとうに原抑圧にかかわるのかはわたくしには瞭然としない。

サントーム sinthome は 抑圧されたものの回帰ではない。真理・意味に憩うものではない。サントームとは身体に起こった「ひとつの享楽 une jouissance」である。そしてそれは「真理の大他者l'Autre de la vérité」を排除する。…(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène BonnaudーーL'INCONSCIENT ET LE CORPS Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(ラカン、S.17)

上に引用したYoungjin Parkの一番目のサントームの意味は、(父の名の変種の機能として)比較的よく知られているだろう。

私が最初にサントーム le sinthome [ Σ ] として定義したものは、象徴界・想像界・現実界を一つに束ねるものである。…サントームの水準において…関係性がある…サントームがあるところにのみ関係性がある。

c'est de faire ce que, pour la première fois j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel…Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome.” (S.23、17 Février 1976)

そして自己創造によるシニフィアン、名付けがサントームであるというのもラカンがジョイスの事例を強調したことからよくわかる。これが二番目のサントームである。次の二文はサントームという用語は出てこないが、明らかにサントームをめぐる重要な示唆である。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、S22,.11 Mars 1975)
なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

そのときここで話題にした原症状(治療不可能なものとしての享楽の原子)としての三番目のサントームの意味が重要になってくるのだろうか。症状との同一化とは、またサントームとの同一化でもある。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

だがこの意味でのサントームが、Yad'lun であって、「一の徴 trait unaire」でも「文字 lettre」でもないという見解があるのは、いまこう記していてはじめて知った。

クリストフはキリストを支えた、
キリストは全世界を支えた。
なら言ってくれ、クリストフは、
その時、どこに足を置いたのか。

Christophorus Christum, sed Chiristus sustulit orbem:
Constiterit pedibus dic ubi Christophorus?

ーーフロイト『幻想の未来』(岩波新訳『ある錯覚の未来』より。原典はコンラート・リヒター『ドイツの聖クリストフ』1896

Yad'lun はtrait unaire を支えた
trait unaire は全精神生活を支えた。
なら言ってくれ、Yad'lun は
その時、どこに足を置いたのか・・・

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17)

Yad'lun はやっぱり至高の神に足を置いたんじゃないか

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、16 Mars 1976)

女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)



母が欲することは、神も欲する Ce que la maman veut, Dieu Ie veut

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF

ラカンの若い友人であったフィリップ・ソレルスの小説『女たち』の主人公の結論ーー 《われわれの時代の最も偉大な思想家であるファルス》から得た結論は、次の通り。 

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)

ソレルスのパートナー、ジュリア・クリステヴァは、ソレルスが1983年に上の小説を上梓する6年前、ラカンのセミネール24 (17 Mai 1977)に美貌の情熱的登場人物として出演している。

《すごい情熱だった、デボラは…壮麗なくらい…夢のイコン…火、知性…ぼくが出会ったなかで最も知的な女性…ソフィア…モザイク…穹窿のくぼみの形をした顔のいたるところで、爛々と輝く、生きいきした黒い眼差し…ぼくは彼女からほとんど離れなかった》

Julia KRISTEVA

C'est autre chose que de la linguistique.
Ça passe par la linguistique, mais c'est pas ça.

ーーセンセ! 言語、言語、言語学ってばっかりだけど、ちがうわ、別のものがあるわ!

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

もちろん小説のなかの話である・・・《真理は,虚構の構造において顕現する La vérité s’avère dans une structure de fiction》(Lacan, Ecrits, p.742)にしても・・・

いやいや・・・次の写真を貼り付けておこう。


Philippe Sollers et Jacques-Alain Miller、2011




2016年12月6日火曜日

「一の徴」日記④

もう少しフロイトの『集団心理学と自我の分析』に拘ってみよう。

まずフロイト読みなら誰もが知っている次の図をかかげる。




つまりは、


右端にある「外的対象」とは、同一化の対象である。

もし「一の徴」の焦点を絞って、簡略化して図示すれば次のようになる。




すなわち「同一の対象を自我理想とし、その結果おたがいの自我で同一化し合う個人の集まり」(フロイト『集団心理学と自我の分析』)ができあがる。unarie とは単一のことであり、すなわち単一の徴である。

この全能の徽章 insigne として、単に一つのシニフィアンを取り上げなさい。すなわち、この全き可能態における力 pouvoir tout en puissance・可能性の生誕の徴として徽章を。そうすればあなた方は「一の徴 trait unaire」を得る。その「一の徴」とは、主体がシニフィアンから受け取る不可視の徴 marque invisible を塞ぎ埋め combler、この主体を最初の同一化ーー自我理想 l'idéal du, moi を形成する同一化ーーのなかに疎外 aliène(同一化・異化)する。(Lacan,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR、1960, E.808)
「一の徴」、それは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)

よく知られているように uni-form(ユニ・フォーム) とは単一の形態でありこれも同様な機能をもつ。ユニ・フォームでなく、それは名前でもよい。たとえば「三井」という名。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

教授の喋り方にかかわる指摘は、前回掲げたがさわりだけ再掲しよう。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字「r」発音する風変わりな仕方があるとすれば、われわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは必要がない。(ジュパンチッチ、2006)

これらが「一の徴」の同一化である。たとえばロラン・バルトもこれにかかわるだろう同一化を語っている。

恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

これらを馬鹿げているという人がいるかもしれないが、人間の宿命である。

基本的に、「私が私である」のは、ある重要な他者と関係する私独自の仕方によります。もっと個別的に言うなら、私が他のジェンダーに関わる仕方、他の世代に、私の同僚に、そして最終的には、私自身に関わる仕方です。実に、幼児期以来受け取ってきたジェンダーのアイデンティティを鏡に映すことは、同時にジェンダーの関係を鏡に映すことでもあります。私の男性性は、いかに女性性に気づき学んできたかによって決定されます。もし私が女性をすべての悪の根源、私を罪に陥れるものと思い込んでいたなら、私は恐々とした、厳格な男ーー己れの煩悩に打ち勝つための闘争を女性に投影する男ーーになるでしょう。もし私が女性を優しく思いやりのある、けれども、支配的な存在だと感じていたなら、私はそこから永遠に逃れようと努める大きな息子man-sonになるでしょう。等々。これ等は、男と女の本質を定める努力の運命づけられた特質です。(Paul Verhaeghe、 Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities、2012ーー「アイデンティティ」という語の濫用/復活)

…………

閑話休題。

《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。》(ラカン、S9)





いやあ、じつにすぐれた「一の徴」の隠喩のGIFである。



とはいえ誤解のなきよう断っておくが、「一の徴」はけっしてファルスではない。ときにファルスがその機能を果たすことがあるにせよ。

演奏の後で、歌手やピアニストの周囲に群れをなして殺到する魅了された熱狂的な婦人たちや少女たちのことを考えていただきたい。たしかに、彼女たちの一人一人はたがいに嫉妬に燃えようとしている。けれども彼女たちの数と、それに関連して、愛着の目標を獲得することの不可能に直面して、彼女はそれを断念し、おたがいに髪をつかみ合うかわりに、一体となった集団のようにふるまい、共通のしぐさで人気者を祝福し、彼の巻き毛の飾りを分け合うのをよろこぶだろう。彼女たちは、もともと恋敵同士だったのであるが、同じ対象にたいして、同じ愛によっておたがいに同一化することができた。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

上に掲げたロラン・バルトの《神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚》、これが核心である。たとえば、ロラン・バルトの「プルーストと名」はほとんどそのことのみが書かれている、《誰もがプルースト的作家以上に『クラチュロス』の「立法者」、つまり名の創始者(demiourgos onomaton)に近くはない》。

その意味はで次の二文が臍である。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、S22,.11 Mars 1975)
なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

そしてーー何度も引用しているがーー、上の二文は次の文と同時に読まなければならない。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17、14 Janvier 1970)

いま我々がフロイト・ラカン的文脈で、かつまた架空の登場人物蚊居肢散人のようなスケベ心を捨てて、真に問うべきなのは、戦後の混乱期に米国からあたえられた憲法ーーとくに九条ーーが、日本社会の縫合点(ポワン・ド・キャピトン≒「一の徴」)になっていたのではなかろうかと問うことである。すなわち「平和憲法」という《神聖なものの至高な形式、マークつきの空虚》を放棄してしまったら日本社会はどうなるのだろう、と問うことである。

※ポワン・ド・キャピトン point du capiton :袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。



2016年12月5日月曜日

「一の徴」日記③

「一の徴」日記を①② と続けたが、ここでフロイトに戻ってeinzigen Zug ーーラカンの「一の徴 trait unaire」ーーを再確認しておくことにする。

もっともラカンはフロイトの概念を大幅に拡張してその理論を展開したのだが。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17)

ジジェクの言っていることは決して誇張ではない、《フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの Ie trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。》(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

さてフロイトの『集団心理学と自我の分析』1921からである。

自我が同一化のさいに、ときには好ましくない人物を、また、ときには愛する人物を模写することは注目に値する。両方の場合はいずれもこの同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひくにちがいない。

症状形成の第三の、とくにひんぱんで重要な実例は、同一化が模写した人物との対象関係をまったく度外視する場合である。たとえば寄宿舎の一人の少女が秘密の恋人から手紙を受けとり、その手紙が彼女の嫉妬を刺激した結果、ヒステリーの発作で反応するとき、それを知った彼女の二、三の女友達は、いわば心理的伝染によっておなじ発作を起こすだろう。この機制は、おなじ状態に身を置く能力、または置こうとする欲求にもとづく同一化の機制である。その女友達も秘密の恋愛関係をもちたいとおもい、罪意識の中で、その恋愛につきまとう苦悩をも引き受けるのである。

彼女たちは同情 Mitgefueh からその症状を自分たちのものにしているのだ、と主張することは正しくないだろう。その反対に、同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。その証拠に、このような伝染ないし模倣は、寄宿生の場合よりも、相互のあいだに、ずっとわずかしか一時の共感があるにすぎない事情の中でも行なわれるからである。

一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例で言えば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される。そして、病的な事情の影響下では、この同一化は、一人の自我が創り出した症状にまでおよぶのである。このようにして、症状を通しての同一化は、二つの自我の重複地帯にたいする目じるしとなるが、この地帯は抑圧されていなければならないものである。

…われわれは、この三つの源泉から学んだことを、次のように要約することができよう。第一に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式であり、第二に、退行の道をたどって、同一化は、いわば対象を自我に取り入れる Introjektion ことによって、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代用物になり、第三に、同一化は性的衝動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じることである。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化 partielle Identifizieruitg は、ますます効果のあるものになるにちがいなく、また、それは新しい結合の端緒にふさわしいものになるにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』人文書院旧訳からだが一部変更)

以下、ジュパンチッチ2006による注釈。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字「r」発音する風変わりな仕方があるとすれば、われわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは必要がない。

フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の関係性(密かな恋の危機)の瞬間に現われた「徴 trait」に同一化する形である。

この例は実に最も得るところが大きい。というのは、ラカンがこのフロイトの概念にかんして取り上げた二つの本質的な点を包含しているから。第一に、「一の徴」は、まったく気まぐれなものである。もちろん、同一化の点において「その徴を取り上げる」主体にとっての意義は、まったく気まぐれなものではない。この「徴」の類なさとは、次の事実から生じる。それは、主体の満足あるいは享楽への関係性を徴づけるのだ。すなわち、彼女らの結合の点(あるいは痕跡)を徴づけるのである。これは寄宿舎の例においてことさら明瞭である。

この例においては、何か別のものがまた明らかになっている。最初の少女のヒステリーの発作は、「徴」である(この事例では、すでに症状だが)。この徴が彼女の情事を想起させる。想起させるのは、少女が愛する対象を喪う切迫した危機にあるまさにその瞬間において、すなわち嫉妬によってだ。これは、ラカンがフロイトから取り上げて強調した二番目の重要なポイントである。それは、喪失と「一の徴」、そして埋め合わされた満足との間のつながりにかかわる。(Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value Reflections on Seminar XVII,,2006)


ラカンが「一の徴」概念を中心的に話題にしたのは、セミネール9 とセミネール17 だが、晩年までこの概念に拘っている。

セミネール24(16 Novembre 1976)には次のように記されている。

l'identification « paternelle »
l'identification « hystérique »
l'identification « à un trait »

上の文を別の叙述を拾って補足摘要すれば、

①父-愛への同一化 l'identification au père、l'identification amoureuse

②ヒステリー的同一化 l'identification hystérique(大他者の欲望への同一化) 

③ある徴 un trait、「一の徴 trait unaire」で作り上げられた fabrique 同一化

さらにラカンは、無関心な人物でもこの「一の徴」を基礎に構成された同一化が起こることをーー冒頭に引用したフロイトの『集団心理学と自我の分析』と同様にーーくりかえし強調している。

Une personne peut être indifférente et un trait unaire choisi comme constituant la base d'une identification.

セミネール22からも拾っておこう。

もしリアルな大他者があるなら、結び目じたい以外の何ものでもない。なぜなら大他者の大他者はないのだから。

s'il y a un Autre réel, il n'est pas ailleurs que dans le nœud même et c'est en cela qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre.

リアルな大他者は、あなたを想像界に同一化させる。そのとき、あなたは大他者の欲望へのヒステリー的同一化をする。

Cet Autre réel, faites-vous identifier à son Imaginaire, vous avez alors l'identification de l'hystérique au désir de l'Autre…

リアルな大他者の象徴界にあなた自身を同一化してみなさい。それは私が einziger Zug、trait unaire として特定した同一化である。

Identifiez-vous au Symbolique de l'Autre Réel, vous avez alors cette identification que j'ai spécifiée de l'einziger Zug, du trait unaire.

リアルな大他者の現実界にあなた自身を同一化してみなさい。あなたは、私が父の名として指示したものを獲得する。そしてそれは、フロイトが愛にかかわる同一化として叙述したものである。

Identifiez-vous au Réel de l'Autre réel, vous obtenez ce que j'ai indiqué du Nom-du-Père, et c'est là que FREUD désigne ce que l'identification a à faire avec l'amour.(ラカン、S22、8 Mars 1975)

フロイトのエディプス理論に戻ってしまったじゃないか、いささかそう見えないでもないという見解があるのは、「「一の徴」日記②」の末尾に引用されているポール・ヴェルハーゲによるもの。ほかにも「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」を参照。だがそれは臨床家の方々にまかせ、ここではメモに徹する。

三界(象徴界・想像界・現実界)の基礎は、フレーゲが固有名と呼ぶもの que FREGE appelle noms propres である。 (ラカン、S24. 16 Novembre 1976)
父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(ラカン、S22,.11 Mars 1975)
父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008
刺青は、身体との関係における「父の名」でありうる。…(場合によって)仕事の喪失は精神病を引き起こす。というのは、仕事は、生活手段以上のものを意味するから。仕事を持つことは「父の名」だ。

ラカンは言っている、現代の父の名は「名付けられる」 êtrenommé-à こと、ある機能を任命されるという事実だと。社会的役割にまで昇格させる事、これが現在の「父の名」である。 (ミレール、2009. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳,PDF

基本的にはイデオロギー的父の名との同一化はやめて、個人独自の父の名=サントームを発明しないさい、ということではある。

なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

このシニフィアンや父の名、あるいはサントームは、「一の徴」(自我理想)の変種である。


この全能の徽章 insigne として、単に一つのシニフィアンを取り上げなさい。すなわち、この全き可能態における力 pouvoir tout en puissance・可能性の生誕の徴として徽章を。そうすればあなた方は「一の徴 trait unaire」を得る。その「一の徴」とは、主体がシニフィアンから受け取る不可視の徴 marque invisible を塞ぎ埋め combler、この主体を最初の同一化ーー自我理想 l'idéal du, moi を形成する同一化ーーのなかに疎外 aliène(同一化・異化)する。(Lacan,SUBVERSION DU SUJET ET DIALECTIQUE DU DÉSIR、1960, E.808)
「一の徴」、それは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan,PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966ーー「一の徴」日記②)
われわれはシニフィアンの集合 batterie du signifiant における単一の印 trait unique、einziger zug に当面しているのである。 シニフィアンの連鎖 chaîne signifiante を構成するあらゆる要素と交換可能なものであり、それだけでそして常に同じものとしてこの連鎖を支えることができるのである。

消失していく主体のデカルト的経験そのものの限界に見出すのは、この保証の必要性、もっとも単純な構造の特徴、まったく非人格化した、単一の印 trait unique の必要性である。それは単に主体的なあらゆる内容の抽象のみではなく、この印、単一の印であることによって「一」である Un d'être le trait unique この印を超えるすべての変化を抽象する非人格化である。この印が構成する一の基盤づけはその単一性unicité にのみ由来する。これについては何よりも印として構成されるもの、この印に支持されることによって、すべてのシニフィアンに共通するものとしか言うことができない。

われわれの具体的な経験においてこのようなものにめぐり合うことがあるだろうか。これは哲学思想に多大な被害を与えた機能、つまり古典的伝統におけるすべての主体の構成が持っているほとんど必然的に観念論的な傾向にたいして理想化の機能 fonction d'idéalisation を置き換えるということである。

私が自我理想の形態 la forme de l'idéal du moi のもとに説明した構造的必要性がこの機能の上に成立するのである。根源的なシニフィアンへの主体の始源的同一化という、神話的なものではなく、まったく具体的なもの、 プロチヌスの一者からではなく単一の印 trait unique そのものから出発して、知らない者としての主体の展望が厳密に開くのである。今回はもっとも困難なものについて考察したのであって、これを通してより実践的な定式化が可能であることを期待しよう。(ラカン、S.9、22 Novembre 1961、向井雅明試訳ーー「一の徴」日記


サントームは、症状と幻想の混淆物ーーLe sinthome, un mixte entre symptôme et fantasme (ミレール 1998)であるなら、新しいシニフィアンを発明してそれが機能するように幻想に励みなさいということなのか?

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


ミレール派のThomas Svolosは、「ファミリーロマンスの構築」などという言葉さえ口にしている

サントームの臨床は、「普通の精神病」をもった主体の治療により大きな融通性をもたらしてくれる。排除の臨床では、治療は、父の名に錨を下ろした意味作用の流れに沿って方向づけられる。この臨床における享楽は、想像化された享楽imaginarized jouissanceであると、ミレールは特定する。すなわち象徴化の過程で避難させられた享楽だ、と。

反対に、サントームの臨床は、ラカンのララングによって示された方向に沿って組織される。それはシニフィアンと享楽のあいだの直接のリンクの上に築かれる。享楽の避難は、治療に効果を表す問題でありうるとはいえ、治療は意味作用や享楽の除去に向うだけではなく、意味作用と享楽のリンクに向かう。

エリック・ロランが特定するように、S1とS2の関係から、S1と対象aの関係への移行が、普通の精神病の臨床において決定的である。多くの治療において、享楽の量は元のままである(旧来のフロイトの概念を使用するなら)。とはいえ、精神病者は己れの享楽を飼い馴らす新しい方法を見出す。

主体のサントームは、主体の対象a、享楽のひとつ、彼の存在のサンブラン(見せかけ)に意味作用を持った同一化のリンクをする。このサントームを以て、主体は享楽自体ーーしばしば、精神病者にとってひどく破壊的な享楽ーーを除去するわけではない。むしろ享楽のお茶を濁す方法を見出すのだ。サントームは、精神病者にとってのララングのクッションの綴じ目なのである。

サントームは主体にとって社会的紐帯以外の何ものでもない。神経症の場合、父の名としてのサントームである。その父の名は〈大他者〉を構造化するものであり、あるいは、フロイトの読解なら、社会と無意識を統御するエディプス王、それは言説を統制するアリストテレスのトポスのようなものである。

しかし、その大抵の一般形式においては、サントームは社会的紐帯を構築する。どの話す存在にとっても〈大他者〉は存在しないとはいえ、〈大他者〉のサンブラン(見せかけ)はある。これが主体が利用する〈大他者〉であり世界を捉えるものである。それは、神経症の幻想を通してであったり、精神病者の最も風変りな仕方であったりするが、それらのサントーム的な、かつサンブラン化された〈大他者〉の構造化、ひどく型に嵌らない、〈大他者〉ーートポスの王を統御するあり方。

この状況において、分析家は、主体に作用するひとつの〈大他者〉an Otherを利用することによって、ーーそのひとつの〈大他者〉とは主体のサントームにとってぴったりの〈大他者〉だがーー精神病者を手助けする相当の自由の範囲をもつ。精神病の主体にとっての〈大他者〉the Otherのサンブランの練り上げのこの過程は、治療の方向性にとって、異なる水準を構成する。

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。Thomas Svolos、2008,Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant

 もっとも美や芸術の創造行為、あるいはそれらへの愛でさえ、ファミリーロマンスの一種かもしれないが(ラカンはジョイスをめぐってサントーム概念を語った)。ようは昇華である。性関係の不在と身体の享楽の。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらが原初の対象a(objets a primordiaux)の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(ミレール、2013,JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre)
すべてが見せかけ semblant ではない。ひとつの現実界 un réel がある。社会的紐帯の現実界 Le réel du lien social は、性関係の不在 l'inexistence du rapport sexuel であり、無意識の現実界 Le réel de l'inconscient は話す身体 le corps parlant である。 (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

「真の」芸術家のやっていることも昇華にすぎないかもしれないとはいえ、こうは引用しておこう。

芸術のシーニュが他のあらゆるシーニュにまさっているのは何においてであろうか。それは、他のあらゆるシーニュが物質的だということである。それらはまず第一に、シーニュが発せられていることにおいて物質的であり、シーニュのにない手である事物の中に、なかば含まれている。感覚的性質も、好きな顔も、やはり物質である。(意味作用を持つ感覚的性質が特に匂いであり味であるのは偶然ではない。匂いや味は、最も物質的な性質である。また、好きな顔の中でも、頬と肌理がわれわれをひきつけるのも偶然ではない。) 芸術のシーニュだけが非物質的である。恐らく、ヴァントゥイユの短い楽節は、ピアノとヴァイオリンとから流れでてくるもので、非常によく似た五つのノートがあって、そのうちのふたつが反復される、というように、物質的に分解されるものであろう。しかし、プラトンの場合と同じように、三プラス二は何も説明しない。ピアノは全く別の性質を持った鍵盤の空間的イマージュとしてしか存在せず、ノートは、全く精神的なひとつの実体の《音声的な現われ》としてのみ存在する。《まるで演奏者たちは、その短い楽節が現われるのに要求される儀礼をしているようで、演奏しているようではなかった……》 この点において、短い楽節の印象そのものが、物質なし(シネ・マテリア Sine materia)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』--社交・愛・感覚・芸術のシーニュ

…………

※付記

なぜ「一の徴」との同一化をめぐってラカンは晩年こんなにも模索したのか。

それはラカンの最後の教えは症状(サントーム)との同一化だからだ(サントーム≒「一の徴」であるのは前回みた)。

症状と同一化する s'identifier こと、症状と距離を取りつつ distance, à son symptôme。症状とうまくやっていくこと、これが最後のラカンである(ようするに原症状は治療不可能ということ)。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

《(これはまた)精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由である。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。》(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体 analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” 1976)
ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26、9 janvier 1979、粗訳)

La métaphore du nœud borroméen à l’état le plus simple est impropre. C’est un abus de métaphore parce qu’en réalité, il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel, c’est l’essentiel de ce que j’énonce. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel parce qu’il il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c’est ce que je n’ai pas osé dire. Je l’ai quand même dit. Il est bien évident que j’ai eu tort, mais je m’y suis laissé glisser, tout simplement. C’est embêtant, c’est même plus qu’ennuyeux. C’est d’autant plus ennuyeux que c’est injustifié. C’est ce qui m’apparaît aujourd’hui. C’est du même coup ce que je vous avoue. (Lacan, séminaire XXVI La topologie et le temps 9 janvier 1979)


ロレンツォ・キエーザやジジェク、そしてヴェルハーゲによるミレール批判はあるが(現在のミレール派臨床のやり方について)、彼らはラカンの上の言葉をどう捉えているかはわたくしには判然としない。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007)

※上のロレンツォの文にある「主体の解任」をめぐっては、「主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten」を見よ。