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2017年1月31日火曜日

現代の流行病「自閉症」

前回、向井雅明氏の自閉症論を引用したのだが、そこでの「自閉症」と現在の「自閉症」、あるいは「自閉症スペクトラム」概念は--わずかに重なる部分もあるがーー、ほとんど関係がないようだ。わたくしは「自閉症」についてほとんど無知なので、若草マークレベルのことをすこし調べてみた。

まずDSM4からDSM5にて次のような移行があったようだ。



そして自閉症といわれるものの増加率は次のようらしい。





ーーやあスゴイね、自閉症の伸び率ってのは。

これホントかな、ともう少し調べてみたら、どうやらホントらしい。

Top 3 Causes of the Autism Epidemic and What We Can Do About It

これは米国のことだと思うが、さて他の国もそうなのかどうかはちょっと分からない。

で、原因は? 次のようなことらしい。


What is causing the increase in autism?)



一般的には次のようには説明されている。

自閉症やASDはどうして急増しているのだろうか。自閉症の啓発に努める非営利団体Autism Speaksで主任科学者を務めるロブ・リング氏がまず指摘するのは、自閉症の診断基準であり、長年にわたって改訂が行われているDSM(精神障害の診断と統計の手引き)の1994年版「DSM-4」で、アスペルガー症候群が自閉症に加えられたことだ(それまでは「2000~5000人に1人」とされていた自閉症が、DSM-4以降、20~40倍に増加した。なお、2013年の「DSM-5」では、アスペルガー症候群はASDに包括された)。

リング氏はさらに、「(自閉症に関する)意識が確実に高まっているため、家族が早い段階で行動を起こし、(中略)早い年齢で専門家に疑問を投げかけるようになっており、そのことも発見の可能性を高めている」と米ハフィントン・ポストに対して述べている。

ほかにも、「親の年齢が上がると、(自閉症の子供の数が)やや増える可能性のあることがわかっている」とリング氏は指摘する(40歳以上の父親から生まれた場合、30歳未満の父親の場合の約6倍、30~39歳の父親と比較すると1.5倍以上とされる)。「遺伝と環境の間で起こる興味深い相互作用が、科学によって明らかになってきている」(「自閉症の子供」が急増している理由とは?2014年04月

アスペルガーが自閉症になったことを含めた後も、増加が著しい。だから上のような別の理由づけがされる。だがほんとうにそれだけだろうか? いやそれだけではないだろう、だから unexplained 比率が44%と高いのだろう。

さあてっと、天邪鬼のわたくしであり、いささか言いたいことがないではないが、ーー遺伝とか言っている人もいるが、何かかならずそれ以外の要因があるはずなのであって(アスペ合体等だけでもなく)、…………だがいまは一夜漬けの身として口を慎んでおく・・・

ここではたまたま遭遇した次の文だけを掲げておくことにする。

英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「メンタルディスオーダー」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。(Capitalism and Suffering, Bert Olivier 2015,PDF)

とすれば、この批判の先駆として読める次の文をも付記しておこう。

精神医学診断における想定された新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。 (“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe )
DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(同上、ポール・バーハウ、  Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007、PDF )

ところで社会的・経済的要因、あるいは社会的規範とは何か。21世紀の現在、「新自由主義」という非イデオロギー的イデオロギーがまず思い浮かぶ。とすれば、米国で新自由主義のバイブルとして読まれているアイン・ランドにまずは登場願おう。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

というわけでまずは「金」である。金のせいで自閉症スペクトラム症は増加したのである・・・

以下はADHDについての記事だが、自閉症スペクトラムも同様な現象があるに相違ない。

ーー記事を引用するまえに、自閉症スペクトラムという区分ができた後の、ADHDのポジションはどこにあるのか。一応、いまだ外部にはあるらしい。



さて「ADHDは作られた病であることを「ADHDの父」が死ぬ前に認める(2013)」からである。

多動性、不注意、衝動性などの症状を特徴とする発達障害の注意欠陥・多動性障害(ADHD)は治療薬にメチルフェニデートという薬を必要とするとされていますが、「ADHDの父」と呼ばれるレオン・アイゼンバーグ氏は亡くなる7カ月前のインタビューで「ADHDは作られた病気の典型的な例である」とドイツのDer Spiegel誌に対してコメントしました。アイゼンバーグ氏は2009年10月に亡くなっており、インタビューはその前に実施されました。DER SPIEGEL 6/2012 - Schwermut ohne Scham 
当初「幼少期の運動過剰反応」と呼ばれており、後に「ADHD」と名付けられた注意欠陥・多動性障害は1968年から40年以上にわたって他の精神疾患と並んで精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM-IV-TR)に名を連ねています。

障害の定義付けに伴いADHDの治療薬の売上も増加し、1993年に34kgだったものが2011年には1760kgになり、18年間で約50倍に跳ね上がっています。薬の投与が広まった結果、アメリカでは10歳の男の子10人のうち1人がすでにADHDの治療薬を飲んでいます。アイゼンバーグ氏によれば、実際に精神障害の症状を持つ子どもは存在するものの、製薬会社の力と過剰な診断によってADHD患者の数が急増しているとのこと。
また、カリフォルニア大学のアーウィン・サヴォドニック教授は「精神医学の用語はまさしく製薬会社によって定義されているのです」と語っており、その一例として、マサチューセッツ総合病院の小児精神薬理学科やハーバード・メディカル・スクールの准教授は2000年から2007年までの間に製薬会社から100万ドル(約1億円)以上を受け取っていたことが発覚しています。

事実、仏ラカン(ミレール)派のAgnes Aflaloは次のように言っている。

自閉症の領野の拡大は、市場のひどく好都合な拡大をもたらす。まだ他にもある。現在の 「遺伝的自閉症」の主張と助長において、DSM は新しい市場を創造する。私は確実視している、数千ユーロの費用がかかる一回の遺伝テストが同じ薬品企業からすぐに提供されるだろうことを。(Report on autism,2012

そして仏の医師が製薬会社からの賄賂だらけなのは、米国に似てきた、と。

…………

これらは「穏やかに言えば」、DSM病であるだろう、あの診断区分システムそのものが新自由主義が生んだ「やまい」でありうる。

すくなくとも、いわゆるエビデンス主義といわれる現代の症状のひとつに相違ない。

逆説的なことに、エビデンス主義って、まさしくポスト真理なんですね。エビデンスって、「真理という問題」を考えることの放棄だから。エビデンスエビデンス言うことっていうのは、深いことを考えたくないという無意識的な恐れの表明です。 (千葉雅也ツイート)

これは最近のツイートだが千葉氏は、たしか一年ほど前だったと思うが、次のように言っている。

根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。(千葉雅也ツイート)

それぞれひどく正当的な指摘だろう。

精神医学の領域ですでに起こった変化とは、まずなによりもDSMという「黒船」到来である。

1980年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。(中井久夫『関与と観察』)

「操作主義」とは結局、「原因」を問わない精神を育てる。それは精神科医においても著しい。

現在の米国の有様を見れば、精神病の精神療法は、医師の手を離れて看護師、臨床心理士の手に移り、医師はもっぱら薬物療法を行っている。わが国もその跡を追うかもしれない。すでに精神療法を学ぼうという人たちの多くは、医師よりも臨床心理士ではないだろうか。(中井久夫「統合失調症の精神療法」1989年)

もちろん上にあるように、薬物で精神疾患がある程度おさまるようになったのは事実なのだから、現在のやり方は全面批判されるべきものでもない、とは言える。

次のことを知っているならーー、

斎藤環) ……ボーダーラインの治療経験から思うのは、ある種の心の状態というのは薬ではどうにもならない、ということです。中井さんも書いておられるように、向精神訳だけでは人間は変わらない。旧ソ連で政治犯を「怠慢分裂病」などと称して大量に薬を投与したことがあったらしいけれでも、全く転向はなかった。薬物の限界があるんですね。

中井久夫) それが人間の砦でしょう。

(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

そのうち続く(たぶん)。



2017年1月30日月曜日

スティグママータ stigmata

イエス・キリストは磔刑の際、手足に釘を打ち付けられ傷を負った。そしてキリストのこの傷跡は、後になって熱心な信者の同じところに浮かび上がることがあり、それには大量の出血を伴うそうである。カトリック教会ではこの幻想を「スティグママータ」と呼ぶ。
シャーマンやヨガの行者が真っ赤に焼けた炭の上を平気で歩き足には全くやけどもしない。ローソクの上に手をかざしても何も感じず水ぶくれもしない。

…………

オカルト系だって? いやあそんなことないらしいよ

「すばらしい」映像を見出したよ

◆火傷する催眠術




ーーこういった現象を侮っちゃちけない。

ニューヨークのコロンビア大学医学部のハーバート・スピーゲルが実験したことだ。彼はイマジネーションを利用する実験で、米国陸軍のある伍長を被験者にした。彼は、この伍長に催眠術をかけて催眠状態にしたうえで、その額にアイロンで触れる、と宣言した。しかし、実際には、アイロンのかわりに鉛筆の先端で、この伍長の額に触れただけだった。

その瞬間、伍長は、「熱い!」と叫んだ。そして、その額には、みるみるうちに火ぶくれができ、かさぶたができた。数日後にそのかさぶたは取れ、やけどは治った。この実験は、その後四回くり返され、いつもまったく同じ結果が得られた。

さて、五度目の実験の時には、状況はやや違っていた。この時には伍長の上官が実験に同席していて、この実験の信頼性を疑うような言葉をいろいろ発していた。被験者に迷いや疑惑を生じさせる状況のもとでおこなわれたこの時の実験では、もはや伍長にやけどの症状が現れることはなかった。

スピーゲルは、健康や病気、また、病気からの回復にはさまざまな要因が影響をおよぼし合うと考えている。生理的、心理的、そして社会的な諸要因が相互に関係をもちながら、わたしたちの内部で働いていると言っているのだ。プラシーボ効果を理解するためには、心と体、そしてその両者の関係を促進したり制限したりする第三の要因としての環境状況を考えにいれる必要がある。そして、これら三者を結びつけ活性化するものとして、著者は、言葉のもつ重要性に着目したいと思う。(「心の潜在力プラシーボ効果」 広瀬弘忠

向井雅明氏によるラカン派観点からの説明なら次の通り。

自閉症児は外界からの刺激に対して普通の子どもには見られないような特殊の反応を見せることがある。たとえば、痛みを感じなかったり、ローソクの上に手をかざしても平気で、手にやけどさえしなかったりなどである。
火に手をかざしてもやけどをしないというのはどのように説明すればよいか。やけどは生理的、物理的な現象のように思えるのだが、どうして自閉症者はやけどをしないのであろうか。

やけどとは何であろうか。やけどをすると赤くなったり、水ぶくれができたりする。これらの反応はやけどから直接生まれるのではなく、じつはやけどの知覚に対しる自律神経系(交感神経、副交感神経)の反応により白血球とかリンパ液、退役が動員される結果である。死んだ動物を焼いてもやけどにはならない。また生体はほとんどが水分で構成されているので多少ローソクに手をかざしたところで焦げることはない。(……)ここでは高温があっても暑いという知覚はないので自律神経が反応せず、火傷の症状が生じないのだ。

これらが単なる高温の感覚への反応ではなく、熱いという知覚への自律神経の反応であるということは別の経験からも推論することができる。催眠術である。

催眠術では術師が被験者に催眠状態で「あなたは今やけどをしている」と言うだけで、実際に被験者には水ぶくれなどのやけどの症状ができる。

ここでは自閉症における状況と逆の状況が再現されている。自閉症ではやけどをしたという知覚がないので情報が自律神経系に達せずに症状が生じないのに対して、催眠では言語による偽の情報が自律神経に作用してやけどの症状が生まれると考えられる。つまり言語による情報は知覚による情報と同じ作用を生み出すのだ。(向井雅明「自閉症と身体」(『言語文化27号』 ――●「ラカン研究の現在」

ラカン派でなくても、たとえば’中井久夫はブラセボ効果の人だよ。

……ちょっと芝居っ気がありすぎるかもしれないけれど、処方が新しくなるときの私は「効きますように」といって渡します。そのとき片手で軽く祈ることもあります。ご承知のように、向精神薬のプラセボ効果は30パーセントであり、薬効はそれに10パーセントかそこらを上乗せするわけですから、この「効きますように」は無意味ではないと思います。(中井久夫「患者に告げること、患者に聞くこと」『日時計の影』所収)
一般には漢方薬は処方者への信頼なしでは効かない。(中井久夫「トラウマについての断想」)

…………

ある子供が怪我をして、泣き喚く。すると、大人たちがその子に話しかけ、叫ぶことを教え、さらに後に、文を教える。彼らは子供に、痛いときの新しい振る舞い方を教えるのである。  「すると、『痛み』という語は実際には泣き喚くことを意味していると仰有るのですか?」――逆である。すなわち、痛みの言葉による表現は、泣き声の代わりなのであって、それを記述しているのではないのだ。 (ウィトゲンシュタイン『探究』244)

この名高い文で、ウィトゲンシュタインは何を言っているのか。痛みという言葉がなければ、痛みはない。彼はほとんどそう言っている。

人間にとって痛みというのは客観的に作用するものではない。状況に応じて同じ怪我でも感じ方が変わる。たとえば注射をすると言われたあとに注射をされると大変に痛く感じるが、地震とか火事にあってパニック状態に陥ると、かなり大きな怪我も痛みを感じないし、怪我をしたことさえ気づかない。このような経験は誰にでもある。すなわち客観的に感覚はあるはずなのだが、それを知覚としては感じないのだ。すでに感覚と知覚は違うと述べた。感覚が知覚になって初めてわれわれは意識的に何かを感じるようになる。心的装置の上で言うと一次翻訳がされなければならないのだ。

もう一つ興味深い例がある。モルヒネは痛み止めとして末期癌の患者によく使われる。モルヒネは痛みの伝達を遮って鎮痛効果を与えるとされる。しかしモルヒネとは、実際は痛みを麻痺させるのではなく、逆に麻薬効果によって知覚のフィルターを弱め、原始的な感覚を増大させて痛みの知覚を無差別的な感覚の中におぼれさせてしまうのだ。(向井雅明「自閉症と身体」(『言語文化27号』 ――●「ラカン研究の現在」

…………

ここでラカン文を二つばかり挿入しよう。

恋慕の状態における対象と自我理想 idéal du moi の厳密な等価性は、フロイトの著作における最も基本的考え方のひとつです。われわれはこれを、彼の進歩のその都度に à chaque pas 見いだします。 愛の対象は、 愛の備給において、 彼が主体に及ぼす捕縛 captation によって、自我理想と厳密に等価です。この理由のために、暗示、催眠においてきわめて重要な経済的機能、依存状態 éta de dépendance があります。依存状態は愛の対象への魅惑、その過大評価によるリアリティの真の倒錯 perversion なのです。(ラカン、S1)
もし大文字の他者において真理と呼ばれるものの一貫性が、いかなる方法でも保証されえずにどこにもないなら、それはどこにあるのか。あるとすれば、対象a のこの機能がそれを請け合う。

Si nulle part dans l'Autre ne peut être assurée d'aucune façon la consistance de ce qui s'appelle vérité, où donc est-elle sinon à ce qu'en réponde cette fonction du (a). (S16,13 Novembre 1968)

ーー惚れた腫れたってのも催眠術のひとつってことになるな、人間だけならまだしも、芸術作品とかに惚れるのも催眠術の一種なんじゃなかろうか・・・

いや芸術作品だけじゃなくて思想家や詩人とかもさ。

次のようになった場合、疑わなくちゃな。

スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(A)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛は去勢の愛である」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

プルーストは次のように書いているけど、これは間違いなくあるだろうな。

偉大な作家とさえいわれる人たちが『オシアン詩篇』のような凡庸で人を迷わせる作品に天才的な美を見出すにいたった、という事実を理解させる理由の一つは、おそらく過去というもののあの想像上の遠さにあるのだろう。われわれは遠い昔のケルトの吟遊詩人たちも現代思想をもちうるということにおどろくのであって、ゲール人の古い歌のつもりでいるもののなかで、現代人にしかたくみにうたえないと思っていた歌の一つに出会うと、すっかり感心してしまうのだ。

才能のある翻訳者がいて、ある程度忠実に古代の作家の作品を現代語に移し、もし現代の作者名をつけてべつの形で出版したらそれだけでもよろこばれるであろうと思われているいくつかの部分を、それにつけくわえさえいいのであって、この翻訳者はたちまち詩人に感動的な偉大さをあたえることになり、詩人はそのようにして何世紀にもわたる鍵盤をかなでつづけるのである。この翻訳者は、もしその書物を彼の原作であるとして出版したならば、凡庸な書物の作者としかなれなかったのだ。翻訳として世に出されたからこそそれが一つの傑作の翻訳であると見なされるのだ。(プルースト「ゲルマントの方Ⅱ」井上究一郎訳)


※訳者注:『オシアン詩篇』。3-5世紀ごろ、古代ケルト族の勇者で詩人のオシアンがうたったアイルランドの叙事詩。 1765年にスコットランド生まれのイギリス人マクファーソンが原作を英語散文に訳した『オシアン作品集』によって世界的にひろまり、ゲーテ、スタール夫人、シャトーブリアン、バイロンなどが賞賛した。

安吾も次のように書いてるけどさ。

小林は骨董品をさがすやうに文学を探してゐる。そして、小さな掘出し物をして、むやみに理屈をつけすぎ、有難がりすぎてゐる。埃をかぶつて寝てゐる奴をひきだしてきて、修繕したり説明をつけて陳列する必要はないのである。西行だの実朝の歌など、君の解説ぬきで、手ぶらで、おつぽり出してみたまへ。何物でもないではないか。芸術は自在奔放なものだ。それ自体が力の権化で、解説ぬきで、横行闊歩してゐるものだ。(坂口安吾「通俗と変貌と 」初出1947年)

さてかなり脇道に逸れてしまったが、再度向井雅明氏の記述。上の文ーーいやだいぶ前のラカン文ーーを読んでからだといっそうわかりやすいだろう。

ラカンによると催眠術は自我理想に対象が重なりあう時に効力を発する。自我理想は(……)自我に対して支配的な立場をとる審級である。自我理想は通常、対象とは分離されているものであるが、催眠においては対象と重なり同じ位置におかれるようになる。ラカンはここにおける対象を自らの考案した対象a に相当するものと考える。催眠術でガラスの玉を見せたり、術師の目を見せたりするとき、そこにはまなざしとしての対象a があると考えられる。そして術師の声も対象a としての声として作用する。さらに催眠術をかけられる状況において術師は常に何か特殊な力を持った支配的な立場に置かれる。すなわち自我理想の場に置かれるのだ。同時にまなざし、声といった対象a がそこで作用し、自我理想と対象a の混同がなされ催眠作用をうみだすのだ。(向井雅明「自閉症と身体」)

そもそもフロイトはかのシャルコーのもと「催眠術師」として始めたんだから。それにモルヒネ専門家だし。



ーーシャルコーには、「あなたは心臓病で死ぬ、徴候はすでにかくかく」という匿名の手紙が根気よく送り続けられていたらしい。彼は実際に旅行中に心臓死を遂げた。

娼婦とかバーの女ってのも催眠術師だよ。

……私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』)



2017年1月27日金曜日

古典的ラカンドグマの転回

また引き続き、文句を言ってくるひとがいるが、この文句コメントは釣りみたいなもんだろうか? あまりわたくしの罵倒癖を刺激しないでほしいもんだね。

抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)

ま、健康のためにお返事するがね。でシキシーマという人のブログを貼り付けてなんたらと言ってるわけだが、彼は松本卓也くんとお友達らしいな、松本くんはなかなかタイシタ人物だと思うよ、若くて聡明だよ。いくらか成り上がり者系の振舞いが露骨でないわけではないがね。でもあれはあれでいいんじゃないか、若いうちは野心家であってなんの悪いこともない。他方、シキシーマくんというのは完璧「寝言」派だよ、あれ。コメントする気にもならんね。父の名享楽もまったくわかっておらん。どこかでとまってしまっているんだろうな、あれは。ドゥルーズなんたらと言っているようだが、わたくしはドゥルーズはよくしらん、哲学もしらん。だが、すこしまえメモった「超越的法/超越論的法」を垣間見れば、いかにとんでもレヴェルの話をしているかが瞭然とするだろう(いやあ、やや長すぎるメモなので、誰も最後まで読まないだろうということは知っているがね)。

で、その寝言くんはほうっといて、松本くんのツイートを引用してみよう。

@schizoophrenie 2011/12/10 神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(参照

@schizoophrenie 2011/08/20  ラカン派では神経症と精神病の境界は厳密である.父の名があれば神経症,排除されていれば精神病である.しかし,明らかな精神病の標識がないにもかかわらず,神経症のようなシニフィアンの媒介性がみられない症例がある.そのような違和感が普通の精神病の判別のひとまずの鍵となる.(松本卓也

すでに5年以上前のツイートなので、いまさら掲げるのもなんだが、彼は若き最も優秀なラカン派研究者の一人であるのは間違いない。2015年の彼のデヴュー作『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』ではまさかこんなことはーー留保なしにはーー言っていないだろうが(私は未読)、ラカン派研究者の言明というのはおおむね真に受けたらダメだということを示すために掲げた(もっとも彼のツイートにはいくらかの留保があるのでリンク先を参照のこと)。

これは旧来の古典ラカン解釈の「重鎮」たちも同様であり、場合によってはいっそう「誤謬」だらけーー現代的解釈から見ればーーである。

ましてやラカン派研究者ではない精神科医や批評家という種族に属する人たちのラカン的解説はあまりにも古臭い、というか軒並み「寝言」を言っているようにしか思えない。それは、とくに21世紀に入ってから古典的ラカン解釈の反転があるにもかかわらずそれをまったくフォローしていないためだろう。

以下、ラカン主流派の首領ジャック=アラン・ミレールの文章を掲げよう。もちろんこれもそのまま受け取る必要はない。


【神経症なのか精神病なのかは区別がしがたい】
今、私は思い起こしてみる。あの時私はなぜ、今話しているような「ふつうの精神病」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか、と。私は言おう、我々の臨床における硬直した二項特性ーー神経症あるいは精神病ーーから逃れようとした、と。

あなたがたは知っている、ロマン・ヤコブソンの理論では、どのシニフィアンも基本的に次のように定義されることを。それは、今では古臭い理論だ。他のシニフィアンに対する、あるいはシニフィアンの欠如に対するそのポジションによって定義されるなどということは。ヤコブソンの考え方は、シニフィアンの二項対立定義だった。私は認める、我々は長年のあいだ、本質的に二項対立臨床をして来たことを。それは神経症と精神病だった。二者択一、完全な二者択一だった。

そう、あなたがたにはまた、倒錯がある。けれど、それは同じ重みではなかった。というのは本質的に、真の倒錯者はほんとうは自ら分析しないから。したがって、あなたが臨床で経験するのは、倒錯的痕跡をもった主体だけだ。倒錯は疑問に付される用語だ。それは、ゲイ・ムーブメントによって混乱させられ、見捨てられたカテゴリーになる傾向がある。

このように、我々の臨床は本質的に二項特性がある。この結果、我々は長いあいだ観察してきた。臨床家・分析家・精神療法士たちが、患者は神経症なのか精神病なのかと首を傾げてきたことを。あなたが、これらの分析家を見るとき、毎年同じように、患者 X についての話に戻ってゆく。そしてあなたは訊ねる、「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」。答えは「まだ決まらないんだ」。このように、なん年もなん年も続く。はっきりしているのは、これは満足のいくやり方ではなかったことだ。 (Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2009、PDF

 【神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ること】
「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ。 (…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。

精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいはそれぞれに仕方で、「みな妄想的である」(Tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant )に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited.,PDF
……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分析の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

これらは結局、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りなき分析』の記述に回帰したという風に見える。

正常人といってもいずれもみな一定の範囲以内で正常であるにすぎず、彼の自我は、どこかある一部分においては、多少の程度の差はあっても精神病者の自我に接近している…。

Jeder Normale ist eben nur durchschnittlich normal, sein Ich nähert sich dem des Psychotikers in dem oder jenem Stück, …(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』1937年)


【精神病の主因は父の名の排除ではなく、父の名の過剰な現前である】 
ラカンの「父のヴァージョン=倒錯 père-version」についてのアイロニーは、事実上、古典的なままの精神病理論とは正反対の、ひとつの精神病理論 la psychose une théorie inverse de la théorie restée classiqueを提供してる。

すなわち精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。父は、法の大他者と自らを混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。逆に父は、幻想へと結びついた欲望をもつ必要がある。そして幻想ーーその幻想の対象は、構造的に喪われた享楽である幻想ーーによって統御された欲望をもつ必要があるのだ。…(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013, PDF

※上の文の前段については、「超越的法/超越論的法」にてやや長く訳出してある。

《六番目に、最終的に「父の名 le Nom-du-Père」は、一つのサントーム un sinthome として定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの「一つの享楽様式 un mode de jouir 」として》とある前後を読めば、上の文の意味合いがいくらか判然とするだろう。

サントームの第一の意味は「原抑圧(欲動の原固着)」(ミレール、2011)、「享楽の原子」(ジジェク、2012)とされる。あるいは死の欲動にかかわるとされる。

ジジェク2012年には次のような指摘もある。

le‐Nom‐du‐Père 父の名→le‐Nom‐du‐Pire 悪化の名→ 死の欲動(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

…………

以下もラカン解釈の「通念」となってきたものの「脱構築的」見解である。

【人間の始まりは想像界ではなく象徴界である】

人間にとって、最初の大他者は母であり、二番目の大他者は父である。

例外はある。母が養育者・授乳者ではなかったり、父は不在で母子のみ、あるいは祖父母や親族が代わりである場合がある。父が主夫で最初の大他者であることさえある。だがこれらの例外は考慮から外す。

基本的には母なる大他者が、最初の大他者である。 ではなぜ母は小文字の他者ではなく、大文字の他者なのか。

母は母語を話す。母語という言語は大他者である。 
母はある文化のなかの存在である。文化は大他者である。 
母の鏡に映るものは、その文化の慣習である。

これだけで母子関係が、単純には想像界的二者関係でないのが分かる。

例えばジャック=アラン・ミレールは2008年に次のように指摘している。

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか。精神生活の始まりはなにか?

古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。

事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)

私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

こう指摘されてみれば実に当たり前なのだが、1980年代から1990年代、21世紀に入っても、ラカン理論が言及されるときは、馬鹿のひとつ覚えのように、最初は「想像界」とされてしまうことが多い。特に文学畑の批評家のたぐいはいまだ「重度障害者」が多い。おそらく日本における最初期のラカン紹介、たとえば浅田彰の『構造と力』などの記述に囚われたままなのであろう。

もっともラカン派でさえも、この2008年になってようやくラカン主流派の首領ミレールが曖昧な口振りで指摘していることから窺われるように、いまだ「病人」がいないわけではない。


【無意識は言語のように構造化されていない】

……いやあ、また「まがお」スタイルでを記述してしまった。どうもわたくしにはこのスタイルで記述すると反動が生まれる。

いずれにせよ「想像界」という最も基本的な概念のひとつでも上のような具合なので、他のやや難解な概念は、今後きっと反転があるよ。だいたい今まで流通している通念のラカンを「まがお」で信じちゃいけない・・・

たとえば《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》というのは、かねてより異論がある。

ミレールは2014年になってようやくーーわたくしの知る限りでだがーー鮮明に指摘している、《「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる ni même l'inconscient structuré comme un langage》無意識をの方が核心だと(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)。

たとえばAndré Greenーーラカンのセミネールへの古くからの参加者で、ある時期からラカン批判をするようになったーーは次のように言っている(WIKI)。

ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言っている…しかしあなたがたがフロイトを読めば、明らかにこの主張は全く機能しないのが分かる。フロイトははっきりと前意識と無意識を対立させている(フロイトの言う無意識とは物表象によって構成されているのであって、それ以外の何ものによっても構成されていない)。言語に関わるものは、前意識にのみ属しうる。(Quoted in Mary Jacobus, The Poetics of Psychoanalysis 、2005)

言語のように構造化されているのは「前意識」のみである、と言っていることになる。

グリーンがいつからこのように言い始めたのかはーーすこし調べてみたかぎりではーー判然としない。ただし、グリーンの発言の注釈者の論文のなかで、次のような叙述を見出しはした。《Si le préconscient peut être structuré comme un langage, ce ne peut donc être le cas de l'inconscient.》。その論者の論調からすると1970年代にはすでにこのように言っていたようにみえる。
もっともグリーンの論にでてくる「物表象」についてはいまでも議論がないではない。

ラカンは同じ物表象でも、Sachvorstellung /Dingvorstellungを区別した(セミネール7)。

c'est qu'en tout cas FREUD parle de Sachvorstellung et non pas de Dingvorstellung. (09 Décembre 1959)

フロイトはDingvorstellung などと言っていないじゃないか、というわけだ。

たしかに無意識論文にはこうある。

意識的表象は、物(事物)表象 Sachvorstellungenとそれに属する語表象 Wortvorstellungen とをふくみ、無意識的表象はたんに物(事物)表象 Sachvorstellungen だけなのである。(フロイト『無意識』1915年)

だがフロイトは『悲哀とメランコリー』(1917年)で、《die unbewußte (Ding) Vorstellung des Objekts》--つまりフロイトは Ding を使って無意識の表象と言っているじゃないか、あんな区分けなどラカンの「寝言」だよ、という議論である…


…………

ほかにもラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールによる次のような言明もある。

【欲望は大他者の欲望ではない】
「欲望は大他者の欲望 Le désir est désir de l'Autre」が意味したのは、欲求との相違において、欲望は、言語作用の効果 un effet de l'opération du langage だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける évide le réel, y fait trou。この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、「欲望は大他者の欲望」ではありません。コレット・ソレール2013,Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013
※参照:基本版:現代ラカン派の考え方


あるいは存在欠如概念はどうか。

【存在欠如→享楽欠如】
私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »
主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen、LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF
リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

くりかえせばこれらの注釈ももちろん「真に受ける」必要はないからな。

やあこういったことを記すと、後味が悪くなるんだけど、ほんとにニーチェのいうように健康のためにいいんだろうかね?

いずれにせよ、わたくしはは明日からテト祝いで忙しいから、しばらくはもなんたら言ってきても無視するぜ。



夏服派と冬服派

超訳アドラーの流通という「犯罪行為」」にコメントを入れてくる人がいるが、そこでの話とやや外れるかもしれないが、トラウマとは結局無力の状況のこと。

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』1937年)

で、アドラーは精神分析界で最初に「攻撃欲動」概念をーーフロイトに先行してーー提出した人(参照)。おそらくニーチェに依拠しているだろうが。

アルフレッド・アドラーは最近、その示唆溢れる論文 (‘Der Aggressionsbetrieb im Leben und in der Neurose' , 1908)にて、不安はアドラーが呼ぶところの「攻撃欲動 Aggressionsbetrieb」の禁圧から生まれる……という見解を展開した。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症(少年ハンス)』1909年)

とはいえ、ある時期からのアドラーは、精神分析から心理学に移行した。

いずれにせよ、人間は無力の状況(トラウマ的状況)に置かれると、少なくともその反動で攻撃的になる(参照)。

で、ここですこし飛躍していうが、どっちの立場をとるかというのはあるよ。攻撃欲動が人間の根源なのか、ルソー的な憐みが人間の根源なのか、というふたつの立場のどっちをとるか?

フロイトは攻撃欲動派ということだな、初期アドラーに敬意を表して。

攻撃性向 Aggressionsneigung は人間生得に内在する欲動機能 Triebanlage である。…これは文化にとって最大の障害である…。文化は、最初は個々の人間を、のちには家族を、さらには部族・民族・国家などを、一つの大きな単位――すなわち人類――へ統合しようとするエロスのためのプロセスである。……

これらの人間集団は、リビドーの力によってたがいに結びつけられなければならない。……ところが、人間に生まれつき備わっている攻撃欲動 Aggressionstrieb…がこの文化のプログラムに反対する。この攻撃欲動は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。……文化とは、人類を舞台にした、エロスと死のあいだの、生の欲動と死の欲動のあいだの戦いなのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年、旧訳p.477、一部変更)

もちろん次の人生指南派ーーわたしくはアランにかねてより敬意を払っているーーの言っているようなことは、心理学的には真実。これは後期アドラー的だろ?


【私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む】
人間の秩序のうちでは、信頼が事実の一部分を占めているから、そこではとくに、私が私自身の信頼をまるで考えにいれていないなら、私は大へんな見込みちがいにおちいる。倒れそうだ、とおもったとたんに、私は実際に倒れる。なにをする力もない、とおもったとたんに、私はなにをする力もなくなる。自分の期待にあざむかれそうだ、とおもったとき、私の期待が私をほんとうにあざむくことになる。そこによく注意しよう。

私がよい天気をつくる、暴風雨をつくるのだ。まず自己のうちに。そして自分のまわりにも、人間たちの世界のうちにも。けだし、絶望は、そして希望もだが、雲ゆきがかわるよりも早く人から人にと伝わってゆく。私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。

そして、つぎのこともまた十分に考えたまえ。期待というものは意欲によってのみ保持され、平和、正義と同様に、やりたいと思えばこそ実現をみるだろうもののうえに築き上げられる、ということを。しかるに、絶望のほうはどうかといえば、絶望というものは、今あることの力によって尻をすえ、ひとりでに強まるのである。さてこれで、宗教はすでにそれをうしなってしまったが、もともと宗教のうちにあって、救い出すに足りるところのものを救い出すには、いかなる考察の道すじによるべきかがはっきりした。私はあのうつくしき望みのことを指しているのだが。(アラン「オプチミスム」 『人生語録集』井沢義雄・杉本秀太訳) 

…………

で、最近のわたくしはフロイトのほうが面白い、ってだけだな

【冬服か夏服か】 
今日の教育に向けられなければならない非難は、性欲がその後の人生において演ずるはずの役割を若い人に隠しておくということだけではない。そのほかにも今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)

【原始時代のドラゴンは生きている】
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり以前の段階の現象が部分的に進歩から取り残されて存続するという事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残りが保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残りが存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)




【人間は人間にとって狼である】
人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在である ばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でも あるのだ。「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。通例この残忍な攻撃 本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは 阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する 種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人―― の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件まで を想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)




ま、フロイトほど言わなくても、「穏やかな」ジジェクを引用すればこういうこと。

我々は基本的に皆、邪悪でエゴイスティック、嫌悪をもたらす生き物である。拷問を例にとろう。私はリアリストだ。私に娘があり誰かが彼女を誘拐したとする。そして私は誘拐犯の友人を見出したなら、私はこの男を拷問しないだろうなどとは言い得ない。 (ジジェク、2016,12)

(アメリカ最後の公開処刑、1936年)


より「穏やかに言えば」、次の通り。

過去には公開処刑と拷問は、多くの観衆のもとで行われた。…これは、ほとんどの我々のなかには潜在的な拷問者がいるということだ。 (ポール・バーハウ1998、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)
人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)
あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。(……)

例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』2004)
誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」)





2017年1月26日木曜日

超越的法/超越論的法

以下、資料。

法の古典的イメージがいかなる影響でくつがえされ、崩れさったのかを問いただしてみるとき、それが法律の相対性、可変性の発見によるものでないことは確かである。というのは、この可変性というものが、古典的なイメージのうちで十二分に認識され、理解されているからである。必然的に、その一部をなしていたのだ。真の理由は、別のところにある。カントの『実践理性批判』に、この上なく厳密なその表現がみいだしうると思う。カント自身、その方法の斬新さは、いまや法が〈善〉に依存するのではなく、逆に〈善〉が法に依存するのだという点にあるのだと口にしている。それが意味するところは、もはや法には、その権利の源流となる上位の原理を基礎にしてみずからを築く必要性もなければ、またその可能性もないということである。法は、それ自身として有効でなければならないし、みずからを基礎として築かねばならず、したがってそれ自身の形態をおいてはいかなる手段も持たないのだということを意味している。以来はじめて人は《法》を、それ以外の特性によってでもなく、また対象を指示することもなく語ることが可能となり、またそうせざるをえなくなったのである。

法の古典的イメージは、〈善〉の領域と〈最良〉の状況にしたがってしかるべく規定されていた複数の法律しか知らなかった。逆にカントが道徳的な「いわゆる」法というものに言及するとき、道徳的という言葉は、絶対的に限定されずにいるものの明確な規定のみを指し示している。すなわち、道徳的な法とは、《法》なるものを意味する。法を基礎づけうる高次の原理のいっさいを排除するものとしての、法の形態を意味しているのだ。そうした意味で、カントは法の古典的なイメージと縁を切った最初の人間のひとりであり、現代に特有のイメージをわれわれに提示している。『純粋理性批判』におけるカントのコペルニクス的革新は、知識の対象となるものを主体を中心として転回させてみた点に存していた。だが、〈法〉を中心として〈善〉を展開せしめる点に存する『実践理性批判』の革新は、おそらくはるかに重要だろう。おそらくそれは、世界における幾つかの重要な変化を表現していたのだ。またおそらくは、キリスト教的世界を越えてのユダヤ的信仰への回帰の、最後の帰結をも表現していたのだろう。たぶん、プラトン的世界を越えて、法の前ソクラテス的(エディプス的)概念への回帰を予告してさえいたのだろう。《法》を至上の基礎とすることで、カントが現代的思考にその主要な幅を装填させていたという事実が残される。その主要な幅とは、法の対象が、本質的に身を隠すものだということである(ドゥルーズ註:ラカン『カントとサド』参照)。

ーーードゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳、pp.104-106

…………

表題の「超越的法/超越論的法」とは、ラカン的には「大他者の大他者はある/大他者の大他者はない」ということ。それは上のドゥルーズ=カントが示している内容でもある。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa、PDF)
我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりもまずなによりも、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことである。

言い換えれば、倫理のセミネールVII に反して、最後のラカンにとっては、「根源的な〈一者〉は存在しない」ーー、それは象徴界によって原初に「殺された」のである。すなわち、「純粋な」根源的〈リアル〉はない(真の現実界はない)。象徴界の〈リアル〉Real-of-the-Symbolic の次元を超えた現実界はない。すなわち、象徴界に(想像界に接合しつつ)「穴を開ける」現実界の残余の側面を超えた現実界はない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって、「「根源的な〈一者〉」ーー真の現実界ーーは「非一」not-one である。まさにそれが《「一」として数えられる》ことが出来ない限りで。すなわち、現実界はゼロに相当する。セミネールXXIIIの鍵となる一節にて、ラカンは指摘している、《現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない》と。というのは、《燃えている火(「渦巻く」享楽の蜃気楼)はたんに現実界の仮面》なのだから、と。(S.23 Le sinthome,)

我々はこのゼロを遡及的にのみ考えうる。「まやかしのfake」象徴的/想像的〈一者〉(ラカンが見せかけ semblant と呼んだものだ)の立場からのみ。(…)ゼロは全く何物でもない。しかし「まやかしの」〈一者〉の限定された観点からのみの何かである。モノ自体は無-物であるとラカンは言う。それは l'achoseだと。(ラカンは、l'achose を l'insub-stanceと同じものとしている。(S.17)(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

…………

◆ジャック=アラン・ミレール2013、JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,PDFより抜粋訳

【大他者の大他者】
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネールⅥ で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)


【五つの法(五つの大他者)】
なぜラカンは、その教えの出発点で、法への情熱をもったのか。そして《大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、言説等の)を我々に教え、この表明に到った。私はこれらの法の分類を試みよう。…

第一に、言語学の法 les lois linguistiques がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィアンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法もまたある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズムとして語った。

第二に、弁証法的法 la loi dialectique がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法が告げるのは、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ彼の存在を想定しうるということである。ラカンはこれを承認の弁証法的法と呼ぶ。

第三に、我々はラカンのなかに数学的法 les lois mathématiques を見出す(これはある時期とてもよく用いられたが、もはや我々のものではない)。例えばラカンがその最初の図式とともに、「盗まれた手紙la lettre volée」についてのセミネールにおいて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識的記憶にとってのモデルを提供した。

第四に、社会学的法 lois sociologiques がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用した同盟と親族の法である。

第五に、想定されたフロイトの法 la loi ou la supposée loi freudienne、エディプス Œdipe がある。最初のラカンはそれを法へと作り上げた。すなわち「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件のみにおいて、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる、と。…

さて、私は面倒を厭わず、法の5つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社会学的・フロイト的法である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐって教え始めたとき、この法の5つの領域は、彼にとって、象徴界 le symbolique と呼ばれるものを構成した。…


【象徴秩序】
なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとって法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも《法がある場にのみ科学はある il n'y a de science que là où il y a loi》という格言に駆り立てられていたかのようだ。

…しかしながら、はっきりさせておかねばならない。ラカンの教えにおいて、この法概念は、最初に駆り立てられていた後、消滅したことを。ラカンはそれを発明し導入した。それは彼の概念化にとっての基礎として現れた。象徴界・想像界・現実界のあいだの三幅対的分割の基本としてだ。だが彼はそれを保持し続けなかった。

注意しておかねばならない。この秩序の概念、法の5つの領域は混じり合わさられていることを。言い換えれば、秩序という視点からは、それらは、事実上、同じものとして現れる。数学的法、弁証法的法等であれなんであれ。…

法がある場には秩序がある。初期ラカンのシステムにおいて、唯一の秩序とは象徴界である。象徴界的秩序 l'ordre symbolique はーーもし人がこのように言うのを好むならーー想像界的無秩序 le désordre imaginaireと対立しうる。

象徴界において、各々のもの・各々の要素はその場のなかにある。正確に言えば、象徴界のなかにおいてのみ場がある。

反対に想像界においては、要素は場を入れ替える。したがって、事実上、場は区別できない。いや、要素自体が区別されうるかさえ確かでない。想像界においては、別々の、分離した要素はない。象徴界において分離した要素があるようにはない。これらの用語にて、ラカンは、自我と他者ーー外部にある自身のイメージであるだけの他者ーーとのあいだの関係を叙述した。そこには、自我と他者の相互侵入があり、競争相手となり、戦いがあり、互いの間に不安定な平等 équilibres instables を見出すのみである。その意味で、想像界は、本質的非一貫性 inconsistance essentielle によって特徴づけられて現れる。ラカンはかつて想像界を《影と反映 ombres et reflets》のみの存在とさえ言った。

現実界に関しては、この秩序と不秩序との間の裂目の外部にあるものだ il est en dehors du clivage entre ordre et désordre。それは純粋で単純である。

今年、我々は見た(そして、ある意味で、我々はその逆を説明しなければなかった)、象徴秩序の概念が評判高いものになったことを。それは、確立された秩序の保護しようとする者たちすべてに広まった。

保守主義者たちのあいだでの評判である。象徴界によって支配される世界とは何か。それは、すべてがその場のなかにある世界、父le père・家父長 le patriarcat がすべてを閉じ込める世界だ。不秩序のすべての証拠は、すぐさま想像界的なものとして貶される。言い換えれば、非一貫的 inconsistant で寄生的 parasitaire なものとして。

これが象徴秩序というラカンの概念の使われ方だった…。調和ある秩序を推進すること、不変の諸法ーー「父の名 Nom-du-Père」に錨をおろした法ーーによって統制された秩序…。

そして、人ははっきり言わなければならない。ラカンはこの考え方に自らなすがままになっていた、と。彼は、その教えの出発点で、この意味での開始を残した。

たとえば、ラカンは言うことができた、私は引用しよう、彼はその出発点でこう言った、ローマ講演にてだ。すなわち、《父の名は…象徴機能の基礎である le Nom-du-Père était le support de la fonction symbolique》(E278)と。象徴秩序のすべては父の名を持つ。その支えとして、法を具現化する形象の父として。

しかしこれは出発点だ。この後、ラカンの教えの全体は別の方向にむかう。もし、ラカンの教えにサンス(sens 意味=方向)があるなら、絶え間ない・方法論的な・休みない解体である。そう、象徴秩序の欺瞞的調和の解体 acharné de la pseudo-harmonie de l'ordre symbolique だ。ラカンは、父の名の機能 la fonction du Nom-du-Père を讃え、それに十全の輝きを与えたまさにこの理由で、彼はその後、ひどくラディカルに、父の名を問題視した。


【父の隠喩の脱構築】
歴史の皮肉の刻印を残した何ものかがある。公衆にとって忘れ難いのは、ラカンがフロイトのエディプスに与えた言語学的形式だ。すなわち「父の名 le Nom-du-Père」によって統治された「父の隠喩 la métaphore paternelle」。これは、次の事実にもかかわらず忘れ難い。つまり、セミネールVI において導入された亀裂(「大他者の大他者はない」)以降のラカンの教え全体の展開は、父の隠喩の解体・脱構築の方向に向かうという事実にもかかわらず。

数ある要点がこれを明瞭化しうる。

一番目の取り掛かりとして、人は指摘できる。ラカンが「父の名 」と「父の隠喩」を提唱したのは、精神病にてそれが機能していないことを示すためにのみだった。

二番目に、父の隠喩からのサンスを引き出せないものとしての享楽の不変性、対象a としての恒久不変性を示した。

三番目に、ラカンが IPA によって破門されて「父の諸名 Des Noms-du-Père」をめぐるセミネールを放棄し、「精神分析の四基本概念」のセミネールを実施したとき、彼はとても明瞭に、「父の形象 la figure du père」の奉仕としてあるフロイトの欲望を攻撃している。

四番目にエディプス理論に関して、ラカンはエディプスを去勢を剥き出しにしつつ同時に隠蔽する神話としての地位を付与する。そして彼はその法を作り上げるのをやめた。ラカンはエディプス理論を神話とした。言い換えれば、想像的物語、組織されてはいるが、想像界的なものとした。

五番目に、父の隠喩はある一定の仕方で、性関係を女性-母性的ポジション la position féminine maternelle への男性的支配の形態のなかに書き込む。それを彼は「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 」という定式をもって拒絶した。そしてこの定式は、象徴秩序の概念を掘り崩す。

六番目に、最終的に「父の名 le Nom-du-Père」は、一つのサントーム un sinthome として定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの「一つの享楽様式 un mode de jouir 」として。

七番目で私は終えよう。私は事実上、主要な要点・転回点と考えるもの、その点から「大他者の大他者」としての「父の名」の脱構築が生まれた点である。

「精神病」のセミネールIII にて、ラカンは隠喩と換喩の発見を伝授した。ヤコブソンによれば、全レトリックの責を負うスタイルの二つの形式である。ラカンは隠喩形式を使用することにより始めた。彼はフロイトのエディプスを形式化するのに隠喩を使った。これは、対象関係のセミネールIV にてなされた。

その時にのみ二番目の形式、換喩を使用した。それは欲望を形式化するためだ。私は言おう、この二つの用語は互いに応答し合う、と。すなわち、父の隠喩と欲望の換喩。

ラカンはまず父の隠喩を導入し、その後、より遠慮がちな響きの効果をもって、欲望の換喩を導入した。

【父の道、あるいは欲望の道】
これは、私にヘラクレスの神話を想い起こさせる。ヘラクレスは与えられた二つの道の前に立っていた。同様にラカンにも、二つの道が眼前に開かれていた。一方で、父の隠喩の道、他方で、欲望の換喩の道。どちらの道を彼はとったのか? 明らかに、彼は最初は父の隠喩のほうに向かった。だが、ラカンがその教えで従った道、それは疑いなく、欲望の道であり、父の道ではない。

セミネールIV にて、彼は父の隠喩を定式化した。セミネールV とセミネールVI にて、二つの水準をもった大きなグラフを構築した。そして人は問うことができる。なぜラカンは、欲望を本質的機能としたのか、と。グラフには欲望という名が与えられているのだ…。

私はあなたがたに言おう、私の読解において、この命名が持っている私にとっての価値を。すなわち、欲望はその価値を獲得した。その名前からの差異を通して、その名前への対抗を通して。ラカンがそれを放棄することはありえた。欲望のグラフのかわりに、父の名のグラフでありえた。


【分析の終りとは何か?】
想定してみようではないか。ラカンが「大他者の大他者はある il y a un Autre de l'Autre」、かつ「父の名 le Nom-du-Père は大他者の大他者のシニフィアン le signifiant de cet Autre de l'Autre である」という見解を維持した、と。もし彼が精神病のセミネールⅢ の最後で書いたことを保持していたら、分析において光をもたらされる根本要素、分析の終りにとっての決定因であるだろう要素は「あなたの父の名 votre Nom-du-Père」だろう。それはシニフィアン、シニフィアンの単独性 particularités だろう。つまりあなたの身体が苦しんでいる享楽へ意味を付与するシニフィアンである。

そう、グラフの頂上の左手に、分析から期待される究極の応答が記されている。そこで分析が頂上に達するときの顕現、それは S(A) と書かれえた。その意味は、分析の終わりは、父の名の出現ということだ。主体としてのあなたの存在の法を示すシニフィアンとしての父の名。しかし、この場には、何が書かれているのか。それは逆に、S(Ⱥ) である。このシニフィアン、分析において、主体によってもたらされた問いにラカンが付与した応答は、父の名にかかわる水準に位置しない。解決法は、父の隠喩の水準には位置しない。

というのは、このレヴェルにおいて、主体が遭遇するすべては、シニフィアンの欠如だから。主体の存在を示すシニフィアンの欠如、主体の存在の法を提示するなかでのシニフィアンの欠如。

したがって仮説として、私はあなたがたに提示している。分析の終りとは、主体の存在の法としての父の名の出現ではないか、と。

二番目の仮説をも示そう。この仮説は充分に基礎付られていると言える。精神病をめぐるラカンのテキストのまさに要所において基礎付られている。同じテキストに別の一節とおいてと同様。

それは次の通り。人は考えうる、シニフィアンの欠如が解決法だと。分析の終りとは欠如の顕現だと。私の意見では、ラカンは分析の終りのこのヴァージョンを考えたことを認めなければならない。

ラカンは 「治療の方針とその力の諸原則」(1958年)において結論づけている。それはセミネールⅥ( Le désir et son interprétation)の直前に現れた論だ。あなたがたがセミネールⅥ を読むとき、「治療の方針」を参照するようアドバイスしておく。このセミネールは、「治療の方針」の第5 セクションから引き続いているのが分かるだろう。第5 セクションにて、ラカンは分析家に勧告している、《欲望は文字通りとらなければならない Il faut prendre le désir à la lettre 》と。

ここでには最も明示的な形で、欲望は換喩の用語にて定義されている。言い換えれば、シニフィアンの継起の効果として、欲望は定義されている。シニフィアンの効果とは、非実体的効果・実体のないことを純粋に意味する。これを示すために、明瞭な定義を引用するだけでよいだろう。「治療の方針」の最後でラカンは提示している定義だ、《欲望は存在欠如の換喩である le désir est la métonymie du manque-à-être 》と。

ここで、欲望は欠如と同じものだされていると言うより他によい方法はない。すなわち、実体のないもの。事実上、欲望は S(Ⱥ) と等価である。エディプスの決定的意味作用の出現をなす隠喩の不在。

その上、まさにこの点にかんして、ラカンはテクストの最後で、欲望の解釈とは何かの定義をしている。これはまさに、彼がセミネールⅥ「欲望とその解釈」にて検討し始めた欲望の解釈の問いだ。しかし人は観察しうる。セミネールの進行中、それが漸次弱められてゆくのを。

彼の書かれたテキストにて提供された定義は、欲望を解釈することは欠如を指摘すること、欠如を目指すことだ。それは言われていないながら、暗示されている。彼が呼んだこと、詩的な言い方でなくもない形の文のなかで、見出される表現は、《存在の見捨てられた地平 retrouver l'horizon déshabité de l'être 》である。

これはとても厳密な何かを意味する。分析の終りを、自身が無であるという主体の想定として、明確に心に描いている。無意識のレヴェルにおいては、主体は無であろう、と。人は知るだろう、主体が数多くの要素と同一化する夢から、自身は分散されて多様的であることを。そしてこの多様性は、まさに彼の存在を十全に徴示するシニフィアンの欠如を翻訳するものだということを。

言い換えれば、Ⱥ がまた意味するのは、無が、あなたにとってのどんな徴示連鎖のどんなシニフィアンの真理を支えるということだ。この意味で、どんな隠喩もない。

こうして、ラカンは分析の終りの秩序のなかに何かを喚起した。父の隠喩によって、父の隠喩の構成によって、十全な父の隠喩へのアクセスを。だが、それは放棄された。

彼は「父の名」による分析の終りを放棄した。あなたの存在の法を示すものとしての、あなたの父の名の顕現であろう分析の終りを。

彼はまた想い描いている。分析の終りは無の想定でありうることを。Ⱥ によって示される欠如の想定でありうることを。

言い換えれば、そこで判然とする分析の終りは、最終的には、欠如を想定しうるのみであり、何ものも保証しないということだ、大他者の良き信念という真理の主体を。

言わなければならない。これが分析の可能な終りのひとつだと。ラカンは後に、分析の終りを主体が非盲従者(騙されない者 non-dupe)になることだとした。斜線を引かれた大他者Ⱥ に満足する非盲従者。大他者の非一貫性に満足する非盲従者である。

欲望のセミネールにて、ラカンは三番目の分析の終りを提案する。分析の終りにかんしてラカンにとって決定的であろう場、彼の教え全体がそれに従う場が、ここで初めてスケッチされた。

分析の最終ゲームがなされる決定的な場は、父の名ではない。そうではなく、幻想である。このセミネール以降から、人は流れを感知する。幻想を把握する場へと設定される流れ。分析の終わりの問いが位置づけられる場としての幻想。

そしてこの問いは、これ以降のラカンの教えに繰り返される。セミネールVI は、「欲望とその解釈 Le désir et son interprétation」と呼ばれる。というのは、その出発点は、「治療の方針」の結論によって開かれた流れに従っているから。

しかしセミネールVI は、本当のところは、ラカンによって書かれたテクストの結論への挑戦に当てられている。それは旅立ちの点を示している。セミネールVI は挑戦なのだ、分析の終りは、存在欠如の換喩としての欲望の定義に依拠するという見解への。

そして、目立っているひとつのものがあるーー、ここで我々は、セミネールVI の最初の数頁から言わなければならないーー、このセミネールにて、ラカンが叙述している欲望は、もはや全く存在欠如の換喩ではない。言い換えれば、シニフィアンの純粋な効果として定義された欲望ではない。

このセミネールの核心は解釈ではない。核心は、幻想という欲望する経験のなかの対象にかかわる主体の無意識である。


【欲望と幻想】
このように、無意識の欲望における主体-対象の関係をラカンは幻想と名付けた。セミネールVI の本当の題名は、むしろ「欲望と幻想 Le désir et le fantasme」である。少なくとも、これが私の読解と編集から結論したものだ。

ここで、幻想は単独性 singulier のなかにある。それは、主体の空想 rêveries の問題ではない。主体が己れに独語する話や分析家に語る話の問題ではない。無意識のままである関係性の問題である。幻想の無意識的経験を把握しようとするラカンの非凡な試みは、詳細にわたって追わなければならない。

このセミネールのなかで、我々はただ一度だけ「根本幻想 le fantasme fondamental 」という表現に出合う(第 XX 章のタイトルを私はそう名付けた)。そして、もう一度だけ、10年後に再び現れる。それはラカンがパス理論 théorie de la passe を展開するようになった時だ。幻想の横断 traversée du fantasme としてのパス理論である。

当時、私は自問したことを思い出す。根本幻想とは正確にはなんだろう、と。そう、このセミネール「欲望と解釈」にて、幻想は、単独性のなかで、かつ根本的なものとして、特定的にアプローチされている。ある意味で「意識的知との関係 rapport de la connaissance」とは完全に異なった仕方で、「対象との主体の関係 rapport du sujet à l'objet」としてアプローチされている。

意識的な知、現実のレヴェルに維持されている知において、対象と主体には、調和・適合・順応がある。意識的な知は、主体の対象との和合において、観照に達する。主体と対象の混淆・融合にさえ到りうる。

しかし、このセミネールにおいて問われている欲望は、現実と同次元のものではない。問題となっている欲望は、無意識の欲望である。欲望の対象は、ラカンは以前に考えたようには、現実の要素ではない。それは人物 personne でもなく、熱望 ambitionでもない。

ラカンがここで petit a と呼ぶ対象、幻想のなかに記銘する対象は、父の名と父の隠喩の支配から逃れる限りでの対象である。

この対象は、ラカンが幻想のなかにそれを再置したとき、精神分析において、知られていないものではなかった。それは、前性器的対象 l'objet prégénital と呼ばれ、口唇的・肛門的な形式 la forme orale, anale にて現れた。幻想はときにそこに記銘された。

しかし、これらの対象のなかに取り入れられた関わり l'intérêt、享楽の関わり l'intérêt は、いわゆるファルス期のなかに吸収されると想定された。これが、言語学的形式のなかで、「ファルスの意味作用 la signification du phallus」と呼ばれるものが現れることによって変換される「父の隠喩 la métaphore paternelle」である。

これが意味するのは、いったん欲望が十分に成熟 maturité したとき、すべての享楽はファルスの意味作用を持つことということだ。欲望が十分に成熟するとは、言い換えれば、欲望が、父の名のシニフィアン le signifiant du Nom-du-Père のもとに置かれるということだ。

この理由で、人は言いうる。父の名の方法による分析の終りは、欲望の成熟 la maturation du désir を信じるすべての分析家の熱望だった、と。

そして、フロイトは既に見出している、そんなものはないことを。父の名は、その徴のもとに、すべての享楽を吸収しえないことをフロイトは見出している。これらのまさに残滓 restes、それが、フロイトによれば、分析を終わりのないものにする。避け難く、間をおいて、残滓へと回帰してしまう。

そう、セミネールVI にて、ラカンは自らを方向性づけた。彼の以降の教えにとって、ある意味で決定的なこのポイントにかかわる方向づけ。私はこの方向づけを、否定的な形式で言ってみよう。精神分析のラカニアンとして方向づけられた実践の実に根本的な言明である。すなわち、どんな成熟もない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望の成熟はない ni de maturité du désir comme inconscient。

フロイトにとって残滓であったものは、幻想のなかで無意識の欲望が付着したままの半永久的要素である。それは要素の問い、いやむしろ享楽を生み出す実体の問いだ。それはファルスの意味作用の外部にあるもの、例えば、去勢に対する違反 infraction である。

これらは享楽である、補充の享楽実体 substances jouissances supplémentaires,、ラカンははるか後に剰余享楽 plus-de-jouir として言及したものだ。この剰余享楽は、準備されて、すでにここにある。セミネールの最後においては、さらにもっとそうだ。そこでは「昇華 sublimation」に向けて進んでいく。

我々を支配するこれらの新しい付属物 gadgets とその装置すべては、事実上、正統的ラカニアンの意味で、昇華の対象 objets de la sublimation だ。

それらは、付け加えられた対象である。そしてこれは、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽用語の価値である。

言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、身体から来る対象 objets qui viennent du corps をもつというだけではない。そして身体にとって喪われた perdus pour le corps 対象ーー自然な対象、あるいは象徴界の影響を通しての喪失対象ーーをもつというだけではない。それだけではなく、種々の形式で、これらの最初の対象を反映した対象 objets qui répercutent les premiers objets をもつのだ。

問いとしてあるものは、これらの対象は完全に新しいものなのか、それとも原初の対象a [objets a primordiaux]のたんに再構築された形式なのかということである。


【欲望と「父のヴァージョン=倒錯( Père-version) 」】
セミネールVI から既に引き出しえた結論、そして否定的形式で再び言うなら、欲望の規範性normalité du désir はない。無意識の欲望は、幻想のなかで、享楽に付着した attaché ままだ。欲望は、(巷の)精神分析家によって理想化された規範に反して、本源として倒錯的 intrinsèquement perverses なままなのである。

倒錯とは、欲望に起こる不意の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である。享楽がけっしてその場ーーいわゆる象徴秩序が欲望をそこに置きたい場のなかにないという意味で。

そしてこれが、ラカンが後に父の隠喩についてアイロニカルであった理由だ。彼は言う、父の隠喩もまた倒錯だ la métaphore paternelle est aussi une perversion、と。彼は、父の隠喩を père-version と書いた、一つのヴァージョンを徴示するため、「父へと向かう動き un mouvement vers le père」を徴示するために。

しかし、このアイロニーは、際立って重要な何かを言っている。父は、父の名と混同してはならない le père ne peut se confondre avec le Nom-du-Père。父は、全的かつ一貫的な象徴秩序を設置する純シニフィアン pur signifiant に還元されえない。というのは、そんなことがあったら、つまり、父が大他者の大他者であるという役割を演じたら si le père joue à être l'Autre de l'Autre、父が法の大他者である être l'Autre de la loi 役割を演じたら、そのとき父は、精神病の危険へと自らの子孫を曝さす expose sa descendance au risque de la psychose ことになるから。

ラカンのアイロニーは遠くまで進んでいく(…)。

ラカンの「父のヴァージョン=倒錯 père-version」についてのアイロニーは、事実上、古典的なままの精神病理論とは正反対の、ひとつの精神病理論 la psychose une théorie inverse de la théorie restée classiqueを提供してる。

すなわち精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。父は、法の大他者と自らを混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。逆に父は、幻想へと結びついた欲望をもつ必要がある。そして幻想ーーその幻想の対象は、構造的に喪われた享楽である幻想ーーによって統御された欲望をもつ必要があるのだ。…
(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,PDF

※参照:神と女をめぐる「思索」

 …………

※付記

事実、法がそれに先立ってある高次の〈善〉に根拠をおくことがもはやなく、その内容をまったく非限定的なものとして放置するそれ固有の形態によって有効であるとするなら、最善をめざして正義が法に服するということは不可能になる。というよりむしろ、法に服するものは、然るが故に正義にかなっているわけではないし、またそう自覚することもないということだ。事態は逆であって、自分は罪を犯しているという自覚があり、彼は前もって有罪者なのである。しかも厳格に法に服すれば服するほど、ますます罪深いものとなるのである。純粋な法として法が顕在し、われわれを有罪なりと断ずることになるのは、同様の操作によるものだ。古典的イメージをつくりあげていた二つの命題は同時に崩壊する。それは原理をめぐる命題と影響のそれ、〈善〉による根拠の設定の命題と、正義による批准のそれとである。以下の如き道徳意識のおどろくべき逆説を解き明かしたのは、フロイトの功績だ。法の支配下に身をおくこおで、それだけ強く正義の自覚を持ちうるものであるどころか、法というものはかえって「苛酷きわまる振舞いをしめし、主体が潔白であればあるほど巨大化する不信を表明する……。最善にしてこの上なく従順な存在の道徳意識のこの並はずれた厳密性は……」

だがそうした点にとどまらず、以上の逆説に分析的な説明を加えたのもフロイトの功績である。すなわち、道徳意識から導きだされるのが衝動の放棄なのではなく、放棄することから生れるのが道徳意識だというのがその説明である。したがって、放棄が強力で厳密なものであればあるほど、諸々の衝動の後継者としての道徳意識の威力は強まり、厳密に行使されることになる。(「放棄することで意識がこうむる作用は驚くべきものであり、だからわれわれがその充足を差しひかえる攻撃的要素は超自我によって引きつがれ、自我に対する自己攻撃性が強調されることになるのだ」)。法の根底的に非限定的な性格に関するいま一つの逆説が、そのとき解消される。ラカンがいっているように、法とは抑圧された欲望と同じものである。法は、矛盾に陥ることなくその対象を定義することはできないし、その基礎としての抑圧を排除しないかぎり、内容によって定義されることもありえない。法の対象と欲望の対象とはまさに同一のものをかたちづくり、同時に姿を隠すものなのだ。対象の自己同一性が母親に帰着し、法と欲望の対象そのものが父親に帰着するとフロイトが示すとき、彼はたんに法の限定された内容を回復すべく目論んでいるのではなく、ほとんどそれと反対に、法が、そのエディプス的淵源の力によって、必然的にその内容を奪うことしかできず、その結果として、対象と主体(母と父)との二重の放棄から生ずる純粋形態として有効たらんとするということを示すことにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳、pp.107-108)

芸術家集団による美の「脚立 escabeau」

初期のラカンにおいて、すべての強調は、父の名の隠喩に置かれた。その機能は、主体を母の欲望から解放すること等々だった。現代ラカン派に於けるこの理論的モティーフの継続的な流行は、ラカンの決断と鋭く相反する。その決断とは、ラカンはその理論的モティーフを捨て去っただけではなく、反対の考え方に置き換えさえしたのだ。すなわち大他者の大他者は存在しない、と。

父を信じることは、典型的な神経症の症状である。それはボロメオ構造の四番目の輪である。ラカンはそこから離れた。そして三つの輪を一緒にするために機能する新しいシニフィアンを探し求め始めた。この文脈において、重要なのは父とその機能を区別することである。すなわち、母と子の分離にかかわる機能、子どもが母なる大他者の享楽から解放されることを伴う機能である。もしこの分離が、二番目の大他者である父への疎外に終わってしまったなら、それは構造的には、以前の疎外(母との同一化)と何の変わりもない。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002)

このポール・バーハウ他の文に《父を信じることは、典型的な神経症の症状である》とあるが、これをより一般的に言うなら、神経症の特徴は大他者を信じること、となる。神経症者は大他者と同一化する。それは想像的同一化(イメージとしての大他者との同一化)の場合もあれば、象徴的同一化の場合もある。後者は主に「単一の特徴」(一の徴)との同一化である。


同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴 einzigen Zug」)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921ーー「一の徴」日記③
ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ラカンによるフロイトの「一の徴」( einzigen Zug、 trait unaire)概念の援用は、フロイトの考え方を拡張したもので必ずしも同じ意味合いではない。

フロイトが「一の徴 der einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの Le trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

ジジェクの言い方はけっして大袈裟ではない。クッションの綴じ目 point de capiton 、対象a、主人のシニフィアンS1、Y'a d'l'Un、最晩年の文字 lettre 理論等々、すべて「一の徴」にかかわる。

(もっともここでのわたくしの記述は Y'a d'l'Un、lettre との現実界的同一化とでもいうべきものの議論は敢えて除外している。というのはラカン派内でもいまだその捉え方が曖昧なままだから)。

さて元の話に戻れば、ようするに〈大他者l'Autre〉とは人物ではなくてもよい。たとえば「正義」「寛容」という一つのシニフィアン(単一の徴)に同一化する人々がある。これも大他者との同一化である。

また国民とは基本的にはおそらく想像的同一化集団だろう。すなわち「米人」「仏人」「日本人」等々のイメージに同一化した集団だ。

この神経症者たちをバカにする人々がある。たとえばイデオロギー的な同一化集団を集団神経症と嘲笑する。たしかに集団ヒステリー的な集団は傍目からみた場合、滑稽である。


ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収) 

この現象はいたるところにある。たとえばシャルリー・エブド襲撃事件で、「私はシャルリーだ」と名乗って一致団結した集団は、 感情に流されて理性を失った集団ヒステリーとしてよいだろう。ツイッターである種の学者共同体、あるいは研究者クラスタの連中が互いに湿った瞳を交わし合い頷き合っている。あれも小粒の集団神経症の一種である。

ところで柄谷行人は『探求Ⅱ』で次のように記している。

《感情は、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることができない》(スピノザ『エチカ』)。

これは、ある意味で、フロイトが宗教についていったことを想起させる。フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が、彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。(『探求Ⅱ』)

この論理でいくと、イデオロギー的集団神経症を嘲笑するいわゆる「反社会的な」人々も、なんらかの集団神経症集団なのではなかろうか。たとえば「芸術家集団」。

ある日、フロールの二階でサルトルがクノーにシュレルリアリズムの何が残っているのかと訊ねた。

《青春をもったことがあるという感じだ》

と彼は私たちにいった。私たちは彼の答えに打たれ、彼を羨んだ。(ボーヴォワール『女ざかり』下 P193 朝吹登水子・二宮フサ訳)

― ーシュルレアリスム。 私にとってそれは、 青春の絶頂のもっとも美しい夢を体現して いた。(デュシャン、 ブルトンを語る アンドレ ・ パリノー)

シュルレアリズム! よせやい! ブルトンのオカルト的な謹厳ぶり …アラゴンの思わせぶりなペテン …アルトーのアンチ-セクシャルな興奮 …バタイユひとりだけが、あの抑圧的ながらくた置場のなかで少しばかりの品位を保っている …とりわけサルトルと比べて …『嘔吐』… まさに打ってつけの言葉だよ …ジュネ… 要するに、性的に見れば何もない …惨憺たるもんだ…<ヌーヴォー・ロマン>? ご冗談を …ない、ない、何も、納得できる女なんてこれっぽっちもない …つまり、無だ… 一冊の本もない …エロティックな意味で、手ごたえのある条りさえひとつもない …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

シュルレアリズム集団とは(構造的には)、イデオロギー的大他者への同一化による陳腐な集団神経症集団を嘲弄する別の集団神経症集団だったように一見は思える。もちろんボーヴォワールが書いているように、今から見ても限りない羨望をもたらす「青春」の集団だったには相違ない。


(左からアンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ、ルネ・クルヴェル、ポール・エリュアール(1930年))

魚たちも 泳ぎ手たちも 船も
水のかたちを変える。
水はやさしくて 動かない
触れてくるもののためにしか。

魚は進む
手袋の中の指のように。

ーーポール・エリュアール『魚』安藤元雄訳

Les poisson, les nageurs, les bateau
Transforment l'eau.
L'eau est douce et ne bouge
Que pour ce qui touche

Le poisson avance
comme un doigt dans un gant,


やあ実に美しい詩だ・・・

なぜだかわたくしの頭のなかで次の文とセットになっている詩なのだが。

男根が子宮口に当り、さらにその輪郭に沿って奥のほうへ潜りこんで貼り付いたようになってしまうとき、細い柔らかい触手のようなものが伸びてきて搦まりついてくる場合が、稀にある。小さな気泡が次々に弾ぜるような感覚がつたわってくる(吉行淳之介『暗室』)

…………

ところで人は神経症的同一化の機制から免れ得るのだろうか。この機制に囚われているのは神経症者たちだけではないように思えるのだ。

ラカンは同一化の三種類の様相を、セミネール24で次のように提示している。

l'identification « paternelle »
l'identification « hystérique »
l'identification « à un trait »

(Lacan,S24,16 Novembre 1976)


現代ラカン理論においては、われわれには何らかの同一化、あるいは穴埋めが必要である、ということが言われる。

「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ。 (…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。

精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいはそれぞれに仕方で、「みな妄想的である」(Tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant )に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited.、私訳,PDF

たとえばフェティッシュも穴埋めの一種であり、それぞれのフェティッシュ趣味において小粒のフェティッシュ同一化集団が生まれる場合があるだろう・・・

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S.10)
…………

ここで晩年のラカンがジョイスを語るなかで、案出した「脚立l’escabeau」概念を見てみよう。彼はこの概念を、l’S.K.beauとも記している。すなわち「美 beau」にかかわる概念である。



les escabeaux de la réserve où chacun puise. (Lacan,AE.568,1975)

梯子 échelle は要らないが脚立escabeau は必要である、というのが現在の主流ラカン派の議論である。

つまりはイデオロギー的父の名は取り外したほうがいいが、なんらかの「父の機能」に類似したものが必要である、と。

去勢が意味するのは、「欲望の法」の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827, 1960年] 

梯子を外してしまえば、裸の身体の享楽のなすがままになってしまう。その奔馬を飼い馴らすために鞍を置かねばならない。これが escabeau(脚立)のおそらく最も基本的な意味合いだろう。

…………

最後のラカン概念として21世紀前後から「サントーム」が語られることが多かったが、そのサントーム(原症状)ではなく、脚立が、2014年以降の主流ラカン派の議題となっている。

脚立 escabeau は梯子 échelle ではない。梯子より小さい。しかし踏み段がある。escabeau とは何か。私が言っているのは、精神分析の脚立であり、図書館で本を取るために使う脚立ではない。…

脚立は横断的概念である。それはフロイトの昇華 sublimation の生き生きとした翻訳であるが、ナルシシズムと相交わっている。…

脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある。他方、サントーム特有の享楽 jouissance propre au sinthomeは、意味を排除する exclut le sens 。…

ジョイスは症状(サントーム)自体を…彼の芸術の「脚立」へと移行させた…モノの尊厳の脚立 l'escabeau à la dignité de la Chose に高めた。…(JACQUES-ALAIN MILLER, 4/15/2014, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

1975年にラカンが初めて使用した概念「脚立 escabeau」をめぐって、ジャック=アラン・ミレールは、2016年の大きな会議のために、2014年にこのようなプレゼンをしているのだがーーラカンが提示してから40年もかかっていることになるーー、臨床的専門性を除外して言ってしまえば、結局、人間には身体の享楽の「昇華」だことではないだろうか。

ーーまたラカン派ジャーゴンかい? とおそらくうんざりするする人が多いだろうが、昇華や父の機能などというよりはまだ「脚立」のほうがいいんじゃないか。


少し前に次のような図を示した(参照:多神教的「父なるレリギオ」のために)。



この図は、右の項を取っ払ってしまえば、左の項が現われる。それでは人は距離のない狂宴のなすがままになってしまう(その代表的なものは攻撃欲動)。そのオルギアを飼い馴らすために中間項の支えが必要だということを示そうとしている。

そこで引用したラカンの最も核心的な文をひとつだけ再掲すれば、次の通り。

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,S23, 13 Avril 1976)

脚立というのは、たいしたことを示そうとしているわけではないのかもしれない、実際、「脚立 escabeau」と言ったのちに、ラカンは上にようにも言っているわけで、晩年のラカンの模索概念のひとつとして捉えたほうがいいのかもしれない。

厳密さを期さずに図示すれば(サントームという語の使用法は何種類もあるので、そのうちのひとつ、身体の出来事・原固着・享楽の原子という意味でのみでここでは使用する)、次の通り。




結局、身体の狂宴(オルギア)的享楽を飼い馴らすために、人は脚立が必要である(イデオロギー的梯子は遠慮願っても)、--という理解をわたくしは(今のところ)している。

上に掲げたミレールの文を再掲すれば、

脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある。他方、サントーム特有の享楽 jouissance propre au sinthomeは、意味を排除する exclut le sens 。(ミレール、2014)

従来のラカン解釈では、脚立のポジションの意味合いもサントーム概念にはあった(そこで一部混乱が生まれている)。それを脚立概念を前面に押し出すことによって区別しようとする試みではないか、とも考えられる。

実はミレールは次のようにも言っており、わたくしには《「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beau》という表現に抵抗があり(?)、上に掲げることはしなかったのだが、ーー鼻を抓みながらーーやっぱり掲げておこう。

脚立を促進 fomente するのものは何か。それはパロール享楽 jouissance de la parole の見地からの言存在 parlêtre である。パロール享楽は「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beauをもたらす。

他方、サントーム sinthome は、言存在のサントームとして、言存在の身体に固着 tient au corps du parlêtre している。症状(サントーム)は、パロールがくり抜いた徴 marque que creuse la parole から起こる。…それは身体のなかの出来事 événement dans le corpsである。(JACQUES-ALAIN MILLER, 4/15/2014, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

《症状とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, 》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

上の「症状」とはサントームの意味だが、ようするに原症状、フロイトの欲動の固着(リビドーの原固着)のことである。

※参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」




2017年1月25日水曜日

最愛の子供を奈落の底に落とす母の癖


「私(ハンスの父)は彼に、恐いかどうか、そして何が恐いのかを尋ねる。

ハンス『だってぼくが落っこちるんだもの』

私『では、小さなおふろに入れてもらったときは、なぜちっとも恐がらなかったの?』

ハンス『あのときは腰かけてたもの。からだを横にすることができなかったもの。あれは小さすぎだよ』

私『グムンデンでボートに乗ったときは、水に落ちそうで恐いと思わなかったの?』

ハンス『うん。だって摑まっていたもの。だからぼくは落っこちやしないよ。ぼく大きなお風呂の中でだけ、落っこちそうで恐いと思ったんだ』

私『だってママがお前を入れてくれるじゃないか。ママがお前を水の中に落としそうだと思って恐いの?』

ハンス『ママが手をはなすんじゃないかと思って。そしたらぼく頭から水に落ちてしまう』

ーーフロイト『ある五歳男児の症例分析(症例ハンス)』


母親というのは最愛の子供を奈落の底に落とす癖があるのは昔かららしい。

最も愛された子供は、いつの日か不可解にも母が落ちるにまかせる子供であるl'enfant le plus aimé, c'est justement celui qu'un jour elle a laissé inexplicablement tomber …あなたがたは知っているだろう、ギリシャ悲劇において…我々はジロドゥーの洞察を見逃し得ない…これが、クリテムネストラ Clytemnestra についてのエレクトラ Electra の最も深刻な不満である。ある日、クリテムネストラはその腕からエレクトクラを落ちるにまかせたのだ…(ラカン、S10「不安セミネール」, 23 Janvier l963)

なぜこうなるのかは、ひょっとしたらヨクシラレテイルかもしれない。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)
女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

ところでわたくしは高所恐怖症である。

まずすこし回り道をしてフロイトの次の文を掲げる。

……外部(現実)の危険は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。(フロイト『制止、症状、不安』旧訳,p373)

この文に註がついている。

※註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実の不安に幾分か欲動の不安がさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動の要求は、自分自身にむけられた破壊欲動であるマゾヒスム的欲動であるかもしれない。おそらくこの添加物によって、不安反応が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺し、脱落する場合が説明されるだろう。高所恐怖症(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近いものである。(『制止、症状、不安』)

この文から判断するに、高所恐怖症ってのは実は、マゾヒスト的に奈落の底に落ちたいのではなかろうか・・・

内側に落ちこんだ渦巻のくぼみのように、たえず底へ底へ引き込む虚無の吸引力よ……。最後になれぞそれが何であるかよくわかる。それは、反復が一段一段とわずかずつ底をめざしてゆく世界への、深く罪深い転落でしかなかったのだ。(ムージル『特性のない男』)

フロイトはほんとに気づいていなかったんだろうか?

フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼方には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望。……(ポール・バーハウ1998Paul Verhaeghe 1HREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE )

すくなくとも上の『制止、症状、不安』には《自我がひるむような満足を欲する欲動の要求は、自分自身にむけられた破壊欲動であるマゾヒスム的欲動であるかもしれない》と記しているわけで。

…………

わたくしの高所恐怖症は、自分ではたいしてひどいものではないと思っていた(すくなくとも意識的には)。ジャングルジムの頂上に登るのを敬遠するとか、遊園地の観覧車にのると冷汗がでる、あるいは高いビルで全面ガラスになっているようなところだとどうもいけない、――つまり足元が透明になっているといけないーー等々。11階建ての6階にあるマンションに10年近く住んでいたが、腰あたりまですりガラスになっていたので何の恐いこともなかったよ。だからたいしたもんじゃない、と。

観覧車でも大丈夫なタイプはあるので、出入り口が全面透明ガラスになっているヤツがいけない。ビルの屋上などの縁に腰かけて脚をぶらぶらさせているような写真は見ただけでゾッとする(見なくたってこうやって書いただけで、震えたよ・・・)

ところでアンコールワットでたいして気にもせずに高い塔に登って、降りるときにはひどく冷汗が出た。軀が震えていたかもしれない。縄につかまっておっかなびっくりでソロソロと降りて他の観光客に笑われたときは、やっぱりたいしたことのない高所恐怖症というわけにはいかないのでは、とふと思ったことがある。





そうはいっても「標準的な」山登りはへっちゃらなのだけど。だけれど吊り橋はぜんぜんいけない、女友達と山登りしたとき、あの女は吊り橋の上でピョンピョン飛び跳ねて揺すりやがって・・・

別に恐怖症の理由を探すつもりはないね、フロイトは汽車恐怖症だったらしいが、一生治らなかったそうだ。

なんのせいだって? 

Freud train phobia で検索したらいろいろ出て来るよ。

フロイトは友人フィリスへの手紙で次のように書いているらしい。

Freud theorized that his own train phobia was the result of having seen his mother naked during a train trip from the family village in Moravia to Vienna.

でも、いやフロイトはそう言っているだけで違うよ、という人たちもたくさんいる。

ところで、フィリスはパラノイアだったことが今では判明しているらしい、ジャック=アラン・ミレールによればだが)。(The Axiom of the Fantasm、Jacques-Alain Miller)

フロイトはフィリスへの書簡でフィリスを分析者、自らは被分析者(分析主体)として振舞ったわけだが、分析者ってのは結局誰でもいいわけで(知を想定された主体なら)、場合によってはマヌケでもいいわけだ・・・

さて話を元に戻せば、フロイトは「汽車恐怖症」はパニック障害に近い症状という話もあり、もしそうならフロイト自身、理論的に説明している、決して治療できない(取り除くことができない)ことを(参照)。パニック障害はフロイトの現勢神経症/精神神経症の区分における現勢神経症の領域の症状であり、「終りなき分析」の対象である。

というよりそもそもどの人間には治癒不可能な原症状がある。

ではどうすればいいのか?

エディプス・コンプレックス自体、症状である(« complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD )。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

やあ、でもこういった「手助け」がマヌケでもできるのかどうかは、わたくしにはよくわからないな

ところで、フロイトのエディプス理論は許容したっていいんじゃないか。裸のお母ちゃんのdas Ding の上にエディプスの夢、ファミリーロマンスを築いたわけだったら。ただし他の人がその理論を「まがお」で信じ込んでしまったのがわるかっただけさ。

ラカンの晩年サントーム理論だって、原症状の上に新しいシニフィアンを発明するってわけで、エディプス理論みたいなもんだよ。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。 

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)
なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

シニフィアンというのは倶利伽羅紋々でもいいわけでね。

刺青は、身体との関係における「父の名」でありうる。…(場合によって)仕事の喪失は精神病を引き起こす。というのは、仕事は、生活手段以上のものを意味するから。仕事を持つことは「父の名」だ。

ラカンは言っている、現代の父の名は「名付けられる」 êtrenommé-à こと、ある機能を任命されるという事実だと。社会的役割にまで昇格させる事、これが現在の「父の名」である。 (Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳,PDF

もちろん裸のお母ちゃんの上に、たとえば「蚊居肢」ってシニフィアン構築したっていいわけさ。

スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)
秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)

…………

ところで母親の奈落の底に落とす癖ってのは、最愛の子供じゃなかったらないんだろうか? そのあたりがはっきりしないね。たとえば坂口安吾の場合だったらどうだろう(彼は13人兄弟の12番目)。

安吾はあれは女性恐怖症だよ、きっと。「情痴作家」イメージってのはその反動の仮面さ。

次の文は《ママが水の中に落としそうだと思って恐い》という話でなくてなんだろう?

十二三の頃の話だ。夏も終りに近い荒天の日で、町にゐても海鳴りのなりつづく暗澹たる黄昏時のことであつたが、突然母が私を呼んで、貝が食べたいから海へ行つてとつてきてくれと命じた、あるひはからかつたのだ。からかひ半分の気味が癪で、そんならいつそほんとに貝をとつてきて顔の前に投げつけてやらうと私は憤つて海へ行つた。浪にまかれてあへぎながら、必死に貝を探すことが恰も復讐するやうに愉しかつたよ。(坂口安吾『をみな』)
「私」が一二、三歳くらいの頃である。 夏も終わりに近い、ひどく天気の荒れた日の黄昏時、「私」の母親は彼を呼びつけて海で蛤を取ってくるように命じた。 それはからかい半分であったようだが、その態度が逆に「私」の癪に障って彼は憤りと共に海に向かった。 天気のいい白昼の海にすら恐怖することがあるという「私」だったが、そのときは烈しい憤りのあまり恐怖も忘れ、必死に、または復讐するように楽しんで蛤を探した。 そして彼はとっぷり夜が落ちてから帰宅し、三和土に重い貝の包みを投げ出したのである。(坂口安吾『石の思ひ』)

貝、蛤、海ってのは全部、ヴァギナデンタータ・ブラックホールのことでなくてなんだろう? (ヴァギナとホールについては前回記したのでここではくり返さない)。

それにしても物置きってのはいけないんじゃないかね、《あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな》、--いいねえ、君たちは物置きの経験がなさそうで。

九つくらゐの小さい小学生のころであつたが、突然私は出刃庖丁をふりあげて、家族のうち誰か一人殺すつもりで追ひまはしてゐた。原因はもう忘れてしまつた。勿論、追ひまはしながら泣いてゐたよ。せつなかつたんだ。兄弟は算を乱して逃げ散つたが、「あの女」だけが逃げなかつた。刺さない私を見抜いてゐるやうに、全く私をみくびつて憎々しげに突つ立つてゐたつけ。私は、俺だつてお前が刺せるんだぞ! と思つただけで、それから、俺の刺したかつたのは此奴一人だつたんだと激しい真実がふと分りかけた気がしただけで、刺す力が一時に凍つたやうに失はれてゐた。あの女の腹の前で出刃庖丁をふりかざしたまま私は化石してしまつたのだ。そのときの私の恰好が小鬼の姿にそつくりだつたと憎らしげに人に語る母であつたが、私に言はせれば、ふりかざした出刃庖丁の前に突つたつた母の姿は、様々な絵本の中でいちばん厭な妖婆の姿にまぎれもない妖怪じみたものであつたと、時々思ひ出して悪感がしたよ。

三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。  (坂口安吾『をみな』)

《様々な絵本の中でいちばん厭な妖婆の姿にまぎれもない妖怪じみたもの》ってのは、君たちにはないかい? わたくしは幸いにもそこまではいかないけど。庖丁振り回したこともないよ、わたくしのほうはね、母が…ちょっと「神経」を病んでいたらしいときに祖母に向って庖丁というのは…なぜか鮮明な記憶があるにはある…でもあれは夢だったかもしれない…

私は学校を休み松林にねて悲しみに胸がはりさけ死ねときがあり、私の魂は荒々しく戸を蹴倒して我家へ帰る時があつても、私も亦、母の鼻すら捩ぢあげはしないであらう。私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでゐた。ふるさとの母をよんでゐた。 そして私は今も尚よびつゞけてゐる。そして私は今も尚、家を怖れる。いつの日、いづこの戸を蹴倒して私は死なねばならないかと考へる。一つの石が考へるのである。(坂口安吾『石の思ひ』)

《然し、これが自伝であるかといふよりも、かういふ風に書かれたこと、書かねばならなかつたこと、私自身にとつては、意味はそれだけ》(坂口安吾『いづこへ』)

やあもちろんフィクションなかの話さ、安吾だって、わたくしの駄文だって。

ーー《真理は虚構の構造をしている La vérité a structure de fiction》(ラカン)


母方の祖父母の家で、伯父の子供と二人だけで遊んでいたらしい。何歳ごろだったか、たぶん幼稚園に入る前だと思うがはっきりしない。彼はーー彼女かもしれないーーわたくしより下だがどのくらい年が離れていたのかは不詳。その子は座敷の前にある庭の池に落ちて溺死してしまった。その後伯父夫妻は離婚した。

でもこれだって不思議だ。なぜそんな小さな子供が二人だけで座敷で遊んでいたのか…いかにも嘘っぽいよ…




2017年1月24日火曜日

まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく

人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番 秋山英夫訳)

ーー『漂泊者とその影』は1880年出版(『人間的な、余りにも人間的な』第二巻)であり、バーゼル大学教授辞職(1879年)の一年後に上梓されていることになる。

目だけが醒めているとあるが、逆に耳だけが醒めている場合、嗅覚だけが醒めている場合だってあるだろう。わたくしには、視覚よりも聴覚・嗅覚において、よりいっそう「ニーチェ現象」が起こる(真にそう思うのは、年に一度か二度程度だが)。

あまり起こり過ぎても怖いがーーというのは究極的にはブラックホールS(Ⱥ) に遭遇する感覚だからーーもうすこし頻繁にあってくれたらいいとは思う。おそらく分裂親和気質の方なら頻繁に起こっているのではないか。

…この過程の出発点において、フロイトが「能動的」対「受動的」と呼んだ二つの傾向のあいだの対立がある。我々の観点では、これはS1(主人のシニフィアン)とS(Ⱥ) とのあいだの対立となる。S(Ⱥ) 、すなわち女にとって男のシニフィアンの等価物の不在ということである。この点において、正規の抑圧に関してフロイトによってなされた区別を次のように認知できる。

引力:抑圧されねばならない素材のうえに無意識によって行使された引力。それはS(Ⱥ) の効果である。あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。

斥力:すべての非共存的内容を拒絶するファルス Φ のシニフィアン S1 から生じる斥力。

この関係は容易に反転しうる。すなわちすべての共存的素材を引き込むファルスのシニフィアンと、他方でその種の素材をまさに排斥するS(Ⱥ)。

(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF

S(Ⱥ)とは« Lⱥ femme »の記号である。

…彼女を女 La femme と呼ぶのは適切でない。…女は非全体 pas tout なのだから、我々は 女 La femme とは書き得ない。唯一、斜線を引かれた « La » 、すなわち Lⱥ があるだけだ。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。…(ラカン、S20, 13 Mars 1973ーー神と女をめぐる「思索」)

ブラックホール=ヴァギナデンタータ現象とは場合によっては次のようにひどく戦慄的なものである。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ヴァギナデンタータ現象がまったくなくて残念だと思うひとは、人工的にヒロポン中毒現象に近似したものをもたらす何ものかを試してみたらいい・・・

十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった(坂口三千代「クラクラ日記」)

…………

「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」」において、次の文を引用して、ラカンの現実界論、そして中井久夫の分裂病論と結び付けようとした。

オイディプス的なしかめ面 la grimace œdipienne の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑い le rire schizoーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)

分裂親和型気質でなくても、ひとは冒頭のニーチェのような現象がときに起こるのではなかろうか。蜘蛛になることがあるのではないか。

たとえばジャン・ジュネの『泥棒日記』のなかには次のような文があるが、これはニーチェ文と類似した感覚を語っているのではないだろうか。

わたしには、もろもろの物象が輝くばかりの明澄さで知覚されると思われるようになった。あらゆる物が、最もありふれたものまでも、その日常的な意義を失っていたので、わたしは終いには、いったい、コップは水を飲むものである、とか、靴は穿くものであるというのはほんとうだろうかと考えるまでになった。(ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)

あるかい? 一度でもこの感覚を経験したことが。

ファルス秩序に囚われたままではけっして起こらない。

《ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる》(吉田秀和「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」)という感覚。

中井久夫の《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》や、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》感覚(参照)。

〈女〉にならなくちゃな
〈男〉のままだったらだめさ

私が思うに、男を光の波とすれば、女性は光の粒子の集まりなのです。少女のフィルムをスローモーションで見てみると、互いに異なった百個の世界が見えてきます。少女が笑ったと思っていると、その十二コマ先では完全な悲劇が展開されるのです。(“ゴダール全てを語る”―宇野邦一『風のアポカリプス』より)
少女や子供が生成変化をとげるのではない。生成変化そのものが少女や子供なのである。子供が大人になるのではないし、少女が女性になるのでもない。少女とは男女両性に当てはまる女性への生成変化であり、同様にして子供とは、あらゆる年齢に当てはまる未成熟への生成変化である。「うまく年をとる」ということは若いままでいることではなく、各個人の年齢から、その年齢に固有の若さを構成する微粒子、速さと遅さ、そして流れを抽出することだ。「うまく愛する」ということは男性か女性のいずれかであり続けることではなく、各個人の性から、その性に固有の少女を構成する微粒子、速さと遅さ、流れ、そしてn個の性を抽出することだ。<年齢>そのものが子供への生成変化なのだし、性一般も、さらには個々の性も、すべて女性への生成変化、つまり少女たりうるのである。――これは、プルーストはなぜアルベールをアルベルチーヌに変えたのだろうかという愚劣な問いへの答えである。

ところで、女性への生成変化も含めて、あらゆる生成変化がすでに分子状であるとしても、あらゆる生成変化は女性への生成変化に始まり、女性への生成変化を経由するということも、はっきりさせておかなければならない。女性への生成変化は他のすべての生成変化を解く鍵なのである。戦士が女性に変装し、少女になりすまして逃走する、そして少女の姿を借りて身を隠すということは、彼の経歴において恥ずべき仮そめの偶発事などではない。身を隠し、偽装するということは、戦士の機能そのものなのだ。……(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

微粒子の詩といえば、日本語で書かれたもののなかでは、わたくしには「一つのメルヘン」にまさるものはない。

一つのメルヘン  中原中也

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は

さらさらと、さらさらと流れているのでありました……


たとえばこの感覚を中原中也からではなく宮澤賢治からより多く受ける方もいるのだろう、「風景やみんなといつしよに/せはしなくせはしなく明滅」(宮澤賢治)すること、その変化流転の止まないさまに魅了されて。

彼は幸福に書き付けました。とにかく印象の生滅するままに自分の命が経験したことのその何の部分だつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶままを、--つまり書いている時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。(……)彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考さるべきものでも翫味さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のままで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白さへすればよかつたのです。(中原中也「宮沢賢治の死」)

…………

※付記

ここでの文脈とはあまり関係がないが、冒頭に掲げたニーチェの文が書かれた1888年の前々年には次のような事件があった。

私はときどき考えているのだが、ニーチェの長患い(頭痛やら眼のトラブル)は、若く才能のあるインテリたちの間で観察してきた病気と同じケースじゃないか、と。私はこれらの若者たちが朽ち果てていくのを見てきた。そしてただひたすら痛々しく悟ったのは、この症状はマスターベーションの結果だということだ。(ワーグナー書簡、 Wagner on April 4, 1878)

David Allisonは、1977年に出版された“The New Nietzsche”にて、このワーグナーの手紙を引用しつつ、次のように書いている。

まったく自明の理だが、ニーチェの世界は、完全にばらばらに崩れ堕ちた……1878年の春の出来事によって。その時、ワーグナーは、ニーチェのオナニズムへの過度の没頭を非難し、かつまたニーチェの医師、Otto Eiser博士によって知らされたわけだ。Otto Eiserは、フランクフルトのワーグナーサークルの会長として、ニーチェのオナニズムに対するワーグナーの告発を、バイエルン祝祭劇場の参加者にまで流通させた。ニーチェは恥辱まみれになった。そして、おそらくは、ニーチェは、教養あり洗練された名士たちの唯一の集団から、余儀なく退却せざるをえなくなった。ニーチェはこの集団との公的な接触、かつまた評価を享受することもできただろうに。(David Allison “ The New Nietzsche”1977)

ーーニーチェのバーゼル大学教授辞職は1879年である。

18世紀から19世紀にかけて、異様な反オナニズム運動が起こった、当時は、マスターベーション(自慰)行為は、蛇蝎のごとく扱われ、《このときオナニスムはまるで今日のエイズを思わせるような扱いを受け》た。

私は、二つの点において居心地の悪さを感じています。(……)なぜ、性的活動一般ではなく、自慰が問題となったのでしょうか。(…)次に、自慰撲滅運動の特権的な標的となるのが、労働する人々ではなく、子供ないし青少年である、という点も、やはり奇妙に思われます。しかも、この運動は、基本的に、ブルジョワ階級に属する子供や青少年を標的としています。(……)

自慰は不道徳の領域にではなく、病の領域へと組み入れられる、ということです。自慰は、いわば普遍的な実践とされ、すべての病がそこから発生する危険で非人間的かつ怪物的な「X」とされます。(フーコー『異常者たち』)

やあほんとに関係がないのかね、ここでの文脈と。

私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス(無意識的記憶)と呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。

…私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

よく知られているように(?)、無意志的記憶とは、トラウマのことである(参照:Involuntary memory:Wikipedia)

無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。

…les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
「メタコスモス」が比例世界に展開しえて白日のもとにさらされるようなことがあれば、私はとうてい生きておれないだろう。(中井久夫「世界における徴候と索引」)

プルーストかい? でもわかり切ってるだろ? 《神秘なあかりに照らされる内臓の、半透明となった組織の深部に、残存者と虚無との痛ましい再統合 douloureuse synthèse de la survivance et du néant のすがたを反映し、屈折させた》なんて引用しなくても。

無意識、それはリアル(現実界)である(……)。それが穴が開けられている troué 限りにおいて。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI,1975)

後期ラカンが穴といえば、それはブラックホールであり、穴馬のことである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

…………

もちろん穴ウマとは原トラウマのことである。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

そして、

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ……現在の状況が過去に経験した外傷経験を思いださせる……(フロイト『制止、症状、不安』)

人間にとって最も最初の無力な状況とは何だろう?

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)

すなわち人間は誰もがトラウマ化されている、«tout le monde est traumatisé»(Miller,Tout le monde est fou Année 2013-2014

厳密さを期さずに言えば、ほとんどの場合、しっかりした穴埋めをしている人のみが、ニーチェ現象がない。

最もしっかりした穴埋めツールとは、ファルスである。フェティシュぐらいの穴埋めだとすぐポロっととれちまう。

おめでとう、ファルス主義者たちよ!



2017年1月23日月曜日

「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」

カフカとプルーストという二人の偉大なオイディプス的人間は、ただ笑うためにオイディプス的なのである。そしてオイディプスを真にうけている人びとは、死ぬほど悲しい彼らの小説あるいはそれについての注釈を自分自身に接木することが、いつでもできる。それにしても、こういう人びとが何を見失っているか推測してほしい。超人的次元の喜劇、オイディプス的なしかめ面 la grimace œdipienne の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑い le rire schizoーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)

les deux grands œdipiens, Proust et Kafka, sont des œdipiens pour rire, et ceux qui prennent Œdipe au sérieux peuvent toujours greffer sur eux leurs romans ou leurs commentaires tristes à mourir. Car devinez ce qu'ils perdent : le comique du surhumain, le rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne - le devenir-araignée ou le devenir-coléoptère.

ラカン派でしばしば言及される「現実界の顰め面」というのは、ラカンによるDGのパクリかもしれないな。

じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasme でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界のしかめ面 grimace du réel として理解されるべき現実である。

…alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、1973年)

この文は、「現実界」は「現実のしかめ面」と捉えるべきではないか。それは「分裂的笑い」が「エディプスのしかめ面」であるのと同様に。

つまりは、「現実界のしかめ面」とは、「現実界という(現実の)しかめ面」とすべきではないか。実際、ジジェクは初期からそう捉えているようにわたくしには読める。

一般に、これら純粋な欲動の具現化は仮面をかぶっている。なぜか。おそらく、現実界についてのラカンのいささか謎めいた定義を通して、その答えが得られるだろう。『テレヴィジョン』の中で、ラカンは「現実界のしかめ面 grimace of the real」という表現を用いている。つまり現実界は幾層もの象徴化の下に隠された到達不可能の核ではなく、表面上にある。すなわち、いわば現実の過度の変装のようなもの、要するに、映画『バットマン』におけるジョーカーの顔に貼りついた歪んだ微笑みたいなものである。ジョーカーはいわば自分自身の仮面の奴隷になっていて、その盲目的衝動に翻弄されている。死の欲動はこの表面上の歪形の中にあるのであって、その下にあるのではない。本当に怖いのは笑っている間抜けな顔であって、それが隠している歪んだ顔ではない。

このことは日常的に子どもを観察しているとよくわかる。子どもの眼の前でわれわれが仮面をつけたとする。子どもは、その下にはよく知っているわれわれの顔があることを知っているわけだが、それでも怖がる。まるで、言葉ではあらわせない何か邪悪なものが仮面にとりついているかのように。このように仮面が位置しているのは、想像界でも象徴界でもなく(つまり、われわれが演じている象徴的な役割を示しているのではなく)、現実界である。ただし、それはもちろん、現実界を現実の「しかめ面」と捉えた we conceive the real as a "grimace" of reality 上での話しである。(ジジェク『斜めから見る』原著1991年、鈴木晶訳)

もっともこの読み方は、ラカンの発言、《現実界のしかめ面 grimace du réel として理解されるべき現実 réalité 》を反転させていることになる。

Adrian Johnston は「Zizek's Ontology: A Transcendental Materialist Theory of Subjectivity」2008年にて、《Žižek reverses this description: the Real is a grimace of reality》と指摘しつつ、次のように叙述している。




このあたりは、わたくしはラカン自身の叙述よりもジジェクの解釈を取りたいのだが、というのは、もしそうすれば、ドゥルーズ&ガタリの《オイディプス的なしかめ面の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑いle rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne》とともに素直に読めるから。エディプスとはまずはわれわれの現実であるあろうし、分裂的笑いは現実界だろう。

「オイディプス的しかめ面の背後にある分裂的笑い」をラカン語で言い直せば、「ファルス享楽の彼方(非全体)に外立する他の享楽」ということになる。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence] 、象徴界[ le symbolique ] は穴 [ trou ] 、想像界 [ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ](LACAN,S22,18 Février 1975)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (LacansS20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique の彼方(非全体pas-tout)にある他の享楽 autre jouissance とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)である。(ポール・バーハウ2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

外立は外密に言い換えてもよい。 すなわち「ファルス享楽の非全体に外密する他の享楽」と。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité
Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001,PDF)
我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)

…………

たとえば中井久夫の叙述から例を出そう。

オランダの臨床精神医学者リュムケは、正常者でもすべていわゆる分裂病症状を体験する、ただしそれは数秒から数十秒であると述べている。この持続時間の差がなにを意味するのか、と彼は自問する。

私は回復期において一週に一、二回、数十分から二、三時間、“軽症再燃”する患者を一人ならず診ている(慢性入院患者がごく短時間「急性再燃」を示すという報告も別にある)。なかでも、自転車で人ごみのなかを突っ走ると起こりやすい場合があるのは興味がある。当然、追いぬく人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評の)兆候となる。そこからさまざまな“異常体験”への裂け目がはじまる。しかし、じっとして“ふりまわされぬ”ようにしていれば、この兆候的なもののひしめく裂け目は閉じ、すべてが過ぎ去ることが判ってきて、そのようにしているとーーー決して愉快な時間ではないがーーーいつのまにか消えてゆく。この場合、ガラスにひびの走るように拡がって急速なパニックには陥らないわけで、どうやら多くの“分裂病性異常体験”は、その基底にある不安あるいは(対人的)安全保障喪失感の“量”というか根の深さいかんで、恐慌状態になる場合からほとんど看過ごされる場合まで実に大きな幅があるようだ。幻聴でも、すこし聴こえただけで参ってしまう人もあるが、「大学教授なら停年までつとめられる例がある」とも聞いた。もっとも、持続時間を決定している因子はまた別かも知れない。(中井久夫『分裂病と人類』)

 《自転車で人ごみのなかを突っ走る》、そうすると現実の《裂目》が生じる。これが現実というしかめ面である。そして場合によって兆候的なもの=分裂的なものが犇めく。

すなわちドゥルーズの言い方なら《蜘蛛になる》のだ。

しかし、器官のない身体 un corps sans organs とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュ moindre signe がその内部に到達する。

『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。語り手の極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で組織的ないかなる使用 tout usage volontaire et organisé もできない限り、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、強制され、無理じいされる contrainte et forcée ときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用 l'usage involontaire を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描 une ébauche intensive としてである。

そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する器官のない身体の包括的で強度は反作用として存在する無意志的な感受性 Sensibilité involontaire、無意志的な記憶作用 mémoire involontaire、無意志的な思考 pensée involontaire。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれをなかば開けるか閉じるために動くのは、この身体=巣=クモcorps-toile-araignéeである。

語り手の奇妙な可塑性 Étrange plasticité。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者ーー狂人 le fou ーー普遍的な分裂病患者 I'universel schizophrèneである語り手のこの身体=クモが、そこから自分自身の錯乱délireの操り人間、器官のないおのれの身体の強度な力 puissances intensives de son corps sans organes、おのれの狂気のプロファイル profils de sa folie を作るために、偏執病患者 paranoïaque であるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂 érotomane であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能――クモーー」の章ーー「思考のイマージュ」の遷移

ドゥルーズを長々と引用してしまったが、中井久夫に戻ろう。彼は次のように記している。

ほとんど常に分裂病的でありうる狩猟採集民たちは、 《三日前に通ったカモシカの足跡を乾いた石の上に認知し、かすかな草の乱れや風のはこぶかすかな香りから、狩りの対象の存在を認知する(……)。(砂漠において)彼らに必要な一日五リットルの水を乾季にほとんど草の地下茎から得ているが、水の多い地下茎と持つ草の地表の枯蔓をそうでない草のそれから識別する》(『分裂病と人類』)

これはわれわれ通常人にもときに起こる。

徴候化は、対象世界にも、私の側にも起こる。対象の側に起こる簡単な場合には、山で道に迷った場合があろう。「道に迷った!」と直観した刹那に、人はもはや眼前の美しい森やこごしい断崖に眼を注がない。ささやかな踏みわけ跡らしきものを、けものみちであるか、先人のとおった跡であるかを見分けるために、ごく些細な徴候を捜して、明確な対象は二の次三の次になるだろう。これが、世界が徴候化する場合のごくわかりやすい一例である。。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

中井久夫には、分裂的兆候感覚の定義として、《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》や、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》という美しい表現があるが、上に引用した文はそのことを別の仕方で語っている。

少し前、ドゥルーズの蜘蛛と器官なき身体をめぐる文章を引用したが、ミレール派の主要論客 Pierre-Gilles Guéguen 2016、PDF は、ラカンのAutres Ecrits(p.409)から引用しつつ、「器官なき身体 les corps sans organes」、「語の物質性 la matérialité des mots」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」 を関連づけている。

中井久夫もかねてより、「語の物質的側面」、分裂的症状の発生期の「言語の例外状態」を語っている。

…この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。(……)

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。(中井久夫「詩の基底にあるもの」1994年初出『家族の深淵』所収ーー中井久夫とラカン

最近、中井久夫の分裂病論は、自閉症との区別において疑義が呈されることがあるらしいが、少なくとも上の見解は、そのあたりの図式的な「凡庸な精神科医たち」には、いつまでたってもなかなか及びがつかないすぐれた洞察である、とわたくしは思う。

あまり詩的感性などということを言うつもりはないが、ただし最晩年のラカンの言葉は引用しておこう。

ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。(ラカン、S.24.1977).

ーーこのポエジーをめぐるミレールの注釈は 「柿の木と梨の木」にある。


※分裂病的享楽とパラノイア的享楽については、次のような見解があるのを示しておこう。

分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)
あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2008)

…………

ところで、「消えたチェシャー猫の笑い」は分裂病的な笑いだろうか。中井久夫はそう語っていない。

予感が微分的、すなわち微細な差異にすべてをかけるのに対して、余韻とは、経験が分節性を失いつつ、ある全体性を以て留まっていることである。『ふしぎの国のアリス』における「消えたチェシャー猫の笑いが木のうえにとどまっている」のは余韻であろう。それは積分的である。しかし、余韻と予感には相通じる性格がある。ほのかな示唆的な性向である。余韻の感受は、予感の感受と似ている。(「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収P18)

中井久夫の予感/余韻の最も簡潔な定義は次の通り。

予感というものは、……まさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして息をひそめているという感覚である。むつかしいことではない。夏のはげしい驟雨の予感のたちこめるひとときを想像していただきたい。(中井久夫「世界における索引と徴候」)

    穢れを知らない私、その膝は
むき出しの膝の怖れの予感に打ち震える……
吹き来る風は私を砕き、鳥は刺し貫く、鎧戸を閉ざした心の闇を、
聞いたことのない奇怪な嬰児(あかご)の声で……
胸の二つの薔薇を私の息は持ち上げ下ろす。(ヴァレリー「若きパルク」中井久夫訳)

余韻とはたしかに存在したものあるいは状態の残響、残り香にたとえられるが、存在したものが何かが問題ではない。驟雨が過ぎ去った直後の爽やかさと安堵と去った烈しさを惜しむいくばくかの思いとである。(同中井久夫)

「消えたチェシャー猫の笑い」は予感か余韻のどちらかかは、おそらく議論があるだろう。中井久夫自身、《余韻と予感には相通じる性格がある。ほのかな示唆的な性向である。余韻の感受は、予感の感受と似ている》としているのをみた。

…………

François Balmès は、「現実界」を次のように簡潔明瞭に語っている。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,2000)

ラカンの数ある「現実界の定義めいたもの」から、ここでの文脈に適うものを拾い出すなら、次の文がよい。

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(S.18)

・現実界とは形式化の袋小路である。 Le reel est un impasse de formalization(S.20)

ラカンにとって現実とは「見せかけの世界 le monde du semblant 」である。

無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)
 精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール,1996

おそらく、「しかめ面」は、「揺らめかす」という表現と「ともに」理解できる。

悟り(「禅」における出来事)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺らめかせるもの qui fait vaciller la connaissance, le sujet である。つまり、悟りはパロールの空虚 un vide de parole を生じさせてゆく。そして、パロールの空虚こそがエクリチュール écriture をかたちづくる c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture。(ロラン・バルト『記号の国』)
プルーストの作品は、過去と記憶の発見とに向けられているのではなく、未来と習得の進展とに向けられている。重要なことは、主人公は最初は或ることを知らなかったが、徐々にそれを習得して、ついには最終的な啓示 révélation を受け取るということである。したがって、彼は必然的に失望を味わう。つまり、彼は《信じ》、幻想 illusions を持っていたが、世界は習得の過程の中で揺らめくのである。il« croyait », le monde vacille dans le courant de l'apprentissage. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

結局、「すぐれた」詩人や芸術家たちは殆ど常にこのことばかりを目指していると言ってよいのではないか(参照:柿の木と梨の木)。すなわち現実を揺らめかす、あるいは現実をしかめ面にしてみせる、ということを。

人生の通常の経験の関係の世界は
あまりいろいろのものが繁茂してゐて
永遠をみることが出来ない。
それで幾分その樹を切りとるか、
また生垣に穴をあけなければ
永遠の世界を眺めることが出来ない。
要するに通常の人生の関係を
少しでも動かし移転しなければ、
そのままの関係の状態では
永遠をみることが出来ない。

ーー西脇順三郎「詩情」(生垣の「結び目をほどく」詩人

・エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)

・詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である。(中井久夫『現代ギリシャ詩選』序文) 

もっとも例外はありうる。それは「冥府下りと冥府からの途切れがちの声」などに記した。

…………

最後に最近のジジェクによる現実界の「とてもすぐれた」定義を掲げておこう。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的ものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在(現実) [being (reality)] があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳ーー基本版:現実界と享楽の定義

柄谷行人の《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ》(『トランスクリティーク』)の表現を援用して言えば、《「現実界」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない》となる(参照)。