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2016年7月7日木曜日

「多恵子、かずこたちの詩」

ふと、手元のアンソロジーのなかにある富岡多恵子の詩を読んで、なんだか急に気にいってしまったのだけれどーーつまり昔は素通りしていた詩だーー、吉岡実が彼女について何か言っていたな、と思いだし探ってみると、タエコとマスオ(池田満寿夫)に小説家を書くように勧めたとある。これは憶えていた。

それとは別に、《多恵子、かずこたちの詩》ともあり、こっちのほうは失念していた。

というわけで、「現代日本でいちばん不道徳な、いちばんエロティックな いちばんグロテスクな、いちばん犯罪的な、…詩を書く詩人」(澁澤龍彦)の〈私の好きなもの〉を掲げる。

ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ているとき。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉一九六八年七月三一日)。

…………

《二十才の春》にも反応しよう。 「昭和16年(1941)夏満州に出征」だから、1919年生まれの吉岡実の出征は、二十二歳であり、「支那」での出来事は、それ以降のどれかの年のことで、《二十才の春》とは、実際には別の話なのかもしれないが、《それはぼくが二十才のとき/死なせたシナの少女に似ている》と《粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた》という文が、わたくしには強い印象が残っている。


半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)

ぼくがクワイがすきだといったら
 ひとりの少女が笑った 
それはぼくが二十才のとき 
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)

コルクの木のながい林の道を
 雨傘さしたシナの母娘 
美しい脚を四つたらして行く 
下からまる見え(同上)

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)。


オレは、吉岡実という人間がひどく好きなんだろうな、その詩と同じくらい。

〈私の好きなもの〉から受ける感じは、金井美恵子が下に記している吉岡実像とそっくりだ。さらに《吉岡さんは、いつも、…平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう》という印象さえ受ける〈私の好きなもの〉の数々だ・・・

……すると、詩人は、身を乗り出すようにして眼を大きく見開きーー自分の言葉と言うか、あらゆる開かれた、外の言葉というものに対する貪欲な好奇心をむき出しにする時、この詩人は身を乗り出して眼を大きく見開くのだがーーロリータねえ、うーん、ロリコンってのは今また流行っているんだってね、と言って笑うのだが、吉岡さんとは長いつきあいではあるけれど、いつも、このての、普通の詩人ならば決して口にはしない言葉、ロリコンといったような言葉を平気で使われる時――むろん、私はロリータ・コンプレックスと、きちんと言うたちなのだーーいわば、自分の使い書いている言葉が、ロリコンという言葉の背後に吉岡実の「詩作品」という、そう一つの宇宙として、それを裏切りつつ、しかし言葉の生命を更新させながら、核爆発しているようなショッキングな気分にとらえられる。吉岡実は、いや、吉岡さんはショッキングなことを言う詩人なのだ。また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しいーー吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だーー家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っていても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したという湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上がって来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上がったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。

もちろん、たいていの詩人や小説家や批評家はーー私も含めてーー人間不信といった言葉を使ったりはしない。

なぜ、そうした言葉に、いわば通俗的な決まり文句を吉岡さんが口にすることにショックを受けるのかと言えば、それは彫刻的であると同時に、生成する言葉の生命が流動し静止しある時にはピチピチとはねる魚のように輝きもする言葉を書く詩人の口から、そういった陳腐な決り文句や言葉が出て来ることに驚くから、などという単純なことではなく、ロリコンとか人間不信といった言葉、あるいは、権力は持ったけれど家庭的には恵まれなかった、といった言い方の、いわばおそるべき紋切り性、と言うか、むしろ、そうではなくあらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性が、そこで、残酷に、そしてあくまで平明な相貌をともなう明るさの中で、あばきたてられてしまうからなのだ。吉岡さんは、いつも、それが人工的なものであれ、自然なものであれ、平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう。(「「肖像」 吉岡実とあう」ーー『現代の詩人Ⅰ 「吉岡実」(中央公論社1984)』所収)


この金井美恵子の文もとってもお気に入りなのだけれど、その原因のなかには、失われたものを懐かしむ心持ちもいくらか混じっている、ーー炬燵での家族団欒の鍋は、母が50歳(1982)で死んだあとにあっただろうか、と。

そもそも、あれ以降、畳のある家に住むことがなくなった。実家もふだんは洋式のテーブルで食事をしたのだけど、大晦日と正月だけは日本間での家族親族の団欒がーーあの前にはーーあった。


2016年7月6日水曜日

美容術の祕藥

喋ることと喋らないことのあいだで、言葉の意味と無意味はずるがしこくいれかわる。(富岡多恵子『女友達』あとがき)




荒木経惟



去年の秋のいまごろ  富岡多恵子


天気にかんしては
あたしゃどうでもよいと云った
ただしあたしは水を撒かねばならない
かな盥に水をいれて
肩にのせてみなくてはならぬ
会話ははじまるだろう
たいていの日の正午ごろ
男のともだちがきているのであった
その男のともだちは女のともだちを
つれているのであった
そのふたりは下界からきて
枕元に腕時計を忘れていって
あたしは得をしたかわりに
かの女に化粧水をかしてやる
男のともだちは
あめりかとか
ぷえるとりことかいう国からきて
おまいさんはわいせつが上手であると
あたしをよろこばせた
ので
あたしの瞳孔はすくなくとも三倍に
ひらいて
舌をひっこめたのである


いままでの詩なら詩というカタチにことばを書いていくことは、書いていく方のにんげんが詩から自分をズラセルということがしにくかった。つまり、詩の正面に坐っていたから自分も見物衆もたいしておもしろくないのであった。わたしは、自分がことばを書くとき、詩であれ何であれ、自分がどのようにズレル所に坐るかに興味をもっている。(富岡多恵子「詩への未練と愛想づかし」)

(ああ、キヅイタカ……この詩と彼女の解説文を、 「女はまだ浅くさえない(ニーチェ)」につなげようとしたのだけど、ヤメタンダヨ・・・、こういったことはすぐさまわかる人は、ぐだくだ言わなくてもわかるだろうし、そうではない人はいくら説明してもわからないだろうから、ーーってのはイイスギかもしれないけど:追記)


…………


富岡多恵子【行為と芸術 十三人の作家】美術出版社 1970.11より


ははあ、よい写真だーー、若き日の芸術家たちの肖像









黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。(……)

本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。(……)

隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)











原動因と遡及性

一般に、ラカンの「四つの言説」の形式的構造は、次のように説明される(この基本構造の上に乗る具体的な「四つの言説ーー主人の言説、大学人の言説、ヒステリーの言説、分析家の言説の各々ーーの基本的解釈は、「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)を見よ)。





話し手は他者に話しかける(矢印 1)。それは、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印 2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印 3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印 4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印 5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? 、私訳)


 古典的なポール・ヴェエルハーゲの1995年の説明なら次の通り。

……フロイトが我々に示してくれたのは、人が話すとき、我々自身には知られていない真理によって駆り立てられている driven ということだ。この真理のポジションが、いずれの言説においても動因 motor として、出発点として、機能する。

真理のポジションはアリストテレス的な原動因であり、すべての言説構造に影響を与える。その最初の帰結は、エージェント(動作主)はどう見てもただのエージェント(代理人)に過ぎないということだ。自我は話さない。自我は(何かによって)話させられる。もちろんこの結論は自由連想の過程にて観察できるが、ふつうの発話行為でさえ同じ結果を生む。実に私が話すとき、私は何を言っているのか知らない。もし私が暗記してその話を覚えていないのなら。あるいは書かれた物から話を読んでいないのなら。そうでないなら、私は話すのではなく、話させられている。そしてこの話は欲望によって駆り立てられている。意識的な同意があろうとなかろうとそうである。これはシンプルな観察による事実だ。だが人のナルシシズムを根本的に傷つける。だからフロイトは人間における第三番目のナルシシズムの屈辱と呼んだ(コペルニクスが人間を宇宙の中心から追い出し、ダーヴィンが人間を生物界の特権的位置から追い出したのに引き続く第三の屈辱である)。

フロイトはそれをとてもはっきりとした表現で刻印している、“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”、「私は自分の家の主人ではない」と。フロイトの公式のラカン版は次の通り。“Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”(シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する)。(Paul Verhaeghe,From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discourses ,1995,PDF)


真理のポジションは原動因とある。この原動因とは何か。

すべてが見せかけ semblant ではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。(ジャック=アラン・ミレール『無意識と話す身体』2014ーー欲動と享楽の相違

四つの言説の上部構造である agent → otherにおいては、上のヴェルハーゲの説明にあるように、我々は話しているのではない。話させられている。《自我は話さない。自我は(何かによって)話させられる》。我々が話す真の動因は、「性関係の不在」と「話す身体」だという観点である(これは一般には、《書かれぬことをやめぬもの [ce qui ne cesse de ne pas s'écrire]》(Lacan, S.20)としての原トラウマともされることが多い)。

「話す身体」については、たまたま拾うことができたアルゼンチンの分析家の簡潔な言い方なら次のようになる。

言説に囚われた身体は、他者によって話される身体・享楽される身体である。反対に、話す身体とは、自ら享楽する身体である。(Florencia Farías,The mystery of the speaking body Argentina, 28th April 2010、PDF)

ーー《それ ça が話す場で、それ ça は享楽する [Là où ça parle, ça jouit]》(S.20)


ところで、「性関係はない」と「話す身体」はどちらがいっそう原動因なのだろうか。

ジジェクはラカンの「性関係はない」il n'y a pas de rapport sexuelから「性的非関係はある」 il y a du 《non‐rapport sexuel 》(S.22)への移行を問うなかで、次のように記している。

ーーこの移行については、ここでは触れない。というのは、ラカンは再び1979年に、性関係はないに再帰したという議論があるため(ロレンツォ・キエーザ、2016)、それを触れだすと、ながながと記述しなくてはならない・・・

さて、ジジェクの文にはこうある。

……部分対象と身体/有機体ーー部分対象が属する身体/有機体ーーとのあいだにも非関係がある。部分対象は身体の「全体」のなかに調和的には挿入されない。部分対象は「その」身体に対して謀反を起こし、自ら勝手に振舞う。しかしながら、この非関係は、二つの性のあいだの非関係とは、単純には相同的ではない。人は言うことさえできる、身体にかんする部分対象の過剰は最初に来る、と。すなわち、それが(後に)二つの(性化された)身体のあいだの非関係を引き起こす、と。(Zizek,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

わたくしは今のところ、この見解、すなわち身体のなかの異物ーー《我々にとって異者である身体[un corps qui nous est étranger](Lacan,S.23)ーーとしての「話す身体le corps parlant」 が性的非関係に先行するという理解をしている(参照:話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant

異物とは次の意味である。

我々はむしろ想定しなければならない。心的トラウマーーより正確に言えば、記憶痕跡ーーは、異物 Fremdkörper として振舞うことを。それは、侵入後も長く作用を及ぼし続ける代理人と見なされなければならない。(フロイト、ヒステリー研究,1895)
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語「 extime (外密).」である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー防衛と異物 Fremdkörper

ラカン自身の「話す身体le corps parlant」をめぐる叙述は、たとえば次のように現れる。

«Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  » (15 mai 1973 du séminaire Encore)

…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(Paul Verhaeghe, (2001). Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. ,PDF、私訳)

…………

ところで、ラカンのセミネール19 には「四つの言説」の形式的構造の変奏として次の図が掲げられている(この図を説明しているラカン注釈者にわたくしはまだ廻りあっていない)。




他方、セミネール17に最初に現れて、一般に流通している「四つの言説」の標準的な形式的構造はくり返せば次の通り。





セミネール19に現れた四つの言説の形式的構造のヴァリエーションにおいて、エージェント(代理人 agent )がサンブラン(見せかけsemblant)なのはよくわかる。生産物 production も剰余享楽 plus-de-jouir であるのは当然だ。

だが、「autre 他者」のところに[jouissance 享楽」が置かれている。これはなぜだろうか?(わたくしにはラカン自身ははっきりそれを叙述していないように見えるし、ラカン注釈者のなかにもその解説が見当たらないままだ)。

だが、semblant →jouissanceという上部構造は、不可能な享楽(エロス)に向かう動きだとしてよいのではないだろうか。その享楽が不可能であるため、不死の循環欲動(剰余享楽)をもたらす、とーー、《リビドーlibidoは…不死の生 vie immortelle…破壊されないindestructible(S.11)》(参照:欲動と享楽の相違)。

(四つの言説の形式的構造の上図には、上部にimpossibles、下部にimpuissanceと示されていることに注目しておこう。)

結局、ジジェクの次の文が多くのことを示唆している。

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

さらに、ドゥルーズは1960年代にすでにこのように言っていることに「瞠目」しておこう。

まさしくエロスこそが、おのれ自身を循環として、あるいは循環のエレメントとして生きるのであって、それに対立する他のエレメントは記憶の底にある〈タナトス〉でしかありえず、それらの両者は、愛と憎しみ、構築と破壊として、引力と斥力として組み合わされるているのである。(ドゥルーズ『差異と反復』)


…………

ところで、上に記された内容と、ジジェクの「四つの言説」を別の仕方で叙述する次の文とをどうやって折り合いをつけたらよいのだろう。

四つの言説のラカンの図式(……)その全ての構築は、象徴的レディプリカティオ reduplicatio の事態を基礎にしている。reduplicatio、すなわちそれ自身のなかに向かう実体 entity into itself と構造のなかに占める場との二重化 redoubling である。それは、マラルメの rien n'aura eu lieu que le lieu(場以外には何も起こらない)、あるいはマレーヴィチの白い表面の上の黒い四角形のようなものだ。どちらも場自体を形式化しようとする奮闘を示している。むしろこう言ってもいい、要素としての場のあいだの最小限の差異と。その要素としての場は、要素のあいだの差異に先行しているものだ。

Reduplicatio (二重化)が意味するのは、要素は決してその場に「フィット」しないということだ。この私とは、私の象徴的付託が「私とはこういう者だ」と告げるものでは決してない。この理由で、主人の言説は必須の出発点となる。その言説のなかにいる限り、実体と場は「一致する」からだ。主人のシニフィアンは、事実、「エージェント」ーーエージェントとは主人のエージェントであるーーの場を占める。対象a は「産出物」ーー産出物とは消化されえない過剰であるーーの場を占める、等々。

そして二重化、要素と場のあいだのギャップ、それが一連の変化を生み始める。たとえば、主人は己れをヒステリー化する(主人の言説からヒステリーの言説への移行)、実際に何がいったい私を主人にしているのだろう、と問い始めることによって。

このように、主人の言説を基盤にして、人は他の三つの言説の発生へと移行してゆく。それは、順々に、他の三つの要素を主人(エージェント)の場に置くことによってである。。(SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.、2004、私訳ーーラカンの「四つの言説」における「機能する形式」

この叙述はすこぶる形式的解釈であり、「原動因」は、場と要素とのあいだのギャップによって遡及的に生み出されると言っているようにさえ読める。

ここでラカン自身の言葉をも引用することができる。すなわち、原初とは最初ではない(S.20)ーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》( séminaire ⅩⅩーーラカンによる「遡及性」とナンタラカンタラ blablabla)と。

原動因とは最初にあるものではない、とすることができるのだろうか?

われわれは「遠近法的倒錯」(ニーチェ)に囚われ、結果を原因として誤認しているのだろうか?

この観点は、ジジェク組が次のように言い放つ文脈のなかにあるはずだ(参照:〈モノ das Ding〉というアトラクター)。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張 「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。 (ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012)
人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身 に対する不十分性 inadequacy にあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、 「純粋に」機能することの不可能性 inability であると。( Alenka Zupancic”WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value" 2006)

ひょっとしたら矛盾と感じられる内容は、《光は伝播する場合には「波動」として振る舞い、 物質粒子(電子など)と相互作用する場合には「粒子」として振舞う》(量子力学の世界)と言われる「量子力学」の世界ーー事実、ジジェクには量子力学への言及が多いーーのようなものなのかもしれないが、わたくしにはいまのところ「本当には」判然としていない。

ただし、「遡及的 nachträglich」とは、フロイトがトラウマを語ったときの用語であることは思い出しておこう(参照1,参照2)。

そしてこの問いは、たとえば「女はまだ浅くさえない(ニーチェ)」にて曖昧に記した、我々にとって「語りえぬもの」が原動因なのか、逆に「語りえぬもの」は言語を使うことが宿命づけられた遡及的な効果なのか、という問いでもある。

主体性の空虚 $ は、語りえるものの彼方にある「語りえぬもの」ではない。そうではなく、語りえるものに固有の「語りえぬもの」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

2016年7月4日月曜日

女はまだ浅くさえない(ニーチェ)

人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番)

さて、ニーチェは何を言っているのだろうか。

ひょっとして女はギリシャ人のようだと言っているなどということはないか。

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ KSA 3,S.352)

冒頭の文の《女はまだ浅くさえない》とは、女たちの、表面に、皺に、皮膚に踏みとどまる性向・表面的な性向を言っているのではなかろうか。まさに仮象の達人としての女と!
いや、それは買いかぶりすぎであろうか。

だがーー。

《女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている![la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant !] 》(ラカン、セミネール18)

どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』)

ーーもちろん解剖学的女性がすべて女だとは限らない。逆に、解剖学的男性のなかにも女はいることを断っておかなければならない。

ところで冒頭のニーチェの文には、ラカンだけでなく、後期ウィトゲンシュタインがいるのをお気づきであろうか?

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述化した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

例外の論理/非全体の論理とは、男性の論理/女性の論理のことである。《部分領域のあいだの水平的連携》、ネットワークあるいは差異の論理であるところの女性の論理(家族的類似性・非一貫性の論理)は、深さをしらない。もちろん浅瀬に乗りあげることはなく、浅くさえない・・・

だが、それならなぜ、我々は「女を深い」と考えるのだろう?

「見せかけ」の機能は《無を覆う》ことだとジャック=アラン・ミレールは言っている[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J.A. Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)。

ここで言われている「見せかけsemblant」とは、ヴェールの機能である。さらに、このヴェールに注意を誘引する機能だ。ミレールは続けて言っている、《「見せかけ」のこの二重の側面のために、ヴェールはファルス化され、とくに身体がファルス化する》、と。

こうして無を覆うことにより、深さの錯覚が生まれうる。

仮面の下には何もなく、それをヴェールで覆うこと自体が、逆に深さや神秘の感覚を生む場合があるーー。

自分はこの時始めて女というものをまだ研究していない事に気がついた。嫂はどこからどう押しても押しようのない女であった。こっちが積極的に進むとまるで暖簾のように抵抗がなかった。仕方なしにこっちが引き込むと、突然変なところへ強い力を見せた。その力の中にはとても寄りつけそうにない恐ろしいものもあった。またはこれなら相手にできるから進もうかと思って、まだ進みかねている中に、ふっと消えてしまうのもあった。自分は彼女と話している間始終彼女から翻弄されつつあるような心持がした。不思議な事に、その翻弄される心持が、自分に取って不愉快であるべきはずだのに、かえって愉快でならなかった。(夏目漱石『行人』)

ところで、〈あなた〉は青大将に身体を絡まれたことがおありであろうか・・・

《自分の下には嫂が横になっていた。自分は暗い中を走る汽車の響のうちに自分の下にいる嫂をどうしても忘れる事ができなかった。彼女の事を考えると愉快であった。同時に不愉快であった。何だか柔かい青大将に身体を絡まれるような心持もした。》

感情に強調が置かれる女に対して、ロゴスを代表するのが男ではない。むしろ、男にとって、全ての現実の首尾一貫・統一した普遍的原則としてのロゴスは、ある神秘的な言葉で言い表されない X (「それについて語るべきでない何かがある」)の構成的例外に依拠している。他方、女の場合、どんな例外もない、「全てを語ることができる」。そしてまさにこの理由で、ロゴスの普遍性は、非一貫的・非統一的・分散的、すなわち「非全体 pas-tout」になる。

あるいは、象徴的な肩書きの想定にかんして、男は彼の肩書きと完全に同一化する傾向にある。それに全てを賭ける(彼の「大義 Cause」のために死ぬ)。しかしながら、彼はたんに肩書き、彼が纏う「社会的仮面」だけではないという神話に依拠している。仮面の下には何かがある、「本当の私」がある、という神話だ。逆に女の場合、どんな揺るぎない・無条件のコミットメントもない。全ては究極的に「仮面」だ。そしてまさにこの理由で、「仮面の下」には何もない。

あるいはさらに、愛にかんして言えば、恋する男は、全てを与える心づもりでいる。愛された人は、絶対的・無条件の「対象」に昇華される。しかし、まさにこの理由で、彼は「彼女」を犠牲にする、公的・職業的「大義」のために。他方、女は、どんな自制や保留もなしに、完全に愛に浸り切る。彼女の存在には、愛に浸透されないどんな局面もない。しかしまさにこの理由で、彼女にとって「愛は非全体」なのだ。それは永遠に、不気味かつ根源的な無関心につき纏われている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー男は私のなかになにを見ているのかしら?

例外の論理は、まさに例外があるために世界は安定化・退屈化する。だが非全体の論理は、《表面に、皺に、皮膚に踏みとどまる》ことゆえに、まさに不気味さや神秘、深淵の感覚をもたらすのではないか。

私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。(ニーチェ『この人を見よ』)

ーーなぜかここでの文脈とはあまり関係がない、ニーチェのフモールあふれる文を挿入してしまったが、この文でなにが言いたいわけでもない。ただし、《女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである》くらいは注目しておいてもよい。

とすれば冒頭の『偶像の黄昏』27番の次にはこうあることのを自ずと思い起こすことになる、、《女が男の徳をもっているなら、逃げだすよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす》(「箴言と矢」28番)。

ああ、なんという至高の心理学者!


さて、話をもとに戻せば、詩人や芸術家諸君も、深さを生み出すために、《思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要》ではないだろうか?

(もっとも女は芸術家になる必要など毛頭ない。存在自体が芸術家なのだから。)

というわけでーーなにが「とういうわけ」かは知らぬがーー、芸術家志望の男性諸君!どうだろう、全き表面に生き、あとは、それを効果的に「揺らめかす」技法を身に着けることに専念したら?

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体 ce scintillement même qui séduit である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ーー「ちらちら見えること」と訳されている scintillement も結局、バルトのマナ語の「揺らめかす」の変奏である(参照:揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉)。

「出現ー消滅の演出」とは、まさにミニスカ芸術家の演出方法でもあるだろう。




一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作…(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』ーーミニスカ症候群と集団ヒステリー)

蛇足ながら、ラカンは1950年代、人間の昇華形式の三様式として、芸術・宗教・科学(ヒステリー・強迫神経症・パラノイア)としている[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(S.7)](後年、哲学もパラノイアの仲間入りをさせている)。

これが普遍的に正しいか否かは別にして、ミニスカ芸術家は、どうやらヒステリー的であるのは間違いなさそうである・・・

上の画像の芸術家は、わたくしの好みからすると、やや見えすぎるきらいがあり、わたくしを「油断」させることがいささか少ないのが玉に瑕である。

エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだとしている(参照:生垣の「結び目をほどく」詩人)。




2016年7月2日土曜日

欲動と享楽の相違

欲動と享楽は、ほとんど同じ意味で使われる場合が多い。

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

ラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレールがこう言っているのだから、同じものである・・・

ところで、ラカンは≪全ての欲動は、潜在的に(実質的に)死の欲動である[…toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.]》(Lacan Ecrit 848)としている。

では、すべての欲動は、死へ向かう欲動であろうか。

ジジェクは、死の欲動とは、死なない欲動だと言っている。

……盲目的で破壊できないリビドーの執着を、フロイトの「死の欲動」と呼んだ。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

「死なない」衝動は、原文では“un dead” urge となっているが、訳語には問題ない。不死の欲動(不死の駆り立て)、すなわち死なない欲動である。

実際、ラカンもセミネール11にて、こう言っている、《リビドーlibidoは…不死の生 vie immortelle…破壊されないindestructible》もの、と。

とはいえ、いまさら遅すぎる。巷間では(標準的には)、死の欲動とは、死に向かう欲動であると信じ込まれている。これは死の欲動という語からくるイメージでそうならざるをえない。フロイトの命名法が悪かった。

後年にはシマッタと思ったのか、次のように書いている。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛と neikos 闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的欲動、エロスと破壊 beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

最初にタナトス概念が表れた『快原理の彼岸』(1920)の時点から、エロス=融合欲動、タナトス=分離欲動とでもしておけば誤解はなかったろうに。

(逆に、エロスとは分離不安、タナトスとは融合不安が起源にある。これが我々の原不安であり、去勢不安、ペニス羨望とは、フロイトのーー残念ながらーー寝言の一種であった・・・[参照]《去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工》)。

一般に受け取られるイメージとは異なり、フロイトの言いたい内実はこうだ。

・エロスとは他者との融合に向かう。すると個人の生は死ぬ。
・タナトスとは融合を破壊し、個人の生の回復を求める。

これはつい最近、そういった欲動の典型に遭遇しえたのではないだろうか。

《ヨーロッパ共同体が統合に向えば向かうほど、分離や独立のナショナリズムの衝動が芽生える。》(ポール・ヴェルハーゲ、1998)

フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に収斂する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。(Paul Verhaeghe,BEYOND GENDER. From subject to drive、2001)

すなわち、《生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す》  (ヴェルハーゲ)という「解釈」が生まれる。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe、Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender、2004)

ーーとはいえ、ジジェクとヴェルハーゲがこのように捉えているということであり、この解釈を正当だと断言はしないでおこう。


…………

ところで今度は、享楽である。享楽とはエロスなのだろうか、タナトスなのだろうか。

エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性/タナトス・分離・隔離化・強迫神経症・男性性(ヴェルハーゲ、2004)

この図式化を信じるなら、享楽はエロスではないか。母なる大地と融合して死ぬのが至高の享楽ではないか。

ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』,1913)
誕生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、すなわち睡眠欲動が生じたと主張することは正当であろう。睡眠は、このような母胎内への回帰である。(フロイト、精神分析概説、1938)

ラカンは、セミネール17にて、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 としている。

剰余享楽 plus-de-jouir は「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」(S.17)ともある。

とすれば、死という至高の享楽の欠片が、剰余享楽であり、死は至高の享楽ではないだろうか。

かつてラカン自身から分析を受けその後分析家になったS・シュナイダーマンは、ほぼ次のようなことを言っている、「ラカンは精神分析理論の中心軸を、フロイトの「性」から、「死」へとずらしたい願望を密かに抱いていた。が、なんらかの事情があって(シュナイダーマン曰く、トラブルを回避すべく)、「死」ではなく「享楽jouissance」にすり替えるという妥協の道を選んだ」(『ラカンの《死》』)。

セミネール20には、欲動は《享楽の漂流 la dérive de la jouissance》(セミネールⅩⅩ)とある。

不死の反復運動としての死の欲動は、喪われた享楽 jouissance perdue =究極のエロスの周囲を永遠に旋回(漂流 dérive)する欲動、としてよいのではないか。

これも、わたくしは断言するつもりはない。一つの観点であり、こういう捉え方も可能だということだけだ。

まさに享楽の喪失が、その自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生み出す。というのは享楽は、いつも常に喪われたものであると同時に、それから決して免れる得ないものだからだ。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この現実界の根源的に曖昧な地位に根ざしている。それ自身を反復するものは、現実界自体である。それは最初から喪われており、何度も何度もしつこく回帰を繰り返す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

実際には、ラカン派でさえも享楽という語を使うときは、剰余享楽を意味している場合が多い。それがかならずしも間違いでないのは、ここでもまたジジェクの注釈が示している。

享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけsemblanceの地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけsemblancesは、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。(LESS THAN NOTHING)

「究極の」という意味での享楽は、存在しないが機能するもの(ゼロ)に限りなく近い。

《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。[Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu]》(Lacan, Seminar XXIII)

とすれば、生きている主体にとってのエロスとは、欲動融合Triebmischungであり、タナトスも混淆している。究極の享楽は不可能である。この意味合いで、《すべての欲動は実質的に死の欲動》(ラカン)という命題を捉えるべきだろう。

ミレールは剰余享楽は昇華だとしている(2013)。なんの昇華なのか。



安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

《人生は、自己流儀の死への廻り道である。大抵の場合、急いで目標に到達する必要はない。》(ラカン、セミネール17)

ーーというわけで至高の享楽=至高のエロスの昇華なのだろうか、我々の人生は。

もっとも、次の文を参照する手もある。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。(ジャック=アラン・ミレール『無意識と話す身体』2014ーー腰抜け・妄想家・詐欺師

すなわち、「性関係はない」と「話す身体Le corps parlant」の昇華だと。

ジジェクによる「性関係はない」解釈は次の通り。

ラカンの命題が孕んでいるもの…その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

さて、いずれにせよ、冒頭のジャック=アラン・ミレールの文、《フロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたもの》とは、厳密に言えば、「フロイトが死の欲動と呼んだもの、ラカンが剰余享楽と名付けたもの」となるはずだ。

…………

途中、愛すべきフロイトも「寝言の一種」をおっしゃったと記したが、もちろん、ここに書かれた記述も、寝言の一種である可能性を疑わなければならない・・・