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2014年12月13日土曜日

哲学とメランコリー(ジジェク)

前投稿の前段に書いてあったものだが、二つに分け、別途、「哲学とメランコリー」と題した。同じくメモの範囲を出ない。

…………

言っておかなくてはならない最初のことは、哲学は私の最初の選択ではなかったことだ。クロード=レヴィ・ストロースの古いテーゼが断言しているのは、どの哲学者、どの理論家も、彼らが果たせなかった別の職業をもっているということだ。そしてその不首尾が彼らの全存在に徴づけられている。クロード=レヴィ・ストロースにとって、彼の最初の選択は、音楽家になることだった。これが、レヴィ・ストロースにあるような構成的なメランコリーの光沢をもたらす。私にとって、私の書き物から明らかなように、それはシネマだった。(『ジジェク自身によるジジェク』私意訳)

この文にはメランコリーという言葉がある。哲学者がメランコリックであるとは、どういうことか。

欲望の原因-対象がそもそもの初めから構成的な欠如として欠けている以上、メランコリーはこの欠如を喪失と解釈する。あたかも、欠如している対象が、一度は所有されていたがその後失われてしまったものであるかのように。ようするに、メランコリーのせいでわかりにくくなっているのは以下の点である。〔欲望の〕対象は最初から欠如していること、この対象の欠如がその現れであること、この対象は空虚あるいは欠如を実体化したものにほかならず、それ自体では実在しない純粋に歪像的な存在であるということ、以上である。もちろん、ここにはパラドックスがあって、欠如を喪失と読みかえる欺瞞により、そうした対象をかつては所有していたと主張できるようになる。一度も所有したことのないものは、失うこともありえない。だから、メランコリックな主体は、失われた対象にいつまでも固着しつつ、失われた〔喪失〕という状態でその対象を所有しているとも言えるのだ。(……)メランコリックな者は、ただ超感覚的な対象について瞑想に耽るのではなく、そうした対象をじかに抱きしめたいという煩悩を持つ。イデア的な象徴形式から成る超感覚的な領域へ接近する道は断たれていても、メランコリックな者は形而上学的な憧れを抱くのだ。つまり、時が経てば朽ち果ててしまう日常的な現実を超えた別の絶対的現実に恋い焦がれるのである。したがって、メランコリックな者がこの苦境から逃れ出る方法は一つしかない。日常的で官能的な物質的対象(たとえば愛しい女)を手に入れ、それを絶対的なものにまで高めるものである。こうしてメランコリックな主体は、憧れの対象を、肉体を持つ絶対者という矛盾したものへと高めるのだ。しかし、こうした対象はやがては腐ってしまうのだから、それが失われている、喪失されているという状態にあるときにのみ、それを永遠に所有できるようになる。(……)ようするに、メランコリーは、失われた対象への愛着であるのみならず、対象が最初に失われたこと〔起源における喪失〕それ自体への愛着でもあるということだ。

(……)メランコリー者は、失われた対象に固着し喪の作業を完遂できない主体であるばかりか、対象を欲望させる原因が消えて力をなくしたために、対象を所有していながらその対象への欲望を失ってしまった主体でもあるのだ。メランコリーは、挫かれた欲望、対象を奪われた(欲望されなくなった)対象それ自身の現前を表している。欲望された対象をついに手に入れたがその対象への欲望は失われている、そういうときにメランコリーは生じるのだ。まさしくこの意味で、メランコリー(欲望を満たすことができない対象、実定的で〔ポジティヴ〕で観察可能な対象すべてに対する失望)は事実上、哲学の始まりなのである。》(ジジェク「メランコリーと行為」鈴木英明訳――参照:かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思い

ジジェクは自己分析を滅多にしないーー《I never analyse myself I hate the very idea of analysing myself》(『ジジェク自身によるジジェク』)。だが上の二つの文を並べて読めば、下の文はジジェクの自己分析としても読めるということは言い得る。

ところで、ジジェクは二番目の妻と「友好的な離婚」をして、《fashion model Analia Hounie, daughter of an Argentine Lacanian psychoanalyst》、昨年、おそらく三度目の結婚をしている。


Žižka vzela Jela z Dela


少なくとも三番目の妻ーーひょっとしたら四番目か、などと書いてある記事もあるが詳細は不明。

Zizek’s status as an intellectual celebrity has given him at least three, possibly four beautiful wives, including an Argentine fashion model some 30 years his junior in 2009, and, most recently, in 2013, Slovenian journalist Jela Krecic, also a good 30 years younger and notable for her exclusive interview with Wikileaks titan Julian Assange, another leftist hero.(A Fetish For Zizek

もっともジジェクの女への(若い女性への)愛着が、《メランコリックな者がこの苦境から逃れ出る方法は一つしかない。日常的で官能的な物質的対象(たとえば愛しい女)を手に入れ、それを絶対的なものにまで高めるものである》かどうかは知るところではない。



鳥瞰の眼





「不動のトラッキング・ショット」という逆説。つまり、カメラが動かない。現実から〈現実界〉への移行は、異物が枠の中に闖入してくることによって達成される。たとえば『鳥』では、長い固定したショットの間にそうした移行が達成される。鳥に脅かされた小さな町で、ガソリンの上に落ちたタバコの吸いさしから火事になる。われわれをすぐさま事件へと引きつける一連の短い「ダイナミックな」クローズアップとミディアム・ショットの後で、カメラは後上方へと後退し、上空から町全体が写し出される。最初、われわれはこの俯瞰を「客観的」「叙事詩的」パノラマ・ショットと解釈する。このショットはわれわれを下の方で起きている事件から切り離し、解放してくれる、と。カメラが遠ざかることによって、われわれはいわば「安心」する。そのおかげでわれわれは事件を、いわば「メタ言語的な」距離から眺めることができるのだ。ところが、突然、一羽の鳥が右の方から画面に入ってくる。まるでカメラの後方から、ということはつまりわれわれ自身の背後から、入ってきたように見える。それによって、同じショットがまったく違った様相を見せるようになり、根源的な主観化を被る。高い視点のカメラの眼が、眼下の景色を俯瞰している中立的で「客観的な」観察者の眼であることをやめ、突然、獲物に向けて照準を合わせている主観的で脅威的な鳥たちの眼に変わるのである。(ジジェク『斜めから見る』「ヒッチコックにおける染み」p183)
 註)このシーンは、幻想的な効果を生んでいるが、同時に、主体はかならずしも幻想的な光景の観察者として登録されているわけではなく、観察される対象の一つになっていることもある、というテーゼを例証している。われわれの視点――カメラの視点――は鳥たちの視点であり、その獲物の視点ではないにもかかわらず、鳥たちの主観的な町の眺めは、われわれを脅かす効果をもたらす。なぜなら、われわれはその光景に、町の住民として登録されているからである。つまり、われわれは脅かされた住民たちに同一化するのである。

大切なのは、鳥瞰の眼などないことを知ることだ。さらに客観的=俯瞰的に語っているつもりの似非インテリたちのイカサマ俯瞰的視線を嘲弄してやることだ。その効果的な手法のひとつは、鳥たちがカメラの後方から入って来るようにして、彼らの、あたかも客観的なつもりの視点の土台を脇から揺らし崩すことだろう。

われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書

たとえば、〈わたくし〉が鳥たちの俯瞰の眼のたぐいの似非客観的な観点から、生意気な叙述をしたとする。だが、その眼がみつめる対象には、〈わたくし〉が書き込まれている。ラカンの〈対象a〉とは、究極的には、対象に〈わたくし〉が書き込まれているということに過ぎない。それはロラン・バルトのプンクトゥム概念も同じく、ーー《たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。》(バルト『明るい部屋』--ベルト付きの靴と首飾り)。

あなたは「当事者」の視点から逃れて客観的な立場で語っているつもりになる。だがそのとき対象にはあなただけの染み(対象a)がある。それは逆にいってもいい。あなたが「当事者」の立場でしかないというとき、あなたはメタレベルに立っている。

こういったことは本人は気づかないでいることがしばしばある。その「無意識」を指摘してやることだ。ヒッチコックの映画を観てもたらされる「不安」は、彼がその技法を自ずと身につけていたことにもあるのではないか。

ヒッチコックの『めまい』において、ジュディ=マデリンはそれと似たような変容を遂げる。「本来の場所」から引き離された瞬間、彼女はもはや〈物〉の場所を占めておらず、その魅惑的な美しさは消え、嫌らしいものに変わってしまう。要するに、ある対象の崇高な質は内在的なものではなく、それが幻想空間の中で占める位置に及ぼされる効果なのである。(ジジェク『斜めから見る』p160)

《ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起るのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。》(同『斜めから見る』p27)

フランスのTVではしばしばそうだったのですが、すなわち、精神分析家が参加しない討論はあり得なかったのです。そしてその精神分析家が常にとどめの言葉を述べ、度が過ぎた文句で討論が閉じられてしまう。そこでは精神分析家の見解に対してなんの反論もないままなのです。これは私のスタイルではありません。私はそのやり方を好みません。私が思うに、Deutung(解釈)はメディアの領域内において精神分析家の仕事です。ーーフロイトの愛すべき言葉のひとつがあります、何かを指摘しなさい、と。人びとは自身で答えを探さなければなりません。けれど、何かを解釈することは、その可能性を開きます。最近は、すべてが覆われ糊塗されています。これは愛すべきラカンの結論でもあります。ラカンは言いました、無意識はつねにーふたたび閉じられてしまう、と。われわれは、無意識を開いたままにするように努めなければなりません。須臾の間でも無意識は開いたままになれば、何かが起こり得ます、何かが動き得ます。これが解釈の機能でもあります。あなたの指先を何かに向けてみなさい。ときにそれは機能します。(PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE An Interview With Paul Verhaeghe2011 私訳)

中井久夫の「メタ私」概念は、フロイトの「無意識」よりも広範な氏独自の概念だが、次のように書いている。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)


…………






まず最初に『鳥』の一場面を取り上げよう。主人公の母が、鳥たちに荒らされた部屋を覗き込み、両眼をえぐられたパジャマ姿の死体を見る場面だ。カメラはまず死体全体を見せる。われわれはカメラが、魅惑的な細部、すなわち眼球をえぐりとられた血まみれの眼窩へとゆっくり接近していくのを期待する。ところがヒッチコックはわれわれの期待するプロセスをひっくり返すみせる。スローダウンの代わりにスピードアップしてみせるのだ。その各々がわれわれを主体へと接近させる二つの唐突なショットによって、彼はいきなり死体の頭部を見せる。この急速に接近するショットは価値転倒的な効果を生み出す。というのも、そのショットは、ぞっとするような対象をもっと近くで見たいというわれわれの欲望を満たしているにもかかわらず、われわれを欲求不満に陥らせる。対象に接近する時間が短すぎて、われわれは、対象の唐突な知覚を統合し、「消化」するための間、つまり「理解のための時間」を飛び越えてしまうのだ。

ふつうのトラッキング・ショットは、「正常な」速度を落とし、接近を引き延ばすことによって、対象=染みにある特定の重みをあたえる。ところがここでは、対象が「見失われる」。われわれがあまりに性急に、あまりに速く対象に接近してしまうからである。いうなれば、通常のトラッキング・ショットは強迫的であり、われわれをある細部へと無理やり固着させる。その細部はトラッキングの緩慢な速度のために染みとして機能せざるをえなくなる。一方、対象への性急な接近はヒステリー的な傾向を帯びており、われわれはあまりの速度によって対象を「見失う」。なぜならこの対象はすでにそれ自体が無であり空洞なのである。したがって、「あまりにも遅く」か「あまりにも速く」でないと呼び出すことができないのだ。なぜなら「適当な時間」をおいたとき、それは無でしかないのである。したがって、引き延ばしと性急さとは、欲望の対象=原因、<対象a>、純粋な見せかけの「空無性」を捉えるための二つの方式なのである。かくして、ヒッチコックにおける「染み」の対象的次元が明らかになる。すなわち、その染みがいかなる意味作用をになっているかということである。それは二重の意味を生み出し、映像のあらゆる要素に、解釈活動を開始させるような補足的な意味を付け加えるのである。

だからといって、染みのもう一つの側面を見落としてはならない。それは、象徴的現実があわわれるためには落ちなければならない、あるいは沈まなけらばならない、不活性で不明瞭な対象としての側面である。つまり、牧歌的な風景の中に染みを出現させるヒッチコック的なトラッキング・ショットは、いわば、「現実の領域は<対象a>の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず<対象a>が現実の領域を枠どっている」というラカンのテーゼを例証するために用いられているといってもいいかもしれない。(同『斜めから見る』p177-178)

2014年12月12日金曜日

理想の女

まず丹生谷貴志氏のツイートから始めよう。

@cbfn: ”文学嫌い”を標榜する者の或る類型「文学は空虚な夢物語の玩弄にすぎない」という言い草。間抜けな文学教育の裏返し、文学はあらゆる夢物語への否定であることを知らない連中の愚妹にすぎない。ネルヴァルの「夢の物語」すら本質にあるのは「現実という夢を現実だと思っている夢想家への憎悪」である
@cbfn: 誰もが知るように、「現実主義者」とは「現実は夢ではない」と思い込んでいる最悪の夢想家に過ぎない。実際かれらの大方は妙に夢見がちな目つきをしている。
@cbfn: 「芸術などなんの役にも立たない」という発話は論理の基礎からいって「芸術とよばれるもの」の存在を信じている人間によってのみ発話される。従って芸術を擁護するという無意味な動作を維持せねばならないなら、答えは簡単で、「芸術というものは存在する」と思い込んでいる者を笑うことである。

「文学は空虚な夢物語の玩弄にすぎない」--たとえばこの文を「文学は理想の女の玩弄にすぎない」と言い換えてみよう。ひとは実は「理想の女」を書きたいのではないか。これはなにも文学の話でなくてもよい。真の思想家は、たとえば「理想の民主主義」を書きたいのではないか、としてもよい。だが、書くことはそれを裏切ってしまう。もちろんそれは「理想」でなくてもよい。中上健次はその『枯木灘』で途中までは父を殺すつもりの「物語」を書いていただろう。だが殺せない。書いているうちにその「物語」を廃棄せざるをえなくなる。

確かなことは、根拠を放棄するという身振りを前提として『枯木灘』の筆が起こされたのではないという事実だろう。中上健次が物語から身を引き離すのは、書くという実践的な過程そのものを通してであり、いわばエクリチュールによる根拠の放棄がテクストとして生成されているという点に、この長篇の優位と困難とが認められるということなのだ。『枯木灘』の文章のある種の読みにくさは、その証言でしかない。つまり、勝算があっての上で物語の廃棄を試みているわけではなく、むしろ物語的な構造の安定性に進んで埋没するという誘惑をたえず実感しながら、おそらくは一字書き、一行書き綴るというほとんど肉体的な作業によって誘惑を回避するものであったに違いない事態の推移そのものが、この長篇の言葉にただならぬ震えや脈動を与えているのだと思う。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)

たまたまツイッターで拾ったのだが(すなわち出典不明)、蓮實重彦はこうも言っているようだ、「よく知っていると思い込んでいることにかぎって、誰もほとんど何も知らずにいることがしばしばある」「とりわけ複雑なものとも思えない問いではあるが、いったん律儀に答えを準備しようとすると、それがかえって問うことの根拠まで吟味させざるをえないことに誰もが当惑するしかない」

中上健次は、父への殺意をよく知っていると思い込んでいた。だが書き進めるうちに、その根拠を疑わざるを得なくなる。これがエクリチュールというものだ。物語を綴ることは決してエクリチュール(書くこと)ではない。それは綴り方にすぎない。

坂口安吾のエッセイを読んでいると、彼はそのことばかり言っているようにみえる。小説そのものは、彼の場合眼高手低気味で、その多くの小説がよくできたものであるとは言い難いと感じてしまうことがある。だが、ときに言葉は震え脈動を伝える。それが尊い。坂口安吾の書き物に、「なつかしい」という言葉がふと呟かれるとき、それが彼なりの「理想」であることは間違いない。

坂口安吾は、「文学のふるさと」で、シャルル・ペロオの童話「赤頭巾」をめぐってj書いているが、この「なつかしい」とは「アモラル」のことでもある。《愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。……まったくただそれだけの話》。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られたような空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。その余白の中にくりひろげられ、私の耳に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。(……)

そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。(坂口安吾『文学のふるさと』)

柄谷行人はこの文を引用して次のように書いている。

彼がいう「ふるさと」は、普通の意味でのふるさとではない。たとえば、小林秀雄が「故郷喪失」という場合の「故郷」ではない。それは、われわれをあたたかく包み込む同一性ではなく、われわれを突き放す「他なるもの」である。それは意味でもなく無意味でもなくて、非意味である。(柄谷行人『終焉をめぐって』P189)

非意味であるなら、ラカンの最も難解な論のひとつ『エトゥルディ』をめぐるバディウの言葉を引用することもできる(ジジェクにはかねてから「非意味」が頻出するがここでは割愛)。

フロイトはわれわれを ab-sens [非-意味]が性を指し示すということに同意させる。このsens-absexe のふくらみにおいて、語が決するところで一つのトポロジーが展開する。(Il n'y a pas de rapport sexuel ---Deux leçons sur <<L'Étourdit>> de Lacan  Fayard, 2010)

ここでバディウついでに、文脈からは外れるが、ジジェクが引用する次ぎの言葉を引用しておこう。

現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義であるというバディウの主張は、正しい。それは、資本主義的諸関係の急進−根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして「民主的な機構」を捉えることを意味している。(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳

ーー民主主義の理想を考えていったら、自ずとこのような結論になるということではないか。


さて、安吾の小説の「名品」から、「なつかしい」と書かれる文をひとつだけ抜き出しておこう。

私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。(坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」)

坂口安吾の1948(昭和23)年に書かれた「わが思想の息吹」にはこうある。

「青鬼の褌を洗う女」は昨年中の仕事のうちで、私の最も愛着を寄せる作品であるが、発表されたのが、週刊朝日二十五週年記念にあまれた「美と愛」という限定出版の豪華雑誌であったため、殆ど一般の目にふれなかったらしい。私の知友の中でも、これを読んだという人が殆どなかったので、淋しい思いをしたのであった。(……)

「青鬼の褌を洗う女」は、特別のモデルというようなものはない。書かれた事実を部分的に背負っている数人の男女はいるけれども、あの宿命を歩いている女は、あの作品の上にだけしか実在しない。

 このことは、私の自伝的な作品に就ても云えることで、たとえば「二十七」は河上徹太郎とか、中原中也とか、実在の人が登場するけれども、そして、あそこに描かれていることに偽りはないのであるが、然し、それゆえ、これを実話と見るのは間違っている。これは小説なのである。

 なぜなら、あれは、いわゆる私小説とは趣きを異にしている。私小説というものは、事実を主体とするものであるが、私の自伝的作品の場合は、一つの生き方によって歪められた角度から構成された「作品」であって、事実ということに主点がない。

 だから、何を書いたか、何を選びだして、作品を構成したか、ということに主点があり、これを逆にすると、何を選ばなかったか、何を書かなかったか、ということにも主点があるわけだ。

 然し、何を書かなかったか、ということは、私と、書かれた当人しか分らない。読者には分らないのである。私の作品に書かれた実在の人々の多くは、私にザンコクに露出せしめられたということより、あるいはむしろ、私に「いたわられている」という印象を受けはしないかと思う。

 その意味に於て、私の作品はアマイという批評も有りうると思うが、これが、また、問題のあるところで、作品人物をいたわっている、いたわるためにいたわるのではなくて、かくいたわること自体、いたわり方自体に、私の生き方がある、私の思想の地盤がある、そのことを先ず第一に気付き、考えていたゞかねばならぬ。


次ぎの文は、上に引用した蓮實重彦や丹生谷貴志の批評の言葉の内実、あるいは中上健次がやった「エクリチュール」の実践のあり方について、安吾らしいインティメートな言葉で書き綴っている。


◆ 理想の女(坂口安吾)より

 ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。

 誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。

 だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。

 誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。

 我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。

 ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。

 だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。

 私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。

 だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。
 単にわが人生を複写するのは綴方の領域にすぎぬ。そして大の男が綴方に没頭し、面白くもない綴方を、面白くない故に純粋だの、深遠だの、神聖だなどゝ途方もないことを言つてゐた。

 小説といふものは、わが理想を紙上にもとめる業くれで、理想とは、現実にみたされざるもの、即ち、未来に、人間をあらゆるその可能性の中に探し求め、つかみだしたいといふ意慾の果であり、個性的な思想に貫かれ、その思想は、常に書き、書きすることによつて、上昇しつゝあるものなのである。

 けれども、小説は思想そのものではない。思想家が、その思想の解説の方便に小説の形式を用ひるといふ便宜的なものではない。即ち、芸術といふものは、たしかに絶対なもので、小説の形式によつてしかわが思想を語り得ないといふ先天的な資質を必要とする。

 小説は、思想を語るものではあつても、思想そのものではなく、読物だ。即ち、小説といふものは、思想する人と、小説する戯作者と二人の合作になるもので、戯作の広さ深さ、戯作性の振幅によつて、思想自体が発育伸展する性質のものである。


理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人

「頭脳明晰な」経済学者の「放言」にて、小林秀雄=林房雄の《浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ》と引用した。あるいは、《発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人が現れる》とも引用した。

その例をあげようかと思って、思い留まったが、たとえば次ぎのようなことをいう連中は、ツイッターには山といる。

山崎 雅弘@mas__yamazaki: 「経済状況が芳しくないから10%への税率UPを延期する」ことの是非が争点のように報じられているが、「芳しくない経済状況」を招いた要因が円安誘導政策や8%への増税だとしたら、その政策をまず「失敗」と評価するのが先だろう。政府が失敗しても、失敗を「失敗」と評価されず責任も問われない。
大島堅一@kenichioshima: 消費税税率を絶対上げますというのが公約なわけですね。これには同意できないですね。社会保障充実や財政再建の解決策として、なぜ消費税増税だけが選択肢になるのだろう。他にもいろんな選択肢があるのに。朝日新聞なども含めて、そういう自己催眠に陥っているようです。

このツイート自体には、さほど文句をいうつもりはないが、この呟き前後を眺めても、彼らは財政逼迫や社会保障費などをめぐっては何も言ってはいない。もっとも彼らを「正しい心を抱いて邪な行為をする」(シェイクスピア=ジジェク)であると断言するのはやめておこう。だが、どこか肝心なところを外しているという錯覚にわたくしは閉じこもってしまう。

この二人の名は國分功一郎氏のリツイートによって知ったのだが、彼は最近用心深く、わたくしがざっと見渡した範囲では、次ぎの程度のことしか言っていない。これも「正論」である。そして《発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人》であるかどうかは知るところではない。


富んだ者たちを優遇する経済政策が採用され、貧しく弱い立場にいる人たちが公共の給付を受けることに社会は理解を示さない。(【総選挙2014】亡命はなぜ難しいのか?

このエッセイのテーマは「政治」への危機感を語っているので、文句をいうつもりもない。だが、経済への、あるいは財政への危機感は、いまだ思いの外欠けているようにわたくしは感じてしまう。

ところで、 柄谷行人やジジェクなどの見解では、政治の危機とは、経済の危機から生れると読みうる、→「ファシズム、ケインズ主義の回帰




「頭脳明晰な」経済学者の「放言」

小黒一正@DeficitGamble: 残念ながら、90%くらいの確率で日本財政は終わった気がする。いま直ぐに破綻はしないですが。(2014.12.12)

なんだ、早速、財政赤字総力戦撤退宣言か。昨日書いたばかりじゃないか→ 「財政赤字への総力戦(ゲッベルス待望論)

まあごく標準的な「頭脳明晰な」経済学者の頭では、こう呟くのもいたし方ないのだよな。

小黒一正の「放言」とでもいうべきか。

林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)

「俺の放言放言と言うが、みんな俺の言った通りになるじゃないか」と彼は言う。言った通りになった時には、彼が以前放言した事なぞ世人は忘れている。「馬鹿馬鹿しい、俺は黙る」と彼は言う。黙る事は難しい、発見が彼を前の方に押すから。又、そんな時には狙いでも付けた様に、発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人が現れる。林は益々頭の粗雑な男の様子をする始末になる。(同上)

続く→ 「理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人

2014年12月11日木曜日

財政赤字への総力戦(ゲッベルス待望論)

財政破綻を回避するために画策する「正義の味方」、一部の経済学者の過激な主張のホンネとしての施策はなにか。

2017年より毎年消費税を2%あげ、20~25%になるまで上げつつけよ!
それと同時に社会保障費を3割から5割カットせよ!
年金だと? 米国やイギリスを見よ、67~68歳からの支給としたではないか!
わが国は平均寿命がかの国よりも高いではないか!
オーストラリアを見よ、70歳からとしたではないか!
70歳から支給とするのが当然である!
われわれはすぐれた政治家の決断を待望する!
民主主義だと? シルバーデモクラシーの国、
若者の政治無関心の国においていまさらなにを言うつもりか
ファシストの決断者が必要である!


ーーというわけで、オレの偏った頭で理解したのはこういうことなんだな。オレに文句いうなよな


◆武藤敏郎(元日銀副総裁)

武藤 たとえば年金の支給開始年齢を69歳まで引き上げる。世界をみても2030年くらいに向けて67,68歳に上げていくという流れになっている。日本は高齢化のフロントランナーです。平均寿命も健康寿命も最も高い国の一つだ。

 政府は、受給開始年齢を2030年度までに順次65歳まで引き上げることを決めていますが、このペースを早めたうえで、2025年度以降、2年に1歳のペースで69歳まで引き上げるという案です。

 70歳以上の高齢者医療の自己負担は現在、政治的な配慮もあって1割になっていますが、これを75歳以上も含めて2割に上げたらどうかと考えた。さらに安価なジェネリック薬品の普及を一段と押しすすめる、などです。消費税も2020年代を通じて20%程度まで引き上げる。私たちはこれを「改革シナリオ」と呼んでいるのです。

 ところがこれでも国家財政の収支を計算してみると、財政のプライマリーバランス(基礎的収支)は均衡しない。年々の赤字は縮小するが、赤字は出続ける。債務残高の対GDP(国内総生産)比率は250%あたりのままほぼ横ばいになる。(2013年9月12日 「中福祉・中負担は幻想」 武藤敏郎氏

現在500兆円のGDPが仮に年率2%づつ上昇したとしよう。すると10年後には約600兆円となる(より正確には複利計算で620兆円ほど)。上に書かれてあるように、消費税20%、そして社会保障費大幅削減の改革をしても、《債務残高の対GDP(国内総生産)比率は250%あたりのまま》とある。これは武藤氏が取り仕切った大和総研のシミュレーションに詳しい→ 「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013)。

ところで、600兆円の250%の債務残高は、1500兆円である。国債の利子率は、現在、黒田日銀の異次元緩和によって、コンマ何パーセントかのひどく低い比率に抑えられているが、いずれ出口戦略の時期が来る。その後、経済成長率並の2%に利子率に徐々に上昇していくはずだ。あるいは日本国債の信用低下により、たとえばイタリア国債並の4%になったとしよう。

そのとき、1500兆円の金利払いは、2%の場合30兆円、4%の場合60兆円になってしまう。2013年度の税収総額(消費税8%込み)は約50兆円強と予想されている(バブル最盛期の税収は60兆円ほど)。債務利子率4%の場合、金利払いだけで、今年度の税収総額以上の額になってしまうことになる(参照:金利上昇がもたらす、悪夢のシナリオ 野口悠紀雄)。

※ここで念押ししておけば、巷間に流通する、経済成長により税収大幅増が見込めるという、たとえば「税収弾性値」を甘く見積もった計画は幻想である。→参照:「正しい心を抱いて邪な行為をする

◆小黒一正(元財務官僚)

小黒氏によると、OECD加盟国33カ国のうち、支給開始年齢(引き上げ予定を含む)が日本と同じ65歳の国は16カ国。日本よりも高い国は、67歳開始のアメリカ、ドイツ、68歳開始のイギリス、アイルランドなど13カ国。しかし、どの国の平均寿命も日本より短い。さらに、日本の高齢化は今後、加速度を増す。(公的年金:68歳支給&3割カットで最大4000万減

◆深尾光洋(日銀出身、元日本経済研究センター理事長)

日本の財政破綻のシナリオがイメージ……。概略、次のようなシナリオである。

(1)選挙民を恐れる政治家が増税を先延ばし続けて政府の累積赤字が拡大する。この結果、金利上昇による利払い負担増加のリスクが蓄積されていく。

(2) 日本の金融資産の大部分を保有する 50 歳以上の高齢者層も、 政府に対する信頼を徐々になくし、円から不動産、株式、外貨、金等に資金を移動し始める。

(3)長期国債価格が下落し、長期金利が上昇を始める。

(4)新規発行や借り換え国債の利払い負担増加に直面した政府が、発行国債の満期構成を短縮し、主に短期国債で赤字をファイナンスするようになる。日銀がゼロ金利政策を続けている間は、 政府の利払い負担は増加せず、 財政破綻を先延ばしできる。 しかし同時に、国債の満期構成の短期化は、将来の短期金利の上昇で、政府の利払いが急増するリスクを増大させる。

(5)政府の財政悪化に伴い、上記(2)の資金シフトが加速する。特に高齢化に伴う貯蓄率の低下や財政赤字の拡大によって経常収支が赤字化すると、大幅な円安になるリスクが高まる。実際に円安、株高が発生すれば、景気にはプラスとなりバブル的な景気回復を達成する可能性もある。そうなればインフレ率も上昇し始める。景気回復は税収を増大させ、財政赤字を減少させる。この時点で大幅な増税と赤字の削減が出来れば、財政破綻は避けられる可能性がある。

=>この場合、政府はタイミングの良い増税で健全化を達成できる。

しかし政府が増税に躊躇すると、以下のシナリオに突入する。

(6)日銀はインフレ率の上昇に対して金利引き上げによる金融引き締めを行うが、これで政府の利払いが爆発的に増大し、政府の信用が急激に低下する。

(7)政府が日銀の金融政策に介入して、低金利を強制したり、国債の買い取りを強制したりすれば、インフレがさらに加速し、国債価格は暴落する。

(8)金利の急激な上昇で長期国債を大量に保有する銀行が、巨額の損失を被り、政府に資金援助を要請する。

(9)政府が日銀に国債の低利引き受けを強制する場合には、政府は利払い増加による政府債務の急増を避けることが出来る。この場合は、敗戦直後のインフレ期と同様に、政府債務を大幅に引き下げることが可能で、政府は財政バランスの回復に成功する。しかし、所得分配の上では、預金や国債、生命保険、個人年金などの金融資産を保有する人々が、その実質価値の喪失で巨額の損失を被る。

=>この場合、政府はインフレタックスにより財政を健全化できる。しかし金融資産の実質価値の大幅低下により、生活資金に困る多数の人々を生み出す。(日本の財政破綻シナリオーー「日本の財政赤字の維持可能性」より 深尾光洋)

要するにヨーゼフ・ゲッベルスみたいな人材が必要なんじゃないかい? で無理にきまってんだから、だったら「究極の財政再建策ハイパー・インフレーション」ってことだよ

さあて、オレはもう「経済」の話はやめるぜ






◆”Slavoj Zizek and Glyn Daly”(邦訳名『ジジェク自身によるジジェク』)からだが、手元に訳本がないので、私訳。

……もっと一般的に言えば、すべての政治は、あるレベルの享楽の経済に頼っているし、さらにそれを巧みに操ることにある。私にとって、享楽の最もはっきりした例は、1943年のゲッペルスの演説である。――すなわちいわゆる総力戦Totalkrieg演説だ。スターリングラードでの敗北後、ゲッペルスは総力戦を求める演説をベルリンでやった。すなわち、通常の生活の残り物をすべて捨て去ろう!、全動員を導入しよう!、というものだ。そして、あなたはこの有名なシーンを知っているだろう、ゲッペルスは二万人のドイツ人群衆にレトリカルな問いかけをするあのシーンだ。彼は聴衆に問う、あなたがたはさらにもっと働きたいか、もし必要なら一日16時間から18時間?そして人びとは叫ぶ、「Ja!」。彼はあなたがたはすべての劇場と高級レストランを閉じたいか、と問う。人々は再び叫ぶ、「Ja!」

そして同様の問いーーそれらはすべて、快楽を放棄し、よりいっそうの困苦に耐えることをめぐっているーーが連続してなされたあと、彼は最後に殆どカント的な問いかけをする、カント的、すなわち表象不可能の崇高さを喚起するという意味だ。ゲッペルスは問う、「あなたがたは総力戦を欲するか? その戦争はあまりにも全体的なので、あなたがたは今、どのような戦争になるかと想像さえできないだろう、そんな戦争を?」 そして狂信的なエクスタシーの叫びが群衆から湧き起こる、「Ja!、 Ja!、 Ja!」ここには、政治的カテゴリーとしての純粋な享楽があると私は思う。完全にはっきりしている。まぎれもなく、人びとの顔に浮かんだ劇的な表情、それは、人びとにすべての通常の快楽を放棄することを要求するこの命令は、それ自体が享楽を提供しているのだ。これが享楽というものである。(ジジェク)

ゲッペルスでなくても、ハイデガー並の哲学者が出てきたらいいんだが、日本にはまったくいそうもないからな。

ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。 (「アドルフ・ヒットラ~と国家社会主義体制を支持する演説」1933年)

これは、深遠な形而上学がどのような政治とつながるかを端的に示している。ハイデッガーにとっては、指導者を「選ぶ」といった自由主義的原理そのものが否定されなければならないのであり、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにある。そのときのみ、「民族の全体」の「本来の在り様」としての真理があらわれる、というのである。表象representationとしての真理観を否定することは、議会(=代表制representation)を否定することに導かれる。(柄谷行人『終焉をめぐって』p167)



2014年12月10日水曜日

聞きたいことは信じやすいーー消費税増反対論者の話

《多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない》(ユリウス・カエサル)

聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(加藤周一)

…………

消費税増反対論者の三菱UFJリサーチ&コンサルティング経済・社会政策部主任研究員の片岡剛士氏インタビュー(2014.12.06)が比較的よく読まれているようだ。

ひと月ほどまえ、ネット上にある主要なエコノミストの財政にかかわる主張をいくらかまとめて読んだのだが、片岡氏による文献はほとんど読んでいない。というのは、以前パネル・ディスカッション「財政健全化の方向性」(小黒一正・片岡剛士・鈴木準)において、小黒一正氏に圧倒されている印象を受けたこともあるし、--たまたま準備不足だったのかもしれないがーー、そもそも彼の著作はいざ知らずネットではデータを提示することが少ないからということがある。

ただし、人びとは消費税反対論者の論なら、よく読むようで、片岡氏にはデータの裏づけつつ論じることが少なくーー繰り返せばネット上では、であるーーまた長期的視点がいささか欠けているように思えるにしろ、闇雲にアベノミクスを批判するのは間違っているという意味に捉えうる主張それ自体は、公衆啓蒙の言葉として敬すべきであるし、リフレ派の若手論客として捉えてよいのだろう。

さて、わたくしはにわか勉強をしただけなので、あまり口幅ったいことは言わず、ここでは彼のインタヴューからひとつだけ取り出してみよう。

「日本は消費税負担の低い国」の誤り

―― 「日本は先進国よりも消費税率が低い」という論調もよく見かけます。

それも正確ではありません。国の税収に占める消費税の割合は、すでに欧米諸国のそれと同じくらいなんですよ。

たしかに欧州の多くの国は、消費税率を20%以上に上げています。8%の消費税率で、なぜそんなことが起こってしまうのか。

それは、法人税や所得税がしっかりと取れていないからなんです。問題にすべきは法人税や所得税です。けれども悲しいことに日本では、欧州の20%超の消費税率に対して8%しかないので、まだ消費税で取れるはずだと言われているんですよ。それをすれば所得税や法人税の税収は縮まってしまうので、たしかに消費税の比重はぐんと上がります。でも全体の税収は低くなる。これは明らかに非効率です。

《「日本は消費税負担の低い国」の誤り》という小題はややミスリーディングを誘うのではないか。こういう小題は、公衆によって、これだけ取り出して語られやすい。その内実は、説明されているように、《国の税収に占める消費税の割合は、すでに欧米諸国のそれと同じくらい》ということなのであり、日本の国民負担率グロスはやはり、他国に比べ(アメリカを除き)とても低い。

ここで同じリフレ派である岩井克人の言葉を挿入しておこう。

・消費税問題は、日本経済の形を決めるビジョンの問題。北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か。英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずか。日本は岐路にある。

・日本のリベラルは増税と財政規模拡大に反対する。世界にない現象で不思議だ。高齢化という条件を選び取った財政拡大を。(「見えざる手(Invisible Hand)」と「消費税」(岩井克人))
「消費税は弱者に厳しい税だ」という声も多い。だが、消費額に応じて負担するという意味での公平性があり、富裕層も多い引退世代からも徴収するという意味で世代間の公平性もある。たしかに所得税は累進性をもつが、一方で、「トーゴーサン(10・5・3)」という言葉があるように、自営業者や農林水産業者などの所得の捕捉率が低いという問題も忘れてはいけない。

岩井克人は、消費税は公平性が高いとしており、それ以外にも超少子高齢化社会においては、高齢者からも税を徴収しないとやっていかないよ、というものだろう。片岡氏の見解は、消費税再増税を考えるための4つのポイント 片岡剛士 / 計量経済学片岡剛士」から、《消費税は低所得者に対して厳しい税である》である。すなわち所得税増などを重視する主張なのだろう(1000兆円を超す巨額赤字を抱えている国では、経済成長によってのみで財政赤字を減らすことは不可能という認識はもっているはずだから。巷間の安易な消費税増反対派のように、税収弾性値の過大評価などによって誤魔化すタイプではないはずだ→参照:「正しい心を抱いて邪な行為をする」)。

岩井克人によれば、アベノミクスの真の狙いは、《お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにある》としている。

山口 人為的に流通量を拡大してお金の価値を希薄化させる権限を、時の権力はあまり 行使すべきではない、と考えています。たとえば、貨幣のモラルという観点でも、お年寄り が大事に抱えてきた現金の価値を希薄化させることは問題がありそうで、非常に判断が難 しいとの思うのですが、その点はいかがでしょうか?

岩井 アベノミクスの真の狙いが、お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにあると いうのは正しい。そして、わたしはすでに年寄り世代ですが、それは望ましいことだと考え ています。 (お金とは実体が存在しない最も純粋な投機である ゲスト:岩井克人・東京大学名誉教授【前編】)

また元日銀副総裁の武藤敏郎氏ーー2度本命視されながら総裁になりそこなったーーが取り仕切る大和総研の膨大な「国家の大計」シミュレーションにはこうある。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013 より)

さて話を戻して、財務省の国民負担率の国際比較の資料にはこうある(平成26年度の推計であり、消費税8%での試算である)。

\\
平成26年度の国民負担率を公表します(財務省推計)

米国を除き、10~20%低い。ただし財政赤字負担率が高い。この負担率はひどく低い公債金利での負担であり、仮にインフレに応じて国債金利などが上昇してしまえば、たちまち財政はいっそうの苦境に陥ってしまう(参照:アベノミクスによる税収増と国債利払い増)。


所得・消費・資産等の税収構成比の国際比較(国税+地方税) 財務省

上の図は、2010年度のものであり、日本の2014年度推計は次ぎのようである。消費税比率は43.5%であり、確かに欧米諸国並である。


所得・消費・資産等の税収構成比の推移(国税) 財務省


何が低いのか。法人所得税ではなく、個人所得税比率や資産課税比率が低い。仮にグロスの税収を上げたいのなら、消費税だけでなく、所得税や資産課税比率をあげるべきなのだろう。そして誤解でなければ、わたくしは片岡剛士の見解から、彼は所得税増税派と読む。

財政破綻を避けるためには、消費税20~25%相当(それは繰り返せば、消費税でなくてもよい)を上げる必要があるというのは殆んど経済学者たちのコンセンサスであるはずであり(かつ社会保障費削減)、そのことについては片岡氏も了解しているはずだ(参照:日本の財政破綻シナリオ)。ただ、消費税増反対論者の話を、ひとびとはそのことをうっちゃり、ただ税は上げなくてもなんとかなると捉えがちであるようにみえる。またそのように受け取られてしまう言説なら、それをデマゴギーと言う。これは片岡氏への批判ではない。彼の見解を安易に捉えて、消費税増など必要ないさ、と嘯く巷のにわかインテリたちへの批判である。

人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ(……)。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』p563)
その数字の具体性をたやすく想像しえないものでありながら、それが数字として引用されているというだけの理由によって、読むものを納得させる力を持っている。納得といっても、人は数字の正しさを納得するものではなく、その数字を含んでいる物語の本当らしさに納得するのである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』p432)



「ささった槍は 今も揺れてる」--忘れえぬ女たち

辛樹芬(シン・シューフェン)ってのは、---(書くのをやめとこう)

あなたの口は「いや」という、あなたの声とあなたの眼は、もっと優しい一言を、もっと上手に語っている
Votre bouche dit non,votre voix et vos yeux disent un mot plus doux,et disent bien mieux(Andre Chenier)




女の眼の語ったことを、誰が忘れようか。シェイクスピヤもいったように、その眼のなかに全世界を読みとることさえあり得るからだ。(加藤周一『絵のなかの女たち』) 
They(Women's eyes)are the books,the arts,the academies.They show,contain,and nourish all the world.(Shakespeare”Love's Labour's Lost”『恋の骨折り損』)










それに、この侯孝賢「戀戀風塵」冒頭の汽車のシーンってのは、オレの高校時代の風景なんだな(辛樹芬もな)。


李佩軒(リー・ペイシュアン)のやややつれた感じもいいけどさ(ベトナムに最初に来たとき、夜はバーで毎日のようにビリヤードやっていたんだよな)。






まあ世界にはどこに行ってもいい女がいるけどさ。美男美女の国インドに旅行したら、ちょっと見には、ソルヴェーグ・ドマルタンのような女がうじゃうじゃいるぜ。






 ソルヴェーグ・ドマルタン (Solveig Dommartin)って、45歳で死んでいるのだな、彼女はもともとヴィム・ヴェンダースの『東京画』(1985年)の編集を担当したことをきっかけにヴェンダースに見出されたインテリなんだけれど、自殺ではなく「心臓発作」とされている。




「ベルリン・天使の詩」 わらべうた 原詞 ペーター・ハントケ


子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ 川は河になれ
水たまりは海になれ と思った

子供は子供だった頃
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり 魂はひとつと思った

子供は子供だった頃
なにも考えず 癖もなにもなく
あぐらをかいたり とびはねたり
小さな頭に 大きなつむじ
カメラを向けても 知らぬ顔

子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ 僕は僕で 君でない?
なぜ 僕はここにいて そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
 この世で生きるのは ただの夢
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻
悪があるって ほんと?
いったい どんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後
いったい僕は 何になる?

子供は子供だった頃
ほうれん草や豆やライスが苦手だった
カリフラワーも
今は平気で食べる
どんどん食べる

子供は子供だった頃
一度は他所(よそ)の家で目覚めた
今は いつもだ
昔は沢山の人が美しく見えた
今はそう見えたら僥倖
昔は はっきりと
天国が見えた
今はぼんやりと予感するだけ
昔は虚無におびえる

子供は子供だった頃
遊びに熱中した
あの熱中はは今は
自分の仕事に 追われる時だけ

子供は子供だった頃
リンゴとパンを 食べてればよかった
今だってそうだ

子供は子供だった頃
ブルーベリーが いっぱい降ってきた
今だってそう
胡桃を食べて 舌を荒らした
それも今も同じ
山に登る度に もっと高い山に憧れ
町に行く度に もっと大きな町に憧れた
今だってそうだ
木に登り サクランボを摘んで
得意になったのも 今も同じ
やたらと人見知りをした
今も人見知り
 初雪が待ち遠しかった
今だってそう

子供は子供だった頃
樹をめがけて 槍投げをした
ささった槍は 今も揺れてる



――と冒頭のとてつもなく美しい詩(Lied Vom Kindsein - Wings Of Desire 1987)を始めとして脚本を担当したペーター・ハントケは、ベルリンの壁崩壊後、その親セルビア態度などによりマスコミに集中砲火を浴び、ヴィム・ヴェンダースとも仲違いしていることはよく知られている。ヴェエンダースも東西対立時代のような名作をしだいに作れなくなってゆく、それは多くの作家たちと同じように。




人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。

私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女たちとも同じでないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』)





2014年12月9日火曜日

坂口安吾と童貞



ひどくいい女だ、川端康成が女優になるようにすすめたそうだが。「坂口安吾 無頼の先へ」にも、矢田津世子の画像がいくつか貼ってある。

ーーなどということは安吾ファンなら誰しも知っていることだろうが、このところ初めて安吾の書き物をいくらか集中的に読んでみた。もともとわたくしは多くの小説家の作品を読む習慣はなく、以前は、「堕落論「やら「教祖の文学」、「文学のふるさと」などのたぐいを数篇掠め読んだだけだった。

「情痴作家」と呼ばれた安吾は、27歳まで童貞だったらしい。

私は二十七まで童貞だった。 二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活したが、これからはもう散々で、円盤ややりや自動車の比ではない。窒息しなかったのが不思議至極で、思いだしても、心に暗幕がはられてしまう。(坂口安吾「てのひら自伝」 )
英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。(坂口安吾「二十七歳」)

坂口安吾(1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日))の27歳時というのは、1933年だが、七北数人の「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」に次のような指摘があるようだ。

坂口安吾と矢田津世子の最初の出会いは、普通1932(昭和7)年とし、その時期は夏とされますが、七北数人氏はさまざまな行動記録を積み上げ、次のように結論付けています。

 『つまり、二人の出逢いは十月半ば以降、翌年一月までの間ということになる。二人の間に交わされた膨大な量の書簡のうち、矢田が書き送った分は残っていないが、安吾の書簡も三三年一月二十三日が最も古く、三二年の分が一通もなかったこと、安吾の自伝的小説においても三二年にどんな付き合い方をしていたのか判然としなかったことなどの謎もこれで解ける。書簡が失われたのではなく、出逢っていなかったのである。

 一月二十三日の書簡では、二十日頃に矢田、加藤、大岡と飲んだ後の顛末などが記され、「そのうち、おたづねいたしたいと思つてゐます。中門の犬には要心して」などとある。文面から、この時点ではまだ矢田家を訪ねたことがなかったように感じられる。署名もこの一通は「坂口安吾」とフルネームだが、その後は年賀状以外すべて「安吾」のみであることも、第一信ならではの感がある。毎年出された年賀状も矢田家にはすべて捨てられずに残されていたので、三三年の年賀状がないことから推して、出逢ったのは十二月末頃から一月中旬にかけてと考えられる。』

とはいえ、二人のあいだには「肉体の交渉」はなかった、と安吾は書いている。

始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。

そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。

その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。(坂口安吾「二十七歳」)

安吾の小説は、惚れた女がひどく性的に放縦であったという話が多い。そして、それにもかかわらず男はいっそう惚れ続ける。ただし最初に真に惚れた矢田津世子が性的放縦であっただろうと言いたいわけではない。とはいえ、彼女に男がいることを知って《地獄へつき落された》とはある。

ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。(同上)

ところで、大岡昇平は《矢田はまあきれいな女だが、当時いわば札付きの女流作家だった》などと書いているようだ。

大岡昇平は京都時代に坂口安吾との恋愛騒動で有名になった矢田津世子に合っています。京都帝国大学卒業後に東京の「ウインゾア」で会う以前です。 「…矢田はまあきれいな女だが、当時いわば札付きの女流作家だった。加藤や僕が彼女と京都で知り合ったのはこの一年ばかり前である。都ホテルの前のアリゾナというバーのマダムを通してである。マダムは当時阪神地方にいた谷崎潤一郎や片岡鉄兵を知ってる文学マダムだったが(ベッドの下に皮の鞭を持っていた)矢田津世子が遊びに来ることがあった。(大岡昇平の京都を歩く

「札付きの女流作家」とは、《東京で有名な文壇ゴロと情事を持ち、作家として売り出そうとしているため「トイフェル(悪魔)」と仇名されている》ということらしい(参照:坂口安吾の謎)。

しかし、「まあきれいな女」だと? ーーもっとも大岡昇平の奥さんは美貌だったには違いないし、趣味が違ったんだろうけれど。





矢田津世子よ。あなたはウヌボレの強い女であった。あなたは私を天才であるかのようなことを言いつゞけた。そのくせ、あなたは、あなたの意地わるい目は、最も世俗的なところから、私を卑しめ、蔑んでいた。(坂口安吾「三十歳 」)

冒頭に掲げた写真はいくらか修正が入っているのかもしれない。同じものだろうが、次の手まで写った画像を眺めると、「悪女」の気配がないではない。アア、オレモコンナ女ニ騙サレタカッタ




私はあの人をこの世で最も不潔な魂の、不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。

そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な一人の女を空想しようと考える。すると、それも、いつしか矢田津世子になっている。気違いめいたこの相剋は、平凡な日常生活の思わぬところへ別の形で現れてもいた。(同上)

…………


安吾の書き物を読むと、菱山修三や中原中也、小林秀雄、三好達治の名などが頻出して、それがとても感慨深いのだがーーやはり中也の話がいちばんオモシロイ。

中原中也は、十七の娘が好きであつたが、娘の方は私が好きであつたから中也はかねて恨みを結んでゐて、ある晩のこと、彼は隣席の私に向つて、やいヘゲモニー、と叫んで立上つて、突然殴りかゝつたけれども、四尺七寸ぐらゐの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一米ぐらゐ離れたところで盛にフットワークよろしく左右のストレートをくりだし、時にスウィングやアッパーカットを閃かしてゐる。私が大笑ひしたのは申すまでもない。五分ぐらゐ一人で格闘して中也は狐につまゝれたやうに椅子に腰かける。どうだ、一緒に飲まないか、こつちへ来ないか、私が誘ふと、貴様はドイツのヘゲモニーだ、貴様は偉え、と言ひながら割りこんできて、それから繁々往来する親友になつたが、その後は十七の娘については彼はもう一切われ関せずといふ顔をした。それほど惚れてはゐなかつたので、ほんとは私と友達になりたがつてゐたのだ。そして中也はそれから後はよく別れた女房と一緒に酒をのみにきたが、この女が又日本無類の怖るべき女であつた。(坂口安吾「酒のあとさき」)
そのころのことで変に鮮明に覚えてゐるのは、中原中也と吉原のバーで飲んで、――それがその頃であるのは私は一時女遊びに遠ざかつてゐたからで、中也とのんで吉原へ行くと、ヘヘン(彼は先づかういふセキバライをしておもむろに嘲笑にかゝるのである)ジョルヂュ・サンドにふられて戻つてきたか、と言つた。銀座でしたゝかよつぱらつて吉原へきて時間があるのでバーでのむと、こゝの女給の一人と私が忽ち意気投合した。中也は口惜しがつて一枚づゝ、洋服、ズボン、シャツ、みんなぬぎ、サルマタ一枚になつて、ねてしまつた。彼は酔つ払ふと、ハダカになつて寝てしまふ悪癖があるが、このときは心中大いに面白くないから更にふてくされて、のびたので、だらしないこと甚しく、椅子からズリ落ちて大きな口をアングリあけて土間の上へ大の字にノビてしまつた。女と私は看板後あひゞきの約束を結び、ともかく中也だけは吉原へ送りこんでこなければならぬ段となつたが、ノビてしまふと容易なことでは目を覚さず、もとより洋服をきせうる段ではない。仕方がないから裸の中也の手をひッぱつて外へでると、歩きながらも八分は居眠り、八十の老爺のやうに腰をまげて、頭をたれ、がくん〳〵うなづきながら、よろ〳〵ふら〳〵、私に手をひつぱられてついてくる。うしろから女給が洋服をもつてきてくれる。裸で道中なるものかといふ鉄則を破つて目出たく妓楼へ押しこむことができたが、三軒ぐらゐ門前払ひをくはされるうちに、やうやく中也もいくらか正気づいて、泊めてもらふことができた。そのとき入口をあがりこんだ中也が急に大きな声で、
「ヤヨ、女はをらぬか、女は」 と叫んで、
キョロ〳〵すると、
「何を言つてるのさ。この酔つ払ひ」 
娼妓が腹立たしげに突きとばしたので、中也はよろけて、ひつくりかへつてしまつた。それを眺めて、私達は戻つたのである。(坂口安吾「二十七歳」)

安吾の作品を集中的に読んだといっても、旅行中の空き時間に「青空文庫」にある440冊の作品を、ときには読み飛ばしての、ーーときに屋台で買ったマサラ・ドーサをほおばりつつのーー三文の一ほどでしかないのだが、さて家に帰ってきても、さらに読みすすめるかどうかは、これはわからない。




これからしばしmasala dosaを食すたびに、矢田津世子の顔を思い出すのではないか。幸か不幸か、当地にも、モスクのそばにインド人がやっているマサラ・ドーサの美味な店がある。




昭和十六年の六月一日であったと思う。もう当時は酒が簡単に手にはいらなくて、私が途中にガランドウをわずらわして一升運んでもらった。この一升がきてから後は、論戦の渦まき起り、とうとう三好達治が、バカア、お前なんかに詩が分るかア、と云って、ポロポロ泣きだして怒ってしまった。萩原朔太郎について小林秀雄と大戦乱を起したのである。(坂口安吾「釣り師の心境 」)

小林秀雄は、人を泣かせる名人だったのは有名である。

その酒を飲みながら、先生一流の講評というか、いじめというかが始まる。居並ぶ編集者たちを端から一人ずつ名指しで批評してゆくのである。ちょっと癇にさわる返答でもしようものなら大変だった。文字通り泣くまで攻める。日本語の全く通じないGIまで泣かせたという伝説のある小林秀雄である。しかも素面の時は秀才の如く、酔えば無頼漢の如し、と云われたのが、充分に酒が入っている。常人の太刀打ちできる相手ではない。四十面下げたベテラン編集者が、おいおいと声をあげて泣く始末だった。

冷静に聞いていると、かなり怪しげな論理のこともある。いつでも先生の方が正しいわけでもない。そのくせ必ず泣かすのである。心理的に巧緻な攻撃法だった。正しく名人芸と云ってよい。(隆慶一郎『編集者の頃』
大岡 あのころ、あんたは柳田国男を泣かせたり、よく年寄りをいじめたときだったけれど。

小林 それは絶対デマだよ、そんなことは絶対にない。

大岡 だって、俺にそう言ったじゃない。岩波文庫でフレイザーの「金枝篇」が出たころ、お前、なんだ、「金枝篇」を読んだらまるで骨格が違うじゃないか、と言ったら、柳田さんはなにも返事をしなかったが、ぽろっと涙を一つこぼしたって、言ってたよ。

小林 思い出さないね。君がおぼえているならしようがねえや。それはまあ、俺が言ったから涙をこぼしたわけじゃないよ。(小林秀雄と大岡昇平の対談「文学の四十年」)

もっともその小林秀雄自身、青山二郎には泣かされている。

私を除いて酔って来た。Y 先生が X 先生にからみ出した。

「お前さんには才能がないね」

「えっ」

と X 先生はどきっとしたような声を出した。先生は十何年来、日本の批評の最高の道を歩いたといわれている人である。その人に「才能がない」というのを聞いて、私もびっくりしてしまった。

「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ。 (Y 先生は比喩で語るのが好きである)そおら、釣るぞ。どうだ、この手を見てろ。 (先生は身振りを始めた)ほおら、だんだん魚が上って来るぞ。どうじゃ、頭が見えたろう。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

しかし Y 先生は自分の比喩にそれほど自信がないらしく、ちょろちょろ眼を動かして、X先生の顔を窺いながら、身振りを進めている。

「遺憾ながら才能がない。だから糸が切れるんだよ」

X 先生がおとなしく聞いてるところを見ると、矢は当ったらしい。Y 先生は調子づいた。 「いいかあ、こら、みんな、見てろ。魚が上るぞ。象かも知れないぞ。大きな象か、小さな象か。水中に棲息すべきではない象、象が上って来るかも知れんぞ。ほら、鼻が見えたろ。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

「ひでえことをいうなよ。才能があるかないか知らないが、高い宿賃出してモツァルト書きに、伊東くんだりまで来てるんだよ」

「へっ、宿賃がなんだい。糸が切れちゃ元も子もねえさ。ぷつっ」

こうなると Y 先生は手がつけられない。私も昔は随分泣かされたものである。

私はいいが、驚いたことに、暗い蝋燭で照らされた X 先生の頬は、涙だか洟だか知らないが、濡れているようであった。私はますます驚いた。(大岡昇平「再会」より(青山二郎(Y 先生)の小林秀雄(X 先生))




とはいえ、安吾の書き物に文学者の名が出てくるところだけオモシロイわけではない。やっぱり「女」の話がオモシロイ。

私ははじめお寺の境内の堂守みたいな六十ぐらいの婆さんが独りで住んでいる家へ間借りする筈であった。伊勢甚のオカミサンがそうきめてくれたのである。ところが私が本屋のオヤジにつれられて伊勢甚へ行くと、

「六十の婆サンでも、女は女だから、男女二人だけで一ツ家に住むのは後々が面倒になります。別に探しますから、今夜はウチへ泊って下さい」

と云った。このオカミサンは四十四五であったが、旅館へ縁づいて、そこで色々と泊り客の男女関係を見学して、悟りをひらいていたのである。この旅館は主として阪東三十三ヶ所お大師詣での団体を扱うのであるが、この団体は六十ぐらいの婆サンが主で、導師につれられて、旅館で酒宴をひらいてランチキ騒ぎをやるのである。私が、この町を去って後、この団体のランチキ騒ぎの最中に、二階がぬけて墜落し、何人かの即死者がでたような出来事があった。ずいぶん頑堅らしい田舎づくりの建物であったが、よくまア二階がぬけ落ちたものだ、と私は不思議な思いであった。建物によることでもあるが、あの団体のドンチャン騒ぎというものは、中学生の団体旅行などの比ではない。本当のバカ騒ぎでありアゲクが色々なことゝなる。伊勢甚のオカミサンが六十の婆サンを警戒したのは、営業上の悟りからきたところで、私の品性を疑ったワケではなかったらしい。けれども、いきなりこう言われると、人間はひがむものである。(坂口安吾「釣り師の心境」)



2014年12月8日月曜日

究極の財政再建策ハイパー・インフレーション

まず、世界恐慌からいち早く立ち直ったのはナチスだった!~『ヒトラーの経済政策』武田 知弘著(評者:栗原 裕一郎)より

第一次大戦に敗戦したドイツはベルサイユ条約により植民地全部と領土の一部を取り上げられたうえ、1320億マルク(330億ドル)の賠償金を請求された。ドイツの当時の歳入20年分くらいの額であり、毎年の支払いは歳入の2分の1から3分の1に及んだ。

 そんなもの払えるわけがない。札をガンガン刷ったドイツは、1922年から1923年にかけてハイパーインフレーションに見舞われてしまうことになる。どのくらいハイパーだったかというと、0.2〜0.3マルクだった新聞が1923年11月には80億マルクに暴騰する勢いだったそうである(村瀬興雄『ナチズム』中公新書)。

 ハイパーインフレによってもっとも打撃を受けたのは中産階級や労働者、農民だった。一方で、外貨でドイツの資産を買ったりしてボロ儲けする者もいたのだが、そのなかにはユダヤ人実業家が少なからず含まれていた。その怨みもユダヤ人迫害の一因となる。

というわけだが、100円の缶コーヒーが、いくらになるんだろ? ……ゼロ発作だね。

総裁は、国債買い入れを中心とした大規模な金融緩和の継続がハイパーインフレを招く可能性があるとの指摘に対し、「ハイパーインフレになるとは思わない」と断言。日銀の金融政策運営は「あくまで金融政策の目的に沿って行われている」とし、「当然、2%を実現した後にどんどん物価が上がることを認めるつもりはない。(ハイパーインフレは)適切な金融政策で十分に防止できる」と強調した。

そのうえで、日銀が掲げる2%の物価安定目標を実現すれば「出口を模索することは、当たり前」と指摘。もっとも、現在の日本経済は2%の物価安定目標の実現に向けて道筋を順調にたどっているが「途半ば」とし、「出口議論は時期尚早」と繰り返した。(ハイパーインフレにはならない、金融政策で防止可能=黒田日銀総裁2014年 10月 16日

並みいる経済学者の心配をよそに、黒田さんはハイパーインフレなんて杞憂だってさ。ワカランネ

仮にハイパーインフレが起こっても、10倍程度で収まるんじゃないかね、つまり缶コーヒーが1000円ぐらいで。というのは世界資本主義の現在、海外からの投資が増えるだろうから。日本円の貨幣価値が10分の1になるということは、外貨の価値が10倍になるわけで、中国や韓国などから、たとえば土地の買い叩きがあるだろうから。財政崩壊時はレイシズムなんていってられなくて、自然に反韓・反中なんてのは消滅するかもな。

金持ちの1億円の貯蓄が実質1千万円になれば、格差是正にもなるし、貯蓄ゼロの人間はたいして困りゃしないさ。むしろ元気な若者は、農村への買い出しなどしてボロ儲けできるかもしれないし(ただし念のため1000ドルぐらいタンス預金しておいたほうがいいかもな、タンスだぜ、銀行封鎖があるから)。

20XX年1月10日(金)。午前6時に人形町のワンルームマンションを出て、徒歩で丸の内に向かう。出社前に近くのスターバックスに寄り、3800円のカフェモカを飲むのが私のささやかな贅沢だ。紙の新聞はずいぶん前になくなってしまったので、iPad5を開いてニュースをチェックする。(……)

ハイパーインフレが富裕層の顔ぶれを一転させた。

コーヒーを飲み終えると、東京駅前のハイアールビルにある会社に向かう。金融危機前は丸ビルの愛称で知られていたが、いまや覚えているひとはほとんどいない。それ以外にも、サムソンプラザやタタ・ヴィレッジなど、東京都心の不動産はほとんどが外国企業に買収されてしまった。(橘玲「20XX年ニッポンの国債暴落」ーーアベノミクスの博打

ーーせいぜいこの程度じゃないか。

「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会』では、すなわち、いつ財政破綻してもおかしくない状況でまた回避できようもないのだから、そんな「悠長な」ことはやめて「その後」を考えようというエライ経済学者たちによる研究会では、財政破綻の影響についての次のような指摘がある。

・意外に悪影響の少ない劇薬?
・長期的視点でみれば、単なる一時的落ち込み
・ 政治的影響も小さい
・(ハイパー)インフレのメリット – 最終局面を除き、低失業率の実現
・国民の広い範囲にインフレ利得者が存在
・日本への教訓 – ハイパーインフレ恐るるに足らず?
・むしろ究極の財政再建策として検討すべき?

ひょっとして移民も100~200万単位で増えていき、人口問題も解決とかさ。

財政が崩壊したら、《公共サービスも年金給付も生活保護も止まり、餓死する人が出るだろう》(飛行機と猫と劇薬)であるなら、高齢化比率も是正されるし、いくらなんでも餓死するのは困るというなら、外国人養子制度などを急遽取り入れて、彼らに住居提供のかわりに養ってもらって生きのびるなんてのも流行るかもな。そうしたら、これまた移民がふえ、いっそう超少子高齢化問題の解決になる(公務員の数だって、劇的に減るだろうしな)。

たぶん、消費税反対、社会保障の一層の充実(弱者救済、格差是正)をあいかわらず叫んでいるヤツラの深謀遠慮はここにあるんじゃないか。とすればなかなか捨てたもんじゃないよ、橋下さんの考え方よりいっそう起死回生的だぜ。

橋下徹 @t_ishin
弱者救済、格差是正を叫ぶ連中は、それで自分の人の良さ、優しさを訴えたいのだろうか。政治は厳しい現実に対応しなければならない。なぜ教育が必要なのか。自立型の国民を多くし、弱者を支える側の国民を増やさなければならない。優しい顔をするだけでは国は持たない。

というわけで、弱者救済、格差是正を叫ぶ「優しい人」たち、バンザ~イ! きみたちの真意を誤解していたよ。じつは一石五鳥ぐらいの策士たちだったんだな。


◆岩井克人『貨幣論』1993より

ここで、なんらかの理由でひとびとが過剰な流動性をきらって、保有している貨幣の量を減らそうとして状況を想定してみよう。もちろん、そのためには、どれかの商品の市場においてその商品の買いを増してみるか、どれかの商品の市場においてその商品の売りを減らしてみなければならない。いずれのばあいも、商品全体にたいする総需要が総供給にくらべて増大してしまう。ここに、全般的な需要過剰によるインフレ的熱狂の可能性がうまれることになる。

そして、じっさいに総需要が総供給を上回ってしまうと、その可能性が現実化する。保蔵から解きはなたれた貨幣が商品を追いかけまわす、いわゆるカネあまりの状態となる。世にある大部分の商品の買い手は、本人たちの意図とは無関係に、まさに構造的に買うことの困難をおぼえることになるのである。この機会をとらえて、今度は、売ることの困難から解放された大部分の商品の売り手たちは、きそって価格を引き上げはじめるだろう。貨幣経済は、物価や貨幣賃金が「連続的にかつ無際限に」上昇していくヴィクセルの「不均衡累積過程」に突入することになるのである。しかも、貨幣賃金の切り下げにはげしく抵抗する労働者も、貨幣賃金の引き上げにたいしてはけっして抵抗しない「論理性」をもっているはずである。戦時下経済のような価格や賃金の直接的統制でもないかぎり、インフレ的熱狂というかたちの不均衡累積過程の上方への展開をさまたげてくれる「外部」は、資本主義社会の内部にそなわっていない。総需要が総供給を上回っているかぎり、インフレ的熱狂はつづいていく。

その後の展開にはふたつのシナリオがある。

たとえひとびとがインフレ的熱狂に浮かされていたとしても、それが一時的なものでしかないという予想が支配しているならば、その予想によってインフレーションはじっさいに安定化する傾向をもつことになる。なぜならば、そのときひとびとは将来になれば相対的に安くなった価格で望みの商品を手にいれることができることから、いま現在は不要不急の支出を手控えて、資金をなるべく貨幣のかたちでもっているようにするはずだからである。とうぜんのことながら、このような流動性選択の増大は、その裏返しとして商品全体にたいする需要を抑制し、進行中のインフレーションを鎮静化する効果をもつことになるだろう。物価や賃金の上昇率がそれほど高いものでないかぎり、ひとびとはこのようなインフレーションの進行を「好況」としておおいに歓迎するはずである。じっさい、すくなくともしばらくのあいだは、消費も投資も活発になり、生産は増大し、雇用は拡大し、利潤率も上昇する。

しかしながら、ひとびとが逆に、進行中のインフレーションがたんに一時的ではなく、将来ますます加速化していくにちがいないと予想しはじめたとき、ひとつの転機(Krise)がおとずれることになる。

貨幣の購買価値がインフレーションの加速化によって急激に低下していってしまうということは、支出の時期を遅らせれば遅らせるほど商品を手に入れるのが難しくなることを意味し、ひとびとは手元の貨幣をなるべき早く使いきってしまおうと努めることになるはずである。とうぜんのことながら、このような流動性選好の縮小は、その裏返しとして今ここでの商品全体への総需要を刺激し、進行中のインフレーションをさらに加速化してしまうことになる。もはやインフレーションはとまらない。

インフレーションの加速化の予想がひとびとの流動性選好を縮小させ、流動性選好の縮小がじっさいにインフレーションをさらに加速化してしまうという悪循環――「貨幣からの遁走(flight from money)とでもいうべきこの悪循環こそ、ハイパー・インフレーションとよばれる事態にほかならない。ここに、恐慌(Krise)とインフレ的熱狂(Manie)とのあいだの対称性、いや売ることの困難と買うことの困難とのあいだの表面的な対称性がうち破られることになる。買うことの困難が、売ることの困難のたんなる裏返しにとどまらない困難、恐慌という意味での危機(Krise)以上の「危機(Krise)」へ変貌をとげてしまうのである。

1923年10月30日のニューヨーク・タイムスにAP発の次のような記事がのっていた。

《通貨に書かれたあまりに法外な数字がひとびとのあいだにひきおこした一種の神経症にたいして、当地ドイツの医師たちが考案した名前は「ゼロ発作」あるいは「数字発作」というものであった。何兆という数字を数え上げるために必要な労力にすっかり打ちひしがれ、多数の男女が階級をとわずこの「発作」におそわれたことが報告されている。これらの人々は、ゼロ数字を何行も何行も書き続けていたいという衝動にとらわれているということ以外には、明らかに正常な人間なのである。》(J.K.Galbraith,money 1975から引用)

ハイパー・インフレーションの代表的な事例として数多くの研究の対象となってきたのが、第一次大戦後のドイツの経験である。第一次大戦の開始直後の1914年から持続した上昇をつづけていたドイツの国内物価は、1922年の6月あたりから急速に加速化しはじめ、7月から1923年11月までの16ヶ月間の上昇率は月平均(年平均ではなく!)322パーセントにたっすることになった。とくに9月、10月、11月の最後の3ヶ月間は月平均(年平均ではなく!)1400パーセントもの上昇率を記録することになり、インフレーションが最終的に終息した1923年11月27日の物価の水準は、1913年の水準にくらべて1,382,000,000,000倍にも膨れ上がってしまったのである。まさに「ゼロ発作」をひきおこしかねない数字である。そして、そのあいだにひとびとの流動性選好は急速な収縮をみせ、一単位の貨幣が一定の期間に平均何回取り引きに使われているかをあらわす貨幣の流通速度は1913年にくらべて18倍もの増大をしめすことになった。

このドイツの経験のほかにも、古くは独立戦争直後のアメリカやフランス革命下のフランスにおけるハイパー・インフレーションの事例が有名であり、今世紀にはいってからは、社会主義革命直後のロシア、第一次世界大戦後のオーストリア、ハンガリー、ポーランド、第二次大戦後のギリシャ、ハンガリー、共産党政権化確立前の中国、1980年代の中南米諸国、さらには社会主義体制崩壊後の東ヨーロッパ諸国や旧ソヴィエト連邦諸国などがはげしいハイパー・インフレーションにみまわれている。(岩井克人『貨幣論』 ちくま学芸文庫 p202-206)

※参照:資料:「財政破綻」、 「ハイパーインフレ」関連


このドイツのハイパー・インフレーション時期に、ドイツ留学した人びと、たとえばハイデガーに師事した九鬼周造などはさぞかし裕福な生活を送ったのではないか(日本円の外貨価値の高騰のため)。そもそも当時のドイツの思想家や詩人たちの研究に、このハイパー・インフレーションの影響がほとんど言及されていないのは残念である。



2014年12月7日日曜日

ファシズム、ケインズ主義の回帰

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収)
われわれは忘れるべきではない、二十世紀の最初の半分は“代替する近代”概念に完全にフィットする二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわちファシズムとコミュニズムである。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、“偶発的な”ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から三十年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク『LESS THAN NOTHIN』2012 私訳)

ーーとあるように世界資本主義が危機に陥ったとき、ファシズム、コミュニズム、そしてケインズ主義がかつて起こった。

ここで、現在、西欧の先進諸国や日本でネオナチが猖獗しつつあるのは、ひょっとして世界資本主義の危機のせいではないか、と問いを発してみることもできる。そして黒田日銀の異次元金融緩和などのアベノミクスは復活したケインズ主義ではないか、と。

「どのような利子率であれ、それが永続きしそうだと十分に強い確信をもって受け入れられるならば、現に永続きする」のである。

 ケインズの洞察によれば、人々の生活態度には確固とした知識の裏付けなどない。「大衆が利子率の緩やかな変化に対してかなり急速に馴染んでいくことはあり得る」。そう考えれば、「少しは気も楽になろう」と言い切っている。

 『一般理論』は不況と失業という難病に取り組むための、知的な実験だった。黒田日銀の異次元緩和はデフレという難病の解消を目指すものだ。両者の発想と行動が似ていたとしても不思議はない。知の武器庫を活用するときだ。(大機小機)ケインズの洞察と黒田日銀 2013/5/29)

このように思いのほか、われわれの社会に起こる現象は、「経済」の影響の下にある。そして世界資本主義の危機などといわないまでも、日本の財政はとんでもない「危険水域」に突入しつつあることは間違いない。

「白川方明前日銀総裁が以前の講演で、財政悪化したときの回復方法について言及していた。増税と歳出削減による財政再建か、調整インフレ、デフォルトの3つしかないという。調整インフレやデフォルトを避けようとすれば、財政再建の道筋しかないのだが、働いても給与の手取りが増えず、社会保障サービスも低下するというきつい状態だ。こうなると人やマネーは日本から出て行ってしまうのではないか」(インタビュー:「危ない橋」渡る日銀、円の信認喪失も=上野泰也氏 | Reuters)

白川方明前日銀総裁の見解として、《増税と歳出削減による財政再建か、調整インフレ、デフォルトの3つしかない》とある。

これはジャック・アタリの『国家債務危機』の変奏としてよいだろう。アタリは、国家債務の解決策は8つ存在するとしている、《増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、デフォルト》。

8つのうちの選択肢のなかに「戦争」とある。安倍政権の戦争への傾斜とも見られるものが、資本主義の危機のせいだとは断言しまい。だが次のように引用することはできる。

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人[反原発デモが日本を変える])
……基軸商品の交替という観点から見ると、この次に、今までのようなヘゲモニー国家が生まれることはありそうもない。それよりも、資本主義経済そのものが終わってしまう可能性がある。中国やインドの農村人口の比率が日本並みになったら、資本主義は終る。もちろん、自動的に終るのではない。その前に、資本も国家も何としてでも存続しようとするだろう。つまり、世界戦争の危機がある。(柄谷行人「第四回長池講義 要綱 歴史と反復」
「現在は平時か。僕は戦時だと思っています。あなたが平時だと思うなら、反論してください。でないと議論はかみあわない」

安倍晋三政権が集団的自衛権の行使に向け、憲法解釈を変えようとしている。なりふりかまわぬ手法をどう見るか、そう尋ねた後だった。

 「十年一日のようにマスメディアも同じような記事を書いている。大した危機意識はないはずですよ。見ている限りね」(【時流自流】作家・辺見庸さん ファシズムの国2013.09.08

 ジャック・アタリに戻れば、彼の『国家債務危機』の「第5 債務危機の歴史から学ぶ12の教訓」には次のようにある。

1 公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである
2 公的債務は、経済成長に役立つことも、鈍化させることもある
3 市場は、主権者が公的債務のために発展させた金融手段を用いて、主権者に襲いかかる
4 貯蓄投資バランスと財政収支・貿易サービス収支は、密接に結びついている
5 主権者が、税収の伸び率よりも支出を増加させる傾向を是正しないかぎり、主権債務の増加は不可避となる
6 国内貯蓄によってまかなわれている公的債務であれば、耐え得る
7 債権者が債務者を支援しないと、債務者は債権者を支援しない
8 公的債務危機が切迫すると、政府は救いがたい楽観主義者となり、切り抜けることは可能だと考える
9 主権債務危機が勃発するのは、杓子定規な債務比率を超えた時よりも、市場の信頼が失われる時である
10 主権債務の解消には八つもの戦略があるが、常に採用される戦略はインフレである
11 過剰債務に陥った国のほとんどは、最終的にデフォルトする
12 責任感ある主権者であれば、経常費を借入によってまかなってはならない。また投資は、自らの返済能力の範囲に制限しなければならない

ここでしばしば議論に上がる《6 国内貯蓄によってまかなわれている公的債務であれば、耐え得る》については、小黒一正氏の2010916日に書かれた記事「「政府の借金は内国債だから問題ない」は本当か?」に簡明な分析がある。そして最後にこう書かれることになる。

国債発行は世代間格差を引き起こし、将来世代に過重な負担を押し付ける。したがって、「政府の借金の多くは内国債だから問題がない」というのは、間違いである。

すなわち、ジャック・アタリの《1 公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである》に関わってくる。池尾和人氏も、2011年の段階で次のように発言している。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

 われわれがこの数十年来ーー超少子高齢化社会になることが周知になったあともーー、《負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきた》ということになる。


「正しい心を抱いて邪な行為をする」(シェイクスピア=ジジェク)

2008年リーマンショックの米国議会の対応をめぐって、ジジェクは次ぎのように書いている。

緊急援助に反対する共和党のポピュリストが正しい理由から誤ったことthe wrong thing for the right reasonsをしている一方で、緊急援助 の発案者は誤った理由から正しいことthe right thing for the wrong reasonsをしているのだ。もっと凝った用語を使えば、これは非推移的なnon-transitiveな関係なのである。すなわちウォールストリートに善いことは一般の人びとに善い必要はないが、一般の人びとは、ウォールストリートが病気になったら、栄えることはできない。そしてこの非対称性はアプリオリにウォールストリートを有利な立場に置く。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

ここにある「正しい理由から誤ったことをする/誤った理由から正しいことをする」は、シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』における「邪な心を抱いて正しい行為をする/正しい心を抱いて邪な行為をする」のヴァリエーションだろう。

……シェイクスピアは『終わりよければすべてよし』において、真理と嘘の絡み合いに対する驚くべき洞察力を見せている。バートラム伯爵は王の命令で、平民の医者の娘へレナと結婚しなければならなくなるが、同居も床入りも拒み、「先祖代々伝わる指輪を私の指から奪い、私の子どもを宿したら」、彼女の夫になってもよい、と告げる。きっとそれは無理だろう、とバートラムは考えたのである。一方でバートラムは、若くて美しい娘ダイアナを誘惑しようとしている。ヘレナとダイアナはひそかに、バートラムを正式な妻のもとに帰するための策略を練る。ダイアナはバートラムと一夜をともにする約束をし、夜中に自分の寝室に来るようにと告げる。暗闇で、二人は指輪を交換し、愛を交わす。しかし、バートラムは知らなかったのだが、彼が一夜をともにした女性はダイアナではなく妻のヘレナだった。後にヘレナと対面したバートラムは、彼女が結婚の条件を二つとも満たしたことを認めざるをえない。ヘレナは彼の指輪を手に入れ、彼の子どもを宿したのだ。では、この寝室のトリックをどう位置づけたらいいのだろうか。第三幕の最後に、ヘレナ自身が素晴らしい定義を与えている。

今宵、計画通りにやってみましょう。うまくいけば、
先方は邪な心を抱いて正しい行為をするわけだし、
こちらは正しい心を抱いて邪な行為をするわけでしょ。
どちらも罪ではないけれど、罪深い行為にはちがいない。
とにかく、やってみましょう。〔第三幕第七場〕

Why then to-night
Let us assay our plot; which, if it speed,
Is wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act,
Where both not sin, and yet a sinful fact:
But let’s about it.

ここにあるのは、実際には「邪な心による正しい行為」(結婚の成就、すなわち夫が妻と寝ること以上に正しいことがあろうか。だがそれにもかかわらず、バートラムはダイアナと寝ていると思っているのだから、心は邪だ)と、「正しい心による邪な行為」(夫が寝るのだから、ヘレナの意図は正しい。だが彼女は夫を騙し、そのために夫は妻を裏切るつもりで彼女をベッドに連れ込むのだから、その行為は邪だ)である。彼らの情事は「罪ではないけれど、罪深い行為にはちがいない」。実際には夫と妻が寝るだけのことだから、罪ではない。だが、双方とも相手を騙しているのだから、罪深い行為である。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

冒頭の文のあと、ジジェクはトリクルダウンをめぐって書いている。

思い出してみよう、平等主義者の再分配(高度な累進課税制など)に反対する標準的なトリクルダウンtrickle-downの議論を。……この態度は、単にアンチ干渉主義者のものであるどころか、実のところ、経済の国家干渉のまさに正確な把握をあらわしている。われわれは皆、貧しい者がより豊かになって欲しいにもかかわらず、彼らを直接に助けるのは逆効果なのである。というのは、彼らは、社会において精力的で生産的な構成分子ではないから。唯一必要な干渉の種類は、金持ちがより裕福になることを手助けすることである。そうすれば利益は自動的に、貧しい者たちのあいだに広がっていく……(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

ここでのジジェクの論理によれば、トリクルダウン反対者は、「正しい心を抱いて邪な行為」を主張していることになる。すなわち弱者、あるいは一般的な人びとの救済は正しい心である。だが、彼らは「社会において精力的で生産的な構成分子」ではない。とすれば効率的な資金分配の方法ではなく、結果として経済成長を減退させ、弱者を一層苦しめることになる(邪な行為となる)。

この論理(トリクルダウンの論理)によれば、これが正真正銘の繁栄を生み出す唯一の方法なのである。さもなければ、国家が支給する資金はただ、真の富の創造者を犠牲にして困窮者に与えられる事例となる。したがって、財政投機から、現実の人びとの必要性を満足させる製造業の“真の経済”への復帰の必要性を伝道するものは、資本主義の肝心の的を外している。自己推進的なそして自己増殖的な金融の循環のみが、資本主義のリアルな特質なのであり、生産の現実が資本主義の本質ではないのだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

ジジェクは、このように書きつつ、資本主義のシステムは、富者擁護が避けがたく、だから新しいコミュニズムを考えなければならないという論理が展開されていくのだが、ここではそれには多く触れることはしない。

ポピュリストのスローガン、“メインストリート(一般の人びと)を救え、ウォールストリートではなく!”は……まったく本質を捉えていない。それは最も純粋なレベルのイデオロギーの形式である。それは見過している事実は、メインストリートを資本主義の下に維持しているのはウォールストリートであるということだ!  ウォールを取り崩してみよ、メインストリートはパニックとインフレで溢れかえるだろう。ギ・ソルマン、――現代の資本主義の典型的なイデオロギストの一人――が次ぎのように主張するとき実に正しいのである。「“ヴァーチャル経済”と、“真のreal経済”を区別する理論的根拠はない。最初に資金を調達することをしないでは、どんな“真real”も生み出されない……金融危機のときでさえ、あたらしい金融市場の世界的な(福祉)利益は、その費用を上回る。」(同上)

もっとも、トリクルダウンについては、貧富の差が極端な米国、あるいは企業の内部留保が多額でかつ企業家精神を失った日本のような国では、そのメカニズムは働かないという見解もあるだろう。

トリクルダウン(trickle down)は浸透を意味する英語。トリクルダウン理論とは「富裕者がさらに富裕になると、経済活動が活発化することで低所得の貧困者にも富が浸透し、利益が再分配される」と主張する経済理論。

この理論は開発途上国が経済発展する過程では効果があっても、先進国では中間層を中心とした一般大衆の消費による経済市場規模が大きいので、経済成長にはさほど有効ではなく、むしろ社会格差の拡大を招くだけという批判的見方もある。(野村證券「証券用語解説集」
結局、いわゆる晩期資本主義では、過剰なマネーからバブルが生まれてははじける、その繰り返しになっちゃうんだよね。古典的には、実需に見合った生産拡大があって、雇用が増加し賃金が上がる、その循環で景気が回復するはずだった。ところがいまは、バブルの儲けが上から下にしたたり落ちる(トリクルダウン)のを期待するばかり。当然ながら、それは空しい期待なんだよ。(浅田彰 憂国呆談

だが、現在日本で議論されているのは、ほとんど彌縫策ばかりであるというのは間違いない。

……資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰 シンポジウム『倫理21』と『可能なるコミュニズム』2000.11.27)

また消費税反対というのは、「正しい心を抱いて邪な行為をする」ーー弱者擁護の立場を取りつつ、それは財政赤字をいっそう促進し、将来的には弱者をいっそう苦しめる(財政破綻によって)でないかどうかは念入りに疑ったほうがよい。

次ぎの記事はそのことの懸念が要領を得てまとめてある。

消費増税延期と財政(中) 党利党略優先、再建遅れも 国枝繁樹 一橋大学准教授 :日本経済新聞2014/12/5
いくらか抜きだしておこう。

 米ハーバード大学のアルベルト・アレシナ教授らは「消耗戦モデル」によって改革の遅れを説明した。各政党は現状のままでは危機を迎えることを理解しながら、支持者の負担増を伴う改革を自ら打ち出せば政党として大きな打撃を受けるため、お互いに我慢比べをする。危機が深刻化し改革先送りのコストが非常に高くなって、やっと改革が実現するというものである。
……既に首相は増税先送りを決め、衆院を解散した。今後、財政の信認維持にはどうすべきか。第一に再設定した消費増税を二度と先送りしないことである。いわゆる景気条項を付さないとした決定は正しいと考えられる。

 第二に、与党税制協議会は17年度からの軽減税率導入を目指すとしたが、導入には多くの経済学者が反対している。低所得者対策は高額所得者にも恩恵が及ぶ軽減税率よりも直接の低所得者支援のほうが有効である。複数の税率により事務的にも煩雑になり業界の利害による政治介入の余地も大きくなる。課税ベースの縮小で税収確保には、より高い税率が必要になる。

 第三に、10%に消費税率を引き上げても、基礎的収支の赤字は解消しない。首相は来年夏までに黒字実現への具体的計画を策定するとしたが、楽観的な経済見通しや内閣府の研究会で既に否定された過大な税収弾性値に基づく甘い計画では信頼されない。

 現実には今回の増税先送りの結果、より迅速な再増税や歳出削減が必要になってくる。信認確保には、慎重な見通しを前提とし、10%を超える税率引き上げのスケジュールや将来の公的年金の支給開始年齢の引き上げを含む大胆な社会保障改革を明示した財政再建計画が不可欠である。

 楽観的な見通しの弊害を防ぐため、他の先進国では政治から独立して専門家が財政見通しを立てる独立機関の設置例が増えている。我が国でも同様の機関の設置を検討すべきである。世代会計に基づき将来世代の負担を示すことも重要である。なお、慎重な前提を置くことは経済成長の重要性を否定するものではない。積極的に成長戦略を推進する一方で、その成果を過大視しないということである。

 財政危機のリスクは高血圧のリスクに似ている。普段は自覚症状はないが、脳卒中その他の死につながる病の確率を高める。医師は即時の高血圧の治療開始を強く勧めるが、自覚症状がないからと治療を先送りする患者もいる。しかし、脳卒中で倒れてから後悔しても、もう遅い。財政再建も同様である。財政の信認が失われないよう、慎重な経済見通しに基づいた確実な財政再建計画を早急に提示することが強く求められる。

〈ポイント〉 ○延期で財政安定に一段の収支改善が必要 ○目先の痛み避ける政策運営が復活の恐れ ○税率10%超の日程や大胆な社保改革示せ


上の文にある《税収弾性値に基づく甘い計画》は消費税反対論者によって、しばしば提出される。

「増税や歳出削減に反対する人たちが、根拠を探して高い税収弾性値を持ち出す」(大和総研 鈴木準主席研究員
小黒一正 @DeficitGamble

最近、某氏に「長期の税収弾性値=1」である説明を簡単にしたが、意味が分からなかったらしい。資産課税等を除き、長期で税収弾性値が1よりも大きければ、時間が十分経過すると、税収はGDPを超えるのですが。