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2015年3月31日火曜日

「夏が終われば忘れてしまう」

@tanajun009: これはここに書きつけるくらいがいいのだろうけれど、鈴木さんの『寝そべる建築』所収の立原道造論最後の言葉──「堀辰雄は愛情をこめて立原を、かれの詩は夏休みの宿題を書いているようなもので、それはいいんだけど、夏が終われば忘れてしまう、と言っていたそうである。」・・・泣けてしまう。(田中純)

ここで語られている内容とは、違うのかも知れないが、この田中純氏の昨晩のツイートは、突き刺さるな、なにに突き刺さるのだろう・ ・ ・

われわれは、夏休みの宿題のように、「原発事故」、「テロ事件」、「ネオナチ」などを語っていないだろうか、表面的な、利用しやすい庶民的正義感のはけ口としてのみ。そして《夏が終われば忘れてしまう》。

だが、今は、田中純氏が、おそらく語っている文脈での「突き刺さる」思いを、引用を中心に続けてみよう。

…………

君の詩集(「萱草に寄す」)、なかなか上出來也。かういふものとしては先づ申分があるまい。何はあれ、我々の裡に遠い少年時代を蘇らせてくれるやうな、靜かな田舍暮らしなどで、一夏ぢゆうは十分に愉しめさうな本だ。しかしそれからすぐにまた我々に、その田舍暮らしそのものとともに、忘られてしまふ……そんな空しいやうな美しさのあるところが、かへつて僕などには 〔arrie`re-gou^t〕 がいい。

……ただ一ことだけ言つて置きたい。君は好んで、君をいつも一ぱいにしてゐる云ひ知れぬ悲しみを歌つてゐるが、君にあつて最もいいのは、その云ひ知れぬ悲しみそのものではなくして、寧ろそれ自身としては他愛もないやうなそんな悲しみをも、それこそ大事に大事にしてゐる君の珍らしい心ばへなのだ。さういふ君の純金の心をいつまでも大切にして置きたまへ。(掘辰雄「夏の手紙 立原道造に」)
おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)

かつてひどく好んだのに、もう長いあいだ忘れてしまっている作品たちの累々とした屍体の墓場というものがあるものだ。







ところで、安永愛による書評『Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)』にはこうある。

ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している(p104)。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。

サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。

実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。

《粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ》だって? いや《サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れない》ように、立原道造も堀辰雄も粗悪の詩人たちではないだろう・ ・ ・

かつまた、《かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思い》だって?

芸術には、「青春の魅力」とでもいうべきものがつきまとっていると見える面があるのも事実で、……人はまた、自分の身にとってみれば、今は失ってしまった「青春」こそ、少なくとも、その理想的な世界にいちばん近いものだったと、思いたがる。

「あの時は、よかった」そうして、実人生では長続きさすことの不可能なその青春の優しさ、汚れのなさを、芸術作品こそは、いつまでもほろびない形で、――つまり、不朽な「美」の形にまで高めてーーその中にとじこめて残していてくれる。こうして、青春・美・芸術という一連のつながりが、人の頭の中に形をとってくる。それに人間は、「創造」ということを考える時、そこにこれからも生命を持ち続けてゆく「若々しさ」をあわせて見ないのは、むずかしいのではないだろうか。

あるいは、人は芸術にぶつかった時、その中にあるほかの何よりも、まず青春の魅力というものに、敏感に感応しやすいというのが、正しいのかも知れない。(吉田秀和『私の好きな曲』上 p50)

さらにはまた、《人は芸術にぶつかった時、その中にあるほかの何よりも、まず青春の魅力というものに、敏感に感応しやすい》だって? だが、《一番早く目につく美は、またあきられやすい美》でもあるだろう。

…スワンや彼の妻はこのソナタに、明瞭にある楽節を認めるのだが、私にとってその楽節は、たとえば思いだそうとするが闇ばかりしか見出せない名前、しかし一時間も経ってそのことを考えていないときに最初はあれほどたずねあぐんだ綴がすらすらとひとりでに浮かびあがってくるあの名前のように、ソナタのなかにあって容易にそれとは見わけにくいものなのであった。また、あまりききなれないめずらしい作品をきいたときには、すぐには記憶できないばかりでなく、それらの作品から、ヴァントゥイユのソナタで私がそうであったのだが、われわれがききとるのは、それほどたいせつではない部分なのである。(……)

そればかりではない、私がソナタをはじめからおわりまできいたときでも、たとえば距離や靄にさまたげられてかすかにしか見ることのできない記念建造物のように、やはりこのソナタの全貌は、ほとんど私に見さだめられないままで残った。そこから、そうした作品の認識にメランコリーがむすびつくのであって、時間が経ってからのちにそのまったき姿をあらわすものの認識はすべてそうなのである。ヴァントゥイユのソナタのなかにもっとも奥深く秘められた美が私にあきらかになったとき、はじめに認めてたのしんだ美は、私の感受性の範囲外へ習慣によってさそわれて、私を離れ、私から逃げだしはじめた。私はこのソナタがもたらすすべてを時間をかさねてつぎつぎにでなければ好きになれなかったのであって、一度もソナタを全体として所有したことがなかった、このソナタは人生に似ていた。しかし、そうした偉大な傑作は、人生のようには幻滅をもたらすことはないが、それがもっている最上のものをはじめからわれわれにあたえはしない。ヴァントゥイユのソナタのなかで一番早く目につく美は、またあきられやすい美であり、そうした美がすでに人々に知られている美とあまりちがっていないのも、まず早く目にとまる美だからである。しかしそんな美がわれわれから遠ざかったとき、そのあとからわれわれが愛しはじめるのは、あまり新奇なのでわれわれの精神に混乱しかあたえなかったその構成が、そのときまで識別できないようにしてわれわれに手をふれさせないでいたあの楽節なのである。われわれが毎日気がつかずにそのまえを通りすぎていたので、自分から身をひいて待っていた楽節、それがいよいよ最後にわれわれのもとにやってくる、そんなふうにおそくやってくるかわりに、われわれがこの楽節から離れるのも最後のことになるだろう。われわれはそれを他のものより長く愛しつづけるだろう、なぜなら、それを愛するようになるまでには他のものよりも長い時間を費していたであろうから。それにまた、すこし奥深い作品に到達するために個人にとって必要な時間というものはーーこのソナタについて私が要した時間のようにーー公衆が真に新しい傑作を愛するようになるまでに流される数十年、数百年の縮図でしかなく、いわば象徴でしかないのである。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに Ⅰ』P172-174)

《今は失ってしまった「青春」こそ、少なくとも、その理想的な世界にいちばん近いものだったと、思いたがる》だって?

……中村武羅夫氏は青春という時期の陰湿さを大そう強調している。一方、私に質問した学生は、その時期の明るさを大そう強調している。そして、その強調の仕方がいずれも一オクターヴ高い感じがする。

この一オクターブ高いという感じが、いつも青春というものにつきまとう。そして、陰湿さも明るさも、いずれも楯の両面のような気がする。(吉行淳之介「鬱の一年」)





《彼は、声をあげて泣いていた。その泣き声は泣いている間も、ずっと彼の耳からは離れない。彼は誇張したのだろうか、(……)いやそうとまではいうまい。だがその泣き声が、どんな影響をきく人に与えるかを、彼はよく知っていた。》(吉田秀和)

…………
@Cioran_Jp: もしニーチェ、プルースト、ボードレール、ランボー等が流行の波に流されず生き残るとすれば、それは彼らの公平無私な残酷さと、気前よくまき散らす憎悪のせいである。ひとつの作品の生命を長持ちさせるのは残忍さだ。根拠のない断定だって?福音書の威力をみたまえ。このおそろしく喧嘩早い書物を。(シオラン)

2015年3月29日日曜日

括弧入れとパララックス(超越論的態度)(柄谷行人=ジジェク)

以下、ほとんどが資料の列挙。

ヘーゲルがおこなったカントについての基本的な修正は、したがって、次のようなものである。理性の三つの領域(理論的・実践的・美的)は、主体の態度の移行、すなわち「カッコに入れること」で出現する。つまり、学の対象は、道徳的判断と美的判断をカッコに入れることで出現する。道徳的領域は、認識的–理論的関心と美的関心をカッコに入れることで出現する。美的領域は、理論的関心と道徳的関心をカッコに入れることで出現する。たとえば、道徳的関心と美的関心をカッコに入れるなら、人間は、自由ではない、因果的関連に全面的に条件づけられたものとしてあらわれる。逆に、理論的関心をカッコに入れるとすれば、人間は、自由で自律的な存在としてあらわれる。したがって、もろもろのアンチノミーは物象化されるべきではない — アンチノミーをなす複数の立場は、主体の能度の移行によって生みだされる。柄谷の画期的成功は、しかしながら、そのようなパララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだことにある。 (ジジェク『パララックス・ヴュー』P.94)

ここでジジェクは『トランスクリティーク』の記述における柄谷行人のパララックスな読み方を顕揚しているのだが、すこし遡って別の書物から、あるいは『トランスクリティーク』出版の前後の小論から引用してみよう。

カントは、ある対象に対するわれわれの態度を、これまでの伝統的区別にしたがって、三つに分けている。ひとつは、真か偽かという認識的な関心、第二に、善か悪かという道徳的な関心、もうひとつは、快か不快かという趣味判断。(……)

カントが趣味判断のための条件としてみたのは、ある物を「無関心」において見ることである。無関心とは、さしあたって、認識的・道徳的関心を括弧に入れることである。というのも、それらを廃棄することはできないからだ。

しかし、このような括弧入れは、趣味判断に限定されるものではない。科学的認識においても同様であって、他の関心は括弧に入れられねばならない。たとえば、外科医が診察・手術において、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくないであろう。また、道徳的レヴェル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れられなければならない。こうした括弧入れは近代的なものである。それはまず近代の科学認識が、自然に対する宗教的な意味づけや呪術的動機を括弧に入れることによって成立したことから来ている。ただし、他の要素を括弧に入れることは、他の要素を抹殺してしまうことではない。(柄谷行人「建築の不純さ」2001)

この小論と似たような文章が、『トランスクリティーク』にも現われる。外科医という具体的な例が挙げられているので、敢えてここに掲げたが、やはりより明晰に書かれている『トランスクリティーク』からも抜き出そう。

……カントは美が対象に対する没関心性において見いだされるといっている。それはいわば、関心を括弧に入れることである。いかなる関心か? 知的・道徳的関心である。われわれはある対象に対して、真か偽か、善か悪か、快か不快かという、少なくとも三つの領域で同時にそれを受けとめる。通常、それらは混然と錯綜している。或るものが芸術作品となるのは、他の関心を括弧に入れてそれを享受することによってである。しかし、カントが趣味判断の特性としたことは、認識に関しても道徳に関してもあてはまる。近代の科学では、対象認識において、道徳的・美的判断は括弧に入れなければならない。同様に、カントは道徳に関しても「純粋化」を試みる。道徳的領域は快や幸福を括弧に入れることによって存在するのである。むろん、それらを括弧に入れることはそれらを否定することではない。

そうすると、カントが第三アンチノミーを両立可能だとする解決はなんら驚くべきことではない。すべての事柄が自然原因によって決定されるという考えは、自由を括弧に入れるという態度によってもたらされる。逆に、自然原因による決定を括弧に入れるとき、自由ということが生じる。どちらが正しいのかは問題ではない。問題は、われわれは道徳的・美的次元を括弧に入れることによって認識的領域を獲得するのだが、その括弧はいつでも外されなければならないということにある。同じことが道徳的領域や美的領域に関してもいえる。一つの立場からすべてを説明しようとするとき、アンチノミーに出会うのだ。(……)ここで一つだけいっておきたいのは、認識的・道徳的・美的領域はある態度変更(超越論的還元)によって確定されることであり、それらがあらかじめ存在するのではないということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P.69)

ここにある《或るものが芸術作品となるのは、他の関心を括弧に入れてそれを享受することによってである》については、デュシャンの「小便器」の例が挙げられている(参照:美術館という場の力、あるいはラカンの「四つの言説」)。


次ぎは、1989年に上梓された『探求Ⅱ』からである。

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。

しかし、カントの「批判」を、べつに「批判哲学」のように限定して考える必要はない。たとえば、今日デリダやド・マンのいうディコンストラクションは、「批判」以外の何であろうか。それは、一義的な意味(真理)を、決定不能性(二律背反)に追いこむことによって無効化するものだし、批判(解体)ではなく、「批判」(脱構築)なのである。「超越論的」という言葉も同様である。それをとくにフッサールのいう意味に限定する必要はない。

したがって、私は、超越論的ということを、自己意識の構造や自我の統一などといった問題に限定しないで、われわれが経験的に自明且つ自然であると思っていることをカッコにいれ、そのような思いこみを可能にしている諸条件を吟味(批判)することだという意味で考える。

すると、これは狭義の認識論に領域にとどまりえないことがわかる。たとえば、近代の思考が、デカルト的な二元論の機制の下にあると言うことは、それ自体超越論的なのだ。なぜなら、それは、われわれにとって自明且つ自然にみえていることがらをカッコにいれ、それをそのように受けとめさせている認識論的枠組そのものを吟味するということだからである。

しかし、これはいわゆる歴史的に考えるということと似て非なるものだ。ふつうの歴史的思考は、現代の認識論的枠組で過去を構成し解釈することでしかないからである。ニーチェがこのような「歴史主義」を攻撃する一方で、「歴史的に考える」ことを説いたことは矛盾しない。後者は、前者を超越論的に考察することにほかならない。

混乱を避けるために、後者を「系譜学的」と呼ぶことにしよう。系譜学的であることは、結果であるものを原因とみなす「認識の遠近法的倒錯」をえぐり出すことである。ニーチェがいう「歴史性」は、歴史的に規定されているということではなくて、この遠近法的な倒錯性ということなのだ。

けれども、こういう考え方はニーチェに固有のものではない。たとえば、マルクスもいっている。

《歴史とは、個々の世代の連続的交代にほかならない。それらのどの世代も、それ以前の全世代が贈った諸材料、諸資本、生産諸力を利用する。したがって各世代は、一面ではまったく変化した状況で、継承した活動を続行するのであり、他面ではまったく変化した活動によって、これまでのふるい状況の姿を変更するのである。ところが、思弁的にゆがめられたかたちでこれがとらえられると、後代の歴史が、前代の歴史の目的にされてしまう。たとえば、アメリカの発見の根底には、フランス革命の勃発を助けるという目的があったというように。こうなると、歴史は、自分だけの特殊な目的をかかえており(《自己意識》、《批評》、《唯一者》などといった)、《他の諸登場人物にならぶ登場人物》の一人となるのであるが、しかし、前代の歴史の《使命》、《目的》、《萌芽》、《理念》といった言葉でしめされているものは、実際は、後代の歴史からの抽象物、前代の歴史が後代におよぼす能動的な影響の抽象物にすぎない。》(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

つまり、マルクスはすでに系譜学的なのである。歴史が倒錯的に構成されていること、発生論的記述が「自然成長的」な生成を結果から逆投射的に構成したにすぎないことを指摘する、そのときにのみ、彼は「歴史性」を見出すのである。それは一切の目的論に対する「批判」である。それは、俗にマルクス主義といわれる目的論的な歴史観とは正反対なのであるから、そんなものを批判したところで、マルクスをこえたことにはならない。

そもそも、このような系譜学はこえること(超越的)ではなく、超越論的なのである。たとえば、マルクスやニーチェが何といおうと、ひとは(彼ら自身も)“目的論的”に生きている。それを否定することはできない。だが、それをカッコにいれることはできる。たとえば、日常的にもの(客観)が私(主観)の前にあるという考え方を否定するならば、ひとはまず生きていけない。その自明性をとりあえず還元(カッコ入れ)しようとするのが超越論的ということであって、本当にその通りに生きてしまえば、分裂病者になるだろう。(柄谷行人『探求Ⅱ』p187-189) 

『トランスクリティーク』より後に書かれた小論からも抜き出すことにする。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)

ここでの柄谷行人は、カントの三つの領域(理論的・実践的・美的)ではなく、合理論/経験論という二項対立で記述している。われわれが、日常的に考えるときは、まずはこの二項でよいのかもしれない。たとえば、元「しばき隊」の代表者野間易通は、合理論の立場からは批判できるし、経験論の立場からは顕揚できる。

①経験論の立場からの顕揚→旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通
②合理論の立場からの批判→元「しばき隊」諸君の「ポストモダンと冷笑」批判


逆に、より精密に分類するのなら、カントの三つの領域以外に、ラカンの「欲望」の領域ーー《Insofar as—following Lacan—the core of Kant’s thought can be defined as the “critique of pure desire,” is not the passage from Kant to Hegel then precisely the passage from desire to drive?》(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)、さらには「利益」の領域ーー《見逃してはならないのは、「利益」(interest)という観点である》(柄谷行人『美学の効用』)--なども考える必要があるのだろう。

いずれにせよ、大切なのは、パララックス(強い視差)な視点である。

以前に私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、今私は自分を自分のでない外的な理性の位置において、自分の判断をその最もいそかなる動機もろとも、他人の視点から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢』)

…………


さて、ジジェクが多いに顕揚した『トランスクリティーク』(2001)からだが、ここでは敢えて「括弧」という言葉が現われていない文章を引用する。この箇所には、冒頭のジジェク曰くの「柄谷の画期的成功」、すなわち、《パララックスな読みかたをマルクスに適用したこと、マルクスその人をカント主義者として読んだこと》の要点がまとめられているからである。

『資本論』がそれ以前の仕事と決定的に異なるのは、(……)価値形態論の導入においてである。それは五〇年代の『グルントリセ』や『経済学批判』にはなかったものだ。われわれはむしろ『資本論』を、それらの仕事との「微細な差異」においても読むべきである。なぜなら、「微細なものにおいて明証される差異は、関係が大きな次元で考察されるとき、よりたやすく示される」からである。マルクスの「転回」が一度きりだとみなすことは、これがどれほど重要かを見逃すことになる。もう一つの例を挙げよう。ルクスは『経済学・哲学草稿』を書く以前に、一八四三年に次ぎのように書いている。


《国家の状態を研究する場合には、人はややもすると、諸関係の客観的本性を見のがして、すべてを行為する諸個人の意思から説明しようとする。だが、民間人の行為や個々の官庁の行為を規定し、あたかも呼吸の仕方のようにそれらの行為から独立している緒関係というものが存在する。最初からこの客観的立場にたつならば、善意もしくは悪意を一方の面でも他方の面でも例外として前提とすることなく、一見して諸個人だけが作用しているように見えるところに(客観的)緒関係が作用しているのが見られるだろう。ある事物が緒関係によって必然的に生じるということが証明されれば、どういう外的諸事情のもとでそれが現実に生まれざるをえなかったか、またその必要性がすでに存在していたのにどういうわけで生まれることができなかったかを発見することは、もはや困難なことではなくなるだろう。使用された物質がどういう外的事情のもとで化合するものかということを化学者が決定するのとほとんど同じ確実さをもって、人はこのことを決定することができるだろう。》(マルクス「モーゼル通信員の弁護」崎山耕作訳)


これは、『資本論』の序文において、マルクスがここでは資本家や地主を経済的なカテゴリーの人格的な担い手とみなし、彼らの主観的な意志や責任を問わないということを強調した条りを想起させる。彼の「自然史的立場」は、すでにここにおいて明瞭である。(……)もちろん、このようにいうことは、マルクスが初期から変わっていないということではない。その逆に、マルクスの思想が、類似したものの中での「微妙な差異」において読まれるべきことを意味するのである。

最後に付け加えておくが、私は『資本論』にマルクスの仕事の最高の達成を見出すにもかかわらず、それをマルクスの最終的な立場として見做すべきでない、と考えている。それはこの本が未完成であるというだけではない。重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』PP.249-250)

《『資本論』の序文において、マルクスがここでは資本家や地主を経済的なカテゴリーの人格的な担い手とみなし、彼らの主観的な意志や責任を問わないということを強調した条りを想起させる》とある。その想起させる『資本論』序文とそれに引き続く柄谷自身の叙述をも抜き出しておこう。

《ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いていない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇(カテゴリー)の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。》(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」)

ここでマルクスがいう「経済的カテゴリー」とは、商品や貨幣のようなものではなくて、何かを商品や貨幣たらしめる価値形態を意味する。『グルントリセ』においても、マルクスは商品や貨幣というカテゴリーを扱っていた。『資本論』では、彼は、それ以前に、何かを商品や貨幣たらしめる形式に遡行しているのである。商品とは相対的価値形態におけれるもの(物、サービス、労働力など)のことであり、貨幣とは等価形態におけれるもののことである。同様に、こうしたカテゴリーの担い手である「資本家」や「労働者」は、諸個人がどこに置かれているか(相対的価値形態か等価形態か)によって規定される。それは彼らが主観的に何を考えていようと関係がない。

ここでいわれる階級は、経験的な社会学的な意味での階級ではない。だから、現在の社会において、『資本論』のような階級関係は存在しないというような批判は的外れである。現在だけでなく、過去においても、どこでもそのように単純な階級関係は存在しなかった。そして、マルクスが具体的な階級関係を考察するとき、諸階級の多様性、そして言説や文化の多様性について非常に敏感であったことは、『ルイ・ポナパルドのブリュメールの一八日』のような仕事を見れば明らかなのだ。一方、『資本論』では、マルクスは、資本制経済に固有の階級関係を価値形態という場において見ている。その意味では、『資本論』の認識はむしろ今日の状況によりよく妥当するといってよい。たとえば、今日では、労働者の年金は機関投資家によって運用されている。つまり、労働者の年金はそれ自身資本として活動するのである。その結果、それが企業を融合しリストラを迫ることになり、労働者自身を苦しめることになる。このように、資本家と労働者の階級関係はきわめて錯綜している。そして、それはもう実体的な階級関係という考えではとらえられないように見える。しかし、商品と貨幣、というよりも相対的価値形態と等価価値形態という非対称的な関係は少しも消えていない。『資本論』が考察するのはそのような関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえようと存在するのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p40-41)

ーーこれ以外のいくらかは、「「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」」を見よ。

 巷間の多くの論者が「括弧入れ」、あるいは「パララックスな観点」が欠けていることについては、写真をめぐって記事を書いたことがある→ 「写真の本質の飼い馴らし、あるいは白痴が微笑む世界


…………

※附記

上の『探求Ⅱ』の引用において、ニーチェの「歴史主義」と攻撃と「歴史的に考えること」=「系譜学的」とされ、《後者は、前者を超越論的に考察することにほかならない》とあった。そして、《私は、超越論的ということを、自己意識の構造や自我の統一などといった問題に限定しないで、われわれが経験的に自明且つ自然であると思っていることをカッコにいれ、そのような思いこみを可能にしている諸条件を吟味(批判)することだという意味で考える》ともあった。

ところで、下の文には、ニーチェが《忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである》とある。

《「然り」〔Ja〕への私の新しい道。--私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(中略)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。(中略)この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまでーー(中略)このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。》(ニーチェ『権力への意志』原佑訳)

ニーチェは『道徳の系譜学』や『善悪の彼岸』において、道徳を弱者のルサンチマンとして批判した。しかし、この「弱者」という言葉を誤解してはならない。実際には、学者として失敗し梅毒で苦しんだ二ーチェこそ、端的に「弱者」そのものなのだから。

彼が言う運命愛とは、そのような人生を、他人や所与のせいにはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり、超人である。が、それは別に特別な人間を意味しない。運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるということにほかならない。それは実践的な態度である。

ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。ニーチェの「力への意志」は、因果的決定を括弧に入れることにおいてある。

しかし、彼が忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである。彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生みだす現実的な諸関係が存することを見ようとはしなかった。すなわち、「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」という観点を無視したのである。(『トランスクリティーク』第一部第3章 P187)



2015年3月28日土曜日

「人間らしさ」の表出

陰ときに晴。雲低く溽暑甚し。午前医者を訪う。例の如く世話女房風年増看護婦、若く御侠な受付嬢、いずれの笑顔も可憐なり。

尿酸高値に復す。ひと月前七度なりしが本日は九度超なり。暑熱の季節故、麦酒過す日を重ねし首尾覿面ともいうべし。

暑くてなにもする気にならず。年増婦の低い声やら御侠娘の水べを渉る鷭の声に変化した声音に耳を傾けるのみ。

古義人は五十代の後半になっても続けているプール行きの電車で、古いタイプのカセットレコーダーを聴いている男が自分ひとりであるのに気がつくことがあった。たまに見つける中年男は、聴きながら唇を動かしている様子から、英会話テープを聞いているのだと見てとれた。この前までは、音楽を聴いている若い連中で充ちみちていた車内で、かれらはいま誰もが携帯電話に話しかけ、あるいはその表示板を見つめてこまやかな指の操作をしていた。ヘッドフォーンから洩れてうるわかったジンジンという音すら、古義人は懐かしく感じたのだ。ところがその現在になって、古義人は「ウォークマン」以前のカセットレコーダーを、水泳用具を入れたリュックサックにしのばせ、半白の頭にヘッドフォーンを載せているのである。そのような自分を、時代遅れの孤独な旧世代と感じるほかなかった。

旧式なモデルのカセットレコーダーは、吾良がまだ映画俳優だった頃、電機メーカーのコマーシャルフィルムに出演して、スポンサーからもらった製品だった。機械の本体こそありふれた長方形で、デザインの凡庸さも目立たなかったものの、ヘッドフォーンのかたちは、古義人が森のなかの子供であった時分、谷川で獲った田亀のようだった。使ってみて、あの何の役にもたたなかった田亀を、今になって頭の両側にしがみつかせているようだ、と古義人は感想をのべた。

しかし吾良は動ぜず、
――それはきみが、鰻や鮎をつかまえるだけの才覚のない子供だったということしかつたえない、といった。遅すぎる贈り物ではあるが、その気の毒な子供にこれをあげよう。田亀とでも名づけて、少年時のきみ自身を慰めるさ。

しかし吾良も、それだけでは古い友達で義弟でもある古義人への贈り物として趣向に欠ける、と思ったようなのだ。それが吾良のライフスタイルのひとつで、映画作りの力にもなった小物集めの才能を発揮すると、魅力あるジュラルミン製の小型トランクをつけてくれた。それには五十巻のカセットテープが収められてもいたのである。吾良の映画の試写会場で受けとり、持って帰る電車のなかで、白い紙ラベルにナンバーだけスタンプで押したカセットを田亀に入れてーー実際、そのように機械を呼ぶことになったーー。ヘッドフォーンのジャックを挿し入れる穴を探していると、つい指がふれてしまったか、テープを入れると再生が自動的に始まる仕組みなのか、野太い女の声の、ウワッ! 子宮ガ抜ケル! イクゥ! ウワッ! イッタ! と絶叫する声がスピーカーから響き、ぎゅう詰めの乗客たちを驚かせた。その種の盗聴テープ五十巻を、吾良は撮影所のスタッフから売りつけられて、始末に困っていたらしいのだ。

かつて古義人はそうしたものに興味を持つことがなかったのに、この時ばかりは、百日ほども田亀に熱中した。たまたま古義人が厄介な鬱状態にあった時で、かれの窮境を千樫から聞いた吾良が、そういうことならば、その原因相応に低劣な「人間らしさ」で対抗するのがいい、といった。そして田亀を贈ってくれたついでに、確かに「人間らしさ」の一表現には違いないテープをつけてくれたのだ、と後に古義人は千樫から聞いた。千樫自身は、それがどういうテープであるかを知らないままだったが……

古義人の鬱状態は、大新聞の花形記者から十年以上受けた個人攻撃のーーもちろん社会正義は背負った上でのーー引き起こしたものだった。本を読んだり文章を書いたりしている間はなんでもなかったが、夜更けに目ざめてしまったり、用事で外出して街を歩いていたりすると、確かに才能はある記者独特の、悪罵の文体が頭に浮かんで来る。こまかな気もつく性格の大記者は、どうにも汚らしい新聞用原稿紙の書き損じや、ファクスで送信されたゲラ刷りを小さく切って、その裏に「挨拶」を書きいれては、著者や雑誌記事を送って来る。つい覚えてしまうその片言隻語が浮んで来そうになれば、ベッドの中でも街頭でも、「人間らしさ」の表出において拮抗する正直な声を聴けばいい。不思議に気持がまぎれるよ、と吾良は古義人にもいったのだった。(大江健三郎『取り替え子 チェンジリング』P10-13 黒字強調原文)

2015年3月27日金曜日

「なにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように」(ゴダール=ブレッソン)

ゴダールが『映画史』で引用したブレッソンの言葉“Ne change rien, pour que tout soit différent”を松浦寿輝が『シネマトグラフ覚書』で「何一つ変更を加えず、かつすべてが違ったものとなるように」としているそうだ。

標準的な訳なら、何も変えるな、あるいはなにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように、だろう。

といっても別に松浦寿輝の訳に文句をつけるつもりはない。なにかの意図があるのだろうが、その書の前後を読んでいない者がなにをいえるわけでもない。

ーーなどと書いているのは、ジジェクの『LESS THAN NOTHING』 (2012)に次ぎの文を見い出したからだ。

Jean‐Luc Godard proposed the motto “Ne change rien pour que tout soit différent” (“Change nothing so that everything will be different”), a reversal of “Some things must change so that everything remains the same.”

この《なにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように》と、ジジェクによる反転、《何かが変わらなければならない、すべてが同じままであるために》は、ドゥルーズの「新しいもの」と「反復」の文脈で書かれている。

Deleuze’s thesis according to which New and repetition are not opposed, for the New arises only from repetition, must be read against the background of the difference between the virtual and the actual:changes which concern only the actual aspect of things are only changes within the existing frame, not the emergence of something really Newthe New only emerges when the virtual support of the actual changes, and this change occurs precisely in the guise of a repetition in which a thing remains the same in its actuality. In other words, things really change not when A transforms itself into B, but when, while A remains exactly the same with regard to its actual properties, it “totally changes” imperceptibly. This change is the minimal difference, and the task of theory is to subtract this minimal difference from the given field of multiplicities.

ここに記されているのは、現勢的な変化は、すでに存在する枠組みのなかでの変化であり、真の「新しいもの」ではない。真の「新しいもの」は、同じものの反復のなかで生じる、というドゥルーズの考え方だ。the virtualともあるが、これは潜勢性とか潜在性と訳されるドゥルーズ哲学の中心的概念(すくなくともその一つ)であり、それは、ドゥルーズがプルーストから導きだした「純粋過去」や、エリオットの「伝統」概念にもかかわるが、何度も触れたのでここでは割愛(参照:「過去を変えることは不可能であるという思い込み」、「「関係構造」は事物の存在より重要である」など)。

結局、座標軸を変えるかどうかにかかわるといってよいだろう。

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収

反対に、既成の枠組みのなかで変化の選択(疑似行為)は、枠組み自体を強化することになりかねないのだ。


いずれにせよ、ジジェク曰くの《何かが変わらなければならない、すべてが同じままであるために》が、われわれ凡人たちの変化であろう、すなわち《十中八、九、新しいことは新奇さのステレオタイプでしかない》(ロラン・バルト『テクストの快楽』)。

逆に、《反復は、反復する対象に、何の変化ももたらさないが、その反復を観照する精神には何らかの変化をもたらす。》(ドゥルーズ 差異と反復)

ゴダールの《なにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように》と、ジジェクによる反転、《何かが変わらなければならない、すべてが同じままであるために》に関しては、蓮實重彦による変奏ーー列挙(引用)/要約、あるいは反復/流通がある。

僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。これもありますよ、これもありますよ、というようなものでね。こっち見てごらんなさい。夏目漱石、こんなことを書いていますよ。またこっちではこんなことを書いていますよ、という愚鈍なまでの列挙なんです。その意味では批評というより事項が並んでいるだけなんです。ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。(……)

僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。
……みんな、批評というものを解釈だと勘違いしてしまったんですよ。解釈といったって、形式を読むこともしなければ、ましてや魂の唯物論的な擁護などと思ってもみない。共同体が容認しうるイメージへと作品を翻訳することを意味の解釈だと思っちゃった。(……)

批評の第一の役割は、作品の意味が生成される可能性を思い切り拡げることであり、それを閉ざすことではない。ところが、みんな、無意識に意味生成の場を狭めればそれが主体的だと思ってるんです。僕はそれを可能な限り豊かなものにすることを一貫してやってきた。べつに、意味を無視したわけじゃあないんです。読むことって、無数の意味の闘いでしょ。表層というのは、その闘いの現場であるわけです。解釈が始まるのは、その闘いの現場を通過してからの話でなければいけない。
流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(『闘争のエチカ』

 もっとも、どこかのダボハゼのような評論文であるなら、要約したってかまわないさ。そんなものを列挙したって、いつまでたっても、なんの新しいものは生まれはしないだろうから。

要約されることのできない(要約すると、ただちに、メッセージとしての自分の性格を破壊する)《メッセージ》の送り手は、皆、《作家》(この語は、つねに、社会的価値ではなく、実践を指す)と呼ぶことができる。《メッセージ》が要約できないというのが、作家が、狂人、饒舌家、数学者と共有する条件である。しかし、それは、まさに、エクリチュール(すなわち、ある種の能記〔シニフィアン〕の実践)が明確にしなければならない条件である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

だが、《列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるような》エクリチュールを、《共同体が容認する物語への翻訳》しちゃあな、それこそ反復の抑圧であり、すべてを同じままにするために、何かを変えるってヤツだ。「わかりたいあなた」たちの典型的な症状だぜ。

「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。(佐々木敦『ニッポンの思想』

「わかったつもりになれて」とは「何かを理解したような気分」になることである。

何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。たしかに、そう することで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解し たかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥り がちなのです。

だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態たといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」にな るためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な 意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、む なしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にす ぎないからです。しかも、その虚構の内部にあっては、「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のう ちにわかちがたく結びついてしまうのです。(蓮實重彦の『齟齬の誘惑』序文ーー「この「私」に何の価値があるのでしょう?」)

とはいえ好きなようにやればいいさ、知のスタイルはとっくの昔に変化してしまったのだし、どこかの馬の骨のようなヤツラが、いまさらゴダールやらドゥルーズやらエクリチュールでもないだろ?

そもそも、列挙するに値する書物自体が、現代の書き手のあいだでは稀少になってしまったんじゃないか、ーーこれは、この「私」をなんとか価値あらしめようとする時代の典型的な「症候」さ。

《徹底した観客無視……私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなもの》(蓮實重彦)を作ろうとしているヤツなんか、もうどこにもいないんじゃないか。せめて恰好つけて「背中で語ろうとするヤツさえ稀になった。

(グールドは)演奏家、作曲家、聴衆が分れていない黄金時代を夢みた。

グレゴリア聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(ミシェル・シュネデール)

ここでは、いまではめったに聴かなくなってしまったグレゴリア聖歌を恰好つけて貼り付けるのはやめてーーいま少し聴いてみたのだが、どうもぴったりくるものにぶつからないーー、バッハのBWV12(カール・リヒター指揮)を掲げておく。





長いあいだ、このリヒターで聴いてきたのだが、たとえばニ曲目のコラールを聴き比べると、最近はリヒターだけではないという感が強くなってきたな・ ・ ・

Ton Koopman

2015年3月26日木曜日

頭のいい奴とは制御棒の足りない不安定な原子炉

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

…………

上の文とはあまり関係がないかもしれないが、「神田橋條治」連鎖によって。

「友人の神田橋條治というと、非常にいい勘をしている治療者なんだが、彼は鬱病では、「いちばん得意と本人が思っている能力がまっさきにやられるからつらいんだ」といっている。そのひそみに倣うと、統合失調症は、発病の過程で「自分がかねがね持ちたくて持てないと思っていた能力が向こうからやってきてやすやすと手に入りそうに思えてくるから誘惑的だ」といいたい。だから、治りそうな時には「ほんとに治っていいの、さびしいよ、ただのひとになるんだよ」と、念をおして、「それでも治ったほうがいい」って心底からいうまで待たないと治っても長つづきしない。どうしてこんなに長引くんだとふしぎな例には、この病気の巧妙な誘惑性がある。今は脳の活動を高めることを善としている社会だからか。

頭のいい奴とは制御棒の足りない不安定な原子炉かもしれない。まして、へんに脳の力を高めるというのは、私のつくって『精神保健いろはカルタ』でいうと、「む」が「無理をとおせばチェルノブイリ」なんだ。重症ではないが難症だといわれる中には高知能者がいる。患者に論理で負けたくない医者が論理でねじふせようとして、患者がメゲる場合もある。医者が敗退する場合もある。……」(中井久夫「世界における索引と徴候」)


というわけで、見たところ「頭のよさそう」だった〈きみ〉は、ここのところ、どうやら福島系になっちまったようだな。炉心全融解さ。いまでは黒バックの壁系だな。揺さぶってワルカッタよ











2015年3月25日水曜日

ロダン、あるいはキクラデス諸島の彫刻

かつては、リルケの『ロダン』を少年時代に読んだせいもあり、おそらくいささか文学的に、ロダンの「思い」をひどく愛した時期がある。




ーーこれは岩波文庫版の『ロダン』に挿差されてあったのと同じ画像である。

……作品はロダンの手を離れると、全くまだ一度も人の手をふれたことのないもののようです。光と影はこの物の上では、もぎたての果実の上でのように、いっそうのやわらかさを持ち、朝風にはこばれて来たようにいっそうの動きに充ちているのです。(……)

或るところでは光はゆるやかに流れているかと思うと、或るところでは滝のように落ちており、あるいは浅く、あるいは深く、あるいは鏡のように輝くかと思えば、またにぶく淀んでいる、--きわめて変化に富んだ傾斜を持つ一種独特なこの表面によって、そういうふうに光が動きを余儀なくさせられるのです。こういう作品の一つにふれる光は、もはやただの光でいることができません、もはや偶然の方向を持つことはできないのです。物が光を所有することになり、自分のもののように使うことになるのです。

明確に決定された表面を持つことから、こういうふうに光を獲得し、わがものとすることを、彫刻的事物の本質的な性質の一つとしてロダンは再認したのです。(……)ロダンは光の獲得を自分の発展の一部とすることによって、太古からの伝統の中へ身を置いたのでした。

実際そこには、リュクサンブール美術館にある『思い』とよばれる、あの石塊の上のうつむいた顔のように、自分自身の光を持った石があります。この顔は影になるまで前に傾いて、石の白い微光の上にささえられていますが、この石の輝きのために影は融け去り、一種の透明なうすら明かりへと移って行くのです。(リルケ『ロダン』高安国世訳)

もっともロダンは、ロマン・ロランやら白樺派やらの文脈で語られすぎ、すこし「芸術通」を気取りたい向きには、口に出さないでおきたい名前になっていた時期があるのではないか(わたくしは森有正、高田博厚、それにアランの書物を少年期に比較的熱心に読んだので、ロダンへの関心は彼らの文章からもーーリルケ以外にーー来るところが多い)。






かつて、どこかで読んだ言葉を劣化させて、ロダンの「思い」は、あたかも大理石から掘り出されたようで、もともと石のなかに隠されていたものが露わになったようではないか、などとエラそうに放言していたものだ。

昭和十六年の夏、私は出征することになった。リルケの《ロダン》と万葉集と《花樫》がとぼしい私の持物だ。(吉岡実「死児」という絵〔増補 版〕)

吉岡実とリルケの組み合せは一見意外ともいえるが、初期の吉岡実にはリルケのかおりがある詩がある。

果実  リルケ

それは地中から実りを目ざしてのぼりにのぼった。
そして静かな幹に黙りこみ
あざやかな開花とともに炎となって
そしてふたたび静かになった。

ひと夏のあいだ夜も昼も
やすみなくいそしむ樹木のなかで成熟し
みまもりつづける周囲にむかって
やがて殺到するわが身をさとった。

そしていまやまるまるした楕円の
ふくらみを見せ円熟を誇ると
それはすべてを断念し果皮のうちの
自らの中心にすべりおちてゆく。

――(神子博昭「詩の暗さーーヘルダーリン、リルケ、ツェラン」より)
静物    吉岡実

夜の器の硬い面の内で
鮮やかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれは
かさなったままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたわる
そのまわりを
めぐる豊かな腐爛の時間
いま死者の歯のまえで
石のように発しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加える
深い器のなかで
この夜の仮象の裡で
ときに
大きくかたむく



(ロダン「ダナエ」)


これも名高い作品だが、わたくしは「思いpanse」のほうを格段に愛した。このダナエにはどこかもの足りないところがある。これだったら、ベルニーニBernini の”O rapto de Prosérpina”があるではないか。







この画像を90度、時計と逆廻りに回転させれば次ぎの如し。





汝蚊雷なるものを知るか 
メコンの股間母なる大地 
デルタの藪の接ぎ木は 
蚊雷を潜り抜けねばならぬ 
二肢の向こうの谷間は霞が関 
玄牝の門から洩る蜜には 
蚊に刺されし血汐混じる 
更に別様に刺されしも 
疲れを知らぬその不死身さよ

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)

…………

さて、なんの話かといえば、現在はロダンでもなくベルリーニでもなく、--ジャコメッティやエジプト彫刻の話はここではしないでおくーーキクラデス Cycladesの小さな彫刻を好む。とはいえそれは齢をとったせいだけではなく、20代のころルーヴルを訪れてキクラデス彫刻のイミテーションを購入している(たしか100ドル近くしたのではなかったか)。




いまでもこれだけは、日本から持ち出して部屋に飾ってある。汚れるたびに丁寧に磨いたので、いまでは色艶がでてきた。もっともときに、亀頭みたいだな、などという「教養のない人」--わたくしのようなーーがいるから困る。

以下は本物である。











もちろん、われわれも縄文時代には、おなじくらい美しい作品をもっている。










《秘訣とは卵のあの曲面ですよ。なぜなら、陶工の轆轤がまずはじめに形を仕上げていれば、見かけ倒しの部分はもうなくなっているから。》

「だから、いつでもかならず素材が話しかけるのだといえる。それに、精神に話しかけるのはほかでもない、素材を扱っている手であり、そのとき手は、素材を介して、精神に話しかけるのだ。これが芸術の、いや少なくとも造型芸術のお作法ではなかろうか。要するに、腹案が作品に先行しているらしいとはいっても、腹案と作品とのあの関係、私の名づけて工業的といっているあの関係は、諸芸術においては、もう一つの別の関係に、完全に従属している。これが腹案だったのかと悟らせてくれるのは、じつはほかでもない作品なのだ、という関係のほうが、立ちまさっているわけだ。作品を作ってみて、自分の表現したかったことに誰よりも先に教えられ、また誰より先におどろくのは、当の芸術家なのだから、この関係はずいぶん逆説的なものだ」(アラン『彫刻家との対話』杉本秀太郎訳)

アランの対話者は、アンリ・ナヴァルという今ではほとんど無名の、メダル職人から叩き上げた彫刻家で、彼はロダンの彫刻を次のように批判している、「ロダンの親指、あれはどうもいけない。親指というやつは、光線をたよりに肉付けしますから。ところが、じっさいに形を作ってゆくのは人指し指なんです」、と。


休憩時間に、シャルトル大寺院の彫像、エーゲのギリシア人の彫刻、中国の仏像の写真をながめていた彫刻家がいう。

「これらには、どこかに共通したところがあります。卵型、壺の丸み、これが共通点です。面のどの起伏も、どの凹みも、すべてあの偉大な法則に服従しているでしょう。ところが、そうだからこそ、何か表情が出ている。表情、そういっていいでしょうね。ただし、何も表現していない表情。そういえますね」

「そういっていい」と私は答えた「いや、そういわねばならない。というのも、言語で説明できそうな感情を彫刻が表現しているとき、われわれは彫刻の外にいるわけだから。それでは完全にレトリックの分野に出て、調子のいいことをしゃべっているだけのことになる。だから私としてはこういいたいと思うのだが、ほんとうの彫刻というものは、ある存在の形体以外のいかなるものも絶対に表現していない。存在の形体、つまり存在のもっとも深い内部という意味だよ。そういう深みから、存在の形はうみ出されて来るし、また奇型の形成を拒否しつつこの世に押し出されもしたのだから」

ある日、あの「詩人」が訪れる、《果実が溶けて快楽(けらく )となるように、/形の息絶える口の中で/その不在を甘さに変へるやうに、/私はここにわが未来の煙を吸ひ/空は燃え尽きた魂に歌ひかける、/岸辺の変るざわめきを。》(ヴァレリー「若きパルク」中井久夫訳)

ある日のこと、さながら地獄界に降るようにしてアトリエの階段をきたのは、あの「詩人」だった。いつも何か怒ったような顔をしている彼だ。しかし不機嫌はたちまちほぐれ、彼はにこやかになった。( ……)

こうするうちに、自分の技倆に深くたのむところのある詩人は、詩作というあの長期労働を引き合いに出した。必要なのは、辛抱づよさということだ。不成功におわることがいくらでもあるということ、半成功は不成功よりなおはるかに危険なものだということ、彼はそういった点を説明してくれた。「まさに一歩ごとに、あの何ひとつ書かれていない丸い表面をふり返らねばならない。そうしてあの表面にぴっちり貼りついているような装飾の軌跡を作り出すことは、まずむつかしい。だからこそ、厳密な定型詩でなければ、仕事というものも案出というものも、私には考えられない。定型詩というものを、私は海のあの水位というものにたとえたい。海水は諸大陸のあいだをめぐり、諸海洋を区分しているのに、海の水位は、何物とも一致しない。しかも水位がすべてを決定している。規則に寸分たがわぬ定型詩などというものは、一行たりともありはしないのだ。しかし規則というものは、あの切れ目なく、また歪めようもない海の表面にもひとしい。その表面にわれわれがちっぽけな山々を、つまり語というものになった第二の素材を肉付けするわけだ。それにまた、何もかも詩によって言いつくされるわけでもない。というのも、あの上塗りが、何か意味をおびぬことには、詩にはならないのだから。必要なのは、ただ辛抱づよさだけだ、そう痛感したことが私には何度もあった。しかも、そう痛感したのは、きまって自分に辛抱が掛けているときだった」




「すべてのものは球か、円錐か円筒形である...それは事実だ。  その観察を最初に(自分が)したのではないのは、なんともうまくない(残念だ)。  セザンヌは正しかった。…

私は内側のことであれこれ考えることはなく、外側だけで問題は山積みだった。(ジャコメッティ)


2015年3月24日火曜日

クメールの女たち

続き)とはいえ、わたくしにはインド系やら、ひょっとしてサラ・チャン系は、もはや荷が重すぎる。この十年ほどはクメール系が好みである。ーーと書いたとき、ではなんの好みなのだろうか、ーーもちろん「観賞」の対象としての好みだけである・ ・ ・




比較的近くにアンコール・ワットがあるので、オンボロバスに乗ってーーそれでもこの5年ほどのあいだには空調つきの韓国製中古バスになって味わいが減ったにしろ、まあ快適になったとしておこうーー国境を越え、1年に1度ぐらいは、この20年のあいだ、訪れている。






デモ生キテイル限リハ、異性ニ惹カレズニハイラレナイ。コノ気持ハ死ノ瞬間マデ続クト思ウ。(…)スデニ無能力者デハアルガ、ダカラト云ッテイロイロノ変形的間接的方法デ性ノ魅力ヲ感ジルコトガ出来ル。現在ノ予ハソウ云ウ性慾的楽シミト食慾ノ楽シミトデ生キテイルヨウナモノダ(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)
「倒錯」とは、本来、徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである。欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく、その中間に何ものかを、――「物〔フェティッシュ〕」を、「言葉」を、「演技」を、「物語」を介在させ、欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが、「倒錯」なのである。(松浦寿輝『官能の哲学』)





丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかつた時、彼はふと門口に待つて居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足がこぼれて居るのに気づいた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持つて映つた。(谷崎潤一郎『刺青』)

《「素足も、野暮な足袋ほしき、寒さもつらや」といいながら、江戸芸者は冬も素足を習とした。粋者の間にはそれを真似て足袋を履かない者も多かったという。》(九鬼周造『いきの構造』)


現代日本の女の足指は、ハイヒールのせいで歪んでしまっている。クメールの女の足指は美しいままなのがまだ生き残っている。ただし都会はだめだ、プノンペンはだめだ、シェムリアップSiem Reapまでいかないと。





私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて(谷崎潤一郎 「痴人の愛」)





これは別の肢だが、彫刻の肢や女の肢を見に行くだけではなく、こっちの肢もわたくしの好みであり、我庭にも、これほど巨大ではないが、樹齢百年は遥かに越えるガジュマル樹(ベンガルボダイジュ,バンヤンジュ)を15年ほどまえ植樹した。

その女の足は、彼に取つては貴き肉の宝玉であつた。拇指から起こつて小指に終わる繊細な五本の指の整い方、 繪の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合、珠のような踵のまる味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗ふかと疑はれる皮膚の潤澤。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつける足であつた。 (『刺青』)











盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)







もっともインドにもカジュラホKhajurahoではなく、ハンピHampi には、やや穏やかな彫刻群がある。




いやカジュラホKhajurahoだって選べばダイジョウブかもしれない。










カンボジアだってちょっと間違えば、サラ・チャン系がいるとさえいえるのだから、世の中をあまく判断してはならない。





春琴は寝床に這入つて肩を揉め腰をさすれと云われるままに暫く按摩しているともうよいから足を温めよと云ふ畏まつて裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸の上に載せたが胸が氷の如く冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかつかつと火照つて歯痛がいよいよ烈しくなるのに溜まりか、胸の代わりに脹れた顔を蹠へあてて辛うじて凌いでいると忽ち春琴がいやと云ふ程その顔を蹴つたので佐助は覚えずあつと云つて飛び上がつた。(『春琴抄』)








2015年3月23日月曜日

許し難く凡庸な優等生

このところあまり投稿する気が起こらないのだが、リヒテルBOTからのメモ。

S.Richter_bot ‏@RichterBot
(キーシンの弾くリスト『超絶技巧練習曲第十番』について) 先生について勉強し、上手に弾く。しかし、危険を顧みずに海に飛び込んだりはしない。たぶんこれからも決して飛び込むことはない? http://www.youtube.com/watch?v=e3ByIdSA-Ic …

優等生ってことだよな、キーシンは。面白くないんだよ。

許し難く凡庸な優等生は、音楽の制度に余りにも見事に適合しているため、分節構造の内部のしかるベき位置に音を置いていくことしかできない(浅田彰『ヘルメスの音楽』

でも優等生も必要さ。

ニーチェは卓越した人間であった。文献学の優等生。メッツの城壁の下では良き看護兵。勤勉で控え目な青年。屈託よりも病気で身を退いた優れた教授。狂気にいたってもなお静かな人柄であった。彼の生涯は真のキリスト教徒の、あるいは賢者の生涯であった。いや、賢者よりもキリスト教徒としてこそ適わしいと思える貞節、そのような貞節のつらぬく生涯であった。

ところが彼の存在の、さほど重要でもない内的部分が、書くことへと向かった。そしてこの部分こそが心神喪失をきたしたものと思える。全体的には穏和で規則正しいこの体系〔人間〕が、ある熱狂的な一部分に、錯乱した冗漫な一部分に、とり憑かれたのだ。」(ポール・ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』sur les manuscrits de Paul Valery au sujet de Nietzsche)

でも、ニーチェはやっぱり「危険を顧みずに海に飛び込んだ」わけだ。

浅田 「逃走」とは簡単に言うと「マイノリティーになること」。在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチのように、自分を「日本人」というマジョリティーに同化しようとすることで、激烈な排除が生まれる。しかし、自分も別の次元ではマイノリティーだと気づけば、対話や合意なしでも共存は可能になる。

 そこで、「優等生」は、ネットを使って声なき声を拾い上げ対話を密にするなど、民主主義のバージョンアップを目指す。それはそれでいい。しかし、「優等生」が「マイノリティーの声に耳を傾けよう」と熱弁をふるっているとき、そんな議論自体に耐えられなくて黙って出て行くのが真のマイノリティーたる「不良」でしょう。「切断」の思想は、そうやって対話から逃げる自由を重視する「不良」のすすめだと思います。

千葉 そうですね。「不良」というのは、社会の多様性の別名ですから。対話を工夫することは必要だとしても、そもそも必要なのは、誰だって様々な面で「不良」でありうる、マイノリティーでありうるという自覚を活性化することである、と。「優等生」の良かれと思っての接続拡大の訴えからも「切断」される自由を認めなければ、「優等生」のその「良かれ」は機能しないということになるでしょう。多様な「不良」を擁護する、それが「切断」の哲学ですね。(「つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん」)

「優等生」で引き出しのなかを拾ってゆくとこんなものもあるな。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。(浅田彰
「ドゥルーズ哲学の正しい解説?そんなことは退屈な優等生どもに任せておけ。ドゥルーズ哲学を変奏し、自らもそれに従って変身しつつ、「その場にいるままでも速くある」ための、これは素敵にワイルドな導きの書だ」(浅田彰)。

ーー浅田の優等生憎悪というのは、もちろん近親憎悪だろう。



ところで、アルゲリッチって、若いツバメ風の男だったらだれでもいいんじゃないか。このなかに彼女の餌食になった男、何人いるかのか・ ・ ・






アルゲリッチの餌食になった男とのデュオでは、このミシェル・ベロフとのストラヴィンスキーがすばらしい。






Nicolas Economouが餌食になったかどうかは知るところではない。





ーー若い頃のアルゲリッチとともに演奏して惚れ込まない男などというものがいるものだろうか。


マルタの逸る足は小さな沢の水などけちらかし、
ドガの女のように、うつむきかがみ
水をもっと、からかおうとして、かかとを愛撫する

L'an pareil en sa course au fleuve qua voici
S'écoule vers la fin d'un été sans merci
Où le pied altéré, fêté par l'eau, se cambre
Pour le taquiner mieux au bout d'un ongle d'ambre.

年はここを流れる川と同じ運行を続けて
夏の終りへ向かって容赦なく流れ去る
喉の渇いた足はそこで水に祝福されて、琥珀色の爪先で
水をもっと、からかおうとして、指を反らす。

ーーマラルメの愛人メリ・ローランの47回目の誕生日(1886)への四行詩


 「この足は食物の根のように水を飲む。そのあと
いかにも足はうれしそうに、まるで渇きが止まったよう
水に祝福された足の甘美
水は乱された無数のさざ波と一緒になって楽しげに浮かれ
さざ波は自分を踏みつけに来る
美しい女の《足》にきらめく愛撫の囁きに来る。」(プルースト)


(マルタとその種違いの娘たち)


「女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ」(西脇順三郎)


2015年3月18日水曜日

フロイト・ラカン派の「主人のシニフィアン」の遡及性

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

《「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する》(ジジェク)。

なにがマスターシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。

この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)

バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーcorporatist anti‐egalitarian mottoではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの補足的な説明が必要となる。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

もっとも、主人のシニフィアンとはこれだけではない。たとえば<私>、<僕>というシニフィアンはどうか。

あなたは、すくなくとも最低限の言語構造をもつためには二つのシニフィアンが必要である。だからわれわれは、すでに二つのタームを持っている、すなわちS1とS2である。S1とは、最初のシニフィアン、フロイトの“境界シニフィアンborder signifier”、“原シンボルprimary symbol”、いや“原症状primary symptom”とさえいえるが、それは特別の地位をしめる。それは主人のシニフィアンなのであり、欠如を埋めようとする。その欠如を覆い隠す過程の保証としてのふりposeをする(みせかける)。最も良い、簡略な例であるならば、シニフィアン“私”である。それは己れのアイデンティティのイリュージョンを抱かせてくれる。S2は残りシニフィアン、シニフィアンのネットワークの連鎖の分母である。その意味で、また“le savoir”の分母、知識の連鎖を包含する知識である。(Paul Verhaeghe『 FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』)

他にも、向井雅明氏はトラウマ(原トラウマ)の遡及性を次ぎのように語っている。

トラウマは遡及的に作用する。
S1―>S2->S1
(ラカンの症例)エマの例。店員の笑い→過去の想起 商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。(向井雅明『精神分析とトラウマ』)

ここでは、トラウマ的な原光景でさえ主人のシニフィアンS1であるとされている。これはシニフィアンの遡及性、すなわち最初のシニフィアン S1 は次に来るシニフィアン S2によって意味的に決定されるという構造のこと。

ひとびとはある人を王(S1)として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々(S2)が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。(マルクス『資本論』)

これらは、ラカンがセミネールⅩⅩで強調した「原初とは最初のことではない」にかかわる。

とすれば、原初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)は最初のことではないのだろうか。

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳ーー「二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」」)

主人のシニフィアンの遡及性の説明は、ジジェクの次の文がよいだろう。

そこには、《最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生された》との文がある。

ここにあるのは、<あなた>が自らの原光景と思っているものは、後の生活での象徴的な袋小路によって遡及的に構成されたものではないか、という問いである。「問い」としたのは、ほんとうにこれだけなのだろうか、という疑念を、わたくしはいまだーー素朴にもーー持ち続けているところがあるから。


アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)






金子國義とアンリ・ルソー

金子國義氏が亡くなったそうだ。





わたくしは、絵画については、あまりエラそうなことは言えないのだが、--他のことについてもエラそうなことは言えないにしろ、絵画への鑑識眼は、ことさらそうだという意味であるーー、若いころ、金子國義の絵をみて、アンリ・ルソーみたいだな、と女友だちに言って、バカにされたことがある。

たぶん、その女友だちは、わたくしが当時(20 才前後のこと)、八重洲にあった(今でもあるのかどうか知らないが)ブリジストン美術館に一週間に一度ほど通っていたのをバカにしていたのだろう。なぜ通っていたかというと、受付の三十前後の女性にひどく惚れていたからだ。切符を手渡されたり、ほほえみ返されたり、二言三言のわずかな会話だけで満足していた・ ・ ・一年ほどしてその女性は、お腹が大きくなって、いなくなってしまった。

わたくしの目当てはそれ以外にもジャコメッティの小さな彫刻と、エジプト彫刻、それにマイヨールの軟らかな彫刻だった。もっとも、ピカソやセザンヌ、あるいはマネ、モネ、ルオーなどや日本の画家たちの作品を見なかったわけではない。なんども通ったので、それぞれひどく馴染んでいるには違いない。

そのなかに小さなアンリ・ルソーの作品があった。




この作品と次ぎの作品とを二重写してみろ!





金子國義の絵みたいじゃないか、あの女は、オレより鑑識眼がない!


金子國義ともアンリ・ルソーとも関係がないが、Andreas Scholl & Barbara Bonney · Stabat Mater ~ Pergolesi を貼り付けておこう。




◆J.S. Bach - Psalm 51, BWV 1083 "Tilge, Höchster, meine Sünden" (from Pergolesi - Stabat Mater)






金子國義とアンリ・ルソーは、バッハ,とペルゴレージほどの差しかない。



2015年3月16日月曜日

「笑いについて」(中井久夫)

父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった(……)

母のほうは、食糧難になると生き生きしてきて、前の溝に稲を植え、裏の畑にトウモロコシを植えるという具合で、一家の食糧問題を負い、嫁姑の地位が逆転してしまった。その妹の叔母にいわせると、娘時代は農事は一切しなかった、信じられぬという。祖父は遺言の中で、父に母を大事にせよとの一行を入れた。母は医師になりたかった祖父のファンだったから、私が医学部に代わった時にはいちばん喜んだ。晩年は、柴犬の「マル」をかわいがり、よく百科事典を読んでいた。

私が東大から名市大に移る時、一カ月赴任を遅らせて末期の胃癌だった母をみとった。うっかり、四月から出る予定といっただめであろう、その一〇日前、「一〇日後、食べる」と言って、食も水も断った。一〇日目、棺の前に箸一本をさしたご飯が供えられた。私にこれ以上の迷惑をかけたくないという母の意志を秘めた最後のユーモアであった。(中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)

この文章にある「母の意志を秘めた最後のユーモア」の「ユーモア」という言葉に引っかかっていた。どうしてこの母の振舞いをユーモアと言いうるのか、と。なにか言い尽くせない思いが籠もっているのではないか。

……「治療文化論」は時々引用された。なぜか必ず奈良盆地についての三ページであった。(……)あの一節には私をなかだちとして何かが働いているのであろうか。たとえば、私の祖父――丘浅次郎の生物学によって自らをつくり、老子から魯迅までを愛読し、顕微鏡のぞきと書、彫刻、絵画、写真、釣りに日を送り迎えた好事家、自らと村のためにと財を蕩尽した旧村長の、一族にはエゴイストと不評の祖父。あるいその娘の母――いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り、百科事典を愛読してよく六十四歳の生涯を閉じた母の力が……。(『治療文化論』「あとがき」1990)

《いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り》とあり、この末期の一カ月の間に、息子の看病を受けて生涯の最高の幸せを感じた後の、「もういいわ」だったということかもしれないと今は思う、《私が東大から名市大に移る時、一カ月赴任を遅らせて末期の胃癌だった母をみとった》。


以下、中井久夫の「笑いの機構と心身への効果」(『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)からだが、わたくしはこの書が手元になく、ツイッターにて拾ったものである。仮に行分けをしたが、実際の行替えは不明であり、わたくしが勝手に行を分けた。

この文には、《英国人のいうユーモアは危機に際して自分の矮小さを客観視して笑い、緊張の低下、余裕感の獲得、視点の変換による新たな対処の道を探る方法ということ》とある。


笑いが人間特有であることは、千数百年前にギリシァの哲学者アリストテレスが指摘していたと思う。以来、笑いは医学よりも哲学、心理学で論じられてきた。

笑いの「原因」あるいは「機構」についてはいろいろな説があるが、唱える人の人生観を反映して笑いの別々の面を強調している感がある。笑いに共通なことは、曲げてあった竹を解放した時のはね返りのような急激な心身緊張の低下である。横紋筋緊張の低下は顕著で自覚されることが多い。極端な場合はナルコレプシーで、笑いとともに一瞬にして姿勢崩壊となる。平滑筋の緊張も低下する。

乳幼児の微笑は、母親のはぐくみ行動を誘発する外的刺激によらない内発微笑であり、母子のほほえみ合いは子どもの成長にも、母となった女性の成熟にも、不可欠な因子である。

優越、勝利の際の高笑いは目的達成による心理的緊張の低下と同時に起こるが、急激な成功による心理的危機を防ぐ精神保護作用の一部かもしれない。実際、成功は失敗にも増して精神健康悪化の契機になる。

絶望の際にも激しい笑いが発生する。やけくそ笑いといわれる。この場合も筋緊張の急激な低下が特徴である(笑いを伴わない筋肉緊張低下もある。ガックリと肩を落とすという事態である)。同じく、不意打ちの事態にも笑いが起こる。これらは限度以上の筋緊張を防ぐ機構かも知れないし、次に起こすであろう反撃に備えていったん筋肉の緊張を下げておいて有効な打撃力を発生させる機構かも知れない。

人の失敗、失策を見る際の笑いは、予想に反する相手の矮小さの認知によって、それまでの緊張した構えが解け過程の一部であろう。この場合の笑いは、余裕感を伴う。この笑いの味は人間に好まれ、お金を払って落語や漫才を聴くのは、この種の笑いを求めてである。

英国人のいうユーモアは危機に際して自分の矮小さを客観視して笑い、緊張の低下、余裕感の獲得、視点の変換による新たな対処の道を探る方法ということである。

その他、対人関係の道具と化した笑いが数多くある。初対面や久しぶりの面会の際の笑いは、互いに筋緊張などしていなくて攻撃の意思がないこと、「われわれは友人だ」ということを伝達する道具である。政治家が政敵と肩を組み合って笑うのには、さらに余裕の誇示も加わる。

はっきりと攻撃の道具である「あざ笑い」は.「おまえは矮小である」と決めつけることで、反撃を誘発するか、相手が無力を自覚して深く傷つくかである。ジョークをいい合ってよい関係(ジョーキング・パートナー)を制度化しているブッシュマン社会は、一人に「イジメ」が集中する社会より上等である。(中井久夫「笑いの機構と心身への効果」『「伝える」ことと「伝わる」こと』)

中井久夫botにおける引用はここまでだが、別にインターネット上を探ると、次のような文が、--おそらく続いてーーあるようだ。

・「笑いは相手の攻撃を防ぐ道具にもなる。日本人が西洋人と話す際の有名なニヤニヤ笑いは防衛の笑いで、この煙幕は相手を苛立たせる。笑いは、こうしてコミュニケーション遮断の道具にもなる。」

・「笑いも道具化されるにつれて、心身の緊張解放がなくなり、笑っても楽しさがなくなる。」

・「・・・防衛的な笑いを長く続けているとかえってストレスが蓄積する。」

もっとも笑いの煙幕的側面は、なにも日本人の「ニヤニヤ笑い」だけではない。

何にも増して私が遠ざけるべきものは、精神をさしおいて唇が選ぶあの言葉、会話で人がよく口にするようなユーモアたっぷりな言葉、他人との長い会話のあとで、人が自分自身に向かってわざとらしく発しつづける言葉、そしてわれわれの精神をうそで満たすあの言葉の数々である。(……)一方、真の書物は、白昼と雑談との子ではなくて、晦冥と沈黙との子でなくてはならない。そして、芸術は人生を正確に再構成するものであるから、人が自分自身の内部に到達してとらえた真実のまわりには、つねに、詩の雰囲気が、ひそやかな神秘が、ただようだろう。それこそは、われわれが通ってこなくてはならなかった薄明のなごりにほかならず、深度計ではかったように正確に記録された標示、ある作品の深さの標示にほかならぬであろう。(プルースト「見いだされた時」井上究一郎訳)

…………

中井久夫のユーモアをめぐる文は、わたくしが気づいた範囲でも、他に英国人のユーモア感覚を語ったエッセイが二つ(「人間であることの条件 英国の場合」、「待つ文化、待たせる文化」)ある。

また、次ぎの文の「余裕」は、「ユーモア」を代入してもよいのかもしれない。

私の人生観はわりと単純で、善人と悪人というんじゃなくて、余裕のある人間と、余裕のない人間とがあるんだろうと。それは程度の差もあるし質もあるだろうけど、私はそう考え、そういう軸で人をみている。(中井久夫「家庭の臨床」『「つながり」の精神病理』所収)

あるいは《自らの姿に対する突き放した観察からくるユーモア》(『分裂病と人類』)ともある。これは、まさにボードレールのユーモアの定義、《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》だろう。あるいは、フロイトの定義としてもよい。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)

ひとはつねにユーモアをもてるものではない。

ついでながらいいうと、人間誰しもがヒューモア的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見いだされない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたヒューモア的快感を味わう能力をすら欠いているのである。(フロイト『ユーモア』)

《恋する人とテロリストにはユーモア感覚が欠如している。》(アラン・ド・ボトン『恋愛をめぐる24の省察』)

恋する人にユーモアが欠如しているとして、では愛する人はどうなのだろう。「末期の一カ月」の中井久夫が母から与えられたとされるユーモア感覚は、当然、相互の強い愛情のなかでのことだろう。

ヒューモアとは、フロイトがいうように「精神的姿勢」であって、むしろ「笑い」とは関係がない。たぶん、われわれにとって、子規の『死後』を読んで笑うことは難しい。しかし、ある条件のもとでは、それがひとを笑わせることはあるだろう。たとえば、ソクラテスの死に立ち会ったとき、弟子たちは笑いをこらえることができなかったといわれる。また、カフカが『審判』を読み上げたとき、聴衆は笑いころげ、カフカ自身も笑いころげたという(ドゥルーズ『サドとマゾッホ』)。子規の友人たちもあのエッセイを読んで笑いころげたかもしれない。そうだとしたら、それは、彼らがそこに「同時に自己であり他者でありうる力」を感じとったからである。(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』ーー「成島柳北の「超越論的」態度」より)


…………

※附記

冒頭に掲げた文に、《母のほうは、食糧難になると生き生きしてきて、前の溝に稲を植え、裏の畑にトウモロコシを植えるという具合で、一家の食糧問題を負い、嫁姑の地位が逆転してしまった。》とある。直接には関係がないかもしれないが、これも強く印象に残っている文を並べておく。

私が恵まれているからだといえば、反論できない。確かに「今は死ぬに死ねない」という思いの年月もあった。しかし、私は底辺に近い生活も、スッと入ってしまいさえすれば何とか生きていけ、そこに生きる悦びもあるということを、戦後の窮乏の中で一応経験している。中井久夫「私の死生観」












2015年3月15日日曜日

大島隆一と大島一雄

成島柳北の派生物メモ。というか逆に、このところ柳北をめぐってのメモをしたのは、荷風の日記の「柳北」頻出のせいである。

以下、まず永井荷風の『断腸亭日乗』からの抜粋だが、句読点などに統一がないのは、わたくしの手元には、岩波文庫版の『断腸亭日乗』(上・下)摘録しかないので、そこから省かれている日記は、インターネット上から拾ったため(おそらく、それらの多くは、『断腸亭日乗』全巻『荷風全集』第19巻~第24巻(岩波書店)からだろうが、そこでは句点は使われていないようだ)。

…………

大正十五年

七月十四日。晴れて暑し。午後曾て高木氏より聞きたる大島氏来り訪はる。二十五六に見ゆ。成嶋柳北の孫なり。神戸市成嶋氏の家には柳北が安政頃より易簀の時まで書きつヾけし日誌在りと云ふ。晩間鷲津貞二郎来訪。
十月廿日。午前大嶋隆一氏祖父柳北成嶋先生手沢の日誌書簡を古き革包に収め、来り訪はる。日誌は嘉永六年に始り明治十七年に終る。大嶋氏去りし後、直に日誌を読みて覚えず日暮に至る。銀座に行きて夕餉を食し帰宅後また日誌を繙き深更に及ぶ。霜露漸く寒く月明昼のごとし。
十月卅一日。病稍良し。終日柳北の硯北日録を筆写す。下太訝にす。帝国劇場作者林矢嶋?の二氏に逢ふ。食後木挽町に往き初日の景況を見る。偶然巌谷先生父子に逢ふ。小波先生廿八日布哇に向ひ横浜を出港せられしが、乗船浅瀬に乗り上げ、一時上陸帰宅せられ、十一月四日再渡航の由なり。帰途太訝の婢お久に逢ふ。此日晴れて風寒し。
十二月二十五日。晏起の後掃塵盥漱を終れば既に午なり。日暮成弥邦枝二氏来る。邦枝氏七世白猿の尺牘を示さる。太訝の婢お慶来る。昨夜深更聖上崩御の公報出て、銀座通の商舗今朝より休業。太訝は夕刻より戸を閉したるにより、お慶邦枝子に逢はむとて来りしなりという。余昨夜より家を出でず、また新聞を見ざるを以て、ここに始めて諒闇の事を知る。山形ホテル食堂に到り葡萄酒を酌み晩餐をなす。枕上柳北の『新誌』第二編を読む。この日改元。
十二月三十一日。天気好晴。竟日柳北の『日誌』を写す。黄昏太訝に往き夕餉を食し、歌舞伎座に行くに、一番目狂言の稽古まさに終らむとす。少時松莚子と語りて後、中幕『和蘭陀船』の稽古を見る。中幕は松嶋屋父子の出し物なり。再び成弥と太訝に一茶す。始めて福沢大四郎氏に逢ふ。沢村田之助、弟源平、生田葵山、邦枝完二、日高浩、巖谷撫象、三田英児、谷岡某ら来り会す。年既に尽く。午前一時諸氏と共に銀座に出るに、商舗夜市の燈火煌々昼の如し。散歩の男女肩を摩し踵を接す。妓山勇市川登茂江らに逢ふ。尾張町四辻にて諸氏に別れ谷岡氏と電車を同じくして帰る。筆硯を洗ひ書室の塵を掃つて後、眠らむとれば、崖下の人家既に鶏鳴を聞く。


昭和二年

正月元日。……燈下柳北の『硯北日録』万延元年の巻を写して深更に及べり。
正月六日。……柳北先生の『硯北日録』七巻を写し終わりぬ。余すところ『投閑日録』『日毎之塵』その他十数巻あり。卒業の日なほ遠しといふべし。
正月七日。……燈下柳北『硯北日録』の註釈をつくりて深更に及ぶ。
四月十二日。午前大島隆一君来訪せらる。大島君は柳北の孫なり。同君の語る所を聞くに今年の春神戸なる成嶋朝一氏病みて歿せしにその遺族文集に通ぜられるを以て柳北の書幅遺稿書簡など既に売払ひしやの形跡ありといふ。また成嶋氏累世の文集錦江の『芙蓉楼集』東岳の某集等大嶋氏かつて目にせし事あり。それらも今は如何なりしや知らず。目下手紙にて問合中なりといふ。……


昭和三年

正月二日 晏起既に午に近し、先考の忌日なれば拝墓に徃かむとするに、晴れたる空薄く曇りて小雨降り来りしかば、いかゞせむと幾度か窓より空打仰ぐほどに、雲脚とぎれて日の光照りわたりぬ、まづ壺中庵に立寄り、お歌を伴ひ自働車を倩ひて雑司ヶ谷墓地に徃き、先考の墓を拝して後柳北先生の墓前にも香華を手向け、歩みて音羽に出で関口の公園に入る、園内寂然として遊歩の人もなく唯水声の鞺鞳たうたうたるを聞くのみ、堰口の橋を渡り水流に沿ひて駒留橋に到る、杖を留めて前方の岨崖を望めば老松古竹宛然一幅の画図をなす、此の地風景昭和三年に在つて猶斯くの如し、徃昔の好景蓋し察するに余りあり、早稲田電車終点より車に乗り飯田橋に抵り、歩みて神楽阪を登る、日既に来れ商舗の燈火燦然として松飾の間より輝き出るや、春着の妓女三々五々相携へて来徃するを看る、外套の夜色遽に新年の景況を添へたるが如き思あり、田原屋に入りて晩餐をなし、初更壺中庵に帰りて宿す、
二月廿二日 朝曇りしが次第に晴れわたりて風あたゝかなり、成嶋柳北の書簡航薇日記獄中詩稾その他凡て大嶋氏より借りたりし文書を整理し使の者に持たせて同氏の手許に返送す、午後日高君来訪、銀座に出て酒肆太牙に登りて笑語半日を消す、風月堂に立寄り晩餐を食して帰る、
四月十日 春雨霏々たり、無産党員上原某面会強要のことにつき万一の備をなさむとて、電話にて平井弁護士を招ぐ、平石今日は浦和にて用事ありてこれより停車場に赴かむとする処なりとの事に、明日を待ちて面談せむことを約す、余窃に思ふに、この度無産党員のわが家に来襲せしは過般改造社春陽堂両店より受取りたる一円本印税巨額に達したるを探知し、脅迫して之を強奪せむと欲するものなるべし、事件は猶甚しく切迫せざるを以て未警察署には訴出でざるなり、縦へ訴出づるも今日は警察署は果して能く此等不逞結社の暴行を制圧すべき力あるや否や疑なきを得ず、震災後わが現代の社会を見るに其の表面のみ纔に小康を保つに過ぎず、政府の威信は政党政治のために全く地に堕ち、公明正大の言論は曾て行はれたることなく暴行常に勝利を博するなり、当今の世は幕府瓦解の時代と殆ど異ることなきが如し、乱世に在つて身を全くするは名心を棄て跡を晦ますより外に道なし、戊辰の変に当り鴻儒息軒先生は市中を捨てゝ郊外の農家にかくれ、成嶌柳北はいまだ帰商の許を幕府より得ること能はざりし時毎夜本邸に帰らず巧に其の所在をくらましたり、余の如きは一介の戯作者に過ぎずその身分その地位前賢と比較すべきものにあらざるや言ふを俟たず、然るにたまたま売文の資を得るや兇悪なる結社の党人日々来つて之を奪ひ去らんとす、世道人心の敗頽は幕府衰亡の際より更に一層甚しきものありと謂ふべきなり、余は既にこの度の事起ざる以前より世の有様を見て文筆を棄てむと決心し居れるなり、幸にお歌三番町に引移り待合を開店せむとす、これ余が隠家には最適したる処なるべし、時家を出でお歌を訪ふ、夕餉の膳に近鄰の仕出屋山本といふ家より烏賊と独活の甘煮鮪のぬたを取寄す、山の手の物としてはその味賞すべし、十一時家に帰る、雨歇みしかど空猶墨の如し、


昭和四年

正月二日 空隈なく霽れわたりしが夜来の替えいよいよ烈しく、寒気骨に徹す、午前机に向ふ、午下寒風を冒して雑司ヶ谷墓地に徃き先考の墓を拝す、墓前の梅今猶枯れず花正に盛なり、音羽の通衢つうく電車徃復す、去年の秋頃開通せしものなるべし、去年此の日お歌を伴ひ拝墓の後関口の公園を歩み、牛込にて夕餉を食して帰りしが、今日は風あまりに烈しければ柳北八雲二先生の墓にも詣でず、車を倩ひて三番町に立寄り夕餉を食し、風の少しく鎮まるを待ち家に帰る、夜はわづかに初更を過ぎたるばかりなれど寒気忍びがたきを以つて直に寝につきぬ、


昭和十二年

十一月初三。……この日また奇怪なる葉書に接したり。成嶋武夫といふ人柳北先生が曾孫の由にて、去昭和二年余が大島隆一氏より借覧せし柳北先生の日誌その他の文章を返済せよといふなり。余はその当時既にこれを大島氏に返付したるに、大島氏は右成島武夫に対して文書は今以て永井方にある由いひをるとなり。二氏に対して各手紙を郵送す。


昭和十八年

二月十日。晴。午後大島隆一氏来話。成島柳北に関する著述の序を需めらる。


昭和二十年。

ーー従弟の杵屋五叟の熱海の疎開先(木戸別邸)を頼って寄寓するが、そのときの日記にも次ぎのように現われる。

昭和二十年九月五日。秋霖の天気午に近くして初て霽る、木戸氏の留守宅頗廣大なり、鑛泉を引きたる廣き浴室もあり、書齋は西洋づくりにて活版の書冊多し、偶然架上に柳北全集のあるを見出し驚喜して巻中の航薇日誌を讀む、餘今黄薇の地を去り東行して熱海に来る、熱海は柳北が晩年病を養ひし處ならずや、餘弱冠のころより柳北先生の人物と文章とを景慕して措く能はざるもの、今その遊跡の同じきを知り歓喜の情更に深きを覚ゆ。


「大島隆一(成島柳北の外孫)が荷風の知遇を得たのは、偏奇館に程近い南葵文庫の司書をつとめていた高木文の仲介によるもので、大島が最初に偏奇館の主と対面したのは大正15年7月14日」(前田愛『成島柳北』)

杵屋五叟(大島隆一)は、永井家の家系図をみると、荷風の父の弟の大島久満次の息子となっている。



とすれば、すなわち大島隆一氏が成島柳北の外孫とすれば、大島久満次の配偶者が柳北の娘だということか?


(成島柳北関係系図

だがインターネット上には、大島久満次の妻が梅子であるという記述には行き当たらない。森繁久彌が柳北の姪孫だなどという記述には行き当るが、それも憶測の範囲を出ないらしい((成島柳北関係系図)に記されている柳北研究家前田愛による)。

ここで上には掲げなかったふたつの日記の記述(昭和二年正月十一日と昭和二十年三月十日)を並べてみよう。

昭和二年正月十一日。夜来の雨午後に至りて歇む、麹坊の妓電話をかけ来りしかば日暮湘南亭に赴き夕餉をともにす、一浴して後帰途余あまりに月よかりしかば銀座に出て太牙楼に登る、邦枝氏と会ふべきことを約したればなり、婢百合子とて近き頃まで牛込の妓なりし者とて、先夜おはなし申せし大島さま今宵折好く階下に来りて待ちたまへりと告ぐ、是先年亡せたまへる大島叔父の遺子にて及予が従弟に当るべき人なり、叔母君と二人にて今は千駄ヶ谷あたりに澄みたまへる由曾て北堂より聞きし事ありかど、予は旧邸売却の後は親戚のものとは全く音信を通ぜざるを以て今日まで相見るの機なかりしなり、人の語る所によれば大島叔父の遺子は杵屋五三の門弟にて三絃をよくすと云ふ、白皙長身、鼈甲の眼鏡をかけ毛皮襟付の二重廻に白足袋をはきたる風采宛あたかも長唄の師匠の如し、中村成弥とは既に相識れりと云ふ、折好く成弥も来合せたりしかば共に階下の酒場に行き初対面の挨拶して後語り興じぬ、酒肆太牙は予に執りては寔これ奇遇の地と云ふべきなり、過日は今村白瀧君の如き旧友と邂逅し、今宵は偶然未知の族人と款語するを得たり、銀座の酒肆喧騒囂そうきょう厭ふべしと雖いえども猶全く棄つべきにあらず、
昭和二十年三月十日。町會の男來り、罹災のお方は焚出しがありますから仲の町の國民學校にお集り下さいと呼び歩む。行きて見るに向側なる齒科醫師岩本氏その家人と共に在るに逢ふ。握飯一個を食ひ茶を喫するほどに旭日輝きそめしが、寒風は昨夜に劣らず、今日も亦肌を切るが如し。予は一まづ代々木なる從弟杵屋五叟の家に至り身の處置を謀らんと、三河臺電車停留塲に至りしが、電車の運轉する樣子もなし。六本木の交番にてきくに靑山一丁目より澁谷驛までは電車ありとの事に、其の言ふが如く澁谷に行きしが、省線の札賣塲は雜沓して近寄ること能はず。寒風に吹きさらされて路上に立つてバスの來るを待つこと半時間あまり。午前十時過漸くにして五叟の家に辿りつきぬ。

昭和二年の記述には《是先年亡せたまへる大島叔父の遺子にて及予が従弟に当るべき人なり》となっている(荷風の叔父大島久満次は、1918年(大正7年)4月27日)に亡くなっている)。しかも《人の語る所によれば大島叔父の遺子は杵屋五三の門弟にて三絃をよくすと云ふ》とあるように、この人物が大島隆一(杵屋五叟)であろう。そして昭和二十年の記述は《從弟杵屋五叟》とあるように、空襲罹災時に頼ったのも、同じ大島隆一氏である。

ところで、大島一雄なる方の次男は、荷風の養子になっている。それは次ぎの叙述によれば、昭和十九年のことらしい。

荷風が亡くなったのは、昭和34年4月30日のことである。一人暮らしの独居死であった。独居死をしたことについては、当時の新聞で読んだのかははっきりしないが、私の記憶の中にもある。

 永井さんが荷風の養子になったのは、昭和19年、11歳、荷風が64歳のときである。永井さんの実父大嶋一雄は、杵屋五叟という名をもつ長唄人。荷風のいとこで、親戚を嫌っていた荷風が唯一親しくしていた一雄と荷風が永井さんを養子としたのである。養子といっても、永井さんは実父母と生活を共にし、荷風が戦災に会い、一雄さん一家の家に住んだとき以外、一緒に住んだことはない。

 昭和30年頃、荷風と一雄が仲違いをしたことから、荷風は永井さんとの養子縁組の解消をしようとした。一雄は、荷風のわがままと考えていたようだが、永井さんは、11歳のときに、永井姓を名乗らされ、10年以上使ってきた姓をまた変えることになとして、養子縁組を解消することを断り、解消の話は亡くなった。(書評:『父 荷風』 永井永光

とはいえ、荷風はすでに昭和一六年に次ぎのように従弟杵屋五艘に遺書を送っている。


昭和一六年。

一月十日。陰。午後南総隠士来話。昏暮小野すみといふ婦人来話。旧臘北越糸魚川より小説の草稿を送り来りしものなり。在京中は故大槻如電の孫某氏の家心やすき由にて厄介になれるなりといふ。南総氏と共に銀座に飰はんして浅草に至る。雨降り来りしが帰るころには雲間に月を見たり。南風吹きて暖なり。深夜遺書をしたためて従弟杵屋五艘の許に送る。左の如し。

一拙老死去の節ハ従弟大嶋加寿夫子孫ノ中適当ナル者ヲ選ミ拙者ノ家督ヲ相続セシムルコト。ソノ手続ソノ他万事ハ従弟大嶋加寿夫ニ一任可致いたすべし事。

一拙老死去ノ節葬式執行不致候。

一墓石建立致スマジキ事。

一拙老生前所持ノ動産不動産ノ処分ハ左ノ如シ。

一遺産ハ何処ヘモ寄付スルコト無用也。
一蔵書画ハ売却スベシ。図書館等ヘハ寄付スベカラズ。
一住宅ハ取壊スベシ。
一住宅取払後麻布市市兵衛町一ノ六地面ノ処分ハ大嶋加寿夫ノ任意タルベキ事。

西暦千九百四十年十二月廿五日夜半認之これをしたたむ。
日本昭和十五年十二月廿五日
荷風散人永井荘吉
従弟 杵屋五艘事
大嶋加寿不殿

ところで、次のような文がある、《著者(永井永光)は荷風の従弟で長唄三味線方の杵屋五叟(大島一雄)の次男として生まれた》と。

著者は荷風の従弟で長唄三味線方の杵屋五叟(大島一雄)の次男として生まれた。荷風の父久一郎と五叟の父久満次が兄弟で、久満次は大島家に養子に入り、一雄をもうけた。久満次もまた官吏で、台湾民政長官を経て神奈川県知事になるという高官だったという。

荷風と五叟には26歳の年齢のひらきがあったものの、役人が多く真面目な永井家のなかで「遊び人」同士ということで、二人はウマがあった。五叟は荷風を「先生」と呼んで尊敬し、荷風も麻布偏奇館が戦災で焼失したとき、代々木に住んでいた大島家を頼る。(書評:永井永光『父 荷風』

とすれば、大島隆一と大島一雄は同一人物のようにみえる。

いずれにせよ、「断腸亭日乗Wiki」なるものにある《大嶋隆一。成島柳北の外孫。荷風先生の叔父。大島一雄の父》なる叙述は間違いではないか。この叙述だと、大島一雄氏が、大島隆一氏の子どもということになり、永井永光氏が語ったとされる叙述とは相矛盾する。かつまた大島隆一氏は、荷風の叔父ではなく、従弟であることは上で見た。

…………

永井家の系譜を眺めているなか、高見順が、荷風の従弟であることに気づいた。いや、そうであるという朧な記憶がなかったわけではないが(たぶん吉行淳之介のエッセイか?)、ほとんど失念していた。

次ぎの文は岩波文庫版の断腸亭からは省かれている(「荷風と高見順」より)。


昭和十一年九月五日


八月末の日記にしるせし高見氏のことにつき、その後 また聞くところあり。氏は近年執筆せし短編小説を集め起承転々と題し、今年7月改造社より単行本としを公にしたり。書中私生児と題する一小編は氏の出生実 歴を述べたるものにて、実父阪本翁一家の秘密はこれが為悉く余に暴露せられたりと云ふ。気の毒のことなり。阪本翁は余が父の実弟にて・・・儒教を奉じて好 んで国家教育のことを説く。されど閨門治まらず遂に私生児を挙ぐるにいたりしも恬として恥じるところなく、貴族院の議場にて常に仁義道徳を説く。余は生来 潔癖ありて、斯くの如き表裏ある生活を好まざるを以て三四十年来叔姪の礼をなさず、・・・・偶然高見氏のことを聞き、叔父の迷惑を思ひ、痛快の念禁ずべか らずなり。


「青空文庫」の2016年は、谷崎潤一郎、江戸川乱歩、梅崎春生、高見順が登場するようだ。高見順の小説は、かつて(二十歳前後)、『いやな感じ』というかなり長い小説をのみ読んだことがあり(わたくしは小説読みではなく、たとえば太宰も芥川もほとんど読んでいない。なぜ高見順のその本を手にとったのか、実家にあったのか、それとも古本屋で手に入れたのだったか、これも失念している)、なかなか面白かったという印象のみ記憶にある。






2015年3月13日金曜日

「屎ト云フモ可ナリ、 屁ト云フモ亦可ナリ」(成島柳北)


成島柳北の「超越論的」態度」より引き続く。

…………

「好古小言」上漁史

今余ガ思フマヽヲ書キ綴リテ、
世ノ好古家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、
ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。
…………

蚊居肢子世ノ好事家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、
ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。

柳北研究諸家ノ論ヲ眺ムルニ
其ノ文恰モ謹厳居士ノ如ク
濹上氏ノ諧謔ナク
濹上氏ノ対句ナシ
其ノ退屈ナル之レヲ号ケテ
屎ト云フモ可ナリ、
屁ト云フモ亦可ナリ。

諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。

考証ハ固ヨリ有用ナレド、
務メテ雅致ヲ失ハズ、
空シク理窟ニノミ流レザルヲ可トス。
井蛙先生少シク注意シ給フ可シ。

平成二十七年三月十三日昼、蚊居肢子斎戒沐浴シ、
恭シクにいちぇノ文ヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

…………


「祭舌文」成島柳北


明治十年二月十三日、濹上子斎戒沐浴シ、
恭シク一壜ノ葡萄酒ト一臠ノ牛肉トヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。
其文ニ曰ク、嗚呼吾ガ心ハ謹慎ニシテ吾ガ胆ハ縮小ナリ。
生来未ダ嘗テ狂暴悖戻ノ事ヲ為サズ。
然ルニ汝三寸ノ贅物妄リニ喋々トシテ遂ニ意外ノ禍害ヲ招キ、
吾ヲシテ飛ンダ迷惑ヲ為サシメタル。


「他山の石 」成島柳北

濹上子晩酌シテ酔ヘリ。
寝ニ就カントスルニ猶早シ、
書ヲ読マントスルニ亦懶シ。
我輩ガ常ニ筆墨ヲ弄シテ日ニ数千百字ヲ駢列スルモ、
未ダ曾テ一人ノ笑ヲ皷シ一人ノ泣ヲ醸スコト能ハズ、
其ノ無用ナル之レヲ号ケテ
屎ト云フモ可ナリ、
屁ト云フモ亦可ナリ。


「土用干ノ記 」上漁史

阮氏ノ褌ヲ曝スハ少シク激ニ失シテ長者ノ風無シ。
郝生ノ腹ヲ曝スハ甚ダ傲ニ失シテ君子ノ笑ヲ免レズ。
三伏ニハ唯ダ世俗ニ随ヒ、曝ス可キ物ヲ曝スゾ善ケレ。
強ヒテ奇ヲ好ムハ何ノ用ニカ立ツ可キヤ。

「阿房山賦」 成島柳北

妓ヲ揚ゲル玉ヲシテ玉川ノ砂利ヨリモ多ク、
妾ニ投ズル金ヲシテ深川ノ薮蚊ヨリモ多ク、
了簡ノ浮々シタルハ海ニ在ル水母ヨリモ軽ク、
鼻ノ下ノ延ビ過ギタルハ電信ノ張鉄ヨリモ長ク、
智慧分別ハ雨夜ノ蛍火ヨリ少ナク、
行跡ノ見苦シキハ折助ノ附合ヨリ甚シカラシム。


「忙ノ説 」上漁史

濹上子性甚ダ閑ヲ好ム。
而シテ一歳ノ中閑ヲ得ルノ日ハ稀ニシテ毎ニ忙ニ苦シム。
窃カニ謂フ新年ハ少シク閑ヲ貪リ以テ自カラ慰セント。
然ルニ一日ヨリ今日ニ至ル迄一日ノ閑無ク一刻ノ閑無ク困却極レリ。
家ニ在レバ故交新知来タリテ応接暇無ク、
社ニ出レバ論士説客来タリテ送迎ニ労ス。
之ヲ謝セントスレバ無礼不敬ヲ以テ譴責サレンヲ恐ル。
之ヲ謝セザレバ新聞ノ手伝ヲ為シ火之元ヲ見廻ハル能ハズ。
朝ヨリ暮ニ至ル迄息ヲ休ムル間無シ。


「ごく内ばなし」成島柳北

獄内ニ在テハ意ヲ一身ノ安危存亡ニ注ス。
何ノ暇カ能ク心ヲ男女ノ欲ニ動カサン。
偶々 洗濯婆々ノ皺面ヲ見テハ遙ニ老妻ヲ想ヒ、
囚繋女子ノ垢顔ヲ拝シテハ誤テ青楼ノ尤物【ベツピン】ナリト疑フノミ
新鮮ノ空気ニ触ルヽこと稀レニ、身ヲ垢衣汗物ノ中ニ埋メ、穢臭ノ鼻孔ヲ穿ツ

成島柳北の「超越論的」態度

数日前、「「ヘチマオヤヂ」とその愉快な仲間たち」ーーすなわち成島柳北とその愉快な仲間たちーーとの表題の文を掲げたが、それに引き続く。

…………

昭和三年二月十二日。……終日柳北先生の『獄中詩稾』および『禁獄絵入新聞』二葉を謄写す。獄中無聊のあまり囚人の用る浅草紙に都都一狂歌戯文などを書し獄丁の目をぬすみて回覧せしものなり。当時の文士は鉄窓の下にありても余裕綽々たることかくの如し。画工暁斎も獄に投ぜられるを機となし獄裏の光景を写生したりき。これを野依らの如き今日の操觚者に比すれば人物霄壌の別察するに余りあり。

荷風の『断腸亭日乗』には、成島柳北の名が頻出する。以前はあまり気にとめずに、どんな人物かを殆んど知らぬままであったのだが、ここ数日すこし調べてみてはじめて気づいたことは、青空文庫でも柳北の作品を八作品ーーどれも短いものだがーー読むことができるということだ。それが思いの外おもしろい。

ここでは、上に掲げた荷風の文、《獄中無聊のあまり囚人の用る浅草紙に都都一狂歌戯文などを書し獄丁の目をぬすみて回覧せしものなり。当時の文士は鉄窓の下にありても余裕綽々たることかくの如し》の柳北面目躍如とでもいうべき「祭舌文」にのみ触れる。

「祭舌文」とは、舌禍事件による四ヶ月の囚人生活の一周年を祭る文章なのだが、そこには、《加之獄則ノ厳ナル吾ガ心惴々トシテ遵奉ノ暇有ラザル也。獄吏来レバ叩頭シ獄卒来レバ頓首ス。猶土百姓ノ戸長先生ニ出遭フタルガ如シ。然ルニ汝ハ動モスレバ平生ノ悪癖ヲ発シ来リ、時々得意ノ詩文ヲ吟誦シ、或ハ隣房ノ人ニ私語セリ》などとあり、この吾から汝(吾の舌)への語り掛けは、自己対象化の力としてのユーモアが溢れ、ーーボードレール曰く、ユーモアとは《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》ーー現代日本のわれわれの多くに欠けているのはこの力ではないか、と思いを馳せさせもする。そもそも「諷刺」とは本来このユーモアの力をもつものだろう。

良質の諷刺には愛嬌がつきものである。しかし、過激でない諷刺、「他者への配慮」によって去勢された諷刺など諷刺とは言えず、諷刺のないところには民主主義も文化もない。(浅田彰「パリのテロとウエルベックの『服従』」

さてここで、二人の偉大な思想家の「ユーモア」の定義ーー両者は「超自我」の扱い方が異なるのだが、それはこの際やりすごしてーーそれを掲げておこう。

誰かが他人にたいしてユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、きわめて自然に次のような解釈が出てくる。すなわち、この人はその他人にたいしてある人が子供にたいするような態度を採っているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。(フロイト「ユーモア」 フロイト著作集3 P408)
ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。

おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。(……)超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとすることと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。(同P411)

ユーモアとは、超自我に対する自我の勝利なのだ。「わかるだろう、きみはどうあがいてみてもすでに死んでいる。きみは劇画の状態としてしか存在しない。そしてぼくに鞭をふるう女性がきみのかわりをするなら、ぼくの内部で撲たれているのみまたきみなのだ。……きみ自身がみずからを否定するのだから、ぼくはきみは否認するのだ」。(……)

われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。」。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 pp.153-154)

結局、ユーモアとは、「強い視差 parallax」をもつ、あるいは「超越論的」態度のことであり(参照:超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)、柄谷行人風に言えば、トランスクリティークである。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」ーー「「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」」より)


以下、このユーモア、あるいは超越論的態度の見事な実践、「祭舌文」全文である。

明治十年二月十三日、上子斎戒沐浴シ、恭シク一壜ノ葡萄酒ト一臠ノ牛肉トヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。其文ニ曰ク、嗚呼吾ガ心ハ謹慎ニシテ吾ガ胆ハ縮小ナリ。生来未ダ嘗テ狂暴悖戻ノ事ヲ為サズ。然ルニ汝三寸ノ贅物妄リニ喋々トシテ遂ニ意外ノ禍害ヲ招キ、吾ヲシテ飛ンダ迷惑ヲ為サシメタル。思ヒ出ダセバ去年今月今日ニシテ、即チ一周年ノ忌辰ニ当レリ。其日ノ景况ハ如何ナリシト思フゾヤ。天色惨澹トシテ朔風雪ヲ捲キ、早朝墨水ノ家ヨリ本社ニ至ルノ間、既ニ五臓モ凍断セントシタリ。既ニシテ後事ヲ託シ社員ニ別レヲ告ゲ、本社ノ編輯長末廣氏ト同車シテ、町用先生ニ随従シ法廷ニ出レバ、風愈ヨ烈シク雪愈ヨ劇シ。竟ニ汝ガ罪戻ニ坐シテ辱ナクモ四箇月ノ禁獄ト一百円ノ罰金ヲ頂戴シタルハ、実ニ本日ノ十一時二十分比ニテ有リキ。汝平生巧ミニ弁シ細カニ論ズルモ、是ノ時ニ当テハ最早一言ノ以テ吾ヲ救フベキ権力無ク、黙々トシテ吾ガ獄卒ノ為ニ叱咤セラルヽヲ傍観シタルノミ。風雪ノ漫々タル中ニ徒跣シテ獄門ニ到ルノ際、吾ガ肌膚ハ身ニ粟シ吾ガ手足ハ尽ク亀ス。衣ヲ解キ褌ヲ脱シテ獄吏ノ検査ヲ受ク。厳寒ノ身ニ逼ルヤ吾ガ歯牙尽ク戦フテ汝独リ晏如タリ。亦何ゾ不人情ナルヤ。其ノ幽室ニ鎖サルヽニ及ンデハ、鉄檻木凛乎トシテ一星ノ火無ク、々タル雪片ノ来ツテ窓ヲ撲ツノ声ヲ聴クノミ。坐ニ一帙ノ書無ク身ニ伴フモノハ唯糞桶唾壺ノ二物ノミ。豈ニ馬鹿々々シカラズヤ。然ルニ汝ハ毫モ吾ガ心ノ憂悶ナルニ関セズ。飯来レバ之ヲ食ヒ茶来レバ之ヲ飲ミ、欣々然タル挙動平日ニ異ナルコト無カリシ。亦何ゾ不人情ナルヤ。加之獄則ノ厳ナル吾ガ心惴々トシテ遵奉ノ暇有ラザル也。獄吏来レバ叩頭シ獄卒来レバ頓首ス。猶土百姓ノ戸長先生ニ出遭フタルガ如シ。然ルニ汝ハ動モスレバ平生ノ悪癖ヲ発シ来リ、時々得意ノ詩文ヲ吟誦シ、或ハ隣房ノ人ニ私語セリ。是レガ為メニ恐ロシキ呵責ヲ蒙リ、殆ド吾ガ肝ヲ潰シ吾ガ腸ヲ裂カシメントシタリ。亦何ゾ不人情ナルヤ。幸ニ天公ノ吾レヲ愛憐スルト、吾ガ精神ノ外物ニ屈撓セザルトヲ以テ、纔カニ獄中ノ鬼トナルヲ免レ、再ビ娑婆世界ニ出デヽ縦放不羈ノ身ト為ルヲ得タリ。豈危カリシニ非ズヤ。抑モ汝ハ六国ノ相印ヲ佩ブルノ能モ無ク、又七十余城ヲ下ダスノ力モ無ク、常山賊ヲ罵ルノ烈ヲ学ブ能ハズシテ、反ツテ生客ニ死スルノ拙ヲ免レザラントス。亦哀シム可キノミ。然リト雖ドモ吾ガ平生ノ生計亦汝ニ頼テ立テリ。豈一時ノ惨禍ヲ受ケシガ為メニ汝ト絶ツノ心有ランヤ。吉凶栄辱将ニ汝ト永ク相終始セントス。今ヤ一周年ノ忌辰ニ値ヒ、思旧感今ノ情ニ堪ル能ハズ、聊カ懇々ノ襟懐ヲ陳ズ。汝其レ言ハント欲スル所ロ有ル耶。汝将タ食ラハント欲スルモノ有ル耶。汝其レ遠慮スルコト莫レ。嗚呼可笑イ哉尚饗

…………

柳北は1872年(明治5年)、欧州視察しているのだが、《欧州では岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった》(ウィキペディア)そうだ。

新政府組閣の際(……)、木戸が岩倉(議定)の使いとして、向島の成島邸に赴き「この際ぜひ文部卿を……」と懇請しているが、柳北はキッパリこれを断わっている。彼としては「旧幕臣として仕えたじぶんだ、なにも今更いなか侍どもと……」といった気持があったであろう。いわば周の粟は食まずの心境か、薩長土肥のむかしの傍若無人ぶりが柳北には目障りだったものとみえる。(田坂長次郎「成島柳北と英学」)

柳北の経歴については、インターネット上で比較的まとまって書かれた紹介文は、わたくしが気づいた範囲では、壺齋閑話氏の「成島柳北」がある。荷風の「柳北仙史の柳橋新誌につきて」からの引用もある。また成島柳北の文章に則って記述されたものとしては、《ふつーのサラリーマンが片手間に調べた》と謙遜されているが、驚くべき詳細に亘る「成島柳北」がある。

ここでは後者から青空文庫では読むことができない成島柳北の名高い「ごく内ばなし」ーー柳北が入獄中のことを述べた文章で、明治九年六月一四~二四日にかけて朝野新聞上に掲載――の一部を抜粋しよう。《偶々洗濯婆々ノ皺面ヲ見テハ遙ニ老妻ヲ想ヒ、囚繋女子ノ垢顔ヲ拝シテハ誤テ青 楼ノ尤物【ベツピン】ナリト疑フノミ》という文に遭遇してことさら愉快になることができる。

食色ハ人ノ大欲ニシテ、聖賢デモ口ノ通リニハ参リ申サズ。凡夫ハ言フ迄モ無シ。 縦令僕輩ノ如キ謹慎恭順ナル禁獄人ト雖ドモ、此ノ二欲ヲ断ツハ甚ダ難シトス。サレド獄内ニ在テハ意ヲ一身ノ安危存亡ニ注ス。 何ノ暇カ能ク心ヲ男女ノ欲ニ動カサン。 偶々洗濯婆々ノ皺面ヲ見テハ遙ニ老妻ヲ想ヒ、囚繋女子ノ垢顔ヲ拝シテハ誤テ青 楼ノ尤物【ベツピン】ナリト疑フノミ。 是レ其欲点ノ至ルトコロ極低ノ度ニ在ルヲ以テナリ。食ニ至テハ然ラズ。 獄裏ノ快楽、唯読書ト喫飯ニ在リ。(読書ハ多キヲ厭ハズ。食ハ極メテ節ス可シ。 多ケレバ必ズ大害アリ)。 官ヨリ給スル三度ノ食モ着袴時代ヨリ漸々上進シ、方今ハ下等私塾ノ食ト級ヲ同ウ ス。 且、親戚知己ノ贈遺【サシイレ】物アリ 。 〔贈遺ハ牛肉鶏卵ヲ佳トス。


さて、ここではもう少しーー上のふたつのサイトからではなくーー、別の論文(ウェブ上PDF)から引用する。

成島柳北先生は江戸の人である。通稱は甲子太郎,後に惟弘と改めた。諱は弘,字は保民,柳北はその號である。祖父司直は,大學頭林述齋に學び,幕府奥儒者將軍侍講に任ぜられ,命を受けて 『德川實記』を編纂した。先考筑山も亦幕府奥儒者と爲り『後鑑』を編むでゐる。先生は幼より祖父及び先考の膝下に薫陶を受け,弱冠にして家學を繼ぎ,翌年布衣に列し奥儒者に任ぜられた。將軍家定・家茂二代に經學を講じ,父祖の業を承けて『德川實記』・『後鑑』等の訂正補修に從た。また狹斜に親むこと深く『柳橋新誌』 (初篇)を著し,江都の紙價をして高からしめた。幕府の衰へるに及び慨然として報國の念已み難く,「佛蘭西騎兵傳習」を建議し,騎兵頭竝に擧られ,陞せられて騎兵頭となつた。後に移て外國奉行となり, 會計副総裁に轉じて, 幕府挽回の策に盡瘁した。

しかしながら,大廈の將さに顚へらんとするや,一木の能く支ふる所に非らず。遂に丁卯戊辰の瓦解に逢た。後にその才を以て新政府に聘せられたが,貳臣となるを屑しとせず,しばらく東本願寺現如上人に從ひ西遊した。歸國の後『朝野新聞』に聘せられて,社長兼主筆と爲た。是において,先生時論を以て斬人斬馬の筆を揮ひ,藩閥政府をしてその心胆を寒からしめたのであるが,政府はこれを惡み先生を獄に下すこと一度び,その新聞紙の發兌を禁じ,罰金の刑に處することに至ては幾度なるか算するべからざるものがあつた。先生もと質蒲柳,病に冒され,明治拾七年拾一月三拾日を以て易簀した。年を享くること四拾有八。(成島柳北「先生國」注解 成島柳北「柳北奇文 巻上」『明治文学全集 4(成島柳北 服部撫松 栗本鋤雲集)』(筑摩書房))
明治維新以後、旧幕臣に与えられた道は、徳川氏に従って駿河に移住するか、士籍を脱して農工商となるか、帰順して「朝臣」となるか、脱走して反政府軍に参加するかのいずれかであったが、一部の成功者と除けば、それぞれ時代の荒波に揉まれ、社会の底辺に埋没する方向にあった。

成島柳北は、旧幕府では外国奉行・会計副総裁などを歴任したにもかからわず、維新以後には下野して菅途に就かず、民間に生きることを決心した。(乾照夫「成島柳北と『東京珍聞』」)


かつまた、『硯北日録』の万延元年一日には次のような文があるそうだ(高橋昭男「将軍侍講成島柳北の公と私」より)。

正月大
朔 丙寅。曇乍晴。五更起、梳浴。讀大學經一章。登 殿。拜賀如本城舊儀。午下拜聴 上讀大学三綱領于便殿後堂。(原文句読点なし)

一日 丙寅。曇り、乍ち晴れ。五更に起き、梳り浴す。大学経一章を読む。殿に登り、拝賀するに本城に如くこと旧儀なり。午下、上の便殿後堂に大学三綱領を読むを拝聴す。

(将軍侍講の勤めは、元日の登城から始まる。午前五時ころには起床し、頭髪を整え、入浴して身体を清め、『大学』の一章を読む。午前中、城内では旧例により元日の将軍への拝賀の儀がある。午後、休息の間にて将軍自ら大学三綱領をお読みになるのを拝聴する)。

「将軍侍講」とは「奥儒者」のことであり、《一般に天皇・皇太子・親王,君主などに学問を進講した学者。侍読(じどく)とも。江戸時代,林羅山は徳川家康に近侍し,秀忠に講書し,家光の侍講を命じられ,家康~家綱の4代将軍下問に応じて諸法度・外交・典礼などに関与した。》(侍講【じこう】)とのこと。

とはいえ、成島柳北一人が将軍の教育係をやっていたわけではなく、《将軍侍講の職には、もうひとり小林栄太郎がおり、『日録』によれば、交代で講義を行なっていた》(同「将軍侍講成島柳北の公と私」)

ところで、上の柳北文に、『硯北日録』万延元年元日には、《将軍自ら大学三綱領をお読みになるのを拝聴する》とあったが、万延元年(1860年)時の将軍とは、徳川家茂である。

安政5年(1858年)

10月死去した将軍家定の後を受け、僅か13歳の徳川慶福(家茂)が将軍に就任する。(幕末伝習隊関係年表

すなわち万延元年(1860)の元日には、十四代征夷大将軍である十五歳の少年の朗読を拝聴したということになる。


以下に、明治維新直後(1868年秋31歳)に書かれた成島柳北の半自叙伝『濹上隠士伝』を掲げるが、そこには、《十八の春 温恭大君の侍講見習となり、幕朝実録編輯の事を督せり。二十歳の冬侍講となり、昭徳公に読書を授け奉る》とあり、この「昭徳公」が十四代将軍・徳川家茂の諡号のことのようだ。もっとも柳北二十歳時(1856年(安政三年)ーー柳北は1837年生-1884年没である)は、家茂はいまだ将軍ではなく、当時は家定(1824年生―1858年没)が将軍であった。かつまた家茂(1846年生―1866年没)は、若死(21歳)だが、柳北はその短い最期まで家茂に仕えたわけではないようだ。

慶応2年(1866年) 1月薩長同盟成立。 6月幕府による第二次長州征伐始まるが、幕府は長州藩に対して、連戦連敗。 4月フランス政府、幕府の軍事顧問団招聘を決定。ブリュネ中尉、参加することとなる。 7月将軍家茂、大阪城で死去。 8月勝海舟は幕府代表として、厳島で長州藩広沢兵助らと合議制実現を条件に停戦交渉を行うも、一橋慶喜は約束を反古にして朝廷をして将軍家茂の死去による一時休戦という勅命を出さしめ停戦を計る。 一橋慶喜は前将軍家茂の後を継いで、徳川家を継承する。但し、将軍職は固辞する。 12月徳川慶喜は孝明天皇の求めにより、15代将軍となる。しかしながら、同月孝明天皇は急死することとなる。(幕末伝習隊関係年表

高橋昭男氏の「将軍侍講 成島柳北の公と私」によれば、柳北は文久三年(1863)まで将軍侍講の職にあったとあり、家茂18歳前後までの侍講ということになる。なぜ侍講の職を退くことになったのかは、下の半自叙伝には、《一朝擯斥をうけて、散班に入りぬ。そは風流の罪過によると、或は云ふ狷直に過て衆謗を得ると、或は洋学を主張するの故なりと云ふ》とある。


あるいは次ぎのような文章を拾うこともできる。

《文久3(1863),柳北に筆禍事件が起る。彼の時事を風刺 した漢詩が偶々老中の間で 問題となった 。 その段階ですめばよかったが,将軍家茂の耳に入り,その忌諱にふれて,彼は3年間閉門蟄居を命ぜられる。》(田坂長次郎「成島柳北と英学」)


濹上の隠士、その名を惟弘といひ、字を保民と呼ぶ。幼名は甲子麻呂、長じて甲子太郎と改む。天保丁酉の年二月甲子に生れし故なり。冠して温字叔厲と称せしかど、諱むべき事ありて、今の名に改めたり。

其別号は甚だ多し。確堂は、艮齋翁の与へしなれど、三河の老公にふれし故に廃せり。柳北は柳原の北にすむより称せしなり。誰園は、其園の名、春声楼は、其書楼、不可拔齋は、その書室、我楽多堂は、去年造りし一宇の称なり。濹上の荘は、松菊荘とて記文あり。

隠士は、東岳先生の孫にして、稼堂君の子なり。幼より書を読み、和歌を詠す。詩賦は最好む所なり。十七の冬父にわかる。十八の春 温恭大君の侍講見習となり、幕朝実録編輯の事を督せり。二十歳の冬侍講となり、昭徳公に読書を授け奉る。廿一の冬布衣を命せらる。昔の六位にあたるなるべし。後鑑三百七十五巻訂正の労を賞せられて、黄金御衣を賜ひ、実録編輯の勲に因て、俸を新に増し給へり。

十年文字を以て、内廷に奉仕し、君恩の優渥なるに感涙せしが、一朝擯斥をうけて、散班に入りぬ。そは風流の罪過によると、或は云ふ狷直に過て衆謗を得ると、或は洋学を主張するの故なりと云ふ。何れにてもよしとして、三年籠居、西学者に就て、専ら英書を攻む。大に開悟せしことあり。

二十九の秋、突然歩兵頭並に擢でられ、家になかりし千石の禄を賜ふ。其冬騎兵頭並に転じ、仏蘭西騎兵伝習の事を建言し、其命をうけて、翌年より横浜に陣営を造り、大に操練の事を督せり。営築の事、三兵の管轄、みな隠士の手にあり。仏国の教師謝農安は至て親しかりし。三十一の夏に、騎兵頭に登り、二千石に加俸す、その秋、騎兵奉行の事をつとむべきよし命あり。隠士筆硯に成立したけれども、時運に深意ありて、陸軍一局に非常の精神を費せしかど、竟に其志の如くならざるを憤り、病に臥して職を辞しぬ。

家に臥す僅三十日にて、慶応戊辰の早春に、外国奉行に栄転し従五位下大隅守に叙任す。其月の末に会計の副総裁に進み、参政の班に加はれり。此時は大阪敗走の後なり。隠士会計局の空乏なる折に逢ひ、奮てなせし事もあるべし。其詳はしらず。大君の東台に蟄し給ふ後、隠士三千円の俸金と総裁の職を返し奉りて隠る。時に年三十二。其家は義子信包に譲て、市籍に入るとの風説なり。是より後のなりゆきは、乞丐となるか、王侯となる歟、草野に餓死するか、極楽浄土に生るヽかもはかり難し。

大痴公曰、隠士生れて、人に短なる所少なからず、色を好むこと甚し、酒を嗜むこと亦甚し。百般の遊戯好まざる所なく、好て人を罵り、世に悖る。何事をなしても、無益の勉強をなさず、やヽもすれば、懶漫を楽んて、撿束せず、これ其短処なり。然れどもまた長処あり。人と争ふ事を好まずして、人に欺むかれず、己に私すると雖も、人の害となることをなさず、遊蕩に耽るといへども、常に家国の安危を心にとヾめり。これ長ずる所ともいふべき歟。

隠士妙齢より今日に至るまで、遊戯連年、いまだ其倦たるけしきを見す。右の所謂情痴者なる者歟。隠士風雲花月の妙処に逢ふ時は、涎を流し、魂を飛し、酒を把て、陶々として楽む。時に詩歌を草す。所謂風流客なる歟。隠士盛宴に臨み、紅裙前に満るに当て、時として感激扼腕、嬌娜の色も眼に上らず、痛憤按剣の志あり。所謂忼慨悲壮なる者歟。隠士頃者一書を読まず、空々として日を渉る。所謂馬鹿者なる歟。

蓋隠士の言に曰、われ歴世鴻恩をうけし主君に、骸骨を乞ひ、病懶の極、真に天地間無用の人となれり。故に世間有用の事を為すを好まずと。それ或は然らむ、それ或は然らむ。

明治元年秋の末 東京 野史氏しるす

…………

※附記:柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』より

フロイトは、ヒューモアの例として、月曜日絞首台に引かれていく囚人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言った例を挙げている(……)。

フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己をーー時には(三島由紀夫のように)死を賭してもーー蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。フロイトは、先の囚人にとって、こういう態度は快感の源泉であるらしいが、それが関係のない聞き手にも快感を与えるのはなぜなのか、という問いからはじめている。しかし、私はヒューモアを心理学的に説明することに関心がない。実際フロイトも、ヒューモアに、心理学的解明をこえて、ある高貴な「精神的姿勢」を見いだしている。というより、フロイトの姿勢そのものがヒューモアなのである。『文化への不満』によれば、人類の未来には解決がありえない、解決を説くいかなる言説もデマゴギーだ。フロイトの結論は絶望的なものである。だが、それを読む者に(少なくとも私には)解放感を与えるのはなぜなのか。

ボードレールはすでにこの問いに答えようとしたといってもよい。彼は「有意義的滑稽」(ウィット)と「絶対的滑稽」(グロテスク)を分けている。ベルグソンが考察したのは前者であり、バフチンが考察したのは後者である。いずれに場合でも、結局、笑いは笑う者の優越性の徴である。それらを考察しながら、ボードレールは、どちらとも異なるケースを挙げている。

笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴であると同時に無限の悲惨さの徴であって、人間が頭で知っている<絶対的存在者>との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの自我の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話は別だが。(ボードレール「笑いの本質について、および一般に造形芸術における滑稽について」)

その語を使わなかったとしても、ここで、ボードレールが敬意をもって、例外として挙げているのは、ヒューモアである。それは、有限的な人間の条件を超越することであると同時に、そのことの不可能性を告知するものだ。それがメタレベルに立つのは、同時にメタレベルがありえないことを告げるためである。ヒューモアは、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。ヒューモアを受けとる者は、自分自身において、そのような「力」を見いだす。だが、それは必ずしも万人に可能なことではない。

ヒューモアとは、フロイトがいうように「精神的姿勢」であって、むしろ「笑い」とは関係がない。たぶん、われわれにとって、子規の『死後』を読んで笑うことは難しい。しかし、ある条件のもとでは、それがひとを笑わせることはあるだろう。たとえば、ソクラテスの死に立ち会ったとき、弟子たちは笑いをこらえることができなかったといわれる。また、カフカが『審判』を読み上げたとき、聴衆は笑いころげ、カフカ自身も笑いころげたという(ドゥルーズ『サドとマゾッホ』)。子規の友人たちもあのエッセイを読んで笑いころげたかもしれない。そうだとしたら、それは、彼らがそこに「同時に自己であり他者でありうる力」を感じとったからである。 
ついでながらいいうと、人間誰しもがヒューモア的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見いだされない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたヒューモア的快感を味わう能力をすら欠いているのである。(フロイト『ユーモア』)

「成島柳北とその愉快な仲間たち」の一員として、正岡子規を入れなければならない。

余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会にも度々出会い、又そういう事を考えるに適当した暇があるので、それ等の為に死という事は丁寧反覆に研究せられておる。併し死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見ておるのである。主観的の方は普通の人によく起こる感情であるが、客観的の方は其趣すら解せぬ人が多いのであろう。主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢ない感もあるが、或時は寧ろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。(正岡子規『死後』)