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2017年3月24日金曜日

「父の名/母の欲望」→「S1/S(Ⱥ)」 、「I(Ⱥ)/S(Ⱥ)」

ラカンのセミネールⅤには、おそらくラカンを掠め読んだだけの者でも、さらにはラカンの初心者向け解説書のみを読んだだけの者でさえ、ほとんど誰もが知っているだろう、次の図がある。




この図は、ラカンの記述に則って、通常は次のように書き直される。





だが、母の欲望の下に「主体のシニフィエ」とあるのは、後のラカンからいえば、やや問題があるのであって、たとえば、セミネール17にはこうある。

S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(S17)

S1とは、このセミネール17の時点のラカンにとって父の名、あるいは(象徴的)ファルスであり、その前段階の 母の欲望が「来るべき主体」を徴示する(シニフィアンする)ときは、いまだ正式の「主体」はない。

その意味で、たとえば向井雅明氏の1990年代の論文(精神分析と心理学)の次の図のように、(ラカンの記述に則って)「x」としておくほうが、より正しい。



「x」とは、幼児が母とのイマジネールな関係においての困難さを示す、《l'enfant va assumer la difficulté de la relation imaginaire à la mere》。ようは《母が行ったり来たりするのは何なんだろ? Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?》(S5)に直面した来るべき主体の原不安、呼んでもやってこなかったり、呼ばないときにやってくる不気味な存在ーーそれにもかかわらず「生死」にかかわる必要不可欠な存在ーーへの不安感覚である。

ラカンはのちに《(構造化されていない)不安、その鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》(ラカン、S10)としているが、これを Ⱥ の原初的出現と呼ぶ。

かつまた《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S10)とも呼んでおり、後にはいっそう簡潔に《欠如の欠如 Le manque du manque》(AE573、1976)としている。ようするにブラックホールのことであり、原初の母の(幼児にとっての)全能性の言い換えである。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”)

そして図の右側の(A)、つまり大他者によってシニフィエされる「ファルス」とは、母の欲望の対象であり(le phallus est objet du désir de la mère)、象徴的ファルス Φ ではなく、想像的ファルス −φ を示している。



とはいえ、この図にいくらか問題があるのは、1959年以降、父の名の意味合いが変わったことに由来する。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネールⅥ で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013年ーー超越的法/超越論的法

この意味で右辺の、



は、もはや素直には使いがたい。つまり「大他者A」の「大他者(父の名)」はないのだから(超越的父の名から超越論的父の名への移行)、この図は誤解を招きやすい。

他方、左辺の


あるいは、



は、これは今でもよく使われる。とくに後者は次のような略号で頻出する。




これらの変奏として、最初に掲げた「DM/X」の図式のほうを、たとえば次のように記してもよいはずである。




こういう風に記している人をわたくしは直截には知らないが、この図の起源は、次の三つに由来する。



超自我とは確かに「法」である。しかし鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「単一」unary のシニフィアンとしての法である。…超自我は、独自のunique シニフィアンから生まれる形跡・パラドックスである。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我は、父の名によって隠喩化され支配される以前の「母の欲望」にひどく近似している。超自我は、法なき気まぐれな勝手放題 capricious whim without law としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996,PDF)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

ーー母の法、母なる超自我が、S(Ⱥ) と相同的ということである。

もうひとつ、NP/DM、つまり「父の名/母の欲望」の図式の変奏は次のようになる。




これもラカン文を援用した、「父なる超自我S1」/「母なる超自我S(Ⱥ)」という想定である。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

コレット・ソレールの最近のセミネールの表現をとれば、S(Ⱥ)とは、「原リアルの名」、「原穴の名」に相当する。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

そのときȺとは何か。それは、上のポール・バーハウ1999の図にあった「トラウマ的現実界」であると同時に、たとえば「身体の享楽」である。

「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ジャック=アラン・ミレールは、S1/S(Ⱥ)の図に相当するものとして、次のようなことを(どこかで)言っているらしい。出典不明だが、Esthela Solanoによる次のような指摘がある。

J.-A. Miller a produit le mathème suivant : I(A) barré sur S(A) barré.(Un exercice de lecture、Esthela Solano, PDF)

 I(A) barré sur S(A) barré とは、S(Ⱥ) の上に I(Ⱥ) を課すということである( I(Ⱥ)とは、 Idéal du moi(自我理想)のマテーム )。

すなわち、


である。

これは結局、以前掲げた次の図と同じことを言っている。



ここで肝腎なことの一つは、S1も I(Ⱥ)ーー自我理想シニフィアンーーも、後年のラカンにとってはどんなシニフィアンでもよくなったことだろう。

すなわち S1 は、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことであり(S17)、それが父の機能(縫合機能)を持てば、なんでもよい。

c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître.(ラカン、S.17)

実際、われわれの具体的な人生においても(標準的には)、父に同一化したり祖父母に同一化したり、その後、教師、思想家や芸術家に同一化したりしてゆくだろう(例外的に(?)母なる超自我に同一化したまま人生を送る人もいるが)。

倒錯者の不安は、エディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安としてしばしば解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

いずれにせよS1との同一化、それはS(Ⱥ)を覆い隠すためである。そのことを別の観点から、「昇華」や「脚立」といったりもする(参照:芸術家集団による美の「脚立 escabeau」)。

超自我・父の名・自我理想の関係については、次の文を参照されたし(フロイト自身は、超自我と自我理想を区別をしていないが)。

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School
超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)

※より詳しくは、「二種類の超自我と原抑圧」を参照。

そして《原抑圧はS(Ⱥ)にかかわる》(PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST?、1999)。

S(Ⱥ)は、後期ラカンにおいてはΣ(サントーム)のことでもあり(ミレール、2002)、ラカンはセミネール23にて、サントームと原抑圧を関連づけている(参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)。

こうして現代ラカン派では次のような考え方がなされるようになる。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress 2012ーー「二種類の超自我と原抑圧」)

とはいえ驚くことに、固着(原固着)や、欲動の根とは、初期フロイトの境界表象にかかわる概念であることだ(バーハウ、1999)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

すなわち「境界表象 Grenzvorstellung」(境界シニフィアン)とは、ラカンのS(Ⱥ)、「一のようなものがある Y'a d'l'Un」、サントームΣ と(ほとんど)同じものである。

《サントーム……それはYadlunと等価である》(ミレール2011)ーーであるなら、サントームは「境界表象」でありうる。

とはいえ《身体の出来事 un événement de corps》(ラカン、AE.569、1975)が、サントームあるいは原抑圧(原固着)であるとして、それは具体的に、どんな出来事なのだろうか。

おそらく、幼児にとっての最初の大他者(母なる大他者)の介入による欲動興奮の《馴化》あるいは《拘束》にかかわる、《リビドーによる死の欲動のかかる馴化(飼い馴らし) Bändigung des Todestriebes durch die Libido》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924年)

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動興奮 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

「一次過程」とは、現代ラカン派が原抑圧と等価のものとする「我々の存在の核」にかかわる(この表現が出て来る『夢解釈』の時期には、フロイトはいまだ原抑圧概念はないが)。

私は心の装置における心的過程の一方を第一次的過程と名づけたが、私がそう名づけたについては、地位の上下や業績能力を顧慮したばかりではなく、命名によって時間的関係をも同時にいい現わそうがためであった。

第一次過程しか持たないような心的装置はなるほどわれわれの知るかぎりにおいては存在しないし、また、その意味でこれは一理論的仮構にすぎない。しかし第二次過程が人間生活の歴史上で漸次形成されていったのに反して、第一次過程は人間の心のうちにそもそもの最初から与えられていたということだけは事実である。そしてこの第二次過程は第一次過程を阻止してそれを覆い隠し、そしておそらくは人生の頂上をきわめるころおいにおいてはじめて完全に第一次過程を支配するにいたるものなのである。第二次過程の、こういう遅まきの登場のために、無意識的願望衝動からなっているところの我々の存在の核 Kern unseres Wesens)は、無意識に発する願望衝動にもっとも合目的的な道を指し示すという点にのみその役割を制限されているところの前意識にとっては把握しがたく、また、阻止しがたいものとなっている。(フロイト『夢解釈』1900年)

原抑圧とはシステム無意識にかかわり、抑圧がシステム前意識にかかわる(ここでは簡略して記すが、この関係は、おおむね S(Ⱥ)とS1の関係でもある)。

・前意識システム System Vbw においては、二次過程 Sekundärvorgang が支配している。

・一次過程 Primärvorgang(備給の可動性 Beweglichkeit der Besetzungen)は、無時間的であり、外部の現実を心的現実に置換する。これはシステム無意識 System Ubw に属する過程のなかに見出しうる。(フロイト『無意識』1915年)

…………

※付記

以下の文に力動的無意識とあるのは、「システム前意識 System Vorbewußt (Vbw)」のことである。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)



2017年2月20日月曜日

呼んでもやってこない「理想の女」

漱石の『虞美人草』を今頃はじめて読み通した。彼の朝日新聞デヴュー作(1907年6月 - 10月)であるが、肩に力が入り過ぎていたのか、文体的に凝り過ぎている印象などもあり、かつてのわたくしには読みがたかった(この作品は若書きだと思いこんでいたが、1867年生れの漱石の40歳の作品であることも今頃知った)。以下はその読書による派生物である。

…………

ボードレールの名言として知られる「女と猫は呼ばない時にやって来る」。だが、これはたぶん誰かがそう意訳したのではなかろうか、正確にこの文に相当することをボードレールが言ったのかどうかは(わたくしには)不詳である。

いずれにせよこの文の核心は、女も猫も呼ばないときにやってくるだけではなく、呼んだときにやってこない、ときに拒絶する存在だということだろう。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

漱石のほとんどの小説ーーおそらく例外はあるだろうがわたくしはその例外を失念したーーこの行ったり来たりする母=女を書いているのではなかろうか? 今は比較的初期の作品から《長い廊下を何度往き何度戻る》那美さんと、《男を弄ぶ》蛇女藤尾さんをめぐる叙述を掲げておく。

一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿のすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側を寂然として歩行て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。 

花曇りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄干に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間の中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭寥と見えつ、隠れつする。

女はもとより口も聞かぬ。傍目も触らぬ。椽に引く裾の音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩行いている。腰から下にぱっと色づく、裾模様は何を染め抜いたものか、遠くて解からぬ。ただ無地と模様のつながる中が、おのずから暈されて、夜と昼との境のごとき心地である。女はもとより夜と昼との境をあるいている。 

この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装をして、この不思議な歩行をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。(夏目漱石『草枕』)
緑りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩どる中に、楚然として織り出されたる女の顔は、――花下に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。 

余が視線は、蒼白き女の顔の真中にぐさと釘付けにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯を伸せるだけ伸して、高い巌の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那!(同『草枕』)
「清姫が蛇になったのは何歳でしょう」「左様、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」「安珍は」「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」(……)

「私は安珍のように逃げやしません」 これを逃げ損ねの受太刀と云う。坊っちゃんは機を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。

「ホホホ私は清姫のように追っ懸けますよ」 男は黙っている。「蛇になるには、少し年が老け過ぎていますかしら」 

時ならぬ春の稲妻は、女を出でて男の胸をするりと透した。色は紫である。(夏目漱石『虞美人草』)
藤尾は男を弄ぶ。一毫も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を外れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就する。(夏目漱石『虞美人草』)

さて、いささか長い挿入となったがラカンに戻る。

(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ1998,Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

原初のトラウマ的体験ーー《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況》ーーとは、行ったり来たりする「不気味な」母にかかわり、そしてそれは母なる全能性に変換される。

そしてその〈母〉は、極度に高い価値をもつ存在である。

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我の分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)

呼んでもやってこない「猫」と呼ばないときにやってくる「猫」とは、究極的には、分離不安と融合不安という人間の最も根源的な原不安にかかわる。

最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的 somatic な未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安」は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では「最初に世話する人」としてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに「分離不安」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「融合不安」呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別にである。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的なエラボレーションとさえ言いうる。原不安は二つの対立する形態を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる大他者 (m)Other に享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。それはフロイトの受動的ポジションと同様である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009PDF

フロイトにとって原初の母子関係における「受動的立場 passive Einstellung」とは原トラウマ的という意味である。

…………

「母の欲望」とは、事実上、「原穴(原トラウマ )の名 le nom du premier trou 」である。あるいはそれを母の法と呼び変えてもよい。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである。(Lacan.S5)


我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

ラカンは《身体は穴である corps……C'est un trou》(ラカン、1974)とも言っている、なぜ身体には穴が開いているのだろうか。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

大文字で書かれる「母の欲望 Désir de la Mère」とは、母子関係の最初期においては、実際の母の欲望とはあまり関係がない。むしろ全能の権力にかかわる。

ラカンによれば、《母の欲望 Désir de la Mère》を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子供の)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。(ロレンツォ・キエーザ2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

いわゆる"去勢されていないnon‐castrated"全能の貪り食う母、真の母に関して、ミレール=ラカンは次のように注釈している。

満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである。(Miller, “Phallus and Perversion,”)

ジジェクはこのミレールの文を引用して(『LESS THAN NOTHING』)、次ぎのように言っている。

ここには、パラドックスがある。母がよりいっそう"全能"として現れば現れるひど、彼女は不満足(その意味は欠如である)なのである。「ラカンの母はquaerens quem devoretと一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として。」(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

だが男たちには究極的には、女に貪り喰われたい秘かな隠された願望があったらどうだろう?(参照:最愛の子供を奈落の底に落とす母の癖)。あるいはこう言ってもいい、《あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) 》(ポール・バーハウ1999)に吸い込まれたい願望と。S(Ⱥ)とはサントームの記号、原抑圧の記号である。

我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002ーー基本版:現代ラカン派の考え方)


ラカン派でサントームと言われるもの、あるいはフロイトの原抑圧と呼ばれるものーーラカンはサントーム=原抑圧としている(S23)ーーとは、先ずなによりもこの「原穴(原トラウマ )の名 le nom du premier trou 」、あるいは「母の法 loi de la mère」として理解されなければならない。

サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)


フロイトはこの徴をつける母を「誘惑者 Verführerin」と呼んだ。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)
母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版1940、私訳)

この誘惑者による徴のことをラカンは、《享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance 》(S17)と呼び、あるいは次のようにも語った。

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死への徴付けmarqué pour la mort としてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、S17、10 Juin 1970)

ここでの死とは何か?

私は言おう、死とは、ラカンが享楽と翻訳したものだ、と。(ミレール1988,Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES
死への道とは、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance (ラカン、S17)

母との(現実的には不可能な)融合があれば、そのとき主体は消滅する。それが死の意味である。

生の欲動 Eros は、融合と統一の状態への回帰を目指す。エロスは、分離した要素を結びつけることによって、これをする。それは、緊張(不安)の増加をもたらす。逆に、タナトスは、分離の状態への回帰を目指す。死の欲動は、結びついた要素のあいだのすべての結合を破壊することによって、これをする。それは、すべての緊張の低減をもたらす。もし、必要なら、ゼロ度まで。その意味は、事実上、死である。

ラカン理論は、この「生と死の問い」の言い直しを可能にさせてくれる。生の欲動は、「他の享楽l'autre jouissance」を目指す。結果として、大他者のなかに主体は消滅する。したがって、分離した存在としての主体の死をもたらす。死の欲動は「ファルス享楽la jouissance phallique」を目指す。それを通して、主体は大他者から己を分離する。したがって、この大他者から独立して、孤立した存在としての歩みを進める。このラカンの読解においては、生と死の概念は、ひどく相関的である。すなわち、フロイトの生の欲動は、主体の死、主体の消滅を意味する。フロイトの死の欲動は、主体の生の継続を意味する。(ポール・バーハウ2001、PAUL VERHAEGHE、Obsessional Neurosis. The Quest for Isolation).

…………

吉本隆明は漱石の理想の女について次のように言っている。

漱石の理想の女性像はだれかとか、作品の中ではどれだと考えてみると、僕らが客観的に考えれば、それは二人います。一人は、最初期の作品ですが、『虞美人草』のお糸さんという娘さんがいます。それが漱石の理想の女性像だと思います。それからやはり初期の作品ですが、もう少しあとの『坊ちゃん』の中に出てくるお清という婆やさんがいますが、これがやはり漱石の理想像だと思います。

この二人とも描かれた作品の中では、たとえ『虞美人草』の中では藤尾がモダンで、美人で、そして教養もありという新時代の女性ですが、この女性は悪いほうの代表というかたちで描かれています。いいほうの代表のお糸さんは、何も言わなくても男の考えている心の中をちゃんと察してくれて、かゆいところに手が届くようにしてくれる、そういう女性で、これは逆に女性のほうから見たら何てわがままなやつだと思うかもしれないように描かれています。でも漱石にとっての理想の女性像はそうなのです。

これは、現存する女流作家の人が、『虞美人草』の中でだれが理想の女性かということに対して、それは藤尾だと言っているのを読んだことがありますから、女の人から見るとそのほうが理想的なのかもしれないけれども、漱石から見るとどうも始末が悪い、どうしようもないという女性になっているわけです。(吉本隆明「作品に見る女性像の変遷」

だが「理想の女」というシニフィアンは、想像界的なもの、象徴界的なもの、現実界的なものの三つの観点から見なければならない。 お糸は想像界的な理想の女ーー内気を装い、欲望を掻き立てる女ーーであり、お清は象徴界的な理想の女ーー子供に食物を与える母であり、子供を見守る母ーーである。漱石は那美や藤尾という現実界的な理想の女ーー行ったり来たりする母であり、弄びはぐらかす(拒絶する)女ーーを初期から書いた。それは遺作『明暗』における清子に至るまで。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。………」
「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上り口の電灯がぱっと消えた。津田は暗闇の中で開けるらしい障子の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍の小さな部屋で呼鈴の返しの音がけたたましく鳴った。 

やがて遠い廊下をぱたぱた馳けて来る足音が聴こえた。彼はその足音の主を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室の在所を教えて貰った。(夏目漱石『明暗』)

逆に呼ばないときにやってくる不気味な女も漱石にはふんだんにある。ここでは初期作品『三四郎』の叙述を想い起すだけにしておこう。

例の女が入口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、「いえ、たくさんです」と断った。しかし女は出ていかない。かえってはいって来た。そうして帯を解きだした。三四郎といっしょに湯を使う気とみえる。べつに恥かしい様子も見えない。三四郎はたちまち湯槽を飛び出した。
それから西洋手拭を二筋持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。「失礼ですが、私は癇症でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい」 三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。
元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。(漱石『三四郎』

もちろんラカンの想像界・象徴界・現実界は、ボロメオの環が示すとおり、それぞれの環は重なってはいる。だが人は、現実界的なほうに傾いた「理想の女」を忘れがちである。それをすぐれて痛切にーー《手の爪には血》を滲ませてーー書こうとした代表的作家の一人は(日本近代においては)安吾だろう。

ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。

誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。

だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。

誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。

我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。

ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。

だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。

私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。

だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。(坂口安吾『理想の女』)

このように記す安吾は、マゾヒズム的悦楽をよく知っている。とはいえマゾヒズム的悦楽と地獄とどう異なるのか? さあて・・・とはいえ地獄を経験したものでなければ愛は語りえない・・・

この安吾の側面については、「私の好きな女が、みんな母に似てるぢやないか!」にいくらか記した。

今はごく標準的に「常識的な」文ーー「女と猫は呼ばない時にやって来る・呼んだ時にやって来ない」のプルースト版ーーを引用しておくのみにする。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほうⅡ』)
出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト『逃げ去る女』)

…………

すぐれた批評家であったには相違ない吉本隆明ではあるが、理想の女についてはイマジネールな領域に閉じ籠っている、とわたくしは思う。他方、吉本が言っている、《現存する女流作家の人が、『虞美人草』の中でだれが理想の女性かということに対して、それは藤尾だと言っているのを読んだことがあります》という女流作家の見解を尊重したい。

人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)
ファウスト

もし、美しいお嬢さん。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。
(……)

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。 それからあの手短に撥ね附けた処が、 溜まらなく嬉しいのだ。(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)

ーーマルガレエテはのちに「魔女」に化けるのはよく知られている。

 男は誰に恋に陥るのか? 彼を拒絶する女・つれないふりをする女・決してすべてを与えることをしない女に恋に陥る。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe、1998、PDF

これらは穏やかに言えば、女の媚態にかかわるといってもいい。《媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである》(九鬼周造『いきの構造』)。

媚態〔コケットリー〕とは何であろうか? それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なものとしてはあらわれないような態度と、おそらくいうことができるであろう。別ないい方をすれば、媚態とは保証されていない性交の約束である。(クンデラ『存在の絶えられない軽さ』)

もっとも『草枕』の那美さんと、『虞美人草』の藤尾さんは、さらに高度に戦略的な媚態の様相を呈した女であるといえるかもしれぬ・・・

自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである(ラ・ロシュフーコー)

そしてその高度な戦略を見破ったつもりでいるほどよく聡明な=凡庸な男、修行が足りない若い男には嫌悪を催させることは十分ありうる。わたくしが那美にも藤尾にも抵抗がありつづけたのはそのせいではなかったか・・・

いずれにせよ今それなりに熱心に『虞美人草』を読めば、吉本隆明が理想の女とする糸子の媚態などひどく低レベルの媚態なのである。

「ホホホホそれでも家の兄より好いでしょう」「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退けたが、急に気がついて、羽二重の手巾を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。「ホホホホ」

藤尾にあっさら見破られている。 この糸子の態度は、どの娼婦もよく知っている典型的な男性ファンタジー、「女の救出」願望を誘い出す二流の媚態、その変奏にすぎない。若きウブな男性の皆さんはくれぐれも用心しなければならない。この罠に嵌ったら安易に奈落の底に吸い込まれてしまう・・・仮に吸い込まれたい願望があるにしろ、これではいかにも狐に騙されたかのような底の浅い奈落であり、真の奈落の底、あの愛の悪魔的スキル・綱渡りの揺らめきから突如凋落して眩暈をもたらす深淵の底の感覚に徹底的に欠けている。いまどきの高級娼婦ーーたとえば祇園のバーの女、銀座の女は知らないが格の高い店の女ーーはこんな安手の媚びは使わないはずである・・・吉本隆明の修行の足りないのはこの点である・・・「ホホホホ」という気味の悪い笑いを連発する藤尾のほうがいいにきまってんじゃないか、ウブだねえ、彼は。「ホホホホ」による究極のマゾヒズム的悦楽を知らないなんて。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を楽しむことが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(コレット・ソレール2013,Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013

とはいえ吉本隆明だけではなく、あのすぐれたマゾヒズム論を書いたドゥルーズでさえ、あと一歩のところで惜しくも核心を逃がしてしまっている、《愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している》などと記しているのだから。だがそうではない、最初の誘惑者による徴付けが愛の起源である。

母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

もちろんここでドゥルーズの概念 「潜在的対象 l'objet virtuel」を持ち出して彼を救う手立てがないではない。だが今はそれに触れないでおく。

そもそもドゥルーズには、 次のようなより簡潔な文がある。

反復は本質的に象徴的なものであり、シンボルやシミュラークルは反復自体の文字 lettre である。la répétition est symbolique dans son essence, le symbole, le simulacre, est la lettre de la répétition même.(ドゥルーズ『差異と反復』)

この「文字」がーーそして母による文字の徴付けがーーわれわれの愛の起源である(参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」)。

晩年のラカンの「文字lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着(原抑圧)」あるいは「刻印」を理解しようとする彼なりの方法である。(バーハウ、2001、摘要)
無意識は「文字」によって翻訳されうる。l'inconscient peut se traduire par une lettre(ラカン、S22)

これが《ひとりの女はサントームである》の核心である。

une femme est un sinthome pour tout homme(Lacan,S23)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


以上、いささか断定的に記したが、わたくしの記すことは常に《真理と嘘とのあいだには対立はない》でいくらか詳述化したことがベースとなっているので、蛇足ながらふたたび強調するためにここで断っておく。ようするに「このおっさん、なにをバカなこと言ってんだ!」と嘲弄しながら読まなければならぬ。




2017年1月27日金曜日

古典的ラカンドグマの転回

また引き続き、文句を言ってくるひとがいるが、この文句コメントは釣りみたいなもんだろうか? あまりわたくしの罵倒癖を刺激しないでほしいもんだね。

抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)

ま、健康のためにお返事するがね。でシキシーマという人のブログを貼り付けてなんたらと言ってるわけだが、彼は松本卓也くんとお友達らしいな、松本くんはなかなかタイシタ人物だと思うよ、若くて聡明だよ。いくらか成り上がり者系の振舞いが露骨でないわけではないがね。でもあれはあれでいいんじゃないか、若いうちは野心家であってなんの悪いこともない。他方、シキシーマくんというのは完璧「寝言」派だよ、あれ。コメントする気にもならんね。父の名享楽もまったくわかっておらん。どこかでとまってしまっているんだろうな、あれは。ドゥルーズなんたらと言っているようだが、わたくしはドゥルーズはよくしらん、哲学もしらん。だが、すこしまえメモった「超越的法/超越論的法」を垣間見れば、いかにとんでもレヴェルの話をしているかが瞭然とするだろう(いやあ、やや長すぎるメモなので、誰も最後まで読まないだろうということは知っているがね)。

で、その寝言くんはほうっといて、松本くんのツイートを引用してみよう。

@schizoophrenie 2011/12/10 神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(参照

@schizoophrenie 2011/08/20  ラカン派では神経症と精神病の境界は厳密である.父の名があれば神経症,排除されていれば精神病である.しかし,明らかな精神病の標識がないにもかかわらず,神経症のようなシニフィアンの媒介性がみられない症例がある.そのような違和感が普通の精神病の判別のひとまずの鍵となる.(松本卓也

すでに5年以上前のツイートなので、いまさら掲げるのもなんだが、彼は若き最も優秀なラカン派研究者の一人であるのは間違いない。2015年の彼のデヴュー作『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』ではまさかこんなことはーー留保なしにはーー言っていないだろうが(私は未読)、ラカン派研究者の言明というのはおおむね真に受けたらダメだということを示すために掲げた(もっとも彼のツイートにはいくらかの留保があるのでリンク先を参照のこと)。

これは旧来の古典ラカン解釈の「重鎮」たちも同様であり、場合によってはいっそう「誤謬」だらけーー現代的解釈から見ればーーである。

ましてやラカン派研究者ではない精神科医や批評家という種族に属する人たちのラカン的解説はあまりにも古臭い、というか軒並み「寝言」を言っているようにしか思えない。それは、とくに21世紀に入ってから古典的ラカン解釈の反転があるにもかかわらずそれをまったくフォローしていないためだろう。

以下、ラカン主流派の首領ジャック=アラン・ミレールの文章を掲げよう。もちろんこれもそのまま受け取る必要はない。


【神経症なのか精神病なのかは区別がしがたい】
今、私は思い起こしてみる。あの時私はなぜ、今話しているような「ふつうの精神病」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか、と。私は言おう、我々の臨床における硬直した二項特性ーー神経症あるいは精神病ーーから逃れようとした、と。

あなたがたは知っている、ロマン・ヤコブソンの理論では、どのシニフィアンも基本的に次のように定義されることを。それは、今では古臭い理論だ。他のシニフィアンに対する、あるいはシニフィアンの欠如に対するそのポジションによって定義されるなどということは。ヤコブソンの考え方は、シニフィアンの二項対立定義だった。私は認める、我々は長年のあいだ、本質的に二項対立臨床をして来たことを。それは神経症と精神病だった。二者択一、完全な二者択一だった。

そう、あなたがたにはまた、倒錯がある。けれど、それは同じ重みではなかった。というのは本質的に、真の倒錯者はほんとうは自ら分析しないから。したがって、あなたが臨床で経験するのは、倒錯的痕跡をもった主体だけだ。倒錯は疑問に付される用語だ。それは、ゲイ・ムーブメントによって混乱させられ、見捨てられたカテゴリーになる傾向がある。

このように、我々の臨床は本質的に二項特性がある。この結果、我々は長いあいだ観察してきた。臨床家・分析家・精神療法士たちが、患者は神経症なのか精神病なのかと首を傾げてきたことを。あなたが、これらの分析家を見るとき、毎年同じように、患者 X についての話に戻ってゆく。そしてあなたは訊ねる、「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」。答えは「まだ決まらないんだ」。このように、なん年もなん年も続く。はっきりしているのは、これは満足のいくやり方ではなかったことだ。 (Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2009、PDF

 【神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ること】
「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ。 (…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。

精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいはそれぞれに仕方で、「みな妄想的である」(Tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant )に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited.,PDF
……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分析の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

これらは結局、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りなき分析』の記述に回帰したという風に見える。

正常人といってもいずれもみな一定の範囲以内で正常であるにすぎず、彼の自我は、どこかある一部分においては、多少の程度の差はあっても精神病者の自我に接近している…。

Jeder Normale ist eben nur durchschnittlich normal, sein Ich nähert sich dem des Psychotikers in dem oder jenem Stück, …(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』1937年)


【精神病の主因は父の名の排除ではなく、父の名の過剰な現前である】 
ラカンの「父のヴァージョン=倒錯 père-version」についてのアイロニーは、事実上、古典的なままの精神病理論とは正反対の、ひとつの精神病理論 la psychose une théorie inverse de la théorie restée classiqueを提供してる。

すなわち精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。父は、法の大他者と自らを混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。逆に父は、幻想へと結びついた欲望をもつ必要がある。そして幻想ーーその幻想の対象は、構造的に喪われた享楽である幻想ーーによって統御された欲望をもつ必要があるのだ。…(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013, PDF

※上の文の前段については、「超越的法/超越論的法」にてやや長く訳出してある。

《六番目に、最終的に「父の名 le Nom-du-Père」は、一つのサントーム un sinthome として定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの「一つの享楽様式 un mode de jouir 」として》とある前後を読めば、上の文の意味合いがいくらか判然とするだろう。

サントームの第一の意味は「原抑圧(欲動の原固着)」(ミレール、2011)、「享楽の原子」(ジジェク、2012)とされる。あるいは死の欲動にかかわるとされる。

ジジェク2012年には次のような指摘もある。

le‐Nom‐du‐Père 父の名→le‐Nom‐du‐Pire 悪化の名→ 死の欲動(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

…………

以下もラカン解釈の「通念」となってきたものの「脱構築的」見解である。

【人間の始まりは想像界ではなく象徴界である】

人間にとって、最初の大他者は母であり、二番目の大他者は父である。

例外はある。母が養育者・授乳者ではなかったり、父は不在で母子のみ、あるいは祖父母や親族が代わりである場合がある。父が主夫で最初の大他者であることさえある。だがこれらの例外は考慮から外す。

基本的には母なる大他者が、最初の大他者である。 ではなぜ母は小文字の他者ではなく、大文字の他者なのか。

母は母語を話す。母語という言語は大他者である。 
母はある文化のなかの存在である。文化は大他者である。 
母の鏡に映るものは、その文化の慣習である。

これだけで母子関係が、単純には想像界的二者関係でないのが分かる。

例えばジャック=アラン・ミレールは2008年に次のように指摘している。

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか。精神生活の始まりはなにか?

古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。

事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)

私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

こう指摘されてみれば実に当たり前なのだが、1980年代から1990年代、21世紀に入っても、ラカン理論が言及されるときは、馬鹿のひとつ覚えのように、最初は「想像界」とされてしまうことが多い。特に文学畑の批評家のたぐいはいまだ「重度障害者」が多い。おそらく日本における最初期のラカン紹介、たとえば浅田彰の『構造と力』などの記述に囚われたままなのであろう。

もっともラカン派でさえも、この2008年になってようやくラカン主流派の首領ミレールが曖昧な口振りで指摘していることから窺われるように、いまだ「病人」がいないわけではない。


【無意識は言語のように構造化されていない】

……いやあ、また「まがお」スタイルでを記述してしまった。どうもわたくしにはこのスタイルで記述すると反動が生まれる。

いずれにせよ「想像界」という最も基本的な概念のひとつでも上のような具合なので、他のやや難解な概念は、今後きっと反転があるよ。だいたい今まで流通している通念のラカンを「まがお」で信じちゃいけない・・・

たとえば《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》というのは、かねてより異論がある。

ミレールは2014年になってようやくーーわたくしの知る限りでだがーー鮮明に指摘している、《「言語のように構造化されている無意識」とさえも異なる ni même l'inconscient structuré comme un langage》無意識をの方が核心だと(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)。

たとえばAndré Greenーーラカンのセミネールへの古くからの参加者で、ある時期からラカン批判をするようになったーーは次のように言っている(WIKI)。

ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言っている…しかしあなたがたがフロイトを読めば、明らかにこの主張は全く機能しないのが分かる。フロイトははっきりと前意識と無意識を対立させている(フロイトの言う無意識とは物表象によって構成されているのであって、それ以外の何ものによっても構成されていない)。言語に関わるものは、前意識にのみ属しうる。(Quoted in Mary Jacobus, The Poetics of Psychoanalysis 、2005)

言語のように構造化されているのは「前意識」のみである、と言っていることになる。

グリーンがいつからこのように言い始めたのかはーーすこし調べてみたかぎりではーー判然としない。ただし、グリーンの発言の注釈者の論文のなかで、次のような叙述を見出しはした。《Si le préconscient peut être structuré comme un langage, ce ne peut donc être le cas de l'inconscient.》。その論者の論調からすると1970年代にはすでにこのように言っていたようにみえる。
もっともグリーンの論にでてくる「物表象」についてはいまでも議論がないではない。

ラカンは同じ物表象でも、Sachvorstellung /Dingvorstellungを区別した(セミネール7)。

c'est qu'en tout cas FREUD parle de Sachvorstellung et non pas de Dingvorstellung. (09 Décembre 1959)

フロイトはDingvorstellung などと言っていないじゃないか、というわけだ。

たしかに無意識論文にはこうある。

意識的表象は、物(事物)表象 Sachvorstellungenとそれに属する語表象 Wortvorstellungen とをふくみ、無意識的表象はたんに物(事物)表象 Sachvorstellungen だけなのである。(フロイト『無意識』1915年)

だがフロイトは『悲哀とメランコリー』(1917年)で、《die unbewußte (Ding) Vorstellung des Objekts》--つまりフロイトは Ding を使って無意識の表象と言っているじゃないか、あんな区分けなどラカンの「寝言」だよ、という議論である…


…………

ほかにもラカン派女流分析家の第一人者コレット・ソレールによる次のような言明もある。

【欲望は大他者の欲望ではない】
「欲望は大他者の欲望 Le désir est désir de l'Autre」が意味したのは、欲求との相違において、欲望は、言語作用の効果 un effet de l'opération du langage だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける évide le réel, y fait trou。この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、「欲望は大他者の欲望」ではありません。コレット・ソレール2013,Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013
※参照:基本版:現代ラカン派の考え方


あるいは存在欠如概念はどうか。

【存在欠如→享楽欠如】
私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012、PDF)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »
主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen、LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF
リアル real な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽とは、享楽欠如を享楽することのみを意味する。というには、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ、2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

くりかえせばこれらの注釈ももちろん「真に受ける」必要はないからな。

やあこういったことを記すと、後味が悪くなるんだけど、ほんとにニーチェのいうように健康のためにいいんだろうかね?

いずれにせよ、わたくしはは明日からテト祝いで忙しいから、しばらくはもなんたら言ってきても無視するぜ。



2016年12月21日水曜日

サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(フロイト『抑圧』1915)

結局、原抑圧とは固着 Fixierung、なかんずく原固着Urfixierung のことであるだろう。

四番目の用語(サントーム)にはどんな根源的還元もない、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
Lacan affirme dans Le sinthome qu'il n'y a aucune « réduction radicale » du symptôme à attendre d'une cure, à cause de l'Urverdrängung, refoulement originaire jamais annulable (Lacan S23, 9 décembre 75).(Geneviève Morel.2000)

つまりはサントームが原抑圧であったら、サントームは原固着ということになる。

「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、PDF)

で、サントームsinthome と「一の徴 trait unaire」とどう違うんだろ?

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、セミネール17)

以下のフロイト文はとくには関係がないかもしれないが、たまたま欲動の戯れ Spiel der primären Triebregungenという語に遭遇したのでここにメモしておく。

おそらく判断ということを研究してみて始めて、第一次的な欲動の戯れ Spiel der primären Triebregungen から知的機能が生まれてくる過程を洞察する目が開かれるであろう。判断は、もともと快原則にしたがって生じた自我の取り入れ Einbeziehung、ないしは自我からの排除 Ausstoßung の合目的的に発展した結果生じたものである。その両極性は、われわれが想定している二つの欲動群の対立性に呼応しているように思われる。結合 Vereinigung の代理 Ersatzとしての肯定 Bejahung はエロスに属し、排除 Ausstoßung の継承Nachfolgeである否定Verneinungは破壊欲動Destruktionstriebに属している。(フロイト『否定』1925)

で、話を戻せば、サントームsinthome と「一の徴 trait unaire」とどう違うんだろ?

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

ミレール派肝入りの論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPS Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF から引用する。

ラカンがサントームを「Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーーシニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返しréel essentiel l'itération」を解き放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération においてそれ自体を反復するのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの彼方には、身体と享楽がある。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène Bonnaud)
言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

サントームは「Y'a d'l'Un」の側にあり、「一の徴」ではない、と彼らは言っていることになる。

いやあ実にラカン派ってのは、みなさんそれぞれ勝手なことをオッシャル種族だよ・・・


以下の文は訳す気にならないのだが、-- « osbjet », la lettre petit a.などとケッタイな表現が出て来るので、つまり骨対象、骨象a?(ネットで検索するかぎり誰もまともに触れていない)ーーやっぱりラカンが悪いんだろうな、勝手なことばかり言ってるから。

La seule introduction de ces noeuds bo, de l’idée qu’ils supportent un os en somme, un os qui suggère, si je puis dire, suffisamment quelque chose que j’appellerai dans cette occasion : « osbjet », qui est bien ce qui caractérise

la lettre dont je l’accompagne cet « osbjet », la lettre petit a.

Et si je le réduis - cet « osbjet » - à ce petit a,

c’est précisément pour marquer que la lettre, en l’occasion,
ne fait que témoigner de l’intrusion d’une écriture comme autre, comme autre avec, précisément, un petit a.

L’écriture en question vient d’ailleurs que du signifiant. C’est quand même pas d’hier que je me suis intéressé à cette affaire de l’écriture, que j’ai en somme promue
la première fois que j’ai parlé du trait unaire :einziger Zug dans FREUD.(Lacan,S23, 11 Mai 1976)

それはともかく、「文字 lettre」は「一の徴trait unaire」だって言ってるように読める、目の錯覚じゃなければ。

文字 lettre とは…身体に出会ったシニフィアンの最初の徴である。この意味で、文字は、対象と「一の徴 trait unaire」の徴 marque と関係がある。(Chapitre VIII, commentaire Anne-Marie Le Mercierーー L'INCONSCIENT ET LE CORPS Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF )

いやあ、なんどかサントームと「一の徴」を同じものとして扱いたいんだが・・・

《「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。》(Lacan,S.17)

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
反復は、最初の遭遇の痕跡を刻印する「一の徴 trait unaire」に起源がある。その痕跡は三度反復されたとき、喪失の反復を引き起こす。一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。したがってエントロピーがある。三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ねrencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。そしてその反復は、これらの徴のセリー(系列)としてのみ享楽を生き延びさせる。結果は、《ré-pétition》である。それは、ラカンが『エトゥルディ L'étourdit,』(AE493)で記したように二つの部分に書かれうる。「請願 pétition」と「欲求 appétit」の反復である。というのはラテン語のpeto は両方の語の共鳴があるから。コレット・ソレール、2003 Colette Soler Ce que lacan disait des femme)
乳幼児はまず最初になによりも母へ訴えなければならない。その訴えとは、欲動興奮と無力感の混淆物を基礎にしてである。母の応答は(鏡像段階を想起せよ)、(欲動興奮を)統御し、徴をつけ、満足を与える形で作用する。子どもがふたたび、同じ享楽(の統御)を見出したとき、母へとその「要求」を呼びかけねばならない。結果として、子どもは母の応答と同一化しなければならなくなる。そして母が既に生み出した徴の点に同一化することになる。 (ポール・ヴェルハーゲ、2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complexーー「一の徴」日記⑤

Ya d’l’Un とは女 la femme のことである・・・(参照:「一の徴」日記⑥:誰もがトラウマ化されている」)。

という前提にて、Ya d’l’Un → 「一の徴」→「母の徴」(母による徴)としたい・・・

とはいえこれは、いささかフロイトよりの解釈であることを断っておかねばならない。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版、1940、私訳)

やっぱりフロイトがえらいんじゃないか。

いや安吾だっていいさ、《私の好きな女が、みんな母に似てるぢやないか!》(坂口安吾

二人とも地に足がついているよ。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)

それにくらべてラカン派連中ってのは厄介至極だね。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)



2016年12月7日水曜日

「一の徴」日記⑤

以下、難解版。つまりわたくしはあまり分かっていない。だが「一の徴」という舟に乗ってしまったので、一応どうわかっていないのかを記しておかねばならない。

……構造的欠如を基盤とする象徴秩序において、要素を結びつけたり統合するものは何か? この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。このときまでに、ラカンは常に強調していた、主体性における根本的な疎外と分裂を。そこでは統一の感情は脇に置かれていた。後者(統一)は父の名の効果だと想定された。

ラカンがこの理論から離れたとき、彼は、人のアイデンティティにおける主体の統一のために別の説明を生み出さねばならない。ラカンは休むことなしに続けた、次のような用語を再公式化したり言い換えたりと。「父の諸名」という複数形から、おそらく基礎的かつひどく格言的な「一のようなものがある il y a de l'Un」まで。しかし、ラカンの絶え間ない問いは事態を明瞭化することに貢献しない。そして最終的な答が欠けている。皮肉なことに、これはラカンの新しい理論(の本質と極めて首尾一貫したものだ。(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009ーー「一の徴」日記②

ーーとされ、ラカン自身もはっきりした答えを出していない部分の「さわり」にかかわるのだろうが、ざっとみるかぎりでは実に諸説紛々である。

 …………

ラカンは「一の徴 trait unaire」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasmーー「一の徴」日記②)

ジャック=アラン・ミレールの言っているのと同様に、S1とは抑圧された「一の徴」である、という指摘がロレンツォ・キエーザーー彼はジジェクの紹介によって名が知られたーーにある。

構造としての無‐意識的な un-conscious 「一の徴 trait unaire」は、主人のシニフィアンS1ーー構造的なもの・メタ構造の側にある無意識的なもの unconsciousーーである 。また S1 とは、抑圧された「一の徴」であるとも正当的に示唆しうる。ラカン自身、「一の徴」とS1とのあいだの類似性を強調している。初めて「主人のシニフィアンS1」概念を導入したセミネールXⅠ にて、彼ははっきりと示している、原狩猟人によって棒切れの上に刻まれた切り込み(セミネールⅨ における「一の徴」をめぐる叙述と同様に)とS1との関係性を。(ロレンツォ・キエーザ2006、Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa,PDF

他方、ジジェクには次のような記述がある。

主人のシニフィアンは無意識のサントームであり、享楽の暗号である。主体は、知らないままに、その主人のシニフィアンに支配されている。(ジジェク、パララックス・ヴュ―、2006、私訳)

・S1は抑圧された「一の徴 trait unaire」(ロレンツォ)
・S1は無意識のサントーム(ジジェク)

ーーとすれば「一の徴」と「サントーム」は等しいのだろうか。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

このミレールの文から「一の徴」と「サントーム」をほとんど等価とする解釈者もいる。

the sinthome as a signifier in the real is clearly linked with symbolic identification and the theory of the “unary trait”(Jonathan D. Redmond, 2012, .Elementary phenomena, body disturbances and symptom formation in ordinary psychosis、PDF)

ある時期のラカン自身、次のように言っている。

「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17、11 Février 1970)
享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、セミネール17、10 Juin 1970)

そして上の文を次の文とともに読んでみよう。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

一見、「サントーム」と「一の徴」は、同じものと扱ってよいようにも思える。だがその相違を指摘する注釈者もいる。ここでラカンの最も厄介な概念「Y'a d'l'Un(一のようなものがある)」に触れなければならない。

ミレール派肝入りの論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPS  Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF から引用する。

ラカンがサントームを「Y'a d'l'Un」に還元 réduit した時、「Y'a d'l'Un」は、臍・中核としてーーシニフィアンの分節化の残滓のようなものとして--「現実界の本源的繰り返しréel essentiel l'itération」を解き放つ。ラカンは言っている、「二」はないと。この繰り返しitération においてそれ自体を反復するのは、ひたすら「一」である。しかしこの「一 」は身体ではない。「一」と身体がある Il y a le Un et le corps。これが、ラカンが「シニフィアンの大他者 l'Autre du signifiant」を語った理由である。シニフィアンの彼方には、身体と享楽がある。(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse  Hélène Bonnaud)
言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

 サントームは「Y'a d'l'Un」の側にあり、「一の徴」ではない、と彼らは言っていることになる。

ほかにも次のような叙述がある。

文字 lettre とは…身体に出会ったシニフィアンの最初の徴である。この意味で、文字は、対象と「一の徴 trait unaire」の徴 marque と関係がある。(Chapitre VIII, commentaire Anne-Marie Le Mercier)

「文字」とは何か。ラカンのセミネール22には、「すべての一は、文字で書きうる」、そして「そこから症状が発生する」とある。

C'est ce qui de l'inconscient peut se traduire par une lettre, en tant que seulement dans la lettre, l'identité de soi à soi est isolée de toute qualité.

De l'inconscient, tout Un… en tant qu'il sustente le signifiant en quoi l'inconscient consiste …tout Un est susceptible de s'écrire d'une lettre. Sans doute, y faudrait-il convention.

Mais l'étrange, c'est que c'est cela que le symptôme opère sauvagement : ce qui ne cesse pas de s'écrire dans le symptôme relève de là. (S22, 21 Janvier 1975)


そして次のような解釈がなされる。

晩年のラカンの「文字 Lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」を理解する彼なりの方法である。(ヴェルハーゲ、BEYOND GENDER. From subject to drive Paul Verhaeghe 2001)

だがミレール派の直近の論文集 L'INCONSCIENT ET LE CORPSの著者たちの叙述に依拠するならば、

・Y'a d'l'Un ≒ sinthome

・文字 lettre≒「一の徴 trait unaire」

であり、サントーム sinthome は、「文字 lettre」でもなく「一の徴 trait unaire」でもない、と言っていることになる。

Y'a d'l'Un がサントームであるだろうことは、ジジェクも疑問符つきであるが語っている。

我々はいかに結びつけるべきか、ラカンがセミネールXX (アンコール)で展開した Yad'lun(一のようなものがある)と一連の「単一の諸シニフィアン unary signifiers」を。後者は、ファルス的主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier を通した単一化 unificationに先立つものである。すなわち無限の自己分割的 S1 (S1 (S1 (S1…)))の系列。…

ラカンの Yad'lun を、(「一のようなもの」の上に)欲動を構成する最小のリビドー的固着の形態として読んだらどうだろうか、 前-出来事的な「一以下の多 One‐less multiplicity」からの欲動出現の瞬間として読んだら? そうすれば、Yad'lun の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が強迫的に反復する痙攣のようなもの)である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

だがここでの問いは、sinthome と trait unaire とが異なるのであればどう異なるのか、である。

Y'a d'l'Unと「一の徴」が同じものではない、というのはラカン自身の言明がある。

「一の徴 trait unaire」は「Y a d'l'Un」とは関係がない。…「一の徴」は反復自体の徴である。(S.19、10 Mai 1972)

ほかにも次のような叙述がある。

« Yad'lun »とは《非二 pas deux》であり、それは即座に《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 》と解釈されうる。(S.19、17 Mai 1972)

ここでもう一度、Pascal Pernot の叙述を再掲しよう。

言語は、生きた身体をかみ裂く「一の徴」に水準に囚われている。ララングの Y'a d'l'Un は意味を解きほぐす。そして身体と出会いつつ、身体を享楽の効果に委ねる。(Les impensables du corps. L'avoir, le panser, l'être Pascal Pernot)

そしてラカンの叙述を並べてみよう。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

そして冒頭に掲げたミレールの《S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである》をもふたたび想起しておこう。

これらから判断するに、原初から時系列に並べれば、「Y'a d'l'Un」 → 「一の徴 trait unaire」 →「主人のシニフィアンS1」という変遷があるようにみえる。そして順番に最初のもののほうがより原享楽(身体の純粋な享楽)に近いと捉えられないでもない。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララング lalangue によって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen「21世紀における話す身体とその欲動 LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDFーー「一の徴」日記②)

ここで三人のラカン派臨床家の文章を並べてみる。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
反復は、最初の遭遇の痕跡を刻印する「一の徴 trait unaire」に起源がある。その痕跡は三度反復されたとき、喪失の反復を引き起こす。一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。したがってエントロピーがある。三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ねrencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。そしてその反復は、これらの徴のセリー(系列)としてのみ享楽を生き延びさせる。結果は、《ré-pétition》である。それは、ラカンが『エトゥルディ L'étourdit,』(AE493)で記したように二つの部分に書かれうる。「請願 pétition」と「欲求 appétit」の反復である。というのはラテン語のpeto は両方の語の共鳴があるから。コレット・ソレール、2003 Colette Soler Ce que lacan disait des femme)
乳幼児はまず最初になによりも母へ訴えなければならない。その訴えとは、欲動興奮と無力感の混淆物を基礎にしてである。母の応答は(鏡像段階を想起せよ)、(欲動興奮を)統御し、徴をつけ、満足を与える形で作用する。子どもがふたたび、同じ享楽(の統御)を見出したとき、母へとその「要求」を呼びかけねばならない。結果として、子どもは母の応答と同一化しなければならなくなる。そして母が既に生み出した徴の点に同一化することになる。 (ポール・ヴェルハーゲ、2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

ミレールとヴェルハーゲの叙述を参照しつつ、コレット・ソレールの叙述の核心部分を抜き出せば、

①一度目は、遭遇の記念物として徴を「固着」する。
②二度目は、徴を再発見することにより、最初の享楽の喪失を仕上げる。
③三度目は、二番目の喪失である。それは「出会い損ね rencontre manquée」として、ad infinitum(無限に)反復される。

となる。ソレールはこれらのすべてを「一の徴」の三つの段階としているのだが、

①「一のようなものがある Y'a d'l'Un」
②「一の徴 trait unaire」
③「主人のシニフィアン S1」

と「変奏」できないだろうか。

ーーもっともいくらか厳密さを期さずに、ということではある(③をファルス的主人のシニフィアンと一概にはできないのは、「第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢」を参照)。

ジジェクはコレット・ソレール変奏の形で読もうとしているように思える。再掲すれば、

我々はいかに結びつけるべきか、ラカンがセミネールXX (アンコール)で展開した Yad'lun(一のようなものがある)と一連の「単一の諸シニフィアン unary signifiers」を。後者は、ファルス的主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier を通した単一化 unificationに先立つものである。すなわち無限の自己分割的 S1 (S1 (S1 (S1…)))の系列。…

ラカンの Yad'lun を、(「一のようなもの」の上に)欲動を構成する最小のリビドー的固着の形態として読んだらどうだろうか、 前-出来事的な「一以下の多 One‐less multiplicity」からの欲動出現の瞬間として読んだら? そうすれば、Yad'lun の「一」はサントーム、一種の「享楽の原子」である。言語と享楽の最小の統合体 synthesis 、享楽を浸透させた諸記号 signs の単位(我々が強迫的に反復する痙攣のようなもの)である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ここでのジジェクの叙述は、アンコール最後にあるラカンの言葉遊び S1=essaim(ミツバチの密群)次の図の解釈をめぐっている。



ジジェクはこれを次のように読もうとしているようにみえる。


そしていままで記した叙述に則れば、sinthome (lettre (S1 (S1 (S1 (S1…))とも書けることになる。

いずれにせよ Yad'lun とは、現代ラカン派でさえもおそらく誰もがひどく曖昧なままの概念であり、ここでのわたくしの記述は、こう読めもしないか、という想定にすぎない。

かつまた一般には、サントームはすくなくとも三種類ほどの意味があるとされる。

たとえばYoungjin Parkはラカンの叙述を引用しつつ、次のように簡潔にまとめている。

i) the clinical necessity to knot the Imaginary and the Symbolic, and the Symbolic and the Real through splicing or suturing,

ii) Joyce's proper name or ego as a compensation for the lack of the paternal function and the imaginary relation,

iii) sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung).(Post-Fantasmatic Sinthome Youngjin, Park、PDF

すなわち、ここでのわたくしの記述は、三番目の《それ以上縮小できない症状、あるいは原抑圧としてのサントーム》のみをめぐっている。

とはいえ、サントームとはほんとうに原抑圧にかかわるのかはわたくしには瞭然としない。

サントーム sinthome は 抑圧されたものの回帰ではない。真理・意味に憩うものではない。サントームとは身体に起こった「ひとつの享楽 une jouissance」である。そしてそれは「真理の大他者l'Autre de la vérité」を排除する。…(Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse Hélène BonnaudーーL'INCONSCIENT ET LE CORPS Section Clinique de Rennes 2012-2013 PDF
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる.(ラカン、S.17)

上に引用したYoungjin Parkの一番目のサントームの意味は、(父の名の変種の機能として)比較的よく知られているだろう。

私が最初にサントーム le sinthome [ Σ ] として定義したものは、象徴界・想像界・現実界を一つに束ねるものである。…サントームの水準において…関係性がある…サントームがあるところにのみ関係性がある。

c'est de faire ce que, pour la première fois j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel…Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome.” (S.23、17 Février 1976)

そして自己創造によるシニフィアン、名付けがサントームであるというのもラカンがジョイスの事例を強調したことからよくわかる。これが二番目のサントームである。次の二文はサントームという用語は出てこないが、明らかにサントームをめぐる重要な示唆である。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、S22,.11 Mars 1975)
なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?(ラカン、S24、17 Mai 1977)

そのときここで話題にした原症状(治療不可能なものとしての享楽の原子)としての三番目のサントームの意味が重要になってくるのだろうか。症状との同一化とは、またサントームとの同一化でもある。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

だがこの意味でのサントームが、Yad'lun であって、「一の徴 trait unaire」でも「文字 lettre」でもないという見解があるのは、いまこう記していてはじめて知った。

クリストフはキリストを支えた、
キリストは全世界を支えた。
なら言ってくれ、クリストフは、
その時、どこに足を置いたのか。

Christophorus Christum, sed Chiristus sustulit orbem:
Constiterit pedibus dic ubi Christophorus?

ーーフロイト『幻想の未来』(岩波新訳『ある錯覚の未来』より。原典はコンラート・リヒター『ドイツの聖クリストフ』1896

Yad'lun はtrait unaire を支えた
trait unaire は全精神生活を支えた。
なら言ってくれ、Yad'lun は
その時、どこに足を置いたのか・・・

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17)

Yad'lun はやっぱり至高の神に足を置いたんじゃないか

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、16 Mars 1976)

女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)



母が欲することは、神も欲する Ce que la maman veut, Dieu Ie veut

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF

ラカンの若い友人であったフィリップ・ソレルスの小説『女たち』の主人公の結論ーー 《われわれの時代の最も偉大な思想家であるファルス》から得た結論は、次の通り。 

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)

ソレルスのパートナー、ジュリア・クリステヴァは、ソレルスが1983年に上の小説を上梓する6年前、ラカンのセミネール24 (17 Mai 1977)に美貌の情熱的登場人物として出演している。

《すごい情熱だった、デボラは…壮麗なくらい…夢のイコン…火、知性…ぼくが出会ったなかで最も知的な女性…ソフィア…モザイク…穹窿のくぼみの形をした顔のいたるところで、爛々と輝く、生きいきした黒い眼差し…ぼくは彼女からほとんど離れなかった》

Julia KRISTEVA

C'est autre chose que de la linguistique.
Ça passe par la linguistique, mais c'est pas ça.

ーーセンセ! 言語、言語、言語学ってばっかりだけど、ちがうわ、別のものがあるわ!

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

もちろん小説のなかの話である・・・《真理は,虚構の構造において顕現する La vérité s’avère dans une structure de fiction》(Lacan, Ecrits, p.742)にしても・・・

いやいや・・・次の写真を貼り付けておこう。


Philippe Sollers et Jacques-Alain Miller、2011




2016年11月12日土曜日

欲望の主体はない。あるのは倒錯の主体である。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S.10)

…………

◆ジャック=アラン・ミレール、2013
倒錯は欲望に起こる偶発事ではない。すべての欲望は倒錯的である。いわゆる象徴秩序がそうしたいようには、享楽はけっしてその場のなかにないという限りで。

La perversion n'est pas un accident qui surviendrait au désir. Tout désir est pervers dans la mesure où la jouissance n'est jamais à la place que voudrait le soi-disant ordre symbolique.(L'Autre sans Autre par JACQUES-ALAIN MILLER

◆コレット・ソレール、2013

ーー欲望は剰余享楽(対象a)の換喩である。

幻想はモンタージュであり、それを通して、欲望は対象a を分節化 します。その分節化は、父の機能のモデルを必らずしも通さずになされます。そして欲望に適用される換喩は、欠如の換喩であると同程度に剰余享楽の換喩です。

le fantasme est un montage par quoi le désir se raccorde à l'objet a, sans passer nécessairement par le modèle de la fonction paternelle, et la métonymie qui vaut pour le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque.
「欲望は大他者の欲望」が意味したのは、欲求との 相違において、欲望は、言語作用の効果だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける。この意味で、言語の場しての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、 「欲望は大他者の欲望」ではありません

Le désir est désir de l'Autre signifiait que le désir dans sa différence d'avec le besoin, est un effet de l'opération du langage, lequel évide le réel, y fait trou. En ce sens, l'Autre comme lieu du langage est la condition du désir, et on peut dire comme le fait Lacan, je désire en tant qu'Autre, parce que le langage est incorporé. Mais si on parle de ce qui oriente le désir de chaque parlant, seule chose qui intéresse le psychanalyste, alors le désir n'est pas désir de l'Autre, comme(Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)


◆ラカン「哲学科の学生への返答」(オートルエクリ)

ーー欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme

《フェティッシュと幻想は同じ地位にある。》(Vincent Zumstein, 2006)

ーー人はみなフェティシュの主体である。

ーー疎外された労働を乗りこえようとする革命的実践の主体と、疎外された欲望の主体のあいだにはどんな関係があるのでしょうか。(……)
疎外された欲望の主体というのは、おそらく私が、「~の欲望は<他者>の欲望である」と表現することをおっしゃりたいのでしょう。それは正しいのですが、ただ、欲望の主体というものはありません。あるのはファンタスムの主体、つまりある対象によって引きおこされた主体の分裂、つまり対象によって覆われた主体の分裂、より正確にいえば、この対象とは、その場所が原因というカテゴリーによって主体の中で占められるような対象なのですが、こうした対象によって覆われた主体の分裂です。

この対象は、哲学的考察には欠如しており、そのために哲学的考察は自らを位置づけることができなくなっている、つまり、自らが無意味であることを隠しているのです。

この対象は、われわれが精神分析において、選手たちのあいだから抜けてゴールに入って得点になるボールのように、自らの位置から飛び出させることができる対象です。

この対象は、精神分析においてわれわれが、それを理論的に把握するのに最大限の不手際を見せながら、その後を追うものです。

私は、本年度の講義の題を『精神分析の対象』とし、この対象を対象a と呼びました。この対象がそれにふさわしい地位を認められてはじめて、皆さんが主体による自らの疎外された労働の乗りこえという革命的実践に掲げる、いわゆる目標に意味を与えることができるでしょう。何においてひとは自らの労働の疎外をのりこえるのでしょうか。それはあたかも皆さんがディスクールの疎外を乗りこえようとするようなものです。

この疎外を乗りこえるために私が見るのは、 疎外の価値を支持する対象だけであって、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものです。精神分析はその生物学的意味というものを暴くからです。(向井雅明訳)
— Quel est le rapport entre le sujet d'une praxis révolutionnaire visant le dépassement de son travail aliéné et le sujet du désir aliéné ?……

Sujet du désir aliéné, vous voulez dire sans doute ce que j'énonce comme : le désir de — est le désir de l'Autre, ce qui est juste, à ceci près qu'il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme, c'est-à-dire une division du sujet causée par un objet, c'est-à-dire bouchée par lui, ou plus exactement l'objet dont la catégorie de la cause tient la place dans le sujet.

Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est-à-dire pour savoir qu'elle n'est rien.

Cet objet est celui que nous arrivons dans la psychanalyse à ce qu'il saute de sa place, comme le ballon qui échappe de la mêlée pour s'offrir à la marque d'un but.

Cet objet est celui après quoi l'on court dans la psychanalyse, tout en mettant toute la maladresse possible à sa saisie théorique.

C'est seulement quand cet objet, celui que j'appelle l'objet petit a, et que j'ai mis au titre de mon cours de cette année comme l'objet de la psychanalyse, aura son statut reconnu, qu'on pourra donner un sens à la prétendue visée que vous attribuez à la praxis révolutionnaire d'un dépassement par le sujet de son travail aliéné. En quoi peut-on bien dépasser l'aliénation de son travail? C'est comme si vous vouliez dépasser l'aliénation du discours.

Je ne vois à dépasser cette aliénation que l'objet qui en supporte la valeur, ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche, étant entendu que la psycha-nalyse dévoile sa signification biologique.(REPONSES A DES ETUDIANTS EN PHILOSOPHIE 1966)

《ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

真理は見せかけと反対のものではない。La vérité n'est pas le contraire du semblant.(Lacan,S.18)

《ラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」と考えた。》(ヴェルハーゲ、2001)

ーー敢えて変奏すれば、人間の現実は「フェティッシュの世界」である。マルクスが人間の生産、あるいは交換活動はフェティッシュだと言ったように(交換はコミュニケーションでもあるのだから)。


 ◆ラカン、セミネール22
人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。Chercher l'origine de la notion de symptôme… qui n'est pas du tout à chercher dans HIPPOCRATE …qui est a chercher dans MARX (Lacan,S.22,18 Février 1975)

ーー症状のない主体はない。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., 1975, pp.106-107.摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

《しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。》(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


◆ラカン、セミネール23

ーー人はみな倒錯の主体である。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(Lacan, Le Seminaire XXIII, Le Sinthome,11, 1977)


2016年10月30日日曜日

潜在的対象・純粋過去・純粋差異・反復

以下、メモ。たいした意図はない。ドゥルーズとラカン派の文の列挙。共鳴するところもあれば、当然いくらかの齟齬もあるだろう。

問いは、ドゥルーズは下記のようなことを言っていたのに(たとえば「強制された運動」)、後年なぜ欲望の自由な流れーー「自由状態での純粋な流体un pur fluide à l'état libre」ーーなどということを言うようになってしまったのか、ということだが[参照])、わたくしはそれほど突っ込んでみるつもりは(今のところ)ない(その能力もない)。

…………

《潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur.》(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

《剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance 》(ラカン,S.17, 1970)

…………

【潜在的なものと強制された運動の機械】

《アクチュアルではないがリアルであり、抽象的ではないが観念的である。》(プルースト)――この観念的なリアルなもの、この潜在的なものが本質である。

« Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits. » Ce réel idéal, ce virtuel, c'est l'essence. . (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』,1964-1970-1975[参照])
プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(衝動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos),である。このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。それが失われた時間のばあいには、部分対象objets partielsの断片化により、見出された時間のばあいには共鳴による。失われた時間のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964年→1970年に加えられた「アンチロゴスまたは文学機械」CHAPITRE IV “Les trois machines”より)


【死の欲動と享楽の漂流】

すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.(Lacan Ecrit848)
きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20)

《享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. 》(『彼自身によるロラン・バルト』)

……盲目的で破壊できないリビドーの執着を、フロイトの「死の欲動」と呼んだ。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳ーー欲動と享楽の相違


【享楽侵入の記念物と文字】


「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S.17)
…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.19)

《ドゥルーズの超越論的経験論の用語では、純粋差異は、現勢的 actual アイデンティティの潜在的支えもしくは条件である。或る実体 entity が「(自己)同一的(self‐)identical」であると受け取られのは、その潜在的支えが純粋差異に還元された時(時のみ)である。ラカン派においては、純粋差異は潜在対象(ラカンの対象a)の補填(穴埋め)にかかわる。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

反復は本質的に象徴的なものであり、シンボルやシミュラークルは反復自体の文字 lettre である。la répétition est symbolique dans son essence, le symbole, le simulacre, est la lettre de la répétition même.(ドゥルーズ『差異と反復』)

《晩年のラカンの「文字 Lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着」あるいは「刻印」を理解する彼なりの方法である。》(ヴェルハーゲ、BEYOND GENDER. From subject to drive Paul Verhaeghe 2001ーー原抑圧・原固着・原刻印・サントーム

反復の概念は転移の概念とは何の関係もない。le concept de repetition n'a rien a faire avec celui de transfert.(ラカン、S.11)
・反復は言語の結果である。la répétition est une conséquence du langage

・転移は反復に要求の形式を与える le transfert donne à la répétition la forme de la demande

・転移以外には、反復は本質的に要求はない Hors transfert, la répétition n’est pas essentiellement demande (コレット・ソレール、2010_« La réptition ne se produit qu’une seule fois »par Colette Soler)
「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S.19)

現在最も信頼のおけるラカン解釈者の一人コレット・ソレールーーすでに多くの仕事をなしとげたブルース・フィンクでさえ、この2016年にもいまだ彼女の著作に讃嘆しつつ英訳しているーーは、別に《Lacan réécrit la répétition en re-petitio》としているが、re-petitio(ラテン語起源)のこの言葉をラカンはどこで言っているのか見つからない。訳せば、嘆願反復か? 要はこの嘆願の反復や転移反復を「解き放つ」ことが、ラカン派の反復概念の核心のひとつである。それは次のドゥルーズ=ニーチェの永遠回帰にも表れる。

そして、わたくしに言わせれば、『プルーストとシーニュ』に現れる次の対比の右辺はすべて嘆願反復の一種である(参照:哲学と友情)。

・感受性 sensibilité/観察 observation
・思考 pensée /哲学 philosophie
・翻訳 traduction/反省 réflexion
・愛 amour/友情 amitié
・沈黙した解釈 interprétation silencieuse/会話 conversation
・名 noms/言葉 mots
・暗示的シーニュ signes implicites/明示的意味作用 significations explicites


【永遠回帰と反復】

〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選り分ける反復という驚くべき秘密なのである。

L'Éternel Retour est la Répétition ; mais c'est la Répétition qui sélectionne, la Répétition qui sauve. Prodigieux secret d'une répétition libératrice et sélectionnante.(ドゥルーズ『ニーチェ』1965)
永遠回帰は、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異の世界から派生する。

L'éternel retour ne fait pas revenir le même et le semblable, mais dérive lui-même d'un inonde de la pure différence.
・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在。それを言い換えるなら、起源は差異であると特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

L'éternel retour n'a pas d'autre sens que celui-ci : l'absence d'origine assignable, c'est-à-dire l'assignation de l'origine comme étant la différence, qui rapporte le différent au différent pour le (ou les) faire revenir en tant que tel.
そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。

En ce sens, l'éternel retour est bien la conséquence d'une différence originaire, pure, synthétique, en soi (ce que Nietzsche appelait la volonté de puissance). Si la différence est l'en-soi, la répétition dans l'éternel retour est le pour-soi de la différence.(ドゥルーズ『差異と反復』)


【暗き先触れと強制された運動の増幅】

(ニーチェとは)ジョイスの作品はもちろんまったく異なる手法に訴えている。しかしそこでも相変わらず問題となるのは、諸々の異なった系列を最大限に(極限的には、コスモスを構成する多様なあらゆる系列に至るまで)集めることである。それも言語的な「暗き先触れ précurseur sombre」(この場合それはカバン語のような不可解な言葉)を、そこで機能させることによって、諸々の系列を集めることである。そうした暗き前触れは、あらかじめ在るとみなされるような同一性にはけっして基づくことなく、またとりわけ原則としては、「その同一性を定めること、それ自身であるという身元を確認すること」が不可能なものである。そういう前触れが、システム全体のなかに、「差異それ自体」の差異化作用というプロセスの結果として、類似性と同一性を最大限に導入するのである(『フィンガネス・ウェイク』のコスモス的な文字を参照されたい)。

この暗き前触れの活動のおかげで、システムのうちに生起するもの、つまり共鳴し合う諸々の系列のあいだで生起するものが、〈聖体顕現(エピファニー épiphanie)〉と呼ばれる。そして宇宙的な cosmique 拡がりは、ある種の強制された運動が大きく増幅されること l'amplitude d'un mouvement forcé と一体をなしている。すなわち諸々の系列を一掃し、それらの系列をのり超えて溢れ出す強制的な運動が増幅することである。つまり最終的な審級における死の本能 Instinct de mort 、スティーヴンの〈否 non〉――それは否定という非‐在 non-être du négatif ではなく、執拗に続く問いかけの(非)‐在? であり、その(非)‐在? にはブルーム夫人の宇宙的な〈然り Oui〉が、答えるというのではないやり方で、照応している(なぜならそういう〈然り〉だけが、(非)‐在? を適切に満たし、十全を占めるのだから)――このスティーヴンの〈否〉がそうであるような一つの強制的な運動の増幅と、宇宙的な拡がりはまさに一体をなしているのである。(ドゥルーズ『差異と反復』)
(プルーストの作品は)ジョイスの聖体顕現 épiphanies とはまったく異なった構造をもっている。しかしながらまた、それは二つの系列の問いである。 すなわち、かつての現在(生きられたコンブレー)と現勢的 actuel な現在の系列。疑いもなく経験の最初の次元にあるのは、二つの系列(マドレーヌ、朝食)のあいだの類似性であり、同一性でさえある(質としての味、二つの瞬間における類似というだけでなく自己同一的な質としての味覚)。

しかしながら、秘密はそこにはない。味覚が力能をもつのは、それが何か=X を包含するときのみである。その何かは、もはや同一性によっては定義されない。すなわち味覚は、それ自身のなか en soi にあるものとしてのコンブレー、純粋過去の破片 fragment de passé pur としてのコンブレーを包んでいる。それは、次の二つに還元されえない二重性のなかにある。すなわち、かつてあったものとしての現在(知覚)、そして意志的記憶 mémoire volontaire によって再現されたり再構成されたりし得るかもしれないアクチュアルな現在への二重の非還元性のなかにある。

それ自身のなかのこのコンブレーは、己れの本質的差異によって定義される。「質的差異 qualitative difference」、それはプルーストによれば、「地球の表面には à la surface de la terre」存在せず、固有の深さのなかにのみ存する。この差異なのである、それ自身を包むことによって、諸々の系列のあいだの類似性を構成する質の同一性を生み出すのは。

したがって再びまた、同一性と類似性は「差異化するもの différenciant」の結果である。二つの系列が互いに継起するなら、それにもかかわらず、二つの系列に共鳴を引き起こすもの、すなわち対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレーとの関係において共存する。さらに、二系列の共鳴は、その系列をともに越えて溢れ返る déborde 死の本能をもたらす。たとえば半長靴と祖母の記憶である。

エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼方に、その輝かしい核を見出す)。(ドゥルーズ『差異と反復』)

…………

とはいえ純粋差異というものがわたくしにはあまりピンときていない。だが次のことはいくらかわかってきた。

・すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである。 il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.》(Lacan, S.14)

・常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)(Lacan,S.20)

《ヘーゲルは『論理の科学』で、悪戯っぽく言ってる、もしAがそれ自体と同じなら、どうして反復する必要があるんだい?と。“A = A” のような同語反復の同一の反復は、実際はそれ自体との非-同一の徴を示している。》(Levi R. Bryant、The Democracy of Objects、2011

もっとも身近な例でいえば、「私」というシニフィアンはそれ自身に一致しない。だからわれわれは生涯反復し続ける。

いずれにせよ言語を使用する人間は、つねに差異ーーそれを純粋差異というのかどうかは別にしてーーの世界に住まわっているには相違ない。すなわち言語による「物の殺害 meurtre de la chose」(E.319) の世界に 。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

→「人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないか?


…………

※付記:ところでジャック=アラン・ミレールはかなり前に次のように言っている。

分裂病的観点においてのみ、言葉は物の殺害ではなく、物である。(ミレール、IRONIC CLINIC、1988)

ドゥルーズの1970年代の仕事は、「戦略的分裂病」だとしたらーー戦略的倒錯という言葉があるようにーーどうだろう?