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2018年8月18日土曜日

「女のことは女のほうが知っている」という思い上がり

二年前、上野千鶴子さんの鳥語に感嘆したことがある。

@ueno_wan: 男のお守りはもうたくさんだ。女に甘え、女に依存し、女につけこみ、女をなめきり、それができないと逆ギレする。いいかげんにしろ、と言いたい。(上野千鶴子、2016 05.24)

なんとよくご存知なことだろう、男について。とくに多神教社会日本における前エディプス的男について、と。男たちにはなかなか気づき難く表現し難い、簡にして要をえた表現である。ここには若いころ俳句をたしなまれたせいもあるだろうーー〈葬ひのある日もっとも欲情す》--言葉の扱いにじつに巧みな、社会運動家としての美的表現がある。

《女に甘え、女に依存し、女につけこみ、女をなめきり、それができないと逆ギレする》--、これを日本的と呼ぶのは、一神教社会ではこのたぐいの男は少なかった筈だろうから。

もちろん父の権威の斜陽、いやもはや崩壊の時代の欧米先進諸国でもいまや日本的前エディプス男が輩出しているのだが、まだかろうじて父の名が機能しているのは、一神教の伝統の残りかすがあるせいだろう。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

ーーここでの記述は可能な限り、上野女史がひどく尊敬されている中井久夫に則ることにしよう。

母なる「共感の共同体」日本ーー中井久夫の言う「もともと父の権威などなかった」日本ーーその日本社会において欧米のフェミニズム運動をそのまま「直訳」し、「家父長制と闘う」などと勇ましく(ピントはずれに)叫びまくり、さらにいっそうの前エディプス男の跳梁跋扈を日本にもたらした原動力としてのインテリ知識人のひとりが誰であったかなどとという野暮な問いをここで追うことはしない。そんなことはまともな頭脳の持ち主なら今では誰もがわかりきっているだろうから。

ここでの問いはもっと本質的なことである。すなわち、

男のことをよく知っているのは、男ではなく女ではなかろうか。
女のことをよく知っているのは、女ではなく男ではなかろうか。

⋯⋯⋯⋯
表題を「「女のことは女のほうが知っている」という思い上がり」としたが、(わたくしの考えでは)ある前提に立てば精神分析的にはそうでありうるという意味である。
中井久夫は次のように言っている。

私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。(中井久夫『治療文化論』1990年)

この言明をすぐさま否定できる人がいるとは、わたくしには思えない。もっとも売春婦や精神科医を訪れる顧客は片寄りがあるという反論はあるだろう。だがわたくしは逆に、あれらの顧客のかかえている内実は、人間のエッセンスだという立場を取る。
だが売春婦の顧客は、基本的には男である。とすれば、精神科医が最も女と「ヘヴィな対人関係」を結んでいることになる。
とはいえ現在、精神科医のデフレーションがある。

現在の米国の有様を見れば、精神病の精神療法は、医師の手を離れて看護師、臨床心理士の手に移り、医師はもっぱら薬物療法を行っている。わが国もその跡を追うかもしれない。すでに精神療法を学ぼうという人たちの多くは、医師よりも臨床心理士ではないだろうか。(中井久夫「統合失調症の精神療法」1989年)

この意味で、女性に対する臨床心理士のひとつの形態でありうるホスト、あるいはAV監督の役割は侮れない。あれらは「カウンセリング行動」でありうるのだ。

ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュート(売春婦)も、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』)

ここでシンプルな問いを提出してみよう。わたくしは最近のAV監督を知らないので古い名を挙げるが、突出したカウンセリング的AV監督代々木忠と巷間の標準的なひとりの女とは、どちらが女というものについてよく知っているだろうか? と。
もっとも「女のことは代々木忠のほうが知っている」と言い放ってしまうつもりは毛ほどもない。だが彼ほど多数の女たちと「ヘヴィな対人関係」を結んできた人は数少ないのではなかろうか。
上野女史がじつにオキライらしい吉行淳之介のいう次のようなことを如実に感じとっているのか否かは実のところ窺い知れぬにしても。

まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっているのぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)

「代々木忠」に代表される「カウンセラー」としての男たちも完璧ではもちろんないのは当たり前である。たとえば男性の精神科医も代々木忠も子宮がない。ギリシア神話のティレシアスになったこともない、ーー《性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である》(テイレシアス)。
とはいえ吉行が次のように言うとき、男のわたくしとしては傾聴に値すると感じてしまう。

男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』ーーラカン派的子宮理論

この「女は子宮で考える」の意味するところは、穏やかに言えば「女は身体で考える」である。

私は私の身体で話している。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。
Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

ここでさきほどの問いを言い換えれば、「女は身体で考える」ことを女のほうが知っているのだろうか、男のほうが知っているのだろうか?

後期理論の段階において、ラカンは強調することをやめない。身体の現実界、例えば、欲動の身体的源泉は、われわれ象徴界の主体にとって根源的な異者 étranger であることを。

われわれはその身体に対して親密であるよりはむしろ外密 extimité の関係をもっている。…事実、無意識と身体の両方とも、われわれの親密な部分でありながら、それにもかかわらず全くの異者であり知られていない。(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS, 2004、PDF

「外密」、「異者」という用語が出てきているが、いくらか詳しくはーーたとえばフロイト・ラカン自身の言葉のいくつかはーー「ひとりの女とは何か?」を見よ。

ここでは次の簡潔な三文のみを引用しておく。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)

仮に人が「女は身体で考える」、すなわち自らの内部の異者のことを女のほうが知っているという立場に立てば、論理的には女性の精神科医・臨床心理士が最も女を知っているということになる。ただし「優れた」という形容詞を必ずつけねばならない。さらにこの女性たちが男性の治療者と対面するほどの「ヘヴィな対人関係」(転移)が生ずるか否かは、わたくしの知るところではない。その意味で、女同士で最も「ヘヴィな対人関係」(転移)を結ぶのは、ひょっとしてレスビアンの女性たちかも知れないが、関係数頻度は臨床家にははるかに劣る。

⋯⋯⋯⋯

中井久夫は《私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからない》としているが、「女のことは女のほうが知っているという思い上がり」という挑発的表現は、何よりもまずこの認識にかかわる。

私が他者の現前意識、すなわち他者の「比例世界」、他者の「私」にはいりこめないことは自明の前提としてもよかろう。しかし、他者の「メタ私」についてはどうか。なるほど、他者の「メタ私」を完全に知ることはできない。しかし、それは私の「メタ私」についても同様である。「私の現前する「私」」と「他者の現前しているであろう「私」」との間の絶対的な深淵のようなものはない。(……)

他者の「メタ私」は、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていう-――水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているではないか。(中井久夫「世界における索引と徴候」1990年)

ーー中井久夫の「メタ私」概念は、(一般に流通する)フロイトの無意識よりももっと広い概念と自ら言っていることを注記しておこう。
一般に流通するフロイトの無意識とは「抑圧された無意識」である。だがフロイトには「抑圧されていない無意識」概念もある、《抑圧されていない Ubw〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw 》(『自我とエス』1923年)。
「抑圧された無意識」とは、前期ラカンの《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》というときの無意識である。だが後期ラカンの無意識の核心は「抑圧されていないシステム無意識」である。フロイトはこのシステム無意識を原抑圧という用語でも語っているが、原抑圧とは実際は抑圧ではなく、固着(欲動の固着)である(参照:ヒト族には必ず「スプリッテイング(分裂・解離)」がある)。
現在のラカン派では「言存在 parlêtre」という用語が強調されているが、これが固着によるシステム無意識にかかわる概念である。

ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。(ジャック=アラン・ミレール、2014, L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER )
「言存在 parlêtre」用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)

中井久夫のラカン読解には、1990年代のこと、前期ラカンどまりの時代のことでやむえないこととはいえ、《抑圧されていないUbw〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw 》の側面が欠けている。たとえば次の文はあきらかな誤謬である。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

こうではないのである。ラカンにとって言語は現実界的シニフィアンもある、それが純粋シニフィアン・記号である。後者が中井久夫が1990年代から強調している《「もの」としての言葉》(参照)である。

我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole ・意味作用の原因としてのシニフィアン/文字 lettre ・純シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。》(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007)

フロイトにもすでに「事物表象 Sachvorstellungen」「語表象Wortvorstellungen」、「モノ表象 Dingvorstellungen」の三区分がある。これはラカン語彙に変換すれば、イマーゴ、象徴的シニフィアン、純シニフィアン(ララング)である。

もっとも中井久夫は、フロイトの精神神経症/現勢神経症の後者を阪神大震災以後しきりに強調するようになっており、これは90年代のラカン誤読(さらに言えばフロイト読解においてもやや欠けていた箇所)を補ってあまりある。現勢神経症こそシステム無意識(原抑圧=欲動の固着)にかかわるのだから。

フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」


さて理論的には上のようなことが言えるとわたくしは考えているが、中井久夫の言明、《私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているではないか》とは、限りなく正鵠を射ていると思う。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)

ーー中井久夫による超訳エリオット(四つの四重奏)である。

中期以降のフロイトにとっても、なによりもまず大切なのは、何を言っているかではなく、どんな行為をしているかである。

被分析者は、忘却されたもの Vergessenen、抑圧(放逐)されたもの Verdrängtenから、何ものかを「想起するerinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわすagieren」。彼はそれを(言語的な)記憶としてではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに、(行動的に)反復 wiederholen している。(フロイト『想起・反復・徹底操作 Erinnern, Wiederholen und Durcharbeiten』、1914)

そもそも発話内容・言表内容など全く当てにならない。

精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』)

当てになるとしたら言表行為である。

精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」)

………

ここまで記してきたことは単純化のために、次の男女の「性癖」を考慮していないことを断っておこう。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996 の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ、1998、Love in a Time of Loneliness)

日常的においても、男は女を観察する、場合によってはその「無意識」まで。だが女は男が女を観察するほどには、男を観察せず、ナルシスティックに自分のことを考える傾向にある。

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠組にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。「他者は私のなかになにを見ているのかしら?」 という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、Less Than Nothing、2012)

フロイト・ラカン派において、女というものは、原抑圧にかかわる用語である。

本源的に抑圧(追放)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。(ミレール、The Axiom of the Fantasm)

※一般にはかなり難解だが、よりいっそうの理論的注釈としては、「S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」を見よ。

2018年8月17日金曜日

知の欲動の起源としての妣孔

フロイトにとってヒト族の「知の欲動 Wißtrieb」の起源は、《子供はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎》(『性欲論三篇』1905年)である。フロイト・ラカン派精神分析において、後年に湧き起こる他のすべての知の探求はこの原初の知の欲動の昇華にすぎない。
したがってジャック=アラン・ミレール はこう言うのである。

精神分析は入り口に「女というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はない。そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめる。(ミレール「もう一人のラカン」1980年)

しかし《我々は土台を問題にすることをすぐに忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ》(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)ーーだからあの誰にでもあったはずの原初の問いを忘れてしまう。

老子の「玄牝之門」、プラトンの「コーラ χώρα」、ハイデガーの「杣径 Holzwege」、折口信夫の「妣の国」等、まともな思想家ならすべて御牝孔をめぐっている。ヘーゲルの「世界の夜 Nacht der Welt」、ニーチェの「私の恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin」「メドゥーサの首 Medusenhaupt」等も実質的にはそうである。ただまともな思想家が21世紀という知的退行の時代、稀有になってしまっただけである。

出産外傷とほぼ等価なものを強調するフロイト・ラカンの観点(参照)から隠喩的にいえば、人はみな御牝孔の穴ーーラカンは「ブラックホール un trou noir」「黒いフェティッシュ fétiche noir」「享楽の空胞 vacuole de la jouissance」等とも呼んでいるーーの引力に対して魅惑と戦慄をおぼえつつ循環運動をしているのである。
エロスとタナトスは、融合と分離 Vereinigungen und aufzulösenである。同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenであり、引力と斥力 Anziehung und Abstossung である。いまだフロイトの言葉を文字通り読むだけのインテリ連中、その模索彷徨の痕跡を読まない・読めない教養あるマヌケたち、すなわちタナトスが「死」の欲動だと思い込んだままの学者連中は、知的銃殺刑に値する。
むしろ究極のエロスが死である。御牝孔の穴に咥え込まれて消滅すること、これがエロスであり死である(女性の場合はどうか? これは記述が困難であるが、ここではウロボロスを想起すべきだと言っておこう。十分な記述ではないが、「無を食べる女たち」もいくらかの参照になる)。

もちろんラカン的にもうすこし穏やかに言ってもよい。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

とはいえこの発言も結局は次のようなことを暗示しているのである。




御牝孔の穴という表現がおきらいな方もいよう、その方々のために、フロイトがシェイクスピア論で記した「母なる大地 Mutter Erde」「沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin 」と言い換えてもよろしい。
ようするにエロス欲動とは、究極の融合という死に向かう欲動である。タナトス欲動とは、エロスの引力に魅惑されつつも究極の融合に戦慄し、そこから分離しようする運動、反発化・斥力の欲動であり、究極のエロスのまわりの循環運動である。
したがって人には二つの根源欲動の欲動混淆 Triebvermischung が常にある。人は荒木経惟の造語「エロトス」をけっしてみくびってはならないのである。
日本ラカン派社交界(学会・言論界)においては、享楽 jouissance という語がいまだほとんど理解されていないようにみえる。ラカンは享楽という語を剰余享楽 plus-de-jouir の意味で使っていることが多い。贔屓目にみればそれゆえの混乱である。実際はエロスとタナトスの問いをうっちゃっているためのボケぶりであろう。

人は、彼らの寝言をきくのはやめにしなければならない。真に問う力があれば、究極のエロス=究極の享楽=死であることが瞭然とする。死は享楽の最終形態に相違ないのである(参照)。

そして究極の享楽は、生きている存在には不可能であり、ゆえに享楽の不可能性というのである。剰余享楽とは不可能な享楽の「残りかす」という意味である。享楽/剰余享楽とは、厳密さを期さなければ、エロス/タナトスの関係にあるのは間違いない。
それがラカンのセミネールの1972-1974年にかけて何度もあらわれる次の図の示していることである。




話を元に戻せば、言語を使用するヒト族にとって、すなわち知の欲動をもつ人間種において、最も肝要なのは、「世界の起源 L'Origine du monde」を問い続けることである。

とはいえ問い続けてもどうにもなるものではないという立場もあろう。ある程度の悟りの境地に近寄れば、ひとは、大江健三郎のように《「中心の空洞」に向けて祈りを集中》しなければならないことに気づいたり、谷川俊太郎のように「なんでもおまんこ」というようになったりするのかもしれない。あるいは西脇順三郎のように女の放尿の放物線を崇敬する、すなわち女から/生垣へ/投げられた抛物線は/美しい人間の孤独へ憧れる人間の/生命線である」という生き方が処世訓としてありうる。ああ、「土を思い白鳥のように/濡れて野にしやがむ女の薔薇水の」ーー。

もちろん放尿線だけではない。生垣に穴をあけて接木を眺めるのもとても大切である。

この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している

やはり真の詩人は、死ぬまで「世界の起源」を問い続けていたのであろう。

ラカンのカントリーハウスには、ギュスターヴ・クールベの「世界の起源」が覆いをかけられて飾ってあった。



まさに《享楽のヴェール voilement de la jouissance》(S19)の仕掛けである。こんなものはいつもみているわけにはいかないのである。ゴダールはこのクールベの画を映画のなかで何度も使っているが、自画像のなかではいくらか穏やかに同じクールベの「白い靴下の女」への愛をこっそり示している。


(Gustave Courbet: La Femme aux bas blancs)

このくらいの作品だったら薔薇水や垣根の穴の系列に入ってバックリ感はわずかであり、穏やかな生のための処世訓的画であるとしてよい。

なにはともあれ世界の起源、最初の世界、原大他者は母に他ならない。この原大他者を最晩年のフロイトは、「偉大な母なる神 große Muttergottheit」と呼んだのである。もっとも多くの場合(とくに一神教社会)では、《母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter》(『モーセと一神教』)。この叙述は、人間の発達段階の隠喩として読まねばならない。

そしてフロイトの「偉大な母なる神 große Muttergottheit」を、ラカンは次のように言い換えたのである。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)
父などというものは、偉大なる原母たちの諸名の一つに過ぎない。

ラカンは、フロイトのトラウマ理論を取り上げ、それを享楽の領域へと移動させた。セミネール17にて展開した命題において、享楽は「穴」を開けるもの、取り去らなければならない過剰を運ぶものである。そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない。

フロイトによる神の系図は、ラカンによって父から〈女〉へと取って変わられた。我々はフロイトのなかに〈女〉の示唆があるのを知っている。父なる神性以前に母なる神性があるという形象的示唆である(『モーセと一神教』)。ラカンによる神の系図は、父の隠喩のなかに穴を開ける。神の系図を設置したフロイトは、〈父の名〉の点で立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望」と穴埋めとしての「女性の享楽」に至る。こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性、《白い神性 la Déesse blanche》 の諸名の一つに過ぎない、父は《母の享楽において他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)

母胎内から考えても出生直後を考えても、最初の世界は母、つまり女である。現在は稀な例外がいくらか増加しつつあるとしても。

この女は私たちの原支配者である。その意味は、乳幼児は母あるいは母親役の形象に対して、最初は必ず受動的な立場に置かれるということである。かつまたこの母なる形象は、身体の世話に伴った快不快を引き起こす「最初の誘惑者 ersten Verführerin」(フロイト、1940)である。つまり母-女は原セクシャルハラスメント者なのである。ことわっておけば、これは構造的な問題であり、女というもの自体には何の咎もない。
こういったこともあり、女流ラカン臨床家の第一人者コレット・ソレールは、母=原穴の名(原トラウマの名)というのである。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…「原穴の名 le nom du premier trou 」(「原トラウマの名」)である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

このトラウマを人はみな穴埋めしなければならない。それが、ラカンの「人はみな妄想する」の真の意味である。
逆方向の言い方をすれば、

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé( ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

である。このトラウマをラカンは、「穴ウマ troumatisme」とも言っている。なんの穴かはもう繰り返さない。



2018年8月16日木曜日

驚愕した陶器の顔の母親の口

驚愕した陶器の顔の母親の口が
赭い泥の太陽を沈めた (吉岡実「僧侶」)

やあ、きみたちにはわからないでいいんだ、この映像の衝撃が。寝ている母のオメコに指をつっこんだことがないきみたちには、な。




母の魂に最初の皺をつけたような、そこに最初の一本の白髪を生じさせた。(プルースト 「スワン家のほうへ」)

ようするに、

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

だよ

私はその驚きのことをときどき人に話してみたが、しかし誰も驚いてはくれず、理解してさえくれないように思われた⋯⋯(人生は、このように、小さな孤独の数々から成り立っている)。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


眠っている母の陰部に指をつっこむこと

風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)

この文さえ読まなかったらフロイトなんかそれほど読まなかったのに。みんなはないのかね、眠っている母のオメコに指をつっこんだことが?




ボクの原光景なんだ、鎮守の森が。西春町といういまは北名古屋になってるところなんだけど。当時は田圃ばっかりだった。

なんどもウナサレタね、18才ではじめて女とヤルまではことさら。

ことさらさりげない夢が、じつに赤裸々な欲情を隠しているということは、上にも主張したし、無数の新しい例をあげてこれを証明することもできる。しかし、どこをどう見ても何の変哲もない、意味のない夢の多くが、分析してみると、しばしば意外なほどの、紛れもない性的願望衝動に還元させられる。つぎに引用する夢などは、分析を加えてみなければ、ある性的願望を含んでいるなどとは想像もつかないだろう。《二つの堂々たる宮殿のあいだの、少し引っこんだところに小さな家があって、門はしまっている。妻が私を通りを少々案内して、その家のところまで連れてゆく。妻は扉を押し開いた。そこで私はすばやく堂々と、斜めに勾配のついた内庭へ滑りこむ》

夢の翻訳の経験がある人なら、狭い空間を押し入ることや、しまった扉をあけることなどがもっとも一般的な性的象徴であることに直ちに思いついて、この夢の中に、後部からの交接の試み(女体の二つの堂々たる臀部の丘のあいだに)の一表現を容易に見だすだろう。狭い、斜めに上っている通路は、いうまでもなく膣である。この夢を見た本人の妻に押しつけられた(道案内という)助力は、われわれにつぎのごとく判断するように強いる、つまり現実生活のうえでは妻に対する遠慮があればこそこのような性交形式を採ることが断念されているのだ、と。なおよくきき出すと、こういうことがわかった。夢の前日、若い娘がこの家に雇いこまれた。彼はこの娘が気に入って、上に述べたようなことを仕かけてもこの娘ならばたいしていやがりもしないのではないかちうような印象を与えられた。二つの宮殿のあいだの小さな家は、プラーグの一地区の残存記憶に糸を引くものであって、したがってやはりこのプラーグ出身の娘に関係している。(フロイト『夢解釈』)

狭い、斜めに上っている通路だって? 狭い通路だったらなんでもいいさ。





女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

侯孝賢は、ボクと同じような悩みがあったんじゃないだろうか?





母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)


で、ボクの辛樹芬とヤッタのは、昼下がり、樟がざわめく墓地の台座の上に女の腰のっけてさ。それ以後、鎮守の森は樟に転移しちゃったよ。




我々は、喪われた女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代替物として、ペニスの象徴 Symbole den Penis となる器官や対象 Organe oder Objekte が選ばれると想定しうる。これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。フェティッシュ Fetisch が設置されるとき、外傷性健忘 traumatischer Amnesie における記憶の停止 Haltmachen der Erinnerung のような或る過程が発生する。またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的な unheimlichen, traumatischen 印象の直前の印象が、フェティッシュとして保持される。

こうして、足あるいは靴がフェティッシューーあるいはその一部――として優先的に選ばれる。これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景の固着 fixieren den Anblick der Genitalbehaarung である。これには、あの強く求めていた女性のペニス weiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。

とてもしばしばフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間を結晶させているhalten。すなわち女性がファルスをもっている phallisch といまだ見なしうるあの最後の瞬間を捉えている。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)

いやあ、母と同じくらい陰毛の濃い女だったんだ


La Belle Epoque. Hou Hsiao-hsien

昨年の10月末にこの映像みてからがまたいけない、穴の底深くに入っちまった

なんで侯孝賢、こんなにボクにぴったんこなんだろ?






ヒト族には必ず「スプリッテイング(分裂・解離)」がある

中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

サリヴァンの「解離 dissociation」は、現在、精神医学で使用される解離とはやや異なる筈である。だが、それについては不詳の身でありここでは関知しない。

ここで示したいのは、フロイトの抑圧とは本来、スプリッティング(分裂・解離)にひどく近似した概念であるということである。

言語を使用せざるをえないヒト族には、身体的なものと心的なものの分裂が必ずある。これがフロイト・ラカン派においての最も基本的な思考であり、さらに言えば哲学的にも同様とさえ言える。

・言語の使用者は、人間に対する事物モノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩Metaphernを援用している。すなわち、一つの神経刺戟がまずイメージ Bildに移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Lautにおいて模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。

・人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年:死後出版)


そもそも「去勢」とは、フロイトの想像的去勢とは異なり(末尾資料貼付)、ラカン派においては象徴的去勢がなによりもまず強調される。この去勢こそなによりもまず「身体的なものと心的なものの分裂」という意味である。

ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ラカン自身による象徴的去勢の発言をひとつだけ掲げておこう。

去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante (ラカン、セミネール17、18 Mars 1970)

※もっともラカンにおいては、原去勢(現実界的去勢)とでもいうべきもの(フロイトにおける出産外傷=原トラウマ)の思考もある(参照:二つの穴と二つの現実界)。

⋯⋯⋯⋯

欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)

身体的なものと心的なものの境界は、全面的には越境できない。身体的なものの残りかすが必ず居残る(フロイトの「残存現象 Resterscheinungen」(1937)、ラカンの対象a)。

欲動を考えるうえでの核心的概念のひとつは「異物」(ブロイアー起源のフロイト概念)である。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

初期フロイトは、人のトラウマ的要因を神経システムによっては十分には解消しえない「興奮増大 Erregungszuwachs」として定義している(後には《興奮の過剰強度 übergroße Stärke der Erregung》(フロイト、1926)という表現も現れる)。

Diese tritt in Besitz der ganzen Quantität von Erregung, welche durch den Sexualtrieb frei gemacht wird; sie wird eine „affective Vorstellung―. Das heisst: bei ihrem Actuellwerden im Bewusstsein löst sie den Erregungszuwachs aus, der eigentlich einer anderen Quelle, den Geschlechtsdrüsen, entstammt. (フロイト『ヒステリー研究 STUDIEN ÜBER HYSTERIE』1895年)

この「興奮増大 Erregungszuwachs」を患者は意識から遠ざけようとする。そして、フロイトは結論づけている。この「意識的になること不可能な表象 bewusstseinsunfähiger Vorstellungen」が病理コンプレクスの核である、と。

Die Existenz solcher bewusstseinsunfähigen Vorstellungen ist pathologisch. Beim Gesunden treten alle Vorstellungen, welche überhaupt actuell werden können, bei genügender Intensität auch in's Bewusstsein. Bei unsern Kranken finden wir neben einander den grossen Complex bewusstseinsfähiger und einen kleineren bewusstseinsunfähiger Vorstellungen. Das Gebiet der vorstellenden psychischen Thätigkeit fällt bei ihnen also nicht zusammen mit dem potentiellen Bewusstsein; sondern dieses ist beschränkter als jenes. Die psychische vorstellende Thätigkeit zerfällt hier in eine bewusste und unbewusste, die Vorstellungen in bewusstseinsfähige und nicht bewusstseinsfähige. Wir können also nicht von einer Spaltung des Bewusstseins sprechen, wohl aber von einer Spaltung der Psyche. (同『ヒステリー研究』)

ここに「プシュケの分裂 Spaltung der Psyche」という語が出現する。

この思考の流れにおいての核心は、相入れなさ(葛藤 conflict)である。トラウマはプシュケ内部で相入れない分裂を設置する。この「分裂division」、もしくは「解離dissociation」が、フロイトを、意識システムと無意識システムのあいだの分裂という考え方に導いていく。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

もっともここでの無意識には二種類あることに注意しなければならない。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識 System Unbewußt (Ubw) は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、フロイトの云う「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

「システム無意識あるいは原抑圧」/「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」における原抑圧と抑圧については、下記の①が原抑圧、②が抑圧である。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後の抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)

原抑圧=固着とあるが、現在のラカン派では固着という語に最大限の注視が与えられている(参照:ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである)。

ポストフロイト後の精神医学においては、一部のラカン派をのぞき、このあたりのことがほとんど理解されていないようにみえるが、固着ゆえにスプリッテイング(分裂・解離)ありき、なのである。

「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながりconnexion)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

※フロイトの「置き残す」をめぐっては、「聖多姆と固着」に比較的詳しく記述した。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ2001, BEYOND GENDER From subject to drive by Paul Verhaeghe) 

「身体的なもの」は「心的なもの」に十分には移行されえない。「翻訳の失敗 Die Versagung der Übersetzung」「拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung」等々と訳されてる表現も、同じ意味である。

翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧(放逐)と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.»   (フロイト、フリース書簡 Brief an Fliess、1896)
欲動の蠢きTriebregungenは一次過程に従う…。一次過程 Primärvorgang をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程 Sekundärvorgang を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価としうる。…

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

言語表象 Wortvorstellung への翻訳の失敗、拘束の失敗、これが抑圧なのであり、残滓(残存現象)が異物として必ずある。異物とは、ラカンの《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 1976)であり、対象aである。

フロイトの「自我分裂 Die Ichspaltung 」をめぐる最晩年の草稿(死後出版)からも抜き出しておこう。

われわれは自我過程の統合を自明視しているので、このような過程の全体はきわめて奇妙なものに見える。しかしこの自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能synthetische Funktion des Ichs は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。(フロイト『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang 』草稿、1940年)

※用語だけの話だが、《心的装置における葛藤と分裂 Konflikten und Spaltungen im seelischen Apparat》(『快原理の彼岸』第1章、1920)という「分裂」を直接的に現わすだろう"spaltung"という語以外にも、フロイトは、"Zerfall" や"Dissoziation"を使っている。たとえば《心的生の分解(解離)《Zerfall (Dissoziation) des Seelenlebens hervorgehe. 》(フロイト、Kurzer Abriss der Psychoanalyse、1928)

⋯⋯⋯⋯

※付記


【身体なものとその心的代理との「矯正不能の分裂 disjunction】
『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001ーー「S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」)


【想像的去勢と象徴的去勢】
フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を人間発達の構造的帰結として定義した。ここで人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に我々は、己れ自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能性を強化する。というのは主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの手段にて進まざるを得ないから。こうして享楽の不可能性は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、大他者から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、これらのシニフィアンの使用はまさにある帰結をもたらす。すなわち享楽は、決して十全には到達されえない。これは象徴界と現実界とのあいだの裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能である。

社会的に言えば、この構造的与件の実装は、女と享楽・父と禁止を繋げる。両方とも、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の破壊的享楽・父-去勢者の懲罰ーーと結びついている。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる大他者 (m)Other が、子供の身体のに、享楽の侵入を徴付けるから。子供自身の享楽は大他者から来る。

次に、享楽を寄せつけないようにする必要性・享楽への道の上に歯止めを架ける必要性は、母と彼女の享楽の両方を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人は話す瞬間から享楽は不可能であるという真理を。これは、構造的与件としての「象徴的去勢」である。

ラカンはこの理論を以て、フロイトのエディプス・コンプレックス、そして以前のラカン自身のエディプス概念化の両方から離脱した。享楽を禁止する権威主義的父、ついには主体を去勢で脅かす父は、社会上の神経症的構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな与件、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティの問題、あるいは享楽の問題であれ、最終的統合の可能性が夢見られたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、さらに根本的に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。(もっとも)ラカンがこの欠如を象徴的去勢と命名した事実は、彼の理論の理解可能性を改善したわけではない。…(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009、私訳)



2018年8月15日水曜日

女王様にはお会いできません

一時的にせよ女王様になっていただいたひととはお会いできません。

蚊居肢ブログの架空の登場人物「蚊居肢散人」の主要人格は一年半前に記した「倒錯者の言説(マゾヒストの言説)」にある。




動作主、マゾヒストの倒錯者 a(典型的倒錯者)は、他者の欲望の対象-道具のポジションを占める。倒錯者はこのような形で、彼の(女性の)犠牲者を通して、彼女をヒステリー化された/分割された主体 $ーー彼女が欲するものを知らない主体ーーとして据える。倒錯者は、彼女が欲するものを知っている。すなわち、彼は知 S2 のポジションから(彼女の欲望について)語るふりをする。これによって彼は、他者への奉仕が可能になる。そして最終的に、この社会的つながり(愛の結びつき Liebesbeziehungen)の生産物は、主人のシニフィアンである。すなわちヒステリー的主体$は、倒錯者が奉仕する主人S1(女王様)の役割へと昇華される。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

ヒステリーの主体は、セックスではなく無条件の愛を求める

一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』)

・・・いまどき珍しい「父の法」への無意識的な支えが瞭然としているヒステリー的主体の「美しい」囀りをみてしまった


【ヒステリー的主体】
どの主体の根にも構造的トラウマがある。…だがヒステリーの主体は、その典型的ヒステリー構造のせいで、他者の性的行為を誘発し事故的トラウマ(レイプ等)を生みだしがちである。…

ヒステリーの場合、性的アクティングアウトは、性−性器的相互関係において、狭められた目標しかない。ヒステリーの主体は、セックスではなく無条件の愛を求める。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics, 2004)


【構造的トラウマと事故的トラウマ】 
人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

何か奇妙な・不気味な・外的なものとあるが、これがフロイト概念「異物」であり、ラカン概念の「外密」である。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (ラカン、S16、12 Mars 1969)

ーーそして、《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)。

異物と同じことだが、ラカンは《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 11 Mai 1976) 、あるいは《身体は穴》とも言っている(参照)。

⋯⋯⋯⋯

ヒステリーとその方言である強迫神経症は、精神神経症である。だが症状は二重構造になっており、このヒステリーと強迫神経症の底には、現勢神経症があって、その影響下にもある。そしてこの現勢神経症は原抑圧にかかわるということを、「フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」」で見た。上のバーハウ文にある「構造的トラウマ」とはこの原抑圧による穴 trou のことでもある。《私が目指すこの穴trou 、それを原抑圧 l'Urverdrängung自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

いま症状の二重構造にふれたが、したがって精神病理的なヒステリーや強迫神経症は、その下部にある現勢病理的な、倒錯・精神病・分裂病・自閉症と関係がないわけではない。



この図は、上部は「あなたのなかの男、あなたのなかの女」でいくらか詳述したが次の文に依拠している。

「エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性」と「タナトス・分離・孤立化(独立化)・強迫神経症・男性性」には、明白なつながりがある。…だが事態はいっそう複雑である。ジェンダー差異は二次的な要素であり、二項形式では解釈されるべきではない。エロスとタナトスが混淆しているように、男と女は常に混淆している。両性の研究において無視されているのは、この混淆の特異性である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 「二項議論の誤謬 Phallacies of binary reasoning」2004年、pdf

そして、下部は、「「分裂病+自閉症」/精神病(パラノイア)」を参照のこと。


話を図全体に戻せば、下部におりていくほど、おそらく人はエロス的になるだろうが、とはいえ倒錯・精神病・分裂病・自閉症のなかにも、おのおのエロス的/タナトス的なそれぞれがありうる(たとえば、倒錯におけるマゾヒズム/サディズムはエロス的/タナトス的とたぶんできるのではないだろうか)。

たとえば最近のジジェクは《サディストの倒錯は強迫神経症にとても接近している》(Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint?  2016)と言っている。

ところで、21世紀にはいってからのラカン臨床派は、一般化妄想(人はみな妄想)や一般化倒錯(人はみな倒錯)という議論がメインになっていて(参照)、かつてのように神経症・倒錯・精神病等の相違の話はされなくなっている。

とはいえ基本的には以下に引用するような相違はまだ十分に生きている筈である(もっともDSMにおいては神経症概念は消滅してしまっている)。

以下、参考にいくらか列挙するが、すくなくとも倒錯者を自認する蚊居肢散人には、実にぴったり当たっている記述がある。いまボクが記している内容自体、もちろんその実践である・・・


【神経症:ヒステリーと強迫神経症】
神経症とは何だろう? このシンプルな問いは答えるに難しい。というのは主に、フロイト理論が絶え間なく進化していくからだ。この変貌の主要な理由は、まさに強迫神経症の発見である、そしてそれはフロイトにとって生涯消え去ることのなった欲動をめぐる議論と組み合わさっている。私は、最初から結論を提示しよう。神経症とは、内的な欲動を〈他者〉に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスとエロス欲動を処置するすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと死の欲動に執拗に専念することである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、OBSESSIONAL NEUROSIS,2001)


【神経症(ヒステリー・強迫神経症)と倒錯】
倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を〈他者〉に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって〈他者〉の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(ジジェク『斜めから見る』1991)


【精神病と神経症】
精神病者は自分の「汚れた洗濯物(内輪の恥)」をいとも簡単に露呈させ、精神病者以外では打ち明けることに恥じらいを覚えるような猥褻な感情や行為を、精神病者は公にする。

これに対して、神経症者はそのようなものを見えるところから隠し、他者からも、自分自身からも見えないようにしてしまう。抑圧とは、このような事実と関係している。(フィンク, "A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis", 1995)


【神経症・精神病・倒錯者】 
神経症において、われわれはヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)


【倒錯と精神病の近似性】
倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我(=母の法)へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004)


【神経症者と倒錯者の相違】
神経症と倒錯の相違…神経症的主体は倒錯性の性的シナリオをただ夢見る主体ではない。彼あるいは彼女は同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認するということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯者の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の貧弱さを他者に向けて明示的に説教する。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe、PERVERSION II, 2001)


【窃視症者(倒錯者)の特徴】
窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗見行為の目眩く不安な興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、他人の内密な振舞いの盗み見みされた光景の悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深く観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)


【分裂病者と精神病者の相違】
あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2009)
分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)


【精神病における回復の試みとしての妄想形成】 
ラカンの精神病理論において、症状安定化のための三つの異なった理論が分節化されている。想像的同一化、妄想形成、補充(穴埋め suppléance)である。(Fabien Grasser (1998). Stabilizations in psychosis )
病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試みHeilungsversuch・再構成Rekonstruktionである。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)


【主体の故郷としての自閉症】
自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001) 

この一般的に流通する「自閉症」概念とはおそらく大きく異なるラカン派的な「自閉症」、その自閉症的享楽は「女性の享楽」とも呼ばれる。

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)



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2018年8月14日火曜日

フロイトの抑圧・ジャネの解離・プルーストの心の間歇

抑圧されたものの回帰とは抑圧のことであり、解離されたものの解消とは解離のことである。


【抑圧(=追放・放逐・防衛)と抑圧されたものの回帰】
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fliess、1896年)
抑圧されたものの回帰と抑圧とは同じものであるということには驚かないでしょうね? Cela ne vous étonne pas, …, que le retour du refoulé et le refoulement soient la même chose ? (ラカン、S1、19 Mai 1954)
抑圧と抑圧されたものの回帰は、一つであり同じものである。le refoulement et le retour du refoulé sont une seule et même chose,(ラカン、S3、14 Décembre 1955)
症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正当に叙述しうる。Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden. (フロイト『モーセと一神教』1939)
抑圧、原初に抑圧されたもの、この抑圧されたものはシニフィアンである。…抑圧と症状は相同的であり、シニフィアンの機能に還元される。Le refoulé, le refoulé primordial, ce refoulé est un signifiant… Refoulé et symptôme sont homogènes et réductibles à des fonctions de signifiants.(Lacan, S11、13 Mai 1964)
抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure

ーーおそらく多くの精神分析概念の混乱を解く鍵が、フロイトの固着にある。

※参照:「ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである

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 【解離と解離の解消】
解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

上の文は、以下の引用の末尾にある。その前段を含めてやや長い引用を掲げる。

もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。(……)

先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」(……)
プルースト的精神医学といえば、まず「心の間歇」と訳される intermittence du cœur が頭ん浮かぶだろう。『失われた時を求めて』は精神医学あるいは社会心理学的な面が大いにあり、社交心理学ないし階級意識の心理学など、対人関係論的精神医学を補完する面を持つにちがいないが、著者自身が小説全体の題に「心の間歇」を考えていた時期があることをみれば、まず、この概念を取り上げるのが正当だろう。フロイトの「抑圧」に対して「解離」を重視するのがピエール・ジャネにはじまる十九世紀フランス精神医学である。(……)

「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。では「心の間歇」は「解離」の一種なのか。(……)

現在の精神医学は、解離と呼ばれているものを病的解離と正常解離とにわけている。

病的解離とは多重人格障害 personnalité multiple、遁走 fugue(外からは意識的・合目的に見え、実際、遠方まで車を運転していったりするが当人は記憶していないもの)、種々の健忘 amnésie、夢遊病 somnambulisme、フラッシュバック(白昼に外傷的体験が意図せずして意識に侵入し一時これを占拠するもの)retour en arrière,flash-back、離人 dépersonalisation(自己、下界、身体あるいはそのすべての自己所属感が喪失する)などであり、催眠 hypnotisme はその人工的誘導である。覚醒剤使用者には断薬後二〇年以上経っても、少量の覚醒剤あるいはストレスによって大量服薬時の幻覚が発生する。元来、フラッシュバックという用語はこちらのほうを指していた。なお、実名で『失われた時を求めて』に登場する精神科医コタールの名を冠するコタール症候群 syndrome de Cotard とは自己、自己身体、外界のすべての存在を否定し、「ない」というもので、解離の極端例とも考えられる。(……)

病的解離の代表的なものとは、「心の間歇」は、言葉でいい表せば同じになることでも内実は大いに異なる。たとえば、同じ誘発因子を以て突然始まるといっても、臨床的に問題になる解離は、石段の凹みを踏んだ“深部感覚”、マドレーヌを紅茶に浸して口に含んだ口腔感覚といったものではない。引き金になるのは、性的被害を受けた現場に似ている場所や、戦場を思わせる火災である。さらに、現れる状態は誘発因子との関連が深く、「再体験」といわれる。また、同じく例外的状態といっても、侵入される苦痛の程度が格段に違う。それに、自己意識が消失したり、合目的的ではあるが自動運動に置換されたり、私が私であるという基本的条件が震撼させられる点もちがう。意識内容の一時的支配といっても程度の差は著しい。過去との記憶の関連があるといっても、病的解離においては不動静止画像が多く、時間が停止する。運動は混乱の極みに達し、しばしばパニックを起こす。「心の間歇」では動きがあり、感覚的に楽しささえある(精神医学的には「自我親和的」といってよかろう)。(……)
敢えて私自身の言葉を用いれば、マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(拙論「世界における徴候と索引」1990年、『徴候・記憶・外傷』みすず書房、2004年版所収)。もちろん、記憶の総体が一挙に意識に現前しようとすれば、われわれは潰滅する。プルーストは自らが翻訳した『胡麻と百合』の注釈において、「胡麻」という言葉の含みを「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」と解説したといっているが( …)、この言葉は、読書内容をも含めて一般に記憶の索引 ‐鍵をよく言い表している。フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく、通常の記憶ほどにはイマージュにも言語にも依存しない「鍵 ‐ことば‐ イマージュ mot- image-clef」は、呪文、魔法、鍵言葉となって、一見些細な感覚が一挙に全体を開示する。( …)それは痛みはあっても、ある高揚感を伴っている。敢えていえば、解離スペクトルの中位に位置する「心の間歇」は、解離のうち、もっとも生のさわやかな味わい saveur をももたらしうるものである。(……)
解離していたものの意識への一挙奔入(⋯⋯)。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。

われわれに解離すなわち意識内容の制限と統御がなければ、われわれはただちに潰滅する。われわれは解離に支えられてようやく存在しているということができる。サリヴァンの解離の意味は現行と少し違うが、「意識にのぼせると他の意識内容と相いれないものを排除するのが解離である」という定義は今も通用すると私は思う。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007)

2018年8月13日月曜日

黒洞々たる夜

外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。(芥川龍之介『羅生門』)

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◆坂井直樹「波動プロジェクトの一環として、ミニマリズムとマルチメディアを組み合わせて、動的なアート作品を作成する」(2017.07.28)

ーーとってもすばらしい作品だな、ブラックホール愛好家のボクにとってはことさら。



ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966ーー「男は女になんか興味ないよ」)




女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
女の中に種があんべ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂か風みたいなものだ

ーー西脇順三郎「旅人かえらず」


もっともいささかの不満がないことはない。贅沢な願いには違いないが、坂井直樹氏に荒木経惟並のエロス度があればもっとよかったのに、と蚊居肢子は考える・・・





あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(川端康成『雪国』)

◆ここにも秀作がある。→The Trip Out Gallery



フロイトがその大著『夢判断』の冒頭を飾る夢として選んだ、イルマの注射の夢。この夢があらわしている「潜在思考」は、若い女性患者イルマの治療の失敗に対するフロイトの罪悪感と責任感である。夢の前半、すなわちフロイトとイルマが対面している場面の最後で、フロイトは彼女の喉を覗き込む。彼がそこに見たものは、原初的な肉、〈モノ〉としての波打つ生命物質、癌のような忌わしい腫瘍という形をとった〈現実界〉をあらわしている。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970ーー「モノと対象a」)

2018年8月12日日曜日

フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」とラカンの「身体の享楽 jouissance du corps」

フロイトにおいては、精神神経症の基礎としての現勢神経症がある。これは症状は二重構造になっている、という意味である。

ラカンにおいても「ファルス享楽の基礎としての他の享楽(=身体の享楽・女性の享楽)」ということがおそらく言いうる。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
ファルスの彼岸 au-delà du phallus には、身体の享楽 jouissance du corps がある。(ラカン、S20、20 Février 1973)
非全体 pas toute の起源…それは、「ファルス享楽 jouissance phallique」ではなく「他の享楽 autre jouissance」を隠蔽している。いわゆる「女性の享楽 jouissance dite proprement féminine」を。 …(ラカン、 S19,、03 Mars 1972)


二重構造の上下の境界線は、両者において厳密には一致しないかもしれない。だが基本的には次のように図示しうる。




ようするに快原理内の症状/快原理の彼岸の症状、エディプス期以降の症状/前エディプス期の症状、抑圧の症状/原抑圧の症状である。

「現勢神経症 Aktualneurose」ーーあるいは「現実神経症」とも訳されているーーの「神経症」という語に違和があるなら、「現勢病理」、「現実界病理」と言い直してもよい。とすれば、一般的に流通する神経症概念としての「精神神経症」とは、「象徴界病理」である。

ジャック=アラン・ミレール 2005セミネールの図( Jacques-Alain Miller Première séance du Cours 、mercredi 9 septembre 2005、PDF)なら、左が象徴界病理、右が現実界病理の項目とすることができる。




この図においてテュケーとオートマンの位置が、おそらく標準的なラカン読解の方々には、逆のようにみえるかもしれない。なぜなら、セミネールⅩⅠの段階において、ラカン=アリストテレスのテュケー/オートマン(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])とは、「現実界との出会い rencontre du réel/シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」と示されているのだから。

だが上図のオートマンとは、「「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ」でいくらか詳しく記したが、次の言明にかかわる。

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

さて、ここでミレール図の記述内容について、ひとつだけ、ラカンの発言をかかげておこう。上の図の右側に穴 trouとある、《私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même》(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

今からフロイトの現勢神経症についての記述をいくつか掲げるが、そのなかのひとつには、現勢神経症とは原抑圧にかかわることが明瞭に示されている。

現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「精神的に選択され、精神的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912)
現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
精神神経症と現勢神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現勢神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)
……早期のものと思われる抑圧(原抑圧)は 、すべての後期の抑圧と同様、エス内の個々の過程にたいする自我の不安が動機になっている。われわれはここでもまた、充分な根拠にもとづいて、エス内に起こる二つの場合を区別する。一つは自我にとって危険な状況をひき起こして、その制止のために自我が不安の信号をあげさせるようにさせる場合であり、他はエスの内に出産外傷 Geburtstrauma と同じ状況がおこって、この状況で自動的に不安反応の現われる場合である。第二の場合(原抑圧の場合)は原初の危険状況ursprünglichen Gefahrsituation に該当し、第一の場合は第二の場合からのちにみちびかれた不安の条件であるが、これを指摘することによって、両方を近づけることができるだろう。また、実際に現れる病気についていえば、第二の場合は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現われ、第一の場合は精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

フロイトは、原抑圧は現勢神経症の原因である、と記している。原抑圧とはなによりもまず固着のことであり、現在の主流ラカン派では、ラカンのサントーム(原症状)は、フロイトの固着であることが強調されている(参照:ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである)。

したがって、フロイトとラカンとのあいだにあるだろう微妙な差異についての厳密さを期さなければ、次のようになる。



この図から、一般にも馴染みのあるだろう言葉のみを抜き出して上下の形でしめせば、症状の二重構造とは、つまりはこういうことである。




欲望と幻想とは等価である。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( ラカン、REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

こうして次のように言うことができる。上部には、欲望もしくは幻想という象徴界の症状があり、その欲望・幻想は、底辺の欲動・身体の症状(欲動の現実界 le réel pulsionnel)に支えられている、と。

私は私の身体で話している。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。

Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

こういった、フロイトやラカンの身体への思考の基本は、たとえばニーチェやスピノザに既にある。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「肉体の軽侮者」)

フロイトの『想起・反復・徹底操作』における《彼はそれを(言語的な)記憶としてではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに、(行動的に)反復 wiederholen している》とは、このニーチェ文の変奏とさえ言いうる。

そしてスピノザ。

自己の努力が精神 mentem だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神 mentem と身体 corpus とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質 hominis essentia に他ならない。(スピノザ、エチカ第三部、定理9、畠中尚志訳)

ーー現在、英語圏研究者のあいだでは、この「衝動 appetitus」は Trieb と訳されることが多い。すなわち「欲動」である。こうして《衝動とは人間の本質  hominis essentia に他ならない》とは、「欲動とは人間の本質に他ならない」ということになる。

欲動 Triebは、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenzbegriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代理 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)
自我の強度が病気、疲労などによって弱まれば、それまで幸いにして飼い馴らされた欲動 gebändigten Triebe のすべてはふたたびその要求の声を高め、異常な方法でその代償満足を求めることになる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937)

最後にこう言っておこう、ーー欲望は言語によって不器用に飼い馴らされた欲動である。そして欲動は、この言語空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

⋯⋯⋯⋯

※付記

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889年)
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retou rは権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

ーーフロイトは既にニーチェの永遠回帰は、「反復強迫 Wiederholungszwang」のことだと解釈している(参照)。そしてもちろん反復強迫とは快原理の彼岸にある欲動にかかわる。