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2016年1月16日土曜日

セックス戦争における最大の犠牲者たち

《男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。》.(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists

ーーははあ、そうかい? 最近の若い男たちは大変だな、おい!

セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の違反に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である(それだけが残存する唯一の倒錯形式ではないにしろ)。実際、25年前の神経症社会と比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。

この変貌の下で、我々は性的な楽しみの大いなる増加を期待した。それは「自然な」セクシャリティと「自然な」ジェンダーアイデンティティの高揚の組み合わせによって、である。その意味は、文化的かつ宗教的制約に邪魔されない性の横溢だ。ところがその代わりに、我々は全く異なった何かに直面している。もっとも、個人のレヴェルでは、性的楽しみの増大はたぶんある。それにもかかわらず、より大きな規模では、抑鬱性の社会に直面している。さらに、ジェンダーアイデンティティの問題は今ほど混乱したことはなかった。Paul Verhaeghe, (2005). Sexuality in the Formation of the Subject、私訳 PDF


《現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。》(Élisabeth Badinter 、ジジェク、2012より孫引き)

 ーーだってよ、

とはいえ男たちだけじゃないさ、悲惨なのは。

…抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明するのか。誰もが子供の頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子供にあたえるメッセージは、こうだろう。

「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。

この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力をとっておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威的主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。

「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろう? でも無理に行けとはいわないよ。本当にいきたいのでなければ、行かなくていいぞ」。

馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子供は)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

例えば、リベラル社会において、女たちは途轍もない圧迫を被っている。《彼女たちは、セックスマーケットで生き残るために、形成外科手術、美容整形、ボトックス注射(しわ、皮膚のたるみ抑制施療)などを強いられている。》(ジジェク『暴力』私訳)

これが我々の自由だ。先進国女性たちは、骨の折れる美容整形を「選択する自由」がある。

圧迫感自体が、選択の自由の仮面にて、覆い隠されている、(「なにがあなたの不満なの? あなたはどうするのか自由に選択できるのよ」)。(同 ジジェク『暴力』)

…………

◆ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より(私訳)


【「すべては許されている」社会の不安と不能】
倒錯が示しているのは、逸脱のシンプルな論理の機能不全だ。標準的な知恵は、我々に言うだろう、倒錯者はヒステリーがやってみたいと夢見るだけのことを実際にする、と。なぜなら、倒錯においては「すべては許されている」、そして倒錯者はすべての抑圧された内容を開けっぴろげに実現するから、と。しかしそれにもかかわらず、フロイトが強調するように、倒錯におけるほど抑圧が強い場はない。我々はそれを確証する豊富な実例を持っている。我々の後期資本主義社会の現実において、すべての性的自由放任主義は、自由の代わりに、不安と不能もしくは冷感症をもたらしている。


【内容と形式との間の相違】
こうして我々は余儀なくされる、抑圧された内容と抑圧の形式のあいだの相違を区別することを。内容がもはや抑圧されなくなった後にさえ、形式はいまだ作用する。要するに、主体は抑圧された内容を十分に手に入れる。しかし抑圧は残存したままなのだ。

患者の一人によって見られた短い夢のフロイトの注釈ーーその夢を見た女性は、最初は夢を明かすのを拒絶した。「だってとっても曖昧で混乱しているから」と--、この注釈にて明らかになったのは、患者は妊娠しているがお腹の子の父親が一体全体誰だか分からないことだった(すなわち、誰が父であるか「曖昧で混乱している」)。ここからフロイトは、鍵となる弁証法的結論を引き出している。

《夢が示した不明瞭性は、夢を引き起こした材料の一部分なのであった。すなわち、材料の一部分が夢の形式に表象されたのである。夢の形式ないし夢を見る形式は、じつに驚くほどしばしば、隠蔽された内容の表象のために利用される。》(フロイト『夢判断』 下巻 高橋義孝訳 文庫 p.34からだが一部変更)

形式と内容とのあいだの裂け目は、ここでは正しく弁証法的である。それは超越論的裂け目とは対照的で、後者の要点とは次の通り。すなわち、どの内容も、ア・プリオリな形式的枠組内部に現れ、したがって我々が知覚する内容を「構成している」目に見えない超越論的枠組に常に気づいていなければならない、というものだ。構造的用語で言えば、要素とその要素が占める形式的場とのあいだの識別をしなけれならない、ということである。


【内容の一部分としての形式】
反対に、唯一正当な形式の弁証法的分析を獲得しうるのは、我々がある形式的な手続きを、(発話の)内容の一定の側面の表現として捉えるのではなく、内容の一部分の徴づけあるいはシグナルとして捉えるときである。その内容の一部分とは、明示的 explicit な発話の流れからは排除されているものだ。こうして、ここには正当な理論的要点があるのだが、我々が発話内容の「すべて」を再構成したいなら、明示的発話内容自体を超えて行き、内容の「抑圧された」側面に対する代役として振舞う形式的な特徴を包含しなければならない。
注)形式は内容の一部分であり、その抑圧された形式は回帰するという命題は、その反転によって補足すべきだろう。すなわち、内容はまた究極的には効果以外の何ものでもなく、形式の不完全性、その「抽象的な」特性の表示に過ぎない、と。


【原抑圧という取り除きえない抑圧】
(……)ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が全てではない not all ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。


【彼女は母ではないです!】
これをいかに説明したらいいのか? 即座の答は、抑圧と抑圧されたものの回帰の同一性である。その意味は、抑圧された内容は抑圧以前には存在せず、まさに抑圧過程によって遡及的に構成されるというこだ。否定あるいは回避(圧縮、置換、拒絶、否認…)という異なった形式を通して、抑圧されたものは、公けの意識的発話に浸透し、その谺を見出しうるようになる(最も直接的な例はフロイトにある。それは、患者の一人が「私は夢の中のこの女性が誰だか分かりません。でも確かに彼女は母ではないです!」と言ったときだ。抑圧されたものとしての母は、こうして発話のなかに入り込む)。

我々がここで手に入れるのは、別の種類の「否定の否定」だ。つまり、内容は否定あるいは抑圧されるが、この抑圧は、抑圧されたものの回帰の見せかけのなかで、それ自体同じ仕草で否定されている(この理由で我々はここで正当なヘーゲル流の「否定の否定」を取り扱っているわけでは全くない)。この論理は、聖パウロの罪と律法との関係における論理と同様にみえる。そこでは律法がなければ罪はない。律法自身が征服しようとする逸脱を作る。したがって律法を取り除けば、律法が「抑圧」しようとしたものを失う。ーーあるいはさらにフロイト用語で言うなら、「抑圧」を取り除けば、抑圧された内容をも喪失する。



【彼女は私の母です!】
この証拠は現在の典型的患者によって提供されていはしまいか。同じ夢へのこれらの患者たちの反応は次の如しだ、「私は夢の中のこの女性が誰だか分かりません。でも確かに彼女は私の母に何らかの関係があります!」。患者はこのように言う。けれども自由はない。真理の効果もなく、主体のポジションのどんな移行もない。ーーなぜか? 「抑圧」されたままのものは何か? 抑圧された内容へのアクセスを妨害する障壁が崩壊した後にさえ居残っているものは何なのか?


【形式自体を構成する根源的な「抑圧」】
最初の答はもちろん形式自体だ。つまり肯定的形式と否定的形式(「これは私の母です」と「これは私の母ではありません」)、この両方が同じ領域内部、象徴的領域内で移行する。そして我々が焦点を絞るべきことは、形式自体を構成するより根源的な「抑圧」である。それは、ラカンが(ある点において)象徴的去勢あるいは近親相姦の禁止と呼んだものーーまさに象徴的形式を支える否定的仕草だ。したがって我々が「これは私の母です!」と言ったにしろ、母は既に失われている。すなわちこの否定的仕草が、象徴界と現実界とのあいだの最低限の裂け目を支える。(象徴的)現実と不可能な現実界とのあいだの裂け目を。


【二重化された否定によって生まれるもの】
しかしながら、我々はここで、正当的に形式と内容とのあいだの弁証法的仲介 mediation を取り扱うかぎり、原抑圧を裂け目の形式に単純に還元すべきではない。何かが(己れを)強く主張する。過剰な「内容」不可思議な肯定性、それは否定を受け入れないだけでない。それだけではなく、その何かは二重化された(自己言及的な)否定の過程によって生み出されたものだ。したがって、この何かは、単純には象徴的否定に抵抗する前-象徴的な現実界の残余ではなく、幽霊的 X ーーラカンが対象a あるいは剰余享楽と呼んだものである。


【享楽のどんな断念も、断念の享楽を生む】
ここにラカンの鍵となる区分け、快楽 (Lust, plaisir) と享楽 (Geniessen, jouissance) が作用している。「快原理の彼岸」にあるものは享楽自体、欲動それ自体である。享楽の基礎的パラドックスは、不可能であると同時に避けられらないことだ。それは決して十分に獲得されず常に欠けている。しかし同時に決して享楽から免れ得ない。享楽のどんな断念も、断念の享楽を生む。欲望することのどんな障害も、障害への欲望を生む。等々。


【抑圧の廃棄による享楽の喪失】
この反転は剰余享楽の最低限の定義を提供してくれる。それはパラドキシカルな「苦痛のなかの快楽」を伴う。すなわち、ラカンが剰余享楽 plus‐de‐jouir という用語を使うとき、人は素朴だが決定的なもうひとつの問いをしなければならない。何だろう、この「剰余」が構成しているものは? と。たんに普通の快楽の量的増大なのだろうか? と。ここでは仏語表現の曖昧さが決定的である。それは「楽しみの剰余 surplus of enjoyment」という意味があると同時に、「楽しみは何もない no enjoyment」という意味がある。単なる快楽を超えた「楽しみの剰余」は、快楽のまさに反対物、すなわち苦痛によって生み出されるのだ。苦痛は享楽の部分である。それは、ホメオスタシス、快原理が含有するものに抵抗する。それは、「抑圧」自体によって生み出された快楽の過剰だ。この理由で、我々が抑圧を廃棄したとき享楽を喪失する。


…………


【フロイトの「原抑圧」】
「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている「固着」である。

②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階はーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。

③第三段階は抑圧の失敗、侵入という現象、「抑圧されたものの回帰」である。この侵入とは「固着」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』からだが、英訳より摘要)
原無意識はフロイトの我々の存在の中核あるいは臍であり、決して(言語で)表象されえず、固着の過程を通して隔離されたままであり、背後に居残ったままのもの a staying behind である。これがフロイトが呼ぶところの原抑圧である。このフロイトの臍が、ラカンの欲動の現実界、対象aだ。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive,2001,私訳)


【原症状としての対象a】
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

ラカンは言明している、主体は二つの条件のみで享楽を経験し得ると(S.17)。その二つとは、享楽は刻印されなければならず、反復はその刻印を中心に置かねばならないということだ。

この理屈の胚芽はフロイトに見出される。彼はどの母親も子どもを世話するとき「誘惑する」と言っている。事実、世話をする行為は、常に身体の境界領域であり、享楽がある場と同じである(口唇、肛門、性器、肌、目、耳)。

セミネールXX(アンコール)で、ラカンは「享楽の実体」としてのリアルな身体を叙述しているp. 23。享楽の初期の経験(侵入)は同時に身体の上の刻印であると(p. 89)。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、PAUL VERHAEGHE 2009)

※上に掲げたジジェクの「剰余享楽」としての対象aと、ここでヴェルハーゲのいう原症状としての対象aの意味は異なることに注意しておこう → 「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)


…………

 ところで、このなんでも許される社会において、男と女の基本構造は変わったんだろうか。

ーーどうでしょうか、ニーチェ先生? 《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである》(『ツァラトゥストラ』)

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、2012,私訳)
男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,私訳) 
男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。これは次の奇妙な事実を説明してくれる。つまり結婚後しばらくすれば、多くの男たちは母に対したのと同じように妻に対するということを。

反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。これは同じように奇妙な次の事実を説明してくれる。多くの女たちは妻になり子供をもったら、女たち自身の母親のように振舞うということを。(同 ヴェルハーゲーー「古い悪党フロイトの女性論」)

ーー男が最初から赤子を養育するようになりさえすれば、男女の構造は変わるさ、最初の愛の対象が母でなくて、父ならな。

→「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)


2016年1月15日金曜日

Acheronta movebo 冥界を動かせ!

【アンダーグランドの手記】
 ところで諸君、きみらが聞きたいと思うにしろ、思わないにしろ、僕がいま話したいと思うのは、なぜぼくが虫けらにさえなれなかったか、という点である。まじめな話、ぼくはこれまで何度虫けらになりたいと思ったか知れない。しかし、ぼくはそれにすら値しない人間だった。誓っていうが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。(ドストエフスキー『地下室の手記』)
四十三歳の時、偶然仏訳を手にしたドストエフスキイの「地下室の手記」、この三番目の書を読んだ当時の手紙で、彼は昂奮して書いている、他に言いようがないから言うのだが、これは私を歓喜の頂まで持って行った血の声だと言う。(小林秀雄「ニーチェ雑感」)


 【血まみれの頭が飛び出す闇夜】
人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(……)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)

…………

◆ニーチェ『道徳の系譜』より(いくらか区分けして小題をつけているが、一連の文章である)。


【地上という地下室】
地上においてどんな風にして理想が製造されるかという秘密を、少しばかり見下ろしたいと思う者が誰かあるか。その勇気をもっている者が誰かあるか…… よろしい! ここからはその暗い工場の内がよく見える。わが物好きの冒険家君よ、暫く待ちたまえ。貴君の眼は、まずこのまやかしのちらちらする光に慣れなければならない…… そうか! ではよろしい! さあ、話してみたまえ! 下では何が起こりつつあるのか。最も危ない物好き屋君よ、貴君の眼に映る事柄を話してみたまえーー今度は私が聴き役だ。――

――「何も見えません。それだけによく聞こえます。用心深い、陰険な、低い囁きと呟きがあらゆる隅々から聞えてきます。私にはごまかしを言っているように思われます。どの声もすべて猫撫声です。弱さを嘘でごまかして手柄に変えようというのですーー確かにそうに違いありませんーー全くあなたのおっしゃるとおりです。」


【美しい魂の猫撫声】
――それから!

――「そして返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だと奴らが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分にもっている臆病そのもの、戸口に立って是が非でも待たなければならないこと、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐をすることができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、恐らくは寛恕さえも意味するのです(『かれらはその為すところを知らざればなりーーかれらの為すところを知るはただわれらのみ!』)。その上、『敵への愛』を説きーーそしてそれを説きながら汗だくになっています。」


【贋金造りども】
――それから!

――「すべてこららの陰謀家や隠れ場の贋金造りどもは惨めです。それは疑いありません。奴らは一緒に蹲まって温まり合ってはいるのですけれどーーしかし奴らの言うところによりますと、奴らの惨めさは神意によって選ばれた特別の扱いであって、一番可愛がられる犬が打ちゃく(手偏+鄭)されるのと変わりがない。恐らくこの惨めさもまた一つの準備、一つの試練、一つの訓練なのだろう。のみならず恐らくーーやがては償われ、莫大な利子を附けて、黄金で、いや幸福で払い渡される代物なのだろう、というのです。それを奴らは『至福』と呼んでいます。」


 【わるい空気です! わるい空気です!】
――それから!

――「今度は、私にこんなことを仄めかします。奴らはその唾を舐めていなければならない(恐怖からではない、断じて恐怖からではない! むしろ、神がおよそお上〔かみ〕を敬えと命じたまうたからだ)あの地上の有力者、支配者たちより、単により善いばかりではない。――単に『より善い』ばかりでなく、更に『より幸福』でもある。少なくともいつかはより幸福になるだろう、と。だが、もう沢山です! もう沢山です! もう我慢ができません。わるい空気です! わるい空気です! 理想が製造されるこの工場はーー真赤な嘘の悪臭で鼻がつまりそうに思われます。」


【最も欺瞞に充ちている窖の獣ども】
――だめだ! もう暫く! 貴君はあらゆる黒いものから白いものを、乳液やら無垢を作り出すあの魔術師たちの出世作についてまだ何も話さなかった。――貴君は奴らの《精巧な》仕上げ、奴らの最も大胆な、最も細微な、最も巧妙な、最も欺瞞に充ちている窖の獣どもーー奴らがほかならぬ復讐と憎悪から果たして何を作り出すか。貴君はかつてこんな言葉を聞いたことがあるか。貴君が奴らの言葉だけに信頼していたら、貴君は《反感〔ルサンチマン〕》をもつ人間どもばかりの間にいるのだということに感づくであろうか……

――「わかりました。もう一度耳を欹てましょう(ああ! これは! どうだ! 鼻をつまもう)。奴らがすでに幾たびとなく繰り返したあの言葉が今やっと聞えます。『われわれ善き者――そのわれわれこそ正しき者だ』と。奴らの欲するもの、それを奴らは報復と呼ばず、却って『正義の祝勝』と呼びます。奴らの憎むもの、それは奴らの敵ではないのです。そうです! 奴らは『不正』を憎み、『背神』を憎むのです。奴らが信じかつ望むもの、それは復讐への希望、甘美な復讐(――『蜜より甘き』とすでにホメロスが呼んだ)の陶酔ではなくして、むしろ『神を無みする者に対する、神の、義しき神の勝利』なのです。奴らにとって愛すべきものとして地上に残されているもの、それは憎悪における同胞ではなくして、むしろ『愛における同胞』であり、奴らの言うところによれば、地上におけるすべての善くかつ正しい者なのです。」


【 もう沢山だ! もう沢山だ!】
――では、奴らにとってこの世のあらゆる苦しみに対する慰めとなるもの、奴らが幻に描いて当てにしている未来の至福――、それを奴らは何と呼んでいるか。

――「どうでしょうか。私の耳に間違いないでしょうか。奴らはそれを『最後の審判』、自分らの国、すなわち『神の国』の到来と言っています。――しかも奴らは、それまでの間は『信仰に』、『愛に』、『希望に』生きるのです。」

――もう沢山だ! もう沢山だ! (ニーチェ『道徳の系譜』第一論文「善と悪」・「よいとわるい」)

…………

【フロイトによる精神分析とニーチェの洞察の近似性の指摘】
私は思弁のみに身を任せてしまったのではなく、逆に分析による資料を重視し、臨床的な技法的テーマを取り扱うことをやめなかった。私は哲学に近づくことは避け、大切な点ではフェヒナーに頼ることにしていた。精神分析がショーペンハウアーの哲学と広汎な一致があるとしても(彼は感情の優位性と性愛の意義を重視し、抑圧のメカニズムも知っていた)、私が彼の本を読んだのはずっと後になってからだ。ニーチェの洞察も精神分析の成果と驚くほど合致するのだが、だからこそ公正さを保持するために避けてきた。(フロイト『自己を語る』1925)


【精神分析など知りたくないという防衛】
ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

ーーその能力の差はあるのかもしれない、そしてそのスタイルへの違和がある人もあるだろう、また一時期似非精神分析的言説が溢れ返ったための嫌悪もあるのかもしれない。だが、現在、ドストエフスキー、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、ラカン系譜の仕事をまともにやっている稀な人物のひとりはジジェクだろう。多くの「思想家」は、相変らず「知りたくない」の態度を保ったままだ。


◆Tolerance as an Ideological Category ,2007,Slavoj Zizekより(私訳


【闇の奥】
…こうして我々は慣習の「闇の奥」に至ることになる。思い起こしてみよう、カトリック教会を掻き乱すペドフィリアのおびただしい事例を。その代理人たちは、これらの事例はひどく嘆かわしいが、教会内部の問題であると主張し、その取り調べにおいて、警察との共同捜索にひどく気が進まない様子だ。

彼らはある意味では正しい。カトリック神父の小児性愛は、単にその「人物」に関わる何かではない。組織としての教会に無関係な私的履歴による偶発的な理由せいで、たまたま神父という職業を選ぶことになったのではない。

それは、カトリック教会それ自体にかかわる現象、社会-象徴的組織としてのまさにその機能に刻印されている現象である。個人の「私的な」無意識にかかわるのではなく、組織自体の「無意識」にかかわるものなのだ。ペドフィリアは、組織が生き残るために、性的衝動生活の病理上現実に適応しなければならない何かではない。そうではなく、組織自体が自らを再生するために必要な何かである。


 【ペドフィリア生産装置としての教会】
人は充分に想像できるだろう、「ストレートな」(非小児性愛者の)神父が、その職を何年か勤めた後、小児性愛に溺れこむことを。というのは、組織の論理そのものが彼をそうするように誘惑するから。このような組織的無意識は、猥褻な否認された裏面を示している。まさに否認されたものとして、それは公的組織を支えているのだ(軍隊におけるこの裏面は、性的虐待などの猥褻な性化された儀式で成り立っており、それが集団の連帯を支えている)。

言い換えれば、単純にはこうではない。すなわち、教会は、体制順応主義者的な理由で、当惑させられるペドフィリア醜聞をもみ消そうとするのではない。(逆に)自身を守るとき、教会は内密の猥褻なな秘密を守ろうとしているのだ。これが意味するのは、この秘かな面に自身を同一化することが、キリスト教神父のまさにアイデンティティの構成物であるということだ。もし神父が深刻に(ただの修辞的な深刻さではなく)これらの醜聞を非難したら、彼は聖職コミュニティから締め出される。彼はもはや「我々の一員」ではない(1920年代の米国南部のある町の市民と全く同じように、である。もし市民が、クー・クラックス・クラン(黒人排斥の白人史上主義秘密結社)を警察に告発したら、彼はコミュニティから締め出された。すなわち基本的連帯の裏切者になった)。


 【敢えて地下室を動かせ!】
したがって、スキャンダルの捜索にひどく気の進まない教会への応じ方は、「我々は犯罪事例を扱っている」とただ難詰するのみにすべきではない。そうではなく、もし教会がその捜索に十分に参加しないなら、犯行の共犯者であると応じるべきだ。さらに、組織としての教会「それ自体」が取り調べを受けるべきだ。あのような犯罪への条件をシステム的に作った仕方に関しての取り調べである。

慣習の猥褻なアンダーグランドは、実に変えるのが困難なものだ。この理由で、すべてのラディカルな解放策は、 フロイトが夢解釈にとっての標語として選んだ Virgil からの引用文と同じである。すなわち「Acheronta movebo(冥界を動かす)」ーー、敢えてアンダーグランドを動かせ!

途中、軍隊における「冥界」について触れている箇所があるが、より詳しくは「拷問とイニシエーション儀式」を見よ。


…………

ところで、なぜ組織自体の「無意識」、その慣習の猥褻な冥界が生まれるのだろう。その直接的な説明ではないが、ヒントのひとつは下記のいくつかの文章にある。


【原始的集団的情緒の昂揚と思考の制止】
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


【死の欲動のゼロ度】
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING』、2012、最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」より、私訳)


【集団形成の善悪両面】
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


【人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物】
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)

ーー楽しみを強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン『セミネールⅩⅩ アンコール』)

Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »(Lacan, Seminar XX)


…………

以下は別の記事にしようと思ったもので、上での話題とはそれほど関係がない(曖昧なままなので、敢えて別に投稿せず、ここに掲げる)。


しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

あくまで参考であり、今掲げたヴェルハーゲとジジェクとのあいだにはたとえば欲動についての考え方は(少なくとも一読は)異なる、→「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって

二人はある時期まで(すくなくとも2002年頃くらいまでは)互いに褒め合っていた。

たとえば、前世紀末にヴェルハーゲの書のひとつが英訳にて上梓されたが、それに対するジジェクの書評はかくの如し。

◆Does the Woman Exist? From Freud's Hysteric to Lacan's Feminine By Paul Verhaeghe

“A miraculous answer to the confusions surrounding Freud's and Lacan's theory of feminine sexuality . . . After reading this book, it should be clear that, far from being outdated, the psychoanalytic approach to feminine sexuality enables us to find our way in the . . . deadlocks of our allegedly ‘permissive' postmodern society . . . A must for anyone who wants to grasp what psychoanalysis has to say today.” – Slavoj Žižek

二人の「蜜月」が終った契機のひとつは、欲動、あるいは享楽の解釈の相違が決定的だろうとわたくしは見る。それはラカンのセミネールⅩⅩからⅩⅩⅢにかけての移行をどう読むかにもかかわる。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012ーー「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)。

臨床的ラカン派ヴェルハーゲとは異なり、哲学的ラカン派ロレンツォ・キエーザは2002年の時点で、ヴェルハーゲの論文を含むラカンのサントーム理論解釈をまとめたLuke Thurstonによる論文集書評で次のように記している。

one has to underline how the jouissance of the barred Other differs from phallic jouissance without being "beyond" the phallus.(Lacan Le-sinthome(Re-inventing the Symptom - Essays on the Final Lacan, edited by Luke Thurston, New York: Other Press, 2002) by Lorenzo Chiesa、PDF

この書評にはヴェルハーゲ批判もある。主にラカンの「サントームとの同一化」の捉え方である(ただしわたくしには、その批判はやや酷だと思えるが、その内容には今は触れない)。もっと決定的なのは享楽が“beyond the phallus” なのかそうでないのかの点だろう。このあたりはわたくしには曖昧なままである。そのときの核心のひとつは内容と形式の相違である。形式としてファルスの彼岸に残っているものを、「ファルスの彼岸」と言ってはまずいのだろうか?

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説(中井久夫ーー「現実界とはゼロのことである」)

この文は、「享楽は内容としては消去されたが、享楽のシステム自体は残存し、象徴界の非一貫性との直かの遭遇の際に顕在化して働く」と変奏できる。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

享楽、あるいは現実界は「先史時代」であり「考古学」の対象、象徴界は「歴史時代」、つまり「歴史学」の対象であるとすれば、「先史時代」がないと言ってよいものだろうか・・・

ーーこれらの享楽は現実界とも言い換えられる。そしていまはこの二つの概念の相違は曖昧なままにしておく。ジジェクの簡潔な言い方なら次の通り。

現実界としての享楽は失われている。というのは、象徴秩序に住む人びとは決して直接には与えられない等々だから。しかしながら、享楽のまさに喪失がそれ自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生む。だから享楽は同時に、常に既に失われている何かであり、かつまたそれから決して免れえない何かである。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この根源的に曖昧な現実界の地位に基づいている。それ自体を反復する何かが、現実界自体である。そしてそれはまさに最初から失われており、何度も何度も回帰して、しつこく己れを主張し続ける。(ジジェク、2012、私訳)

なおかつ中井久夫の文の変奏も、「原トラウマ」ーー、ヴェルハーゲの言い方なら「構造的トラウマ」(システム的トラウマ)ーーをそのまま享楽と同じものとはできないことは十分承知の上での変奏である)。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

ーーJENSEITS DES PHALLUS?

Jenseits des Lustprinzips(快原理の彼岸)?
Jenseits von Gut und Böse(善悪の彼岸)?

「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--(ニーチェ『道徳の系譜』)

ロレンツォ・キエーザは、上の書評を記した頃から「ジジェク組」となっている(参照:Slavoj Žižek: "The Animal Doesn't Exist" (respondent: Lorenzo Chiesa)

(ロレンツォよ! 名前が致命的だよ、きみは。教会 chiesa のロレンツォだって?)


ヴェルハーゲの「先史時代」をめぐる考え方は次ぎの通り。

要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”ーー「ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行」より)



2016年1月14日木曜日

レイプされそうな危険に陥った者は誰でも強姦者に話をさせるようにしなければならない

「・・・・・《欲動》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenz-begriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代表 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。」(フロイト『欲動および欲動の運命』1915ーー「欲動の最も美しい定義」)

…………

欲動は言葉なしで始まる。あるいはたいてい、叫びと意味不明の金切り声にて。境界に至るのは、叫喚が暴力的罵声に変貌したときだ。須臾の後、境界線が横切られて会話がもたらされる。主体性、反省、距離を取ることに変形される。レイプされそうな危険に陥った者は誰でも強姦者に話をさせるようにしなければならない

逆に別の側から境界を横切ることもありうる。言葉は滞りはじめる。主体は消滅し、統御できないエネルギーの流れが通路をつくり出す。そのエネルギーは、どんな距離や反省をも一掃する(……)。叫喚する群衆においての自己消滅のエクスタシー。「我々自身」を見失う圧倒的なパニックアタック。……(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 1998)


強姦者に話をさせても無理なときはあるだろうがね
サイコパスとかサドのような冷徹なやつとかさ

まあためしてみるにこしたことはないね
黙っているよりはずっといいはずだよ
「解離」して声をだすどころじゃなくなるっていう場合もあるんだろうがね

痴漢というのも似たようなもんじゃないか
痴漢者と強姦者の心理機制はまったく違うけど
まずは痴漢者に話をさせることさ
こうなる前にね




オレは痴漢を一度だけやったことがあるんだけど
高校一年のときさ

海に向かって南西に延びる半島の付け根にある地方都市。その町の私鉄郊外電車に乗って、少年は高校に通う。四両編成の自転車と競争できる速度の電車だ。事実、寝坊して乗り遅れ学校に十キロ弱の道を自転車でいけば乗客よりも先に到いた。おおくの高校生たちは、決った車輌の決ったドアから乗り込む、たとえば後ろから二つ目の車輌の後ろの扉から、というように。もちろん東京の通勤電車ほどには混みあっていないが、この路線のいくつかの駅の傍にはいくつもの高等学校があり、毎朝、鼻面に同じ年輩の少年少女の体臭が掠めるほどには混んでいる、そこでは躰が圧迫されるほどではないが、ときに肩や腕、あるいは手の甲は触れ合い、車輌が傾けば膝や太腿などが絡み合う。授業中の教室の鎮まり返ったにおいが滲み込んでいる制服の布地に鼻腔を押し拡げたり、眼前にある脂が浮かんだにきび面の模様をつくづくと凝視したり、なめらかな肌理のこまかい頬に震える生毛にふと見惚れたり、少年たちの黒く硬い頭髪の汗臭い臭いに顔を顰めたり、少女たちの長く柔らかい髪の毛から醸しだされる芳香に甘美なむずかゆさの溜息が洩れるほどの混み具合。座席に坐れることはめったになく吊り皮につかまって二十分ほど佇むことになるのだが、途中、市街地を下る長い坂の手前の駅で乗客の半分ほどは下車し、それを越えると畑がひろがり、季節のよいおりには、開け放たれた窓からガソリン臭やら生活臭の饐えたにおいとは違ったさわやかさに包まれる。風が薫り、海のにおいがかすかにして、肥料の人糞や牛糞やらのにおい、太陽の光を十分に吸い込んだ牧草の匂いもする。

途中駅にある名門校の制服の、いささかもの思いに沈んだ、そして濃密な密林の液体のようなゆるやかな体温の微熱のもやに包まれた、色白でほどよい肉づきの少女も、同じ車輌の同じ扉から入り、さらに後方の連結部に近い片隅にわけ入り、吊り皮をもって車輌の揺れに身をまかせる。傍らに立った少年の鼻先に、少女の頭髪用の石鹸のにおいとともにほのかな腋臭、そのさわやかな酸味をまじえたかおりがかすめる。電車がブレーキをかけてやや強く揺れ、少年の曲げた右肘が少女の左胸にのめりこみ、その熱の籠もった柔らかな弾力感が少年をクラクラさせる。次の機会からは、わずかな揺れをも利用した。それを毎朝繰り返す。少女は避ける様子がない。車窓のむこうをぼんやりと眺めているだけだ。《さらに深く曲げた肘で、女の横腹を擦り上げるようにして、乳房を下から持ち上げた。身を堅くした気配が伝わってきたが、相変わらず女は軀を避けようとしない。乳房の重たさが、ゆっくりと彼の肘に滲み込んできた。》(吉行)……さらなる作戦の妄想に耽った日曜日をはさんだ翌月曜日の朝、少女の姿はなくなった。


ーーなにも言わないんだな、美少年のオレによっぽどまいってたんだろうか

一度だけってのは嘘っぽいな
大学時代の山手線や千代田線や東西線地下鉄で
自ずと盛りあがってしまった股間を
目の前の女性の腰やお尻にグリグリするのが痴漢なら
もちろん何度かあるさ
《腰を引く配慮をするどころか、
むしろ相手の下腹やら腿やらをそいつで押しまくってやった》(大江)

だからこのとき、(……)猛り狂った小さな牡鶏もかくやとばかり、すっくと立ったぼくのかわいいシンボルを見るやいなや、ぼくは、 彼女の眼差 しが彼女にとってはいとも玄妙不可思議なこの場所に注がれ、 深い驚きの色を隠すことができずにいることに気がついた。 ところが彼女は視線をそらさなかった。それどころかあべこべだったのである。(アポリネール『若きドン・ジュアンの冒険』須賀慣訳)

さて強姦の話に戻らねばならぬ
彼らに話をさせるようにしなければならない

とはいえレイピストとはそもそも特殊な男たちなんだろうか

強姦の際に勃起するのはごく一部の男性であろうと思えならない。暴力をふるう時には勃起できないのが生理的に順当だからである。射精に至っては、交感神経優位系が副交感神経優越系に急速に交代しなかればならず、それが暴力行為の最中に起こるのは生理学的に理解しがたい。しかし、そういう男がありうるのは事実で、古典的な泥棒は侵入してまず排便したというが、それと似ていようか(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp.314-315)


ところでヴェルハーゲの文にある「叫喚する群衆においての自己消滅のエクスタシー」
これもある意味で「レイピスト」と同じ症状だからな
ワカルカ? そこの熱狂癖のある「あなた」よ

…………

ここでまだ初期のジジェクの文を貼り付けておこう(一部行分けしている)。

ーーただしジジェクのここでのサントームの説明は、二種類あるサントームの一側面だけである(参照:ラカン派の二種類のサントーム・症状)。

……幻想は、全体主義的な秩序の支えとして機能していながら、同時に、〈現実界〉の残余であり、それによってわれわれは「手を引く」ことができ、社会的・象徴的ネットワークからの一種の距離を維持することができるのである。われわれが白痴的な享楽に強迫的に固執し、それに夢中になってしまうと、全体主義的な操作の手もされわれには届かない。

ファスビンダーの『リリー・マルレーン』の中にも、( ……)〈幻の声〉の現象が見られる。映画全体を通じて、ドイツ兵士たちの歌う例のラヴソングがそれこそ擦り切れるまで繰り返され、この無限の反復によって、美しいメロディが、一瞬たりともわれわれを解放しない、吐き気を催させるような寄生虫に変ってしまう。ここでもやはり、その歌の地位は明らかではない。

(ケッペルスに体現された)全体主義の権力はそれを大衆操作に用いて、疲れた兵士たちの想像力を虜にしようとする。ところが、歌は、聖霊が瓶から抜け出してしまうように、権力の手から擦り抜けてしまい、自分自身の人生を生きはじめる。誰も、その歌がもたらす効果を操作することはできない。ファスビンダーの映画の決定的特徴は、この「リリー・マルレーン」という歌のもつ徹底した両義性の強調である。

この歌はたしかに、ありとあらゆるプロパガンダの手段によって広められたナチのラヴソングであるが、同時に、それを支えているイデオロギー機械から飛び出しそうな、したがってつねに禁止される危険にさらされている、価値転倒的な要素へと今にも変容しようとしている。このような、白痴的な享楽の染み込んだシニフィアンの断片を、ラカンはその教えの最後の段階で、サントームと呼んだ。サントーム Le sinthomeは症候 symptomではない。症候は、解釈によって解読されるべき、暗号化されたメッセージであるが、サントームは意味のない文字であり、即座に意味 -の -享楽 jouis-sense, "enjoyment-in-meaning," "enjoy-meantを獲得する。

イデオロギー的組織の構成におけるサントームの役割を考えると、「イデオロギー批判」というものを考え直さなければならない。ふつうイデオロギーは一つの言説と見なされている。つまり、イデオロギーはさまざまな要素の連鎖であって、その意味はそれらの要素に特有の分節によって、つまりなんらかの「結節点」(ラカンのいう〈主人のシニフィアン〉) "nodal point" (the Lacanian master-signifier)がそれらを均質な領域へと全体化するその方法によって、重層決定されている、と。ここでわれわれは、すでに古典ともいえるラクラウの分析を引くことができよう。ラクラウによれば、特定のイデオロギー的要素は「浮遊するシニフィアン」として機能し、その意味は支配権力の操作によって遡及的に固定される(たとえば「共産主義」は他のすべてのイデオロギー的要素の意味を特定する「結節点」として機能する。「自由」は「形式的なブルジョワ的自由」と対立する「実際的自由」となり、「国家」は「階級弾圧の手段」となる、等々)。

だが、サントームという次元を考慮に入れたとたん、イデオロギー的経験の「人為的」性格を告発し、イデオロギーによって「自然なもの」「与えられたもの」として経験された対象がじつは言説による構築物であり、象徴的重層決定のネットワークの結果であることを暴露するだけでは十分ではなくなる。もはや、イデオロギー的テクストをコンテクストの中に置き、その必然的に見落とされていた余白を眼に見えるようにする、というだけでは十分ではない。

われわれのなすべきこと(ギランやファスビンダーのやっていること)は、サントームをコンテクスト(そのコンテクストのおかげで、サントームは魅力を発揮している)から分離し、その徹底した馬鹿らしさを明るみに引きずり出すことである。いいかえれば、われわれがやらなくてはならないのは、(ラカンが『セミネール ⅩⅠ』で用いている表現を借りれば)高価な贈り物を糞便の贈り物に変えること、われわれを金縛りにする魅惑的な声を、〈現実界〉の猥褻で無意味な断片として経験することである。この種の「異化」はおそらくブレヒト的な「異化 Verfremdung」よりもさらに根底的である。この種の異化は、現象をその歴史的全体性の中に置くことによってではなく、その直接的現実、つまり「歴史的媒介」を摺り抜けるその馬鹿げた物質的現前がまったくつまらないものだということをわれわれに経験させることによって、ある距離を生み出すのである。

われわれは、弁証法的媒介、つまり現象に意味を付与するコンテクストを加えるのではなく、それを除去するのである。したがって、『未来都市ブラジル』や『リリー・マルレーン』が描いているのは、「全体主義の抑圧された真実」などというものではない。これらの作品は全体主義の論理にたいしてその「真実」を対置しているのではなく、その白痴的享楽の凶悪な核を分離することによって、実際的社会的束縛としての全体主義を解体しているのである。(ジジェク『斜めから見る』1991 鈴木晶訳 p239-242)




手短に言うなら、人はここで、意味と声のアンチノミーを見ることができる。すなわちシニフィアンと対象(欲動の対象としての対象)とのあいだのアンチノミーとしての声である。

ひとつのメカニズムがある。それは意味と理解に向かってやっきになるメカニズムだ。その途上、声はうやむやになる。そしてまさに同じ位置に、別のメカニズムがある。それは意味とは何のかかわりもなく、むしろ享楽にかかわる。

その享楽はふつうは、意味に覆われている。意味に舵取りされている。意味に枠取られている。そして意味から離脱したときにのみ、欲動のかなめの対象として顕われる。人は言うことができる、声は意味の糞便だ、と。

図式的に言えば、どの発声も意味作用の側面がある。それは究極的には「欲望」の側面だ。…他方、対象の廻りを旋回する「欲動」の側面がある。対象、すなわち声対象、全く掴まえどころのない朧ろげな何か。

したがって、どの発声にもミニチュアドラマ、 ミニチュアコンテストがある。縮減されたモデル、精神分析が欲望と欲動のライヴァル的側面として捉えようとするモデルが。

欲望において、我々は花火を見る、ラカンが「無意識は言語のように構造化されている」と呼んだものの花火を。しかし欲動は、フロイトが言うように、沈黙している。声対象の廻りを旋回しているかぎり、欲動は沈黙した声だ。何も話さない声、まったく言語のように構造化されていない声。

声は言語と身体を結ぶ。だがどちらにも属していない。声は、言語学の部分でもなく、身体の部分でもない。声は自身を身体から分離する。身体にフィットしない。声は浮遊する。…… (Mladen Dolar,His Master's Voice--なんて素敵な声なんだ![Che bella voce! ])




高橋悠治:それはね、だけど、ある種の音楽を権力が利用するってことは言えるんですが、じゃあその音楽自体は何なのか。ミラン・クンデラが書いていたのを思い 出したんだけど、チェコのフサークが大統領がポップ歌手を記念式典に呼ぶ話、やっぱり、ポピュラリティーを持つということは、そういう人に呼ばれなくって も、そこにもう権力構造が在る、そういう自覚が無いのは、ミュージシャンですね(笑)。(「音楽の時間」―高橋悠治・今福龍太 音楽を句読点とした対話―

音楽によって
慈悲や平和と非暴力のメッセージを伝えるのはひとつのやりかただ
と法王は言われた
他方では
音楽はひとを戦いに 駆り立て
民族主義に引き込むこともある
音楽は人びとの感じ方に影響をあたえることができる
だから
あなたには責任があります
と法王は言われた
とりわけ若い人たちに対しては

ーー高橋悠治 音の静寂静寂の音(2000) 





2016年1月13日水曜日

現実界とはゼロのことである

“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)

《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。》

ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』1964)
ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換え(柄谷行人『トランスクリティーク』)
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesaーー超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))

…………

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007より私訳。

我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりも先ず、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことだ。

言い換えれば、倫理のセミネールVII に反して、最後のラカンにとっては、「根源的な〈一者〉は存在しない」ーー、それは象徴界によって原初に「殺された」のである。すなわち、「純粋な」根源的〈リアル〉はない(真の現実界はない)。象徴界の〈リアル〉Real-of-the-Symbolic の側面を超えた現実界はない。すなわち、象徴界に(想像界に接合しつつ)「穴を開ける」現実界の残余の側面を超えた現実界はない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって、「「根源的な〈一者〉」ーー真の現実界ーーは「非一」not-one である。まさにそれが《「一」として数えられる》ことが出来ない限りで。すなわち、現実界はゼロに相当する。セミネールXXIIIの鍵となる一節にて、ラカンは指摘している、《現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない》と。というのは、《燃えている火(「渦巻く」享楽の幻影)はたんに現実界の仮面》なのだから、と。(Le séminaire livre XXIII. Le sinthome, 1975–1976 (Paris: Seuil, 2005), p. 121)

我々はこのゼロを遡及的にのみ考えうる。「まやかしの fake」象徴的/想像的〈一者〉(ラカンが見せかけ semblant と呼んだものだ)の立場からのみ。(…)ゼロは全く何物でもない。しかし「まやかしの」〈一者〉の限定された観点からのみの何かである。物自体は無-物であるとラカンは言う。それは l'achoseだと。(ラカンは、l'achose を l'insub-stanceと同じものとしている。Le séminaire livre XVII, p. 187)

《「一」として数える》については、「現前と再現前(表象)by Alenka Zupancic」を見よ。ここではジュパンチッチではなく、そこで導入として引用されている上のロレンツォ・キエーザの別の論文をさわりとして掲げておく。

バディウの概念である “count-as-one” ( 「一」として数えること)と“forming-into-one [mise-en-un]”( 「一」への形成化)は、ラカンの“unary trait” ( 「一」の徴)と S1(主人のシニフィアン)のよりよい理解のために有効に働きうる。この両方において問題になっているものは、構造とメタ構造、現前と再現前(表象)presentation and representation とのあいだの関係性である。

…ラカンはセミネールⅨ(同一化)にて、統一性と全体性とのあいだの結束 solidarity を打ち破った。これは、ラカンに部分とともに作業することを可能にした。すなわち、「ある一」 a oneとしての全体性の不在 inexistence は「部分的システム partial system」としての部分を考えることを可能にした。ラカンはこのシステムを無意識と同じものとする。(……)部分的システムとしての無意識の存在 existenceは、究極的には、空虚の内-在 in-existence に依拠する。あるいはもっと厳密にいえば、要素として内-在する in-exists 部分としての空虚の存在に依拠する。(Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa


遡及性については、ラカンの「アンコール」から粗訳を掲げておく。

「発達段階 」の考え方、①快原理 →②現実原理…l'idée d'un « développement » [(I) principe de plaisir →(II) principe de réalité ] があるだろう?

フロイトは云ってるが、Real-Ich(現実自我)以前に Lust-Ich(快自我)があると。これは通念のなかに滑り込むに等しいね、「発達段階」という通念 l'ornière だ。単なる統御 maîtrise の仮説にすぎないよ。

そもそも赤子、あわれな幼児は、Real-Ich とは何の関係もない。わずかでもリアルle réel なんて概念を持つわけがない!

(……)さあ、「発展段階」の意味をすこしマトモに考えてみようじゃないか。

我々が、事の進行 processus に対して、「原初の primaire」 や「二次の secondaire」と言うとき、それは錯覚 illusion を誘い育む話し方だ。言わせてもらえば、どんな場合でも、それは、ある過程 processus が「原初の primaire」と言われるいるわけではなく、…結局、それは最初 premier に現れたもの qu'il apparaît le premier のことを言っている。

個人的には、私は赤ん坊を観察して、彼に外部の世界があるなどと感じたことはない。明らかなのは、赤ん坊は彼を興奮させるもの以外は何も見ていないということだ。

そしてそれはまさに妥当することだ、赤ん坊がいまだ話さない範囲で、だが。話し始めた瞬間から、まさにその瞬間以降からのみ、…抑制 refoulement の類があるようになると理解できる。

Lust-Ich(快自我) の事の起りprocessus は、原初 primaire かもしれない。どうしてそうでない訳があるだろう? それが「原初」なのは明瞭だ、いったん我々が考え始めた時には。しかし、それはたしかに「最初 premier」ではない。
《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》

これが少し前に、私が言ったことだ…世界はレトリックの華 une fleur de rhétorique だ、と。文字通りの谺が自我 moi にも及ぶだろう、自我もまたレトリックの華でありうる、と。それは、快原理の壺 pot du principe du plaisir で育った、フロイト云くの "Lustprinzip" ――私は次のように定義しておくよ、《何んたらかんたら blablabla で満足しているもの》、と。(ラカン、セミネールⅩⅩ(アンコール)より粗訳ーー「ラカンによる「遡及性」とナンタラカンタラ blablabla」より)

…………

※附記

◆ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012より

ミレールのシニカル快楽主義者の考え方、主体は象徴的見せかけsemblances(理想、主人のシニフィアン、ーーそれなしでは、どんな社会もばらばらになってしまう)の必要性を認めつつ、それから距離を取り、それらは単に見せかけに過ぎないこと、そして唯一の現実界は身体の享楽であるに気づくという考え方に対抗して、我々は強調すべきだ、「自ら享楽し、他者が享楽するに任せる」という姿勢は、正当的な個人の特異性の領野を開く新しいコミュニスト秩序のみにおいて可能だと。不適任者、変わり者のユートピア、そこでは、均一化の体制への順応の束縛が取り除かれ、人間は自然な状態の植物のように野生的に成長する…もはや新しい抑圧の社会によって足枷を嵌められることなく、彼らは、神経症に、強迫症に、妄想症に、パラノイアや分裂病に咲き乱れる。我々の社会は彼らを病気と見なすかも知れないが、真の自由の世界として、「人間性」自体の動植物の繁茂を取り戻す。

我々は見てきたように、ミレールはもちろん商品市場に要求される享楽の標準化に批判的ではある。とはいえ彼の異議表明は、標準的な文化批評の域を出ない。さらに、ミレールが無視しているのは、あのような特異性が繁茂する特殊な社会-象徴的状況だ。(……)

より理論的レベルで、我々は、ミレールの(そして、もし人が後期ラカンのミレール読解を受け入れるならば、ラカンの)、やや粗野な名目論者的対比を問題視すべきだ。その対比というのは、享楽の現実界の個別性と象徴的見せかけの包被のあいだのものである。ここで喪われているのは、ラカンのセミネールXX(アンコール)の偉大な洞察である。すなわち、享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけsemblanceの地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけsemblancesは、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。

この観点からは、ラカンの「騙されない者は間違えるles non‐dupes errent 」のまったく異なった読み方を提示し得る。もし我々が、象徴的見せかけと享楽の現実界のあいだの対比を元にしたミレールの読解に従うなら、「騙されない者は間違える」は、シニカルで古臭い諺のようなものだ、すなわち我々の価値観、理想、規則等々は、ただ見せかけに過ぎないが、それらを侮ることなく、社会組織がばらばらにならないよう、現実のものとして振舞うべきだ、というものだ。

しかし正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は間違える」の意味するところは全く反対である。真の錯誤illusionとは、見せかけを現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に見せかけの織物に降格してしまうことが真の錯誤である。言い換えれば、 間違える者たちは、象徴的織物を単に見せかけとしてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、間違える者たちである。イデオロギーは、享楽の核心を取り囲む象徴的見せかけのネットワークを、深刻に取り扱うことに元々あるのではない。より根本的レベルでは、イデオロギーとは、享楽の現実界に関して、これらの見せかけを「単なる見せかけ」としてシニカルな棄却をすることである。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)


◆冒頭近くに一部引用したが柄谷行人によるゼロ記号

……「構造」はそれを統合する超越論的主観を暗黙に前提としている。しかし、構造主義者がこうした「主観」なしにすませうるのみならずそれを否定しうると考えたのは、彼らが、存在しないが体系を体系たらしめるものを想定したからである。それが、ゼロ記号である。たとえば、ヤーコプソンは音韻の体系を完成させるためにゼロの音素を導入した。《ゼロの音素は、……それが何らかの示差的性格をも、恒常的音韻価値をも内包しないという点において、フランス語の他のすべての音素に対立する。そのかわり、ゼロの音素は、音素の不在を妨げることを固有の機能とするのである》(R.Jakobson、……1971)。このようなゼロ記号はむろん数学から来ている。ブルバキによって定式化された数学的「構造」とは、変換の規則である。それは形のように見えるものではなく、見えていない働きである。変換の規則においては、変換しないという働きが含まれなければならない。ヤーコブソンによって設定されたゼロの音素は数学的な可変群における単位元に対応するものだといってよい。それによって、音素の対立関係の束は構造となりうる。レヴィ=ストロースがヤーコブソンの音韻論に震撼されたのは、それによって多様で混沌としたものが秩序的であることを示すことが可能だと考えたからである。《音韻論は種々の社会科学に対して、たとえば核物理学が精密科学の全体に対して演じたのと同じ革新的な役割を演ぜずにはいない》(『構造人類学』)。レヴィ=ストロースは、クライン群(代数的構造)を未開社会の多様な親族構造の分析に適用した。ここに、狭義の構造主義が成立したのである。

だが、ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えなのであって、それを取り除くことではない。ゼロは紀元前のインドで、算盤において、珠を動かさないことに対する命名として、実践的・技術的に導入された。ゼロがないならば、たとえばニ○五と二五は区別できない。つまりゼロは、数の「不在をさまたげることを固有の機能とする」(レヴィ=ストロース)のである。ゼロの導入によって、place-value-system(位取り記数法)が成立する。だが、ゼロはたんに技術的な問題ではありえない。それはサンスクリット語においては、仏教における「空」(emptiness)と同じ語であるが、仏教的な思考はそれをもとに展開されたといっても過言ではない。ドゥルーズは、「構造主義は、場所がそれを占めるものに優越すると考える新しい超越論的哲学と分かちがたい」(「構造主義はなぜそうよばれるか」)といったが、place-value-system(位取り記数法)において、すでにそのような「哲学」が文字通り先取られているといってもよい。この意味で構造主義はゼロ記号の導入とともにはじまったのだが、構造主義者自身はその哲学的含意について考えなかった。たんに、彼らはそのことによって、主観から始まる近代的思考を払拭しえたと信じた。だが、主観なしにすませると思いこんだとき、彼らは暗黙に主観を前提としていることを忘れたのである。》(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.119-121)

…………

さてこれらと前回(幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ))にて引用した例えば次の文とどう折合いをつけるべきだろうか。

(トラウマとは、「書かれぬことをやめぬもの“C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire”」(ラカン)という意味において、現実界の審級に属する)。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年 『徴候・記憶・外傷』所収)
私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ここに鉤括弧つきで「異物」と出てくるのは、おそらくフロイトの“Fremdkörper”と捉えてよいだろう。『ヒステリー研究』1895に頻出し、この語は、トラウマに関連して使用されている。

心的外傷、ないしその想起は、Fremdkörper異物〈それは、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ〉のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』の予備報告、(1893年)

ここでは《幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説》にだけ注目しておこう。

(たぶん? そのうち? 続く)



2016年1月12日火曜日

幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)

《詮索好きな蝶が一羽、さっと舞いおりて私たちの中間を横ぎった。》 (ナボコフ『ロリータ』)




外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年 『徴候・記憶・外傷』所収)

幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。

たしかに、現在からみた過去の自己像は、それが現在であった時の自己像ではありえない。つねに現在との関連によって、その重要性も文脈も内容さえも変化をこうむっている。生きるとはライプニッツの言葉を借りれば「過去を担い未来をはらむ」現在を生きることであり、記憶もつねに現在との緊張関係においてある。

それは個人史も社会・民族・国家の歴史も同じことである。すなわち、人間集団の歴史的事実もたえず評価が変わり、事実も評価の変化をとおして代わってゆく。ある事象はそもそも書かれなくなり、忘却のかなたに去る。長い間、ささやかな挿話にすぎなかった事象が重大な意味を帯び、その観点から調査されてディテイルがくっきりしてくる。そのは事実自体も不動ではないということである。

もう一つは、非常に多くの記憶が消滅している。個人史においても世界史においても、いたるところに空隙があり、消失がある。記憶されているのはごく一部にすぎないのが事実である。しかも、個人も人間集団も、その歴史の連続性を疑わない。少なくとも個人においては三歳以後の人生が連続しているという感覚がある。これを「自己史連続感覚」と名づけよう。

自己史連続感覚は多くの忘却や空隙にもかかわらずゆるがない。したがって外傷性障害における時間喪失や逆行性健忘が苦痛や困難をともなって長く「外傷的」に記憶されるのは一見ふしぎである。

「正常な時間喪失」や「正常な忘却」が異常なそれらよりも圧倒的に多量であるはずなのに、自己史連続感覚がゆるがないのはなぜであろうか。……(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』pp.167~)


(さなぎ期)



◆外傷性記憶と成人型記憶の特性について(中井久夫「外傷性記憶とその治療 ーー 一つの方針」初出2003年より)。


【外傷性記憶の特性】

(1)静止的あるいはほぼ静止的映像で一般に異様に鮮明であるが、
(2)その文脈(前後関係、時間的・空間的定位)が不明であり、
(3)鮮明性と対照的に言語化が困難であり、
(4)時間に抵抗して変造加工がなく(生涯を通じてほとんど変わらず)、
(5)夢においても加工(置き換え、象徴化なく)されずそのまま出現し(通常の夢が睡眠のレム期に出現するのに対して外傷夢はノンレム期であるという研究がある)、
(6)反復出現し、
(7)感覚性が強い。状況の記述や解釈を伴う場合は事後的、特に周囲、写真、日記、新聞記事などの外的示唆によることが多い。
(8)視覚映像が多いが、一九九五年一月の払暁震災のように振動感覚の場合もあり、全感覚が記憶に参与しうる。聴覚の場合、微妙な鑑別が必要となる。
(9)何年経っても何かのきっかけによって(よらないこともある)昨日のごとく再現され、かつしばしば当時の情動が鮮明に現われる。これを身体外傷と比較すれば、ヴァレリーのいうとおり、体の傷は癒えても心の傷は癒えないということになる。これは脳の一つの特性であろう。
(10)過去の追想につきものの「時間の霞」がかかるどころか、しばしば原記憶よりも映像の鮮明化や随伴情動の増強が見られる。


【成人型記憶の特性】

(1)サルトルがいうように眼前の事物像に比して絶対的貧困性があり、特に細部が曖昧であり、
(2)常に文脈の中にあって、したがって、生の連続体の一部として意識され、
(3)容易に言語化され、言語化されることによって「自己史」連続体の一部としてくりこまれ、その副次的な、一種の「挿絵」という第二義的地位に座を見いだし、
(4)語りとして「自己史」の一部に統合された結果、生の進行とともにその意義、その内容の強調点が変化し、されに一般に自分の都合のよいように、あるいは自己を美化するように変造・加工され、
(5)特にこの変造・加工は(この場合はレム期においてみられる)夢に著しく、置き換えや象徴化されるのが普通である。このことは外傷夢の無加工性と対照的である。
(6)主題や場面やストーリーが反復再現するが、全くの再現ではない。
(7)感覚性の強さは言語化された記憶を経由したもので、一般に時間とともにうすらぎ、質的にも変動を起こして、ある特異な情動すなわち「なつかしさ」を伴う。否定的内容の事件に対しても「けっきょく済んでほっとした」「よくやってこれたものだ」という肯定的結論の情動を伴うが、これもまた時間とともに現場感と切実さを失ってゆく。
(8)当初は個別感覚に基礎を置くが、次第に一般感覚的、さらに雰囲気的なものが前面に出てくる。
(9)昨日のごとく再現されることが絶対にないとはいわないが、それはきわめて稀であり、了解しうる状況においてである。たとえば若い日の恋人との予期しない再会。しかし、その場合でも特異な情動たとえば「ほろにがい甘さ」が加わっており、細部はしばしば状況に都合のよいように変造されている。
(10)大きな特徴は、先に挙げた「連続性」とともに「時間の霞」である。事件との時間的距離の感覚があり、それが記憶をひとつの全体の中におさめている。時間性が成人型記憶の全体を覆っていて、外傷性記憶の時間停止と対照的である。




(田んぼの真ん中の一本道。周りに他の幼児たちの集まりがある(集団登園だというのは後ほどの言語命題)。遠くに鎮守の森がみえる。遠い…。

幼児たちは、たすきがけにしてハンカチをぶら下げている。他の幼児はすべて白いハンカチなのに、私のものは柄ものであるのに気づいて泣き出している。母が駆けつけてくる、その上気した困惑の表情。)

…………

次に「発達的記憶論」初出2002年における「外傷性記憶再論」から小節から。上にかかげた外傷性記憶と成人型記憶の特性の約一年前に書かれており、下記の文は、その詳述ともとらえうる。

外傷性記憶は、一般に通常の記憶に比して、

(1)プロトパシー的である。その鮮明性と対照的に言語化が困難である。その独特の感覚の「質」はその一つである。

(2)「非文脈的」(絶対的)である。この非文脈性は生涯をつうじての不変性、静止性、反復出現性、絶対性(非相対性)、前後関係と時空的定位との不可能性となって現われる。外傷夢の場合は夢作業による加工が行われていないということも、その一つであろう。何年、何十年経っても昨日のごとく再現される。身体外傷が八カ月でほぼ瘢痕治癒するとの対照的であって、心の傷の大きな特徴ということができる(ヴァレリーの『カイエ』にあるとおり「体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。五十年の失恋の記憶が昨日のことのように疼く」)。もっとも、古い身体的外傷もセネステジー的に「うずく」ことはある。

(3)主に視覚的記憶が問題にされるが、実際はすべての感覚にわたって現われる。すでに述べたように、振動感覚は一九九五年の阪神・淡路大震災においてみられ、聴覚は幻聴となって統合失調症としばしば誤診されている。触覚、味覚、嗅覚は、インタヴューにおいて問われないために見逃されている可能性がある。性感覚もある。

鮮明性は視覚中心に考えられているが、それぞれの感覚によって独自の鮮明性(生々しさ)がある。ただ、視覚と聴覚以外は、その感覚よりもそれがもたらす結果によって知られることが多いのではないか。阪神・淡路大震災直後および一年後の記念日において、振動感覚のフラッシュバックはまず驚愕と恐怖の表情と、刺激の大きさに釣り合わない「跳び上がり」によって知られたのであった。触覚、味覚、嗅覚なども、この非文脈性のために自他に理解できない嫌悪行動、回避行動(「これはどうしても食べられません」など)に現われている可能性がある。

(4)想起は非自発的、受動的、しばしば侵入的である。類似の感覚刺激によって誘発されることは上記震災の記念日現象にみられるとおりである。別の重要な外傷後行動症状である「回避」との接点でもある。

(5)しばしば強い情動と連合している。この情動は、嫌悪、驚愕、恥辱、マヒ(金縛り)感であることが多い。これが行動症状としての「回避」との第二の接点である。強い情動と連合している場合には、複数の感覚が融合して「共通感覚」となっていることが多い。あるいは共通感覚が地盤となってその上にいずれかの感覚が突出しているのであろうか。

(6)また、情動と感覚の距離が近く、しばしば感覚か情動かの区別がつきにくい。このことは、直接的な嫌悪、驚愕、恥辱、マヒを引き出す触覚以下の近接感覚において顕著である。視覚、聴覚などの遠距離感覚は、刺激の対象化(客観化)を目指す感覚であるために、直接に情動と結合することもあるが、触覚などの近接感覚に触発されて二次的に生じる結合も多い。身体的現象とされる「古傷が疼く」のも、実際には心的外傷の共通感覚的想起であるのではなかろうか。

外傷関連障害においては、恥辱感をはじめとする情動との連合性によって、患者は多くの症状を進んで語らず、その結果、さまざまな病名を告げられ、誤診に異議を唱えず、多年にわたって誤診にもとづく治療を受け入れていることが多い。これは治療者の大いに留意するべき点である。

(7)しばしば、原記憶に比して記憶映像および情動の増強と鮮明化がみられる。これは生理学的疎通(facilitation――反復された特定の刺激経路がそれによって通りやすくなること)によるのかもしれず、反復強迫によることもあり、森田正馬のいう「精神交互作用」すなわち注意の焦点となる強化・反復増強・意識の中心への移動のためとも考えられる。

(8)想起は「索引性」(後述)によらない。いつもすぐ隣りの「控え部屋」にいるようにただちにそっくりそのまま出てくる。この点も成人型記憶との大きな相違点である。

(9)成人型記憶においては、いくつかの記憶を綜合して、これを思考、感情、あるいは意志への導入の手はじめとすることができる。これは、言語化の容易性、文脈性、索引性などによるものと考えられる。外傷性記憶は、二つ以上の独立した感覚映像を同時的・並列的に意識内に置くことができないようである。すなわち、一つの感覚がある時点での意識を独占する。二つ以上の感覚がある場合にあh、融合して共通感覚化するのであろう。たとえばいじめの加害者の視覚映像と聴覚(音声内容と音調)映像。
成人型記憶を幼児型記憶と対照させれば、

(1)一般に記憶映像に全体と部分があり、分化している。しかし、それだけに尽きるものではない。それは、ふだんは不明瞭であるが、部分を切り離して取り出し、その部分を拡大することができる。さらに、これから部分を取り出して、拡大することができる。すなわち、二次的な「全体と部分」ではなく、重層性、階層秩序〔ヒエラルキー〕性、そして「フラクタル性」(部分を拡大してみると全体と同じ建築的構造architecturalityがある)を持っている。

(2)ゆらぎ性がある。記憶建築は柔構造である。これは記憶映像が視覚であっても絵画のように固定的図式ではないことを含意している。サルトルはこれを記憶の絶対的貧困性と呼んだのであろう。絶対的貧困性とは視覚的記憶映像の任意の部分を問うてみると、必ず曖昧な部分があることである。

(3)これと関連して、文脈依存性 contexutuality がある。すなわち、自己史記憶連続体の中で、その時間的・空間的前後関係によって感覚映像もそれに伴う情動が決定される。したがって、生きてゆくうちに、自己史記憶連続体の中での意味づけも変化し、それに伴って情動も、記憶映像自体ですら変化する。かつては生死を賭けた問題も時間がたてば一片の挿話となってしまう。

(4)索引性indexicality がある。想起は、一見無媒介的であっても、文脈的である。すなわち、文脈を「索引」に用いて到達できる。

(5)言語化が容易である。サルトルのいう絶対的貧困性は言語化と関連して言ううることであって、記憶映像自体が「貧困」かどうかをいうことはできない。むしろ、記憶映像の過剰な豊富性を「減圧」し「貧困化」しえ、「合意による確認」すなわち社会性を帯びさせることに、言語化の第一義的な意味があるのであろう。

言語化の第二の重要な意味はストーリーとしての自分史の形成が言語化を介して行われることである。……




満開の木のそばを通ると、時々、花びらがゆっくりと落ちてきた。すると影がすばやく──落ちる花びらよりもすばやく──花びらを迎えに川底から浮かびあがってきた。それを見るのは、崇拝者や傍観者は見てはならないものを見たような奇妙な気持ちだった。─『ナボコフ自伝─記憶よ、語れ』




【中井久夫自身の幼児型記憶】

ーー「思い出すままにほとんどすべてを列挙する」とされている。


(1)「誰かの背に背負われて、青空を背景に、白い花を見上げている」

これはそういう写真がないし、話題になったこともない。もっとも、「誰か」は祖父であるがこれは後の推定である。白い花は「アカシア」であると知っていて、それは聖心女学院小林分校への道のアカシア(正確にはニセアカシア)の並木道であるが、いずれも映像ではなく後から加わった命題記憶である。私は六〇年後に行ってみた。わずかに一〇メートルほどのあいだ、ニセアカシアの老木が残っていた。

(2)「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」

イチジクは映像の中にはない。裏庭にイチジクの木が何本も生えていたのは言語(命題)記録である。

(3)「ハコベの生えているところで太陽に向かって祖父と深呼吸をしている。祖父が「新鮮な空気を吸う」と言い、私が真似をしている」

記憶には、裏庭にはハコベが生えていたという映像がある。他にいろいろのものがつけ加わっているが、それらは命題記憶だけで、映像を欠いている。

(4)「窓から田んぼをへだてて向こうを走る自動車を眺めて数えている」

これは武庫川の堤であるというのは、消去法によって生まれた結論であると思われる。「田んぼ」には視覚的に初めから焦点が合っておらず、したがって季節は不明である。

(5)「応接セットがあってカンバスで覆われたまま、二つ横並びにしてある。そのあいだのひじかけにオモチャの機関銃を据えて撃つマネをしている。「わあ、かなわん。降参」と母方の祖父が言っている」

声ははっきりしない。応接セットであるというのも命題記憶である。並んだ椅子の肘かけだけが視覚映像である。機関銃を祖父からおみやげに貰ったというのも、命題記憶であろうと思われる。

(6)「ベランダのようなところから川の流れをみている。向こうに民家、その向こうに山」

これは宝塚遊園地の建物(大劇場か)にあった武庫川に臨む「納涼台」という屋外で軽食を食べさせるところから武庫川を眺めているのであろう。この時かどうか、ここの(と思う)「キツネウドン」の味を覚えている。

(7)「人間が細く映る鏡や太って映る鏡に自分を映している」

これも宝塚の建物の中であると推定できる。

(8)「天井に鈴蘭灯が揺れている。天井は白い。鈴蘭灯はくもりガラスで、縁は金色」

これは阪急電車の車内に立っていて、大人の乗客のあいだから見上げた天井であろう。「阪急電車」というのは消去法である。

(9)「雑然とした茶褐色の家並みの間の道でおばさんが「ぼっちゃん、じろーじゃ」と言っている。私は「ちがう、じどうしゃ」と言い返す」

これは、命題記憶によって、母親の郷里の村のメインロードであり、おばさんが「森本さん」という人だと知っているが、映像の中には手掛かりはない、こういって私をからかって笑っている場面であることは確かである。

(10)「どこかの階段。木がまだ新しい。陽が照っている」

これは時も場所も状況も全然見当がつかない(この背後には大きな家族問題が隠れているかもしれない)。そういう記憶映像がいくつかある。朝日新聞が東京-ロンドン間を飛行させた「神風号」のニュース映画を観に行ったはずなのに、覚えているのはパラシュート降下する人の映像で「神風号は落ちたはずはないのに」と思ったとか。(中井久夫 同「発達的記憶論」)





視覚的な記憶には二種類ある。一つは、目をひらいて、心の実験室のなかで、その面影を苦労して再現するもの(この方法で見たアナベルは、つぎのような漠然とした言葉で表現できるようだーー蜂蜜色の肌、細い腕、短く切った茶色の髪、長い睫毛、溌剌とした大きな口)。それから、もう一つは、目をとじたとたんに、まぶたの暗い内側にぽっかりうかんでくるものーー最愛のひとの面影の客観的な純粋に視覚的な再現、実物そおままの色彩をもった、かわいい幽霊だ。(この方法で私の目にうかぶのはロリータだ)。(ナボコフ『ロリータ』)




……喫茶店を抜け出して海岸へ行き、人気のない小さな砂原を見つけ、洞穴のような形をした赤茶けた岩が菫色の影をおとすなかで、私は、つかのまの貪婪な愛撫をはじめた。誰かがおき忘れたサングラスだけが、それを目撃していた。私が腹ん這いになって、愛する彼女をまさに自分のものにしようとした瞬間、髭をはやした二人の男、土地の老漁夫とその弟とは、海からあがってきて、下卑た歓声をあげて私たちをけしかけた。それから四ヶ月後に、彼女はコルフ島で発疹チフスで死んだ。

こうしたみじめな記憶のページを何度となくめくりながら、私の人生の亀裂は、あのとき、あの遠い夏のきらめく日ざしのなかではじまったのだろうか、あの少女への熾烈な欲情は先天的な異常性格の最初の徴候にすぎなかったのだろうかと、くりかえし自分に問いつづける。しかし、自分自身の渇望や動機や行動などを分析しようとすると、私は際限なく二者択一の問題を提供して分析癖をたのしませる一種の回顧的な想像に落ちこみ、そのために、一つ一つの道筋が果てしなく八方にわかれて過去が狂おしいほど複雑なものに見えてくるのだ。しかし、ある魔術的な宿命的なつながりによって、ロリータの前身がアナベルだということは確信できるように思う。

また、アナベルの死のショックが、あの悪魔のような夏の日の欲求不満を固定化し、それが永久的な障害となって、もはやいかなる恋もできずに灰色の青春時代をおくらなければならなかったことも、私は知っている。現実的で、がさつで、標準的頭脳ばかりのいまの若い人たちには、さだめし不可解だろうが、……(ナボコフ『ロリータ』)



2016年1月11日月曜日

風景と女の二眼ローライ(永井荷風)

断腸亭日乗 昭和十一年 荷風散人年五十八

十月廿六日。午後より時々驟雨あり。草稿を添削す。夜久辺留に往く。安藤氏に託して写真機を購ふ 金壱百四円也

どんな写真機を手に入れたのかといえば、ネット上には、二眼レフの元祖ローライと言っている人が多い。だがローライフレックスかローライコード(フレックスの廉価版だがその軽量さなどのためジャーナリストが多用したそうだ)かあるいはまたそれ以外の機種なのかは判然としない。





次ぎの写真はローライコードだそうだが、どちらにしろひどく美しい機械だ。




荷風もすくなくとも購入当初はこの美しい機械を首からぶらさげて散策するのが嬉しくて堪らなかったはずだ。

昭和十一年 十二月九日 (……)昼飯を食して後直に写真機を携へ亀戸に至り、大嶋羅漢寺前大通を歩み、薄暮銀座に出で、不二氷菓店に飯して早く家にかへる。
同 十二月三十日 (……)乗合バスにんて小名木川に抵る。漫歩中川大橋をわたり、そのあたりの風景を写真にうつす。




写真機購入代金「金壱百四円也」とあるが、昭和十年の物価は次ぎの通りらしい。

白米10kg2円39銭、みそ1貫80銭、醤油1升53銭、さけ缶詰23銭、天丼20銭、うな丼25銭、いのしし鍋30銭、ビフテキ1円、金太郎飴30銭、あんみつ13銭、最中2銭、石油ストーブ18円、国民ソケット75銭、風鈴10銭、鉱山労働者平均日給1円75銭、巡査初任給47円、東大生平均生活費月学47円59銭、山小屋宿泊2円、ダットサン1900円、アサヒ号オートバイ340円、幼児三輪車2円80銭~、ヤマハオルガン27円~





これからみると初任給の二倍ほどとなる。 おそらく荷風の購入したのは、廉価版のローライコードではないか(ローライフレックスは当時三百円ほどだったという情報もある)。

昭和十年の写真を眺めてみると、たとえばこんなものがある。

煙草屋(昭和10年撮影)



次ぎの写真もその前後のもの。







実に美しい。とはいえ、わたくしの住んでいるインドシナの土地には、このたぐいのファッションがいまでもみられる。上の煙草屋などはことさらそうで、中華街にある漢方薬店とほとんどみまがうばかりだ(もっともわたくしがそのチョロン地区にしばしば出入りしたのは十年ほどまえだが)。






荷風写真機購入して三ヶ月後には次ぎのような叙述もみられる。

昭和十二年丁丑  荷風散人年五十九


二月三日。快晴の天気立春の近きを知らしむ。午後銀座に往き食料品を購ひて帰る。霊南坂を登るに坂上の空地より晩霞の間に富士の山影を望む。余麻布に卜居してより二十年いまだかつて富士を望み得ることを知らざりき。家に至るに名塩君来りカメラ撮影の方法を教へらる。夜八時W生その情婦を携来る。奇事百出。筆にすること能はざるを惜しむ。この日より当分自炊をなす事とす。一昨日下女去りて後新しきものを雇入るるには新聞に募集の広告をなすなど煩累に堪へざるを以てなり。W生帰りて後台処の女中部屋を掃除し、夜具敷きのべて臥す。畳の上に寝るも久振りなれば何ともなく旅に出でたるが如き心地なり。

…………

わたくしは御覧の通り荷風をひどく愛するが耽溺を諌める意味で荷風罵倒文を最後につけくわえておこう。

荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持つてゐた人であつた。そしてその彼の境遇が他によつて脅かされることを憎む心情が彼のモラルの最後のものを決定してをり、人間とは如何なるものか、人間は何を求め何を愛すか、さういふ誠実な思考に身をさゝげたことはない。それどころか、自分の境遇の外にも色々の境遇がありその境遇からの思考があつてそれが彼自らの境遇とその思考に対立してゐるといふ単純な事実に就てすらも考へてゐないのだ。
風景も人間も同じやうにたゞ眺めてゐる荷風であり、風景は恋をせず、人間は恋をするだけの違ひであり、人間の眺めに疲れたときに風景の眺めに心をやすめる荷風であつた》(坂口安吾「通俗作家 荷風 ――『問はず語り』を中心として――」)



2016年1月10日日曜日

律法が「むさぼるな」と言わなかったら、 わたしはむさぼりを知らなかったでしょう(パウロ)



という図表をたまたま拾った。他方、《ポルノを規制すれば性犯罪が増えるというは、「全く根拠の無いデマ」のレベルなのです》との見解もある(ポルノを規制しても性犯罪は増えない)。実際、行政当局はポルノ規制後、よりいっそう厳格に性犯罪の取り締まりをしたための上のような結果であるかもしれないという想定もあるだろう。

ただし、規制(抑圧)をすれば、欲望が生じるというのは、古来からの「常識」ではある。

律法は罪であろうか。決してそうではない。 しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。 たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、 わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。(パウロ ローマの信徒への手紙7章)

あなたの知らない児童ポルノの真実


ところで、性規制が厳しかった時代の日活ロマンポルノと今の露骨なAVとどちらが人びとをより多く刺激するだろうか?


(若松孝二監督『性の放浪』1967)


ここでは、答は曖昧なままにして、わたくしは日活ロマンポルノをそれなりに懐かしむ世代の人間ではあるとだけ言っておこう。


(同 若松『胎児が密猟する時』1966)


そして現在の露骨なAVをもたまに観ないではないが?! その多くにはすぐさまウンザリすると言っておこう。

むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。

ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。

やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」)
身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。

それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

この坂口安吾とロラン・バルトという二人の異質であるだろう作家は、同じように隠して出現ー消滅があると、いっそう劣情(エロス)をシゲキされるといっている。


(荒木経惟作品)



 ここで精神分析的観点を導入すれば、女性たちはいざしらず、男性たちの性欲メカニズムは一般的に次ぎのように言われることが多い。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)

ジジェクは、米国のかつてのヘイズ・コード(映画製作倫理規定)をめぐって、《根本的な禁止が、ネガティヴに機能するどころか、最もありふれた日常的な出来事を過度に性的なものにしてしまう》としている。

1930年代・40年代の悪名高いヘイズ・コード(映画製作倫理規定)はたんなるネガティヴな検閲規定だったわけではない。ヘイズ・コードは過剰をじかに描写することを禁じたが、このコード自体が、その過剰そのものを生み出すポジティヴな(フーコーだったら生産的といったであろう)法制化であり、規制だった。この禁止が正しく機能するためには、非合法的な物語のレベルでは実際には何がおきているかについての明確な意識に依存しなければならなかった。ヘイズ・コードはたんにある種の内容を禁止したのではなく、むしろ暗号化された表現をコード化したのである。スコット・フィッツジェラルドの未完の小説『ラスト・タイクーン』で、映画プロデューサーである主人公モンロー・スターが脚本家たちに与える有名な指示はこうだーー

《われわれの目の前で、彼女がスクリーンに映ると、いつでも、一瞬ごとに、彼女はケン・ウィラードと寝たがる。……彼女のすることなすこと、すべてはケン・ウィラードと寝る代償だ。街を歩くときは、ケン・ウィラードと寝るために歩いている。食事をするのは、ケン・ウィラードと寝るために体力をつけるためだ。だが、二人が正当に認められるまでは、彼女がケン・ウィラードと寝ることばかり考えているなどという印象は、どんなときでも、いっさい与えてはならない。》

ここからわかるのは、根本的な禁止が、ネガティヴに機能するどころか、最もありふれた日常的な出来事を過度に性的なものにしてしまうということである。街を歩くことから食事をすることまで、この飢えた哀れなヒロインのすることなすことすべてが、恋人と寝たいという彼女の欲望の表現に変容させられる。この根本的な禁止は本質的にひねくれている。なぜならこの禁止は不可避的に、再帰的などんでん返しを起こさずにはいられず、そのおかげて、禁止されている性的内容に対する防御それ自体が過剰な性化を引き起こし、それがすべてに浸透してしまう。検閲の役割は見かけよりもはるかに両義的なのだ。当然、こうした見方に対しては次ぎのような反論が出るだろう。すなわち、この議論はうかつにもヘイズ・コードを、支配システムにとって直接的な黙認よりも脅威的な価値転倒機械に祭り上げているのではないか? ストレートな検閲が厳しくなればなるほど、それによって生れる意図しなかった副産物がより価値転倒的になるというのか? こうした批難に対しては、以下のことを強調しておこう。意図しなかったひねくれた副産物は、象徴的支配システムを直接に脅かすものではなく、システムに組み込まれた侵犯であり、見えないところでシステムを支えている猥褻なものなのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

あるいはフェミニスト寄りのラカン派コプチェクならどうか?

コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こ うとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。(コプチェクの講演、2006/10/8 Joan Copjec お茶の水大学)

もちろん、日本にはかねてより「恥の文化」という伝統がある。《日本は「恥の文化」だけあって恥のかかせ方も恥の感じ方も実に微妙で隠微だ。》(中井久夫「暴力について」)

もし日本が痴漢先進国であるならば、この「恥の文化」のせいではないか、と疑うこともできよう。


(参照:痴漢文化といじめ文化

さて、コプチェクの友人であるジジェクの文によって、《隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為》をもたらすメカニズムの捕捉しよう、《対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱す》と。

……侵害の対象としての女性についていえば、彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる。タリバーンは女性に、公の場では全身を覆って歩くことを命じただけでなく、固い(金属あるいは木の)踵のある靴をはくことを禁じた。音を立てて歩くと、男性の気を散らせ、彼の内的平安と信仰心を乱すからという理由で。これが最も純粋な余剰(剰余:引用者)享楽の逆説である。対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱すのである。(『ラカンはこう読め!』p174~)

…………

これらは差別についても、似たようなところはないか。

ジジェクの文に、《根本的な禁止が、ネガティヴに機能するどころか、最もありふれた日常的な出来事を過度に性的なものにしてしまう》、あるいは《禁止されている性的内容に対する防御それ自体が過剰な性化を引き起こし、それがすべてに浸透してしまう》とあるが、差別をしらみつぶしに抑圧すれば、日常茶飯の振舞いすべてが差別化してしまうなどということはないか。

「差別は純粋に権力欲の問題」(中井久夫)であり、とすれば、すべての振舞いが権力欲の餌食になりがちだ、と言い換えてもよい。

われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

差別欲・攻撃欲をしらみつぶしに塞ぐのは、日常生活の「ゆらぎ」を失くすることではないか。判でついたような聖人的態度のすすめではないか。

日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及ぼしているおそれがある。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)

さらには、すぐれたヘーゲリアンであるジャン=ピエール・デュピュイーー日本では『ツナミの小形而上学』でようやく名の知られるようになったーーは、自らを正義と見なす社会が、すべての恨み怒りから自由であるなどとは、大間違いであるとしている。反対に、まさにそのような社会において、下位の立場を占める者たちが、傷つけられた誇りによって、怨恨の暴発に唯一の捌け口を見出すと(参照:階級が無い社会の「不幸」)。

われわれは最も原始的な情動を抑えることはできない。なんらかの代償行為が必要である。

権力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

差別欲・権力欲を飼い馴らすための、いくらかのヒントはここにある→「不滅の差別言動の飼い馴らし

…………

この文は以下のツイートを眺めて記されたものである。

えるねこ ‏@die_sel_cat 差別の被害を無くしたいだけなので、結果大っぴらに差別ができなくなった差別者連中が、差別したい欲求と現実のリスクとの間で、ピーピー苦しむのは大歓迎なのであります。

C.R.A.C. @cracjp
どんどん蓋していきましょ。 https://twitter.com/netowyocom/status/685722314680307713

わたくしは、彼らがいちはやく、排外主義と真正面から戦った人たちであることを知らないわけではない。だがありとあらゆる「差別」に蓋をしようとする最近のありようにはいささか違和をもっている。

@AtaruSasaki: 知人が作家ゴイティソーロから直接聞いたユーゴ内戦の話。脱出して来た旧ユーゴの作家や学者達が慟哭し悔いていたこと。「排外主義を唱える連中はみな愚かで幼稚に見えた。何もできまい、放っておけ、三流の媒体でわめかせておけと思った。それが、このざまだ。真正面から戦わなかった我々の責任だ…」(佐々木中ツイート)

とはいえ、彼らが「髪の毛を代赫色に染めた少年たち」の末裔ではないか、との感覚は持ち続けている。

阪神大震災直後、西部被災地においての経験であるが、約半月は貨幣経済がほぼ完全に停止した。援助物資と焚き出しに依存して生活する他なかった。逆に、お金があっても店はなく、小銭が時々要るだけであった。学校もすべて休校となり、避難所と化した。それだけでなく学歴社会も一時停止した。証拠に、皆の顔から普段の社会的地位(とその背景の学歴など)による仮面が抜け落ちていた。被災民は高揚していた点では異常であったが、憑きものとしての学歴や何やかやがとれていた点ではふだんより正常であった。その人の正味の価値がみえていたといおうか。いつもは控え目な人がみごとな働きをし、ふだん大言壮語する人が冴えなかったりした。髪の毛を代赫色に染めた少年たちがきびきびと働いていた。ヴォランティアの青年は時に「奔走家」といわれた「維新の志士」も実際はこうではなかったかという思いを起こさせた。歴史の霞の中で美化されているが、幕末の十代、二十代も神様であったわけはない。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」『家族の深淵』1995の注)