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2016年5月14日土曜日

「見せかけの国 l'empire des semblants」と「ファルスの国 l'empire du phallus」

ロラン・バルトは自分のエッセーを 『表徴の帝国』 L'Empire des signes と題しているが、 それは 『見せかけの帝国』 l'empire des semblantsを意味する。(ラカン、リチュラテール.Lituraterre 1971 オートルエクリ)

という具合に、ラカンは日本を「見せかけの国」と呼んだ(旧訳『表徴の帝国』は新訳では『記号の国』となっているので、ここでは「見せかけの国」としておく)。

では、日本が「見せかけの国」であるなら、欧米諸国(すくなくとも先進諸国)はなんのか。

いまではいささか様相が変わったということはある。たとえば、ラカン派主流の精神分析の世界では次のようなことが言われている。

21世紀における象徴秩序に接触する主要な変化は、今とても広く行き渡った、見せかけの分節化としての思考である。存在を組織するものとされた伝統的カテゴリーは、バラバラになるように運命づけられたたんなる社会構築物の序列へと移行した。見せかけが揺らめいているだけではない。伝統的カテゴリー自体が、見せかけとして認知されている

さらに、奇妙な交点によって、精神分析は、ラカンを通して、概念的な両極性の他の用語を取り戻しつつある。すなわち、すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。(ジャック=アラン・ミレール『無意識と話す身体』2014ーー腰抜け・妄想家・詐欺師

だが今はこの文脈に触れるのはやめーーそれ以外にもっと重要かもしれない日本語の言語構造についても割愛する(参照:「繋辞と風呂敷」)ーー、文化社会的な観点においては、いまだ欧米諸国は、日本に比べたら、ずっと「ファルスの国」と呼んでよいだろう。

すなわち、日本/欧米は、見せかけの国/ファルスの国 [l'empire des semblants  / l'empire du phallus]。これはロラン・バルトの『記号の国』を読めばわかる。

主体と神は、追いはらっても追いはらっても、もどってくる。わたしたちの言語のうえに跨がっているからである。これらの事実やほかのさまざまな事実などから、確信することになる。社会を問題にしようと主張するときに、そうするための(道具になる)言語の限界そのものをまったく考えずに問題にしようとしても、いかに愚かしいことであろうか、と。それは、狼の口のなかに安住しながら狼を殺そうと望むようなものだからである。したがって、わたしたちにとっては常軌を逸している文法を習ってみること。そうすれば、すくなくとも、わたしたちの言葉のイデオロギーそのものに疑念をいだくようになる、という利点はもたらされるであろう。(ロラン・バルト『記号の国』P.17)

バルトは、自らのファルス文化を、日本文化に接することにより「揺らめ」かされたのである(より詳しくは、「人間の思考はその人間の母語によって決定される」を見よ)。

揺らめかすvaciller とは、70年前後以降からのバルトの鍵言葉のひとつだが、ここではそれに触れない。ただし、現在主流のラカン派でも、この言葉がキーコンセプトの一つであることだけを示しておく。

精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール)

※見せかけ les semblants とあるが、ここでミレールが言っている「見せかけ」は、ファルスも含めた見せかけのことであるのに注意(参考:見せかけ/ファルス)。

で、みなさんどちらがお好きだろうか、見せかけの国とファルスの国と?(ほかの選択肢であるかもしれない「享楽の国」というのは、常識的にはありえない。見せかけもファルスも無法の享楽から逃れる手蔓である)。

このファルス/見せかけは、男性の論理/女性の論理にもかかわる。

一般に、男性の論理とは、〈例外〉を伴う〈不完全性〉の論理、女性の論理とは、境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の論理とされる。

最初は、我々は考えたかもしれない、女性の論理(非全体の論理)に基づいた社会構造の方が遥かに上手くゆくと。とどのつまり、女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。(…)

しかしながら、女性の論理のタームで組織された社会構造もまた、それ自身の袋小路に遭遇する。男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。(…)

反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy、2008,私訳ーー女性の論理が必ずしもいいわけじないよ

ファルス社会/見せかけ社会とは、単純化して言ってしまえば、一神教的社会とそうでない社会の相違でもある。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(……)

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

ここで丸山昌男を引用してみよう。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。 イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎな い。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』な んかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないん じゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていい たくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけではなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間 が見えなくなったところからきている。しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつか れる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山真男、針生一郎との対談『丸山座 談5』)

というわけで普遍的にはどちらがいいということはいえないが、日本のような無イデオロギーの国、見せかけの国、女性の論理が支配的な国、あるいは「いつのまにかそう成る会社主義 corporatism」の国(柄谷行人)、「おみこしの熱狂と無責任」の国(中井久夫)では、いささかファルス的であったほうがいいのではないか?

いま、ひどく図式化して言っていることに注意。とんでもない父性原理の権化のようないわゆる「ファルス的」人間が日本に棲息していないわけではないのだから。ここで言っているのはそういったファルスではない。超越的ファルスではなく、超越論的ファルスである。それは構成的ファルスではなく統整的ファルスだといってもよい(参照:主人のシニフィアンと統整的理念)。

浅田彰の転回もこの文脈にある、とわたくしは思う。すなわち「王様を笑い続ける少年」(ファルス批判)から、不本意で面白くないのを重々承知でゴリゴリの「頑固親父」の役割を敢えて演じること(見せかけ批判)。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme



2016年5月13日金曜日

資料:見せかけ/ファルス

以下、資料の列挙。

◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002)

ファルスは繋辞である。そして、繋辞は大他者に関係がある。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽のモードを刻んでいる。しかし、大他者との関係から切り離された享楽だ。

人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽に向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-sistence する享楽に。

以下、繋辞、身体、外立について順不同で見る。

◆外立 ex-sistenceについて(同ミレール)

穴の概念は、欠如の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンと以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、空間は残ったままだ。欠如とは、空間のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は空間の秩序に従う。空間は、欠如によって影響を受けない。これがまさに、ある要素が欠けている場に他の諸要素が占めることが可能な理由である。その結果、人は置き換えすることができる。置き換えとは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権威である。

ちょうど反対のことが穴について言える。それは、ラカンが後期の教えでこの概念を詳述したように。穴は、欠如とは反対に、空間の秩序の消滅を意味する。穴は、組み合わせ規則の空間自体の消滅である。これが、Ⱥ の最も深い特性である。Ⱥ は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者ののなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。穴との関連において、外立がある。それは、残余にとっての正しい場であり、現実界の正しい場、すなわち意味の追放の正しい場である。(ミレール、2002ーー欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ))


◆ラカンの「三つの身体」について(ラカンの身体概念の移行

ラカン(1) は、象徴界と想像界とのあいだの対立に関する。象徴界は(法則として)予知可能な仕方で、身体を決定づける。この身体は、効果以外の何ものでもない。それは身体的な表層として理解されうる。

ラカン(2) は、結合された象徴界・想像界の原因としての現実界に焦点が絞られる。すなわち、身体の現実界は、有機体、あるいは欲動として理解されうる。

ラカン (3) は、この(2)の対立を、享楽の用語にて、再び取り上げる。すなわち、「ファルス享楽」la jouissance phallique 対「身体の享楽」 la jouissance du corpsである(参照)(Paul Verhaeghe,Beyond Gender. From Subject to Drive,2001)

ファルスの用語に関して、ラカンは、セミネールⅩⅩにて、ファルスを、シニフィアンとシニフィエ (S/s)のあいだの横棒と同じものとして扱っているのに注意しよう.(Bruce Fink  “KNOWLEDGE AND JOUISSANCE ”,2002)

→横棒:“A is A” と “A = A”:《la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus. 》(Séminaire XX ENCORE )


◆ラカンにおける繋辞の叙述(参照:繋辞と風呂敷

もし「ある être」という動詞がなかったら、「存在」なんて(厄介な)ものはなかったのにな。[s'il n'y avait pas le verbe être, il n'y aurait pas d'être du tout.](セミネールⅩⅩⅠ)
存在論は、言語のなかの繋辞 copula の使用に脚光を浴びせる、繋辞をシニフィアンとして分離してだ。「あるêtre」という動詞に囚われることは…ひどく危険な大仕事だよ。そこには何もないのだがね、主人の言説(discours du maître )、つまり「私が有るm'être」という言説が、「有るêtre」という動詞を強調しなかったら。(セミネールⅩⅩ)

…………

以下、見せかけ(対象a)/ファルスについて見る。

◆ファルス/対象a(参照:ファルスΦと対象aの相違、あるいは二重の欠如

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]).
ファルスは対象ではなく、他の源泉、すなわち対象aから来る享楽を統制する事例instanceである。これらの享楽は、ファルスのシニフィアンによって解釈されることを通して統制され、ファルスの快楽に変わる。構造的に、この象徴化は不完全のままである。対象aは、象徴化に抵抗する現実界の部分である。(Verhaeghe, P. & Declercq, F. (2003). Lacan's analytical goal: "Le Sinthome" or the feminine way


◆見せかけ/ファルス(フェティッシュ/仮装)

ーーRussell Grigg、「ラカンの教えにおける見せかけ概念」The Concept of Semblant in Lacan's Teaching、2007

フェティッシュとして、少なくともある文脈において、「見せかけ」は現実界との遭遇にて生じる恐怖あるいは不安を避けるものとして機能する。

したがってラカンにとって、「見せかけ」は人を惑わすこととと騙すことの両方の含意がある。我々は「見せかけ」を信じる。いやむしろ、現実界を覆うために「見せかけ」を選択する。というのは、「見せかけ」は、満足の手段、あるいは不快を避ける方法だから。「見せかけ」が崩れ落ちたとき、不安が現れる。「見せかけ」は、何かがあるべきなのにない場所へ来て、欠如を埋める。(…)「見せかけ」は、何かの代替物の形式である。それは、不安を引き起こす別の対象の代わりとして、満足の源泉を提供する。

「見せかけ」を観察する二番目の方法は、ジャック=アラン・ミレールにて取り出された。彼は言う、「見せかけ」の機能は《無を覆う》ことだと[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J.A. Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)。

ここでふたたび「見せかけ」の二重の側面が現れる。この定義において強調されているのは、ヴェールの機能と、このまさにヴェールに注意を誘引する機能だ。ミレールは続けて言っている、「見せかけ」のこの二重の側面のために、ヴェールはファルス化され、とくに身体がファルス化する、と。
しかしながら注意しよう、「見せかけ」はファルスではないことを。(……)

「見せかけ」とは、存在しない対象の代替物でありながら、それ自体が満足の対象という特徴がある。他方、ファルスの場合、無を覆うものでありながら、この無を何かーー欲望される対象をもたらす何かーーに変換するものとして、ヴェールの彼方において無から創造される対象である。「見せかけ」はフェティッシュな対象の側にあり、ファルスは仮装 masquerade の側にある。

この相違は、セクシャリティの領野において重要である。女性の同性愛において、究極の関心は、例外なく女性性の根本的な問題のなかにある。その関係性は、欲望の原因としての対象a に支配されている。結果として、彼女らが男性性を呼び起こす仕方には、自然な落ち着きがある。これを男性の性倒錯と比較すると、ファルス的仮装 masquerade は、茶番仕立てで誇張され、ときに妄想的な女性性のスタイルの選択に導かれる。(参照:ラカン、E.735)
(……)とくに難しいわけではない、ミレールがなぜ次のように主張しているのかを理解するのは。彼は、ラカン派精神分析の新時代は、大他者は存在せず「見せかけ」だけがあることを自ら認めることだとしている。現在の重要性は、次の事実から来る。すなわち、「見せかけ」しかないことは、父の名は囮であるという引き続く認知をもたらすという事実だ。父の名は、かつては大他者の存在を支えるものとされた。…だがラカンは大他者はない、その「見せかけ」しかないと方向転換した。《人は、「見せかけ」として父の名を使用する条件においてのみ、現実界としての父の名なしでやっていける》(E. Laurent and J.A. Miller, "The Other who doesn't exist and his ethical committees", 1998)。

これは重要な核心である。この結果は、一連のセミネールを通して、明らかにされていった。たとえばセミネールXVII で、ラカンは、フロイトのエディプス・コンプレックスを役に立たないと批判し、あれはフロイトの夢だとした。

しかしながら、「見せかけ」は、ラカンの教えの終わりで、とても重要性を想定され、ほとんど何もかもーー以前は区別されていたものもーー含むようになり、これは問題である。言語、大他者、父の名、ファルス、すべては「見せかけ」と見なされるようになる。…(しかし)後期ラカンの教えにおける新しい方向づけの重要性がなんであれ、それが開いた新しい臨床と理論がなんであれ、新しい方向づけの価値は、「見せかけ」概念の意味するところをたんに拡大することによっては保証されない。

《セミネールXVII で、ラカンは、フロイトのエディプス・コンプレックスを役に立たないと批判》とあるが、同じRussell Griggの2006年の論より。

(ここでの)ラカンの結論は、エディプス・コンプレックスは、《まったく使いものにならない! C'est strictement inutilisable ! 》(Le séminaire, livre XVII,P.137)である。…彼はつけ加えている。《奇妙なことだ、これがもっとはやく明らかにならなかったのは》、と。エディプス・コンプレックスへの、ラカンの多年にわたる長く詳細な取り組みを考えれば、彼はこの意見を、まずは自分自身に向けて言っているとしてよい。(Russell Grigg, Beyond the Oedipus Complex 、2006ーー「エディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ!」)

さて、Russell Grigg の論は、現在、ラカン主流派(ミレール派)が、身体の享楽以外は何もかも「見せかけ」としてしまっていることに対する批判(吟味)とも読めるのではないか。

そのミレール派のーーこれは臨床上での議論が主だがーー考え方は次ぎの通り(参照:腰抜け・妄想家・詐欺師)。

21世紀における象徴秩序に接触する主要な変化は、今とても広く行き渡った、見せかけの分節化としての思考である。存在を組織するものとされた伝統的カテゴリーは、バラバラになるように運命づけられたたんなる社会構築物の序列へと移行した。見せかけが揺らめいているだけではない。伝統的カテゴリー自体が、見せかけとして認知されている。

さらに、奇妙な交点によって、精神分析は、ラカンを通して、概念的な両極性の他の用語を取り戻しつつある。すなわち、すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。

象徴秩序が、現実界を統整しそれに法を課す「知」と思われていた限り、臨床は、神経症と精神病とのあいだの対立によって支配された。象徴秩序は今、現実界を統治せず、むしろ現実界に隷属する「見せかけ」のシステムとして認知されている。象徴秩序は、不在する性関係の現実界に応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール、2014,L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER(無意識と話す身体))


このミレールの考え方への批判は、次のような形で、ジジェクによっても現われる(参照:
ミレール? 天才だよ、シニカルで完璧に学者ぶった天才だ(ジジェク)

より理論的レベルで、我々は、ミレールの(そして、もし人が後期ラカンのミレール読解を受け入れるならば、ラカンの)、やや粗野な名目論者的対比を問題視すべきだ。その対比というのは、享楽の現実界の個別性と象徴的見せかけの包被とのあいだのものである。ここで喪われているのは、ラカンのセミネールXX(アンコール)の偉大な洞察である。すなわち、享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけ semblance の地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけ semblances は、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。

この観点からは、ラカンの「騙されない者は間違える les non‐dupes errent 」のまったく異なった読み方を提示し得る。もし我々が、象徴的見せかけと享楽の現実界とのあいだの対比を元にしたミレールの読解に従うなら、「騙されない者は間違える」は、シニカルで古臭い諺のようなものだ、すなわち我々の価値観、理想、規則等々は、ただ見せかけに過ぎないが、それらを侮ることなく、社会組織がばらばらにならないよう、現実のものとして振舞うべきだ、というものだ。

しかし正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は間違える」の意味するところは全く反対である。真の錯誤 illusion とは、見せかけを現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に見せかけの織物に降格してしまうことが真の錯誤である。言い換えれば、 間違える者たちは、象徴的織物を単に見せかけとしてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、間違える者たちである。イデオロギーは、享楽の核心を取り囲む象徴的見せかけのネットワークを、深刻に取り扱うことに元々あるのではない。より根本的レベルでは、イデオロギーとは、享楽の現実界に関して、これらの見せかけを「単なる見せかけ」としてシニカルに棄却をすることである。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

ここに出てくる「騙されない者は間違える les non‐dupes errent」は、「父の名 le Nom‐du‐Père 」と同じ発音である。すなわち、父の名→ファルス→S1を示しているとしてよい。

S1(主人のシニフィアン)の機能とは何であったか。基本的な理解としては、たとえば「太鼓のひと弾き」や「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」などにある。だが、いまは主人のシニフィアンと対象aの相違を示す文を掲げる。

◆対象a/主人のシニフィアン

ーーある時期以降のラカンにとって、Φ(象徴的ファルス)= S1(主人のシニフィアン)である(「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」)。

以下の文の主人のシニフィアンは象徴的ファルスとして読むことができる。

…… (ふたつのあいだの)形式的な相同性、主人のシニフィアンの再帰的な論理ーーシニフィアンの欠如のシニフィアン、欠如の代替物(充填物)として機能するシニフィアンーー、そして対象aの論理も、またラカンによってくり返して定義されたように、欠如の充填物である。その地位は純粋にヴァーチャルであり、それ自体のどんな実体的一貫性もなく、ただ象徴秩序における欠如の実体化positivizationである。

何かが象徴秩序から逃れさる。そしてこのXが、対象a、私がしらないものje ne sais quoi として実体化される。それが、私にある物や人を欲望させる。(……)

しかしながら、主人のシニフィアンと対象aのあいだのこの形式的な類似に騙されるべきではない。どちらの場合も、欠如を埋める実体entityとして扱えるようにみえるが、対象aを主人のシニフィアンと分け隔てるものは、対象aの場合、欠如が二重化されていることだ。すなわち、対象aは、二つの欠如の重なり合いの結果である。その二つの欠如とは、〈大他者〉(象徴秩序)にある欠如と対象にある欠如である。ーー例えば、視覚領野において、対象aとは、我々が見ることのできないもの、絵画にかんするなら我々の盲点である。

二つの欠如の各々は互いに独立して作用しうる。我々はシニフィアンの欠如を持ちうる、例えば「言葉が行方不明になる」という豊かな経験をしたときに。あるいは我々は視覚において欠如を持ちうる。その欠如のために、まさに主人のシニフィアンと名づけられるシニフィアンがある。それは、対象の不可視の領域を再捕獲するようにみえる神秘的なシニフィアンである。

そこには、主人のシニフィアンの錯覚 illusionがある。すなわち主人のシニフィアンは対象aと合体する。そして主体の〈大他者〉/〈主人〉は、主体が欠如しているものを所有しているようにみえる。これをラカンは疎外と呼んだ。すなわち、主体が欠けているものを所有している〈大他者〉との主体の遭遇である。疎外にひき続く分離においては、対象aもまた〈大他者〉から、主人のシニフィアンから分離する。すなわち、主体は見いだすのだ、〈大他者〉もまた彼に欠けているものを持っていないことを。ラカンに従って金言を掲げれば、「aなしの私はないno I without a」である。〈私〉(たった一つの特徴unary feature、主体を表象するシニフィアン化の徴)が出現するときはいつでも、〈a〉が伴うのだ、リアルの意味作用における喪われたものの代替物としての〈a〉が。

それでは、対象aは、S1の、主人のシニフィアンのシニフィエだろうか。一見そのようにみえるかもしれない。というのは、主人のシニフィアンは、まさに図り知れないXーー「ふつうの」シニフィアンたち (S2)の連鎖によってシニフィエされる一連の実体的な属性から逃れるXを意味づけるsignifiesのだから。しかし、より精緻にみると、我々はその関係はまったく正反対であることが分かる。すなわち、シニフィアンとシニフィエのあいだの分解にかんして、対象aはシニフィアンの側にあり、それはシニフィアン“の中の/の”欠如を埋める。他方、主人のシニフィアンは、シニフィアンとシニフィエのあいだの「縫合点」であり、その点において、シニフィアンはシニフィエのなかに落ちる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

ジジェクのいささか難解な区分けの説明を掲げたが、これは、彼にとってはどうしても必要なものである。たとえば、上のような観点があって初めて次ぎのような解釈が生まれる。つまり、次ぎの最初の文では、ユダヤ人の主人のシニフィアンとして機能、二番目の文では、ユダヤ人の対象aの機能である。


【主人のシニフィアンとしてのユダヤ人】
ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。ナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。たとえば、クッションの綴目le point de capitonを説明するために、ラカンは、ラシーヌの名高い一節を引用している、「Je crains Dieu, cher Abner, et je n'ai point d'autre crainte./私は神を恐れる、愛しのAbner よ、そして私は他のどんな恐怖もない。」すべての恐怖は一つの恐怖と交換される。すなわち神への恐怖は、世界のすべての出来事において、私を恐れを知らなくさせるのだ。新しい〈主人のシニフィアン〉が生じることで、同じような反転がイデオロギーの領野でも働く。反ユダヤ主義において、すべての恐怖(経済危機、道徳的頽廃……)は、ユダヤ人の恐怖と交換されたのだ。je crains le Juif, cher citoyen, et je n'ai point d'autre crainte. . ./私はユダヤ人を恐れる、愛する市民たちよ。そして私は他のどんな恐怖もない……。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012,私訳

【対象a としてのユダヤ人】 
要するに、父の名と“概念上のユダヤ人”の相違とは、象徴的フィクションと幻想的幽霊fantasmatic specterとの相違である。ラカンのアルジェブラではS1、すなわち主人のシニフィアン(象徴的権威の空のシニフィアン)と対象aの相違である。主体が象徴的権威を授けられるとき、彼はその象徴的肩書きの付属物として振舞う。すなわち〈大他者〉が彼を通して行動するのだ。幽霊的な現前の場合は、反対に、私が行使する力は“私自身のなかにあって私以上のもの”である。

しかしながら、去勢のシニフィアンとしてのファルスによって保証された象徴的権威と「概念的なユダヤ人」の幽霊的な現前とのあいだには決定的な相違がある。どちらの場合も、知と信念のあいだの分断を扱うにもかかわらず、このふたつの分断は根本的に異なった特質がある。最初の場合、信念は「目に見える」公的な象徴的権威にかかわる(私は父が不完全で弱々しいことを知っているにもかかわらず、私は父を権威の形象として受け入れる)。他方、二番目の場合、私が信じているのものは、目に見えない幽霊的な顕現である。幻想的な「概念上のユダヤ人」は象徴的権威の父権的形象、公的権威の"去勢された"担い手あるいは媒体ではない。そうではなく、何か決定的に異なったもの、正当なロジックを倒錯させる公的権威の不気味な分身である。彼は影として振舞う、公衆の眼には見えない、幻影のような、幽霊的全能性を照射するのだ。この測り知れなく捉えがたい彼のアイデンティティの核心にある地位によって、ユダヤ人はーー「去勢された」父とは対照的にーー去勢されていないものとして感知される。彼の実際の、社会的、公的な存在existenceが中断されればされるほど、その捉えがたい、幻想的な外-存在ex‐sistenceは人びとを脅かすようになる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

これは、たとえば現在 IS( Islamic State:イスラム国)がどう機能しているのかを考える上でもとても参考になる。おそらく敵対国すべてで同じように機能しているわけではない(ある国にとっては、主人のシニフィアンであり、別の国にとっては対象aだろう)。

我々はまったく文明の衝突を取り扱っているのではない(西側キリスト教徒対ラディカルイスラム)。そうではなくそれぞれの文明内部での衝突だ。すなわち、キリスト教徒の宇宙のなかでの米国と西側ヨーロッパ対ロシア。ムスリムの宇宙のなかでのスンニ派対シーア派である。イスラム国の醜怪さは、これらの闘争を覆う「フェティッシュ(呪物)」として機能しているということだ。そこでは、どちらの側も、本当の敵を叩くために、イスラム国と闘うふりをしているのだ。( ジジェク「我々はトルコについて語る必要がある」(Slavoj Žižek: We need to talk about Turkeyーーさあイスラム国抜きでわしらはどうなる?

…………

※対象a としての〈女〉
他の相同関係――同じ理由で拒絶されるべきであるーーは父の名と幻影的な「女」の間の関係である。ラカンの「女は存在しない」(la Femme n'existe pas)は、経験上の、肉体をもった女は決して「彼女She」ではない、ということを意味しない。すなわち彼女は到達できない「女」の理想に従って生きることができないということを意味しない(経験上の、「真の」父は、彼の象徴的機能、彼の「名」に生きることができないという様ではない)。どんな経験上の女も〈女〉から永遠に分離されているというギャップは、空の象徴的機能とその経験上の担い手とのあいだのギャップと同じではないのだ。

女の問題とは、逆に、女の空の理想――象徴的機能――を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻想的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの。集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(同 LESS THAN NOTHING)





2016年5月12日木曜日

うつり虱の夜

露草のにほへる妹を憎くあらば婢女ゆゑにあれ恋ひめやも

足音の たんびにこしを つかい止め(末摘花)
いろおとこ 何処でしょつたか 飛び虱 (末摘花)

玉ふるる虱の珠にあき盲櫂榜ぎいでむその叉深野

恋の闇 下女は小声で ここだわな (末摘花) 
ひきつけた 様な目付きで 下女よがり(末摘花)

下女越しのうつり虱をつぶしもせず仮廬の鞘のかたみ偲びつ
股倉のうつり虱に寝る夜落ちず水辺を渉る鷭の声聴く

股倉を すぼめて扶持を ねだるなり(末摘花) 
後家の下女 鵜の真似をして 追ん出され (末摘花)

吾が掘りし野鳥は去りつ底ふかき阿漕の虱の珠ぞ残りぬ



2016年5月11日水曜日

腰抜け・妄想家・詐欺師

表題を「腰抜け・妄想家・詐欺師」としたが、実際は、Débilité – délire – duperieであり、脆弱 – 妄想 – 詐欺とでも訳すべきか。

これが、21世紀の分析臨床上の、《想像界・象徴界・現実界の結び目の谺、鋼鉄製の三幅対》[Débilité – délire – duperie, telle est la trilogie de fer qui répercute le nœud de l'imaginaire, du symbolique et du réel].とするジャック=アラン・ミレールの2014年の論、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER(無意識と話す身体)がある。

かつて、ジジェクが、想像界・象徴界・現実界の三幅対を、政治経済的な側面から、イデオロギー・ヘゲモニー・エコノミーとしたが、これは柄谷行人の「ネーション、ステート、資本制」に対応するものだ(参照)。かつまた柄谷行人は、《仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)》ともしている。

他方、ミレールの新しい三幅対の提案は、21世紀の臨床の正統的な三幅対「脆弱 – 妄想 – 詐欺」としたい意向のようにさえ見える。

ミレールの論『無意識と話す身体』における「話す身体」corps parlantとは、すこし前、次のような記述を含む論を掲げた(参照:話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)。

…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(ヴェルハーゲ、2001(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、原文))

かつまた、下のミレールの論には「言存在」 parlêtre という語が頻出する。これはラカンがフロイトの「無意識」を言い換えた用語だ。ーー言い換えられたセミネール23(サントーム)での文脈上では、フロイトの「無意識」では現在(その当時)物足りないという含意がある。

le sujet qui se supporte du parlêtre… au sens que c'est là ce que je désigne comme étant l'Inconscient (S.23)


◆さて、ジャック=アラン・ミレールの2014年の『無意識と話す身体』からの粗訳を掲げる。

(わたくしは非専門家であり、こういった新しい分析治療の核心にかかわるとされる提案箇所を訳して掲げるのは、おこがましい心持がしないではない。ここでは、ただ、ミレールが脆弱 – 妄想 – 詐欺の三幅対をどのような意味合いで提議しているのかを知るための訳文である。英訳もあるので、必ず仏文か英訳を参照のこと。パラグラフはわたくしが適当に区分けしている。)

フロイトは言った、欲動理論は神話学だと。しかしながら、神話でないものは、享楽である。夢判断の第7章で、フロイトは心理装置を虚構と呼んでいる。虚構でないものは、話す身体である。

フロイトは心理装置の虚構原理を身体に見出した。それは反射弓として構成されている。興奮を、可能な最低水準に維持するような仕方にて統制される過程として。

ラカンは、反射弓によって構成された心理装置を、《言語のように構成されている無意識》に置き換えた。つまり、刺激-応答ではなく、シニフィアン-シニフィエとして。ただこの言語はーー私は強調し明らかにしたいラカンの表現があるのだがーー、《ララングについての知のとめどない空想[une élucubration de savoir sur lalangue]》(S.20)、話す身体のララングの労作であるのみだ。

これに従えば、無意識自体が、話す身体についての・言存在 parlêtre についてのとめどない空想である。何だろう、とめどない空想とは? それは、自らを現実界から切り離し同時にそれを抱きしめる semblants の分節化だ。
21世紀における象徴秩序に接触する主要な変化は、今とても広く行き渡った、見せかけの分節化としての思考である。存在を組織するものとされた伝統的カテゴリーは、バラバラになるように運命づけられたたんなる社会構築物の序列へと移行した。見せかけが揺らめいているだけではない。伝統的カテゴリー自体が、見せかけとして認知されている。

さらに、奇妙な交点によって、精神分析は、ラカンを通して、概念的な両極性の他の用語を取り戻しつつある。すなわち、すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的絆の現実界は、性関係の不在だ。無意識の現実界は話す身体だ。

象徴秩序が、現実界を統整しそれに法を課す「知」と思われていた限り、臨床は、神経症と精神病とのあいだの対立によって支配された。象徴秩序は今、現実界を統治せず、むしろ現実界に隷属する「見せかけ」のシステムとして認知されている。象徴秩序は、不在する性関係の現実界に応答するシステムである。

結果として私が呼ぶもの、それは、言存在 parlêtres のあいだでの根本的な臨床の一様性の布告である。言存在は、心自体によって脆弱心性だと糾弾される。まさに想像的であると理由で。身体の想像界、意味の想像界として。

象徴界は、想像的身体の上に意味論的表象を刻印する。そして、話す身体は、その刻印を折り合わせたり・ほどいたりする。この観点において、人の脆弱性は、話す身体を妄想に導くよう宿命づける。

あなたがたは首をかしげることはないか。分析を成し遂げた誰かが、いまだ自らを正常だと想像するなどということに。享楽の経済において、ひとつの主人のシニフィアンは、どんなほかのシニフィアンとも同じ価値をもっている。

脆弱から妄想への結果は、よいものだ。言存在にとって、「彼方」を開く唯一の道は、自らを現実界の詐欺師にすることだ。すなわち、「言説」ーーそのなかで、見せかけが現実界を抱きしめる言説を組み立てること。

逆に、脆弱は、可能性の詐欺だ。現実界の詐欺師になることーーこれが、私が褒めたたえていることだーー、それは、唯一の光明である。話す存在に開かれた光明。それによって、彼は自らを方向づけうる。
Débilité – délire – duperie(脆弱 – 妄想 – 詐欺)。これは、想像界・象徴界・現実界の結び目の谺、鋼鉄製の三幅対である。

(…)言存在の時代において、…言存在を分析することは、妄想・脆弱・詐欺のあいだでその人なりのやり方をすることを要求する。それは、脆弱が現実界の詐欺に道を譲るような仕方で、妄想を導くことにかかわる。

フロイトはいまだ彼が抑圧と呼ぶものと格闘していた。我々は「パス」(教育分析)において観察しうる。このカテゴリーは今ではめったに使用されないことを。確かに、浮かび上がってくる記憶はある。だが、どんな抑圧の信憑性に依拠するものは何もない。それは最終的なものではない。「抑圧されたものの回帰」は常に、言存在の流れーーそこでは、真理は絶え間ない虚偽だーーのなかに引きずり込まれる。

抑圧の場において、言存在の分析は虚偽の真理を設置する。それは、フロイトが「原抑圧」と呼ぶものから生じたものだ。この意味は、真理とは、本質的に嘘と同じ本質をもっているということだ。まがいの核はまた究極の欺瞞である。嘘を吐かないものは享楽だ、話す身体の享楽である。

解釈とは、フロイトがそう考えたようには、抑圧の孤立化された要素と関係がある「構築物」の断片ではない。解釈は、知のとめどもない空想ではない。また、真理の効果ーーすぐさま嘘の継起に吸収されてしまう真理の効果でもない。

解釈は、話す身体を標的にする「言う行為(un dire)」である。そうすることによって出来事を生み出すことだ。ラカン曰く、《直感反応を呼び起こす(passer dans les tripes)》 (S.21)ことだ。これは、先取りしえない何かだ。しかし、事後的に確かめられる何かである。というのは、享楽の効果は測り知れないから。
分析ができることすべてとは、話す身体の鼓動に融和する s'accorder à la pulsation du corps parlant ことだ。それ自身を症状のなかに染み込ませるために。人が無意識を分析するとき、解釈の意味合いは真理である。人は話す身体を分析するとき、解釈の意味合いは享楽である。

この真理から享楽への置き換えが、言存在の時代において、分析実践となりつつあるものの手がかりである。

これが、「無意識と話す身体」という旗印にて、次の会議で会おうと私が提案する理由だ。ここで、ラカンが言ったように、我々は謎をもつ。我々はこの謎のなかに、何らかの形で侵入するよう努めようではないか。

…………

なお、ミレールは2005年のセミネール(Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)にて、既に次のような二項対立図を提示している。





…………

※附記(http://www.legaufey.fr/Textes/Attention_files/20.rtf)より(78歳のラカンの告白)。

La métaphore du nœud borroméen à l’état le plus simple est impropre. C’est un abus de métaphore parce qu’en réalité, il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réel. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel, c’est l’essentiel de ce que j’énonce. Qu’il n’y ait pas de rapport sexuel parce qu’il il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c’est ce que je n’ai pas osé dire. Je l’ai quand même dit. Il est bien évident que j’ai eu tort, mais je m’y suis laissé glisser, tout simplement. C’est embêtant, c’est même plus qu’ennuyeux. C’est d’autant plus ennuyeux que c’est injustifié. C’est ce qui m’apparaît aujourd’hui. C’est du même coup ce que je vous avoue. (Lacan, séminaire XXVI La topologie et le temps 9 janvier 1979)
ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(9 janvier 1979、粗訳)



2016年5月10日火曜日

ファルス(+)/(-)

ラカンの命題が孕んでいるもの…その命題によれば、「原初的に抑圧されている」ものは、二項シニフィアン binary signifier (Vorstellungs-Repräsentanz 表象-代表のシニフィアン)である。すなわち象徴秩序が締め出しているものは、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前 full harmonious presence である。S1 – S2 、すなわち陰陽(明暗、天地等々)、あるいはどんなほかのものでもいい、二つの釣り合いのとれた「根本原理」だ。「性関係はない」という事態が意味するのは、まさに第二のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原初的に抑圧されている」ということであり、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂け目を満たすもの、それは「抑圧されたものの回帰」としての多数的なもの multitude、「ふつうの」シニフィアンの連続 series である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012 、私訳)

やあ、じつに不思議だね、
ーーたまには素朴な問いを発してみるけれど
どうして女のシニフィアンって原初から抑圧されてんだろ?
どうして下にミレールがいうようなことが起こるんだろ?

存在するのは女達 les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。(……)

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール“El Piropo”)
無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。

しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性 Autre sexs というエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)

科学があるのは女性というもの la femme が存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

ここで言っているのは、〈女〉のシニフィアンが存在しないのだから
男たちにとってと同じように、女たちにとっても〈女〉は存在しないことだ

そして科学があるのは〈女〉が存在しないせいだったら、
いま、きみやオレがなにやらやっているのも、
全部、〈女〉が存在しないせいだ、
〈女〉が存在したら、(二つの)主人のシニフィアン Master-signifiers、
つまり、S1ーS2 のカップルの十全な調和的現前があるのだから
人間はこんな間の抜けたなことを日々やっていないさ

フロイトは芸術や学問は昇華だっていったけど、
芸術や学問だけでなく、なんでも昇華だよ、オレたちのやってることは

そもそも「剰余享楽は昇華」(ミレール、2014)だ

じゃあ昇華でない享楽ってなんだろ?
やっぱり母なる大地との融合=死しかないんじゃないか。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance ](S.17)ーー睡眠=母胎内への回帰(エロス)

人生は、自己流儀の死への廻り道なのさ
大抵の場合、急いで目標に到達しないだけだよ

…c'est que la vie n'y retourne que par des chemins, toujours les mêmes, qu'elle a une fois bien tracés(S.17)

これは安永浩ー中井久夫のファントム理論と合致するな



安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収、参照

ところで、ラカンの名高い「昇華」 la sublimation の定義、
《物の尊厳への対象の昇化[l'objet, ici, est élevé à la dignité de la Chose]》(S.Ⅶ)
というのがあるけれど、またこうも言ってるんだよな。

〈物〉 la Choseは、本質的に、〈他の物〉Autre choseである。(S.7)

ふつう、いつも-常に喪われた〈物〉としての〈母〉との融合と言われるんだけど、
近親相姦というのは大文字の〈母〉とヤルわけではないので、
つまり小文字の母とヤルわけで、〈物〉との融合じゃない。
とすれば、あの小文字の他者=母も〈他の物〉 Autre chose だ
剰余享楽の対象-原因だな

ーーああ、つまらん、無理してヤッとかなくてよかった・・・

あおむけに達男は山の茂みの中にたおれ,オリュウノオバは達男の上に重なり,ふと達男が笑みを浮かべもしない真顔で自分を見ているのを知り,恐ろしくなった。達男がオリュウノオバの乳をまさぐり,丁度腹の下に巌のようにふくれ上った一物が当たったのに気づいて,オリュウノオバは自分から達男に触れたのを忘れたように身をふって金切り声をあげ,起き上ろうとして組み敷かれた。

十五の達男の流した汗が黄金の光りから鉛に変り,輝きがとれるたびに若い衆の刃鋼のような体が現われ,オリュウノオバは産んだわが子と道ならぬ事をやり, 畜生道に堕ちるように心の中で思う。 (中上健次『千年の愉楽』ーー中上健次と「父の名」


で、最初の問いに戻れば、どうして女のシニフィアンって抑圧されてんだろ?

フロイトの理論によると、両性の準拠となるシニフィアンは一つだけしかありません。ファルスがそうです。(ミレール、“El Piropo”)

ファルスのせいかね、ほんとに?

ラカンはファルスはおちんちんのことじゃない、としきりに強調してるが、
やっぱりファルスはおちんちんでもあるところがあるんじゃないかね、はあん?

…ファルスは、この徴の特権化されたシニフィアン signifiant privilégié である。このファルスにおいて、ロゴスの役割が欲望の出現 l'avènement du désir と結ばれる。

人は言うことができる、このシニフィアンは、 性交の現実界 le reel de la copulation sexuelle のなかで把握できるもののうちで最も目立ったもの le plus saillant として選ばれた、と。

同様に、用語の文字通りの(印刷技術上の typographique)意味において、最も象徴的なもの le plus symbolique として選ばれた、と言いうる。というのは、(論理的)繋辞 copule (logique) と等価であるためである。

また、その膨張性 turgidité によって、世代をわたって伝えられていく生命的な流れのイメージ l'image du Bux vital であると言いうる。(ラカン、ファルスの意味作用、E692)


ここには、ファルスの現実界・象徴界、・想像界〔イメージ)の定義が順にあるけれどさ

第一の《性交の現実界 le reel de la copulation sexuelle のなかで把握できるもののうちで最も目立ったもの》に注目してみれば、これは性交だけでなく、やっぱりファルスは目立ったものなんだな

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳)

やっぱり蝦蟇口はソーセージにくらべて目立たないんだよな


古代の彫刻みてもファルスつきの作品ばかりが目立つからな
ファリックマザーだってあるさ





古代から、われわれはオカアチャンのおちんちんを渇望してたんだよ
その結果じゃなくてなんだっていうんだ、ファリックマザーって?

子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910)

で、きみたち、ーーいささか話が飛ぶがーー
たいていは善人ぶってフェミニストであることを装っているきみたちは、
赤ちゃんががうまれたとき、
ーー最近では、胎児のときからエコーで判定するなどもあるがーー
おちんちんを目印にして、あら男の子! あら女の子! なんて判定するなよな
あれは、ファルスプラスとファルスマイナスの思考圏域に囚われの身
の人物がすることだぜ、別の目印探せよ

ようはそんな判定したら、ファルス規範の男根主義者だと認定するね、オレは




2016年5月9日月曜日

静止的視覚映像による遡及的なトラウマの構成

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収)

一見、奇妙な文かもしれない。なぜ震災のトラウマ経験が三割で七割は別のもの(井戸の底のような)があるのか。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

もうひとつ、中井久夫の文を掲げておく。

一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。(……)

しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 )

…………

以下のロレンツォ・キエーザによる文は、静止的視覚映像(スナップショット)による遡及的なトラウマの構成の説明がある。昨晩読んでいて、わたくしはようやく何かを真に掴みかけた(ラカン派観点からの、という意味だが)という心持に襲われた。すくなくとも、上に掲げた中井久夫の文を読み解く鍵にもなる文のはずだ。


◆ロレンツォ・キエーザ、2007(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007,PDF、P.149~)

幻想とともに、我々は何かの現前のなかにいる。記憶の流れ le cours de la mémoire をスナップショット l'état d'instantané に固定し還元する何かーースクリーンメモリー souvenir-écranと呼ばれるある点で止める何かの現前。

映画の動きを考えてみよう。素早く継起する動き、そして突然ある点で止まり、全登場人物が凍りつく。このスナップショットは、フルシーン scène pleine の還元の特色である…幻想のなかで不動にされているもの、そこには全てのエロス的機能が積み込まれたままだ…フルシーンが表現したものを含み、そして幻想が目撃し支えたもののが不動化されている…(Lacan,Le séminaire livre IV)
我々はいかにこの濃密な一節を解釈すべきだろう。実際のところ《還元された réduit 》幻想的なスナップショットから何を得るのか。ラカンの説明のなかでは暗示的なままになっている二つの直接的な核心をはっきりさせなければならない。

第一に、問題の映画は、我々すべてにとって、必然的に恐怖映画だということだ。

二番目に、我々はみな恐怖映画を観賞したい。最初は誰もがそれを好きでなくてさえ。率直に言えば、子どもが、トラウマ的内容に気づかないままで、偶然に観ている映画の衝撃シーンに凍りつくとき、ーー彼が最初に、不安を引きおこす「母の欲望」(母なる大他者の欲望 the desire-of-the- (m)Other )の現実界との耐がたい遭遇を組織したときーー、子どもはどちらの場合も、トラウマから保護してくれる静止画像を得る(場面の想像的な対象化を通して)。そして自ら部分的にトラウマ化される(想像的な対象化の底に横たわるリアルな場面を通して)。

言い換えれば、ラカンが「フルシーン」と呼ぶものを固定する「スクリーン/ヴェール」という緩和のおかげで、子どもは、彼が観たものを「楽しむ=享楽する」ことになる。そして、何度もくり返し観たくなる。親がフィルムを没収したら、子どもは類似の場面をほかのフィルムに再発見しようとする…(ラカンが言っていることを把握するために、怖がっている子どもが両手で目を覆い、同時に、指のあいだの隙間を通して覗き見しているやり方を思い起こそう)。

ここで強調されるべき最も重要な点は、トラウマ的シーンは、静止画像の想像的固着によってのみ、遡及的(事後的)に構成されうるということだ。「記憶の流れ」は、「スクリーンメモリー」によって提供された静止画像のおかげでのみ記憶化されうる。

最初は、「母の欲望」(母なる大他者の欲望)との純粋なカオス的遭遇があるだけである。それは、幼児には、主体的に経験されていない。厳密に言って、恐怖映画のリアルなシーンが、純粋なカオス的出来事以上の何かになるのは、想像的に凍りついた後のみだ。

これにつけ加え、リアルなシーン(の遡及的出現)は、次の両方だと見なされるべきだ。すなわち、一方で、欠如、つまり子どもがそれ自体として欲望する、喪われたカオス的出来事の残余として。他方で、正確な意味での欠如、つまり出来事の目撃、その《居残っている支え support restant》として。

ここには、ラカン後年の《原初とは最初を意味しない》(セミネール、「アンコール」)ーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》( séminaire ⅩⅩ)の説明もある。

かつまた、不快であるはずのトラウマ的静止映像がなぜ反復されるのかの説明もある(わたくしには、三歳と三十代に得た、長いあいだ悩まされたスクリーンショットが二つある)。

いや、「悩まされた」というよりも、上の説明にあるように、《怖がっている子どもが両手で目を覆い、同時に、指のあいだの隙間を通して覗き見しているやり方》をしていさえわたくしはいる。

たとえば、三十代に得たスクリーンショットは、阪神大震災にかかわるものだ。わたくしは被災者ではない。ただ被災現場に慌てて訪れなければならない理由があった(別れたばかりの前妻と娘が西宮に住んでいた)。そこで得た、「あなたのせいでこんな目にあったのよ」という顔の静止画像に、ある時期、ひどく悩まされた。

だが、今でも、大きな災害があるたびに、この静止画像と類似した画像を探しさえする、などということが起る。


上のロレンツォの文に戻れば、あの文には現実界がなぜ象徴界側にあるのかーー上の文では想像的なスクリーンメモリーだが、想像界は、つねにいつも象徴界によって構成されている、という意味では象徴界の静止映像と言ってよいーーの説明さえ読みとれる。

再掲しよう。

最初は、「母の欲望」(母なる大他者の欲望)との純粋なカオス的遭遇があるだけである。それは、幼児には、主体的に経験されていない。厳密に言って、恐怖映画のリアルなシーンが、純粋なカオス的出来事以上の何かになるのは、想像的に凍りついた後のみだ。(ロレンツォ・キエーザ、2007)

これは、ラカンの存在欠如 manque à être とは、言語の遡及的な rétroactif 効果 effet から生じる、という見解を日常的な経験の下で、よりよく理解させてくれる、《L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.》 (S.17)。

わたくしは、スクリーンショットがあって初めて純粋なカオス的不安が、《純粋なカオス的出来事以上の何かになる》という文を、原シニフィアンの介入があって初めて、原不安が、死の欲動になる、と読む。

原初にある人間の「本源的な欲動のアナーキー(l'anarchie de ses pulsions élémentaires)」(セミネールⅠ)とは、いまだ本来の欲動ではない。人間に「死の欲動」があるのは、最初のスクリーンメモリー、あるいは原シニフィアン(原言語)が事後的にそれを構成する、というふうにわたくしは読む。

本源的なアタッチメントは、身体の上に言語の痕跡を刻印することである。根本的出来事・情動の痕跡化の原理は、誘惑ではない。去勢の脅かしでもなく、愛の喪失でもない。両親の性交の目撃でもなく、エディプスでもない。そうではなく、言語との関係である。(……)

情動の痕跡を生みだす出来事の総合的定義は、フロイトがトラウマと呼んだものである。トラウマ化とは、それが快原理の失敗した効果によって生みだされる限りで、快原理の規範に従って消し去りえない要素である。すなわち、トラウマは、快原理の統制の失敗を引き起こす。情動の痕跡の根本的出来事は、次のようなものだ…それは、身体のなか、精神のなかに、興奮の過剰を持続させるもの・再吸収されえないもの。我々は、ここで、トラウマ的出来事の総合的定義を得る。それは、言存在 parlêtre のその後の人生において痕跡を残すものである。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event (Trans. B. Fulks).ーー人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないか?


現実界は象徴界の側にある、彼方にはない、というジジェクの主張もこられの説明からよりいっそう納得的に読むことができる。

象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立において、現実界 the Real は象徴界の側にある。それは、象徴界にまとわりつく--象徴界の非一貫性/裂け目/不可能性という装いにてしがみつく--現実 reality の部分である。現実界とは、象徴秩序と現実 reality とのあいだの外面的な対立が、象徴界自体に内在しているーー内部から手足を切断されつつ内在しているーーそのポイントにある。すなわち、象徴界の非全体 pas-tout である。ひとつの現実界 a Real があるのは、象徴界が外部の現実界 external Real を掴みえないからではない。そうでなく、象徴界が十全にはそれ自体になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で、ひびが入っているせいである。というのは、現実界 the Real とは形式化の行き詰まりだから。

この命題は、その十全な「観念論者」の重さを与えられねばならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かなので、どの形式化も現実 reality を掴むのに失敗し、現実の上でよろめくという《だけではない》。現実界 the Real とは、形式化の 行き詰まり以外の何ものでもない。濃密な現実 reality が「向こう out there」にあるのは、象徴秩序の非一貫性と裂け目のためである。現実界 the Real は、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。現実界は象徴秩序の外部にある例外ではないのだ。

現実 reality はそれ自体、不安定で非一貫的なものだ。したがって、現実は、それ自体を一貫的な領域へと安定化するために、主人のシニフィアンの介入が必要である。この主人のシニフィアンは、点(ポワン・ド、キャピトン)を徴づける。この点において、シニフィアンが現実界 the Real のなかに落ちる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


ジジェクによる、トラウマの遡及的 nachträglich 特性をめぐる叙述も附記しておこう。

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)