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2015年10月31日土曜日

杣径のなかの信仰を持たない者の祈り

「信仰を持たないでいても、ある宗教的なものといいますか、祈りのようなものを自分が持っていると感じる時が、人生の色々な局面であったのです。やはり信仰の光のようなものがあって、向こうからの光がこちらに届いたことがあると私は思っているのです。」(大江健三郎『信仰を持たない者の祈り」)

◆「まことに神の子であった Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen.」



「つつしみ」といったが、それは礼儀作法のもっと原初的で包括的なものである。ちなみに「宗教」の西欧語のもとであるラテン語「レリギオ」の語源は「再統合」、最初の意味は「つつしみ」であったという。母権的宗教が地下にもぐり、公的な宗教が父権的なものになったのも、その延長だと考えられるかもしれない。ローマの神々も日本の神々も、威圧的でも専制的でもなく、その前で「つつしむ」存在ではないか。母権的宗教においては、この距離はなかったと私は思う。それは、しばしば、オルギア(距離のない狂宴)を伴うのである。母親の名残りがディオニュソス崇拝、オレフェウス教として色濃く残った古代ギリシャでは「信仰」はあるが「宗教」にあたる言葉がなかったらしい。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』所収


◆マタイ受難曲BWV244「愛ゆえに 我が救い主は死に給うAus Liebe will mein Heiland sterben 」


Gundula Janowitzー Karajan

ーー「主よ、信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコによる福音書9章24節)

聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(シュネデール)

◆カンタータ BWV 127「魂はイエスの手にて憩う Die Seele ruht in Jesu Händen」



BWV 127 :Eileen Farrell-Robert Shaw


どのような入り方をしても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠されて
踏み迷う

空を裂く
鳥の声は小さな悲鳴
両手を泳がせ
枝をかきわけて
つくる小径
星と虫
死骸の層に靴は沈み
凶兆の泥が付着する
実と見れば齧り
青くしびれる舌
…………(「森」  須永紀子


◆ カンタータ BWV202 「しりぞけ、もの悲しき影 Weichet nur betrubte schatten」



BWV202 AugerーGerard Schwarz




「森の道」 Holzwege(1950) :森林の空地 Lichtungに至る森のなかの道、それは人跡未踏の道、迷いの道であり、 Lichtung とは存在の Lichtungである(ハイデガー

◆ Cantata BWV 12 「泣き、歎き、憂い、怯えweinen klagen sorgen zagen」


BWV12 Ton Koopman

存在者を越えて、しかし離れてではなく、それに先立って、もう一つ別のことが起る。存在者全体の真只中に一つの開けた場所 eine offene Stelle が現成する。一つのLichtung がある。存在者の側から考えれば、それは存在者より以上に存在する。この開けた中心 die offene Mitte は、従って存在者によって囲まれているのではなく、この光を与える中心 die Iichtende Mitte そのものが一切の存在者を包む umkreisen のである。存在者は、このLichtung のなかに入って照らされるときにのみ、存在者として存在しうる。このLichtung のみが我々人間に我々以外の存在者への通路と、我々自身である存在者への接近を贈り、保証する。……存在者がそのなかに立つLichtung はそれ自身において同時に隠蔽である。隠蔽は存在者の只中において二種の仕方で行なわれる(Holzwege)


◆カンタータ BWV 105「いかにおののき、よろめくことかWie zittern und wanken」


BWV105 鈴木雅明

聖アウグスティヌスによれば、神とは包み込みながら満たすものだというが、音楽はそのような神の属性をそなえている。音楽はまわりを取り巻き、包囲し、しかも内部にとどまっている。それは部分の部分であり、耳に向かってたちのぼってくる苦痛あるいは快楽の切っ先である。(シュネデール)

◆カンタータBWV 106「神の時こそいと良き時Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit」



BWV 106 (Ton Koopman)

一切のものは、独白的芸術に属するか観客相手の芸術に属するかのいずれかである。この後者には、なおまた、神への信仰を内に抱くあの見せかけだけの独白芸術、つまり祈祷の叙情詩の全部が、含められる。というのも、信心深い者には孤独というものがまだ存在しないからだ。こうした区別の案出は、われわれが、背神の徒であるわれわれがはじめてやったことなのだ。

総体的に見た上での芸術家の光学に関しては、つぎのような区別にまさる深い区別を、私は知らない。—それはすなわち、芸術家が観客の目を起点として自分の生成中の芸術作品の方(「自己」の方—)を眺めているのか、それともまた、すべての独白的芸術の本質がそうであるように、「世界を忘却して」いるのか、という点からする区別である。—独白的芸術は忘却に基づいている、それは忘却の音楽なのだ。( ニーチェ「悦ばしき知識」信太正三訳)

◆ Bach -Furtwängler"Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen"





ひかりといふひかりが……   生野幸吉

ひかりといふひかりがはしり抜ける
蒼ぞらは不意にあかるくなり
ひとびとは不可解な
どよめくあらしの一塊にみえる……
(……)

ひとり慄へるやうに かぜにたましひを投げわたすやうに……



…………

いちじくの樹よ、すでに久しい以前からおんみはわたしに意味深いのだ、
いかにおんみは花期をほとんど飛び越えて、
遅疑することなく決意した果実のなかへ、
世の声高い賞讃もうけず、おんみの清純な秘密を凝集することか。
噴水の管(くだ)にも似ておんみのしなやかな枝々は、
樹液を下へ、上へと送り、それはほとんど醒めることなしに、眠りの中から
甘美な事業の幸福へとおどり入る。
さながら神があの白鳥に転身したように。(リルケ『ドゥイノの悲歌』第六 手塚富雄訳)

◆Faure Andante Opus 121



Faure Andante Opus 121(Emile Naoumoff piano transcription)

……この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。(プルースト「囚われの女」)

◆Gabriel Fauré,. Quatuor à cordes, Allegro




立ち昇る一樹。おお純粋の昇華!
おおオルフォイスが歌う! おお耳の中に聳える大樹!
すべては沈黙した。だが沈黙の中にすら
新たな開始、合図、変化が起こっていた。

静寂の獣らが 透明な
解き放たれた臥所から巣からひしめき出て来た。
しかもそれらが自らの内にひっそりと佇んでいたのは、
企みからでもなく 恐れからでもなく

ただ聴き入っているためだった。咆哮も叫喚も啼鳴も
彼らの今の心には小さく思われた。そして今の今まで
このような歌声を受け入れる小屋さえなく

僅かに 門柱の震える狭い戸口を持った
暗い欲望からの避難所さえ無かったところに――
あなたは彼らのため 聴覚の中に一つの神殿を造った。

ーーリルケ「オルフォイスに寄せるソネット」より 高安国世訳



2015年10月29日木曜日

音声言語の裏に常に張りついている漢字表象

記銘における兆候性あるいはパラタクシス性は、言語化によって整序されているとはいえ、その底に存在し続けている。それは日本語の会話において音声言語の裏に常に漢字表象が張りついているという高島俊男の指摘に相似的である。想起においても兆候性あるいはパラタクシス性は、影が形に添うごとく付きまとって離れない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』p.73)
非漢字民族の留学生を観察していると、漢字を一つの流れとして把握するのは十歳後半以降は非常に困難で、一般に図形として記憶されるようである。ちなみに、漢字は図形でなく一字一字が一つの流れである。漢字を思い出すのに指を動かすのは日本人も中国人もする。また活字に習熟し崩し字に苦しむわれわれには信じにくいことかもしれないが、江戸の庶民は草書は読み書きができたが、楷書は読めても書けない人、読めもしない人がむしろ普通であったと聞く。そもそも中国においても草書のほうが早くかつ広く普及したという。(中井久夫「記憶について」『アリアドネからの糸』p.120)

《かなと漢字の分担に関して、常識的には、かな(訓読み)こそが漢字(音読み)を注釈していると見なしたくなる。(……)だが、ラカンは、まったく逆に、漢字が、かなを注釈することにおいて、無意識を触知可能なものとして浮上させていると暗示したのであった。今や、ラカンのこの暗示に、日本語の書字体系に対する深く、正確な洞察が含まれていたことが明らかになる。述べてきたように、日本語にあっては、漢字は、かなから区別されることで、外来性を明示し続ける。発話に必然的に随伴するあの「残余」は、つまり無意識は、この漢字の外来性に感応し、そこに表現の場を見出すのである。》(大澤真幸『思想のケミストリー』)

たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。(……)

私はつぎのように書きました。《ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それは音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が触知可能である」。したがって、日本人には「抑圧」がないということになる。なぜなら、彼らは無意識(象形文字)をつねに露出させているーー真実を語っているーーからである》。したがって日本人には抑圧がないということになる。なぜなら彼らは意識において象形文字を常に露出させているからだ。したがって、日本人はつねに真実を語っている、ということになります。(柄谷行人『日本精神分析再考(講演)』(2008)より

ーーこの柄谷行人の見解には異論があるのは知っている。だが文脈上の参照のために掲げている。

…………

「あたしを嫌いなくせに。あたしだって好きじゃない」

その言葉が、奇妙に僕の欲情を唆った。僕は娘の顔を眺めた。うっすらと荒廃の翳が、その顔に刷かれていた。僕は娘の躯を眺めた。紡錘形の、水棲動物めいた躯が衣裳のうえから感じられた。(吉行淳之介『焔の中』1956年)

《「翳」という文字がある。たとえば、日の光を受けた街路樹が、地に落すかげ、重なり合った木の葉のかげが、地面でチラチラ動く、そういうかげのときは、「翳」を使わないとおさまらない。心の具合が顔や軀の上に惨み出てユラユラ動いている場合も、「翳」である。》(吉行淳之介)

日本の作家の場合、このように漢字を「象形文字」として使う場合がある。吉行は初期には上のように「躯」と記したが、後に「軀」への偏愛を後に示したことは比較的よく知られている。 

吉行淳之介はかつて三島由紀夫の文体を《漢字の美的感覚に寄りかかり過ぎている》と批判している。だが後年《あの発言は自分の嫉妬からだった》と洩らすことになる。

清顯は聰子の裾をひらき、友禪の長襦袢の裾は、紗綾形と亀甲の雲の上をとびめぐる鳳凰の、五色の尾の亂れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聰子の腿を遠く窺はせた。しかし清顯は、まだ、まだ遠いと感じてゐた。まだかきわけて行かねばならぬ幾重の雲があつた。あとからあとから押し寄せるこの煩雑さを、奥深い遠いところで、狡猾に支へてゐる核心があつて、それがじつと息を凝らしてゐるのが感じられる。

やうやく、白い曙の一線のやうに見えそめた聰子の腿に、清顯の體が近づいたときに、聰子の手が、やさしく下りてきてそれを支へた。この恵みが仇になつて、彼は曙の一線にさへ、觸れるか觸れぬかに終つてしまつた。 
和尚の男根は巨松の根のやうにわだかまり、和尚の顔は恐悦の茶いろの舌を出してゐる。若後家の、胡粉で白く塗られた足の指は、傳來の畫法によつて、悉く内側へ深く撓められてゐる。からめた白い腿から顫動が走つて、足指のところで堰かれて、曲られた指の緊張が、無限に流れ去らうとする恍惚を遁がすまいと力んでゐるように見える。
……目の底には、繪巻の女の一途な足指の撓みが殘つてゐる。その卑猥な白さの胡粉の色が殘つてゐる。

それから起つたことは、あの梅雨のものうい熱氣と、伯爵の嫌惡からとしか言ひやうがない。(三島由紀夫「春の雪」) 
 

以下の吉行淳之介の文はーー三島由紀夫の文とは異なって現代の若い人たちでもそれほど違和なく通用するだろうがーー、「軀」だけでなく、数多くの「象形文字」の散乱による眩暈を覚えないではない、と言っておこう。


■『砂の上の植物群』(1964)より

旅館の玄関に立って、案内を乞うと、遠くで返事だけがあってなかなか人影が現れてこなかった。少女と並んで三和土に立って待っている時間に、彼は少女の軀に詰まっている細胞の若さを強く感じた。そして、自分の細胞との落差を痛切に感じた。少女の頸筋の艶のある青白さを見ると、自分の頸の皮が酒焼けで赤黒くあんっており、皮がだぶついているような気持になった。

待っている時間は、甚だしく長く感じられた。ふたたび、何かが軀の中で爆ぜ、兇暴な、危険な漿液が軀に満ちてくるのを感じた。
京子に加える荒々しい力は、そのまま彼女の中に吸い込まれ、やがてその軀は皮膚の内側から輝きはじめる。
そのときA女の軀が燃え上がった。重ね合わさった二人の女の軀のすべての細胞が白い焔を発して燃え、やがてB女の軀は蛍光色に透きとおってA女の軀に溶接された。男の眼の前には、B女の背のひろがりがあり、不意に彼の鼻腔にある匂いが流れ込んできた。それはB女の肩のあたりから立上がってくるのか、あるいはその下に在るA女の胸から発するものか判別ができなかったが、太陽の光を十分に吸い込んだ牧草の匂いである。娼婦たちの軀が熱したときに漂ってくる、多くの男たちの体液の混じり合った饐えたにおい、それに消毒液の漂白されたようなにおいの絡まり合った臭気とは全く違ったものだった。
制服の布地には、授業中の教室の鎮まり返ったにおいが滲み込んでいる。その布地は少女のにおいを吸い込んで、明子の胸をひっそり包み隠しているようにみえる。(……)

明子の眼に映る札束は、金銭としてのものではない。明子に純潔を説いてやまぬ姉の京子の軀の裂目から露出した臓物のようなものとして、明子の眼には映っている筈だ。
その瞬間から、明子が溶けはじめた。

赤い唇を中心にして、波紋が拡がってゆくように明子の硬い顔を溶けてゆき、ついには唇が軽く外側にめくれ上がった。そのめくれ上がった唇を中心に、ふたたび硬直がはじまるか、と彼は見詰めたが、そのことは起らなかった。

全身の筋肉がほどけ、明子はやわらかく溶けて横たわっていた。はじめて、真赤な唇と紺色の制服との対照が、彼の予期していたものになった。明子の軀は、溶けて、淫らにセーラー服から食出していた。さまざまの刺激が、長い時間かかって明子の細胞の内側に届き、いま一斉にその細胞が伊木に向かって花開いたようにみえた。

今まで見たことのない明子の顔が、彼の足もとに在った。しかし、見覚えのない顔ではない。そのことが、彼には不思議に思えたが、間もなく理由が分かった。それは、京子の恍惚とした顔に、酷似していたのだ。
長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくこととがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。


2015年10月28日水曜日

ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)

ラカンの「四つの言説」をめぐるジジェクの叙述箇所を私訳して掲げる。「SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.」2004からであり、これは後の書にも(たとえば2006,2012の大書にも類似した記述がある)。

なお2012年の『LESS THAN NOTHING』には、ラカンの最も重要な二つの公式「四つの言説」と「性別化の公式」の統合の試みがなされている(参照:性別化と四つの言説における「非全体」)。



より基本的な理解としては、「「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)」を見よ。ポジションや用語、その形式的構造については、このポール・バーハウの概説がとてもすぐれている。

さらに初期ジジェクの四つの言説の説明(1991)については、ほぼバーハウの解釈にて代替できるが(参照)、そこに付加的に記されている叙述は四つの言説だけに囚われないためにも忘れてはならない指摘である。

忘れてはならないのは、この四つの言説の母体は、コミュニケーションにおける四つの可能な位置の母体だということである。

(……)しかしラカンの晩年のすべての努力の目的は、この意味としてのコミュニケーションの領域を突破することである。ラカンは、明確で論理的に純化されたコミュニケーションおよび社会的束縛の構造を確立した後、四つの言説を経て、ある「自由浮遊の」空間の輪郭を描く作業にとりかかった。その空間内では、シニフィアンは言説による束縛、すなわち分節に先行する。それは、社会的束縛という「物語」に先行する「先史」の空間、つまり、言説のネットワークを擦り抜けるある精神病的な核の空間である。……(ジジェク『斜めから見る』pp..246-248)

この議論は、2012年の著作になっても問い続けられている(「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」)。

…………

さて、ジジェクの以下の叙述は、図式的な説明に限定されず、「四つの言説」の動く構造ーー構造は図式ではなく機能する形式であり、機能を停止したあとの形式のイメージではないーーがより鮮明化されており、これも四つの言説の形式的理解だけで満足しないために欠かせない指摘であるだろう。


シニフィアンの定義とラカンの言説理論】

四つの言説のマトリックスの出発点は、ラカンの名高いシニフィアンの「定義」、《シニフィアンはほかのシニフィアンに対して主体を代表象する》である。とはいえ、我々はこの明らかに循環論法的な定義 circular definition をどう読んだらいいのか?

旧式の病院のベッドには、患者の視野外にある足元に、小さなディスプレイ器具が置いてあり、患者の体温や血圧、薬物治療などに特化した種々のチャートや記録が表示される仕組みとなっている。

このディスプレイは患者を代表象している、ーーだが誰のためにだろう? 単純にあるいは直接的には、他の主体に対してではない(例えばこのパネルを規則的にチェックする看護婦や医師に対してではない)。そうではなく、基本的には他のシニフィアンに対してである。その他のシニフィアンとは、医学的知の象徴的ネットワーク(の諸シニフィアン)であり、そのネットワークのなかに、パネルに表示されるデータが、その意味を獲得するために、書き込まれなければならない。

人は容易に想像することができるだろう、パネル上のデータの読み取りが自動的に進んで行くコンピューター化されたシステムを。医師が取得し読み取るものは、これらのデータではなく、医学的知に従って、諸データからもたらされるダイレクトな結論だ…。

シニフィアンの定義から引き出される結論は、私の象徴的(代)表象には、常にある種の残余があることだ。その残余とは、私の発話の具体的な、血肉化された宛先にかかわる。この理由で、具体的な宛先に届くことに失敗した手紙でさえ、ある意味で、真の目的地に到達点する。その目的地とは〈大他者〉、他の諸シニフィアンという象徴的システムである。

この過剰の直接的具現化のひとつは、症状である。その症状とは暗号化されたメッセージであり、その宛先はほかの人間ではない(私が自分の身体に症状ーー私の欲望の内奥の秘密を曝す症状ーーを刻印するとき、どの人間もダイレクトにはそれを読み取りえない)。そしてそれにもかかわらず、剰余としての症状が生まれた瞬間にその機能を果たす。というのは、〈大他者〉に、つまり真の宛先に届くからだ。


注):《このように、ラカンのシニフィアンの公式(シニフィアンは他のすべての諸シニフィアンに対して主体を代表象する)は、マルクスの商品の公式(価値形態論)と構造的な相同性がある。そこにもまたシニフィアンの公式と同様な二項一組 dyad を伴っている。

すなわち商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する。ラカンの公式におけるヴァリエーションでさえ、マルクスの価値形態表現の四つの形式への参照として体系化されうる(『為すところを知らざればなり』の第一部を見よ)。この線に沿えば、決定的なのは、ラカンがこの過程の剰余-残余を、剰余享楽(plus-de-jouir)としての対象a として規定したことだ。これは、マルクスの剰余価値への明示的 explicit な参照である。》





【象徴的レディプリカティオ reduplicatio】

四つの言説のラカンの図式は、四つの主体的ポジションを分節化しているが、そのポジションとは、多方面な社会的つながり social link 内部での主体のポジションであり、それはシニフィアンの公式から論理的にもたらされるものだ(そこでは精神病者は除外される。精神病とは象徴的社会つながりの破綻だからだ)。

その全ての構築は、象徴的レディプリカティオ reduplicatio の事態を基礎にしている。reduplicatio、すなわちそれ自身のなかに向かう実体 entity into itself と構造のなかに占める場との二重化 redoubling である。それは、マラルメの rien n'aura eu lieu que le lieu(場以外には何も起こらない)、あるいはマレーヴィチの白い表面の上の黒い四角形のようなものだ。どちらも場自体を形式化しようとする奮闘を示している。むしろこう言ってもいい、要素としての場のあいだの最小限の差異と。その要素としての場は、要素のあいだの差異に先行しているものだ。

Reduplicatio (二重化)が意味するのは、要素は決してその場に「フィット」しないということだ。この私とは、私の象徴的付託が「私とはこういう者だ」と告げるものでは決してない。この理由で、主人の言説は必須の出発点となる。その言説のなかにいる限り、実体と場は「一致する」からだ。主人のシニフィアンは、事実、「エージェント」ーーエージェントとは主人のエージェントであるーーの場を占める。対象a は「産出物」ーー産出物とは消化されえない過剰であるーーの場を占める、等々。

そして二重化、要素と場のあいだのギャップ、それが一連の変化を生み始める。たとえば、主人は己れをヒステリー化する(主人の言説からヒステリーの言説への移行)、実際に何がいったい私を主人にしているのだろう、と問い始めることによって

このように、主人の言説を基盤にして、人は他の三つの言説の発生へと移行してゆく。それは、順々に、他の三つの要素を主人(エージェント)の場に置くことによってである。

 簡単に言えば、多くの人びとは、〈私〉という一人称単数代名詞によって語りはじめ、そのとき言表行為と言表内容は一致しているつもりになり勝ちかもしれない。

主人の本質は、彼が何を欲しているのか知らないことである。これが主人の言説の真の構造を構成している。(ラカン、S.17)

……l'essence du Maître, à savoir qu'il ne sait pas ce qu'il veut. Car c'est cela qui constitue la vraie structure du discours du Maître.


〈私〉=S1というシニフィアンは、我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる(S.17)、 “maître/m'être à moi-même”のだ。 〈私〉という小さな主人 petit Maître, comme « moi »(S.17) がもっとも分かりやすい主人のシニフィアンである(わたしたちの名前ももちろんS1だ)。

あなたは、最低限の言語構造をもつために、少なくとも二つのシニフィアンが必要である。だから二つの用語がすでにある。それがS1とS2だ。S1は最初のシニフィアン、フロイトの「境界シニフィアン(境界語表象)border signifier」、「原シンボルprimary symbol」、さらに「原症状primary symptom」とさえ言えるが、特別な地位をもつ。それが主人のシニフィアンであり、欠如を埋めようとし、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。その意味で、S1は “le savoir”、その連鎖に含まれている知の分母denominatorである。(ポール・バーハウ
〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

だがそれに疑いをもった瞬間、人は別の言説へと移行する。

〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。(ジジェク、2012)ーー「ラカン派の「記号」と「シニフィアン」」)

さらにここでニーチェをも抜き出しておこう。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』ーードゥルーズ『ニーチェ』からの孫引き 湯浅博雄訳より)

さらに遡ればヘーゲル、--いやヘーゲルはやめて彼の若き時代の親友ヘルダーリンにしよう。

もし私が、私は私だというとき、主体(自我)と客体(自我)とは分離さるべきものの本質が損なわれることなしには、分離が行われて統一されることはありえない。逆に、自我は、自我からの自我のこの分離を通じてのみ可能なのである。私はどうやって自己意識なしに、“私!”と言いうるというのだろう?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」私訳

一人称単数代名詞の使用にまともな作家なら誰でも苦労しているはずだ。

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(……)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル 観念のエロス(作家の方法)』)


以下のラジオフォンにおける四つの言説の図にあるregressionとprogresという言葉にも注目しておこう。







【各四つの言説】

大学人の言説では、知 S2 がエージェントの(主人の)場を占める。それは、主体 $ を「産出物」の場、消化されえない過剰残余物へと変身させる(S2→a→$)。

ヒステリーの言説では、真の「主人」、実質的に主人自身を脅迫し支配するエージェントは、ヒステリー化した主体である($→S1)。その主体は、主人の場にあること $ = agent の絶えまない問いを伴っている、等々。


だからまず最初に、主人の言説が基本のマトリックスを提供する。すなわち、主体はほかのシニフィアン(シニフィアンの鎖、あるいは「ふつうの」諸シニフィアンの領野)に対して(代)表象される。残余--喉のなかの骨ーーは、象徴的表象に抵抗するものであり、対象a として現れる(「産出される」)。そして主体は、この過剰 a に向けて、彼の関係をなんとか「正常化」しようとするのだが、それは幻想的形成物を通してである(この理由で、主人の言説の式の下部は、幻想の式 $ – a のマテームがある)。

この論理規定 determination の外観上の矛盾において、ラカンはしばしば主張する、主人の言説は、幻想の領野を締めだす唯一の言説だと。ーーさて我々はこれをいかに理解すべきだろうか?


【言表行為 enonciation」と言表内容 enonce】

ーー「自我は自分自身の家の主人ではない」“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”(フロイト)

主人の振舞いの錯覚 illusion は、言表行為(その場から発話する主体のポジション)のレヴェルと言表された内容のレヴェルとのあいだの完全な合致である。主人を特徴づけるのは、〈私〉を完全に飲み込む absorb 発話行為である。そこでは「私は私が言っている私」なのだ。要するに、完全に実現された、自給自足の self-contained 行為遂行的な振舞いである。

そのような理想的な合致は、もちろん、幻想の局面を締め出している。というのは、幻想は言表された内容とそこに横たわる言表行為のポジションとのあいだの裂け目を埋めるためにこそ出現するからだ。幻想は次の問いに対する応答である、「あなたはあれやこれやと私に言う、けれどなんなの、それ? そんなふうに言うことで、本当何が言いたいの?」。しかしながら、主人においても幻想の局面は残存している事実があり、それは主人の言説の究極的な避けがたい袋小路をシンプルに知らせている。

おなじみの高級マネージャーを思い起こしておくだけで十分だろう、彼はときどき娼婦を訪ねることを余儀なくされる。マゾヒストの儀式に没頭するためだ。そこでは彼は「たんなる対象として扱われる」。能動的な公的存在として、彼は部下たちに命令を下し彼らをこき使う(主人の言説の上部レベル S1–S2)。これは、他者の享楽の受動的な対象へ変わりたい(下部のレヴェル $ – a)という幻想に支えられている。

カントの哲学において、欲望の機能は、偶発の対象に依存した「病理的な pathological 」ものである。だから「欲望することの純粋機能」はない。他方、ラカンにとって、精神分析はまさに「純粋欲望批判」である。言い換えれば、欲望は非病理的(ア・プリオリ)non-pathological (‘a priori') な対象-原因をもっている。すなわち対象a、それ自身の欠如と重なる対象である。

《……第四の動機は「日記」を文の作業場にすることである。《美しい》文のではない。正確な文のである。つまり、絶えず言表行為〔エノンシアシオン〕の(言表〔エノンセ〕のではない)正確さを磨くことである。夢中になって、一生懸命、デッサンのように忠実に。もうまるで情熱としっていいほどに。《もしあなたのくちびるが正しい事を言うならば、わたしの心も喜ぶ》(『箴言』、第二十三章十六節)。これを愛の動機と名づけよう(多分、熱愛的とさえいってもいいだろう。私は「文」を熱愛する)。……》(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収

ーーここに言表行為という言葉が出てくるが、結局、エクリチュールに向うということだ。

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。

しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。

だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)


【主人のシニフィアン S1】

主人のシニフィアンとはなにか? 記念すべき第二次世界大戦の最後の段階で、ウィンストン・チャーチルは政治的決定の謎を熟考した。専門家たち(経済的な、また軍事的な分析家、心理学者、気象学者…)は多様かつ念入りで洗練された分析を提供する。誰かが引き受けなければならない、シンプルで、まさにその理由で、最も難しい行為を。この複合的な多数的なもの multitude を置換しなければならない。多数的なものにおいては、どの一つの理屈にとってもそれに反する二つの理屈があり、逆もまたそうだ。それをシンプルな「イエス」あるいは「ノー」ーー攻撃しよう、いや待ちつづけよう…ーーに変換しなければならない。

理屈に全的には基礎づけられえない振舞いが主人の振舞いである。このように、主人の言説は、S2 と S1 のあいだの裂け目、「ふつうの」シニフィアンの連鎖と「法外の」主人のシニフィアンとのあいだのギャップに依拠する。

ここで軍隊の階級を思い起こしておこう。そこには奇妙な事実がある。階級は軍隊の指揮序列内部のポジションとは重なり合わないのだ。将校の階級ーー中佐、大佐、司令官…から、人は指揮の階層的連鎖(大部隊の指揮官、軍集団の指揮官)のなかにある彼のポジションを直接的には引き出しえない。

元々もちろん、階級は指揮のあるポジションに直接的に基づいている。しかしながら、奇妙な事実は、階級がこのポジションの指定を二重化しようとするやり方である。今日、人はこう言う、「総司令官 Michael Rose、ボスニア国連保護軍指揮官」と。なぜ二重化するのか、なぜ階級を廃止してシンプルに指揮系統のなかにあるポジションにて将校を指し示さないのか? 唯一、文化革命全盛期における中国軍が階級を廃止し、指揮系統におけるポジションを使用した。

二重化の不可欠性はまさに主人のシニフィアンをつけ加えることの不可欠性である。それは社会のヒエラルキーにおけるポジションを指示する「ふつうの」シニフィアンへの付加である。同じギャップはまた同じ人物の二つの名前によっても例証される。ローマ教皇は同時に Karol Wojtyła(カーロル・ヴォイティワ)と John Paul II(ヨハネス・ポール2世)である。最初の名は「本当の」人物を表している。他方、二番目の名は、教会組織の「不可謬の infallible」具現化としての同じ人物を指し示す。ーー憐れむべき Karol カーロルは、酔っ払い馬鹿げたことを洩らすことができる。他方、John Paul II ヨハネス・ポールが話すときは、それは彼を通して話す神聖な精神自体である。


【(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2のカップル】

人はいま分かるだろう、正確な意味において、ラカンの命題が孕んでいるものを。その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2のカップルの十全な調和的現存 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。

(中略)


【〈一〉と記銘のその空虚な場のあいだの分裂】

…ラカンの la femme n'existe pas(〈女〉は存在しない)は男性と女性の「二項」極のカップルを掘り崩すことをまさに目指している。元々の分裂 split は〈一者〉と〈他者〉the One and the Other のあいだにはない。そうではなく、厳密に〈一者〉the One 固有のものである。〈一〉 the Oneと記銘 inscription のその空虚な場とのあいだの分裂である(これが、カフカの名高い言葉、《メシアは彼の到着のあとに一日遅れてやって来る》を読むべき方法だ)。

これはまた、〈一〉に固有の分裂と多数的なもの the multiple の爆発とのあいだの繫がりをいかに理解すべきかにかかわる。すなわち、多数的なものは原初の存在論的事実ではない。多数的なものの「超越論的」起源は、二項シニフィアン等の欠如にある。多数的なものは失われた二項シニフィアンの裂け目を埋めるための一連の試みとして出現する。


【主人の言説の肯定的側面】

こういうわけで、主人の言説を撥ねつける理由はない。権威主義者の抑圧と主人の言説をあまりに早急に同一化してしまう過ちを犯さないようにしよう主人の振舞いはすべての社会的紐帯の基盤となる振舞いである。

社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、主人は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。その後、大学人の言説は、知のネットワークーーこの判読可能性を、定義によって支えるーーを分節化するわけだが、その言説は、当初の主人の振舞いを前提条件とし、それに頼っている。

主人は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。

ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。そしてナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。


【〈一〉とゼロのあいだの最も微小な差異】

S1 と S2 のあいだの差異は同じ領域内の二つの対立する差異ではない。むしろ〈一〉(One)の 用語に固有のこの領域内の裂け目である。トポロジー的には、二つの表面において同じ用語を得る。

言い換えれば、元々のカップルは二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなくシニフィアンとその二重化 reduplicatio、シニフィアン とその記銘 inscription の場、〈一〉とゼロのあいだの最も微小な差異である。

では、どうやって S1 と S2 は関係するのか? 我々は二つの相反するヴァージョンのあいだの選択に揺れ動かなかったか。

最初のヴァージョンでは、二項シニフィアン、S1 の釣り合いの取れた対応相手は「原初的に抑圧されている」。そして、この抑圧の空虚を補うために、S2 の連鎖が出現する。元々の事実は、S1 とその対応相手の場にある空虚のカップルであり、S2 の連鎖は二次的なものである。

二番目のヴァージョンでは、「謎のような用語」、空虚のシニフィアンとしての S1 の出現の説明において、原初の事実は、逆に、S2 、その不完全性における徴示的 signifying 連鎖であり、この不完全性の空虚を満たすために、S1 が介入する。

いかにこの二つのヴァージョンをうまく調和させうるか? 究極の事実は二つの相互的影響の悪の循環だろうか?

ーージジェクはここで問いを投げだしたままにしている。LESS THAN NOTHING(2012)にも同じような問いがある(メイヤスーに触れた箇所であり、わたくしは消化できていないが、そのさわりを掲げておこう)。

では、唯物論と観念論のあいだの選択は、シニフィアンの秩序のなかの多数的なものと〈一〉とのあいだの関係性の最も基本的な枠組みにかかわるのだろうか?

原初の事実とはシニフィアンの多数的なものの事実だろうか。その多数的なものは〈一〉の引き算 subtraction を通して全体化されるのか。

それとも「棒線を引かれた〈一〉」という事実か? ーーもっと正確に言うなら、〈一〉とその空の場のあいだの緊張の事実、二項シニフィアンの「原抑圧」という事実により、多数的なものがこの空虚のなかの二項シニフィアンの欠如を埋めるのか?

いっけん最初のヴァージョンが唯物論者のもので、二番目のヴァージョンが観念論者のものに見えるかもしれないが、我々はこの安易な誘惑を拒絶しなければならない。本当の唯物論者のポジションからは、多数的なもの multiplicity は空虚の背景に反してのみ可能である、ーーこれのみが多数的なものを非-全体 pas-tout にする。

原初の多数的なものからの〈一〉という(ドゥルージアンの)「起源」、いかに全体化する〈一〉が起こるかという「唯物論者」の説明は、こういうわけで拒絶されるべきだ。なんの不思議でもない、ドゥルーズが同時に「生気論者的」〈一〉の哲学者であることは。(ジジェク、2012)

このドゥルーズの「生気論者的」〈一〉の哲学者的側面は、浅田彰による「超越論的経験論」をめぐる説明箇所に当るのだろう(たぶん?)

ドゥルーズは、他者というのは「可能世界の表現」だと言う。私の知覚野は狭いけれども、他者は私に見えないものが見えているかもしれないし、私に感じられないものが感じられているかもしれないし、そもそも、そのような他者がいるからこそ知覚野が共同主観的構造として整然と秩序化されているのだ、と。しかし、それは現象のレヴェルの問題にすぎない。たしかに、そういう他者がいなくなると、最初、世界の秩序が崩壊して、ロビンソンは非常な苦しみを体験する。しかし、それを突き抜けていくと、ロビンソン自身も島全体がエレマン(諸元素)の群れとなって立ち上がり、コスミックなロンドを踊り始める。フライデーが出てきても、他者としてではなく、すでにエレマンテールなものとして出てくるにすぎない。それがトゥルニエの偉大な独我論的ファンタスムなのだ、というわけです。

それと併せて見れば、ドゥルーズは、ニーチェからクロソフスキーに至る多数多様性のヴィジョンを、むしろトゥルニエ的な独我論の相で見ていると言えるのではないか。(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)より





【大学人の言説詳述】

大学人の言説は「中立的」知のポジションから発せられる。それは現実界の残余に向けられ(言わば、学者ぶった知の場合なら、「未加工の、飼い馴らされていない子ども」に向けられる)、その a を主体に変える(S2 → a → $ )。

大学人の言説の「真理」は、横棒の下に隠されているが、もちろん、権力、つまり主人のシニフィアンである。大学人の言説の構成的な虚偽は、その行為遂行的側面の否認である。実際上、権力を基盤とした政治的決断に帰するものを、事実に基づく状況への単純な洞察として提示してしまう。

ここで避けねばならぬことはフーコー的な誤読だ。すなわち、産出された主体は、単純には、知と権力の規律ある適用の結果として生ずる主体性ではない。そうではなく残余である。それは知-権力の把握から逃れたものだ。「産出物」(言説のマトリックスにおける第四番目の用語)は多面的作用の結果を表しているのではない。そうではなく「分割できない残余」である。多面的ネットワークのなかに含まれることに抵抗した過剰なのだ。つまり、言説自体がその核心のなかで異物として産みだしたものである。

たぶん主人のポジションーー大学人の言説の下に横たわっているーーの典型的事例は、我々の日常生活における医学(医師)の言説の機能である。表面的レヴェルでは、我々は純粋な客観的知を取り扱っている。それは主体-患者を脱主体化する。患者を診断と治療の調査対象に還元する。しかしながら、その下に、人は容易に見分けることができるだろう、気を病みヒステリー化した主体を。不安に取り憑かれ、彼の主人としての医師に差し向けて、医師から元気づけの言葉を求める主体だ(そして、人は主張しがちだ、医師が単にほかの科学者のように取り扱われてしまうことの抵抗は、彼らの「気づき」ーー彼らのポジションはいまだ主人のポジションにあるという自覚にある、と。この理由で、我々は医師から単にありのままの(客観的)真理を告げられることを望まない。医師が悪い知らせを告げるように期待されるのは、その悪い状態の我々の知が、ともかくも、その病状を取り扱うために患者を手助けとなる場合のみだ。患者への告知が事態を悪化させるのみであれば、医師は患者からその告知を見合わせるように望まれる)。

よりふつうのレヴェルでは、市場の専門家を思い起こすだけで十分だろう。その専門家は強力な財政手段を提唱する(社会保障費削減等)。彼の中立的な専門知識によって強いられた必要不可欠なものとして。そこにはどんなイデオロギー的バイアスもないようにみえる。だが彼が隠蔽しているのは、一連の権力関係である(国家機関における能動的役割からイデオロギー的信念まで)。それが市場メカニズムの「中立的」機能を支えている。



【ヒステリーの言説=幼児の原初的状況】

ヒステリー的な紐帯において、 分割されトラウマ化された主体を表す $ 、大他者にとっての対象としてある彼女、大他者の欲望のなかで演じる役割によって分割されトラウマ化された $ として、彼女は問う、「どうして私はあなたがいうような私なの?」、あるいは、シェイクスピアのジュリエットを引用するなら、「どうして私はその名前なの?」と。

これは、ラカンにとって、幼児の原初的な状況である。リビドー的注ぎ込みの蜘蛛の巣 cobweb of libidinal investments に投げ込まれた幼児ーー、どういうわけか彼(女)は、他者のリビドー的注ぎ込みの焦点になっていることに気づくのだ。けれども他者が自分のなかに「何」を見ているのかは掴みえない。幼児が大他者-主人から期待するのは、対象としての彼女は何なのかについての知である(公式の底部 a // S2 )。

(中略)



【倒錯者の言説と分析家の言説】

ヒステリー者とは対照的に、倒錯者は完全に知っている、彼が大他者にとって何なのかを。知が、大他者の(分割された主体の)享楽の対象としての彼のポジションを支えている。この理由で、倒錯の言説の公式は、分析家の言説の公式と同じである。ラカンは倒錯をひっくり返した幻想として定義した。ラカンによる倒錯の公式は a – $ であり、それはまさに分析家の言説の上部にある。

倒錯者と分析家の社会的紐帯 social link のあいだの相違は、ラカンにおける対象a の根源的な両義性に根ざしている。対象a は、イマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、この囮が曖昧化しているもの、囮の背後にある空虚である。

こういうわけで、我々が倒錯から分析家の社会的紐帯へと移行するとき、エージェント(分析家)は自身を空虚に還元する。空虚、すなわち主体を彼の欲望の真理に直面するように誘い込む空虚である。

知、「エージェント」の下の横棒の下部にある「真理」のポジションの知は、もちろん、分析家の想定された知を表している。と同時に、ここで獲得されている知は、中立的な「客観的」知ーー科学的妥当性をもった知ではない。そうではなく、主体(分析主体 = 被分析者)にかかわる知、彼の主体的ポジションの真理のなかにある知である。

(ここで、ふたたび思い起こしておこう、ラカンの法外な言明を。すなわち、嫉妬深い夫が彼の妻について言い張るーー彼女はそこらじゅうの男と寝るーー、それが真実だとしても、彼の嫉妬はいまだ病理的 pathological である、と。この同じ線で言いうるだろう、ユダヤ人についてのナチの主張のほとんどがかりに真実だったとしてもーーユダヤ人はドイツ人を食いものにする、ドイツ人の少女を誘惑する…ーー、彼らの反ユダヤ主義はいまだ病理的だ、と。というのは、それは本当の理由を抑圧しているからだ、その理由とは、ナチスは「なぜ」反ユダヤ主義が「必要だったのか」にかかわる。それは、ナチスのイデオロギー的ポジションを維持するためである。

だから、反ユダヤ主義の場合、ユダヤ人が「実際にどのようであるか」についての知はまやかしであり見当ちがいである。他方、真理の場にある唯一の知は、なぜナチは彼らのイデオロギー的体系を支えるためにユダヤ人の形象が「必要か」についての知である。)

この正確な意味において、分析家の言説が「産出する」ものは、主人のシニフィアンである。患者の知の「脱線-逸脱物 swerve」、患者の真理のレヴェルでの知の場にある剰余要素である。主人のシニフィアンが産出されたのち、知のレヴェルではなにも変わらなくてさえ、以前と「同じ」知が異なったモードで機能しはじめる。



【主人のシニフィアン=無意識的なサントーム】

主人のシニフィアンは、無意識的な「サントーム」、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに知らないままに服従subjectedしている。ーーここで逃してはならない決定的な点は、この後期ラカンの同一化、対象a のポジションとして分析家の独自のポジションとの同一化は、ラディカルな自己批判の行為にかかわることだ。

以前、1950年代には、ラカンは分析家は小さな他者 a であるとは考えなかった。逆に、大他者(A、すなわち 匿名の象徴秩序)の代役のたぐいだと考えた。このレヴェルにおいては、 分析家は主体のイマジネールな誤認の裏をかき、正しい象徴的場を受け入れさせることだった。正しい場とは、象徴的交換の回路内部での、彼らの象徴的アイデンティティを実質上決定づけている(彼らに知られないままに unbeknownst)場である。

しかしながら、後に、分析家はまさに大他者の究極的な非一貫性と行詰りの代わりだと考えられようになった。非一貫性と行詰りとは、主体のアイデンティティを支えることの象徴的秩序の不能力のことだ。

こういわけで、政治的指導者が「私はあなたの主人だ、私の願いを成就させてくれ!」と言ったなら、権威のこの直接的な自己主張は、主体は、自らが指導者として振舞うことの資質を疑いはじめたとき、ヒステリー化される(私はほんとうに彼らの主人なのだろうか? 私のなかに、私のその振舞いを正当化する何があるというのだろう?)。

それは大学人の言説のうわべの仮面をかぶることもありうる(これをするようにあなたに求めるとき、私はたんに、客観的な歴史上の必然への洞察に従っているだけだ。だから私はあなたの指導者ではない。そうではなく、あなたをあなた自身の善のために振舞うようにする召使いにすぎない)。

あるいは、主体は空白として振舞うこともできる。彼の象徴的有効性を宙吊りにし、彼の大他者に次のことに気づくように強いる、ーー彼がいかに指導者としての別の主体をやっていたのかは、自分で自分をそう扱っていたからに過ぎない、と。

はっきりさせなくてはいけない、この短い説明から、いかに四つの言説のそれぞれにおける「エージェント」のポジションは主体性の個別の様式を含意しているかを。

主人は彼の(発話)行為に十全に没頭した engaged 主体である。彼は、ある意味で、「彼の言葉のなかに」いる。彼の言葉はすぐさま行為遂行的有効性をしめす。

逆に、大学人の言説のエージェントは、基本的に不没頭 disengaged である。彼は自らを次の立ち位置に置く。すなわち、中立的な知に影響された「客観的法」の自己滅却した観察者(そして執行者)である(臨床的用語では、彼のポジションは倒錯者のポジションに最も近い)。

ヒステリーの主体は、まさにその現存 existence そのもがラディカルな疑念と問いにかかわる。彼の全き存在 being は、「私は大他者にとって何だろう」という不確信によって支えられている。主体は大他者の欲望の謎へ応答としてのみ存在するという限りで、ヒステリーの主体はまさに主体はそのものである。

ふたたび、このヒステリーの主体と対照的に、分析家は脱主体化した主体パラドックスを表す。ラカンが「主体の解任」と呼んだものを十全に引き受けた主体である。彼は欲望の間主体的弁証法の悪の循環から脱出し、純粋欲動の無頭の存在 being に変身する。

(藤田博史氏による)


【四つの言説の政治的読解】

四つの言説のマトリックスの政治的読解をするなら、言説のそれぞれは明確に政治的繫がりがある。

主人の言説、ーーそれは幻想に支えられた政治的権威の初歩的様式である。

大学人の言説、ーーそれはポスト政治的「専門家」の規範である。

ヒステリーの言説、ーーそれは抗議と「抵抗」の論理、要求の論理である。ラカンの公式に従えば、要求は実際のところは拒絶されたい。なぜなら‘‘ce n'est pas ca'' だから(というのは、要求が完全に満たされてしまえば、要求の文字通りの満足は、要求からその隠喩的な普遍的側面を奪い去ってしまうから。ーー X を求める要求は、「本当は X についての要求ではない」のだ)。

分析家の言説、ーーそれはラディカルな革命的-解放的政治である。そこではエージェントは a である。それは症状的な点、状況の「非部分の部分 part of no part」だ。真理の場には知がある(その知は、例えば、エージェントの言表行為(言表された内容ではなく)のポジションを分節化し、それ故、真理の力強い効果を獲得する)。エージェントの宛先には $ がある。それは元主人 ex-master であり、今はヒステリー化されている。というのは、エージェントは、彼のポジションを問い糾すからだ。その問いの方法は、主人のシニフィアンを「産出する」仕方、そのシニフィアンを開放的に展開し、それ自体として解明するやり方であり、それ故、主人のシニフィアンはうまく働かなくなる(「本質的に副産物である」状態のパラドックスとして、だ。すなわちいったん問い糾されたら、権威は自明性を喪失する)。

(以下略)

…………

難解な部分はさておき--たとえば《S1 と S2 のあいだの差異は同じ領域内の二つの対立する差異ではない。むしろ〈一〉(One)の 用語に固有のこの領域内の裂け目である》--、なにが最も肝腎なのかは、それぞれの言説は固定されたものではないことだ。たとえば主人の言説は、あるときすぐさまヒステリーの言説にかわる。それは主体がヒステリー者であるかどうかには関係がない。自らのあり方に問いを立てれば、構造的にヒステリーの言説になる。

病的ナルシシストをヒステリー化するには、その属性に還元できないような象徴的委託を押しつけさえすればいい。そうした対決はヒステリー的な疑問をもたらず。「どうして私は、あなたがこうだと言っているような私なのか」。(ジジェク『斜めから見る』p195)

病的ナルシシストの言説ーーメンヘラ、ネトウヨの言説?--は、厳密には主人の言説ではないとではいえ(一部の解釈者により「想像的ディスクール」と規定されている)、父の名が凋落した時代のパラノイア的 S1 である(参照:The Tactics of the Master: Paranoia versus Hysteria, in: Journal of the Centre for Freudian Analysis and Research, 1997)。

ここで気をつけなければならないのは、想像的ディスクールというディスクールの在り方についてです。想像的ディスクールとは、自我が正しいと信じたり感じたものを、客観的にも正しいと認定してしまうような思考様式の在り方です。これは自身の自我を何よりもまず信頼しているという証拠です。ですから、自身の自我に絶大なる信頼を置いている人は、当の自我が信じたものも正しいと信じてしまう。つまり「自我が実感するものは正しい、何故ならば自我は疑いようもなく正しいのだから」という自我肯定の手続きを踏んでいるのです。この行為をフランス語で表現すれば「y croire pour le croire」となります。croire というのは「信じる」という動詞ですが、croire は直接目的語を取る場合と間接目的語を取る場合とがあります。 croire のすぐ後ろに目的語がくる場合と、croire à という前置詞が付く場合です。croire à というのは「信じ込む」といったニュアンスを持っていて、尊敬している人の言葉を信じるとか、宗教的な信仰心や神の存在を信じるとかそういう意味合いを持っています。したがって、y croire の y というのは à + 自我の判断、ということになります。つまり、わたしはわたしが判断したことを信じる、となるわけです。次に、pour le croire の pour ですが、これは何々のために、つまり、それを信じるために、という意味です。ちなみにフランス語では目的語が代名詞の場合には動詞の前に来ます。「それ le」 は何かというと、自我です。ですから「y croire pour le croire」という構文で表現されているのは「わたしはわたしを信じるためにわたしの判断を信じる」という「信じる」ということによって運ばれている宗教的な心のあり方の基本構造なのです。これは端的にいうなら、想像的ディスクールであり、自我に深い愛情を抱かせると同時に攻撃的な他者廃棄へも導いてゆく、二律背反的な、極めて危うい心のあり方なのです。(藤田博史、2012

おそらくこれは、女流分析家第一人者のコレット・ソレールの用語なら、 “innocence paranoiaque”にかかわる。

この新しい時代のナルシシスト的主人(S1)をヒステリー化する($)のは簡単である。そして主人がヒステリーになるのはなんの悪いこともない(参照:シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説))。

逆に、大学人の言説で語るものが、たちまち主人の言説にかわってしまう、などということもありうる。真理のポジションに隠蔽された主人S1が露骨にあらわれる、などということが。


くり返せば、S2の下にあるものが主人S1である。そしてここにあるS1がこの大学人の言説の真理だ。



この真理のポジションにある主人S1が、ときおりあからさまに露顕してしまうというのは、ツイッターなどで再三見られる現象だ。

たとえば研究者たちの言説ツイートはおおむね大学人の言説だ。だが隠蔽された主人S1がときおり露出する。これはラカン派として訓練を積んだ者にさえ見られる(参照:三種類の阿呆)。

このように記すわたくしは、これらの現象をまったく免れているわけではないことを、言わずもがなだが、念押ししておこう。

要するに、四つの言説の教えとは、古来からある問いを構造的に分節化したものとして(も)捉えうる。

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

そして《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(中井久夫超訳)》(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)のであり、ひとは他人より自分を取り調べるのが不得手だ。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)

だから、まずは他人の言説に目が向き、こんな具合の思いを抱くことになる、《「滑稽だな。いかにもあなたらしい滑稽だ。そうしてあなたはちっともその滑稽なところに気がついていないんだ」》(夏目漱石『明暗』 第百八十三章)

…なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは(……)、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても―――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて―――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)


たとえば、次のようなこともしばしばあるだろう。

《人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからなのである》(プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」》

あらゆるかくしごとのなかで、一番危険をはらんでいるのは、あやまちを犯した当人が、頭のなかで、そのあやまちをかくそうとする作為である。当人の頭にそのあやまちがつねにこびりついていることは、そのあやまちが世間一般にどれだけ知れれていないか、またある完全なうそがどれだけ安易に信じられるかを、当人に推察できなくさせるとともに、他面で、大した危険はないと見くびってしゃべる言葉のなかに、どの程度まで真相をもらす告白が食いこみはじめるかをも、当人に理解できなくさせるのである。(プルースト『ソドムとゴモラ Ⅱ』井上究一郎訳)

――世界は興味深い人物で満ち溢れている。だが、そんな人間を研究するのは下品なことであろうか。超然としているべきだろうか。

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五 原佑訳 ちくま学芸文庫)

ここでわれわれはスピノザの「自由」についてさえ思い起すことができる。

《定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意思は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他のの原因によって決定され、このようにして無限に進む。》(スピノザ『エチカ』)

スピノザは、われわれは情念を意志によって操作できない、だが、その「原因」を知ろうとすることはできるし、少なくともその間は情念からは自由であると考える。

彼は「自由意志」を批判する。しかし、それは、自由や意志を否定することではない。実際は諸原因に規定されているのに”自由”だと思い込んでいる状態に対して、超越論的であろうとする意志(=知性)に、スピノザは自由を見出すのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

ことさらラカン理論にこだわらなくてもよい、だがマルクス・アウレーリウスやスピノザ、ニーチェ、プルースト、さらには夏目漱石らの問いが形式的に構成されているのが、ラカンの「四つの言説」であり、それは言説分析にかぎりなく役立つ。もし〈あなた〉が「知りたくないnot-wanting-to-know」という態度を取っていても、過去の「偉大な心理家たち」の言葉は回帰してくるだろう。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

2015年10月27日火曜日

バイヨンヌ、バイヨンヌ、完璧な町

人は再び子どもになることはできず、もしできるとすれば子どもじみるくらいがおちである。しかし子どもの無邪気さは彼を喜ばさないであろうか。そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階で自らもう一度努力してはならないであろうか。子どものような性質のいい人にはどんな年代においても、彼の本来の性格がその自然のままの真実さで蘇らないだろうか。人類がもっとも美しく花を開いた歴史的な幼年期が、二度と帰らない一つの段階として、なぜ永遠の魅力を発揮してはならないのだろうか。しつけの悪い子どももいれば、ませた子どももいる。古代民族の多くはこのカテゴリーに入る。ギリシャ人は正常な子どもであった。彼らの芸術がわれわれに対して持つ魅力は、その芸術が生い育った未発展な社会段階と矛盾するものではない。魅力は、むしろ、こういう社会段階の結果である。それは、むしろ、芸術がそのもとで成立し、そのもとでだけ成立することのできた未熟な社会的諸条件が、再び帰ることは絶対にありえないということと、固く結びついていて、切り離せないのである。(マルクス『経済学批判』)

…………


1915年、フランス北西部、シェルブールで生まれる。誕生後、間もなくフランス南西部のバイヨンヌに転居。
1916年、海軍中尉だった父親戦死。
1924年、パリに転居。

ーーああ、そうだったのか、9歳ですでにパリに転居とは。

手紙で借りる話をまとめておいた家具つきのアパルトマンが、ふさがっていた。彼らは、パリの十一月のある朝、グランシエール街で、トランクと手荷物をかかえて途方に暮れる羽目に陥った。 近所の乳製品のおかみさんが、うちへ入れて、あついショコラとクロワッサンをご馳走してくれた。(『彼自身によるロラン・バルト』)

なぜ、わたくしにはロラン・バルトのバイヨンヌ、プルーストのコンブレーがないのだろう。

バイヨンヌ、バイヨンヌ、完璧な町。河に沿い、響きゆたかな周囲(ムズロール、マラック、ラシュパイエ、ベーリス)と空気の通じあっている町。そして、それにもかかわらず閉じた町、小説的な町。(……)幼い頃の最初の想像界。スペクタクルとしてのいなか、匂としての“歴史”、話しかたとしてのブルジョワジー。(『彼自身によるロラン・バルト』)
私は歩きはじめていた。プルーストは、まだ生きていて、『失われた時』を仕上げようとしていた。(同上)



故郷の町の名を口に出しても、まったく澄明さや甘美な夢想は訪れない。むしろ中原中也の詩句がお似合いだ。


これが私の故里とだ
さやかに風も吹いてゐる
    心置なく泣かれよと
    年増婦の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

過去のうちで、私をいちばん魅惑するのは自分の幼年期である。眺めていても、消えてしまった時間への後悔を感じさせないのは幼年期だけだ。なぜなら、私がそこに見いだすものは非可逆性ではなく、還元不可能性だから。すなわち、まだ発作的にときおり私の中に存在を示すすべてのものだからである。子どもの中に、あらわに私が読み取るもの、それは、私自身の黒い裏面、倦怠、傷つきやすさ、さまざまの(さいわいに複数の)絶望への素質、不幸にもいっさいお表現を断たれた内面的動揺。(『彼自身』)

このような魅惑を与えてくれる町の名やそれにまつわる記憶はーー故郷の町の名ではなくてもいいーー、しばしば訪れや住んだ町のなかにはたしてわたくしにあるだろうか。

10年近く住んだ嵐山?(実際は阪急嵐山線のひとつ手前の駅松尾近辺だが)。嵯峨野の奥まで自転車で買いに行った名店のあぶらげがひどく美味だった。それと途中にある蓮華畑の見事なこと!あるいは五月の風のかおり! だがこれは青年期を過ぎてからだ。

学生時代の下宿、東京の下町(弥生町)から根津、ああ根津、それに谷中、--。

食事や銭湯に行くのは言問通りの坂を降りる(調べたら弥生坂というらしい)。途中に東京大学の工学部の敷地があって抜け道として通る。夏にはくちなしの白い花が宵闇のなか匂った。下町のせいか銭湯には粋な老人がいたり倶利伽羅紋紋のおじさんやおにいさんもいた。湯船に沈んで彼らの背中を眺める。背中の絵柄もすばらしいが、ときに拡げられた脚の間から下まで届きそうな逸物が覗き見えた。

言問通りをさらに下がると、左手には谷中の墓地、右手は上野の山だ。東京文化会館でビラ配りのアルバイトをした。演奏会情報の分厚いそれを訪れた観客に渡すだけの仕事。ただし観客がすぐさま放り出して場内に散乱しているそのビラを片付けるのも含まれる。何人かの悪友とともにその作業の後、空いた席を各人見つけて居残った。それが半年ほどもつづいた(後に漸くばれた。演奏の前半部分の休憩後、遅れてやってき客が座席を占有して居眠っていた友に文句をつけたことによる)。当時は有名な海外演奏家はほとんど東京文化会館で演奏した。私は堪能した(し過ぎた、と言ってもよい。後に演奏会にはほとんど行かなくなったのはこのためかもしれない。)

十代のころ毎年のように訪れた八ヶ岳? 山小屋風の宿で飲む絞りたての牛乳のおいしさにびっくりした。だがこれも真の幼年期ではない。

小学生のころ毎年のように海水浴に訪れた浜名湖の旅館ーー廊下におおきな松があって、天井を突き抜けていたーーにはにおいの記憶がそれなりにある。浅蜊掘りの澱んだ、だが懐かしい海砂のにおい、潮風、甘いタレの団子……。

それとも伊良湖岬の海か(そこまで行かなくても伊古部海岸?)、

いっそうのことサイゴンやプノンペンの空港に降りたとたんに襲われる魚醤のにおい?

探せばほかにもないわけではないが、どれも幼年期ではないのだ・・・

そうだ、においということでいえば、京都の錦市場のにおいというのは忘れ難い。




休みの日になると錦市場で漬物や干物などを購いーーわたくしがそれまで見向きもしなかったタラやサワラの粕漬け、それに粕汁を好むようになったのは(ああ粕汁ともながいあいだ縁がない!)、この市場での買物によるーー、あたりの路地を散歩してイノダコーヒー三条店にて休憩するというのがしばらく続いた時期がある。イノダ本店もわるくはないが、三条店のカウンターがお気に入りだった。




……私の二番目の南西部は一つの地方ではない。一つの線、体験したことのある一つの道のりだ。パリから自動車できて(この旅はいく度も繰り返している)アングレームを過ぎると、ある兆で私は自分が家の敷居をまたいで、幼児期の郷里に入ったことを知らされる。それは、道の脇の松林、家の中庭に立つ棕櫚の木、地面に影をおとして人間の顔のような表情を映し出す独特の雲の高さ。そこから南西部の大いなる光が始まる。高貴でありながら同時に繊細で、決してくすんだり淀んだりしない光(太陽が照っていないときでさえ)。それはいわば空間をなす光で、事物に独特の色あいを与える(もう一つの南部はそうだが)というより、この地方をすぐれて住み心地のよいものにするところに特徴がある。明るい光だ、それ以外にいいようがない。その光はこの土地でいちばん季節のいい秋にみるべきだ(私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ)。液体のようで、輝きがあり、心を引き裂くような光、というのも、それは一年の最後の美しい光だから。(ロラン・バルト「南西部の光」)

これはある。東京や京都から新幹線や自動車で故郷の町ちかくに来ると、光と風がちがう。樹木層がちがう。 風のにおいがちがう。熱海や静岡あたりの鬱陶しい町を通りすぎ、浜名湖にちかづくと、ああ実に、自分の家の敷居をまたいだ気がする。西からだったら西三河の岡崎近辺でさえいけない。重苦しいところだぜ、あのあたりは、--シツレイ!ーー、蒲郡に来ると、ああ海だ! 故郷の町に近づいた! という具合になる。光? 《私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ》!

ーーわたくしは母の死ぬ前一年間ほどは(23~24歳時)、京都からほぼ毎週自動車で故郷の町へ帰省した。だから名神から東名の高速道路にはひどく馴染んでいる。居眠り運転して中央分離帯に乗り上げかかったこともある。車はひどくジャンプした。




私の三番目の南西部はもっと限定されている。それは私が幼児期と、その後は少年期の休暇を過した町(バイヨンヌ)であり、私が毎年戻っていく村であり、その両者を結び、私が何回となく、町に葉巻きや紙類を買いに、あるいは駅に友人を迎えに通った道のりである。

(……)私はそうした現実の領域には私なりのやり方で、つまり私の身体で入っていく。そして私の身体というのは、歴史がかたちづくった私の幼児期なのだ。その歴史は私に田舎の、南部の、ブルジョワ的な青春を与えてくれた。私にとって、この三つの要素は区別できない。ブルジョワ的な生活とは私にとって地方であり、地方とはバイヨンヌである。田舎(私の幼児期の)とは、きまって遠出や訪問や話の網を織りなすバイヨンヌ近郊のことだ。こうして、記憶が形成される年頃に、私はその《重大な現実》から、それらが私にもたらした感覚のみを汲みとっていった。匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など、現実のうち、いわば無責任なもの、後に失われた時の記憶を作り出すという以外に意味のないものばかり(私がパリで過した幼年期はまったく異なるものだった。金銭的困難がつきまとい、いってみれば、貧しさの厳しい抽象性をおびていて、その頃のパリの《印象》はあまり残っていない)。私が、記憶をとおして私の中で屈折した通りの南西部について語るのは、「感じる通りに表記するのではなく、記憶している通りに表現すべきである」というジュベールの言葉を信じているからだ。

このたわいもない事柄が、したがって、社会学的知識や政治分析が扱っている、あの広い領域への入口なのだ。たとえば、私の記憶の中で、ニーヴ河とアドゥール河にはまされた、プチ=バイヨンヌと呼ばれる古い一角の匂いほど重要なものはない。小さな商店の品物がすべていり混じって、独特の香りを作り出していた。年老いたバスク人たちが編むサンダルの底の縄(ここでは《エスパドリーユ》という言葉は使わない)、チョコレート、スペインの油、暗い店舗や細い道のこもった空気、市立図書館の本の古い紙。これらすべては、今はなくなってしまった古い商いの化学式のように機能していた(もっとも、この一角はまだ昔の魅力の一端をとどめてはいるが)、あるいはもっと正確にいうと、今現在その消失の化学式として機能している。匂いを通じて私が感じとるもの、それは消費の一形態の変移そのものである。すなわち、布靴〔サンダル〕は(悲しいことにゴム底になってしまって)もう職人仕事ではなくなったし、チョコレートと油は郊外のスーパーで買い求められる。匂いは消えてしまった。あたかも逆説的に、都市汚染の進行が家庭の香りを追い出してしまったかのように。あたかも《清潔さ》が汚染の陰湿な一形態であるかのように。

(……)私は南西部をすでに《読んでいた》。ある風景の光やスペインからの風が吹く物憂い一日の気怠さから、まるまる一つの社会的、地方的言説の型へと発展していくそのテクストを追っていたのである。というのは、一つの国を《読む》ということはそもそも、それを身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだからである。私は、作家に与えられた領域は、知識や分析の前庭だと信じている。有能であるよりは意識的で、有能さの隙自体を意識するのが作家である、と。それゆえ、幼児期は、私たちが一つの国をもっともよく知り得る大道なのである。つまるところ、国とは、幼児期の国なのだ。(ロラン・バルト「南西部の光」1977『偶景』所収)

八町味噌と味醂や砂糖でのタレで味付けして炙った五平餅の香ばしい匂いがしてこないわけではない。家から歩いて500メートルほど先に、3日と8日に路上市が開かれた。三八市という。そこの屋台で売っていた五平餅だ。ああ喰いたい! 




しかしバイヨンヌハムで我慢しておこう。これはサイゴンのフランス人居住区で手軽に手に入れることができる。




昔は、白い市街電車がバイヨンヌからピアリッツまでかよっていた。夏になると、それに、前面オープンの、特別室などないワゴンが一両連結されるのであった。散策車である。何とも嬉しくて、みんなそれに乗りたがったものだ。ごてごてとうるさいもののほとんどない沿線の風景を眺めながら、人びとは、眺望と動きと空気とを同時に享楽していた。今はもう、散策車も市街電車もなく、ピアリッツへの旅は、うんざりするような作業である。こんなことを言っても、過去を神秘的に美化したり、失われた青春への愛情を語りたいからではなく、その口実に市街電車を惜しみなつかしんでいるわけではない。言いたいのは、暮らしの流儀には歴史がない、ということなのだ。それは進化するものではない。一度消え去った快楽は永久に消え去り、代入は不可能である。ほかのさまざまな快楽が現れるが、それは何かの代理としてではない。《快楽には進歩がない》、あるのはただ交替のみ。(『彼自身』)

しかもわたくしの故郷の町はいまでも路面電車がある。まああまり贅沢はいうまい。

100メートル先の路面電車の電停の向う側にはにかけうどんのおいしい店があった(天ぷらうどんではダメなのだ、そこの店は)。あの、うどんが見えないくらいにのせられた大きく切ったかつおぶしの香ばしいにおい! 母が病気のときは、しばしば出前してもらった。いまではそんな贅沢なかつおぶしの使い方はないだろう。そもそも鰹節削り器自体がほとんど存在しなくなっているはずだ。




プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別にすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックの〔グランド・ホテルの〕ナプキンの話しにうまく乗せられることはないのだ。二度と戻って来るはずのないもののうちで、私に戻って来るもの、それは匂いである。たとえば、バイヨンヌですごした私の幼い頃の匂いがそうだ。《曼荼羅》の囲み込まれた世界のように、バイヨンヌのすべてが、ある複合的な匂い、つまりプテ ィ=バイヨンヌ(ラ・ニーヴとラドゥールにはさまれた界隈)の匂いの中に集積されている。サンダルつくりたちが加工している紐、暗い食料品屋の店、古木の木蠟、空気の通りの悪い階段用の井戸穴、バスクの老婆たちの、巻髪を止める布製の椀状のかぶりものに至るまで黒ずくめの喪服の黒さ、スペイン油〔匂いの強いオリーブ油〕、職人の仕事場や小さな商店(製本業、金物屋)の湿気、公立図書館の髪についたほこり(私がスエトニウスやマルティアリスの作品中にある性欲を知ったのはその図書館においてであった)、ポシエールの店のピアノ修理のための接着剤、町の特産のショコラの香り、そういういっさいの、固形の、歴史的な、いなか風の、フランス南部風のもの。(《口述筆記》。)

(さまざまの匂いを思い出して胸が高鳴っている、つまり私は年をとったのだ。)(『彼自身』)

2015年10月26日月曜日

あらゆるものを包みこむ「名前」による新しい階調

枕元に置いてあり、ときおりあてどもなく開いてみることにしている石川美子訳のロラン・バルト『記号の国』には次のような注がある。

バルトは一九六七年に評論「プルーストと名前」を書いて、つぎのように述べられている。「固有名詞は、いわば無意識的記憶の言語のかたちである。したがって、『失われた時を求めて』の執筆を「始動」させた(詩的な)事件とは、まさに『名前』を発見したことなのである」(『新 = 批評的エッセー』所収)

はて、そんなことが書いてあったか、と手許の別の訳者による『新 = 批評的エッセイー』(花輪光訳)を覗いてみると、上の文に引き続きこうある。

おそらく、『サント=ブーヴに反駁する』以来、プルーストはいくつかの名前(コンブレー、ゲルマント)をすでに手に入れていた。しかし彼が『失われた時を求めて』の固有名詞体系を全体として構成するのは、ようやく一九〇七年から一九〇九年のあいだであったと思われる。この体系が見出されると、作品はただちに書かれたのだ。(P.80)

もうすこし読み進めると、《固有名詞=名前は……つつみこむ》という表現がでてくる。

記号は芸術作品によって、彼が愛する人によって、出入りする環境によって発せられる。「固有名詞」もまた一つの記号であって、もちろん意味する(シニフィエ)することなく指示するような単なる指標ではなく、この点、パースからラッセルにいたる通念が要求するところとはちがう。記号としての「固有名詞」は探求の、解読の対象となる。「固有名詞」は(用語の生物学的意味における)《環境》であって、そのなかにとびこみ、それがもたらすあらゆる夢想にどこまでも浸らなければならないものである。と同時に、「固有名詞」は圧縮され香りがこめられている貴重品であって、花のように開かせなければならないものでもある。言いかえれば、「名前」(これからは固有名詞をこのように呼ぼう)は記号であるが、それはヴォリュームのある記号、密生した意味の厚さのために常にかさばっている記号であって、いかなる慣用もこのれ縮小し押しつぶすようなことはなく、この点、普通名詞が連辞によって必ずその意味の一つだけを引き渡すのとは反対である。プルーストにおける「名前」は、あらゆる場合に、ただそれだけで辞書のある項目全体の等価物である。ゲルマントという名前は、思い出や慣用や文化がそこに含ませうるものをすべて、ただちにつつみこむ。(ロラン・バルト「プルーストと名前」P.81)

いま原文を調べてみようとはしない。ただ最近「つつみこむ」に凝っていたので、ここに挙げたまでだ。

S1はシニフィアン〈一〉から来る、その格言「〈一〉のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの群)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (Paul Verhaeghe,Enjoyment and Impossibility ポール・ヴェルハーゲ「享楽と不可能性」より、2006,私訳)

ラカンの原文を掲げるならつぎの通り。

…ce S1 que je peux écrire d'abord de sa relation avec S2, eh bien c'est ça qui est l'essaim.


S1 (S1 (S1 (S1 (S1 → S2) ) ) )

Vous pouvez en mettre ici autant que vous voudrez,

c'est l'essaim dont je parle. Le signifiant comme maître, à savoir en tant qu'il assure l'unité, l'unité de cette copulation du sujet avec le savoir, c'est cela le signifiant maître, et c'est uniquement dans lalangue, en tant qu'elle est interrogée comme langage, que se dégage - et pas ailleurs – que se dégage l'ex-sistence de ce dont ce n'est pas pour rien que le terme στοιχεῖον [stoïkeïon] : élément [élément premier→ élémentaire] soit surgi d'une linguistique primitive[cf. RSI, 18-02-1975], ce n'est pas pour rien : le signifiant 1[S1] n'est pas un signifiant quelconque, il est l'ordre signifiant en tant qu'il s'instaure de l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste. (Lacan,Séminaire ⅩⅦ Staferla 版 P.56)

στοιχεῖον とは、ブルース・フィンクの「アンコール」英訳注によれば、要素element、原要素principal constituent、文字letter、あるいは発言の部分part of speechとのこと。

ラカンはこれと似たような概念として lêtre de la signifiance、l'êtrernel ということを言っている。前者は純シニフィアン=文字であり、後者はlettre(文字)でありつつ永遠=神でもある(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

これだけで、ロラン・バルト=プルーストの「名前」が、S1= essaim(ミツバチの分蜂群)、あるいはστοιχεῖονやenveloppement であると言い募るつもりは毛頭ない。




ただし、プルーストの固有名詞が、創作上のpoint de capiton(ポワン・ド・キャピトン〔クッションの綴じ目〕)になったのだろうことはロラン・バルトの文から読み取りうる、《『失われた時を求めて』の執筆を「始動」させた(詩的な)事件とは、まさに『名前』を発見したこと》。

point de capiton とは、S2(シニフィアンの連鎖)を包みこむessaim(ミツバチの群)であり、それはS1(主人のシニフィアン)という解釈がなされることがある(上に掲げたポール・ヴェルハーゲによる見解であり、異なった解釈もあるだろう)。

Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie.[君の指先が太鼓をひと弾きすれば、音という音は放たれ、新しい階調が始まる](ランボー、A une raison)
〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。(……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳ーー「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)


そして後期ラカンのサントーム概念も一種の主人のシニフィアンである。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームであるが、シニフィアンとあるように新しい主人のシニフィアンとすることができる(参照:エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論)。

すぐれた作家たちはそれぞれ自らの主人のシニフィアンをもっているのではないか。ジャン・ジュネの「泥棒」、中上健次の「路地」……。(参照:中上健次と「父の名」)


ところであのように書くバルトは、その晩年にあらゆるものを包みこむ「名前」を見出したのだろうか、--南西部の光、明るい部屋、あるいはバイヨンヌ、マラケシュ……?

…………

ここまででさえかなり飛躍があるメモであり、さらにドゥルーズの「概念の創造」と結びつけるのはやめにしておくべきか・・・

柄谷行人)ぼくはドゥルーズがいった概念の創造ということに関して大きな誤解があると思う。概念の創造というのは新しい語をつくることだと思っている人が多い。その意味でいうと、『千のプラトー』はものすごく新しい概念に満ち満ちているように見えるけれど……。

ぼくはそんなものは感嘆に形式化できると言っている。だからそこに新しさを見てはいけない。概念を創造するというのは、あたりまえの言葉の意味を変えることなんですよ。しかし、そうやって意味を変えるときに、必ずドゥルーズならドゥルーズという名前がついてくるんです。たとえば、マルクスが「存在が意識を決定する」と言ったときの「存在」は、マルクスによって創造された概念なんで、その一行は「事件」なんです。ぼくはそれが概念の創造だと思う。『批評空間』1996Ⅱー9共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰/柄谷行人)

柄谷行人の「世界共和国」はカントに依拠しつつの概念の創造(あるいは主人のシニフィアン)のはずなのだが、現実主義者たちは見向きもしないようだな。

それしかないはずなのに。

各地の運動が国連を介することによって連動する。たとえば、日本の中で、憲法九条を実現し、軍備を放棄するように運動するとします。そして、その決定を国連で公表する。(……)そうなると、国連も変わり、各国もそれによって変わる。というふうに、一国内の対抗運動が、他の国の対抗運動から、孤立・分断させられることなしに連帯することができる。僕が「世界同時革命」というのは、そういうイメージです。(柄谷行人『「世界史の構造」を読む』)

世界には現実主義者、すなわちユートピアンどもばかり揃っているからな、

人々は私に「ああ、あなたはユートピアンですね」と言うのです。申し訳ないが、私にとって唯一本物のユートピアとは、物事が限りなくそのままであり続けることなのです。(ジジェクーーユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち

ジジェクさんよ、ラカンはもういいからーー2006年と2011年のふたつの大著でもう十分さーー、今度は『マルクスの偉大さ』書けよ、「世界共和国」の変奏をして。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)

次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。(ドゥルーズの死の二年前のインタヴュー「思い出すこと」)

世界共和国、すなわち可能なるコミュニズムさ、

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府主と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

2006年→2011年→2016年、というわけで、じつは来年あたり準備してるんだろ?

《彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずる》ような著作『マルクスの偉大さ』を。

アラン・バディウは、いまいちどコミュニストという仮説を主張すべきだと提案している――

《もしわたしたちがこの仮説を放棄するならば、集団行動という領域で、やるべき価値のあることは何もなくなってしまう。コミュニズムという地平なくして、この大文字の概念なくして、哲学者の興味をかきたてるような歴史的・政治的生成は存在しない。》

しかし、バディウは続けて言う――

《この大文字の概念を、この仮説の存在を手放さないからといって、それが第一に主張してきた私有財産や国家に関するテーゼを、そのままのかたちで保持する必要などない。実際、哲学者が引き受けるべき責務、あるいは義務とは、この仮説が新たな様態をまとって出現すべく手助けをすることである。》

ここで注意すべきは、これをカント的に読んではならないということだ。つまり、コミュニズムをなんらかの統整理念regulative Ideaとして、したがって「倫理的社会主義」の亡霊を蘇生させるものとみなし、その先見的規範もしくは公理として、「平等」を考えるといった姿勢をとってはならないのだ。そうではなく、わたしたちが保持すべきなのは、コミュニズムの必要性を生み出すような、一連の社会的敵対性を正確に参照することなのである。コミュニズムという古き良きマルクス主義概念を、理念としてではなく、現実の矛盾に立ち向かう運動として考えなければならない。コミュニズムを永遠の大文字の理念に祀りあげてしまうと、それを生み出した状況も同じく永続的なものであり、コミュニズムが立ち向かう敵対性はいつまでたってもなくならないということになってしまう。そこからコミュニズムの脱構築的読解までは、ほんの一歩にすぎない。すなわち、コミュニズムとは、現前を夢見ること、代表制がもたらすあらゆる疎外状況を一挙に廃絶しようという夢想、つまり、みずからの不可能性を養分にして育つ夢うつつの理想ということになってしまうのである。(スラヴォイ・ジジェク「初心からいかに始めるか」2009 )

ジジェクはここで柄谷行人のしきりに主張する「統整的理念」さえ否定している(参照:主人のシニフィアンと統整的理念)。







2015年10月25日日曜日

歌まくら(歌麿の枕絵)

徳川氏の覇業江戸に成るや、爰に発芽せし文華をして殊に芸術の方面において、一大特色を帯ばしめたる者は娼婦と俳優なり。太平の武士町人が声色の快楽を追究して止まざりし一時代の大なる慾情は忽ち遊廓と劇場とを完備せしめ、更に進んでこれを材料となせる文学音曲絵画等の特殊なる諸美術を作出しぬ。

暫く事を歴史に徴するに、わが劇場の濫觴たる女歌舞伎の舞踊は風俗を乱すの故を以て寛永六年に禁止せられ、次に起りし美少年の若衆歌舞伎もまた男色の故を以て承応元年に禁止せられて野郎歌舞伎となりぬ。

日本演劇発生の由来は全く一時代の公衆が俳優の風姿を愛慕する色情に基きしといふも不可ならず。女優並に遊女の女歌舞伎、また玩童の若衆歌舞伎、いづれにせよそが存在の理由は専ら演技者の肉体的勢力にありて、歌舞音曲はその補助たりしや明かなり。

寛文延宝以降時勢と共に俳優の演技漸く進歩し、戯曲またやや複雑となるに従ひ、演劇は次第に純然たる芸術的品位を帯び昔日の如く娼婦娼童の舞踊に等しき不名誉なる性質の幾分を脱するに至れり。

これと共に公衆の俳優に対する愛情もまたその性質を変じて、例へば武道荒事の役者に対しては宛ら真個の英雄を崇拝憧憬するが如きものとなれり。古今東西の歴史を見るも実に江戸時代におけるが如く公衆の俳優を愛したる例証はこれあらざるべし

江戸の市人は俳優に対して不可思議なる熱情を有したり。彼らは啻に演劇を見て喜ぶのみならず更にこれを絵画に描きて眺め賞したり。浮世絵の役者似顔絵はこれら必然の要求に応じたるものにして、その濫觴は浮世絵板画の祖ともいふべき菱川師宣なるべし。(永井荷風『江戸芸術論』)

江戸芸術論所収の「浮世絵と江戸演劇」からであり、「大正三年稿」となっている。

この荷風には珍しくーーと言っておこうーー学究的色調さえある文章が書かれた「大正三年」(1914年)前後とは次のようなことが起こった時期であるようだ(荷風は 1879年生まれだから、35歳前後である)。

1912年
9月 - 本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女ヨネと結婚。

1913年
1月2日 - 父久一郎死去。家督を相続。
2月 - 妻ヨネと離婚。

1914年
8月 - 市川左団次夫妻の媒酌で、八重次と結婚式を挙げる。実家の親族とは断絶する。

1915年
2月 - 八重次と離婚。
5月 - 京橋区(現中央区)築地一丁目の借家に移転。

たとえば荷風はこんな指摘もしている。

喜多川歌麿も安永天明の間豊章の名を以てしばしば役者似顔絵またはせりふ役者誉詞の表紙絵を描きぬ。然れどもさしたる特徴なければ論ぜず。吾人は唯歌麿がかつて役者似顔絵を描かずとなせし『浮世絵類考』の選者が誤謬を明かにせんとするのみ。鈴木春信も役者絵を描かずとなされたれどこもまた誤れり。(同上)

※参照:「どこかにいい役者絵描きはいないかぇ

蔦屋に世に出してもらった恩義を感じる歌麿であるが、自分の強みは美人画と春画だけであることをよく知っていた。

実際、過去に何枚か役者絵を描いたことがあるが、さんざんな評価であった。蔦屋が苦しいのも良く判っているが二度と役者絵だけは描きたくなかった。馬琴の度重なる懇願は予想通り徒労に終わった。

どこかにいい役者絵描きはいないかぇ・・・・

…………



クリステイーズ 2010.3.24(浮世絵の値段は6 北斎と歌麿の枕絵



ーーとのことだ。

かつて歌麿のこの作品の画像がネット上に落ちていないかと探したのだが、色合いの劣るものか、足先が切れているものしか見当たらなかった。





昨晩ようやくブリティッシュ美術館所蔵なるサイトで遭遇できた。おそらく喜多川歌麿の最高傑作のひとつなのに、なぜネット上にないのだろうと不思議に思ったものだ。





もう一つの傑作はネット上にふんだんにある。




以前、上の画像を探したのは、「枕絵とフェティシズムーー春信と歌麿(加藤周一)」を記したときである。2013年6月1日投稿となっており、もう2年前だ。

ここに記念として加藤周一の文を再掲しておこう。

男女三歳にして席を同じくせず。これは西洋人のいわゆる「ヴィクトリア朝道徳」をさらに徹底させたタテマエである。タテマエはむろんそのまま実行できないから、徳川時代はウラの性風俗への関心を強めた。その制度化されたものが遊里である。その私的領域で栄えたものが枕絵である。遊里は、少なくとも徳川時代の後半には、歌舞伎の劇場と共に、町人社会の文芸・音楽・絵画の中心となった。枕絵は、同時代の高名な浮世絵版画家で、それを作らなかった者はほとんどいない。

しかしタテマエの非現実性だけが、枕絵の大量生産を説明するわけではないだろう。徳川時代の後半、殊に一八世紀後半から一九世紀初めにかけての町人社会は、物質的に繁栄していたと同時に、近い将来に体制の変革を期待していなかった。そこで人々の関心が私的領域に向かったのは、当然であり、私的領域におけるもっとも強い衝動の一つが、性的欲望であることは、いうまでもない。しかし性的なものへの強い関心は、必ずしも直ちに性的なものの豊富な表現を意味するとはかぎらない。表現は内面的衝動の外面化すなわち社会化であり、その形式は文化によって異る。性的なものが主として商品として表現される文化もあり、それが芸術として表現される文化もあるだろう。徳川時代の文化の特徴の一つは、性的表現の動機がしばしま芸術的表現のそれと結びついていた、ということである。

枕絵の多くは、絵としては稚拙である。しかしその多くは風俗史興味をひく。そこには、たとえば、二人の男女の組み合せばかりでなく、三人以上多人数の組み合せや女二人の組み合せもある。背景は屋内を主とするが、縁先、屋外、海中にまで及ぶ。当事者のうち女には、遊女が多いが、町屋や武家の女もあり、海女の例もある。日本の枕絵はほとんどすべて性器の大きさを著しく誇張する。おそらくそれは「フェティシズム」の直接の反映であるのかもしれない。しかしそういうこととは別に、絵として優れたものも少なくない。たとえば鈴木春信や喜多川歌麿の枕絵は、彼らのその他の作品、たとえば美人画とくらべて、緊密な構図、優美な線、微妙な色彩の、どの点から見ても、少しも劣らず、むしろしばしば勝ることがある。

春信は、相合傘の少年少女を描いたように、若い男女の情交を、室内の、――窓外の風景をも含めて、――細かく描きこんだ背景のなかに置き、情緒的な画面を作った。その人物が画面全体のなかに占める割合も大きくない。われわれは、人物と同時に、彼ら自身が見ていないだろう環境を、見るのであり、そのことがわれわれと人物との距離を大きくする。しかもそれだけではない。春信は、しばしば、情交の当事者の他に、彼らを観察する第三者を、画中に配する。その第三者の視線に、当事者が気づかぬ場合、たとえば柱のかげからもう一人の女が室内の様子を窺っているような場合には、われわれはその第三者の視線を通して、いわば間接に、当事者の行為を見ることになる。そのことがわれわれと対象との距離をさらに大きくするだろうことは、いうまでもない。当事者が意識している第三者は、たとえば遊女の行為を見ている禿〔かぶら〕である。その場合には、絵を見るわれわれではなくて、画中の当事者が第三者の視線を通して自分自身を見るということになろう。われわれはそういう当事者を、すなわち自己を対象化する主体を、対象化する。二重の対象化もまた、人物とわれわれとの距離を強化するにちがいない。

歌麿の方法は、春信のそれの正反対であった。大首絵の接近画法を美人画に用いた彼は、もつれ合う男女をも近いところから見た。その姿態は、画面の全体に拡がって、背景を描く余地をほとんど残さない。しかしそれは細部を観察するためではなかった。歌麿は対象に近づけば近づくほど、抽象化し、様式化し、二次元的な色面を駆使し、透視法――それはもちろん幾何学的であるとはかぎらないーーから遠ざかる。なぜなら当事者には背景が見えず(あるいは断片的にしか見えず)、相手と自分自身の着物や身体の一部だけが大きく視野のなかに入って来て、そこではどういう種類の透視法も成立し難いはずだからである。目的はあきらかに対象(当事者)と画家(したがって絵を見るわれわれ)との距離を大きくすることではなく、小さくすることにあった。あるいはむしろ愛の行為の当事者が見る世界を、絵を見るわれわれが見ることにあった、というべきだろう。そのために歌麿が駆使したのは、彼が知っていたあらゆる手法であり、そうすることで彼は、ほとんど浮世絵の枠を破り、表現主義的抽象絵画の領域にさえ近づくところまで行ったのである。

作品がワイセツであるかどうか、そんなことは私にとって何ら興味もない。私に興味があるのは、それが絵としてどれほど完成し、どれほど独創的であったか、ということである。歌麿のすべての版画のなかでも、これほど完成し、これほど独創的なものは、おそらく少い。(加藤周一「対象との距離」『絵のなかの女たち』所収)

ここでの文脈から言うまでもないだろうが、いま黒字強調した箇所のバラグラフの前に「歌まくら」の画像が掲げられている。

別の浮世絵について書かれている文だが、加藤周一はこうも言っている、《いずれにしても、一八世紀のヨーロッパは、まだかくも品位高く、かくも輝かしい黒という色を知らなかった》(「春信の女と歌麿の女の胸」)。

マネの黒の使い方と喜多川歌麿、鈴木春信の黒を比較もしているのだが、たしかに彼らの黒は美しい。

だが、わたくしは彼らの青や藍色にも魅せられる。

…………

この際ついでに、すこし前に記して、投稿せずのままの記事ーー「世界は光る、きらりと」と表題までつけてあったのだがーーをここに貼り付けておく。




世界は光る、きらりと、
朝まだき露の滴が山裾の野に光るように。

今、影が伸びる、神のため息のように、長く、いっそう長く。

ーーーエリティス「アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩」中井久夫訳)





ああ すべては流れている
またすべては流れている
ああ また生垣の後に
女の音がする(西脇順三郎「野原の夢」より『禮記』)
女から 生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である(「キャサリン」より『近代の寓話』)


喜多川歌麿


この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している(夏(失われたりんぼくの実)」『近代の寓話』)

ーー「近代の寓話」に「形而上学的神話をやつている人々と/ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」とあるのを、西脇順三郎自身から、《これは実は「猥談」をしている同僚のことだという説明をうかがって》、驚いた…(新倉俊一「記憶の塔」)。

ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやっている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う
向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている
ふところから手を出して考えている
われわれ哲学者はこわれた水車の前で
ツツジとアヤメをもって記念の
写真をうつして又お湯にはいり
それから河骨のような酒をついで
夜中幾何学的な思考にひたったのだ
……





「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir auxhaies de la jouissance]」

ーー欲望は享楽の垣根にてトカゲの尻尾のよう落ちる。

Les objets à passer par profits et pertes ne manquent pas pour en tenir la place. Mais c’est en nombre limité qu’ils peuvent tenir un rôle que symboliserait au mieux l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance, que guette un dieu malin.

ーーLacan, Écrits, « Du ‘Trieb’ de Freud et du désir du psychanalyste », Le Seuil, Paris, 1966, p. 853.




人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」より)




川の瀬の岩へ
女が片足をあげて
「精神の包皮」
を洗っている姿がみえる
「ポポイ」
わたしはしばしば
「女が野原でしゃがむ」
抒情詩を書いた
これからは弱い人間の一人として
山中に逃げる(吉岡実「夏の宴」--西脇順三郎先生に)




…………


今これら諸家の制作を見るに、美術としての価値元より春信清長栄之らに比する事能はざれど、画中男女が衣服の流行、家屋庭園の体裁吾人今日の生活に近きものあるを以て、時として余は直に自己現在の周囲と比較し、かへつて別段の興あるを覚ゆ。国貞国芳らの描ける婦女は春信の女の如く眠気ならず、歌麿の女の如く大形の髷に大形の櫛をささず。その深川と吉原なるとを問わず、あるひは町風と屋敷風とを論ぜず、天保以後の浮世絵美人は島田崩しに小紋の二枚重を着たるあり、じれつた結びに半纏を引かけたるあり、絞の浴衣を着たるあり、これらの風俗今なほ伝はりて東京妓女の姿に残りたるもの尠しとせず。その家屋も格子戸欞子窓忍返し竹の濡縁船板の塀なぞ、数寄を極めしその小庭と共にまた然り。これ美術の価値以外江戸末期の浮世絵も余に取りては容易に捨つること能はざる所以なり。(永井荷風『江戸芸術論』)


(歌川国芳)

国芳画中の女芸者は濃く荒く紺絞の浴衣の腕もあらはに猪牙の船舷に肱をつき、憎きまで仇ツぽきその頤を支へさせ、油気薄き鬢の毛をば河風の吹くがままに吹乱さしめたる様子には、いかにも捨身の自暴になりたる鋭き感情現れたり。湖龍斎が画中の美人の物思はしく秋の夜の空に行雁の影を見送り、歌麿が女の打連立ちて柔かき提灯の光に春の夜道を歩み行くが如き、安永天明における物哀れにまで優しき風情は嘉永文久における江戸の女には既に全く見ることを得ざるに至りぬ。(同上)




…………

浮世絵はいくらかの肉筆画以外はほとんど版画なのだから、絵師、彫師、摺師の分担があった。われわれが知るのは通常絵師の名にすぎない。

たとえば彫師について次ぎのような紹介がある(浮世絵ができるまで(2) - 彫師

さて、絵師の下絵が出来ると、次は彫師の出番。下絵の線に忠実に版木を彫っていきます。
ただし、彫りの場合は版木が(色数に応じて)複数枚必要なこともあって、通常は一人で行うのではなく、何人かで分担して作業にあたります。

この分担は職人の力量に合わせて決められたようで、たとえばもっとも大事な役者の顔や髪の部分を彫るのは熟練した職人、着物の柄や背景などはまだ若い職人、という具合に、熟練度にあわせた作業分担で連携して作業にあたっていたようです。

彫師として一人前になるには、少年の頃から親方のところに入門して十年ほどの修行が必要だったといわれます。

最初は背景などの比較的簡単な模様のない色版から始めて、次に模様彫り。やがて修行を積むと人物画の手足、それをこなせるようになるといよいよ難しいといわれる頭部(顔)、そして最後に最も難しいといわれる「髪の毛」に至ります。

ここまでこなせるようになれば、一人前として絵に彫師の名前を入れることができたそうです。



江戸時代とは不思議な時代だ。当時の日本はすくなくとも大衆文化としては、世界の最先端だったのだろう。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」ーー「鎖国のすすめ」)
江戸時代という時代の特性…。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。(中井久夫「意地の場について」『記憶の肖像』所収)

ーー《こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である》とあるが、おそらく日本の「反知性主義」なるものの起源もこのあたりにあるのではないか。

……正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」ーー日本的「融合と共存」と母性的「ヤンキー」集団


大衆文化面で最先端だったどころか、経済面でも「世界最初の整備された先物市場」があったとする見解もある。

柄谷行人)江戸初期の体制はともかくとして、元禄(1688年から1704年)のころは、完全に大阪の商人が全国のコメの流通を握っていまして……

岩井克人)そうですよ。江戸の大名は参勤交代があって、一年に一回江戸に出てこなくちゃならない。しかも正妻と子供は江戸に残さなくちゃならないから、どうしてもお金が必要なんですね。領地でコメを収穫してもそれを大阪に回して、堂島のコメ市場で現金にかえて、さらにたりないぶんは両替屋にどんどん借金するんだけど、それでも収入が足りなくて、特産品を奨励するわけです。(……)(コメは)生産する側にとってみればたんなる食べ物ではなかったわけですよ。食べるものではなく、流通するものとして、ほとんどお金同然だったわけですね。

だから、大阪の堂島にはじつに整備された大規模なコメ市場が成立したわけです。たとえば、現代資本主義のシンボルとして、シカゴの商品取引所の先物市場がよくあげられるけれども、堂島にもちゃんと先物市場があったんですね。「張合い」といって、将来に収穫されるコメをいま売り買いするわけです。と言うか、堂島の張合い取引が世界最初の整備された先物市場であったという説さえある。(『終りなき世界』1990)

2015年10月24日土曜日

純シニフィアンの物質性

我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole 、意味作用の原因としてのシニフィアン、そして、文字 lettre 純シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。(ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007)




ーーおい、カッコウいいこというじゃないか、じつに気に入ったね

……que c'est à un rapport du sujet au signifiant comme tel, sous son aspect le plus formel, sous son aspect de signifiant pur, qu'il faut rattacher le noyau de la psychose, et que tout ce qui se construit est là autour, (ラカン、セミネールⅢ(精神病)、p.527)

というわけで、《Real-of-language—as unmediated, unsymbolized letter、言語の現実界ーーなにものにも仲介されていない、象徴化されていない文字》のロレンツォ・キエーザである(参照:「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」)。

初歩的なレヴェルでは、文字は音素の書かれた物質化である。…もっと重要なのは、第二のより広いレヴェルにおいて、文字は、(意識的な)意味作用から独立して、無意識のなかにそれ自体として物質的に存在するものということだ。(ロレンツォ、2007)

とはいえ、セミネールⅢと同様、ラカンは早い時期からくり返している。

ここでの文字をいかに取るべきだろうか? まったくシンプルに、文字通りに à la lettre だ。私が文字によって示すのは、物質的な支柱であり、具体的な言説が言語から借りてきたものである。

Mais cette lettre comment faut-il la prendre ici? Tout uniment, à la lettre; Nous désignons par lettre ce support matériel que le discours concret emprunte au langage.( L'INSTANCE DE LA LETTRE DANS l'INCONSCIENT (E. 495)

だが残念なことに現代思想やらなにやらの連中ーーラカン派さえもーーは次ぎのように誤解してきた。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「「創造と癒し序説」――創作の生理学に向けて」1996.12初出『アリアドネからの糸』所収)

もちろん中井久夫を難詰するつもりはない。これがすくなくともある時期までの通念だったということを示すために掲げただけだ。

ラカン自身こう言っているのだからやむえない。

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります。(ラカン、於Scuala Freudiana 1974.3.30)

というわけで、文字について哲学的ラカン派ではなく、臨床的ラカン派の見解をも掲げておこう。




(身体部分への)記銘 inscription はシニフィアンの体制 order には属していない(そしてそれ故、大他者には属していない)。しかしその記銘は、ラカンが「文字」として理解しようと奮闘するなにかを通して、起こる。ここでは「使用価値」が「交換価値」よりはるかに重要である。(……)

文字は後々まで、大他者の非全体 pas-tout の内部に外立 ex-sisting し続ける。(ポール・ヴェルハーゲ、2002) 
セミネール XXII(R.S.I.)にて、ラカンは「文字」をふたたび取り上げている。システム無意識 system Ucs(Ubw) における欲動の代表象としての「文字」である。この文字は、欲動が特定の主体に固着される特定な仕方をもって現れる。(同上)

ーーこのヴェルハーゲの文は後に2009年に「享楽の侵入」として整理された。上の文から読みとれるかもしれないように、ヴェルハーゲはラカンの「文字」概念に対して、全面的には賛同していないようにいっけん見える。

Qu'est-ce que ce x ? C'est ce qui de l'inconscient peut se traduire par une lettre, en tant que seulement dans la lettre, l'identité de soi à soi est isolée de toute qualité.

De l'inconscient, tout Un… en tant qu'il sustente le signifiant en quoi l'inconscient consiste …tout Un est susceptible de s'écrire d'une lettre. Sans doute, y faudrait-il convention. (S.ⅩⅩⅡ p.73)

いずれにせよ、身体に記銘された欲動の固着のたぐいとは次のようなものだ。

そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)

それは大他者の非全体 pas-tout の内部に外立 ex-sisting し続ける。それは外密(外-親密 ex-intimate)、Fremdkörper(異物)でもあるだろう(参照:ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz)。

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。(ラカンS16)

さて次に再度中井久夫である。

ラカンは精神病を考えるなかで、純シニフィアンを見出し、中井久夫は分裂病を考えるなかで、言語の物質性を見出したといってよいだろう。

われわれはまともな文章を書くために、つまり言語の物質性にめぐりあうために、退行しなくてはならないのではないだろうか。

何人であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

すくなくとも言語の「図式的側面」ばかりを使用した文章ばかりでは貧しい、《詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である》。

私はひとり、でも声があらゆるところで私に語りかけてくる。そこで・・・ この溢れ出すような感覚をほんの少し知らせようとしているの。長いこと、私は、あれを外部の声だと信じていたけど、今ではそう思っていない。 あれは私なのだと思う。 ( 『マルグリット・デュラスの世界』デュラス)
書くときに私が到達しようと努めているのは、おそらくその状態ね。外部の物音にじっと耳を澄ましている状態。ものを書く人たちはこんなふうに言う、 "書いているときは、集中しているものだ" って。私ならこう言うわ、 "そうではない、私は書いているとき、完全に放心しているような気がする、もう全く自分を抑えようとはしない、私自身、穴だらけになる、私の頭には穴があいている" と。(デュラス/ポルト『マルグリット・デュラスの場所』)

とはいえ、詩人はそんなに数多くいらない。凡人たちーーここでわたくしのような、と記しておかないとオコラレルーーは《明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって》奮闘すべきなのだろう。

浅田彰:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。(平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰)


◆中井久夫「詩の基底にあるもの」より(『家族の深淵』所収 初出1994)

―――その生理心理的基底



精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。

言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。

この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。

これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。

さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。

当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。



詩作者と、精神分裂病患者の、特に最初期との言語意識は、以上の点で共通すると私は考える。

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』 26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候 ――再考」同27 号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程であるさらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」 heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。



実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。

むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。

散文を書く時は、たとえ難渋するにしても、それは主題との格闘であって、言語そのものに対しては「大地の感覚」を維持している。散文においても言語は「発見」の道具でありうるが、言語を「発見論」的にしようしてはいない。「発見論」的使用とは、発見のために闇を探ることであり、それは決して何かを証明することはなく、常に「悪魔と深い海との間に落ちる」危うさがある。詩とは言語の「発見論的」使用であり、それゆえの徴候あるいは余韻、索引への敏感性があるということができると私は考える。詩を書き始める年齢は「妄想能力」の成立の年齢とほぼ一致する。

かりに、貴重な薄氷感を失えば、言語の発見論的使用は「妄想」に堕する危険がある。実際、妄想は全面的危機に際して一つの解釈を示して救い手として現れるものであり、患者が妄想にその内容にふさわしい恐怖を示さないかに見えることは、何よりもまず、それに先行する事態がはるかにおそるべきものであって、それに比すれば何ほどのことはないからである。実際、妄想の反復性と一義性とは、内容の恐怖性を補って余りある安定を与える。ここに妄想の抜けにくさがある。それは不要になった時に自然に消滅する他はないものである。しかし、安んじて共存できるものでもない。また問題は、新しい体験が入ってこなくなることであり、それゆえに妄想を持つ人の「心が痩せる」。詩と妄想とは最終的には相互排除的であるが、出発点においては、まったく別個のものではないと私は考える。むろん、発見論的使用と無縁な韻文はありうる。それは韻文であるが「詩」との相違は、数学の論文とパズルとの差に近くはないか。もっとも、詩作のある段階においてはパズル的側面、言語ゲーム的側面が前に出ることもある。それが詩を完成させる救いになることもある。

…………

たとえば「世界における索引と徴候」(『徴候・記憶・外傷』所収)の冒頭。

敢えて行わけをして引用する。


ふたたび私は
そのかおりのなかにいた。かすかに
腐敗臭のまじる
甘く重たく崩れた香り――、
それと気づけば
にわかにきつい匂いである。

それは、ニセアカシアの花の
ふさのたわわに垂れる
木立からきていた。
雨上りの、まだ足早に走る
黒雲を背に、
樹はふんだんに匂いを
ふりこぼしていた。


Fu音の韻: ふたたび 腐敗臭 ふさ ふりこぼしていた …
a音の韻: 私は かおり なか かすか まじる 甘く 香り 花 たわわ 垂れる 雨上り  …
i音の韻: 気づけば にわかに きつい 匂い ニセアカシア きていた 樹は …

ーーー「かおり」、「かすか」、「香り」のka音の連続があり(漢字とひらがなの「カオリ」の混淆は文字面の美を考慮してのことであろう)、「にわかに」、「きつい」のi音の後に、「香り」ではなく「匂い」があることから、意識的な工夫であることが明らかだ。

まだまだいくらでもある、たとえば、「その」、「それと」 「それは」、に気づくこともできよう。「甘く重たく崩れた」の押韻、「まだ足早に走る」、a音の連続の心地よさ、そこに、足、走る、のshi音が絡むなどなど(i音とすれば「に」であり、足、に、走る、と三つ続くことになる)…

金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。

二週間後には、このあたりは、この多年生蔓草の花の、すれちがう少女が残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおりがたちこめて、ひとは、おのれをつつむこの香の出どころはどこかととまどうはずだ。小さい十字の銀花も、それがすがれてちぢれてできた金花の濃い黄色も、ちょっと見には眼にとまらないだろう。

この木立は、桜樹が枝をさしかわして木下闇をただよわせている並木道の入口であった。桜たちがいっせいにひらいて下をとおるひとを花酔いに酔わせていたのはわずか一月まえであったはずだ。しかし、今、それは遠い昔であったかのように、桜は変貌して、道におおいかぶさっているのはただ目に見える葉むらばかりではなく、ひしひしとひとを包む透明な気配がじかに私を打った。この無形の力にやぶれてか、道にはほとんど草をみず、桜んぼうの茎の、楊枝を思わせるのがはらはらと散らばっていた。(同)

詩でなくてもよい、---人は、火傷するほど「熱い」ことを(たまには)書かなければならないのではないか。

《……自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?》(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」より)

ーーこれはオレのことではないだろうか?

すでに出版された自著への態度は人によって非常に異なるようである。私は普通、改訂はしない。読み返すこともほとんどない。書店に入っても著書が並んでいる本棚の前は避けて通ってしまう。私にはまだ手にとって火傷するほど「熱い」のである。

翻訳の場合にはこの過敏症はない。特に訳詩となると、これは少し間を置けば何度読み返しても飽きないし、少しずつ訂正してしまう。書店に並んでいるとほっとしてその書店を祝福したくなる。これはおそらく私が翻訳という安全な隠れ蓑を着て私の著作家としてのナルシシズムを安全無害に放電しているのであろう。もし私の詩集という実在しないものが書店に並べば私はその前をとおりにくいのは他の著作以上だろう。 (中井久夫「執筆過程の生理学」)