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2017年4月28日金曜日

秋の日の傾きかける海べり

…愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。

愛される女がしばしば次のような風景と結びついているのもそのためである。…たとえばアルベルチーヌは、《浜辺と砕ける波》を含み、まぜ合わせ、化合させる enveloppe, incorpore, amalgame 。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』ーー男女の愛:「名前をつけて保存と上書き保存」

次の文に蚊居肢散人のアルベルチーヌがいるのさ
《浜辺と砕ける波》ではなくて
《秋の日の傾きかける海べり》に

ある日、海岸へ散歩に行くと、砂浜の手前の空地で、喚声がきこえ、近づいて見ると、十人あまりの若い男女があつまって野球をやっていた。いや、若いといったが、彼等の年恰好も身分も職業も僕には分からなかった。わかるのは、彼等が何の屈託もなしにボール遊びをやっているということだけだ。なかで一人、派手な横縞のセーターを着た女の動きが目についた。内野か外野か、とにかく彼女は野手なのだが、球が上るたびに、両手を拡げて誰よりも早くその落下点に駆けて行く。

「オーライ、オーライ」

喚声のなかから、彼女の声だけが際立って高くきこえた。秋の日の傾きかける海べりで、そんな光景を眺めながら僕は、なにか現実の中で夢を見ている心持だった。――これがあの長い間、待ちつづけてきた“平和”というものなのだろうか。それともやっぱり、おれは幻影を見ているだけなのだろうか。(安岡章太郎『僕の昭和史Ⅱ』)

やたらに派手な女ってのは、趣味じゃないんだけど
それに活発すぎるってのもね、たいして好みじゃないな




馬乗りされるのは嫌いじゃないさ、
でも上下運動だけじゃなくって横降りってのか回転運動なしじゃ
色気もへったくれもないよ
趣味じゃないね
どっちかというと情緒派なんだよ

肌身とはぴつたり合つて、女の乳房わが胸にむず痒く、開中は既に火の如くなればどうにも我慢できねど、こゝもう一としきり辛棒すれば女よがり死するも知れずと思ふにぞ、息を殺し、片唾を呑みつゝ心を他に転じて、今はの際にもう一倍よいが上にもよがらせ、おのれも静に往生せんと、両手にて肩の下より女の身ぐツと一息にすくひ上げ、膝の上なる居茶臼にして、下からぐひぐひと突き上げながら、片手の指は例の急所攻め、尻をかゝえる片手の指女が肛門に当て、尻へと廻るぬめりを以て動すたびたび徐々(そろそろ)とくぢつてやれば、女は息引取るやうな声して泣きぢやくり、いきますいきます、いきますからアレどうぞどうぞと哀訴するは、前後三個処の攻道具、その一ツだけでも勘弁してくれといふ心歟欺。髪はばらばらになつて身をもだゆるよがり方、こなたも度を失ひ、仰向の茶臼になれば、女は上よりのしかゝつて、続けさまにアレアレ又いくまたいくと二番つゞきの淫水どツと浴びせかけられ、此だけよがらせて遣ればもう思残りなしと、静に気をやりたり。(永井荷風「「四畳半襖の下張」)

こうじゃなくっちゃな
笑いながらよがられてもね




でも人は《われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛する》のさ
そしてあとあと次のように思うことだってありうるわけだな

「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために」(プルースト「スワンの恋」)

やあまいったね

いずれにせよさっきの一文だけで
安岡章太郎はプンクトゥム作家だね

じつは「秋の日の傾きかける海べり」ってのは嘘なんだよ
4月の桂川の河川敷だから「春の日の傾きかける川べり」なんだな、
あの女にイカレチマッタのは。
夕方マンションの敷地内で散歩してると
土手向こう側で喚声があがったわけさ
《喚声のなかから、彼女の声だけが際立って高くきこえた》
どんな女だろうって飛んで見に行ったね




人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。(加藤周一『絵のなかの女たち』)



男女の愛:「名前をつけて保存と上書き保存」

いやあ、コメントをもらっているが、わたくしも詳しくは分からない。前回記したミレール=ラカンの愛の定義は「理想論」であり、種々の劣化ヴァリエーションがあるはずだから。

再掲しよう。

◆On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。

…………

われわれの日常では、巷間で流通している名言「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」がある程度の真理をついているのではないか。

この名言を裏付けるラカン派の二つの文を掲げよう。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ、1998、Love in a Time of Loneliness)
……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(……)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

なぜこういったことが起こるのかといえば、ここでは簡略に記すが(例外はもちろんある)、フロイト・ラカン派では次のように言われることが多い。

①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。

②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。

③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。つまり少女は少年に比べて、対象への愛ではなく愛の関係性がより重要視される傾向をもつようになる。

より詳しくは、「古い悪党フロイトの女性論」を参照。

…………

そもそも愛がどういうものなんてのは、わかるわけがないので、注釈者たちは、目安を言っているにすぎない、と捉えたほうがいいんじゃないか。

以下のドゥルーズ=プルーストは、理想論と現実論の中間か、ややミレールよりの観点で、わたくしは最近はこういったほうを珍重気味である(男としてのわたくしは、としておこう)。

友情は、観察と会話とで育って行くことができるが、愛は、沈黙した解釈から生まれてそれを養分とする。愛される者は、ひとつのシーニュとして、《魂》として現われる。そのひとは、われわれにとっては未知の、ひとつの可能な世界 un monde possible inconnu を表現する。愛される者は、解読すべきひとつの世界、つまり解釈すべきひとつの世界を含み、包み、とりこにしている implique, enveloppe, emprisonne。(…)

…愛するということは、愛される者の中に包まれたままになっているこの未知の世界を展開し、発展させようとすることである。われわれの《世界》に属していない女たち、われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛するようになるのはこのためである。

愛される女がしばしば次のような風景と結びついているのもそのためである。…たとえばアルベルチーヌは、《浜辺と砕ける波》を含み、まぜ合わせ、化合させる enveloppe, incorpore, amalgame 。

もはやわれわれが見ている風景ではなく、逆に、その中でわれわれが見られているような風景に、どのようにして到達できるだろうか。《もしも彼女が私を見たとして、私は彼女に何を示すことができたのか。どのような世界の内部から、彼女は私は見わけるのか。》(プルースト)

ーードゥルーズ『プルーストとシーニュ』

《われわれのタイプにさえ属していない女たちを容易に愛する》んだな、どうしてかわからなかったけど、しみじみとした実感はかつてからあるね・・・

「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために」(プルースト「スワンの恋」)


2017年4月27日木曜日

ほらほら、主語せよ あなたたち

《ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る》

ほらほら、主語せよ あなたたち
ぼってり濡れた言葉で
腰の奥から迸る言葉でね
ほらほら、客語で語ってばかりいないで
囁き声だっていいの

暁方ミセイのパクリだが、ミセイの詩は、蚊居肢散人をこのように責める。彼女は実に美しい詩人だよ。わたくしはネット上から拾い読みするだけだが。


彼女は濡れている
「緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘」(レミ・ベロー)
ひとはミセイにはまらなければならない
「丘のうなじがまるで光つたやうではないか
灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに」(大岡信)
いま稀有の「蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる」
エロスを紡ぎ出す詩人だよ

駐アカシック、ニュー稲荷前トゥーム(暁方ミセイ)


ひとつ確かなのは、ヒトがいたことだ、早春の
薮には見えないものがいっぱい
右から左へ走っては、どうっと鳴らす
ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る

蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、
五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、
影絵のように映し出されて薄青色のお天気の下、
杭や小川や台車や納屋は、ますます黄色く、野暮たくぬくめ

死んだからといって、レコーディングされるのだ
取り消せない時間と出来事の、苛烈と絶対
新しく生まれる者をかなしむことはないよ
何千年も先まで連なるものを、いつかはみんな、わたしと呼ぶだろう

ひとつ確かなのは、ヒトがいたことだ、早春の
海にもおかにも、ここからずっと遠くまで、きらめくもの
形成し続けるもの
ほらほら、主語せよ、木の芽吹く花鬼宿る

不安がもだえそうに淡い炎がゆだっている
道端の青い小さな花を煮る六月十日は、
(ひそひそと話をしている)
(柑子の木のあたり、雨に濡れそぼって、ふたりで、小声で)
(おおそのうえ古語で、)
(聞き取れない話をしている。雨の庭の古い濡れた柑子の木のあたりで)
((ちがうよ、あれは鳩だよ))
(人の様な、くぐもってずっと話している。何十羽もいる。)
何十羽も鳩がいる。茂みのなかで鳴いている。
遠く潰れた緑のうえに、
誰かの面影が、こんもりと盛られて、動かないでいる。
今は時々きらっと反射して、
もうすぐ隠れて
見えなくなる。(暁方ミセイ「極楽寺、カスタネアの芳香来る」より)

いやあほんとにプンクトゥムだな

プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなしみ petite tache、小さな裂け目 petite coupure のことでもありーーしかもまた、骰子の一振り coup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
--既存訳からだが、「小さな斑点」とあったものを「小さなしみ」とした。他も一部変更。

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

もちろんロラン・バルトのいうように、ミセイの詩は蚊居肢散人にとってだけのプンクトゥムでありうる。

……自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だった。 il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait).(プルースト『ソドムとゴモラ Ⅱ「』心情の間歇」ーー友情=ストゥディウム/愛=プンクトゥム

◆On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010
我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。

2017年4月26日水曜日

プンクトゥム=テュケー

バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、オートマンとテュケーへの応答である。

Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché( jacques-alain miller 2011,L'être et l'un)

上のように、ミレールは最近になってようやくバルトのストゥディウム/プンクトゥムが、ラカンのオートマン/テュケーのことだと気づいているが、遅くても気づかないよりはマシである。世界にはミレールの凡庸さとは比較しがたい超凡庸な連中で犇めいているのだから。

残念ながら蚊居肢散人はいささかミレールに遅れをとっており、気づいたのは、2016年のことであるが、これでさえ、そのあたりの寝言ロラン・バルト研究者やラカン派には及びもつかないことである。とはいえ蚊居肢散人の新しさは、前回の「友情=ストゥディウム/愛=プンクトゥム」でみたように、プンクトゥムをプルーストに結びつけたことであるが、ま、それはこの際ーーくどくなりすぎるのでーー、いまは自慢はしないでおく。

というわけで、超凡庸なみなさんにも、いささかの教養をさずけてさしあげることにする。なによりもまず次の二文をじっくり眺めてみればよいのである。

写真は絶対的な「個 Particulier」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの Contingence」であり、「あるがままのもの Tel」である(ある特定の「写真」であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然 Tuché(テュケー)」の、「機会 Occasion」の、「遭遇 Rencontre」の、「現実界 Réel」の、あくことを知らぬ表現である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ)

教養の足りない超超凡庸なみなさんにさらなる援助の手を差し伸べるという親切ささえ蚊居肢散人はもっている。以下は代表的なテュケーの注釈である。

オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶有性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身、2005年、私訳)
ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。

オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。

テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。

しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF )

おわかりいただけただろうか。ようはフロイトである。フロイトの快原理の此岸/快原理の彼岸、これがオートマン/テュケー、ストゥディウム/プンクトゥムである。

これは時期の異なるバルトのふたつのテキストを眺めれば、どんな凡庸な連中でも瞭然とすることである。

ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。(……)

プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな斑点 petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽(享楽 jouissance)のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがす fait vaciller もの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

遺作『明るい部屋』と『テクストの快楽』のあいだに書かれたテクストをさらに付け加えておこう。

『テクストの快楽』につけ加えて。享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』)

もちろんここで「漂流(逸脱 dérive)」という語彙に注目しなければならない。

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dérive と命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20)

そしては「出会い損ね」としてのテュケーは、《精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた》ともあった。

これについてもさらなる援助の手が必要であろうか。

我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)

まだおわかりにならない知性の幼稚園児を自認している方々には、「基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)」を読むことをおすすめする。

超越的馬鹿に対してのみ記述するのは、もうこれ以上は遠慮しておこう。とはいえ「超越的馬鹿」とは、そのあたりの、たとえば東京大学表象文化論とかいう馬鹿集団の教授やらロラン・バルト研究者のたぐいのことであるから、ご心配ないように。

さて最後に超越的バカではなく、ほどほどの馬鹿、つまり蚊居肢散人の十分の一程度の頭脳はもちあわせていそうなお方々のために、次の文をプレゼントしよう。

私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。

…私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )
対象a、それは穴のことである。 l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

もちろんこの「穴」、「穴ウマ troumatisme」とは、《書かれぬことをやめぬもの ce qui ne cesse de ne pas s'écrire》(Lacan, S.20)のことである。

そしてドゥルーズの《「時間の結晶」(cristal du temps)あるいは「リトルネロ」(ritournelle)》をバルトの次の文とともに読めば一丁上がりである(参照:時の悲痛な叫び

ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

こうしてプルーストとの出会いが生じることになる。

失われた時を考えるよう我々を強制する forcent シーニュがある。時の経過 passage du temps・過去にあったものの無化 anéantissement de ce qui fut・存在の交替 altération des êtres を考えさせるシーニュである。それはかつて親しかった人たちに再会したときに顕現 révélationする。なぜなら、彼らの顔は、もはや我々にとって習慣的なものではなくなっているので、純粋な状態での時のシーニュと時の効果 l'état pur les signes et les effets du temps を保っているから。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』 )

いやあ、あまりにもの明晰な記述をしてしまった。蚊居肢散人はこういったことを好まないが、たまにはやむえないことである。《わたしの使命の偉大さと、わたしの同時代者たちの卑小さとの間の不均衡はあまりに大き》いのであるが、諸般の事情により《本来はわたしの習慣に反し、それ以上にわたしの本能の誇りに反することではあるが》このような記述を提示せざるをえない。

わたしは近いうちに、これまで人類に突きつけたらた要求の中でのもっともむずかしい要求を人類に突きつけねばならなくなろう。そのことを予測して、わたしには、わたしが何びとであるかを述べておくことは、どうしてもしておかねばならぬことのように思われる。もっとも、本当のことを言えば、それは一般に知られていていいはずなのだ。わたしはこれまで、自分というものを「身元不明のまま」にしておいたことはなかったのだから。しかし、わたしの使命の偉大さと、わたしの同時代者たちの卑小さとの間の不均衡はあまりに大きく、その結果、誰もわたしに耳を傾けず、目も向けないということになってきた。つまりわたしがこの世に生きているのは、ひとには一切資金を仰がず、ただ自分時寸のもとでにたよっているようなものだ。それとも、わたしが生きているというのは、単なる独り合点にすぎないのかもしれない? …………こういう事情であるから、本来はわたしの習慣に反し、それ以上にわたしの本能の誇りに反することではあるが、次のように言う義務がわたしに生じてくるのである。わたしの言を聴け! わたしはしかじかの者だから。何よりも、わたしを取り違えてくれるな! と。(ニーチェ『この人を見よ』)

このようにして、プルースト、ラカン、ドゥルーズ、ロラン・バルトの四人を結びつけたのであるが、ここでさらにニーチェを結びつけるという屋上屋を架すことだけは、やめておかねばならない。それはいくら超超馬鹿どもにもここまで記せば自ずと浮かぶはずのものだから。《ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。》(フロイト『自己を語る』1925)

悦楽(享楽Lust)は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する、蜜を欲する、おりかすを欲する、酔いしれた真夜中を欲する、息を欲する、墓を欲する、墓の涙の慰藉を欲する、金色にちりばめた夕映えを欲するーー

Alle Lust will aller Dinge Ewigkeit, will Honig, will Hefe, will trunkene Mitternacht, will Gräber, will Gräber-Thränen-Trost, will vergüldetes Abendroth –

悦楽が欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』ーー「悦楽は常にすべてのことの永遠ならんことを欲する」(ニーチェ)

もちろんフロイトの「快の獲得 Lustgewinn」とは、ラカンの剰余享楽のことであり、ここでは巷間のやぶ邦訳者に反して‟Lust”を悦楽(享楽)と訳したのである。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

そして上のニーチェの文が、快原理の彼岸、ラカンの享楽の重要な起源のひとつであることはもはやいうまでもあるまい?

…この女性的マゾヒズムは、原初の、性的(催情的) erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924 )

知の幼稚園児向けの記述もとっくの昔から準備されている。→「基本版:現実界と享楽の定義」。



友情=ストゥディウム/愛=プンクトゥム

わたしは谷崎潤一郎が好きだが、永井荷風を愛してる。
わたくしはショパンが好きだが、シューマンを愛している。
スワンはオデットを好きではなかったが、愛していた。

「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために」(プルースト「スワンの恋」)

趣味があわなくても、人は愛するのである。他方、好きとは趣味が合うことである。

意味不明というなかれ。
ヴィトゲンシュタイン曰く「言語の意味はその用法である」。
ロラン・バルトの用法を使用したのである。

バルトは《礼儀正しい関心しか呼びおこさない》ものをストゥディウムと呼ぶ。

ストゥディウムというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。(ロラン・バルト『明るい部屋』ーー原文

他方、《私を突き刺す》ものをプンクトゥムと呼び、こちらが愛するの次元である。

プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

…………

ところでプルーストにとって、
友情とはストゥディウム(好き)の次元にある。
恋愛とはプンクトゥム(愛する)の次元にある。

これはドゥルーズ=プルーストを読めば必然的にそうなる。
(プルースト自身の文は、「「思考のイマージュ」の遷移」を見よ)

哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。
プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。
(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

ーーあえてくだくだしく説明する必要はないだろう。 明白である。

こうして、プルースト、ドゥルーズ、ロラン・バルトの三人の見解が一致した。

ここでラカンを呼び出すこともできるが、さてどうしようか。

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。

Très souvent le punctum est un « détail », c’est-à-dire un objet partiel. Aussi, donner des exemples de punctum, c’est aussi, certaine façon, me livrer (ロラン・バルト『明るい部屋』既存訳からだが、 objet partiel の訳語を変えた)

見ての通り、プンクトゥムは部分対象である。対象aである。

私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.(ラカン、セミネール11)

対象aとは、「外密」である(外密とはフロイトの不気味なもののことである[参照])。

親密な外部、この外密が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité

プルーストの次の文はーーわたくしの知る限り誰もが指摘していないがーー外密のことである。

……自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だった。 il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait). (プルースト『ソドムとゴモラⅡ』「心情の間歇」)

大他者Aのなかにある小文字のaが外密である。





プルーストの小説とは、じつはほとんど常に外密のまわりをめぐっている。

たとえば、「またしてもまんまとだまされて、ただあなたを見つめているだけ」にて引用した、プルーストの核心の文のひとつ、《またしてもまんまとだまされたくはなかった》の前後は次の通り。

バルベックの美は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。

またしてもまんまとだまされたくはなかった、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。(プルースト「見出された時」)

これは『失われた時を求めて』に繰り返し出現する主要テーマであり、 スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想等々、プルーストが繰り返し書いたのは、愛する理由は、愛の対象の中には決して存在しないことである。

それは、ロラン・バルトの《プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる》と同じことである。

同じく「またしてもまんまとだまされて、ただあなたを見つめているだけ」において、ドゥルーズのプルースト論から「対象の鞘」/「我々自身の内部」の話を抜き出したが、これも同様である。

我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびており、後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだ A demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-même par une autre moitié que seul nous pourrions connaître 》(プルースト)。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。

我々はこの道に入り込む。我々は《真理》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

プルースト自身の文は次の通り。

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。

それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

こうしてプルースト、ラカン、ドゥルーズ、ロラン・バルトの四人がつながった。

しかしどうして世界中だれもが言っていないのだろう。あまりにも当然すぎるからか?

それともわたくしの徹底的な誤解だろうか。

もちろんわたくしはいま単純化しすぎているという点はあるだろう。それにしてもほんの掠る程度さえ誰も言っていないのはすこぶる奇妙である。

正否の判断は〈あなたがた〉にまかせる。

…………

実はこんなことを記すつもりはなかった。冒頭にショパンを好きだとしたが、ごく最近ショパンを愛するようになった。それを言おうとしたのだ。

ショパンを愛するようになったのは、マリラ・ジョナス Maryla Jonas のマズルカを聴いてからである。これはショパンを愛するというよりむしろ、マリラ・ジョナス=ショパン=マズルカを愛する、ということである。マズルカ以外は、ストゥディウムのままである。マズルカでもマリラ・ジョナス以外のマズルカは、ストゥディウムである。

彼女の演奏だけが、プンクトゥムである。そしてバルトのいうように、プンクトゥムは《細部》であり、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。そんなことはフィクションの形式をとらねば書けない。ロラン・バルトの言うように《人はつねに愛するものについて語りそこなう》のである。ようは「嘘によってしか愛するものを語ることはできない」のである。


◆続き→「プンクトゥム=テュケー



2017年4月25日火曜日

刹那的妖しい魅力

女というのは、芸術やら祈りやらといっている連中ーーときに蚊居肢散人のたぐいの人物にみられる悪癖ーーを笑い飛ばす力をもっている。

不幸なことに芸術愛好家の女性というのはおおむね、女ではなく男であるのだが。

女性の困った性質として、芸術が自分を高めてくれる、という考えに熱中するあまり、すっかり自分が高まっちゃった、と思い込むことであります。(三島由紀夫「反貞女大学」)
カンブルメール=ルグランダン夫人は海をながめて会話にそっぽを向いた。彼女は姑が愛しているような音楽は音楽ではないと考え、姑の才能を、実際には世間が認めているもっとも顕著なものであったのに、自己流のものであると解し、興味のない妙技にすぎないと考えていた。現存するただひとりのショパンの弟子である老婦人が、師の演奏法、師の「感情」は、自分を通して、嫁のカンブルメール夫人にしかつたえられなかった、と公言していたのはもっともであったが、ショパンの通りに演奏するということは、このポーランドの作曲家を誰よりも軽蔑しているルグランダンの妹には、参考とすべきことからは遠かった。(プルースト「ソドムとゴモラⅠ」)

◆Martha Argerich,Ravel Jeux d'eau



ーーそもそも映画女優よりも音楽家のほうが美しく官能的にきまっている。

ところで青柳いづみこさんはマルタ・アルゲリッチについて《アルゲリッチ の演奏は刹那的 だ。その場その場では興奮するが、前に何があったのか忘れてしまう》。さらに《アルゲリッチで印象に残るのは、主題よりもそれを装飾するアクセサリーのほうだ。虹のように輝く変幻自在のトリルは、タンホイザー を誘惑するヴェヌスもかくやと思わせる妖しい魅力を放っている。》

世界にはこの刹那的妖しい魅力も必要である。

◆Martha Argerich and Charles Dutoit in 1972




◆青柳いづみこ「ピアニスト が見たピアニスト」 

アルゲリッチ は、ノクターン などカンティレーナの部分ではベルカント 奏法を使う。ひとつの音を指先で保持しながら次の指の準備をし、音と音の間にすきまができないように慎重に音をつないでいく。こちらは「習った」ほうだ。しかし、速い音型を弾くときは、彼女のオリジナルの「ひっかき」奏法が全面に出てくる。「曲げた指」を使うポリーニ は、速い音型でも一度根元の関節で止め、次の指につなぐ作業を行なうのだが、アルゲリッチ は手前にひっかくので、動作を次々にくり出すことができる。おまけに彼女は、ある音節 を弾くとき、腕を上から落として勢いをつけ、すべての音をまとめて弾いてしまう。この「ひっかく」「落とす」「まとめて弾く」で、彼女の異常なスピードが可能になるのだ。

たとえば、コンセルトヘボウでのライブが残されている(アルゲリッチ の)プロコフィエフ 『戦争ソナタ 』をグールド のCDと比較してみると、アプローチの違いは明らかである。無機質な第1主題ではじまり、さまざまに解体されたのち濃艶な第2主題が提示され、やがて二つの主題が組み合わされる第1楽章。分析マニアのグールド の手にかかると、この過程が手にとるように分かる。アルゲリッチ の演奏では、第1主題の輪郭はあまり明確に描かれず、より彼女のテンペラ メントに適した第2主題ばかりが鮮やかに浮かびあがってくる。「元祖野獣派」のフィナーレでは、彼女のほうに圧倒的に軍配が上がるけれども。

リストの『ソナタ 』をポリーニ と聴き比べたときも、同じような印象を受けた。

アルゲリッチ の演奏は刹那的 だ。その場その場では興奮するが、前に何があったのか忘れてしまう。主題の造形はポリーニ にかなわない。アルゲリッチ で印象に残るのは、主題よりもそれを装飾するアクセサリーのほうだ。虹のように輝く変幻自在のトリルは、タンホイザー を誘惑するヴェヌスもかくやと思わせる妖しい魅力を放っている。

 青柳いづみこさんに敬意を表するために、次の刹那性を超えた映像を貼っておく。とくに前半の数分の響きは限りなくーー鳥肌がたつほどーー美しい。

◆ドビュッシー(カプレ編)聖セバスチャンの殉教 より ピアノ:青柳いづみこ



わたくしは演奏技術のことはわからないが、ユジャ・ワンの演奏は、刹那的妖しい魅力をもった《その場その場では興奮するが、前に何があったのか忘れてしまう》感覚をわたくしに与えることが多い。

◆Scarlatti Sonate K.455, Yuja Wang



ーースカルラッティのいくつかの曲は、こういったべとつかないスポーツ的名演がふさわしい。

以下のプロコフィエフを演奏するユジャワンの四つの時期の映像は、 王羽佳(1987生れ)の「羽佳=孵化」の様ーー蛹から蝶への移行ーーがよくわかる。たぶん裏方のキャラ作りの影響大だろうが(彼女は、アルゲリッチの名高い習癖、繰り返される演奏会キャンセルの一つ(2007年)の代役として登場して、好評を博したことでも知られている)。

◆Yuja Wang . the dizzying cadenza / la vertigineuse Cadence du concerto n°2 de Prokofiev



これをみると、現在の若き女性にとっては、徳田秋声の文などまったく通用しないのが、よくわかる。

「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」(徳田秋声『爛』)

…………

ぜんぜん話は変わるが、高橋悠治と青柳いづみこは実に美しいカップルではなかろうか。クルターグ夫妻のようになる可能性がある。



2017年4月24日月曜日

またしてもまんまとだまされて、ただあなたを見つめているだけ

《またしてもまんまとだまされたくはなかった、 Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus》(「見出された時」)と、プルーストはいうが、人はときには騙される必要があるのではなかろうか。

◆Yuja Wang 2016 . Musician of year 2017 (Musical America awards).




ドゥルーズもプルーストを引用して、対象の鞘におさまっているものではなく、自分自身の内部にのびているものを深めねばならぬ、と言う。

我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびており、後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだ A demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-même par une autre moitié que seul nous pourrions connaître 》(プルースト)。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。

我々はこの道に入り込む。我々は《真理》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

だが真理の側面を犠牲にして、《ブラボー、ブラボー》と叫ぶのをしばらくお許しねがうことにする。

もっとも対象の鞘ではなく、蚊居肢散人自身の内部にのびているものは、果たして何なのだろうか、と問うことは何度もしてみた。

スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)
秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)

つまり、たんに肢に惹かれているのではなかろうか、と疑い、裸肢なしの映像を眺めてみたが、いまだ魅惑と戦慄は消え去らない・・・

◆INCREDIBLE Yuja Wang!!!!



ひょっとして昔、対象の鞘におさまりそこねた女に似ているということはあるまいか。鉈を振るい損ねたあの少女に。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

ここは本来は熟考のしどころである。プルーストも次のように言っているのだから。

娘たちや若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいだいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう! (プルースト「ゲルマントのほうⅡ」)

ああ、ユジャ・ワン (王羽佳)! 名前までとてつもなく美しい。あの少女はこんな高貴な名をもっていなかった。王が孵化すれば、女神となるにちがいない。

神は《わたしのもっとも内なるところよりもっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました。(interior intimo meo et superior summo meo)》(聖アウグスティヌス『告白』)

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、セミネール23、 サントーム)

いまは素直に「ただあなたを見つめ Pur ti miro」ているだけしか手のうちようがない。

◆Pur ti miro (C. Monteverdi)





2017年4月23日日曜日

〈きみ〉はそれを知らないが倒錯的になる

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』序文)

肝腎なのは、このマルクスの言葉である。資本の言説(社会的つながり)の時代の諸関係に置かれれば、《彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es》(マルクス)のであり、〈きみ〉はそれを知らないが倒錯的になるのである。

蚊居肢散人は、自ら倒錯的であることを認めているが、幸か不幸か、資本の言説の社会的つながりから外れた社会的諸関係のポジションにいる。ゆえに《私は、君が毒ある蝿どもの群れに刺されている》(ニーチェ)のが如実にわかる。〈きみ〉が蠅の糞まみれの腐臭を漂わしているのがひどく臭ってくる。彼が(つまり蚊居肢散人のことであるが)市場の蠅のなかで生活せざるをえなかったら、その蠅の糞の腐臭にも不感症となったことであろう・・・

…………

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳)

ーー須賀敦子はこの文を引用して、次のように書いている。

自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか。(『遠い朝の本たち』)

資本の論理の時代に大聖堂のなかの椅子を探し求める者はーーいや、ちゃっかり坐りこんでいる者でさえーー、ことさら倒錯的に振舞わなければならない。つまり他者の欲望の道具となることに汲々とせざるをえないのである。

倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S18)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823)
倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存dépendance de son amour,、すなわち母の欲望への子供の欲望 le désir de son désir によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 l'objet imaginaire(想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)

主人の言説の時代には、能力のあるものは、他者の欲望に奉仕することを恥じた(例外はある。だが神経症者は一般的に大他者の道具となることに堪えられない。彼は他者に食い物にされていると感じる)。能力の際立った者は場合によっては自ずと「権威」の場に置かれた。ところがいまは能力のある者でも他者からの反応を希求せずには職業としてやっていけない。構造的に大他者の道具となるよう強いられる。これがエディプスの時代から前エディプスの時代への移行である(ラカンの「主人の言説」から「資本の言説」の時代への移行、ラカン派における神経症の時代からふつうの精神病・倒錯の時代への移行の指摘)。

この決定的な移行の影響が、1968年の学園紛争における「権威の斜陽・崩壊」にはじまり、1989年の冷戦終結による「イデオロギーの死」の決定打によって、世界中を席巻している。

社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。つまり個人レベルでは、誰もが「社会的つながり lien social を築く言説」、換言すれば「見せかけ semblant」をもっていない。これが、マルクスがたぐい稀なる仕方で没頭したことである。(LACAN La troisième 1-11-1974 ーー四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)

もはやみなプロレタリアなのである。

中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

この移行を鮮明に記している中井久夫の二文をかかげておこう。

【1968年の学園紛争】 
「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。「歴史の発展段階説」などでは説明しにくい現象である。

では何が同時的だろうかと考えた。それはまず第二次世界大戦からの時間的距離である。1945年の戦争終結の前後に生まれた人間が成年に達する時点である。つまり、彼らは戦死した父の子であった。あるいは戦争から還ってきた父が生ませた子であった。しかも、この第二次世界大戦から帰ってきた父親たちは第一次大戦中あるいは戦後の混乱期に生まれて恐慌時代に青少年期を送っている人が多い計算になる。ひょっとすると、そのまた父は第一次大戦が当時の西欧知識人に与えた、(われわれが過小評価しがちな)知的衝撃を受けた世代であるかもしれない。

二回の世界大戦(と世界大不況と冷戦と)は世界の各部分を強制的に同期化した。数において戦死者を凌駕する死者を出した大戦末期のインフルエンザ大流行も世界同期的である。また結核もある。これらもこの同期性を強める因子となったろうか。

では、異議申立ての内容を与えたものは何であろうか。精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。実際、彼らの父は、敗戦に打ちひしがれた父、あるいは戦勝国でも戦傷者なりの失望と憂鬱とにさいなまれた父である。戦後の流砂の中で生活に追われながら子育てをした父である。古い「父」の像は消滅し、新しい「父」は見えてこなかった。戦時の行為への罪悪感があるものも多かったであろう。戦勝国民であっても、戦場あるいは都市で生き残るためにおかしたやましいことの一つや二つがあって不思議ではない。二回の大戦によってもっともひどく損傷されたのは「父」である。であるとすれば、その子である「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。さらに、この世代が強く共感した人の中に第一次大戦の戦死者の子があることを特筆したい。特にアルベール・カミュ、ロラン・バルトは不遇な戦死者の子である。カミュの父は西部戦線の小戦闘で、バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦で戦死している。

異議申立ての対象である「体制」とは「父的なもの」の総称である。「父なるもの」は「言語による専制」を意味するから、マルクス主義政党も含まれる道理である。もっとも、ここで「子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはバカバカしい権威silly authorityだけである」という精神科医サリヴァンの言葉を思い起こす。第二次大戦とそれに続く冷戦ほど言語的詐術が横行した時代はない。もっとも、その化けの皮は1960年代にすべて剥がれてしまった。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」1995年初出『家族の深淵』所収)


【1989年までの世界のメカニズム】
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(……)

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996初出『アリアドネからの糸』所収)

やむえないことである、「父なき時代」に、大他者の道具になることに汲々とするのは。だから、わたくしは単純には批判しない。ただし大他者の道具になることの危険とは、これも中井久夫がたくみに表現している。

芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光りを当てられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」1996年)

あるいはやや異なった観点からの見解だが、古井由吉を引用しておいてもよい。

勲章をぶら下げていたら、こんな仕事できません。作家とは怪しげな商売ですからね(笑)。名誉や名声というやつは、新しい作品を書く時の妨げになります。とにかく荷物を少なくしておきたかった。

芥川賞の選考委員も、6年前に辞めました。ああいう場に連なると、自分をひとかどの者と思うようになる。裸になれなくなりますから、物書きとして自分を追い込めなくなる。

選評を書くのでも、執筆者より上に立つような気持ちが芽生えたり。だいたい若い頃の作品より今のほうがいいと言い切れる作家は、どれだけいるのか。今の僕が『杳子』と競ったら、勝敗でいえば負けじゃないですかね(古井由吉「サライ」2011年3月号)

ーー名誉という大他者に支配されてしまえば、物書きとして自分を追い込めなくなる、という風にとらえれば、ここでわたくしの言いたいことを同じである。

ロダンは名声を得る前、孤独だった。だがやがておとずれた名声は、彼をおそらくいっそう孤独にした。名声とは結局、一つの新しい名のまわりに集まるすべての誤解の総体にすぎないのだから。(リルケ『ロダン』)

大他者の享楽の道具になるとは、市場の蠅どもの毒にまみれることである。

民衆は、真に偉大であるもの、すなわち創造する力に対しては、ほとんど理解力が無い。市場と名声とを離れたところで、全ての偉大なものは生い立つ。市場と名声を離れたところに、昔から、新しい価値の創造者たちは住んでいた。
 
逃れよ、私の友よ、君の孤独の中へ。
 
私は、君が毒ある蝿どもの群れに刺されているのを見る。逃れよ、強壮な風の吹くところへ。
 
逃れよ、君の孤独の中へ。君は、ちっぽけな者たち、みじめな者たちの、あまりに近くに生きていた。目に見えぬ彼らの復讐から逃れよ。君に対して彼らは復讐心以外の何物でもないのだ。
 
彼らに向かって、最早腕をあげるな。彼らの数は限りが無い。蝿たたきになることは、君の運命ではない。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「市場の蝿」(手塚富雄訳)

他者に応えようとすれば、〈あなた〉の本来の豊饒さは失われてしまう。これは必然である。現在、高橋悠治のような態度をとりうる「芸術家」は稀だろう。

ピアノは生活の手段だった。(……)ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グー ルドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。(……)

確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられない ためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(高橋悠治「ピアノ
を弾くこと」

そしてそこから「卑しいごますり」人間に至る道に入り込むのは、わずか半歩しかない。

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう)。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

2017年4月22日土曜日

飲めば飲むほど渇く

以下、ラカンの「資本の言説」をめぐっていくつか調べたなかのまだ使用していない在庫の残りを掲げる。

◆capitalist exemption,Pierre Bruno,2010


資本の言説は、「真理 S1」の不到達性から逃れるように構築されている①。真理の場に到達しうるだけではなく、「知S2」に到るためには「真理」を通り過ぎなければならない。資本家の言説における真理は、占星術における地位と同じ地位である。



S1 → S2(左下から右上への斜めの矢印②)は、資本家/労働者の転移がなされる。というのは、生産において仲介するものは、労働力のノウハウだから。…

S1が知を所有していないなら、何が命令する能力を与えるのか? 答えは金融力である。労働者は命令に従って生産する。彼等はマルクスが見出した剰余価値の秘密を生産する。われわれは知っている、マルクスにとってーー誰もがこの点においては異議をとなえない--労働力は、小麦や鉄と同様の「商品」になるという事実によって、資本主義は特徴づけられることを。したがって、資本主義において、剰余享楽 (a) は剰余価値の形態をとる。
剰余享楽とは、フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」と等価である。この快の獲得は、享楽の構造的欠如を補填する。…

資本家の言説の鍵を見出すことを意味するのは、、剰余享楽の必然性(必要性)は、《塞ぐべき穴 trou à combler》(Lacan,Radiophonie,1970)としての享楽の地位に基礎づけられていることを認めることである。

マルクスはこの穴を剰余価値にて塞ぐ。この理由でラカンは、剰余価値 Mehrwert は、マルクス的快 Marxlust ・マルクスの剰余享楽 plus-de-jouir だと言う。剰余価値は欲望の原因である。資本主義経済は、剰余価値をその原理、すなわち拡張的生産の原理とする。

さてもし、資本主義的生産--M-C-M' (貨幣-商品-貨幣+貨幣)--が消費が増加していくことを意味するなら、生産が実際に、享楽を生む消費に到ったなら、この生産は突然中止されるだろう。その時、消費は休止され、生産は縮減し、この循環は終結する。これが事実でないのは、この経済は、マルクスが予測していなかった反転を通して、享楽欠如 manque-à-jouir を生産するからである。

消費すればするほど、享楽と消費とのあいだの裂目は拡大する。従って、剰余享楽の配分に伴う闘争がある。それは、《単なる被搾取者たちを、原則的搾取の上でライバルとして振舞うように誘い込む。彼らの享楽欠如の渇望への明らかな参画を覆い隠すために。induit seulement les exploités à rivaliser sur l'exploitation de principe, pour en abriter leur participation patente à la soif du manque-à-jouir. 》(LACAN, Radiophonie)
新古典主義経済の理論家の一人、パレートは絶妙な表現を作り出した、議論の余地のない観察の下に、グラスの水の「オフェリミテ ophelimite) 」ーー水を飲む者は、最初のグラスの水よりも三杯目の水に、より少ない快を覚えるーーという語を。ここからパレートは、ひとつの法則を演繹する。水の価値は、その消費に比例して減少すると。しかしながら反対の法則が、資本主義経済を支配している。渇きなく飲むことの彼岸、この法則は次のように言いうる、《飲めば飲むほど渇く》と。

ブログ記事なんてのも似たようなものである。書けば書くほど渇くのである。ツイートなど、さらに覿面である。このPierre Brunoの論は、今回の一連の調べ物のなかで、じつは最初に読んだのだが、自らに強く跳ねかえってくるので、在庫として使用しないままであった(一箇所、納得できていない部分があるという理由もあるが)。だが、やはりこうやって提示しておこう。

われわれは《飲めば飲むほど渇く》という形態で「資本の言説」という釈迦の掌の上の猿を演じているのである。その原動力は「享楽欠如」の享楽である。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を享楽することが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(コレット・ソレール2013,Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)

ここから逃れるにはどうしたらいいのか。ラカンの処方箋は次の通り。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本主義の言説からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、テレビジョン、1973年)

だがラカンの長年のセミネール継続自体、享楽欠如の享楽ではなかったか? そう問うてみることさえできる。

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)


蚊居肢子嘲罵要項

「なぜわたしはこんなに賢明なのか」「なぜわたしはこんなに利発なのか」と記したニーチェであるが、蚊居肢散人は、残念ながらニーチェほど賢明でもなく利発でもない。噂によればニーチェの耳の垢ほどの聡明さもないなどという評判さえある。だがそれは言い過ぎというものである。

いずれにせよ、蚊居肢子は、ラカン主義者というよりも、まずなりよりもニーチェ主義者なので、以下の罵倒要項の四つを厳密に守ることにしている。ただし賢明さはニーチェの半分(?)ほどしかないので、四つのうちの二つに当てはまる場合のみ、実名を掲げて罵倒する。貴君はまだひとつしか当てはまらないので、実名をあげて嘲罵することはしない。ご安心を。

わたしの戦争実施要項は、次の四箇条に要約できる。

第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。

第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。

第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。

第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』)


ただしときに成島柳北主義者になることもあるのでご用心を。

今余ガ思フマヽヲ書キ綴リテ、
世ノ好古家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、 ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。(「好古小言」濹上漁史)

すなわち、

諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。

芸能ハ固ヨリ有用ナレド、
務メテ雅致ヲ失ハズ、
空シク倒錯ニノミ流レザルヲ可トス。
コケッコリー先生少シク注意シ給フ可シ。

平成二十九年四月二十二日深更、蚊居肢子斎戒沐浴シ、
恭シクにいちぇノ文ヲ具ヘテ自ラ其ノ舌ヲ祭ル。


とはいえこれも、ニーチェ主義者の一環ではある。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)



2017年4月21日金曜日

ヒステリーの言説と倒錯の言説とのあいだの誤認

資本の言説には四つの言説の上部構造が(当然のことながら)含まれている。



①の矢印はヒステリーの言説
②の矢印は主人の言説
③の矢印は大学人の言説
④の矢印は分析家の言説であるが、
資本の言説における a→$ は、倒錯の言説である。

※参照:
四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)
倒錯者の言説(マゾヒストの言説)

四つの言説のそれぞれは以下の通り。



この資本の言説、つまり資本の論理の時代の社会的つながりのあり方を見きわめるとき、ついうっかりと倒錯者の言説であるはずのものを、たとえばヒステリーの言説①と見誤ってしまう。それは主人の言説②、大学人の言説③と見誤ってしまうのと同様である。だがそのベースとなるのは倒錯者の言説④である。



資本の言説の時代における社会的つながりの原動因に相当するものはここにしかない。




蚊居肢散人は、自称、四つの言説+倒錯の言説の至高の理論家デアルガ、この至高の理論家もついウッカリして、さる人物の倒錯の言説をヒステリーの言説とミアヤマッテシマッタ。忸怩たる思いである。いま自戒のためにこうやって記しておく。

なおヒステリーの言説の主な特徴は次のものである。

1、主体$は不正を蒙っている。
2、主人S1は無能である。
3、シニフィアンは常に真理の説明に失敗する。
4、満足は常に偽の満足である。

これはもちろん倒錯の言説にも表れるわけであり(三番目以外は)、この表面的な特徴にまどわされると、誤認が生まれる。


2017年4月20日木曜日

資本の言説と〈私〉支配の言説

ラカンにはデモクラシーならぬ« je-cratie » という表現がある。これは「〈私〉支配」ということだが、「ボククラシー」とでも意訳できる(ボクラシイとすれば、ここで記したいことによりいっそう合致する)。

デモクラシーが大衆による支配という意味であるように、ボククラシーとはボクによる支配のことである。

Il en est tout autre chose de ce qui se trouve à l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité qui s'affirme de son égalité à soi-même, de cette « je-cratie » dont je parlais une fois, et qui est, semble-t-il, l'essence de toute affirmation dans la culture qui a vu fleurir entre toutes ce discours du Maître. (Lacan, S17, 11 Février 1970 )

ーーラカンは《真理のなかでの主体と主人の出現の地平 l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité》において、 《それ自体、等価 égalité à soi-même》となることを、《〈私〉支配 je-cratie》と呼んでいることになる。

sujet-Maîtreとあるように、「分割された$」と「主人のシニフィアンS1」の合体を示唆している。

わたくしはこのラカンの叙述をあえて「誤読」して、資本の言説の図式ーー上の言明があった時点においては、ラカンはいまだ「資本の言説」概念を提示していないーーとともに読んでみた。すなわち真理のポジションにおかれたS1(Maître)と$sujet)との合体として。

その試みのひとつは、「フロイトの「資本」論と「快の獲得」」にて示した。

それは同じセミネール17の次の文に依拠しつつである。

主人の言説は主体の支配とともに始まる。主人の言説が、超限定された神話・それ自身のシニフィアンに同一化すること [ $ ≡ S1 ] によってのみ支えられる傾向がある限りで。(S17、18 Février 1970)

 $ ≡ S1 は、主人の言説においても資本の言説においても合体してしまえば、相同的な図式となる。







【註】
ラカンは別に《〈私〉支配 Je-cratie》を、大学人の言説もしくは哲学者の言説を批判する文脈のなかで、《理想の〈私〉の神話…支配する〈私〉…言表行為者が自己と同一化する〈私〉le mythe du Je idéal… - du Je qui maîtrise, - du « Je » par où au moins quelque chose est identique à soi-même, à savoir l'énonciateur》(S17)と語っているが、これは何も大学人の言説に限らない。むしろ「主人S1の言説」を隠された真理 vérité cachée のポジションにもつ「大学人S2の言説」における症状を指摘しているのであり、核心は主人の言説における S1 と$ の妄想的一致傾向である。セミネール20では、これに対抗するために《横にずれる存在 être à côté》あるいは、《寄生存在 par-être → paraître》等と言っている。横にずれるとは、フロイトやボードレールのユーモアの定義に近似したものであり、これは次の聖人をめぐる話とともに読むことができる、《聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本の言説 discours capitaliste からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない》(テレビジョン、1974)

ところでS1とはなんだったか?(最晩年のラカンのS1の定義、ーーミレールによる「ひとつきりのシニフィアンsignifiant tout seul 」=《身体の出来事 un événement de corps》(ラカン、1975)ーー、つまり人間の自閉症的核(享楽の原子)にかかわる定義はここでは外す)。

S1、……この主人のシニフィアンは、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ポール・バーハウ、1998)

ーーここにもあるように、S1(主人のシニフィアン)とは、シニフィアン〈私〉が最も典型的なものである。



S1(主人のシニフィアン) が「他の諸シニフィアンS2 autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何か quelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

人はこの分割された主体であることに常に意識的でなくてはならない、とは言うまい。だがどうして時に気づかずにいられよう。柄谷行人の名高い「この私」の議論もそれをめぐっている。

私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに「この私」が抜けていると感じてきた。哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。それを主観といっても実存といっても人間存在といっても同じことだ。それは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜けおちている。私が哲学になじめなかった、またはいつも異和を感じてきた理由はそこにあった。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

ラカンは「私」をめぐって、とても愉快なことを言っている。

「私は思う Je pense」に「私は嘘をついている Je mens」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている Je pense que je pense」という意味。

これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」 、 「彼女は私を愛していると私は思う Je pense qu'elle m'aimeと言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。 (ラカン、セミネールⅨ「同一化」ーー僕と私と俺

ラカン派では、「言表内容の主体 sujet de l'énoncé」 と「言表行為の主体 sujet de l'enonciation」 が一致している思い込んでいる人々の言説を「妄想的(パラノイア的)信念の言説」と呼ぶことがあるが、この言表行為の主体と言表内容の主体の区別は「知識人」のあいだでさえ曖昧化されつつある(SNSの影響大だろう)。それは書物における文体にまで顕著に影響を与えている。

もちろん時代がすでにそうなってしまっているのだから、この一致に居直る仕草もあるだろう。

そのようなことに気遣って文章を書いている作家は、もはや旧世代の僅かな生き残りでしかなく無視すべきだという立場をとることさえできる。

たとえば古井由吉。

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(……)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)

あるいは古井由吉よりも一年はやく生まれている蓮實重彦。

「私」という語彙のごく日常的な言語操作に難儀する者はまずいないだろうが、だからといって、人称代名詞としての「私」がそのつど確かな指示対象を持っているかといえば、これは大いに疑わしい。それは「私」にかぎられたことではなく、「転位語」と呼ばれている「あなた」だの「ここ」だの「昨日」だのに見られる一般的な特徴にほかならず、その指示対象を確保するには、「私」を主語とする言説の主体が聞き手に現前していなければならない。すなわち、自分を「私」と呼ぶ何者かの存在は、そう口にする瞬間、その声と同様に視覚的にも認識されるという空間的な状況が成立した場合、そのときのみ、初めてその指示対象は明らかになる。だが、それに対して、聞き手もまた自分を「私」と名指しつつ応えることになるのだから、「私」が、「空」だの「花」だの「草」だののように固有の指示対象を持っていないことは明らかである。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

さらにはまた、デリダの《いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立会いから分離されたエクリチュールーーーこうしたエクリチュールによる本質的な漂流……》(『署名、出来事、コンテクスト』)ーーこんなことを気にしている「思想家」は今ではデリダ派にも稀有なのかもしれない。

言表行為の主体と言表内容の主体の区別に意識的であるとは、 私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してないことを常にーーいや「ふと」でもよいーー念頭におくことである。

私は、私という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理』
私は己れの象徴的アイデンティティーの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭い”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、2012ーーソクラテスのイロニーとプロソポピーア

他方、ボククラシ―(〈私〉支配)とは、「私は私の主人である」という錯覚のまま生きることである。究極的には象徴的去勢の排除、あるいは象徴的去勢の否認のもとに生きることである。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (Lacan,S17)

すなわち、言語によって去勢されていることを忘れて生きることが、ボククラシーの姿である。

人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)

こうしてボククラシ―とは、精神病者(排除)でなければ、フェティシスト(否認)であることになる。

〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ところでラカンは、ボククラシーに相当する症状をもった人間を、S1に「支配されたマヌケcon-vaincu」とも呼んでいる。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたマヌケ con-vaincu のことである。

je suis m'être, je progresse dans la m'êtrise, le développement c'est quand on devient de plus en plus m'être, je suis m'être de moi comme de l'Univers. Ouais, c'est bien là ce dont je parlais tout à l'heure : de con-vaincu.(Lacan, S20, 13 Février 1973)

これは前期ラカンも同様なことを言っている、《自分を王だと思う人間が狂人 con だとすれば、自己を自己だと思う人物も狂人con 以外の何ものでもない〉(S2、摘要)

つまりは、フロイトがみずからコペルニクス的発見と呼んだ次の言葉に我カンセズの人間を「狂人」と呼んでいることになる。

私は自分の家の主人ではない dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus(フロイト『精神分析入門』)

くり返せば、「私」=S1 という主人シニフィアンに妄想的信念をもつことは、「私は私自身の主人だ」という立場をとることである。

ラカンの《自己という小さな主人 petit Maître, comme « moi »》や《主人の小さな市場 le petit marché du Maître 》(S17)という表現も、マヌケ(私支配)のヴァリエーションである。

こういった思考は、なにも精神分析の領野だけの話ではない。たとえばヘルダーリンの指摘。

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」

あるいはニーチェの指摘。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

このような洞察を失念しているか、無知あるいは不感症かの存在を、《〈私〉支配 je-cratie》のマヌケと呼ぶ。

ここで二人の詩人の名高い言明をかかげておこう。

《「私」とは他者である ''JE est un autre''》 ( ランボー)

《私は他者である ''Je suis l'autre''》 (ネルヴァル)

この極めてシンプルに言明されている「私は他者である」ーーこれがなによりも言語という道具を使わずには生きていけない我々の生の核心である。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳)

このヴァレリーの他者もまずなによりも「言語」である(訳者の恒川氏は指摘しているように)。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

ところで、ラカンは主人の言説から資本の言説への移行を、1972年に語った。いくらかの詳細は、「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」に記したが、ここではポイントを絞って記すことにする。

とはいえ、次のラカン自身の言葉は再掲しておこう。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)


資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

上の図にある「主人の言説から資本の言説への移行」とは、「〈私〉支配 je-cratie 」、「S1に支配されたマヌケcon-vaincu」、「主体 sujet=主人 Maître」になることと捉えうる。資本の言説の特徴を「去勢の排除」としていることがそれを示している。

ここで資本の言説をめぐる直近の論文(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016, pdf)から抜き出してみることにする。まずこの移行には、上の図に明らかになっているように、三つの「突然変異」と呼ばれるものがある。

① $ とS1 は場所替えをしたこと。

② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。

③「動作主agent」と「他者autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。

これは上に掲げた図の 「$ とS1の場所替え」以外に、(言説のベースにある形式的構造の)次の図の左から右への移行を叙述している。




以下、同様にStijn Vanheule 2016から私訳引用する。

三つの変更の影響は、四つの言説に固有な数多くの障害物が、五番目の言説の特徴ではなくなった。われわれは資本の言説内部で、レースのゴーカートのように、循環しうる。事実、資本の言説において、非関係 non-rapport は回避される。

Samo Tomšič は、これを次のように叙述している。

《矢印が示しているのは、資本の言説は全体化の不可能性 (動作主と他者との間の impossible)の「排除」を基盤としていることである。他の諸言説(四つの言説)は、全体化の不可能性に特徴づけられており、それは次の事実に決定づけられている。すなわち、シニフィアンは差異の開かれたシステムを構成するという事実に。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)

とりわけ、標準的な四つの言説において、「真理」のポジションは、矢印によって標的になっていない。そして「動作主」と「他者」のポジションは、二つの(相互的に関係性しない)他のポジションによって影響を受けている。それが、言説の機能を構造的に逸脱させる。

実際に、資本の言説の構造的特徴は、四つのポジションは元のままでありながら、矢印によって作り上げられる進路は変わっている。すべてのポジションに一つの矢印が到達する。従って、矢印の閉じられた円環が形成される。四つの言説を特徴づけていた構造的逸脱は、見出されない。言わば車輪のように廻る(無限∞の形になっている:引用者)。……

…資本の言説において、主体性は腐蝕させられる。これについての主要な構造的理由は、$ と a との間の距離が喪われていることである。すなわち、剰余享楽に固有の、身体上の緊張が主体を混乱させる。(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016, pdf


さらに注目すべきは次の叙述である。



(資本の言説における)$ から S1 への動きは、主体の分割の構造的質の否認をもたらす。資本の言説は主体の分割から出発する。しかし、S1 に向かう動きが暗示するのは、主体の分割は、主人のシニフィアンへの疎外(同一化)を通して克服されうるということである。

これは倒錯的運動を物語っている。《倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する que le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, 》(ラカン、S18)

資本の言説においては、S1 は主体の穴を補填するように促されている。

どちらの場合も、主体の穴は埋め合わせ可能だと信じられている。この理由で資本の言説はしばしば一般化された倒錯の用語で叙述される(Mura, 2015)

《主体の分割$は、主人のシニフィアンS1への疎外(同一化)を通して克服されうる》とある。これはまさに主体と主人のシニフィアンの合体のことを言っている。

このStijn Vanheule=Andrea Muraの指摘は、上に引用したラカンの《主体ー主人が真理のなかで、sujet-Maître dans une vérité》《それ自体、等価 égalité à soi-même》(S17)、という文とともに読むことができる。これが資本の言説の特徴のひとつである。

すなわち、真理のなかで主体 sujet=主人 Maître となることは、

・自己という小さな主人 petit Maître, comme « moi »(S17)
・主人の小さな市場 le petit marché du Maître (S17)
・ 〈私〉支配 «je-cratie » (S17)
・S1に支配されたマヌケcon-vaincu(S20)

であり、ボククラシーの言説が、資本の言説の際立った特徴ということになる。

何度か記しているが、資本の言説という用語に惑わされてはならない。この意味はまずは、後期資本主義の生産様式の時代、あるいは消費至上主義の時代に育った(多大な影響を受けた)人々の言説(社会的つながりの仕方)ということである。もちろん1980年代には、おそらく大量消費社会にかかわっただろう、「新人類」という言葉が流通していたのだから、わたくしも免れている筈はまったくない。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり)の機能を作り上げるものである。

Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social(ラカン、 Milan, le 12 mai 1972)

こうして資本の言説の図式は、実は次のように変奏して記せるのではないか(この図は、わたくしの知る限り、誰もそう図示していないが)。





この図は、マルクスのM-C-M' (資本ー商品ー資本+資本)と等価である(参照:フロイトの「資本」論と「快の獲得」)。

これがボククラシーの言説であり、わたくしがかねてから「ボク珍の言説」と呼んでいるものと等しい・・・別名、夜郎自大の言説とも呼ばれる。現在、この言説がいっそう猖獗しているのは明らかである。

ところで、いま示した資本の言説の変形版は、藤田博史氏による想像的ディスクール(日本的幻想)の図と類似した構造をもっている。


セミネール断章 2013年 5月11日講義より


ラカンはセミネール18で、われわれの現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」であるといっている(前期ラカンの見せかけの定義に反して)。そもそも「シニフィアンはすべて見せかけである」(ミレール)。とすれば、 S2≒As(Autre semblant)である。こうすれば藤田マテーム φーAsー-φとは、次のように記せる。



これはイマジネールなボク φ が、見せかけAsを介して、イマジネールなオチンチン-φとお話しするという図式であり、まさに倒錯の言説(資本の言説の変形版)と相同的である(イマジネールな他者(オチンチン)とは、ようするに「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちのことである)。

この図は藤田氏が次の図式の中段にて示していることと、ほぼ等価のはずである。




…………

何も一人称単数代名詞を使用していけないわけではない。だがそれは象徴的なシニフィアンに過ぎず、〈この私〉とはけっして一致しないことを常に心得ておくこと。それが、《〈私〉支配 je-cratie》の言説から《横にずれる存在 être à côté》(S20)へと逃れる最初の手蔓であるだろう。

・ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。

・人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」はパラノイアを発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』ーー「ロラン・バルトのなかのフロイト・ラカン」)

だがこんな考え方はもはや通用しない世界になってしまっているように思える。現代では次のような図式の形態にてマガオで振る舞う人物が、日本の代表的「思想家」らしいから。




本書でぼくが言おうとしているのは、観光客とは小さな人類学者であるべきだという提言として要約できるのかもしれない。(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』)

東浩紀氏の「小さな人類学者」とは、おそらくラカンの次の表現のほうがもっとふさわしいのではなかろうか?

・自己という小さな主人 petit Maître, comme « moi »(S17)
・主人の小さな市場 le petit marché du Maître (S17)
・ 〈私〉支配 «je-cratie » (S17)

さらに言えば、次の道のりをしっかりと歩んでいるとも憶測される。

・S1に支配されたマヌケcon-vaincu(S20)
・S1を自己だと思う狂人con (S2)

浅田彰は、かつて《他人の評価に飢え取り巻きを作り褒められ安心したい僕を見て褒めてのヒステリー君》と要約される東浩紀への評言を吐いたが、まだ単なる「ヒステリー君」であるなら「すくい」があったのではなかろうか・・・なにはともあれ、藤田スキーマにおける想像的オチンチンのレスポンスが彼の原動因に近似したものになっているように(すくなくともツイッター上の振舞いをうかがう限りは)感じざるをえない。すなわち時代の典型的症状の体現者である(だが批評とは、何よりもまず時代の症状を批判し、その症状という釈迦の掌の上に乗っている猿ーー誰もが免れがたい猿としての〈私〉ーーを自己吟味することではなかったか)。

浅田彰)  …僕はレスポンスを求めないために書くという言い方をしたいと思います。 東浩紀さんや彼の世代は、そうは言ったって、批評というものが自分のエリアを狭めていくようでは仕方がないので、より広い人たちからのレスポンスを受けられるように書かなければいけないと主張する。… しかし、僕はそんなレスポンスなんてものは下らないと思う。

蓮實重彦) 下らない。それは批評の死を意味します。

――中央公論 2010年1 月号、「対談 「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田彰)

他方ここで、人類学者のレヴィ=ストロースの文を想い起しておこう。

私は旅や探検が嫌いだ。それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている。だが、そう心に決めるまでにどれだけ時間がかかったことか!(……)

研究の目的に到達するために、これほどの努力とむだな消耗が必要だということは、私たちの仕事のむしろ短所とみなすべきで、なんらとりたてて賞賛すべきことではない。私たちがあれほど遠くまでさがし求めにいく真理は、このような挟雑物を取り去ったのちに、初めて価値をもつのである。(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』川田順造訳)

レヴィ=ストロースの言っていることを、ラカンの四つの言説の構造に当てはまれば次のようになる。



…………

ところで、資本の言説が倒錯の言説(社会的つながり)だとして、どうして倒錯で悪いのか、と素朴に問うこともできるだろう。たとえばドゥルーズは「倒錯」を顕揚したではないか、と。

それについては、「倒錯者の言説(マゾヒストの言説)」にいくらか記した。ここでは「個人の症状」としての倒錯のポイントとなる二つの文だけ再掲しよう。

臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。(ポール・バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II)
ほとんどの事例で、男性の倒錯者は、彼が事態を支配しなければならないとしてさえ、大他者の全的享楽の対象として自らを表す。女性の倒錯者は母のポジションから出発する。その意味は、彼女は自身の欠如を埋め合わせる対象として他者を定義づけるということである。(……)

要約しよう。母は自分の子供を想像的ファルスの位置に保ったままにする。父は受動的観察者の位置に還元される。母の想像的ファルスの位置に同一化した息子は、大他者の位置にある他者に対して同じ過程を能動的に反復する。娘は彼女自身の子供に焦点を当てる傾向がある。こうして原初の過程を反復する。(同 Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF


2017年4月19日水曜日

無自覚な究極の倒錯者

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (ラカン、S10)

…………

フロイトの「資本」論と「快の獲得」」についてナンタラ言ってる無自覚な倒錯者がいるが、肝腎なのは、〈きみ〉の振舞い自体が、倒錯的ではないか、と疑うことだよ。もちろん〈きみ〉のなかにはこの〈わたくし〉もいる。

リビドー経済において、反復強迫の倒錯行為に煩わされない「純粋な」快原理はない。倒錯行為とは、快原理の観点からは説明されえない。同様に、商品の交換の領野において、別の商品を買うために商品を貨幣に交換するという直接的な閉じられた循環はない。もっと多くの貨幣を得るために商品を売買する倒錯的論理によって蝕まれていないような循環はないのだ。この論理においては、貨幣はもはや単なる商品交換のための媒体ではなく、それ自体が目的となる。

唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)

ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。


《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)

「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作用する。人は目的地を見失い、人は動作を繰り返す。何度も何度も試みる。本当の目標は、もはや目指された目的地ではなく、そこに到ろうとする試みの反復動作自体である。形式と内容の用語でもまた言いうる。「形式」は、欲望された内容に接近する様式を表す。すなわち、欲望された内容(対象)は、快を提供することを約束する一方で、剰余享楽は、目的地を追求することのまさに形式(手順)である。

口唇欲動がいかに機能するかの古典的事例がある。乳房を吸うという目的は、母乳によって満たされることである。リビドー的獲得は、吸啜の反復性動作によってもたらされ、したがってそれ自体が目的となる。

(……)Lustgewinn(快の獲得)の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快の断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は、抑圧の欲望へと反転、等々。すべての事例において、獲得は「パフォーマティヴな」レベルで発生する。すなわち、目的地に到達することではなく、目的地に向かっての動作の、まさにパフォーマンスによって生み出される。(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)

〈きみ〉のはしたないツイートというのは、あきらかにひどい倒錯だよ。ようはツイート活動自体が目的となっている。

そもそも言語活動自体が倒錯であるとさえ言える。

言語活動の不幸は、それ自身の確実性を証明できないところにある(しかしまた、おそらくそれが言語活動の逸楽でもあるのだ mais aussi peut—être la volupté)。言語活動のノエマはおそらく、その不能性にある。あるいはさらに積極的に言えば、言語活動とは本来的に虚構である、ということなのである。言語活動を虚構でないものにしようとすると、とほうもなく大がかりな手段を講じなければならない。論理にたよるか、さもなければ、誓約に頼らなければならない。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

さらにもっと強烈に次のように引用してもよい。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche?。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリスティヴァ1980,J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)

これらの認識がない者たちを、ラカンは去勢の排除者と呼んでいる。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972ーー四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説))

しかしながら、現代ラカン派では、ラカンの去勢の排除(精神病)ではなく、去勢の否認、つまり倒錯とする捉え方が主流である。つまり、あれらツイッター村で典型的な破廉恥漢たちは、 《市場原理主義がむきだしの素顔を見せ》るようになった(中井久夫) 、1990年以降に人格形成期を経た典型的な倒錯者である。ほとんどみな倒錯者であるので、みずからの症状に気づかないだけである。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDFーー「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」)
資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

この症状は、現代にフロイトが生きていたら、「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften 」の対象とするはずである(参照:「父の溶解霧散」後の「文化共同体病理学」)。

くりかえすが、わたくしもこの時代に生きているわけで、仮に旧世代であったにしろ、この病理から免れているわけではけっしてない。だが最悪の病人とは、全く自覚症状のない〈きみ〉のような種族であることは間違いない。


フロイトの「資本」論と「快の獲得」

まずフロイトの「資本」論から。

夢が必要とした欲動の力 Triebkraft は、ある願望 Wunsche によって提供されねばならなかった。夢の欲動の力として振舞う願望 Wunsch als Triebkraft des Traumes、それを捕えることが、心配の関心事だった。

この状況は次の喩えで説明しうる。すなわち日中思考は、夢にとって企業家 Unternehmers の役割を大いに演じうる。しかし企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない ohne Capital nichts machen。彼は、出資 Aufwand してくれる資本家 Capitalisten が必要である。夢にとっての心的出資 psychischenAufwand を提供する資本家 Capitalist とは、その日中思考がどんなものであろうと、例外なしに必ず、無意識からの願望 Wunsch aus dem ünbewussten である。

資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである。日中作業によって、ある無意識的な願望が刺激を受ける。そしてこの願望が夢を作り出す。… (フロイト『夢解釈』第七章)


次にマルクスの『資本論』より。

諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』)

「自動的主体 automatisches Subjekt 」とは、ラカンの「無頭の主体 sujet acéphale」のことである。

欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。

la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)

そしてマルクスの「剰余価値」とは「症状」のことである。

…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)

そして、

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽である。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

である。

フロイトの「快の獲得」概念は、1905年の『機知』論文に初めて出現するが、ここでは最晩年の叙述を抜き出す。

まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

《栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたもの》とあるが、これをラカンは《享楽欠如の拡張生産》としている。

この宝貝、つまり剰余価値、それはひとつの経済が自らの原理をつくるための欲望の原因である。この原理とは、「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、つまり飽くことをしらないものとしてのそれである。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

なぜ享楽欠如というのか。

フロイト曰く「栄養とは無関係」だから。
マルクス的に言えば、実際の使用価値を断念して自己目的(自己増殖)となるから。

…………

フロイトの「資本」論に戻る。「夢が必要とした欲動の力 Triebkraft」 とは「資本」とあった。そして《企業家ーープランを抱いてそれを実現しようとする彼ーーは、資本なしでは何もできない 》ともあった。

フロイトの「資本」をめぐる叙述と「快の獲得」概念を、ラカンの「資本の言説」にあてはめれば、次のようになる。



さらにまた《資本家 Capitalist が同時に企業家 Unternehmer を兼ねる場合もある。いやこれがもっともありふれた夢の場合なのである》という記述を生かし、快の獲得=剰余価値、プランとは商品の生産・売買とすれば、次のように図示できる。





資本の言説は主人の言説の突然変異であり(参照:四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説))、ラカンがまだ資本の言説概念を提出していない時期に、主人の言説について次のように言っている。

主人の言説は主体の支配とともに始まる。主人の言説が、超限定された神話・それ自身のシニフィアンに同一化すること [ $ ≡ S1 ] によってのみ支えられる傾向がある限りで。(S17、18 Février 1970)

これは企業家$と資本S1の合体である[ $ ≡ S1 ]。

ラカンはこれまた「資本の言説」とは別の文脈においてだが、《真理のなかでの主体と主人の出現の地平 l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité》において、 《それ自体、等価 égalité à soi-même》となることを、主人の言説の特徴としている。

Il en est tout autre chose de ce qui se trouve à l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité qui s'affirme de son égalité à soi-même, de cette « je-cratie » dont je parlais une fois, et qui est, semble-t-il, l'essence de toute affirmation dans la culture qui a vu fleurir entre toutes ce discours du Maître. (Lacan, S17, 11 Février 1970 )

上にあらわした図は、真理のポジションにおいて、「動作主 agent のポジションにある企業家$」と「真理 verite のポジションにある資本S1」が合体したことを示したのである。




こうしてマルクスのG-W-G'(M-C-M' )、すなわち「貨幣-商品-貨幣+剰余価値」は、フロイトの資本論のなかにもあることが形式的に理解できる。

Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious, 2015)

…………

もちろん上の叙述自体は、柄谷行人がすでに『トランスクリティーク』で明晰に言っていることでもある。

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

ーーフロイトの無意識論も、『マゾヒズムの経済的問題』を想い起すまでもなく、つねに「経済的なもの」である。その経済的=交換的なもののことを、ラカンは「言説」と呼ぶ。ラカンにとってのその意味は、《社会的つながりの機能 fonction de lien social》(1972)である。

まず最初の誤謬を取り除かねばならない。想い起こそう、(ラカンにとって)「言説」とは「語の集合」ではないことを。「資本家の言説」という表現は、資本主義の生産様式の支配に由来する社会的絆を指している。ある意味で、「言説」という用語は「生産様式」という用語に代替される。(capitalist exemptIon,Pierre Bruno,2010、pdf)

このPierre Brunoの考え方は、岩井克人の資本の主義/資本の論理の区別とともに読むといっそう味わい深い(参照:「父の眼差し」の時代から「母の声」の時代への移行)。

ようするに資本の生産様式が移行すれば、人間間の社会的つながり方は変わるのである。これをラカン派では主に神経症から倒錯への移行(主人の言説から資本の言説への移行)とする。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDF)

人間は誰もがもともと倒錯的であるにしろーー《倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme》(Lacan, S24, 1977)ーー、ある時期からの社会的つながりは、エディプス(主人)のタガが外れて、前エディプス的な裸の倒錯に近いものになっている、という考え方である。

資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

 サモ・トムシックがこの‟The Capitalist Unconscious” 以降に書いた小論では、さらに次のように言っている。

…(フロイト・ラカンによる)「社会的生産様式」を支えるメカニズムへの固有の洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち、「資本主義のなかの居心地の悪さDas Unbehagen im Kapitalismus」のほうが「文化の中の居心地の悪さ Das Unbehagen in der Kultur」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。(Samo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2015,PDF

さて、これらの文脈のなかで、柄谷行人の『トランスクリティーク』におけるマルクスの価値形態論、あるいはフェティシュをめぐる記述を読んでみると、資本の論理(資本の欲動)がいかに倒錯的(フェティシュ的)であるのかがあらためてよく理解できる。

マルクスの考えでは、金が貨幣となるのは、それが金だからではなくて、一般的等価形態におかれたからである。彼が見ようとしたのは、そこに位置する生産物を商品たらしめたり、貨幣たらしめる「価値形式」 ――相対的価値形態と等価形態 ――である。それが素材的に何であろうと、排他的に一般的等価形態におかれたものは貨幣である。一般的等価形態におかれた物(そしてその所有者)は、他の何とでも交換できる「権利」をもつ。人が或るもの、たとえば金を崇高と見なすのは、それが金だからではなく、それが一般的等価形態におかれているからだ。マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動 ――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。

しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にはそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
……財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G’( G+ ⊿G )を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。だからここでいう商品のフェティシズムは消費社会における商品のフェティシズム ―たとえば人を店のショーウィンドウに釘付けにするような ―と混同されてはならない。むしろ、それは消費するかわりに、いつでもそうできるという「権利」を持とうとする欲動なのであり、それが一商品(金)を崇高なものとするのである。

私がここで焦点を当てたいのは、資本の自己増殖がいかに可能か( ……)ではなく、なぜ資本主義の運動がはてしなく( endlessly)続かざるをえないか、という問いである。実は、それは end-less(無目的的)でもある。貨幣(金)を追いもとめる商人資本=重商主義が「倒錯」だとしても、実は産業資本をまたその「倒錯」を受けついでいる。実際に、産業資本主義がはじまる前に、信用体系をふくめてすべての装置ができあがっており、産業資本主義はその中で始まり、且つそれを自己流に改編したにすぎない。では資本主義的な経済活動を動機づけるその「倒錯」は、何なのか。いうまでもなく、貨幣(商品)のフェティシズムである。

マルクスは、資本の源泉にまさしく貨幣のフェティシズムに固執する守銭奴(貨幣退蔵者)を見いだしている。貨幣をもつことは、いつどこでもいかなるものとも直接的に交換しうるという「社会的権利」をもつことである。貨幣退蔵者とは、この「権利」ゆえに、実際の使用価値を断念する者の謂である。貨幣を媒体ではなく自己目的とすること、つまり「黄金欲」や「致富衝動」は、けっして物(使用価値)に対する必要や欲望からくるのではない。守銭奴は、皮肉なことに、物質的に無欲なのであるちょうど「天国に宝を積む」ために、この世において無欲な信仰者のように。守銭奴には、宗教的倒錯と類似したものがある。事実、世界宗教も、流通が一定の「世界性」 ――諸共同体の「間」に形成されやがて諸共同体にも内面化される ――をもちえたときにあらわれたのである。もし宗教的な倒錯に崇高なものを見いだすならば、守銭奴にもそうすべきだろう。守銭奴に下劣な心情(ルサンチマン)を見いだすならば、宗教的な倒錯者にもそうすべきだろう。(『トランスクリティーク』)

この柄谷行人の文は意図せずに、ラカンの次の言明の解説になっている。

欲望の搾取、これが資本の言説の偉大な発明である L’exploitation du désir, c’est la grande invention du discours capitaliste(ラカン、Excursus, 1972)

柄谷行人は最近の英論文でもこう言っている。

資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

剰余価値というフェティシズムは、形態が核心である。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態 Form そのものからである。(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

つまり、もの(対象)ではなく、形態がマルクスのフェティシズムの核心である。

株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

この「絶対フェティシュ」(絶対的フェティシュ)は、絶対的剰余価値の「絶対」とは全く意味が異なる。

では絶対フェティシュとは何か?

われわれは、 標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品フェティッシュWarenfetischs」の題目の、徹底した再形式化が必要である。(……)

逆説的なことに、フェティシズムは、フェティッシュが「脱物象化」されたときに頂点に達する。(ジジェク、LESS THAN NOTHIHNG,2012)

次のジジェク文の、外密 Extimitéとしての対象a は、柄谷のいう「絶対フェティッシュ」のことである。

ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

以下の文の「対象a=剰余価値」に「フェティシュ」を代入して読んでおこう。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

これでマルクスの二種類のフェティシュが理解できるだろう。すなわち、形態 Form そのもののフェティシュ/物象化されたフェティシュ(たとえば黄金物神 Geldfetisch)が。