このブログを検索

2018年10月31日水曜日

声なき声

夜と音楽。--恐怖の器官 Organ der Furcht としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術という音楽の性格がある。(ニーチェ『曙光』250番)


音がきこえはじめたとき音楽がはじまり、
音がきこえなくなったとき音楽がおわるのだろうか。
音楽は目に見えないし、なにも語らないから、
音のはじまりが音楽のはじまりなのか、
音のおわりが音楽のおわりなのか、
音楽のどこにはじまりがあり、おわりがあるのか
さえわからない。

ーー高橋悠治『音楽の反方法論的序説』4 「めぐり」)


たとえば、音が運動によって定義されるとすれば、
音でないものも運動によって定義されるゆえに、
音が内部であり、音でないもの、それを沈黙と呼ぼうか、
それが外部にあるとは言えない。
境界はあっても境界線はなく、
沈黙は音と限りなく接していて、
音が次第に微かになり、消えていくとき、
音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。
逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、
ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。
運動に内部もなく、外部もなく、
それと同じように運動によって定義されるものは、
内部にもなく、外部にもなく、だが運動とともにある。 だから、
「音楽をつくることは、
音階やリズムのあらかじめ定められた時空間のなかで、
作曲家による設計図を演奏家が音という実体として実現することではない。
流動する心身運動の連続が、音とともに時空間をつくりだす。だが音は、
運動の残像、動きが停止すれば跡形もない幻、夢、陽炎のようなものにすぎない。
微かでかぎりなく遠く、この瞬間だけでふたたび逢うこともできないゆえに、
それはうつくしい」

ーー同16 「音の輪が回る」

⋯⋯⋯⋯

「沈黙と音」とは、どちらが図であり地なのか? 最も美しい音楽においては、沈黙の瞬間が最も美しいということはしばしばある。沈黙を際立たせるために、音があるのではないか、と感じるほどに。

もっとも「まともな」音楽家たちにおいては、これは「常識」なのかもしれない、《音楽のなかで最も美しいのは沈黙である》(アンドラーシュ・シフ)





⋯⋯⋯⋯

われわれが無闇に話すなら、われわれが会議をするなら、われわれが喋り散らすなら、…ラカンの命題においては、沈黙すること faire taire が「対象aとしての声 voix comme objet a」と呼ばれるものに相当する。(ジャック=アラン・ミレール、«Jacques Lacan et la voix» 、1988)

ーーここでミレールが言っている対象aとは、現実界としての対象a、非全体 pastout としての対象a、穴としての対象aのことである。

これは、ラカンの四つの言説のうちの一つの分析家の言説における対象aである。





人はなぜ音楽を聴くのか? 対象としての声との遭遇の恐怖を避けるためである。リルケが美について語っていること(美は恐ろしきものの始まり)は音楽にも当てはまる。美=音楽は、囮・スクリーン・最後のカーテンである。音楽は、声の対象aとの遭遇の恐怖とのから我々を防御してくれる。(ジジェク、"I Hear You with My Eyes"、1996)

ここでジジェクが「声の対象aに対する美は最後のカーテン」と言っているのは、次のことである。

美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)


たとえばニーチェの声なき声とは、現実界との遭遇に他ならない。

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ!」--(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

⋯⋯⋯⋯

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『心理学草案 』に次のような形で現れる。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる。

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)

前期ラカンはこのモノを母と言っている。

(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)


ようするにモノとは「斜線を引かれた母なる大他者 LȺ Mère」である。


穴Ⱥと「穴のヴェールとしての愛の対象」



声の対象a(喪われたモノ)の起源が、「母の言葉」にあるのは、実は誰もが知っていた筈である。ただほとんどの人々において忘却されているだけである。ニーチェの「最も静かな時間 Die stillste Stunde」を経験した者のみがわかっている、「おまえはそれを知っているではないか!」

リトルネロとしてのララング(母の言葉) lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelle としての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
サントーム(原症状)は、母の言葉に起源がある。 Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle(Geneviève Morel、Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome、2005)
サントームの小道は、享楽における単独性の永遠回帰への意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

※参照:ララング定義集

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

大他者は象徴秩序(言語秩序)である。そして誰もが知っているように、《原大他者 Autre primitif は母である。》(ラカン、S4、06 Février 1957)

そして大他者とは、己の身体でもある。

大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)

ーー身体には穴が開いている。母なる大他者による「身体の上への刻印」の穴が。《corps. ⋯ C'est un trou》(Lacan, Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Niceーー「身体は穴である」)



2018年10月30日火曜日

小便器のアウラ



対象から発するアウラは、対象の直接的な特性ではなく、それが占める場である。この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器(泉)ーー小便器自体が展示されることによってアートの対象となったものーーである。

デュシャンの功績は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「 ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている」ということである。

日常生活において、われわれはこの種の物象化 reification の犠牲者である。つまり、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認してしまうのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012年)

いやあそうは言ってもデュシャンの泉は形が美しいね、なによりも穴が開いているのがいい。




穴としての対象a は、枠・窓と等価でありうる。それは鏡と反対のものである。対象a は捕獲されない、特に鏡には。長いあいだ鏡に時間を費やしたラカンは、そのように強調している。対象a とは、われわれが目を開くことによって、己自身を構築する窓枠なのである。 En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre, à l'opposé du miroir. L'objet a ne se laisse pas capter, spécialement dans le miroir. Lacan, qui a passé beaucoup de temps avec le miroir, le souligne. Il s'agit plutôt de la fenêtre que nous constituons nous-mêmes, en ouvrant les yeux. (ジャック=アラン・ミレール、« L’image reine »2016)

ミレールは「窓枠 fenêtre」ということによって次の図のことを言っている。


「女と鏡」あるいは「星と月は天の穴」


いわゆるルネ・マグリット構図である。


話を戻せば、デュシャンの「泉」は、ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』の珈琲渦のブラックホールと銀のペニスと同じくらい美しいね。




ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir , Écrits, 1966)


結局、美の核心は現実界としての穴をぎりぎりに覆ったもの(防衛)じゃないんだろうか?

美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

リルケのいう「美は恐ろしきものの始まり」に違いないよ(参照)。

ゴダールの上のイマージュは、デュシャンの次の二つの作品を合せたぐらい美しいな、ただし(ボクにとっては)触覚の感覚がいささか劣っているのが映像イマージュの欠点だけど。




私は上躰を乗り出して、あっさり縢ったボダン穴のような肛門と、そこから拇指の頭ひとつおいたほどの距離にしっかり閉じている性器の端を見た。明るい茶色の肛門にくらべて、性器の皮膚が木の冬芽の色合いなのは、縮れた薄い体毛が表面に散らばっているからだ。私は指を伸ばしてマユミさんの性器の周りにふれてみないではいられなかった。(……)きれいな小さな水玉が、襞ひだの間にいっぱい浮かんできたよ。天体望遠鏡で銀河系のはしを撮ったスライドに似てるわ……(大江健三郎『燃え上がる緑の木』)





・・・とはいえ(?)、やっぱりドゥルーズ=プルーストを常に参照しなくちゃな。

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

これはすべての愛の対象にかかわる、人だけでなく芸術作品、文学、自然、料理・・・。

そして、同じことだが、ラカンの「欲望の原因」(欲望の対象ではなく)だな、肝腎なのは。

私はあなたを愛する。だが私は、あなたの中のなにかあなた以上のもの、〈対象a〉(欲望の原因)を愛する。だからこそ私はあなたを八つ裂きにする。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.(ラカン、S11、24 Juin 1964)


人はまず、たとえば名高い芸術家や詩人の作品を愛しているのは、あるいは自然の景観、たとえば海を愛しているのは、小便器を愛しているのと変わらないんじゃないか、と疑ってみることだね。

もちろんボクのプルーストへの愛や、ラカン派への執着も疑わなくちゃな。

でも、ラカンの「欲望の原因」とは、ようするに対象に自分自身の眼差しが書き込まれているってことだ。

そして原「欲望の原因」は、ボロメオ結びの中心にある「a」だ。

(S23,13 Janvier 1976)


ラカンの欲望の原因とは,上の原欲望の原因の横ににある、JȺ(大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre)、SENS(意味の享楽=見せかけとしての対象a)もそう。

アンコールSéminaire XXにおいて、対象a は、…意味の享楽である。幻想のなかに刻印される意味の享楽である。petit a c'est encore un sens-joui, c'est encore un sens-joui inscrit dans le fantasme. (Fin du Cours XX de Jacques-Alain Miller du 6 juin 2001 )

そして上でミレールが言っていた穴としての対象aは、フロイトの表象代理と等価で、JȺの箇所にある(参照:人間の条件と表象代理と対象a)。

絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)




この欲望の原因は、プルーストのメガネ、光学機械と相同的なんだな。ボクは結局、「君の愛は私にあるんじゃなくて、君のなかにある」ってことを教示してくれる作家がいいね。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。…

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。(プルースト『見出された時』)

あるいはニーチェのようにさ。

・君たちは、自分自身と顔を向き合わせることからのがれて、隣人へと走る。

・まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。

・自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

ーーというわけで(?)、《嘘をいう能力のない者が、真理が何であるかを知っているはずがない》(同、ツァラトゥストラ)。


2018年10月29日月曜日

「ニーチェの永遠の愚行」と「ヴァレリーの女狂い」

世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚の群れのなかへ走りこんだという人間が少なくない。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

ーー世には、自分の内部から性欲を追い出そうとして、かえって男狂い、女狂いのなかへ走りこんだという人間が少なくない。

嫉妬は悲哀とおなじように、ともに正常といえる情動状態 Affektzuständenである。それがある人の性格や態度のうちに見られられない場合は、強い抑圧(放逐) starken Verdrängung を受けたために意識されないのであって、それだけに無意識の心的生活 Seelenleben ではいっそう大きな役割を果たしている、と推論してよい。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)

ーー性欲は愛と同じように、ともに正常といえる欲動状態である。それがある人の身体表出のうちに見られられない場合は、「排除」(外に放り投げること)を受けたために現れないのであって、それだけに無意識の「身体的生活」ではいっそう大きな役割を果たしている、と推論してよい。

排除 Verwerfung の対象は現実界のなかに回帰する qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)



ラカンの現実界 Réel は、フロイトの無意識の臍(夢の臍 Nabel des Traums)であり、固着Fixierung のために「置き残される zurückgeblieben(居残るVerbleiben)」原抑圧 Urverdrängungである。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの Somatischem」が「心的なもの Seelischem」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)




愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。

私も最初からそうすることもできただろうし、それによって多くの反発をまぬかれたことだろう。しかし私はそうしたくなかった。というのは、私は弱気に陥りたくなかったからである。そんな尻込みの道をたどっていれば、どこへ行きつくものかわかったものではない。最初は言葉で屈服し、次にはだんだん事実で屈服するのだ。

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



ニーチェは永遠の愚行に堕ちこんだ。本能を弁護するという愚行、自然を弁護するという愚行に。(ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』ーー丹治恒次郎『ニーチェとヴァレリー』pdfより)
外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。

二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。

しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。

他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)




・わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。

・まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。

・よし悪人がどんな害をおよぼそうと、善人のおよぼす害は、もっとも害のある害である。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)


2018年10月28日日曜日

あたった女の差

いやあきみ、人生経験の差というのか、ま、遠慮していえば、あたった女の差ってのがあるんだろうな、きみはまだ幸せなんだろうよ。

…そのとき中戸川が急に声を細めて、女房といふものはたゞ淫慾の動物だよ、毎晩幾度も要求されるのでとてもさうは身体がつゞかないよ、すると牧野信一が我が意を得たりとカラ〳〵と笑ひ、同感だ、うちの女房もさうなんだ、――とみゑさん、ごめんなさい、私はあんたを辱めてゐるのではないのです。どうして私があなたを辱め得ませうか。あなたは病みつかれ、然し、肉慾のかたまりで、遊びがいのちの火であつた。その悲しいいのちを正しい言葉で表した。遊びたはむれる肉体は、あなたのみではありません。あらゆる人間が、あらゆる人間の肉体が、又、魂が、さうなのです。あらゆる人間が遊んでゐます。そしてナマ半可な悟り方だの憎み方だのしてゐます。あなたはいのちを賭けたゞけだ。それにしても、あなたは世界にいくつもないなんと美しい言葉を生みだしたのだらう。(坂口安吾「蟹の泡」1946年)





宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……

社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。……

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアcamille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)





2018年10月27日土曜日

ネットという知的退行装置

どう思いますかだって? なんとかさんという精神科医の超自我擁護の記事を。

読んでみたけどね、--いやあとってもスバラシイよ、どうスバラシイかは、シツレイにあたるから言わないでおくが。

(そもそもこういうこと書くと「お前はどうなんだ、エラッソウに!」と言われちまうに決まってんだから、ま、話半分で聞いといてほしいけどね)

最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。(『闘争のエチカ』蓮實重彦)

蓮實がこういったのは80年代だ。ネット全盛時代の現在なら、いっそうそうだよ。多摩川の二軍選手だったら、まだすごーくマシ。

要は知的階級というものは必ずあるので、蓮實は、フローベール研究にかんして、世界に真の専門家といえるのは、現在、5人程度しかいないということを言っていたが、これはあらゆる専門分野においてはほぼ当てはまる筈。




だいたい現在日本言論界で一流なんているんだろうか、すごく甘く見積もっても、二流、三流のヤツしかいないよ。たとえば若手のアズマとかチバとかコクブンとかって、プロ下流でしかないね。

ま、ネット上におけるリツイートやらファボ、ハテブ等ってのは、草野球や小学生ソフトボール、運動音痴(知的音痴)によって支えられているので、多摩川野球だってスバラシイと感じられる現象があるわけだけど。

蓮實は2010年の浅田との対談で、レスポンスを求める書き方は「批評の死」だと言っているけど、これは穏やかに言えば、浅田彰が最近のインタヴューで言ってることだ。

ネット社会の問題⋯⋯⋯。横のつながりが容易になったが、SNS上で「いいね!」数を稼ぐことが重要になった。人気や売り上げだけを価値とする資本主義の論理に重なります。他方、一部エリートにしか評価されない突出した作品や、大衆のクレームを招きかねないラディカルな批評は片隅に追いやられる。仲良しのコミュニケーションが重視され、自分と合わない人はすぐに排除するんですね。 (「逃走論」、ネット社会でも有効か 浅田彰さんに聞く、2018年1月7日朝日新聞

まずはこういうことなんだな。で、ネットだけでなく書物でも、それなりのプロでさえ人気を稼ぐために、トンデモ凡庸なことをやっちゃう場合がある。たとえば超訳ニーチェ、超訳フロイトのたぐい。啓蒙書のたぐいもほとんどそう。金を稼ぎたいのか有名になりたいのかのどちらかの力が支配している。ま、ようするにウケ狙いだな。

最も不幸なことは、人がネットの人気に溺れると、それなりのプロでももはや真に問うことをしなくなる。

こうやって人は知的退行していくのさ、中井久夫は21世紀は知的退行の時代と言っているが、ネットはこれにかぎりなく大きく「貢献」しているよ。

そもそもボクだって物理学やら生物学などの領野だったら、高校野球発言でも感嘆しちゃう場合が多いわけでね。で、それでおおむねすましちゃんだな。

なにはともあれ、よく読まれている記事や書物とは(ほとんどの場合)知的下層民向けに記されている書きものだよ

次のような姿勢はほとんどの書き手において、もはや完全に喪われてしまっている。

人が私に同意するときはいつも、私は自分が間違っているに違いないと感じる。Whenever people agree with me I always feel I must be wrong. (オスカー・ワイルド)
人が二十年もかかって考えたことのすべてを、それについて二つ三つのことばを聞くだけで、一日でわかると思いこむ人々、しかも鋭くすばやい人であればあるほど誤りやすく、真理をとらえそこねることが多いと思われる。(デカルト『方法序説』)
フランスにブルバキという構造主義数学者集団があった。この匿名集団の内密の規約は、発表が同人にただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退くというものであった。出版と同時に絶賛される著者には、時にこの自戒が必要であろう。(中井久夫「書評の書評」)


それ以外にも、ある発言が好評を博するのは、その発言内容が「優れている」のではなく、その「説話論的な形態」による場合が多いってのは、やっぱりキモにめいじていたほうがいいんじゃないだろうかね。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』) 


ここで蓮實が言っていること以外にも、人気が高い「説話論的な形態」には、たとえば次の要素だってある。

批評は、何一つ新しい使命をもたらさない作家を、彼に先立った流派にたいする彼の横柄な口調、誇示的な軽蔑のゆえに、予言者として、祀りあげる。批評のこのような錯誤は、常習となっている(プルースト『見出された時』)

で、こう記したからって、草野球をバカにしてるわけじゃないからな。愛らしくイキのいい女の子が草野球してる姿なんて、いくらかボクの詳しい分野だって、時と場合によって「惚れ惚れ」しちゃうときがあるさ。

ある日、海岸へ散歩に行くと、砂浜の手前の空地で、喚声がきこえ、近づいて見ると、十人あまりの若い男女があつまって野球をやっていた。いや、若いといったが、彼等の年恰好も身分も職業も僕には分からなかった。わかるのは、彼等が何の屈託もなしにボール遊びをやっているということだけだ。なかで一人、派手な横縞のセーターを着た女の動きが目についた。内野か外野か、とにかく彼女は野手なのだが、球が上るたびに、両手を拡げて誰よりも早くその落下点に駆けて行く。

「オーライ、オーライ」

喚声のなかから、彼女の声だけが際立って高くきこえた。秋の日の傾きかける海べりで、そんな光景を眺めながら僕は、なにか現実の中で夢を見ている心持だった。――これがあの長い間、待ちつづけてきた“平和”というものなのだろうか。それともやっぱり、おれは幻影を見ているだけなのだろうか。(安岡章太郎『僕の昭和史Ⅱ』)


さらに言えば、人は、共感するから同一化するんじゃないことだな。場合によっては名の知れた作家や学者のなかに凡庸さ(おバカ)の徴を見出しただけで、SNS村では集団的に共感しちゃうことだってあるのさ。これが日本的「絆」の第一の意味だよ。

(自我が同一化のさいの或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。⋯⋯そして、同情(共感)は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)




2018年10月26日金曜日

人生の親戚としてのコンスタンティン・ブランクーシ

いやあボクは主に「無意識」をめぐっているわけでね、「アタシはそうは思わない」なんて言われてもさ、当たり前だよ、そんなこと。

もっとも無意識にも「抑圧された無意識 Verdrängten Unbewußt」と「抑圧されていない無意識 nicht verdrängtes Ubw 」(フロイト『自我とエス』)があって、だいたいの人は前者しか把握していないから厄介なんだけど、ボクが主に記述しているのは「抑圧されていない」身体の無意識。

私は私の身体で話している。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973)

つまり次の図の右側が「身体による無意識」(抑圧されていない無意識)だよ(左が「言語による無意識」(抑圧された無意識)。





ようするに冥界機械の話さ。

女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。(Camille Paglia “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”, 2018)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
魂とは肉体のなかにある何ものかの名にすぎない。Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.

わたしの兄弟よ、君の思想と感受性の背後に、一個の強力な支配者、知られていない賢者がいる。ーーその名が「本来のおのれ」である。君の肉体のなかに、かれが住んでいる。君の肉体がかれである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「肉体の軽侮者」)

女性の場合はことさら、冥界機械をなだめないとダメなんじゃないだろうか? ボクは男だから実感としてはよくわからないけど、たとえば子宮とオチンチンでは冥界度に格段の差がある気がするな。

古来からこう言われているわけだし。

性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である。(ティレシアス)
性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)
われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは…かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス・イリウス・プロクルス)とある皇后(クラディウス帝の妃メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ『エセー』)

ようするに現代の「過激派フェミニスト」カミール・パーリアの言ってる通りだと思っているね。もちろん例外はあるんだろうけどさ。

⋯⋯⋯⋯

幸枝さんがあらためて私に話したのは、もうみんなが知ってることです。私たちは、それを糾弾しもしたわけですが、幸枝さんの側からの念入りな話を聞いて思ったのは、こんなふうだったならば、事態があれだけ険悪化する前に、手のうちようもあったんじゃないか、ということ。その気持が、私の主題、「性欲の処理」になったわけです。

幸枝さんが、「集会所」に引き起こした厄介事。それは彼女がテューター・小父さんに感情的な傾斜を深めたことです。ついには寝室に忍び込むようになった、というのがクライマックスでした。ことを荒だてたくなかったから、なだめようとして関係したと、テューター・小父さんは弁明したのでしたが、かれが幾度も幸枝さんの要求に応えたことから、問題はさらに厄介となったのです。幸枝さんはテューター・小父さんの配偶者になるといいだし、「集会所」での権力を確保しようとしました。……

幸枝さんの、電車のなかでの打ち明け話…幸枝さんは、「集会所」に来る前、ボーイ・フレンドと肉体関係がありました。両方の家族に干渉され、関係が行きづまったこともあって、「集会所」に来ることになったそうです。そしテューター・小父さんの「説教」に救われ、正式に会員となったわけですから、彼女がテューター・小父さんを敬愛していたことは確かなのです。

けれども、はじめから肉体関係を結ぼうという気持があったのではなかった。むしろ男性としては魅力のない、ずっと年上の小父さんという感じだった。…ところが「集会所」では、若い男性とのつきあいがないわけですね。…

そのようにして日をすごすうちに、幸枝さんは、頭のなかの考えというより、腰の奥の力に押しまくられることになりました。とうとうある晩、---もうだめだ、これ以上ガマンできない!と思ったそうです。そしてテューター・小父さんの寝室へしのび込んだのでした。いったん関係が生じてみると、テューター・小父さんにこれまでとちがう魅かれ方をするようになった。仲間がテューター・小父さんに親しげにふるまいをすると、美代ちゃんに対してすら、嫉妬して邪慳なことをいってしまう。それは私たちが周りで見て来た通りね。

私は幸枝さんの話に、大切なことがふくまれていると思いました。私たちにも起こりかねないことですから。つまり頭のなかの考えより、腰の奥の力に押しまくられる、ということね。その結果、暴発して、誰かが新たにテューター・小父さんの寝室に押しかけないともかぎりません。さらにテューター・小父さんの方で、その気になるということがあるかも知れないわけです(笑)。

そこでどうすればいいか? はじめにいったとおり、身も蓋もない話ですが、腰の奥の力を圧力抜きしなければなりません。そのためには、マスターベイションが手軽です。圧力抜きというのは、ニューヨークのハイスクールで使われていた言葉の訳ですけれど…… マスターベイションについて、倫理的な反感をいだくよう私たちは教育されていますが、聖書で批判的に描かれているのは、男性の場合です。子孫繁栄のための精子を、地面に洩らしたということが、批判の眼目なのであって、女性の私たちにはあてはまりません。
こうした考えに立って、ということですが、私がことごとしく「性欲の処理」というような「説教」をするのは、「集会所」の生活の仕方を考えてのことです。個室にひとりで眠るというのじゃなく、二段ベッドの暮しですから、腰の奥の力を圧力抜きするとして、他の人たちの耳を気にかけるのは不健康だと思うからです。「集会所」の活動、とくに「瞑想」によく集中できるように、ムダな神経を使わないことにしたい。周囲を気にかけないで、必要なら自由にマスターベーションをすることをすすめたい。腰の奥の力に押しまくられて、---もうだめだ、これ以上はガマンできない! と自分にいいながら、ベッドから這い出すようなことはないようにしたい。

なんとも心が苦しい時、いくらかでもそれをまぎらすためにマスターベーションをするならば、それはアルコール飲料に走るよりも健全だと思います。マスターベーション依存症という話はきいたことがありません。動物園の猿の話は聞いたように思うけど、すくなくとも人間でいうかぎり…… 圧力抜きをすれば、また圧力が増してくるまでは、しばらくなりと「瞑想」に集中できるでしょう。(大江健三郎『人生の親戚』)


最近は発展して コンスタンティン・ブランクーシ並の美をもった「腰の奥の力の圧力抜き」装置があるみたいだから、女性の常備品にすべきじゃないでしょうか。すくなくともいったんクセがついたあとにはさ。飾っとくだけでも美しいよ。








お手てをつないだ後

ゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』(1990)における「お手てをつないだ後」の続きが、8年後の『(複数の)映画史4A』(1998)に現れる。





これは避けがたい仕儀である。

アウグスティヌスという、五世紀の偉大な学者が、性欲によって、人間の罪は伝わると言ったが、僕はこの言葉に非常な興味をもっている。

性欲は人間の愛の根源であるとともに、またそれに影を投げかける。それがなけれぱ、すなわち肉交がなければ、愛はどうしても最後の一物を欠くという意識をまぬがれがたいと同時に、それは同時に愛に対して致命的になる要素をもっている。肉体のことなぞ何でもないという人のことを僕は信じない。それはなぜか、肉交は二人の間の愛がどういう性質のものであったかを究極的な形で暴露してしまうからだ。つまりその意味は、肉交には、人間の精神に様々な態度があるだけそれだけ多様な形態があり、しかもそれが精神におけるように様々な解釈の余地がなく、端的にあらわれてしまうからだ。

肉交は一つの端的な表現だ。それは愛の証しにもなるし、その裏切りにもなる。二つの性の和合にもなるし、一つの性による他の性の征服にもなる。もちろん僕は簡単な言葉を用いているが、和合の形をとる征服もあるし、征服の形をとる和合もある。要はその本質の如何にある。そうするとやはり根本は態度の問題になる。肉の保証を求めないほど完全な信頼があるとすれば、アンジェリコの画はそれを表わしているだろう。「精神」というものがそこに表われている。精神というものがあるとすれば、そういうものでしかありえない。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』)

お手てをつなぐ 5年前(Je vous salue, Marie ,1985年)はこうであった。






愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(⋯⋯)

我々は、己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛している aimons l'autreのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)



愛Liebeは欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch であるが、その後、拡大された自我に合体された対象へと移行し、さらには自我のほうから快源泉 Lustquellen となるような対象を求める運動の努力によって表現されることになる。愛はのちの性欲動 Sexualtriebe の活動と密接に結びついており、性欲動の統合が完成すると性的努力Sexualstrebung の全体と一致するようになる。

愛するということの前段階は、暫定的には性的目標 Sexualziele としてあらわれるが、一方、性欲動のほうも複雑な発達経過をたどる。すなわち、その発達の最初に認められるのが、合体 Einverleiben ないし「可愛くて食べてしまいたいということ Fressen」である。これも一種の愛であり、対象の分離存在を止揚することと一致し、アンビヴァレンツと命名されうるものである。より高度の、前性器的なサディズム的肛門体制の段階では、対象にたいする努力は、対象への加害または対象の抹殺といった、手段をえらばぬ占有衝迫Bemächtigungsdranges という形で登場する。愛のこのような形式とその前段階は、憎しみ Haß の対象にたいして、愛がとる態度とほんど区別しがたいものである。そして性器的体制の出現とともに、はじめて愛は、憎しみの対立物になる。(フロイト『欲動とその運命』1915年)




もっともラカンはこうも言っている。

人が愛するとき、それは性とは全く関係がない。 quand on aime, il ne s'agit pas de sexe(ラカン、S20, December 19, 1972)

この時期のラカンはリルケ的な「見返りのない愛」を思考していた時期である。それは、自己抹消的な「神への愛の絶頂 le comble de l'amour de Dieu」をめぐる(Milano. LA PSICOANALISI NELLA SUA REFERENZA AL RAPPORTO SESSUALE、1973)。

われわれ凡人には関係のない話であり、たぶんラカン自身だって関係がない・・・だから引用は差し控えておこう。
とはいえここで上に引用した(リルケの翻訳者でもあった)森有正の《肉の保証を求めないほど完全な信頼があるとすれば、アンジェリコの画はそれを表わしているだろう》を想い出すぐらいはしておこう(わたくしは高校時代にちょっとイカレタのだが)。
森有正の言っているフラ・アンジェリコの画とは「Noli me tangere  われに触れるなかれ」である。


「お手てをつなぐ」なんてのは肉欲への必然的な道である。1962年のラカンが言った《己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質でもって他者を愛している》に過ぎないのである。

Robert Bresson、Au hasard Balthazar、1966




2018年10月25日木曜日

女は何を欲するのか Was will das Weib?




Ernest Jonesの”Life and Work “(1953) によれば、フロイトが Marie Bonaparte に言ったとされる「女は何を本当に欲するのか Was will eine Frau eigentlich?」ーーラカンは「女は何を欲するのか Was will das Weib? 」と引用しているーーの独原文は、こうらしい。

Die große Frage, die ich trotz meines dreißigjährigen Studiums der weiblichen Seele nicht zu beantworten vermag, lautet: "Was will eine Frau eigentlich?"

三十年ものあいだ、女性の魂を探求したにもかかわらず、私が答えることができない大きな謎とは、「女は何を本当に欲するのか Was will eine Frau eigentlich?」である。

いやあ、でもこうでいいんじゃないか?

女が欲するものは、神もまた欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.(アルフレッド・ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838年)

で、神が欲するものはやっぱりなんだかわからない。

男が欲するものはよく知られている。女とヤリタイのである・・・

ところが男はいったんひとりの女とヤルと別の女とヤリたくなる。

したがって、

女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)

となる。あるいは、

女性の好意は、段々に、ゆっくりとふり撒くことをおすすめする。プラトンは、いかなる種類の愛においても、受け身に廻る者はあっさりと性急に降参してはならないと言っている。そんなに軽率に、すべてを投げ出して降参するのは、がつがつしていることのしるしで、これはあらゆる技巧をこらして隠さなければならない。女性が愛情をふり撒くのに、秩序と節度を守るならば、一段とうまくわれわれの欲望をだまし、自分らの欲望を隠すことができる。いつもわれわれの前から逃げるのがよい。捕まえてもらいたい女性でもそうするのがよい。スキュティア族のように、逃げることによってかえってわれわれを打ち負かすのである。(モンテーニュ『エセー』)


さらには、

ファウスト

もし、美しいお嬢さん schönes Fräulein。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。


マルガレエテ

わたくしはお嬢さんFräulein ではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。


ファウスト

途方もない好い女だ。Beim Himmel, dieses Kind ist schön!
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。
それからあの手短に撥ね附けた処が、 溜まらなく嬉しいのだ。


(メフィストフェレス登場。)

おい。あの女 Dirne を己の手に入れてくれ。
(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)


女とは、「白い障子に影をうつして一人廊下を通る」ときが最も美しいのである。

谿を隔てた 山の旅籠の私の部屋
その窻の鳥籠に 窻掛けの裾がかかつてゐる
白い障子に影をうつして 女が一人廊下を通る
ああこのやうな日であつた 梶井君 君と田舍で暮したのも

(三好達治 「檸檬」の著者 )

もっとも女性は、いつまでも「少しはつんけん」して「白い障子に影をうつし」続けるわけにはいられない場合もあるだろう。

 とはいえ男はいったんヤッテしまうと、次のことがおおむねわかる。

女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』)


したがって、《世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし》(太田南畝)となる。

とはいえ、こうでもある。

かつて「ジンプリチシムス Simplicissimus」(ウィーンの風刺新聞)に載った、女についての皮肉な見解がある。一方の男が、女性の欠点と厄介な性質 die Schwächen und Schwierigkeiten des schöneren Geschlechts について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ Die Frau ist aber doch das Beste, was wir in der Art haben』。(フロイト 『素人分析の問題』1927年 後書)

つまりは、《世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい》(太田南畝)である。

これらは、まともな作家ならすでに何度もくり返していることである。

女と猫は、呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る(メリメ『カルメン』)
媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。(九鬼周造『いきの構造』)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。

 私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。

 ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい 』)
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)
三という数字のルールを守らなければならない。一人の女と短い期間に会ってもいいが、その場合はけっして三回を越えてはだめだ。あるいはその女と長年つき合ってもいいが、その場合の条件は一回会ったら少なくとも三週間は間をおかなければならない。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

いままで記したこととはいくらか反するが、とくに次のようなタイプの男には細心の用心が必要である。

誘惑者というものは、相手を手に入れること自体よりも、手に入れるまでのプロセスを愉しむものである。従って、その過程が複雑になればなるほど、その愉しみも大きくなる。場合によっては、わざとそのプロセスを複雑にすることさえある。(『危険な関係』の)ヴァルモンもその例外ではない。(吉行淳之介「遊戯的恋愛」)

特に若き「旺盛さ」を喪った初老のエロ事師などは最も危険なタイプです。

ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人についてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。(大江健三郎『人生の親戚』)


 女性のみなさん、オキヲツケを!


ーーいやあシツレイしました、昭和男の戯言です。いまは平成どころか新しい年号の若者たちが生まれる時代です。こんな心配はきっとありません。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? ")


《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

《女が男の徳をもっているなら、逃げだすがよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす。》(ニーチェ「箴言と矢」28番『偶像の黄昏』)


何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータ Vagina dentata の神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998)


西脇の次の詩句は実に深淵であり、あらゆる読み方が可能である・・・

けやきの木の小路を
よこぎる女のひとの
またのはこびの
青白い
終りを

(⋯⋯)
路ばたにマンダラゲが咲く

ーー西脇順三郎『禮記』



2018年10月24日水曜日

穴Ⱥと「穴のヴェールとしての愛の対象」

【aとi(a)】
愛自体は「見せかけ semblant」 に宛てられる(見せかけに呼びかける L'amour lui-même s'adresse du semblant)。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)




問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、「欲望の原因 cause du désir」である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることだできるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)
女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](Miller 1997、Des semblants dans la relation entre les sexes)
現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S.18、20 Janvier 1971)


⋯⋯⋯⋯

【イマージュと無 rien】
確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)
イマージュは対象a(欲望の原因としての対象a) を隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)





・象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage

・現実界は書かれることを止めない le Réel ne cesse pas de s'écrire 。(S25、10 Janvier 1978)
症状(原症状=サントーム sinthome[S(Ⱥ)])は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)
無、たぶん?  いや、ーーたぶん無でありながら、無ではないもの
Rien, peut-être ? non pas – peut-être rien, mais pas rien(ラカン、S11, 12 Février 1964)

ーーBarbara Cassin による超訳、《無ではなく、無以下のもの Pas rien, mais moins que rien (Not nothing, but less than nothing)》

現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない  Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu(Lacan, S23, 16 Mars 1976)


⋯⋯⋯⋯

【モノとȺ】
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


【 (- φ) と(- J)とモノ】
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
不気味なもの Unheimlich とは、…私が(-φ)を置いた場に現れる。(-φ)とは、⋯欠如のイマージュ image du manqueではない。…私は(-φ)を、欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre 1962)
欠如の欠如 manque du manque が現実界を生みだす。(Lacan、AE573、1976)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


【原対象aと穴Ⱥ】
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
穴としての対象a [En tant que trou, l'objet a] (MILLER, J.-A., La Cause du désir, no 94, navarin éditeurs, p. 21)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象 objets qui viennent du corps et qui sont perdus pour le corps を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象 premiers objets を反映する諸対象 objets を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a (objets a primordiaux )の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)
喪われたものune perteとしての「穴 trou」とは、自然に喪われたもの une perte naturelleである。(Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)



【LȺ Mère (斜線を引かれた母なる大他者)と享楽の空胞 vacuole de la jouissance】
僕は海にむかって歩いている。僕自身の中の海にむかって歩いている。(中上健次『海へ』)
海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。(三好達治「郷愁」)





(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959ーーモノと対象a
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)

※なおここまで二つ示したボロメオ結びの変奏図は、セミネール20における「享楽の図」とボロメオを結合させることによって書き直したものである。


「享楽の図」再考



【去勢 (- φ) と廃墟になった享楽(- J)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)


【穴と見せかけ】
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)


MILLER - 09/03/2011

ーー無意識の主体 ICS と享楽 J とのあいだの a は、穴Ⱥーー(- φ) ,(- J)ーーとしての aでもあると捉えられないでもないが、基本的には穴埋めとしての a である(参照:対象aの三義性)。

-φの上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)



そもそもS(Ⱥ)自体が、最初の穴埋めのシニフィアン(穴の境界表象)である。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

このコンテクストにおいては、ミレールは次のように書いている。



 ーーこのあたりは対象aの三意義性を把握していないと、何のことだが分からなくなる。

実際、主流ラカン派の2018年の会議においても、S(Ⱥ)かつ「文字対象a[ la lettre petit a]」に相当する「骨象 L'objet (a),  « osbjet ».が、現実界的対象a として主要議題になっている(L'objet (a), semblant et « osbjet ».)。

骨(骨象)、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]( Lacan, S23、11 Mai 1976)

そもそもラカン注釈の第一人者ミレール自身が彷徨っているという言い方さえでき、ここでわたくしが記していることもあくまで現時点での「想定」である。

ラカンの「大他者の大他者はない」というテーゼは、ラカン理論を支えるものは何もないということでもある。ラカン自身、最晩年には想像界の復権と捉えられないでもないことを言っている。

人は、現実界のイデアを自ら得るために、想像界を使う On recourt donc à l'imaginaire pour se faire une idée du réel 。あなた方は、« イデアを自ら得る se faire une idée »と書かねばならない。私は、《球面 sphère 》としての想像界と書く。想像界が意味するものを明瞭に理解するためには、こうせねばならない。(ラカン、S24 16 Novembre 1976)

あるいはセミネール23においては、真の穴 Vrai Trou としてS(Ⱥ)が位置する場ーー想像界と現実界との重なり箇所ーーを指し示している。




わたくしがここで記しているのは、S(Ⱥ)ーー穴のシニフィアンーーと穴Ⱥとのあいだの識別だが、これが必ずしも正しいわけではない。すくなくともS(Ⱥ)とȺとのあいだには遡及的な関係がある。S(Ⱥ)があってのȺなのである。S(Ⱥ)の最も簡潔な定義として、わたくしは母なる大他者による「身体の上への刻印」という定義をとる。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」(=原抑圧)あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)


さて元に戻る。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の現実界)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)



ーー固着とは原抑圧のことである。

ロイトは固着ーーリビドーの固着、欲動の固着ーーを抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 ーーS(Ⱥ)と「S2なきS1」
ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序のなかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012ーー欠如と穴(簡略版)


⋯⋯⋯⋯

【血のネプチューンとメドゥーサの首】

愛するものを歌うのはよい。しかしああ、あの底ふかくかくれ棲む
罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別のことだ。


ああ、いかに奇怪なものをしたたらしながらその巨大な頭をもたげたことだろう、
夜を呼び起こして果てしない擾乱へと駆り立てながら
おお、血のネプチューン、恐ろしいその大戟、
おお、ねじくれた法螺貝を吹きどよもす胸底からの暗い息吹よ。

聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを。Horch, wie die Nacht sich muldet und höhlt (リルケ、ドゥイノ、第三の悲歌 手塚富雄訳)

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)



私の恐ろしい女主人とメドゥーサの首】
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
ツァラトゥストラノート:「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.[Winter 1884 — 85]


⋯⋯⋯⋯


【根源的な愛の対象】
人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)
母との同一化は、母との結びつきの代替となりうる。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年ーー女性一般と男性の同性愛者における「母との同一化」
女児の人形遊び Spieles mit Puppen、これは女性性 Weiblichkeit の表現ではない。人形遊びとは、母との同一化 Mutteridentifizierung によって受動性を能動性に代替する Ersetzung der Passivität durch Aktivität 意図を持っている。女児は母を演じているのである spielte die Mutter。そして人形は彼女自身である Puppe war sie selbst(ナルシシズム)。(フロイト『続・精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」1933年)
我々はフロイトの次の仮説から始める。
・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。
我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(ジャック=アラン・ミレール、愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour、1992)


 欲望の対象 objet du désir と欲望の原因 cause du désir  】
ラカンのセミネールⅩ「不安」にて興味深いのは、愛が、享楽と欲望とのあいだの仲介 médiateurだとされることである。愛は「欲望の原因 cause du désir」としての対象a を置換あるいは歪曲してdéplace ou falsifie petit a 、「欲望の目標 objet-visé」に移行させる。愛は、対象aをアガルマ agalma にするのである。(Introduction à la lecture du Séminaire de L'angoisse de Jacques Lacan、Jacques-Alain Miller、2004)



幻想の役割において決定的なことは、「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の対象-原因 objet cause du désir」(欲望の原因としての対象a)とのあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだ(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。「欲望の対象 objet du désir」とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームで言うとすれば、私が欲望する人のこと。逆に「欲望の対象-原因 objet cause du désir」(欲望の原因としての対象)とは、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは「欲望の対象-原因 objet cause du désir」が何なのか気づいてさえいない。――そう、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについて。

「欲望の対象 objet du désir」と「欲望の対象-原因 objet cause du désir」の相違というのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。「欲望の原因としての対象 objet cause du désir」というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これは、フロイトがすでに「唯一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)

欲望「と/あるいは」欲動が循環する空虚としての対象a、そしてこの空虚を埋め合わせる魅惑要素としての対象aがある。…人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」、アガルマが覆っている空虚を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

⋯⋯⋯⋯

【愛する理由は「欲望の原因としての対象a」にある】

私はあなたを愛する。だが私は、あなたの中のなにかあなた以上のもの、〈対象a〉(欲望の原因)を愛する。だからこそ私はあなたを八つ裂きにする。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.(ラカン、S11、24 Juin 1964)
幸いにしてわたしには、八つ裂き zerreissen にされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くzerreisst のだ …… わたしは、そういう愛らしい狂女〔メナーデ Mänaden〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……(ニーチェ『この人を見よ』)
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている》(プルースト 「見出された時」)。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。

我々はこの道に入り込む。我々は《真理vérité》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルースト とシーニュ』)
われわれの愛は、われわれが愛するひとたちによっても、愛しているときの、たちまちに消え去る状態によっても展開されるものではない。Nos amours ne s'expliquent pas par ceux que nous aimons, ni par nos états périssables au moment où nous sommes amoureux. (……)

われわれの愛には、根源的な差異 différence originelle が支配している。それは恐らく母のイメージ image de Mère であり、女性、ヴァントゥイユ嬢にとっては父のイメージである。しかしもっと深いところでは、根源的な差異とはわれわれの経験を越えた遠いイメージ、われわれを超越するテーマ、一種の原型である。それはわれわれが愛するひとたち、そしてわれわれが愛するただひとりのひとにさえ、分散するにはあまりにも豊かなイメージであり、イデアあるいは本質である。しかしそれはまたわれわれの連続する愛の中で、また孤立して捉えられたそれぞれのわれわれの愛の中で反復されるものである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

⋯⋯⋯⋯


【母と引力(ブラックホール)】

母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。(⋯⋯)

 ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)




私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même .(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung ⋯⋯⋯フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、 03 Juin 1964 )
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、Colette Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)



アデーラ

◆Bernarda Fink; "Tres canciones populares españolas"; Joaquín Rodrigo





◆Montserrat CABALLÉ. Canciones amatorias. Joaquin Rodrigo.





◆Joaquin Rodrigo/ Cuatro madrigales amatorios/ Bernarda Fink




ボクは、ベルナルダ・フィンクが大好きなんだけど、モンセラート・カバリェには負けてるっていうんだろな、人は。カバリェはバルセロナ出身で、ロドリーゴの本場だから、ま、仕方がないけど。

いやあでもじつに美しい。ボクのベルナルダは。オッカサンみたいだ。





おかあさん
あなたは三十六年前 五十歳で亡くなった
あなたは いまも五十歳
そのうちどんどん若くなり
妹でもなくて娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね






2018年10月23日火曜日

以前よりマシだったらいいさ

何度やってもダメだったからって、どうだっていうんだい? もう一度やって、もう一度ダメになればいいじゃないか。以前よりマシだったらいいさ。Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.--(ベケット、Samuel Beckett "Worstward Ho" 1983)





2018年10月22日月曜日

失語症シャーマンとしての譫妄ラカン

いやあ、まだお怒りがおさまらないようだな。

これだったらどうでしょう?

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳、原著1983年)

⋯⋯⋯⋯

以下は訳さないでそのまま掲げとくよ、グーグル翻訳でもたぶんいけるカンタンな英語だからな。

◆Jacques Lacan, Past and Present: A Dialogue by Alain Badiou、 Elisabeth Roudinesco 2012

E.R.: I find the final step of his journey to be instructive. During his late seminars, Lacan slipped into a certain speculative delirium: he insists on tying and untying his knots.The mathematicians he worked with, Pierre Soury and Michel Thomé and also Jean-Michel Vappereau, took part in this adventure that left multiple traces: colored drawings with rings and coordinates.




In Lacan's work, this adventure coincides with the progressive disappearance of speech and saying. At the end of life, Lacan became not aphasic, but almost mute, all the while generating neologisms ad infinitum. It was fascinating to see this man undoing his own thought in public. The gesture is unheard of, deeply subversive, like a final provocation, a final blow leveled at his supposed theoretical omnipotence.

Lacan had it out with his aporias and sunk into despair: he was scared of and defied death at the same time. Personally, I do not think that he can be imitated on this point, as certain of his epigones have done. Have the extreme formalizations and their impasses offered anything to analytic practice?Let's say that I do not think so, since they above all consisted in dissolving the time of analytic sessions in the name of a cruel and brutal formalism that I do not share and that tends to dehumanize the cure. But let's leave the question open. Thatthe late Lacan was heroic, even in his final anguish, I do not deny it, quite to the contrary. But I do not think that this final quest bears within it any renewal of the clinic.


⋯⋯⋯⋯


ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用 abus de métaphore だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない  il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel から。私が言っていることの本質は、性関係はない il n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])

あなた方は気づいていないのだろうか、男性と女性とのあいだのヒト族における性的現実 réalité sexuelle には、どんな本能的関係 rapport instinctuel もないことを。

どの男もどの女を満足させるに充分ではない tout homme n'est pas apte à satisfaire toute femme? …男たちはすべての女たちを満足させはしない ils ne satisfont pas toutes les femelles,。動物の世界だけだ、それがあるのは mais il s'agit seulement d'aptitude。(ラカン、ジュネーヴ、1975 Jacques Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme )

⋯⋯⋯⋯

※付記

ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ 『笑いと忘却の書』)
万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliotーー中井久夫による超訳)

脳軟化症男

偉大なる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である。(Camille Paglia "No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality", 1994)
男たちは性的流刑の身であることを知っている。彼らは満足を求めて彷徨っている、あこがれつつ軽蔑しつつ決して満たされてない。そこには女たちが羨望するようなものは何もない。(Camille Paglia (2018). “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”)

…………


さっそくお叱りをうけちゃった、ごめんな、

女というものを夢見るのは、男だけではない。女たちも、女というものを夢見る。実際、女たちは男のことなど夢見ていない。夢見ているのは、男に愛される「この私のなかの女」である。つまり女たちが考えているのは、常に「女というもの La Femme」である。

ーーなんてふと口が滑って書いちゃって。

ボクの愛する「フェミニスト」カミール・パーリアの言う通りだよ。

ラカンなんか読んだら、あんたたちを脳軟化症にするわ! if you read Lacan…Your brain turns to pudding! (カミール・パーリア、Crisis In The American Universitiesby Camille Paglia、1992)

ーーボクはすこしはラカンやラカン派を読んだので、脳軟化症気味なんだよ。

ラカン、デリダ、フーコーは、弱々しく不安げなアカデミックパーソナリティの完璧な代言者である。彼らは、言葉の形式に囚われ周囲の事情に絶え間なく打ち負かされている。この三人組は、憤懣、疎外、おろおろした受動性と怠惰という標準的プロフェッショナル状態に対して自己免罪的広汎な釈明を提供している。(Camille Paglia "Junk Bonds and Corporate Raiders: Academe in the Hour of the Wolf"、1991)

デリダやフーコーはまともに読んでないから、重度脳軟化症ってわけじゃないんじゃないかと「錯覚」してるところはあるけどさ。

ところでカミール・パーリアはフロイトファンではあるんだな。

フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。Trying to build a sex theory without studying Freud, women have made nothing but mud pies(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)

ーー《フロイトはニーチェの後継者なのよ》(パーリア、 性のペルソナ)

ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。
Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden." (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung)
ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925年)

ああ、アタシのニーチェ!

ディオニュソス的密儀のうちで、ディオニュソス的状態の心裡のうちではじめて、古代ギリシア的本能の根本事実はーーその「生への意志」は、おのれをつつまず語る。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生であり、生の永遠回帰である。過去において約束され清められた未来である。死と転変を越えた生への勝ちほこれる肯定である。生殖による、性の密儀による総体的永世としての真の生である。このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』)


ああ、アタシのディオニュソス!

女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性とか論理といったものは、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたのだ。……

西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)


人生はエロしかないわ!

女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。(Camille Paglia “Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism”, 2018)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
フェミニズムは、宿命の女を神話的誹謗、陳腐なクリシェとして片づけようとしてきた。だが宿命の女は、太古からの永遠なる(女による)性的領野のコントロールを表現している。宿命の女の亡霊は、男たちの女とのすべての関係に忍びよっている。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture: New Essays", 1992)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)


ああ、女という偉大なるパックリ機械!

宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……

社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。……

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアcamille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

ーーで、許して頂けるでしょうか?


2018年10月21日日曜日

女というものは、人間にとっての夢である

ジジェクの《女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(LESS THAN NOTHING, 2012)とは、ラカン自身が言っているのだな(ジジェクは参照なしで記しているが)。

Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme のテキストは、2017年に初めてーーわたくしの知る限りだがーー、一般公開されている。

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)

“un rêve de l'homme”を「男にとっての夢」ではなく「人間にとっての夢」と訳したのは、以下の文脈に則る。

「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

すなわち、女 というものを夢見るのは、男だけではない。女たちも、女というものを夢見る。実際、女たちは男のことなど夢見ていない。夢見ているのは、男に愛される「この私のなかの女」である。つまり女たちが考えているのは、常に「女というもの La Femme」である。

「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。(ミレール、The Axiom of the Fantasm)

したがって女というものを幻想し、その本質を探ろうとするのは、男女両性にかかわるのである。

女というものは存在しない La femme n’existe pas。われわれはまさにこのことについて夢見る。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめない。(ミレール 、El Piropoベネズエラ講演、1979年)

「女はシニフィアン(表象)の水準では見いだせない」、これが人の生ーーすくなくともエロス的生ーーにおいて、なによりもの核心である。

男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)

両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
実際、男性のシニフィアンはあります。そして、それしかないのです。フロイトも認めています。つまり、リビドーにはただ一つのシンボルがある、それは男性的シンボルで、女性的シニフィアンは喪われたシニフィアンであるということです。ですから、ラカンが「女というものは存在しない la Femme n'existe pas」というとき、彼はまさにフロイディアンなのです。おそらく、フロイト自身の方が完全にはフロイディアンではないのでしょう...(ミレール「もう一人のラカン(D'un autre Lacan)」Another Lacan by Jacques-Alain Miller, 1980)

 ⋯⋯⋯⋯
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)


とはいえ「 女というものは、人間にとっての夢である」したときに、ゲイ(男性の同性愛)はどうなのか、という問いが当然生まれるだろう。

ここでミレールのポリコレ的には問題含みのテキストをも引用しておこう。

問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。

ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、欲望の原因である。それは愛の対象ではない。

愛について語ることだできるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。

この理由で、男性の同性愛の事例について議論することが可能である、男性の同性愛とは「愛」と言えるのかどうかと。他方、女性の同性愛は事態が異なる。というのは、構造的理由で、女性の同性愛は「愛」と呼ばれるに相応しいから。どんな構造的理由か? 手短かに言えば、ひとりの女は、とにかくなんらの形で、他の女にとって大他者の価値をもつ。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)





2018年10月20日土曜日

自閉症的享楽とはヘテロ享楽である

ラカン派で「自閉症的」という語が使われるとき、現代の流行病「自閉症」とは全く関係がない(参照:だれもが自閉症的資質をもっている ) 。仮に何らかの定義の仕方で、その意味内容が重なるところがありえても、基本的な態度としては「全く関係がない」概念として先ず読むべきである。


【女性の享楽としての自閉症的享楽】

社会的つながりの外部にある殆どすべての症状は、自閉症的享楽の担い手である。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé)

社会的つながりの外部にある症状とは、言語秩序(ファルス秩序)の外部にある享楽、ファルス享楽の彼岸にある他の享楽(=身体の享楽、女性の享楽)のことである[参照]。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre (女性の享楽、身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
身体の享楽(女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

このところ何度か引用しているが、ラカンは「自閉症的享楽」という語を一度しか使っていない。それはセミネール10「不安」に於てである。

丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー身体自体の水準において au niveau du corps propre
ーー原ナルシシズム(一次ナルシシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962 )

「身体自体」、「原ナルシシズム」、「自体性愛」、「自閉症的享楽」が等置かれているのに注目しよう。

その前提で、主流ラカン派のボスであるジャック=アラン・ミレールの次の文をまず読まなければならない。

自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

ここでミレールが「一のシニフィアン」、「S2なきS1」等と呼んでいるものは、ラカン概念「一のようなものがある Y a de l’Un」の言い換えであり、これはΣ(サントーム)、S(Ⱥ)ーー大他者のなかの穴のシニフィアンーーのことでもある。

そして現在のラカン派において、これらはフロイトの「欲動の固着(リビドーの固着)」(あるいは「原抑圧」)と等価の概念であることが示されている(参照)。



【享楽自体が自体性愛的である】
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)
きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのは、私が dérive と命名したものについて再び性欲論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)


【自閉的症状(女性の享楽)とは多形倒錯的自体性愛のことである】
フロイトの多形倒錯 perverse polymorpheとは、自らの身体を自体性愛的 auto-érotiqueに享楽することである。…この多形倒錯は、私が「自閉的な症状 symptôme autiste」と呼ぶものの最初のモデルである。自閉的症状とは、他のパートナーを通さない身体の享楽 jouir du corps を示し、人は性感帯の興奮のみに頼る。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール、L'être et l'un、 9/2/2011)

⋯⋯⋯⋯


閑話休題。ここまでは標準的なラカン派において流通する一般的な理解を掲げた。以下は、あだしごとはさておき(閑話休題)である。


【自体性愛とはヘテロ性愛のことである】
フロイトは、幼児が自身の身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…私は、これに不賛成 n'être pas d'accordである。…

自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro. (LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

ーーこの後、ラカンは、症例ハンスをめぐって語り、「自体性愛 autoérotisme」に反対する理由を、「異物(異者étrangère)」という語によって説明している。要するに、上の文に現れる「ヘテロ的 hétéro」とは、「異性の」という意味ではなく、「異物の」という意味である。

フロイトは性的現実を自体性愛的と呼んだ。だがラカンはこの命題に反対した。性的現実は興奮・小さな刺し傷との遭遇に関係する。「遭遇」が意味するのは、自体性愛的ではなく、ヘテロ的 hétéro、異物的 étrangèreである。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
一般的に、幼児のセクシャリティは厳密に自体性愛的だと言われる。だが、私の観点からは、これはフロイトとその幼児性愛の誤った読解である。

…幼児は部分欲動から来る興奮を外的から来る何か、ラカンが文字「a」にて示したものとして経験する。幼児はこの欲動を統御できない。この欲動を、全体としての身体自体に帰するものとして経験することさえできない。唯一、母(母なる大他者)の反応を通してのみ、子どもは、心理的には、自分の身体にアクセス可能なのである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Sexuality in the Formation of the Subject、2005)



【母による「身体の上への刻印」】

《骨(骨象)、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]》( Lacan, S23、11 Mai 1976)

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)

「身体の上への刻印」とは、幼児の欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)という奔馬を飼い馴らすための最初の鞍《母なるシニフィアン signifiant maternel》《原シニフィアン premier signifiant》(ラカン、S5)とほぼ等しい。

「欲動蠢動」用語はフロイトにおいて、たとえば次のように現れる。

愛 Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入するanlangenden欲動興奮(欲動蠢動Triebregungen) を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

ラカンにおいては、次の通り。

欲動蠢動は刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute。(ラカン、S10、14 Novembre 1962)


ラカンが「幼児性愛は自体性愛的ではなくヘテロ的だ」というときの「ヘテロ hétéro」の核心には、フロイト用語「異物」「モノ」としての母による刻印がある。

この刻印は最も典型的かつ代表的には、母の言葉(ララング)の刻印である(参照)。

最晩年のラカンはそのセミネール25「結論する時 le moment de conclure 」で、次のように言ってさえいる。

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。ララングと呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue »(ラカン、S25, 15 Novembre 1977 )

さてまずフロイトにおける「異物」の使い方をひとつだけ掲げよう。

たえず刺激や反応現象を起こしている unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen異物 Fremdkörperとしての症状 (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そしてラカンによるフロイトのモノの定義である(詳細は「モノと対象a」を見よ)。

(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」でもある。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)

ようするに、ヘテロ(異物)の核心は、最も親密な外部にある「母による身体の上への刻印=モノ das Ding」 である。

晩年のラカンの「他の身体の享楽」「他の身体の症状」「異者としての身体」「サントーム(原症状)」等々の表現は、フロイトの「異物」「モノ」の近似概念である。

穴を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

これらの「女」とは、「母としての女の支配」という表現とともに読むことができる(参照:超自我という穴の名)。

(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母 mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)


ラカンにおける原症状(サントーム)の定義は、「身体の出来事」だが、これは殆ど100パーセント、《母女 Mèrefemme》(ミレール)にかかわる身体の出来事なのである。
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)



【多形倒錯の起源としての母なる誘惑者】

上に女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールの文をいくつか掲げたが、そのなかの一つを再掲する。

フロイトの多形倒錯 perverse polymorpheとは、自らの身体を自体性愛的 auto-érotiqueに享楽することである。…この多形倒錯は、私が「自閉的な症状 symptôme autiste」と呼ぶものの最初のモデルである。自閉的症状とは、他のパートナーを通さない身体の享楽 jouir du corps を示し、人は性感帯の興奮のみに頼る。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

ここで、フロイトによる多形倒錯の叙述をひとつ抜き出そう。

誘惑 Verführung の影響の下、幼児が多形倒錯 polymorph pervers になり、あらゆる性的逸脱に導かれうるという事実は教えられるところが多い。

これは、幼児がその素質のなかにこういう資質を備えていることを示している。こうした傾向が実際に現れても、わずかな抵抗しか受けない。その理由は、性的逸脱に対する羞恥や嫌悪や道徳などのような心的堤防 seelischen Dämme が、幼児の年齢に応じて、まだ築かれていないか、もしくはようやく構築の途上にあるに過ぎないからである。

この点で幼児は、例えば同様な多形倒錯の素質 polymorph perverse Veranlagung をもち続けている「教育を受けていない平均的な女 unkultivierte Durchschnittsweib」とまったく同じような状況に置かれている。こういう女は、普通の条件の下ではだいたい性的に正常なままでいることだできるが、熟達した誘惑者 Verführersに導かれると、あらゆる性的倒錯を好むようになり、自分の性的活動のためにこの倒錯をもち続けるようになる。

娼婦 Dirne は、同様な多形倒錯的性向、すなわち幼児的性向をその職業の目的のために利用している。おびただしい数の娼婦や、その職業に従事していなくとも、娼婦としての特性Eignung zur Prostitution を認めざるを得ない女たちを見るならば、人間はあらゆる性的倒錯への素質を一様に備えているという点に、普遍的人間性や根源性 allgemein Menschliche und Ursprüngliche を認めないのは不可能である。(フロイト『性欲論三篇』1905年)


「教育を受けていない平均的な女 unkultivierte Durchschnittsweib」と、現在の視点からは、いささかポリコレに反する表現があるが、これは「ファルス享楽のタガメに飼い馴らされていない女」と置き換えて読むべきである。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre (女性の享楽、身体の享楽)とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

すなわち女性の享楽・身体の享楽がファルス秩序の機能が弱まれば顕現する。そのとき人は、隠蔽された多形倒錯的傾向が生じる。


そしてフロイト文に、《誘惑 Verführung の影響の下、幼児が多形倒錯 polymorph pervers になり、あらゆる性的逸脱に導かれうるという事実は教えられるところが多い》とあった。

この文は晩年の次の文とともに読まなければならない。

誘惑者 Verführerin はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚 Lustempfindungen を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933年
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

⋯⋯⋯⋯

以下、母なる誘惑者による身体の上への刻印をめぐって簡潔に書かれているポール・バーハウ2009を掲げておこう。

享楽は自らの身体から来る。とりわけ身体の境界領域(口、肛門、性器、目、耳、肌)から。

ラカンは既にセミネールXIにてこの話をしている。享楽に関する不安は、自らの身体の欲動のなすがままになることについての不安である。この不安に対する防衛が、母なる大他者に対する防衛に移行する事態は、社会構造内部の典型的発達過程にすべて関係している。……

この論証の根はフロイトに見出しうる。フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。…

ラカンはセミネールXXにて、現実界的身体を「自ら享楽する実体」としている。享楽(あるいは「享楽の侵入 irruption de la jouissance 」)の最初期の経験は同時に、享楽侵入の「身体の上への刻印 inscription」を意味する。…

母の介入は欠くことのできない補充である。(乾き飢えなどの不快に起因する過剰な欲動興奮としての)享楽の侵入は、子供との相互作用のなかで母によって徴づけられる。

身体から湧き起こるわれわれ自身の享楽は、楽しみうる enjoyable ものだけではない。それはまた明白に、統御する必要がある脅迫的 threatening なものである。享楽を飼い馴らす最も簡単な方法は、その脅威を他者に割り当てることである。...

フロイトは繰り返し示している。人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。問題は、享楽の事柄において、外部の世界はほとんど母-女と同義であるということである・・・。

⋯⋯享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains、2009)