このブログを検索

2015年3月7日土曜日

元「しばき隊」諸君の「ポストモダンと冷笑」批判

野間易通氏が次ぎの二つのツイートをリツイートしている(15:00前後 - 2015年3月7日)。

@poem_japan: 以前、浅田彰が大江健三郎について「何故、あんなつまらないエッセイ書く作家があそこまで凄い小説を書くのか」みたいなこと言ってて、その頃の大江は直球の反戦反核で戦後民主主義的エッセイを連発してたんだけど、それのどこが悪いのかって思ったなー。
@bcxxx: 戦後民主主義は「つまらない」、という「戦争を知らない現代っ子の退屈主義」が、日本におけるポストモダン思想の根本にあり、その延長上に、90年代の政治サブカルの相対主義的歴史修正主義や、00年代以降の極右排外主義、趣味化した冷笑主義があると考えている。

前者はbcxxx氏がリツイートしたもののようで、bcxxx氏は、野間易通氏と同様、元しばき隊の仲間たちのひとりである。

3.11以後、これらの連中のやってきたことを評価し過ぎてもし過ぎることはないという立場に立つにもかかわらず、彼らの頭は単細胞すぎる。すくなくともそのツイートのかなりのものは、「キャッチーさ」のみが強調され、ときにひどく苛立たせられる。

@bcxxx: ネトウヨの猛然たるデマ言説に対して、左翼の対抗言説はいかにも丁寧で、資料を丹念に挙げたりするのだが、その分長ったらしく、キャッチーさに欠ける。教養のある人が、時間のある時に、ふむふむ勉強になるなあ、と思いながら読む感じ。学習会のノリなんだよね。(2014/09/07ーー「旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通」より)

彼らはバカではない、だが、ことあるごとにポストモダンやら冷笑主義なる語彙をふりまわして否定するが、では例えば、「風刺」と「冷笑」とどう違うのか。彼らは今年初頭の仏風刺画をめぐる事件にどんな立場をとったのだったか(失礼ながら失念したが、今調べてみようとは思わない)。情緒の昂揚系ではなかったかどうかも思い出せない(参照:仏テロ事件後のラ・マルセイエーズによる「情緒の昂揚」)。

風刺/冷笑には、もちろん違いはあるのだろう、たとえば、そこにユーモア/アイロニーの二項対立を思い起す人もいるだろう(参照:「ユーモア」と「超自我」(柄谷行人とフロイト))。そして風刺はユーモア寄りだと言い募る場合もあるかもしれない。だが、それは受け取り手次第の場合が多い。

たとえば、これは別の例だが、ニーチェの能動的/受動的ニヒリズムの相違にひとは気づくことは容易ではない。それは受け取り手がどの立場に立っているのかによって変化する。ユーモア/アイロニーはその最たるもののひとつだ。

ニヒリズム。それは二義的だ。
A 高揚した精神力のしるしとしてのニヒリズム。すなわち能動的ニヒリズム。
B 精神力の衰退と退化としてのニヒリズム、すなわち受動的ニヒリズム。(権力 22番)
ニヒリズムは一つの正常な状態である。

それは強さのしるしでありうる。精神力が伸びきつて、これまでの目標(「信念」とか、信仰信条など)が身たけに合わなくなったという場合である。(――というのは、信仰は一般に、ある生物がそのもとで繁栄し、生長し、権力をうるような状況が示す権威に服従すること、すなわち生存の諸条件の強制をあらわすものだからだ。)

他方ニヒリズムはまた、創造的自主的に、あらためて一つの目標を、一つの「何のために」を、一つの信念を打ちたてるにたるだけの強さをもっていないしるしでもある。

能動的ニヒリズムは、破壊の暴力として、その力の最大限に達する。

これに対立するのが、もはや攻撃することをしない疲れたニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教であろう。受動的ニヒリズムとして、弱さのしるしとして。精神力が疲れ、消耗しきってしまった結果、在来の目標や価値が合わなくなり、それがもはや信ぜられなくなるという場合である。――価値と目標の綜合(すべて強い文化はこの綜合にもとづく)が解体して、その結果、個々の価値がたがいに戦いあう、すなわち崩壊することになるのだ。――活気づけ、治療し、安心をあたえ、麻痺させるようなすべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治的とか、美的とか、その他さまざまの扮装をして、前景に出てくるのだ。(権力 23番)

…………

たとえば、浅田彰の2001年4月28日 東京大学駒場の講演「知とは何か・学ぶとは何か」を読んでみよう。

自分はそもそも、近代はすばらしいと言っていた人に対して、近代にも様々な問題はあるし、近代が忘れてきた様々な問題をもう一回考える必要があるという立場だった。しかし気づいてみると近代こそが最低限の常識だ、という頑固親父がいなくなって、近代は絶対ではないとか、公教育というけれども情報量を詰め込むより生きる力をつけなければなどと言っている。

あるいは、「民主主義の中の居心地悪さ」にいくらか列挙されている抜き書きを。

なぜ、《戦後民主主義は「つまらない」、という「戦争を知らない現代っ子の退屈主義」が、日本におけるポストモダン思想の根本》などと言い募ることができるのか。これこそ「キャッチーさ」のみが強調された阿呆ツイートである。

ここではバディウ曰くの《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》などという類の話はしないでおこう(参照:民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である)。

もっと基本的レベルの話をしよう、野間易通氏は、《そもそも柄谷行人みたいな大物の哲学者が「日本はデモができる社会になってよかった」とか言ってるのって極めて異常なことで、……》云々とツイートしていたのを垣間見たことがあるので、柄谷行人の話をしよう。

 ポスト・モダニズムについては、僕もさまざまな、かつ相互に矛盾しあうような考えをもっています。ある者たちに対して、僕は、自分はポストモダンだと宣言するでしょう。しかし、それは、ポスト・モダンがモダンのあとにくる「状態」や「段階」でなのではなく、モダンなものに対してその自明性をくつがえすという“超越論的”な「姿勢」であるかぎりにおいてです。だから、それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない。(柄谷行人『闘争のエチカ』P18)

「超越論的」という言葉が出てきている。柄谷行人はいたるところでこの「形容詞」を語っているが、ここではトランスクリティークから。

カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P17)

すなわち、《自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということ》であり、《超越的、つまりメタレヴェルに立って見下すものではなく、自己自身に関係していくもの》(『闘争のエチカ』P53)ということになる。これは殆んどユーモア/アイロニーの定義である。「超越論的」がユーモアであり、「超越的」がアイロニーである。ここでドゥルーズの定義を掲げてもいいが、長くなるので千葉雅也氏の書から拾っておこう。

千葉雅也(動きすぎてはいけない)@ 逃走は、少なくとも二度、加速されなければならない。一度目は、しがらみを笑い飛ばすイロニー的な初速として。二度目は、そこから伸びるリゾームを、《この》加/減でよしと、笑って済ませるユーモア的なトップ・ギアとして。

あるいはまた柄谷行人の80年代の書から次の文をつけ加えることもできる。

人間が作ったものと自然が作ったものの差異はなにかという問いは、それ自体歴史的である。実際この問いが生じるのは、またテクネーの意味が問われるのは、 きまってテクノロジーが飛躍的に発展するときである。(……)サンボリストたちの問題意識は、19世紀のテクノロジーに密接に関係するのである。今日において、構造主義は、いうまでもなく、コンピューター・サイエンスの所産である。逆に、現代のテクノロジーに無関係にみえるような哲学者の言説においても、 本質的にこの関係が存する。たとえば、ジャック・デリダがアルシエクリチェールについて語るとき、分子生物学が遺伝子をエクリチュールとしてみているとい う事実の上である。

このことは何を意味するのだろうか。第一に、われわれはもはや伝統的な用語によって語るべきではなく、すくなくとも現代のテクノロジーの達成を前提としておかねばならない。さもなければ、それはわれわれを伝統的な思考の圏内に閉じこめてしまうだろう。だが、同時に、われわれは歴史的な過去に遡行しなければならない。それは、現代のテクノロジーが与えている「問題」が、そのなかで解かれるべきものであるどころか、一つの反復的な症候にすぎないことを知っておくべきだからだ。さらに、もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』 講談社版1983)

この引用文の最後にある、《もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくこと》という振舞いがポストモダンの真の態度なのだ。

そしてくり返せば、「ポストモダン」が、「状態」になってしまえば、それを疑うことが「ポストモダン」なのだ。すなわち、《それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない》と。ただつねに懸念されるのは、それが何を意味するのか分からずにイメージだけの概念=表象として流通してしまいがちなことだろう。それを元シバキ隊の諸君はやっていないだろうか?

かつまた、われわれは、いまだ《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)には相違ない。これは殆んど誰もが例外ではないはずだ。さて、元シバキ隊の諸君はどうなのだろう?

さらにまた、人は「正しい心を抱いて邪な行為をする」(シェイクスピア=ジジェク)こともありうる。「誤った理由から正しいことをする」場合もあるように。彼らの多くは見たところ、--これはわたくしの推測だがーー共産党支持らしいが、それは場合によって、「正しい心を抱いて邪な行為をする」帰結になりはしないか。

ここでの文脈とは、あまり関係がないが、東浩紀氏が野間易通氏に向けた昨年末の選挙前のツイートを掲げておこう。

@hazuma: こういうとき、そんなこと言っても与党の横暴を止めるためなんだから、とにかくなんでもいいからうち(野党)に入れておけとか言ってきたから、日本の野党は競争力を失ったんだと思う。

ーーとはいえ、わたくしは与党の横暴を止めるために、「戦略的に」社会党や共産党などに入れてきたタチではあるが。

…………

以下、元シバキ隊の諸君の大キライなはずの蓮實重彦によるポストモダン批判(吟味)を附記しておく。

僕は「ニュー・アカデミズム」は本質的に思想運動ではなく「闘争」だったと思っています。その「闘争」は、出発点において共同体内の戦いだった。浅田彰にしても中沢新一にしても、その戦いを一つの攻撃として組織したんだと思います。そうした姿勢を勇気づける雰囲気はある程度準備されてはいましたけれど、より持続的な戦いの端緒として『構造と力』や『チベットのモーツァルト』は出版されたわけです。その際、共同体内の敵はもっと強力なものだという自覚があったはずです。その自覚とは、あっさり蹴散らされるほどの理論的な強力さではなく、いわば無視されるといった程度の負の強力さを予測していたということです。

ところが、仮想敵がまるで強くなかった。浅田氏にしろ中沢氏にしろ、積極的な敵意に出会う以前に共同体内的な嫉妬によって受け入れられ、それをバネにして共同体内で勝利してしまったのです。これは、日本社会の無責任的な柔構造にからめとられたということにほかなりませんが、大学といった「アカデミズム」の場にまで拡がり出しているこの柔構造の無責任性は、いつでも逆転しうるものだ。王殺しはたえず共同体的な健康維持として可能ですが。ところで、いわゆる「ニュー・アカデミズム」が一時的に占有しえた王の位置というのは、彼らが意図してそこについたわけのものでない。いわば、彼らの書物が読まれたことからくる思想的な勝利ではなく、共同体が容認しうるイメージに翻訳された観念に支えられたものでしょう。「アカデミズム」でさえ、そのイメージに汚染されているわけで、まあ、僕の場合なら、そうしたイメージ汚染の現状を物語批判として展開したのだけれど、「ニュー・アカデミズム」の当事者たちの方は、ある程度、そのイメージ汚染の醜悪さを楽しんでいました。それが柄谷さんのいう「調子に乗ってやってきた」という側面だと思いますが、いまや、彼らの書物が持っていた「闘争」性があらためて問われるときだと思う。(『闘争のエチカ』P176)

ここで蓮實重彦は何を言っているのだろう。浅田彰も中沢新一も、ニーチェの云う能動的ニヒリズムとして出発したのだ、といってはいないか。だがいつの間にかそれが取り込まれて受動的ニヒリズムの一環になってしまった、と言ってはいないか。

以下は補足的につけ加えておく。

……フレデリック・ジェームソンが「ポスト・モダンと消費社会」というのを書いたでしょう。たいした論文じゃないと思うんだけれども、そこで彼が陥っている最大の間違いは、時間と空間を限定してしまったことにある。もし、かりにポスト・モダンという状況を評価するならば、それは一定の時代じゃないわけです。場所でもないわけです。そのことを彼は、どうしても文章のなかに取り込めないわけです。時代と場所ということに、どうしてもこだわってしまってて、ポスト・モダン的な運動は映画なら一九五〇年代の終わりからフランスを中心に起こったとこ、そういうことを平気で書いちゃう。

たしかに、たとえばゴダールが出たのはフランスですよね。これは、誰も否定しない。それからゴダールは、ある種の歴史的な状況を背負って出てきたというのも当り前なんだけれども、こういう歴史的な時代設定によってポスト・モダンを語る姿勢って、ポスト・モダン的感性を抑圧するいかにも近代的な言説でしょう。僕にはそのつもりはないけれど、こうした筆遣いでポスト・モダンが語られるのを見ると、僕はつい、ポスト・モダンの擁護にまわりたくなっちゃう。いくらなんでも、もう少し魅力的な語り方がありはしまいか。

ゴダールがすごいのは、彼の撮る作品が、映画の魂といういうべきものをほとんど唯物論的にスクリーンに露呈させているからであって、そのことで「後期資本主義下に現れた新たな社会秩序に内在する真実」を描こうとする一連の表象形式から遥かに距てられた場所にわれわれを目覚めさせてくれるからです。そうした場所での覚醒の体験は無時間的なものですから、それをポスト・モダン的だというならまだわかる気がする。でも、そんなことを考えていそうもないジェームソンは、近代芸術がすでに完成しつくして、新たな形式の創造が不可能になったという芸術家の自覚が、個人という近代的な概念の機能しえなくなった時代の表現としてポスト・モダンを生み落したのだと主張する。そうした近代的な歴史観こそが、実は批判さるべきなんだと思う。つまり、近代は終わったという自覚は彼にとっては個人的かつ近代的な自覚でありながら、その矛盾には目をつむっているわけですから、こうした人たちが語るポスト・モダンの近代性には心からうんざりさせられるし、その批判は『物語批判序説』であからじめしてあるつもりです。

ジェームソンはマルクス主義者だから、いまだに時代と生産様式にこだわらざるをえないんでしょうが、そこから引き出される論述の啓蒙性には本当に驚かされます。そして、それを批判するには、ポスト・モダン的である必要なんかない。それを近代的とよぼうが何とよぼうがかまわないが、批評ができれば充分なんです。ジェームソンには批評が欠けている。少なくとも、彼は、ポスト・モダンを語っていながら、ポスト・モダンの魂ともいうべき「記号」を唯物論的に擁護してはいない。彼は、共同体がたやすく表現するイメージを介して相対的な差異と戯れているだけなのです。これでは、いくら何でもポスト・モダンが可哀そうだ。(『闘争のエチカ』P69-70)
フーコーにとって「ポストモダン」という問題は存在しない。(……)現在のエピステーメーの領域にはいかなる断絶の兆候もない。いわゆる「大理論」の成立は何の変化ももたらさず、またそれらの死と呼ばれるものも、全く効力がない。考古学者フーコーにとって、「ポストモダン」とは、いわば誤まった問題なのである。(蓮實重彦『フーコーと《19世紀》』)
僕自身としては、真実をめぐる言説が「大いなる物語」の中に錨をおろしていた時代をモダンと呼び、その「大いなる物語」の機能失調が明らかになって以後の時代をポスト・モダンとよぶことには反対であり、かりに「大いなる物語」が近代=モダンの言説だと呼ぶなら、その成立は、真実とは無縁の「小さな物語」の発生と同時代的であり、あるいはその「小さな物語」こそが「大いなる物語」の伝播に役立っていたという視点をとっているので、ポスト・モダンをモダンに続く時代ととることにも反対です……(『闘争のエチカ』)

――さて〈諸君〉はこれら蓮實・柄谷・浅田の「三馬鹿トリオ」(吉本隆明)の語りを「批判=吟味」できるだろうか。すくなくともキャッチーさに専念して「相対的には聡明」なつもりでいる連中には無理だろう。

肝要なのは「超越論的」、あるいは「ユーモア」である。ユーモアが《メタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである》(柄谷行人『ヒューモアと唯物論』)。あるいは〈あなた〉の問いや批判が前提にしているのは何かというポストモダン的=超越論的な問いが肝腎である。「超越論的」とは、《合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判》することでもある(「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」)。

今思えばカントの超越論的な次元に辿りついたとき、私は哲学とは何たるかを間違いなく初歩的なレヴェルでしか理解してなかったのだ、と思いました。つまり、私は哲学が一種の誇大妄想的な企て(megalomaniac enterprise) ――ほら、「世界の基本的な構造を理解しましょう」というたぐいのものです――ではないという重要なポイントを理解したとき、哲学はそんなものではないとわかったのです。(……)

哲学は誇大妄想的なものではないと私が知ったのは、愚直(naive)な科学者から「われわれが合理的な仮説にもとづいた厳然たる現実を扱っているのに対して、君たち哲学者は単にあらゆる事物の構造を夢見ているだけではないのかね」というありがちな反論を受けたときでした。そのとき、哲学はある意味で科学より批判的で、より用心深くさえあるのだということに気づきました。哲学はより初歩的な疑問さえ投げかけます。例えば、科学者がある問いにアプローチする際、哲学のポイントは、「万物の構造は何か」ではなく、「その問いを定式化するために科学者がすでに前提としなければならない概念とは何なのか」ということです(スラヴォイ・ジジェク『ジジェク自身によるジジェク』清水知子訳)

ーー経験論に傾きがちな〈諸君〉も「偽の現場主義が支える物語的な真実の限界」を知らないわけではないだろう。


この文は、海外住まいの身として「なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?」(野間易通)という批判を蒙ることは覚悟で、あまりにも彼らの調子に乗りすぎが目に余るため、以上の文句を記してみたものである。こんなことはおそらくわれわれの世代(すなわち三馬鹿トリオを読んだ世代)の者たちにとっては自明の理だろう。ただ反原発、反レイシズム、反安倍などで、実働部隊として活躍してくれそうなのは元しばき隊の連中しかいそうもないので、批判の口を閉ざしているだけなのだろう。





教育のための画像

旬の画像にめぐりあうなり(بهترین روش برای یک شوخی ترسناک)。







今日の教育に向けられなければならない非難は、性欲がその後の人生において演ずるはずの役割を若い人に隠しておくということだけではない。そのほかにも今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(フロイト『文化への不満』 フロイト著作集3 P488)






我極東の民のため古典的な画像をも貼付しておこう。


Margaret Bourke Whit, North Korean, Severe Head, Korean Wars, History Photos, Life Magazines




やはりわれわれには三島由紀夫の首程度が瓶詰めにはぴったりではないか。


2015年3月6日金曜日

同じではありたくないという意志が等しく共有される場

わたしはベッドの上で上体を起した。そして、小説の中の主人公たちがよくやるように、薄暗い部屋の中をぼんやりと眺めまわした。実際、ベッドの上で主人公が目をさますところからはじまる小説は少なくない。(後藤明生『壁の中』)

こう引用したからといって、わたくしの手元に原稿用紙1700枚に及ぶらしい『壁の中』という書物があるわけではない。蓮實重彦の『小説から遠く離れて』(1989)からの孫引きである。

と、書いたところで、「蓮實重彦が偏愛する本 24」ーーこれはいつ頃提示されたのかは定かではないが、大江健三郎の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(2007)が選ばれており、それほど昔のことではないーー、このなかに後藤明生の『壁の中』は含まれているのだったかと覗いてみれば、『壁の中』ではなく、『挟み撃ち』が掲げられている。まあでもそれはこの際どうでもよろしい。そもそも後藤明生の作品はいくつかの短篇小説やエッセイ以外は読んだことのない身である。

蓮實重彦の『小説から遠く離れて』を続けよう(これはなぜか初版を手に入れている)。そこでは、うえの後藤氏の文を引用して次ぎのように書き継がれている。

とりわけ奇態な事実が語られているわけではないこの短い引用文(……)。「わたし」は、自分のしていることが、虚構の作中人物に似ていると思うのだが、しかもその作中人物は、特定の作品の特定の個人にとどまらず、かなりの数にのぼることにたちまち思いいたる。それ故、ここでの模倣はあらかじめ複数化していることになるし、さらには、それじたいが何かのくり返しにほかならぬことを芸もなく反復している自分の滑稽さをも意識せざるをえない。「わたし」は、多くの小説の主人公と同じことをしていると自覚するにとどまらず、その主人公たちが、いまの自分と同じことを、何度もくり返している点にも意識的だからである。

まず想い出されるのは、カフカの『変身』である。そしてゴーゴリの『鼻』、ゴンチャロフの『オブローモフ』もそうだ。ドストエフスキーの『分身』にも同じことがいえる。それぞれの作品の主人公は、職業や社会的な地位の違いにもかかわらず、みんな、作品の冒頭にあたってはベッドで目を覚ましているではないかと「わたし」は思う。「太宰治にも何か、朝目をさますときの気持は面白い、といったふうにはじまる小説があったような気がした」し、「椎名麟三にも、誰々(つまり主人公の名前、それとも、僕という一人称だったか?)は毎朝雨だれの音で目をさますのだ、といった書き出しではじまる小説があったことを思い出した」のである。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』pp.67-68)

さて、後藤明生、あるいは蓮實重彦は何が言いたいのだろう? まずはインターネット上から次ぎの文を拾うことができる。

いつだったか一度(あるいはもっと?)書いた通り、ぼくがこうして書いていることは、すべて何かの復習なのです。われわれに残されていたものは、復習しかないということなのです!
われわれのご先祖様たちは、この「予習にまさる復習なし」の精神で、営々と(つまり、前向きに!)文化とか文明とかを作り続けてきた。歴史というものを作り続けてきた。そして文学というのもまた、その例外ではなかったわけです。おかげで、ぼくの本棚はすでに満員、というわけです。そしてぼくは、その本棚の中の時間を、うしろへうしろへと歩いているだけです。そして、ときどき(でもないか?)脇道へそれているだけです。実際、本棚というやつは、アミダクジみたいなものだからね!(後藤明生『壁の中』

さてこうやって「引用」してみれば、《現実の生活にもオリジナルなものの這入り込む余地はない》とする小林秀雄の文章を続けることができる。それは引用としての人生、復習としての人生とでも呼ぶことができる見解である。事実、ツイッターなどで、日本人の生態を、動物園ならず人間園として日夜興味深く観察させていただいているが、--《一九世紀の動物園設立に先立って精神病院の見物が一八世紀都市住民の日曜日の楽しみであった(“人間園”)》(中井久夫『分裂病と人類』)--、そのほとんどがどこかで見た、あるいはどれかの小説で出合った劣化したコピーのように感じないでもないのだ。

寺田寅彦氏はジャアナリズムの魔術についてうまい事を言っていた、「三原山投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。ゆっくりオリジナルな投身地を考えている余裕はないのみならず、三原山時代に浅間へ行ったのでは『新聞に出ない』のである。このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撒き拡げ、あたかも世界中がその類型で充ち満ちているかの如き錯覚を起させ、そうすることによって、更にその類型の伝播を益々助長するのである」。類型化と抽象化とがない処に歴史家の表現はない、ジャアナリストは歴史家の方法を迅速に粗笨に遂行しているに過ぎない。歴史家の表現にはオリジナルなものの這入り込む余地はない、とまあ言う様な事は一般常識の域を出ない。僕は進んで問いたいのだ。一体、人はオリジナルな投身地を発見する余裕がないのか、それともオリジナルな投身地なぞというものが人間の実生活にはじめから存在しないのか。君はどう思う。僕はこの単純な問いから直ちに一見異様な結論が飛び出して来るのにわれながら驚いているのだ。現実の生活にもオリジナルなものの這入り込む余地はないのだ。(小林秀雄「林房雄の「青年」」)


この文章では物足りない人たちのために、『闘争のエチカ』(蓮實重彦・柄谷行人対談集)から、次ぎのように引用してもよい。

柄谷)……たとえば、小説というのはアイロニーだと思います。リアリズムは結局アイロニーとしてしか存在したことがないわけですよね。いわゆるリアリズムというのは、それ自体約束の地であって、現実とは別なのです。しかし、現実とよばれるものも、逆に小説を前提としているのではないか。

たとえば、“事実は小説より奇なり”とかいう言い方があるけれども、その場合、「事実」は、小説を前提しているんですね。そして、小説の約束からずれたものが、「事実」とよばれているわけです。リアリズムの小説であれば、たとえば偶然性ということがまず排除されている。たまたま道で遇って、事態が一瞬のうちに解決したとか、そういうことは小説では許されないわけですが、現実ではしょっちゅう起こっている。そういうのが出てくると大衆文学とか物語とかいわれるんですね。かりに実際にあったことでも、それを書くと、リアリズムの小説の世界では、これはつくりものだといわれる。いちばん現実的な部分が小説においてはフィクションにされてしまうわけですね。

しかし、一方で、僕らがやっていることが、すでに小説に書かれた通りでしかないということがありますね。たとえば大岡昇平の『野火』なんかそうですね。主人公は、小説の通りにやっていることを許しがたいと思う。そこでは、つまり、小説をこえた体験が書かれているというよりも、どんな体験も小説の枠内にあるにすぎないということが書かれている。あれは、パロディです。(……)

リアルというやつはほんとにアンリアルであって、あまりにもリアルにすると、アンリアルになっちゃうということはカフカがやったことですけどね。

蓮實)……「人生」という言葉でわれわれがすぐ納得しちゃうのは、なんか真っさらなものだという話なんですね。ところが「人生」というのは文化であるわけでしょう。どういう形で文化かといえば、滑稽なまでにほかの言葉に犯されて、誰が見たって真剣に自分を考えてみたら滑稽ですよ。それほどまでに、いわば引用とか物語を知っちゃっているとか、物語の逆さえ知っちゃっているという惨めな存在である。そのことを、これまでのいわゆる人生論というのは拒否しちゃうわけですよね。

僕が人生という言葉をいっているのは、ほかの人の言葉に犯された人間であるからだめだとか、そこから自由になって自分の言葉を発見しなければいけないとか、そういうことではなくて、人生というのは初めから滑稽なわけでしょう。その始めから滑稽なことを、たとえばほんとうらしい小説というのは滑稽らしく書いていないですよね。

もちろん、こうやって書いている〈わたくし〉も引用としての人生の実践者であることからまぬがれることなどまったくない。窓の外から吹き込んでくる午後の微風と光に身をゆだねて煙草をふかしているわたくしは、フィクションの登場人物の反復にすぎない。それを滑稽と感じるか、感じないのかという感性の相違はあるのだろうが。

ツイッタラーのなかには、おのれの滑稽さを感受しない図太い神経の持ち主があまた棲息しているようで、それがあの人間園を眺める大きな楽しみのひとつであると、ここで白状しておこう。とくに文学やら芸術やらを愛しているらしき「人間」の囀りというものは、自ら繊細さの衣裳をまとったつもりでいるためにか、いっそうその神経の図太さが際立ち、まことに陶然たる快楽を与えてくれることしきりである。もちろんその囀りの内容は各々「個性」が籠められているには相違ない。だが「形式的」には、ああ、どこかでみたことがある、という既視感に襲われぬことは稀である。それは、たとえば《特殊でありたいといういささかも特殊ではない一般的な意志》であったり、あるいは《違ったものでなければならぬという同じ一つの強迫観念》であったりする。


文学がその自意識に目覚め、文学ならざるものとの違いをきわだたせることにその主要な目標を設定していらい、過去一世紀に及ぶ文学の歴史は、同じであることをめぐるごく曖昧な申し合わせの上に、かろうじて自分自身を支えてきたといってよい。最初にあったのは、同じでありたくないという意志であり、その意志の実現として諸々の作品が書かれてきたのだが、より正確にいうなら、こうした文学的な自意識の働きは、それじたいとして故のない妄執をあたりに波及させてきたわけだ。実際、同じではありたくないという意志が等しく共有される場として文学が機能していたという事実は、何とも奇妙な自家撞着だというべきだろう。作家たちは、また読者たちも、自分が他と違ったものでありたいという同じ意志を、何の矛盾もなく文学の価値だと信じていたからである。つまり、近代と呼ばれる時代の文学は、文学が一般化されてはならず、あくまで特殊な振舞いとして実践されねばならないという一般化されて欲望が、みずからの矛盾には気づくまいと躍起になって演じたてられた悲喜劇にすぎず、それこそ文学の自意識なるものの実体にほかならない。

特殊でありたいといういささかも特殊ではない一般的な意志、あるいは違ったものでなければならぬという同じ一つの強迫観念が、文学をどれほど凡庸化してきたかは誰もが知っている歴史的な現実である。文学の近代的な自意識なるものによって捏造された個性神話というものが、とどのつまりは文学の非個性化に貢献してしまったという歩みそのものが、そのまま過去百年の文学の不幸な歴史にほかならない。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』pp.58-59)





2015年3月5日木曜日

マエストロ荷風の黒丸●赤丸○

前回、あなたのことをかりにマエストロ荷風とかりに呼んでみたが、ここでもそのとりあえずの呼び名を使ってみることにする。

さて、マエストロ荷風よ、あなたが律儀に毎日のように書き綴られる日記には、昭和四年五月からときおり黒丸を記されることになる。この徴は、研究者たちをなんの意味かと悩ましてきたのはご存知であろうか。たとえば、昭和十年の日記からいくつか拾ってみればかくの如しである。

●正月五日。くもりて西北の風強し。正午起き出でゝ舊稿を刪定す。晡下渡邊春子來る。車にて雷門に至り鳥屋金田にて夕餉をなす。向嶋の連込宿夢香莊といふ家スチームを引きありて暖なりといふ事、兼ねて聞きたれば、車を倩やとうて行く。言問橋をわたり土手を越れば一筋の廣き道あり。三階建の連込宿こゝかしこに電燈を輝したるさま大森海岸の色町に似たり。十一時頃歸る。春子といふ女年二十三四なるべし。十七八の頃活動役者岡田利彦の情婦となり一時同居せし事あり。利彦は××××××のみにて正しき交接をなさず。この習慣つきし爲春子は今だにまともの交接にては快感をおぼえず、××××られる事を望む由當人の述懐なり。昔の人のはなしに狐の美男に化けて女をたぶらかす時は必ず××××××と云ふ。蜀山人が壬申掌記にもこの事あり。左に抄録す。

武藏國神奈川の在鄕に關宿といふ所あり。此村に寡婦あり。あるとき隣家の男途中にて戯言をいひて、あすの夜はよばひわたらんなどいふ。女は誠と思いしが男はたゞ一時のたはぶれごとなりしを、狐きゝて、つぎの夜隣の男となりてしのびて行けり。女まことゝ思ひてあひしに、それより夜ごとにかよひけり。(畧)さても狐にあひしはいかなる様にやと寡婦にとひしに、房中の味美なる事人の及ぶ所にあらず。狐にもあれ今一たびあはまほしといふ。又驗者をしてよりを立てしめ、狐をせめていかなれば人の婦を犯して金をも取りしといふに、狐は人を犯す事なし、唯口をもてねぶる也といへり。金はかのつかふものゝ爲に取りてやりぬといふ。かの男の名は常右衛門といひしよし。師走五日府中にて間宮氏のまのあたり關宿のものに聞きしとて語りしまゝこゝに書きつく。清人の說部の一條を補ふべし十二月六日記

美童岡田は狐の化身なりしにや。さてまたこの春子の時折逢ふことを樂しみとする男には、前田男爵あり、画工×××あり。×××しかたにも色々秘術ありと云ふ。
●四月十二日。陰また晴。夜牛門の遲〻亭?にて飰す。奇談あり。自ら愧ぢてしるさず。 
●七月九日。晴れて風さはやかなり。梅雨も既に明けたるが如し。早朝下痢一回驚いて薬を服す。晡下渡辺来る。この日は鴎外先生の忌日なれど下痢を催したれば墓参もせず終日家に在り。
●八月初三。晴。晡下美代子及び其情人渡辺生と烏森の芳中に会す。奇事百出。記すること能はざるを憾しむ。燈刻驟雨雷鳴あり。八時過雨の霽はるゝを待ちて別れて帰る。

××××などとされる伏字について、そこになにが充当するのかは、おそらくこれは推測なのだろうが、「断腸亭日乗Wiki」なるものに書かれている。たとえば《利彦は××××××のみにて正しき交接をなさず》における伏字には、《玉門を嘗める》が代入されるとのこと。やはりこんなことまで探求されているとは、いまだマエストロファンは巷間にあまたいることを証する。あなたは冥土にて、さぞお喜びになっているのではないか。

徴については、マエストロは当然ご存知であろうとは思うが、サド侯爵、ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド、すなわちマエストロ・ド・サドもベットの頭に徴をつけておられる。マエストロ荷風よ、失礼な憶測だが、ひょっとしてマエストロ・ド・サドの真似をされたのではなかろうか?

サド公爵は女性と交渉を持つたびにベットの頭に小さな印でマークした。そして彼は幽閉されるまでこれを続けるのであった。自らの性的遂行の追及においてどこまで到達したかを確めようとするこのような必要性を持つとは、少なくとも性行為という人間の最もありふれた経験が教えることからすると、欲望の冒険によほどのめりこんでいなければまずできないことである。しかしながらサドのように人生の恵まれた時期において十進法の世界の中で自分がどこにいるかわからなくなるというのは考えられないことではない。(ラカン『同一化セミネール』向井雅明訳)

あなたが記される黒丸についての、研究者たちの憶測は次ぎのようであるらしいのだが、マエストロ! これでよろしいのでしょうか。

《これは一体何の印なのだろうか。研究者がその日の記述内容を検討してみると、どうみてもセックスをした符号としか考えられなかった。その●は昭和4年5月以降から記されていたのです。》(日本『バガボンド』チャンピオンー永井荷風を歩け 変態オヤジ

その黒丸がついているのは昭和4年(荷風50歳)で41回、5年(51歳)で87回、6年(52歳)89回、7年(53歳)69回、8年(54歳)85回、9年(55歳)66歳、10年(56歳)、11年(57歳)60回、12年(58歳)70回、13年(59歳)59回、14年(60歳)72回、15年(61歳)53回、16年(62歳)47回、17年(63歳)64回、18年(64歳)52回、19年(65歳)28回という具合である。吉野俊彦著『「断腸亭」の経済学』 NHK出版(1999年7月刊)よりのようだが、前坂俊之氏のブログからの孫引きーーいささか記載漏れや誤記があるようだが、そのままとする)




ところで、マエストロは昭和十一年二月、《余去年の六、七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり》と書かれてもおられる。

昭和十一年 二月廿四日。昨夜霽れわたりし空再び曇りて風また寒し。午後徒らに眠を貪る。燈刻銀座に徃かむとせしが顔洗ふが面倒にて家に留り、夕餉の後物書かむと机に向ひしが何といふ事もなく筆とるに懶く、去年の日誌など読返して徒に夜をふかしたり。老懶とは誠にかくの如き生活をいふなるべし。芸術の制作慾は肉慾と同じきものの如し。肉慾老年に及びて薄弱となるに従ひ芸術の慾もまたさめ行くは当然の事ならむ。余去年の六、七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。その頃渡辺美代とよべる二十四、五の女に月〻五十円与へ置きしが、この女世に稀なる淫婦にてその情夫と共にわが家にも来り、また余が指定する待合にも夫婦にて出掛け秘戯を演じて見せしこともたびたびなりき。初めのほど三、四度は物めづらしく淫情を挑発せらるることありしが、それにも飽きていつか逢ふことも打絶えたり。去月二十四日の夜わが家に連れ来りし女とは、身上ばなしの哀れなるにやや興味を牽きしが、これ恐らくはわが生涯にて閨中の快楽を恣にせし最終の女なるべし。色慾消磨し尽せば人の最後は遠からざるなり。依てここに終焉の時の事をしるし置かむとす。

一余死する時葬式無用なり。死体は普通の自働車に載せ直に火葬場に送り骨は拾ふに及ばず。墓石建立また無用なり。{新聞紙に死亡広告など出す事元より無用}

一葬式不執行の理由は御神輿の如き霊柩自働車を好まず、また紙製の造花、殊に鳩などつけたる花輪を嫌ふためなり。

一余が財産は仏蘭西アカデミイゴンクウルに寄附したし。その手続は唯今の処不明なり。余が家は日本の法律にて廃家する事を得ず。故に余死する時家督相続人指定の遺書なければ法律上余が最親の血族者に定まるなり。余は余が最親の血族者が余の志を重じ余が遺産の全部を挙げて仏蘭西のアカデミイに寄附せられむことを冀ふなり。

一余は日本の文学者を嫌ふこと蛇蝎の如し。

一余が死後において余の著作及著書に関することは一切これを親友〔この間約六字切取〕の処置に一任す。

一余が死後において、余の全集及その他の著作が中央公論社の如き馬鹿〻〻しき広告文を出す書店より発行せらるることを恥辱と思ふものなり。

一余は三菱銀行本店に定期預金として金弍万五千円を所有せり。この金を以て著作全集を印刷し同好の士に配布したしと思ふなり。

夜も既に沈々としてふけ渡りたれば遺書の草案もこれにて止む。

かくのごとく、性欲衰え、遺書の草案まで記されているのに、この五十七歳当時の黒丸、昭和11年60回、12年70回などとはいかなる仕儀であるのか。この回数は、わたくしが当年五十七歳であるためもあるが、まったく理解の及び難いところではある。やはり性的にも凡庸でしかあり得ないわたくしは、マエストロに語りかける資格はないのではないかと忸怩たる思いに襲われてしまう。

サドはジュリエットに次ぎのように語らせた、《まるまる二週間にわたって、みだらなことにかかわりを持たずにいてごらんなさい。気をまぎらせ、他の楽しみに専念しないなさい…。》五十七歳のわたくしは二週間に一度ほどでよいのだが、マエストロは年六十回、すなわち一週間に一度強ということになる。わたくしが語りかける対象は、マエストロ荷風ではなく、マエストロ・ド・サドのほうがふさわしいのかもしれぬ。

マエストロは、大正十五年四十八歳の日記に次ぎのように記されておられる。

大正十五年正月廿二日 ……予数年前築地移居の頃には、折々鰥居の寂しさに堪えざることありしが、震災の頃よりは年も漸く老来りし故にや、卻て孤眠の清絶なるを喜ぶやうになりぬ。その頃家に蓄へし小星お栄に暇 やりしも、孤眠の清絶を喜びしが故に外ならず。家に妻妾を蓄る時は、家内に強烈なる化粧品の臭気ただよひわたりて、缾中の花香も更に馥郁たらず。階砌には 糸屑髪の毛など落ち散りて、草廬の清趣全く破却せらる。是忍ぶべからざる所なり。然りと雖も淫慾もまた全く排除すること能はず。是亦人生楽事の一なればな り。独居のさびしさも棄てがたく、蓄妾の楽しみも亦容易に廃すべからず。勉学もおもしろく、放蕩も亦愉快なりとは、さてさて楽しみ多きに過ぎたるわが身な らずや。蜀山人が『擁書慢筆』の叙に、清人石龐天の語を引き、人生に三楽あり、一には読書、二には好色、三には飲酒、是外は落落として都て是無き処。とい ひしもことわりなり。

マエストロに敬意を表するわたくしは、ここに四十八歳の身勝手なエロ爺をみるなどと失礼なことはけっしてしない。むしろ詩人鮎川信夫の言葉を思い起すことになる。

それは、個人主義的な強い自我の主張というよりは、享楽に徹底した人間の、のっぴきならない、生き方として、そこに在ったのである。/荷風はそのような生き方を、永年にわたって、意識的につくり上げてきた。おそらく、それは「家庭の幸福」から疎外された文学者にしてはじめて可能な、といえるような性質のものであった。(鮎川信夫「戦中〈荷風日記〉私観」

たとえば70年代から80年代にかけて発表された日本の名高い小説家たちの作品の構造分析やテマティック分析がなされている蓮實重彦の『小説から遠く離れて』には、マエストロの名はまったく出現することはないが、後藤明生の『壁の中』ーーあなたとの架空の対話が250頁にも及ぶ小説ーーへの言及があることからも窺い知れるように、マエストロの姿が隠し味になっているとの「錯覚」に閉じこもることができる文章によって成り立っている。

そこからひとつ、こうやって引用してみよう。

心理が贅言的な介入しか示さない作中人物たちは、次に、愛への執着の希薄さという特徴を持つ。もちろん、異性との交渉がまったく描かれていないわけではなく、(……)風俗的な恋愛遊戯が登場してさえいるのだが、そこでも、愛は、家庭という秩序を支える市民的な独占欲と自己保存本能の露呈としては語られていない。(……)そうしたときに露呈されるのは、愛ではなく性交の特権化にほかならない。(蓮實重彦『小説から遠くはなれて』p222)

まるで家庭の幸福から疎外されたマエストロのことが語られているかのようではないか。《淫慾もまた全く排除すること能はず。是亦人生楽事の一なればな り》とは、マエストロが人生に立ち向かうための意識的に作り上げた姿勢にほかならない。

わたくしは、マエストロの生き方の核心の出処のひとつ、その転回を次ぎの文章にみてみたい心持でいっぱいだ。

断膓亭日記巻之二大正七戊午年 (荷風歳四十)

八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〻に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。(参照:「通俗作家 荷風」)

もちろん、この文章が書かれる以前にも、とんでもないスケベで自分勝手な野郎だったという評価があることは重々承知している。かつまた、父の死に際における不始末にも思いを馳せねばならぬのであろう、《予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと、覚悟を極めて家に帰りね。母上わが姿を見、涙ながらに「父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。まだ帰らざるやと。度々問ひたまひしぞや」と告げられたり。予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり》(大正十五年正月初二)

さらにいえば、大正七年八月の《母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし》という文章自体、父から受け継いだ来青閣を売り払う言い訳、あるいは単なる「演技」であるという見方もあるのかもしれぬ。だがいまはマエストロへの愛から、ここにあなたの真摯な悲しみがあるという「偏見」に閉じこもっていたい。

さて、ここで再び徴の話に戻ろう(同じく元毎日新聞社情報調査部副部長のジャーナリスト前坂俊之のブログから)。

昭和20,21年には●は出てこないが、22年には2回記されており、以後は全くない。ところが、22年から新たに赤鉛筆の○が出てくる。これは、一体何の印であろうか。

23年(68歳)45回、23年(69歳)76回、24年(70歳)56回、25年(71歳)61回、26年(72歳)67回、27年(73歳)81回、28年(74歳)68回、29年(75歳)47回、30年(76歳)40回、31年(77歳)33回、32年(78歳)4回つけられており、以後はない。

これをセックスの回数だとみると、70歳代で5,60歳のもろよりも盛んということになるが、荷風もそこまで性豪ではないであろう。実際のセックスそのものではなく、多分、性にまつわるもの、セックスの夢とか、性欲を刺激された女性との交渉、会話、会った事などを憶えておくための印ではないだろうか。そう考えれば納得がいく。(日本風狂人伝(23) 日本『バガボンド』ー永井荷風散人とひそやかに野垂れ死に


昭和20,21年には●は出てこない、というところが、いかにも信憑性が高い。とはいえ、マエストロは昭和22年には仏文学者の小西茂也宅に間借りし、のぞきに励んでおられたとの噂がある。

「復讐がこはいから僕は何も云ひません。その代り荷風が死ねば洗ひざらひぶちまけます よ」と言っていたのに、小西氏は荷風よりも早く逝ってしまった。ゆえに小西氏に代わって と、佐藤春夫氏がバラしている巷説--それもありそうでなさそうな噂話であるが、フム、フ ム、なるほど、と納得させられるところもある。 「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷 風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」(参照:「大雨沛然たり」)

のぞきというのは赤鉛筆の○には含まれないのだろうか。そこがいささか疑念を与えないでもないが、当時はまた黒丸に執心されていたとも考えられる。





古井由吉が、《当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである》と、あなた、すなわちマエストロ荷風を評している。わたくしも、マエストロを知れば知るほど、その思いが募る今日この頃である。

昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。(古井由吉『東京物語考』)

2015年3月4日水曜日

わたくしの敬愛するマエストロ

あなた、のことを、なんと呼べばいいのだろう。あなたのことを、あなた、と呼んでは失礼にあたることは重々承知している。あなたの名前のあとに、先生、とつけて呼べば、世間的にはおさまりがよくなることを知らないわけではない。だがわたくしは、この四十年ほどのあいだ、他人を先生と呼ぶことに無縁の生涯をおくってきた。高等学校を卒業して以来、ひとを先生と呼んだことはない。いや、どこかの藪医者をやむえず先生と呼んだことは数度あったかもしれないが、大学の教師のたぐいさえ、先生と呼んだ記憶はない。

まあでもそんなことはどうでもよろしい。わたくしは今、〈あなたがた〉に背を向けて、〈あなた〉にのみ語りかけたい気分なのだ。この〈あなたがた〉には、〈あなた〉は含まれない。〈あなたがた〉とは、どこかの馬の骨の集合体のことであり、烏合の衆のことである。〈あなた〉とは、わたくしが敬愛する〈あなた〉である。本来、文章とは〈あなた〉にのみ語りかけるものではないか。ある映画批評家が、《徹底した観客無視……私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません》と語ったが、映画だけではなく、人はむなしい恋文のように文章を書くべきではないか。

わたくしにとっての〈あなた〉は、あなただけではないかもしれない。すなわち敬愛する〈あなた〉は複数あるのかもしれない。だがまず恋文の対象である〈あなた〉とは誰であるのかに思いを馳せると、あなたの顔が浮んでくる。あなたは、坂口安吾によって「通俗作家」と呼ばれたり、あなたに敬意を表し続けた石川淳にさえ、戦後は葛飾をめぐっての書き物一篇のみ、《さすがに風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし》、《しかし、それ以後は……何といおう、どうもいけない》としている、そして、《すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ》などと。

一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身近に書きちらしの反故もとどめず、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。(石川淳「敗荷落日」)

貯金通帳には、仄聞するところでは、当時の金額で三億円ほど(現在なら百億円ほどに相当するのではないか)あったそうだが、通いのお手伝いのばあさんはあったとはいえ、部屋は埃だらけ、一説には乞食小屋同然などとも評される。万年床のボロボロのふとん、部屋の真ん中に七輪が置いており、ガスはなし。脱いだズボンや下着、紙くずが乱雑に散らかっていたそうだ。しかも家には裸電球がひとつしかない。夜分に客がたまに訪れると、その裸電球を客間につけかえて応接した。煙草は光を二つに折ってキセルに入れて吸う、食事は一日一食の外食で、おなじものを食べ続けられたと。

……晩年の荷風は、毎日正午になるとハンコで捺したように何とかいう近くの食堂(京成電車沿線の何とかいう駅前にいまもあるらしい)にあらわれて、ハンコで捺したようにカツ丼(確かにカツ丼は独身男の象徴みたいな食物だと思う)を食ったそうだ。世の中には食物の味のわからない(あるいは食物の書けないだったか?)小説家に文豪なしという説(ビフテキと茶漬けでは西洋文学にかないっこなし、というのとはまた別の説らしい)もあるらしいが、その説でゆくと荷風などはどうなるのだろう?(後藤明生『壁の中』)

後藤明生の『壁の中』という作品は原稿用紙で1700枚ほどの膨大な作品だが、そのなかで約250頁ほどがあなたとの架空の対談となっているそうだ。このような先達がいるにもかかわらず、あなたにこのように話しかけるのは不遜というものかもしれない。

 あなたは大正六年九月十六日三十七歳(数え年三十九歳)からほぼ毎日のようにーー大正六、七年に何日から抜けているのみでーー、日記を書きつづられた。それは死の日の昭和三十四年四月二十九日まで続く。《四月廿九日、祭日、陰――と、なぜだか、最後の日まであるのだ。翌三十日の朝、通いの手伝いの女性に発見されたという》(古井由吉『東京物語考』)。もちろん戦争中に空襲に襲われて逃げまどう日々にも欠かさず日記をつけられている。まずはそのことに驚く。とはいえ、わたくしの手元にはあなたの日記のすべてがあるわけではない。岩波文庫の上下二巻の摘録があるだけで、あなたの日記は岩波版全集で約三千ページにのぼるとのこと。もうこれだけであなたに語りかける資格はないのかもしれない。

ここで冒頭の問いをくり返すことにしよう、あなたのことをなんと呼べはいいのだろう、と。やはり荷風先生なのか。だがやはり、それではどうもいけない。いま仮に「マエストロ荷風」という呼び方が思い浮かんだ。あなたは人生の、そして如何に生きるかのマエストロに違いない。それは安吾が《筆を執る彼の態度の根本に「如何に生くべきか」が欠けてをり》とするにもかかわらず、である。そうでなかったら逃げる場所を追うようにして襲われた三度空襲との遭遇の日々にさえ日記を書きつづけることなどどうしてありえよう(参照:「しいんと切ない心地」)。

ここで後藤明生の小説にも引用されている詩人鮎川信夫の文章を掲げておくことにする。

当時の私が、荷風の文学、あるいはその人間にひかれるようになったのは、荷風が「家庭の幸福」から徹底的に疎外された文学者であったことが、おそらく作用しているであろうと思う。(中略)私が『墨東綺譚』を読んだ頃は、荷風の日記のことは知らなかった。しかし時勢に背反し孤立しても常に自己の道を歩きつづけようとする一徹な個人主義の耽美の精神は、その作品からでも充分に感得することができた。(中略)それは、個人主義的な強い自我の主張というよりは、享楽に徹底した人間の、のっぴきならない、生き方として、そこに在ったのである。/荷風はそのような生き方を、永年にわたって、意識的につくり上げてきた。おそらく、それは「家庭の幸福」から疎外された文学者にしてはじめて可能な、といえるような性質のものであった。(中略)荷風が戦争期のナショナリズムと無縁でありえたのは、あるいはこのような家族に対する厳しい態度と軌を一にしているのではないか、と私は思う。日本人のナショナリズムは、一心同体的な家族意識とつながっていたから、それを断ち切れる人間でないかぎり、戦争期のナショナリズムと全く無縁の位置に立つことは容易ではなかったはずである(鮎川信夫「戦中〈荷風日記〉私観」)

 わたくしは、昨晩、マエストロ荷風の大正十五年の日記をすこし覗いてみた。大正十五年とは、わたくしの父の生れた年であり、あなたは数え年四十又八歳である。そこにはこうあった。とても美しい文章である。それは小林秀雄が1951年に《私は永井氏を現代随一の文章家と思っている》としたとおりである。

正月元日。かつて大久保なる断腸亭に病みし年の秋、ふと思ひつきて、一時打棄てたりし日記に再び筆とりつづけしが、今年にて早くも十載とはなりぬ。そもそも予の始めて日記をつけ出せしは、明治二十九年の秋にして、あたかも小説をつくりならひし頃なりき。それより以後西洋遊学中も筆を擱かず。帰国の跡半歳ばかりは仏蘭西語のなつかしきがまま、文法の誤りも顧ず、蟹行の文にてこまごまと誌したりしが、翌年の春頃より怠りがちになりて、遂に中絶したり。今これを合算すれば二十余年間の日乗なりしを、大正七年の冬大久保邸売却の際邪魔なればとて、悉く落葉と共に焚きすてたり。今日に至りては聊惜しき心地もせらるるなり。昼餔の跡、雲南阪下より自働車を買ひ雑司ヶ谷墓地に徃きて先考の墓を拝す。墓前の臘梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。帰路歩みて池袋の駅に抵る。沿道商廛酒肆櫛比するさま市内の町に異らず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べりといふ。池袋より電車に乗り、渋谷に出て、家に帰る。日いまだ没せず。この日天気快晴。終日風なく、温暖春日の如し。崖下の静なる横町には遣羽子の音日の暮れ果てし後までも聞えたり。軒の燈火の薄暗かりしわれら幼時の正月にくらべて、世のさまの変りたるは、これにても思知らるるなり。
正月初二。先考の忌辰なれば早朝書斎の塵を掃ひ、壁上に掛けたる小影の前に香を焚き、花に新しき花をさし添へたり。先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。これも今は亡き人の数に入りし叔父大島氏訪ね来られ、款語して立帰られし後、庭に在りし松の盆栽に雪のつもりしを見、その枝の折るゝを慮り、家の内に運入れむとして両の手に力を籠められし途端、卒倒せられしなり。予はこの時家に在らず。数日前より狎妓八重次を伴ひ箱根塔之沢に遊び、二十九日の夜妓家に還り、翌朝帰宅の心なりしに、意外の大雪にて妓のいま一日と引留むるさま、「障子細目に引きあけて」と云ふ、葉唄の言葉その儘なるに、心まどひて帰ることを忘れしこそ、償ひがたき吾一生の過なりけれ。予は日頃箱根の如き流行の湯治場に遊ぶことは、当世の紳士らしく思はれて好むところにあらざりしが、その年にかぎり偶然湯治に赴きしいはれいかにと言へば、予その年の秋正妻を迎へたれば、心の中八重次にはすまぬと思ひゐたるを以て、歳暮学校の休暇を幸、八重次を慰めんとて予は一日先立つて塔之沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり。予は家の凶変を夢にだも知らず、灯ともし頃に至りて雪いよいよ烈しく降りしきるほどに、三十日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。世には父子親友死別の境には虫の知らせと云ふこともありと聞きしに、平生不孝の身にはこの日虫の知らせだも無かりしこそいよいよ罪深き次第なれ。かくて夜もふけ初めし頃、頻に戸口を敲く者あり。八重次の家は山城河岸中央新聞社の裏に在り、下女一人のみにて抱はなかりしかば、八重次長襦袢にて半纏引掛け下女より先に起出で、どなたと恐る恐る問ふ。森田なりと答る声、平家建の借家なれば、わが枕元まで能く聞えたり。是文士森田草平なり。草平子の細君は八重次と同じく藤間勘翁の門弟なりし故、草平子早くより八重次と相識りしなり。此の夜草平子酔ひて電車に乗りおくれ、電車帰宅すること能はざれば、是非ともとめて貰ひたしと言ひたる由なり。後日に至り当夜の仔細を聞きしに、予の正妻を迎へしころより草平子折々事に托して八重次の家に訪来りしと云ふ。 かくて夜のあくれば其の年の除日なれば、是非にも帰るべしと既にその仕度せし時、籾山庭後君の許より電話かゝり、「昨日夕方より尊大人御急病なりとて、尊邸より頻に貴下の行衛(ゆくえ)を問合せ来るにより、内々にて鳥渡お知らせ申す」との事なり。予はこの電話を聞くと共に、胸轟き出して容易に止まず。心中窃に父上は既に事きれたるに相違なし。予は妓家に流連して親の死目にも遭はざりし不孝者とはなり果てたりと、覚悟を極めて家に帰りね。母上わが姿を見、涙ながらに「父上は昨日いつになく汝の事をいひ出で、壮吉は如何せしぞ。まだ帰らざるやと。度々問ひたまひしぞや」と告げられたり。予は一語をも発すること能はず、黙然として母上の後に随ひ行くに、父上は来青閣十畳の間に仰臥し、昏睡に陥りたまへるなり。 鷲津氏を継ぎたる弟貞二郎は常州水戸の勤先より、此夜大久保の家に来りぬ。末弟威三郎は独逸留学中なりき。こゝに曾て先考の学僕なりし小川新太朗とて、其時は海軍機関少監となりゐたりし人、横須賀軍港より上京し、予が外泊の不始末を聞き、帯剣にて予を刺殺さんとまで奮激したりし由なり。尤この海軍士官酒乱の上甚好色にて、予が家の学僕たりし頃たりし頃下女を孕ませしこと二三名に及べり。葬式の前夜も台所にて大酔し、下女の意に従はざるを憤りて殴打せしことなどあり。今は何処に居住せるにや。先考易簀の後予とは全く音信なし。扨先考は昏睡より寤めざること三昼夜、正月二日の暁もまだ明けやらぬ頃、遂に世を去りたまへり。 来春閣に殯すること二昼夜。五日の朝十時神田美土代町基督青年会館にて邪蘇教の式を以て葬式を執行し、雑司ヶ谷墓地に葬りぬ。先考は耶蘇教徒にてはあらざりしかど、平生仏僧を悪み、常に家人に向つて予が葬式は宣教師に依頼すべし。それも横浜あたりの外国宣教師に依頼するがよし。耶蘇教には年会法事の如き煩累なければ、多忙の世には之に如くものなしなど語られし事ありしかば、その如くになしたるなり。尤母上は久しき以前より耶蘇教に帰依し、予が弟鷲津氏は早くより宣教師となり、神学に造詣あり。先考の墓誌は永阪石翁撰したまへり。葬儀万端は郵舩会社の重役春田源之亟氏斡旋せられき。郵舩会社より葬式料金参千円。遺族に壱万円を贈り来りしも皆春田氏の尽力によれるなり。尾州家よりは金五千円下されしやに記憶すれど確ならず。当時の事思返せば、猶記すべきもの多けれど、徒に紙を費すのみなればやむ。 此日朝より風ありしが晴れて暖なり。午後生田葵山巌谷三一両君来訪。談笑中文士細田氏来りて面談を求められしが、未知の操觚者には成るべく面談を避くるが故病と称して会はず。下虎の門にて三一葵山の二子に別れ、桜川町の女を訪ふ。夜半家に帰る。





2015年3月3日火曜日

〈私〉の愛する曲:バッハBWV853 フーガ

この「私」に何の価値があるのでしょう?」の続き。

……個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」より)

ーーというわけで、どこかの馬の骨が、愛する曲を掲げることにする。

「自我」がもはや「自身」でない以上、私が「自我」について語っていけない理由はないではないか。(ロラン・バルト)

◆Naoumoff plays Bach's fugue in e flat minor from WTC1





このBWV853のフーガの演奏、バッハのコラール変奏曲みたいで、ナモコフいいねえ、やっぱりきみに惚れ惚れするよ。テンポにいささかのゆれがあったり、次のフレーズの音がはやく入りすぎたりする箇所があるようにも思えるが、そんなことはまったくどうでもよいことだ。

一見完璧な演奏だって退屈なことはあるのだから。下の演奏群はまともな類である。それでも何度もきいていれば退屈してくる。

・Sviatoslav Richter in Salzburg, 1972 - Bach WTC I (2/4)(BWV853 Fugue 9.32より

・AFANASSIEV, Bach "THE WELL-TEMPERED CLAVIER" BOOK Ⅰ (2)
BWV.853 Fuga12.18より

Nikolayeva plays Bach (BWV.853 Fuga)

・GOULD BWV853 03:40 8b Fugue in d#

・Prelude and Fugue No. 8 in E-flat minor, BWV 853, from Bach's Well-tempered Clavier, Gulda pianist 04.32より

・Edwin Fischer : Das Wohltemperierte Klavier, Book I, BWV 853 (Bach) 03.22より


ーーバッハのすぐれたフーガというのは完璧でない演奏のほうがいいのではないか? ところどころハッとさせてくれたほうが。曲そのものが完璧なのだから、ナモコフのようにドモったり早口になるほうが。

…………

いささか許しがたい。

・Maurizio Pollini - Bach Well Tempered Clavier Book 1 33.11より

シフには恨みはないが、くりかえしてききたいとは思わない(これは1984年版であり、最近の録音はしらない)。

・SCHIFF, Bach "THE WELL-TEMPERED CLAVIER" BOOK Ⅰ (2) 3.40より

…………

◆Naoumoff's transcription of Bach's Cantata 202








シュワルツコップBWV 202「しりぞけ、もの悲しき影』(Weichet nur, betrübte Schatten)」(結婚カンタータ)に行き当たったから貼り付けておこう。






やっぱり、でも、ナウモフの演奏のなかでは、このフォーレがいいけどさ。

◆Faure Andante Opus 121





Faure, String Quartet, Movement 2


このあたりの曲から、一生のがれられそうもない。だが、「それは全くどっちでもよいことだ」。

◆J. S. Bach BWV 731, BWV 625, BWV 622, BWV 665 Organ Chorale Preludes by Albert Schweitzer





2015年3月2日月曜日

従軍記者と美的趣味耽溺者

偉大な人間は必然的に懐疑家である。あらゆる種類の確信にとらわれぬ自由さが、彼の意志の強さに属している。信念を欲しがること、肯定においてにしろ否定においてにしろ、とにかくなにか無条件的なものをほしがることは、弱さの証明である。ところであらゆる弱さは意志の弱さなのだ。信念居士は必然的に小さな人間種族である。ということはすなわち「精神の自由」、換言すれば、本能としての不信は、偉大さの前提にほかならぬ。(ニーチェ『権力への意志』936番)
「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。(ドゥルーズ『意味の論理学』)

こういったことは引用するのは簡単である。すなわち簡単なのはこのように引用して、この〈私〉は「自由」を考えているというふりをすることだけである。

さらにはこう引用してもよい。

もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

われわれの「自由」の問いそのものが、時代や文化のパラダイム、すなわち《我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられている》のであるから、そのパラダイムを疑わねば「自由」などと言うことはできない。しかも現代のパラダイムは「新自由主義」というイデオロギーである。だがその問いをここで掲げるのはやめにしよう。一応そこまで考えている「ふり」をするために、「「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」」を参照せよと〈あなたがた〉に提示しておくだけにしておこう。とはいえたいしたことが書かれているわけではない。

そもそもこのわたくしは、なぜ下らぬメモ程度のことを「律儀に」毎日のように公表しているのであろうか、――これももちろん偽の、捏造された問いである。「ひまつぶし」に決まっている。――《たんに学者たちのひまつぶしであると・ ・ ・》(ニーチェ『反キリスト者』)。いやわたくしは〈学者たち〉の一種族ではないが、彼らの猿真似して、にわか教育者、にわか知識人のふりをしてみたいのではないだろうか。

教育のプロセスの基本論理……「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子ども)に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。この言説の「抑圧」された真実は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見かけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである。(ジジェク『斜めから見る』

もちろん、カシコイ人は、すぐさまおわかりであるように、これらの問いも、真実をいってそうでないと思わせる手口である。

フロイトの『機知』には、真実を言って--「真実のふり」をしてーー、相手を騙そうとする話がある。

あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(フロイト『機知』

ひとは、彼はこういっているから、たぶんこうでないだろう、と憶測することがある。その心理を逆手にとって、真実を言って相手を騙す、騙さないまでも韜晦する。これは、わたくしの「常道」である、おそらく〈あなたがた〉と同様に。

――仮装服として何を選びますか?

私の顔に、私の顔の仮面を着ける。そしたら、みんな私の振りをしている誰かで、私ではないと思うだろ。(ジジェク

とはいえ、まさかわたくしともあろう者が、〈あなたがた〉たちのなかに溢れかえるあの種族、ーーニーチェ流にいえば「美しい魂」の持ち主たち、すなわち《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》ーーのように、人の役に立ちたい、美しいものを伝えたいなどと大嘘をいうほどには落ちぶれていない。

こう自問してみるのも、いくらか正当のことであろう、人類をかくも長期にわたっても盲目たらしめつづけたきたのは、もともと一つの美的趣味ではなかったのかと。すなわち、人類は、真理から絵のように美しい効果をのぞんだのであり、同じく認識者からは、その効果が官能に強くはたらきかけることをのぞんだのである。私たちの謙譲は早くから彼らの趣味に反していた・ ・ ・(ニーチェ『反キリスト者』13番

だが、残念なことに「沈黙」できる境地にまでは至っていない。これはインターネットへの「書き込み病」とでもいうべきものか。すなわち、大量の馬鹿が書くようになった時代」の囚人であり、まったく「自由」ではない。

「現在地球に暮らす人々がこんなにまで活字に接している時代は人類史上」なく、「読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ」(蓮實重彦『随筆』)が渦巻く時代である。

創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。(中井久夫――「自己模倣と自己破壊」より)

中井久夫はヴァレリーの「弱さから」という応答を、金のためだと読み取っている。わたくしはまったく金のためではないが、どうもいささかのところ《己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消》しているのではないかという疑念からは免れがたい(もちろんこの言い草も真理の仮装による欺瞞でありうる)。

すぐれた人と呼ぱれる人は自分を欺いた人である。その人に驚くためにはその人を見なければならない――そして、見られるためには姿を現わさなけれぱならない。かくしてその人は自分の名前に対する愚かな偏執にとりつかれていることをわたしに示すのだ。そのように、偉人などといわれる人はすぺて一つの過誤に身を染めた人である。世にそのカが認められるような精神はすぺて己れを人に知らせるという誤ちから出発する。公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。

そこでわたしは夢想した。もっとも強靱な頭脳、もっとも明敏な発明家、思考のなんたるかをもっとも正確に認識している人々はすべからく無名の人であり、己れを惜しみ、己れを語ることなく死んでゆく人でなくてはならい、と。そうした人々の存在にわたしの目が啓かれたのは、ほかならぬ、やや志操の堅固さに欠けるがゆえに、名声が赫々として世に現われた人々の存在そのものによってである。(ポール・ヴァレリー『テスト氏との一夜』)


 というわけだが、さて何の話であっただろうか。このところ荷風をめぐってメモしているのだが、次の文章を引用したいだけである。

ぼくがお金をためているって、ケチだとかなんとか、言っているそうですが、ぼくがお金を ためているからこそ、戦時中、10年間1枚もの原稿も売れず、一文の印税収入もない時代、 僕は他人に頭1つ下げないで、思い通りの生活ができました。いまは平和です。平和の声 の裏には戦争がありません。それは紙一重のものなんですよ。だから、作品が売れる時は、 売れるだけの貯金をしておきます。人間の一生には浮き沈みということがあります。(永井荷風

戦争中、いわゆる思想家やら文学者、批評家たちが「転向」してしまったあとも、荷風は世間に媚びずに生活できた。それは「金」があったせいだ、と言っていることになる。当時は殆んどだれもかれもが「従軍記者」であったのだ。だが「従軍記者」は戦争中でなくても棲息し続ける。

従軍記者になるための条件は、それが一般的に保守的と呼ばれるものであれ革新的と呼ばれるものであれ、きまって人類の大義と真実の二語を口にし、それを口にすることでみずからの成熟を確信し、いまある自分自身を肯定し、しかも強要されたわけでもないのに、他者の群に向かってそう物語ってみせる人間のことである。たえて久しく戦争など起こっていないというのに、現代の日本社会にも多くの従軍記者が棲息している。誰もが知っているあの批評家も、あの小説家も従軍記者そのものではないか。あるいはあの国のあの哲学者、あの人類学者も従軍記者ではないか。実際、現代とは、意識的であると否とを問わず従軍記者の時代なのだ。(……)

彼らは、一様に何ごとか貴重なものが喪われたという思いを心のかたすみに隠し持っている。しかも、その崩壊の意識が、成熟の実感と彼らのうちで深く結びついている。だが、成熟にせよ喪失にせよ、それを口にしうるのは従軍記者へと変容する芸術家に限られている。それを幻想と呼ぶか否かはともかくとして、少なくとも、この成熟と喪失が具体的に歴史を分節化しているのではなく、大義と真実の二語を口にしたものだけにみえてくるものだという意味で、それは一つの世代的な虚構なのである。人類の大義の名のもとに真実を顕揚したりする人間はきまってこの虚構の中に身を閉じこめ、従軍記者という名の作中人物をみずから演じ始めることになるだろう。この役割はきまって政治的なものであり、それを演じるのもきまって芸術家たちなのだ。従軍記者の役が真剣に演じられれば演じられるほど、その演技は政治的な色調を帯びることになるだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ここで芸術家とあるのは知識人のことである。

彼らが演じてしまう政治的な役割が一つの力を帯び始めるとき、従軍記者は新たな名前を獲得する。それは知識人という名前である。知識人とは、従軍記者の役を真剣に演じながら、こうした政治的な虚構の説話論的な要素にすぎない人類の大義や真実に殉じようとする芸術家にほかならない。こうした定義にあてはまる知識人は現代にしか存在しない歴史的な生産物である。それは、たとえば中世の知識人だの江戸時代の知識人などとは、説話論的な機能において異なっている。そして、しばしばそう口にされることで現代の特質を明らかにしうると信じられている知識人の終焉の知識人とは、現代に生きのびていた中世的な、あるいは江戸時代的な知識人にほかならず、今日の社会には、過去の自分を否定することで従軍記者の役割が真剣に演じうるものと錯覚している芸術家たち、つまり知識人があふれているのである。その知識人たちの政治的な役割を明らかにするためには、彼らに共通する資質としての凡庸さの構造を明らかにしなければならない。特権的な知識人の終焉を口にすることはいささかも歴史を明らかにしはしない。それは、歴史から目をそらすための恰好の口実にすぎず、それこそ凡庸な芸術家にふさわしい政治的な虚構というものだ。(同上)

この蓮實重彦の「従軍記者」から、小林秀雄が1938 年 3 月に『文芸春秋』従軍記者として渡中したことを想い出さない人物たちも最近は棲息するだろうから、こうやって書いておくが、これは、《「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子ども)に知を植えつけ》ているのではなかろうか、すなわち《中立的な「知」という見かけの背後に》主人の身振りを見いださないだろうか?


で、いまはなんの話であったか。「自由」の話である。ここではより格調高くトルストイを引用することにしよう。

『アンナ・カレーニナ』における、アンナの愛人ヴロンスキーと、ヴロンスキーと同じ名門出であり、軍務において大抜擢を受けて彼より数段上に昇格したばかりの友人セルプホフスコイとの、権力者たちの陰謀をめぐっての会話からである。

「でも、いったい、なぜだい」ヴロンスキーは、権力をもっている数人の名前をあげた。「でも、なんだってこうした連中は独立心にもえていないというんだね?」「それはただ、あの連中が財政的に独立していないからさ。いや、生まれながらにして、持っていなかったからさ。まったく財産を持っていなかったんだね。われわれのように太陽に近いところで生まれなかったからさ。あの連中は金なり恩義なりで、買収することができる。だから、あの連中は自分の地位を維持するために、主義主張を考えだす必要があったわけさ。そのために、自分でも信じていない、この世に害毒を流すような思想や主義を振りまわすが、そうした主義もただ官舎とか、いくらかの俸給にありつくための手段なんだからね。あの連中のトランプの手をのぞいてみれば、それほど巧妙なものじゃない…ひょっとすると、ぼくはあの連中よりばかで、劣っているかもしれないが、しかし、ぼくがあの連中より劣っていなくちゃならんという理由も、べつに見あたらないね。ところが、ただ一つまちがいなく重大な長所は、われわれはあの連中よりずっと買収しにくいってことだよ。そういう人間が今とても必要なんだよ」(トルストイ『アンナ・カレーニナ』木村浩訳 新潮文庫 (中)p140)

さあて、現在日本に買収しにくい連中が、どこかにいるだろうか。老人のなかにはひょっとしているのかもしれないが、それ以外にはどうなのだろうか? わたくしはツイッターにおいてしか日本人に出会うことはないので、よくわからない。ツイッターでなにやら書き込んでいる連中は、「従軍記者」か、従軍記者予備軍の小便くさいガキ、あるいは、《人類をかくも長期にわたっても盲目たらしめつづけたきた》美的趣味に耽溺する輩ばかりであり、不幸にして、それ以外の方にめったに遭遇することはない。

その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』)

…………

※附記

現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」)
能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方で、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)
知識人の仕事は、ある意味でまさに、現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです。それゆえにこそ、現実的なもののこうした指示や記述は、「これがあるのだから、それはあるだろう」という形の教示の価値をけっして持たないのです。また、やはりそれゆえにこそ、歴史への依拠――少なくともここ二十年ほどの間のフランスにおける哲学的思考の重大な事実の一つ――が意味を持つのは、今日そのようにあることがいつもそうだったわけではないことを示すことを歴史が役割としてもつかぎりにおいて、つまり、諸事物が私たちにそれらがもっとも明白なのだという印象を与えるのは、つねに、出会いと偶然との合流点において、脆く不安定な歴史の流れに沿ってなのだということを示すことを歴史が役割として持つ限りにおいてなのです。(『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅸ 1982-83 自己/統治性/快楽』)

以下はここでの文脈からはいささかはずれるが、「民主主義」とは、働かない人々によってはじめられた、との中井久夫の文がある。金のために働かざるをえない者たちに、真の「自由」などというものがありえるだろうか、と問うてもよい。

近代医療のなりたちですが、これは一般の科学の歴史、特に通俗史にあるような、直線的に徐々に発展してきたというような、なまやさしい道程ではありません。

ヨーロッパの医療の歴史は約二千五百年前のギリシャから始めるのが慣例です。この頃のギリシャは、国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました。当時のギリシャでは神殿にお参りしてくる人のために神殿付きドクターと、一方では奴隷に道具一式をかつがせて御用聞きに回るドクターとがありました。

ドクターの治療を受けられたのは中間層であって、奴隷は人間として扱われていなかったのでしばしば病気になってもほっておかれました。市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っているんです。これが民主主義の始まりみたいな奇麗ごとにされていますが、働かない人というのはものすごく退屈していますから、面白い話をしてくれる人が歓迎されます。そこでは妄想は皆が面白がって、病気とはみなされなかったようです。いちばん上の階級である市民が悩むと「哲学者」をやとってきて話をさせます。つまり当時の哲学者はカウンセラーとして生計を立てているのです。この辺はローマでも同じです。ローマ帝国は他国を侵略して、だんだん大きくなってきます。他国人を捕えて奴隷として働かせ、消耗品として悲惨な扱いをしていました。暴力の発散の対象に奴隷がなって、慰みに殺されたりしています。……(中井久夫「近代精神医療のなりたち」  『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕 P159 広栄社)

新自由主義時代のバイブルとして、米国でよく読まれているアイン・ランドの書から抜き出しておこう。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

…………

あらゆる科学だろうと哲学だろうと結局取引関係にいくわけじゃないですか  だから取引関係に基づいて科学も経済も すべてができている これこそ問題じゃないですか?
(……)

でもそのね すべてがビジネスにもとづいているということがますますはっきりしてきたというのは ひとつの文明の衰えていく過程で露になってきた そういう事実  言葉があれだけど 

つまり 文明が盛んなときは別に取引だろうがなんだろうが そういうことはいわなかったし それで成り立ってたわけですよ  それで 今すべてがビジネスだというようなことになったときに そこから何か生まれてくるということはこれ以上ない 儲かる人は儲かるし 力のある人はもっと力があるし そういうようなことでしかないわけでしょ  そうすると そういうことをいくら批判したって始まらないわけだから  どういうふうに違うものがあるかということになりますね

――高橋悠治×茂木健一郎 「他者の痛みを感じられるか」



2015年3月1日日曜日

荷風の「掃庭」人格

鴎外の娘小堀杏奴の随筆「火吹竹」(「図書」昭和37年12月号)には、大正11年に鴎外が亡くなったあと母親(鴎外夫人志げ)が、偏奇館を訪ねたときの言葉があるそうだ。

「荷風先生という方はとても変った方だよ。立派なお邸に住っていらしって、優しく、丁寧なものごしの方だけど、その御家の荒れていること、雑草がもう背よりも高く茂ってて、まるでお化け屋敷のようだったよ」

この文を引用しつつ、『荷風と東京「断腸亭日乗」私註』(川本三郎)にはこうある。

荷風の庭好きはだから極端にいえば、言葉(文化)としての庭好きであって、実際に、庭や草花が好きというのとは少し違う。現実の庭いじりよりも、荷風にとっては、日記に「庭の落葉を掃ふ」「雨の晴れ間に庭の雑草を除く」と書き記すことが大事なのである。

事実、本当に庭好きならば偏奇館の庭はいつもきれいに整えられている筈だが、実際にはそうではなかった。

断腸亭日乗 大正14年11月16日より。

毎朝二階を掃除して後、暇あれば庭に出で草を抜き葉を掃ふ時、必思出すは伊澤蘭軒が掃庭の絶句なり。

すなわち、次ぎの文である。

わたくしは更に細に詩集を検して、箒を僮僕の手に委ぬることが、蘭軒のために奈何に苦しかつたかを想見した。文化己巳は蘭軒の猶起行することを得た年である。当時の詩中に「掃庭」の一絶がある。「手提筅箒歩庭隅。無那春深易緑蕪。刈掃畏鏖花草去。頃来不輙付園奴。」(森鴎外『伊沢蘭軒』)

ふたたび、断腸亭日乗から抜き出せばかくの如し。

「庭の落葉を掃ふ」(大正9年10月15日)、
「庭を掃ふ」(大正13年4月23日)、
「午後小園の落葉を掃ふ」(同年11月19日)、

「掃庭半日」(大正14年3月21日)、
「曇りて風なし。落葉を掃ふ」(同年11月12日)、
「今日も風静なるを幸落葉を焚きて半日を消す。毎年立冬の後、風なき日を窺ひ落葉を焚きつゝ樹下に書をよむほど興趣深きはなし」(同年11月22日)、
「昨日の烈風に落葉庭を埋む。掃うて焚く」(同年12月3日)、

「庭の落葉を焚く」(昭和19年9月10日)、
「庭の落葉を焚く」(9月14日)、
「掃庭半日」(10月11日)、
「庭に出で枯枝を焚きて飯を炊き得るなり」(11月13日)。


前回も引用したが、これは荷風の「庭を掃ふ」人格とでもいうべきものだろう。

日記も、読まれることを予想して書かれることがしばしばある。永井荷風の『断腸亭日乗』やジッドの『日記』は明らかにそうであろう。精神医学史家エランベルジェは、日記を熱心に書きつづける人には独立した「日記人格」が生まれてくると言っている。日記をつける人も読む人も、このことは念頭に置くほうがよいだろう。(中井久夫「伝記の読み方、愉しみ方」『日時計の影』所収)

こういったことは荷風の日記だけ読んでいても、なかなか気づきにくい。もし〈あなた〉がすべての書き物を小説を読むようにして読むという訓練をしていなかったら。

ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。(『彼自身によるロラン・バルト』ーーこの「私」に何の価値があるのでしょう?

わたくしも、どちらかというと荷風の日記を、いわゆる「マジ」で受け取って読んできた「マヌケ」系である。

だが、たとえば次ぎの文を読めば、荷風の言葉の使い方がーー少なくともそのある割合はーーどのようなものであるかは、推測できる。

わたくしが梅花を見てよろこびを感ずる心持は殆ど江戸の俳句に言尽されている。今更ここに其角嵐雪の句を列記して説明するにも及ばぬであろう。わたくしは梅花を見る時、林をなしたひろい眺めよりも、むしろ農家の井戸や垣のほとりに、他の樹木の間から一株二株はなればなれに立っている樹の姿と、その花の点々として咲きかけたのを喜ぶのである。いわゆる竹外の一枝斜なる姿を喜び見るのである。 

梅花を見て興を催すには漢文と和歌俳句との素養が必要になって来る。されば現代の人が過去の東洋文学を顧ぬようになるに従って梅花の閑却されるのは当然の事であろう。啻に梅花のみではない。現代の日本人は祖国に生ずる草木の凡てに対して、過去の日本人の持っていたほどの興味を持たないようになった。わたくしは政治もしくは商工業に従事する人の趣味については暫く擱いて言わぬであろう。画家文士の如き芸術に従事する人たちが明治の末頃から、祖国の花鳥草木に対して著しく無関心になって来たことを、むしろ不思議となしている。文士が雅号を用いることを好まなくなったのもまた明治大正の交から始った事である。偶然の現象であるのかも知れないが、考え方によっては全然関係がないとも言われまい。(永井荷風『葛飾土産 』)

一読奇妙な言い方である。漢文と和歌俳句との素養なければ梅花を愛でることはできないのか、とひとまずは反撥してみたくなる。だが、《われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである》(プルースト)と補っておこう。

そもそもわれわれは、古来の日本文学をめぐって、柳田国男=柄谷行人によって次のような指摘をすでに知ってしまっている。

実朝も芭蕉もけっして「風景」をみたのではない。彼らにとって、風景は言葉であり、過去の文学に他ならかなった。柳田国男がいうように、『奥の細道』には「描写」は一行もない。「描写」とみえるものも「描写」ではない。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)

で、なにがいいたいというのだろう。ことわっておくが、わたくしは荷風好きだ。上のようなことが漸くわかってきたにもかかわらず。なぜ荷風好きなのかは、おそらくもっと追求してみなくてはならない。追求したってわからないかもしれない。そもそも「追求」などという言葉は戯言である。ここでは別の話を書く。


わたくしは、ツイッターなどでも、他人のツイートを荷風の日記を読むようにして、すなわち疑いつつ眺めることが多い。もっとも、《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである》(中井久夫『治療文化論』)というほどではない。

とくに文学臭をぷんぷんさせているような人物のツイートならことさら疑いの眼を向けつつ読む。連中の言葉は軽いのである。

「言葉が軽い」のと「言葉に軽みがある」のとは断じて違う。無闇と振り回さないと決めて大事にしている語彙はあるか? 安易に流れるから絶対使わない言葉は?重々しい言い方で、だらしない共感をもとめていないか? 純粋素朴を装い、自らの密かな欲望から目をそらして言葉を使っていないか? (佐々木中)

たとえば、文学好きのホモセンチメンタリスが、「静謐」という言葉を耽溺したようにして使うとき、わたくしはひそかに「性膣」と読み替えてニヤニヤするということは以前書いた(参照:「ちゃんとウンコはふけてるかい  弱虫野郎め」)。ここでの「文学好き」とは、もちろん、《文学はあらゆる夢物語への否定であることを知らない連中の愚昧》(丹生谷貴志)という意味での「文学好き」である。

では、わたくしの「荷風好き」というのも愚昧の一種であろうか。おそらくその部分はあるに相違ないのだが、それに抵抗して、なおかつ荷風を愛するというのなら、なんなのだろうか。それを書かなければ、「愚昧」のままである・ ・ ・

そもそも、わたくしは、三文詩人ーーそれは名の知れた詩人も含まれるーーなどの詩にもひどくイライラすることが多い。

深遠な知能を持った仮借ない資質の人は文学に興味を持ち得るであろうか?どのような関係?そして彼は自分の心のどの部分に文学を置くだろうか?( ヴァレリー)

…………

・プラトンの評判には傷がついている。詩人どもはポリスから放逐されるべき、と主張したか らだ。――いや、ユーゴスラビア分裂体験を経た今から判断するなら、これはむしろ良識 あるアドバイスだったというべきか。

・「大他者」としての言語は、われ われが波長を合わせるべきメッセージを携えた知の代理人ではない。言語は常軌を逸した無関心と愚行の場なのだ。言語に対する折檻のもっとも初歩的な表現形式、それは詩と呼ばれている。(ジジェク「詩に歌われる言語の折檻所――いかにして詩は民族浄化と関係するか」)