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2015年9月25日金曜日

ツイッターの役者たち

われわれの友人は、各自に多くの欠点をもっているから、そんな友人を愛しつづけるにはーーその才能、その善意、そのやさしい気立てを考えてーーその欠点をあきらめるようにするか、またはむしろ、積極的にわれわれの善意を出しきってその欠点をのんでしまうようにつとめなくてはならない。不幸にも、友人の欠点を見まいとするわれわれの親切な根気は、相手が盲目のために、それとも相手が他人を盲目だと思いこんでいるために、あくまでその欠点をすてないので、その頑固さにうちまかされてしまう。相手は、なかなか自分の欠点に気がつかず、また自分では他人に欠点を気づかれないと思いこんでいるのだ。 (プルースト『花咲く乙女たちのかげに 第二部』井上究一郎訳)

わたくしはどちらかというといわゆる「性格の悪い」方なのだが、たとえば他人のツイートを眺めているとどうもニヤニヤしながら悪口を言ってみたくなる傾向がある(わたくしがとくにツイッターでの発話に注目するのは海外住まいのせいで日本語でなされる「ナマの」発話行為は、ほとんどそこでしかお目にかかれないからだ)。他人の欠点とは自分の欠点よりもずっと目にとまりやすいものだから、自分の欠点に気づかぬままに他人を罵倒をしてはならぬと自制してみるのだが、ときおりふとその自制が剥がれてしまう。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫『世界における徴候と索引』)

ツイッターでは発話者の欠点が目につきやすいとまでいわないまでも、次のような「錯覚に閉じこもり得る」のがしばしばであるのは(わたくしの場合)歴然としている。

Twitter は、賛成や反対を表明するにしてもその表明の仕方において、また、無視するにしてもその流し方において、また、 皮肉や弁明や留保の書き方において、また、ツイートを停止するその時間の取り方において、その立場がモロに手に取るように透けて見えてくるツールである。恐ろしいものである。 (小泉義之「切れ目」などについて)

これ以外にもツイッターの現場感とは、「眼前でたえず生成するテキスト」であるだろう。それはメンションでやりとりして対話相手がアツクなったときにことさら著しい。

……精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007初出『日時計の影』所収)

ーーなどと記しているのは、小林秀雄の愉快な文に行き当たったからである。

文藝春秋祭で、毎年文士劇をやっている。今はもう面倒臭くなったから出ないが、以前は何度も出た事がある。だから役者の経験はあるなどと馬鹿な事を言うのではないが、役者とはこんなものという一種の感じだけは、はっきり摑めたように思っている。言ってみれば、見物を瞞着する快感である。この辺で笑うなと思っていると笑う。もうそろそろ泣き出すなと思っていると泣き出す。役者というものは、何と面白いものだろう、商売になったらやめられない筈だと思った。だが、そう言って了っても拙いので、やってみて初めてわかった感じはもっと微妙なものであった。

たかが文士劇だ、無論やる当人もそう思っていた。ところが、やってみると文士劇も芝居であると合点した。芝居という或るどうにもならぬ世界があって、其処へ、文士劇であろうが、何劇であろうが、這入って行く、どうもそういうものらしい。川口松太郎とか今日出海とかいう連中は実にうまいが、それは根が器用な男だからではない。私の観察によれば、彼等にはたかが文士劇と見くびる心が少しもない。彼等の身についた芝居の教養がそれを極く自然に許さない。そういう事だと思った。

菊池寛の「父帰る」をやった事がある。私が兄の賢一郎をやり、井上友一郎が弟の新二郎をやった。彼には初対面であったが、稽古をやり、東京で二回やり、大阪でやり、京都でやりしているうちに、お互いに妙に情のうつるものだ。個人的感情を越えた芝居の感情が作用するらしい。芝居がすんで、しばらくして、新二郎にぱったり出くわしたら、「今度、桃中軒雲右衛門という本を出すから、序文を書いてくれ、兄貴」と言われた。仕方がないから、中身はよく知らないが、弟が力作だというから面白いものだろう、どうぞよろしくと言った風な事を書いた。芝居がつづいているようなものである。

彼は舞台で、私とのやりとりで、感情がたかぶって来ると眼に涙をためる事があった。それが直ぐこちらに反射して、おやおやと思うほど妙に調子が合う事がある。夢中であってはいるのだが、頭の何処かが覚めていて、しめたうまく行っていると感じている。無論こんな事は、玄人からみれば、ほんの役者のいろはに違いないが、私にはやってみて初めて感じられてひどく面白い事に思えた。舞台で役に成り切るなどという事は嘘で、何かが覚めているものだ。玄人が新二郎をやれば、眼に涙なぞ溜めなくても、もっとうまくやるに決まっている。だが、私の言うのは、役者のいろはである。感情がたかぶらなければ、井上君は眼に涙を溜めやしないが、たかぶるのは日常現実の感情ではあるまい。芝居の秩序に従って整頓された感情であろう。泣いてはいるが、心を乱してはいまい。新二郎に成り切りながら、見物の眼をはっきり感じとっている。そういう時に、私はなるほど役者とはこれだなという言いようのない快感を覚えた。見物を瞞着する快感と前に言ったのはそういう意味だ。恐らく、この初歩的敬虔はどんな名優にも通じているものだと推察する。(小林秀雄「役者」『考えるヒント』所収)

まず冒頭近くに、《この辺で笑うなと思っていると笑う。もうそろそろ泣き出すなと思っていると泣き出す。役者というものは、何と面白いものだろう、商売になったらやめられない筈だと思った》とある。

ツイッターで多くのフォロワーをもった発言者はこれと似たようなことがあるのではないか。それをフォロワーを瞞着する快楽とまでは言わないでおくが(かつまたそれはフォロワー数の多寡にはあまり関係がないのかもしれない)。

そもそもリツイートやファヴォとは観衆の拍手や反応に似た効果をもっているのではないだろうか。そしてそれに《言いようのない快感を覚え》てしまえば、俳優的振舞いを《やめられない》ということになるのではないか。いずれにせよ彼らは多くの場合、《見物の眼をはっきり感じとって》ツイートをしているに相違ない。そしてそれは多かれ少なかれツイッターという場では誰もが同じだろう。ただ見物から多くの拍手を受けるかどうかの相違はあるということだけだ。

ところで上の文に引き続く文がさらに面白い。

「父帰る」をやっているうちに、だんだん巧くなった。大阪まで来ると、幕が下りても誰も手をたたかない。みんな泣いている。これはちと大袈裟だが、まあそいう言った具合で、大阪がすむと気がゆるんだ。今までも、芝居は何も芸で持って来たわけではない、ただ一所懸命で持って来たのであるから、気がゆるんだ途端に大失敗をした。

京都には井上君の知合いが多いらしく、「友チャーン」などと出ない前から騒々しい。私はちゃぶ台の前に坐り、お燗をしながら、弟の帰りを待っている。すると弟の奴、只今ァと玄関から草履をはいたまま上って来た。あわてて脱いだが、これは幸い見物には見えない。着物に着かえる時、袖も一緒に結んで了った。今日はちょっと様子がおかしいぞ、だが、これも大した事ではない。弟は、ちゃぶ台の前に坐り、二十年前に家を出た父親らしい人物を近所の人が見たという話をする。

言わばこのせりふで芝居が始まる、そういう大事なせりふで、やってみると、その切っかけと間(ま)とが容易でない事がわかった。二人で相談の上、兄から酒をついでもらい、一杯のんでから始めるという事にし、それでまことにうまくやって来た。ところが、今日は、盃などに目もくれず、坐るや否や、兄さんと来た。こりゃ、いけねえと私は思った。弟の意外な話を聞き終り、母親と兄弟と妹と四人がめいめい違った想いに沈み、しばらく舞台は沈黙する。ここで、弟は取って置きの名ぜりふを言わねばならぬ。菊池寛の芝居は大雑把のようでいて、実は細かいので、――「おたあさん、今日浄願寺の森で、モズが啼いとりましたよ。もう秋じゃ」――このせりふ一つで、急に見物は舞台に秋を感ずる。それを、弟の奴、フクロが啼いとりましたよ、とやって了った。

妙な事だが、と言って、考えてみれば少しも妙な事ではないのだが、見物はモズでもフクロでもどっちだって構わないのである。事実、見物はフクロが啼いとりましたでは笑わなかった。せりふというものはそういうものらしい。「もう秋じゃ」というこなしがあればよい。菊池寛のような写実のせりふでも、写実主義は台本の上にあるだけなので、とぼけていれば何の事なくすんだのに、あっモズだと訂正したからどッと来た。

これが切っかけで、「父帰る」という芝居の幕は下り、「父帰る」をやる文士劇の幕が開いて了ったのである。見物は大喜びで、こんどは何を笑ってやろうかと身構えて了った。この辺りから賢一郎の深刻なせりふがつづくのだが、こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない。芝居が進んで、父親が登場し、父親から賢一郎と呼ばれて、「賢一郎は、二十年前、筑港で死んどる」と恨みをこめて発言すると、何がおかしいのか、未だゲラゲラ笑われるのには驚いた。私はこの時ほど、芝居というものの不思議さを、身にしみて味った事はない。この状態は長くつづいた。

見物が再び「父帰る」という芝居のうちに、這入り込んで来るのには、ずい分長い時間がかかった。この間の状態とは何だろう。私達素人役者の失敗によって、たまたまかもし出されたこの特別の状態とは何だろう。なるほど見物は芝居を見ることを止めたが、決して我れに還ったのではない。芝居をやる文士というもう一つの新しい芝居を見る事にしたのである。これは言葉を代えれば、見物席の見物が主役となり、舞台の役者が端役となって、新たな芝居が演じられる事になった、そういう状態に他なるまい。場内全体を舞台とする、このような芝居を見る人は無論いない。だが精神の眼には見えている。という事は、この特別の状態は、普通に芝居が行なわれている時にも、いつも潜在的に存する状態だと考えられるという事だ。劇場内の見物も亦役者と共演する一種の役者である。芝居を見る楽しさはそこにある。私達は芝居を見に行くのではなく、心のなかで役者と共演しに行くのである。(同「役者」)

ある失敗が切っかけで、《「父帰る」という芝居の幕は下り、「父帰る」をやる文士劇の幕が開いて了った》とある。そして《こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない》と。

ツイッターでインテリ「役者」として振舞っている人物はいくらでもいるだろう。しかしあるしくじった発言をしてーー、たとえばふだんは正義派の発言をし続けていながら、ふとしたことから「人間の顔をしたル・ペン主義(差別主義者)」であることが周知してしまうとする。とすれば、そこでは「正義派」の芝居をやる差別主義者の芝居の幕が開くだろう。

すると《こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない》ということになる。こうなれば観衆の出番だ。フォロワーたちが主役となり、《舞台の役者が端役となって、新たな芝居が演じられる事》になる。誰もがいままで何度もこういった現象を見てきたのではないか。

それは差別主義者ということだけではない。要はニーチェのいう《その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきもの》の悪臭がツイッター上で拡散してしまったという場合だ。

その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。(ニーチェ『この人を見よ』)

教育の上塗りによって隠れていた汚れが露顕するときほど、フォロワーにとって「嬉しい」ものはない・・・

かつまた《みにくさはたやすく美しくなるような顔立ちにおいていっそうよく目立つ》(アラン)のであれば、醜さはインテリ正義派として振舞う発話行為いおいていっそうよく目立つと言いうる。

わたくしはすぐさまツイッター上でこのような目に不幸にも遭遇した「知識人」の名を四、五人は挙げられそうだが、ここでは慎んでおく・・・

ところで小林秀雄は《見物が再び「父帰る」という芝居のうちに、這入り込んで来るのには、ずい分長い時間がかかった》と記しているが、幸いなことに最近の観衆はひどく健忘症なので、三ヶ月もたてばすっかり忘れている。インテリ役者にとってはひどく幸福な時代である。

とはいえ見物人はインテリ役者の失態を待ち望んでいることは昔も今もかわらない。

注目された〈わたし〉が落ちていく姿、それを誰もが見たいんだから……。自分は事故のとき痛切に感じたですね……。マスコミから一般の人たちの憶測に秘められた嬉しさ……、ちょっとゾッとしますね……(北野武のバイク事故後の発話より

仮に失態に親身に同情するかのようでも、それは殆どの場合、《権威が揺らいだにせの王への、無邪気に偽装された侮蔑》(大江健三郎)である。

《何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする》(中井久夫「いじめの政治学」)のであり、インテリ役者の凋落を嬉しがる心性もこの人間には免れがたいメカニズムの顕れにすぎない。

…………

蚊居肢子世ノ好事家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、
ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。

諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。

性格の法則を研究する場合でさえ、われわれはまじめな人間を選んでも、浮薄な人間を選んでも、べつに変わりなく性格の法則を研究できるのだ、あたかも解剖学教室の助手が、ばかな人間の屍体についても、才能ある人間の屍体についても、おなじように解剖学の法則を研究できるように。つまり精神を支配する大法則は、血液の循環または腎臓の排泄の法則とおなじく、個人の知的価値によって異なることはほとんどないのである。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)


2015年9月24日木曜日

フロイトとラカンの「父の機能」(PAUL VERHAEGHE)

貴種流離譚変奏としてのフロイトエディプス理論」から引き続く。

女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ(ラカン、セミネールX(不安))

ーーもちろんこれはわたくしの意訳であるが、「Le seminaire, livre X: L' angoisse」に出てくる数箇所の la mante religieuse(カマキリ)をめぐる叙述をまとめればこう要約できる(参照:子どもを誘惑する母(フロイト))。

母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。(ラカン、セミネールⅩⅦ(精神分析の裏面))

などとしきりにオッシャラレタLacanだが、セミネールⅩⅦ以降は、こんなひどいことは言わなくなった(わたくしの知るかぎり)。なにか変わったのだろうか。齢を重ねたせいだけだろうか。

これは「父の機能」解釈にかかわるはずだが、比較的初期からその機能に言及していなかったわけではない(参照)。

ジジェクは「父の機能」がないとどうなるかについて、90年前後からしきりに記してわれわれはそれを面白く読んだ。

父親は不在で、父性的機能(平和をもたらす法の機能、父-の-名)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我は恣意的で、邪悪で、「正常な」性的関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想が不十分なために法が獰猛な母なる超自我へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』1991)

ジジェクと異なり穏やかで地味な臨床家ポール・ヴェルハーゲはーーとはいえ彼の90年代の仕事はジジェク解釈の引用が豊富であり、たとえば「主体の解任」という最も臨床的な概念でさえジジェクによって最初に鮮明に語られたと暗に他の分析家たちの凡庸ぶりを腐しているーーこのヴェルハーゲは父の機能についてこう説明する。

初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、the NAMES of the father(Les Noms-du-Père引用者)と。疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけるnamegivingことを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体に独自のシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe,1999、私訳)

ここには後期ラカンのサントーム理論に近いことが記されているのだが、いまはそれに触れない(参照:「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)。

ここではヴェルハーゲは最近の著書(2009)で次のように書いていることに注目したい。

フロイトの最晩年の著作『モーセと一神教』をめぐって書かれた箇所である。

……モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分、すなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)の想像的なエラボレーション、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の男性による投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムにて統合されたものである。.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

フロイトやラカンの母や女が怖いなどという理論は、実際は、女たちを犠牲にした男自身の手に負えない欲動(享楽)への防衛機制による「投影」にすぎない、としている。ここにヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判がある。彼らの理論は神経症的であり、症状的なのである。


他方、ヴェルハーゲは、「父の機能」的側面について、後期ラカンがようやくその真価に気づいただけでなく、フロイトさえもそのエディプス理論再構築のなかで「父の機能」にほとんど気づいていた、としている記述もある。

彼はもともとこう書いていた。

『トーテムとタブー』1913の原父についてはただ忘れたほうがよい。『モーセと一神教』1939における臨床的な示唆を研究するほうがはるかに興味深い。この仕事において、フロイトは父の象徴的な機能の考え方をわれわれに提示している。それは、母たちから来る不可解な何かへの不安を基盤として、息子によって設置される何かである。そんなに難しいことではない、ラカンの後期の理論をこのフロイトの神話の中へ読み込むことは。主体は全的な疎外を怖れているのだ。すなわち、現実界の享楽のなかでの消滅を。そして象徴界のなかに対抗策を探し求める。この象徴界の影響は、フロイトの研究そのものの中に、まったく明白に見出せる、とくにラカンを通してフロイトを読むのなら。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)1999、私訳)

ーーフロイトの『トーテムとタブー』にあらわれるエディプス理論など忘れたほうがいい、ただし最晩年の『モーセと一神教』は傾聴に値すると。

今のは1999年の書の記述だが、ここでもう一度2009年の書に戻れば、ヴェルハーゲはフロイトの「モーセと一神教」から次ぎの文を抜き出して、フロイトを惜しんでいる、ああ、いま一歩のところだったのに、と。

That religion also brought the Jews a far grander conception of God, or, as we might put it more modestly, the conception of a grander God.

独原文は次ぎの通り。

Die Religion brachte den Juden auch eine weit großartigere Gottesvorstellung, oder, wie man nüch-tern sagen könnte, die Vorstellung eines großartigeren Gottes(Sigmund Freud、Der Mann Moses und die monotheistische Religion)

ようするに、ヴェルハーゲはここにフロイトにとっての「父の機能」概念を読み取っているのだ。

…………

肝腎なのは「権威としての父」ではなく「父の機能」である。われわれは勘違いしてきたのではないか。権威としての父を打ち倒したのはいい(フェミニスム運動等)。だがそれと一緒に「父の機能」まで捨て去ってしまったのではないか。

仏ラカン派女流分析家の第一人者 コレット・ソレールは、今世紀に入る前後、われわれの世紀を次ぎのように定義した、すなわちわれわれは「父」をその役割に教育しなおしたい世紀だと。 

「権威としての父」/「父の機能」とは、柄谷行人=カントの構成的理念/統整的理念に限りなく近い。

キルケゴールは、「思弁は後ろ向きであり、倫理は前向きである」といった。その意味で、彼はヘーゲルからカントに戻っている。実は、マルクスも同様である。彼もヘーゲルからカントに向かったのだ。未来に向かって現状を乗り越える、つまり事前の立場に立つ者は、理性の統整的使用を必要とする。マルクスは歴史に関して構成的理念を一切斥けた。つまり、未来社会についての設計を語らなかった。彼にとって、コミュニズムは統整的理念である。そして、彼はそれを生涯保持した。

しかるに、コミュニズムを歴史の必然として、社会を理性的に構成しようとしたマルクス主義者は、ヘーゲルの事後的な立場を、事前の立場に持ち込んだことになる。そのようにして、統整的理念と構成的理念が混同される。「理性の構成的使用」は暴力的強制となる。その結果、理念一般が、あるいは理性一般が否定されるようになった。(柄谷行人 第一回 長池講義 講義録 2007)


われわれは「権威としての父」/「父の機能」を混同して、父の機能さえ否定してしまったのではないか。

その結果なにが生じているか。

要なことは、権力powerと権威authorityの相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

明らかなことは、第三者がうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

さてどうしたらいいのか。すこし前に「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)との表題で主人のシニフィアンS1をめぐって曖昧に記した。ようするに皺のない新しいS1、新しい父の機能、新しい名付け、新しい統整的理念をめぐっている。そしてこの考え方のより基本的な起源は、Lorenzo Chiesaとジジェクによるミレールのサントーム解釈批判にある(参照)。

※ここで強調しておくが、「父の機能」を担うのは解剖学的な男/女とはまったく関係がない。すこしでも思い起してみればそれはすぐさま判然とするだろう、脱原発、脱財政赤字、難民受入れ推進のドイツ連邦首相メルケルとわが国の(安倍に代表される)総理大臣たちとどちらが「父の機能」をより発揮しているかを(参照:「きたるべきメーメーアイコク・ヒツジさんたち」)。

…………

最後にヴェルハーゲによるフロイト・ラカン批判ーー上に引用された内容のより具体的な記述ーーを掲げておこう。かつて次ぎのように書いたヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判である。

フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます。だがら、もしラカンが止揚(Aufhebung)したというなら、わたしたちはそれが何の意味なのか説明する必要があります。ラカンはその理論において何を獲得したのか? と。(ヴェルハーゲーー「忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念」)

さてヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判である。

後期ラカンはフロイトの錯誤(誤った推論)を公然と非難した。…

この非難はきわめて後期のセミネールでなされた。それ以前は、彼らは異なった時代に書いているにもかかわらず、二人の理論はとても似ている。両方の理論とも、母に関する欲動に支配された危険に対する欠かせない支えとして父への嘆願、陳謝にさえ至るエディプス理論を展開した。

両者のあいだの最も重要な相違は、フロイトにとって危険は母への子どもの欲望(事実上、息子の欲望)に起源があり、他方ラカンにとってはあべこべだということだ。

ラカンにおいては、危険は子どもをあまりにも強く欲望する母(事実上、彼女の息子への欲望)に起源がある。この相違を脇にやれば、彼らの理論は全能の父の形象からの解決を期待するという点で類似している。彼らの理論のまさにこの側面、ーー私はそれを底に横たわる問題への神経症的応答としての(理論を通した)治療上の裏書きendorsementだと考える。
誤解のないように言おう。私は子どもたちを損なって楽しむ超-権威主義的な父(原父のスタイル)の存在を否定するつもりはない。貪り食う母、ああ、それもたんなる神経症のフィクションではない。

私の批判はフロイトとラカンともにある方法論的錯誤に向けられている。彼らの臨床実践の過程で見出された不安と不安に対する防衛が(十分に)分析されていないのだ。その代わりにそれらは一般化された理論として提出され、患者の信念を支えてしまうものとして使われている。

これは精神分析治療が提供しうるものとは全く逆だ。我々自身の、かつまた我々の患者についてのイマジネールな構築物、欲動に対処するために我々が必要とする構築物に疑義を呈する可能性を作り出すこと。それが分析治療である。そうではなく、これらの構築物を臨床的に裏書きしてしまうなどということは、実質上問いの可能性の根を絶ってしまう。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

もちろんわれわれはこのヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判を額面通り受け取る必要はない。ただしこうはいっておこう、《真理への愛は弱さへの愛、真理が隠している去勢への愛である》と。

Cet amour de la vérité, c'est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s'appelle la castration.(Lacan,Séminaire 17 Staferla 版 p.66)




2015年9月23日水曜日

貴種流離譚変奏としてのフロイトエディプス理論

(フロイト理論というのは)ある場合は、経験から神話へと進行する、そして神話から構造へと。他の場合は、事実を説明するために神話が発明される。言い換えれば、(フロイトは)患者を診察するかわりに病人のように振る舞っている。(レヴィ=ストロース 『親族の基本構造』)

ーーこのように記すレヴィ=ストロースは、他方、『悲しき熱帯』にて、若き彼の二人の真の師としてマルクス、フロイトを掲げていることに注意しておこう。

…………

マルト・ロベールは、フロイトの「家族小説(ファミリー・ロマンス)」概念を元に「私生児」と「捨子」という類型を提唱したのだが、たとえばあらゆる作家はこの二類型に分類されるとしている(『起源の小説と小説の起源』)。これはいわば貴種流離譚の精神分析ヴァージョンであり、小説の分析ではなく物語の分析としては、実際のところ多くが当てはまる。村上春樹の小説などはその典型だろう。

蓮實重彦もその『小説から遠く離れて』にてマルト・ロベールに言及しているのだが(P.185)、マルト・ロベール=フロイトの「私生児」あるいは「捨て子」概念を援用した日本ヴァージョンの物語分析としてまずはよい。「まずは」、としたのは蓮實重彦はマルト・ロベールのような分析にはウンザリするといっており、『小説から遠く離れて』という表題は反語であり、物語/小説の対比がなされて後者の顕揚がなされるのがこの書のテーマだからだ。

とはいえ実際のところ日本の(すくなくともある時期の)名高い作家たちの作品は似たような物語構造に当て嵌まってしまう。

どこかに一人の男がいて、誰かから何かを「依頼」されることから物語が始まっている。その「依頼」は、いま視界から隠されている貴重な何かを発見することを男に求める。それ故に、男は発見の旅へと出発しなければならない。それが「宝探し」である。ところが何かがその冒険を妨害しにかかる。多くの場合、妨害者はしかるべき権力を握った年上の権力者であり、その権力維持のために、さまざまな儀式を演出する。儀式はある共同体内部での「権力の譲渡」にかかわるものであり、そこで譲渡されべき権力と発見される貴重品とは、深い関係にあるものらしい。そのため、依頼された冒険ははかばかしく進展しなくなるのも明白だろう。発見は、とうぜんのことながら遅れざるをえない。その遅延ぶりを促進すべく予期せぬ協力者が現われ、ともすれば気落ちしそうになる男を勇気づける。協力者は、同性であるなら分身のような存在だし、異性であれば妹に似た血縁者である。二人の協力者は、どこかしら近親相姦的な愛か、倒錯的な関係を物語に導入し、純粋な恋愛の成立をはばみつつ、貴重品の発見へと向けてもろもろの妨害を乗りこえることになるだろう。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』P250)

このように物語構造が洗い出されてしまった作品群は主に次ぎの七つの長篇小説だった。

村上春樹『羊をめぐる冒険』(1982)
井上ひさし『吉里吉里人』(1981)読売文学賞、日本SF大賞
丸谷才一『裏声で歌えよ君が代』(1982)
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)野間文芸新人賞
中上健次『枯木灘』(1977)
大江健三郎『同時代ゲーム』(1979)
石川淳『狂風記』(1980)


…………

ところで貴種流離譚とは、捨て子であれ私生児であれ、私の親はいま私を養育してくれている親とは違う最も偉大な親だ、私は偉大な血統生まれなのだ、とまずは思い込む事態だろう。私生児であるなら、母から生まれた起源は否定しないまでも、父はどこか別の場所にいると空想された「貴人」なのだ、と思い込むことだ。

だがフロイトはこうも書いている、すなわち実際のところ、子どもは父の代替者を創造することはそんなに多くない、むしろ父をひどく高い場に置き直す、と(『ファミリーロマンス』)。

この置き換えは、父(あるいは母の場合もある)が疑いようもなく至高の権威であることを疑わなかった喪われた幼児期への憧憬の表現だ。

フロイトの原父の神話とは、実はファミリーロマンスのフロイトヴァージョンではないか。彼のエディプス理論は神経症の主体が構築する「家族小説」と似ている。疑いようもない父の権威の歴史的な支えをフロイトは幻想的に(神経症的に)作り出したのではないだろうか。

まだ若い頃のラカンは『les complexes familiaux(家族複合)』(1938)にて、当時の家族と社会における父の家父長的なイマーゴの下落が精神病理の主な原因であるとしている。彼は精神分析はこの危機から生まれたとさえ言っている。

この洞察を引き継ぎ、かつラカンの四つの言説理論を援用して、Serge Andre( “What Does a Woman Want? ”2000)は、シニカルなひねりを加えこう言う、《ヒステリーの主体は、主人の形象が必要である。これが精神分析を創作する手助けをした》と。

ラカンも後年(セミネールⅩⅦ)、エディプス理論はフロイトの夢である、と言っている。

Ce qui est clair c'est que… simplement à voir comment FREUD articule ce mythe fondamental : qu'il est véritablement abusif de mettre sous la même accolade qu'ŒDIPE… qu'est-ce que MOÏSE… foutre de nom de Dieu, c'est le cas de le dire ! …a à faire avec ŒDIPE et le père de la horde primitive ? …c'est qu'il doit bien y avoir là-dedans quelque chose qui tient du contenu manifeste et du contenu latent, que pour tout dire et pour conclure aujourd'hui, je vous dirai que ce que nous nous proposons, c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD. (Lacan,Le Seminaire XⅦ)

夢、すなわち症状である。エディプス理論はフロイトの症状なのである。

だが症状であって何がわるいのか、ーーと記せば言い過ぎである。治療者としてのフロイトが患者にフロイト自身の症状を使って治療したらわるいにきまっている(次投稿に記す予定)。

だがラカンは『セミネール22』(RSI)にてこう宣言している、《症状のない主体はない》。もっともラカンの「症状」概念は後年変遷していることに留意しよう(参照)。

いずれにせよ、ラカン晩期のサントーム理論自体エディプス理論の再構成として捉えうる(「主体の解任destitution subjective」後の主人のシニフィアンS1構築とさえいってよい、参照)。とすればラカンのサントーム理論もラカンの症状ではないか・・・、だが我々には症状が必要なのだ、「ポワン・ド・キャピトン(クッションの綴じ目)」が(より詳細には《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である》(Séminaire XXIV)にかかわる、参照)。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンがサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

この新しいシニフィアンはS1、あるいはΣとも記されるのだがーーミレールは”S of barred A as sigma”とさえしている、S(Ⱥ)の定義のラカンの変遷はあるにしろ(参照:「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」)、ある時期のこのマテームは、すなわち S(Ⱥ)=Σと読めるのだ(“Lacan's Later Teaching”)ーー、実のところ「父の名」の個人ヴァージョンなのだ。イデオロギー的父の名を取り払い(主体の解任)、新しく個人独自の父の名を構築するのがサントーム理論である(参照)。

実際、ミレール派の分析家からはこんな言葉さえ洩れている。

《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)

"普通の精神病"をテーマにしたパリの英語セミネールにての最も目を瞠る事例のいくつかにおいて、われわれはまさにこの過程を聞くことができた。すなわち、"彼自身の個人的神話の創造"、"〈大他者〉とのひとつの絆の創造"、"世界において交渉可能性を彼に与える象徴的な母体の創造"、"〈大他者〉の言説へ入り込むことを彼女に容認させること"、そして"ファミリーロマンスを構築"。実にサンブランへの〈大他者〉の全き脱実体化であり、それは精神病者にとっての新しい診断の俯瞰図であるだけでなく、治療における新しい可能性の地平である。(同Thomas Svolos,私訳)

ここでジジェクの主人のシニフィアンS1の思いがけない簡潔な定義を挿入しておこう。

主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。

The Master-Signifier is the unconscious sinthome, the cipher of enjoyment, to which the subject was unknowingly subjected.(ジジェク『パララックス・ヴュー』)

ーーそもそもこの私には驚くべき定義がはたして正しいのかを探るために、S1やらΣやらS(Ⱥ)やらΦやら父の名やらの繋がりを調べだしたのだが、ひどく手間がかかった。

ただしおかげで今では次ぎのような文に巡り合っても驚くことはなくなった。

タトゥー(刺青)は身体との関係における父の名になるだろう。(J.-A. Miller: Effet retour sur la psychose ordinaire. Quarto94-95, 2009

…………

さて、ここで「偽装された自叙伝」としても読めるフロイトの『夢判断』からぬき出しておこう。彼は名高い「ローマの夢」の記述のあと、次ぎのように書いている。

……ハンニバルは私の少年時代の大好きな英雄だった、少年の誰でもそうであるように、私もカルタゴ戦争のあいだローマの戦士たちではなく、カルタゴの英雄に心を惹かれていた。さて上級生になって自分が異人種の血を引いているといいうことのもたらすいろいろの結果がわかりはじめ、また同級生間の反ユダヤ的な感情を見て、これはぼんやりしていられないぞと思いはじめるときがきてからは、このユダヤの英雄はますます偉いものに見えてきた。青年時代の私には、ハンニバルとローマとは、それぞれユダヤ人の頑張りと旧教教会の組織との象徴のごとくに思われた。爾来反ユダヤ運動がわれわれの情意生活に対して持っている意義は、幼少時代の思念や感情を固定せしめた。かくしてローマを訪れたいという願望は、私の夢の生活にとってはその他いろいろの烈しい願望の仮面かつ象徴となったのである。そして私はそういう数々の願望の実現にはかのハンニバルのごとき忍耐と専心とをもって当らなければならず、また、それらの願望の充足は、ローマに進駐したいというハンニバル畢生の願望のごとく、時には運命の恵みを享けることのまことにすくないもののように思われるのである。

さて今にしてようやく私は、すべてこれらの感情や夢のうちに今日もなおその威力を示している少年時代の一体験に到達するのである。

十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしえこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」 これはどうも少年の手をひいて歩いてゆくこの頑丈な父親にふさわしくなかった。私はこの不満な一状況に、ハンニバルの父、ハミルカル・バルカスが少年ハンニバルをして、家の中の祭壇の前でローマ人への復讐を誓わせた一場、私の気持にぴったりする一情景を対置せしめた。爾来ハンニバルは私の空想中に不動の位置を占めてきたのである。(フロイト『夢判断』上p254 新潮文庫 高橋義孝訳)

《爾来ハンニバルは私の空想中に不動の位置を占めてきた》、--ここにエディプス理論の起源のひとつがあるに相違ない。


(つづく)


2015年9月22日火曜日

母猿に舐められつづけた小猿の流儀

佐々木敦@sasakiatsushi
起業家みたいな人たちが妙に現政権寄りで、またそのことを隠そうともしてないのは、アベノミなんたらのせい以前に、彼らが定められたルールの中での勝ち負けで生きており、ルール自体の書き換え可能性には思いも寄らない、というかそれには反対であるということが多分に関係してるのじゃないかと思う。

ーーというのは、学者、講壇批評家もあまりかわりがないよ(参照:「リベラル学者という道化師たち」)。

そもそも研究者たちの「科研費」取得システムとは、《定められたルールの中での勝ち負けで生き》る新自由主義システムの侍僕に飼い馴らす仕組みさ。

生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション、勝ち組と負け組ーーこれらはすべて経済のディスクールだからな、(参照:Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities http://gfm.statsvet.uu.se/Portals/1/UppsalaUfourdec2013.pdf)

科研費獲得とは、この新自由主義の標語に精を出すことではないか。

ーーいやいやそんなことはない、どうやらリッパなシステムらしい・・・(科研費による研究者養成」福田秀樹 神戸大学・学長)。

とはいえ二十代のときにまともなことを書いていたようにみえるのに、博士論文後しだいに凋んでいくヤツが多いのは、アレはナンダロウ・・・

フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」(ナンシー・フレイザー)のと似たようなもんじゃないかい?

あれは《ルール自体の書き換え可能性には思いも寄らない》、システムという母熊に舐められつづけているのが研究者の姿ではないかね?

サドは人間の天体が、まともな実生活から遠く離れた、歌う無為の太陽たちの回帰線に傾くことを祝う。彼は人間の非社会化を祝い、母熊に舐められた〔躾けられた〕部分を徐々に捨てることを教える。(『詩におけるルネ・シャール』ポール ヴェーヌ, Paul Veyne, 西永 良成訳)

いずれにせよ、次の通り。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

“Sie wissen das nicht, aber sie tun es” 、「彼らはそれを知らないが、そうする」のだ。

さてもうすこし蓮實重彦の「話芸」を貼り付けておこう。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)

佐々木敦氏もどちらかというと《どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口に》するタイプなんじゃないか、オレは読んだことはないがね、ツイートを眺めるかぎりではの印象さ。いまだ「青春」をやっているわけでもないだろうが。

知識も基礎学力もない人たちが、こうまで簡単に批評家になれるとはどういうことですかね。最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。要するに芸がなくてもやっていけるわけで、こういう人たちが変な自信をまでもっちゃった。(『闘争のエチカ』蓮實重彦)

ーーシツレイ! これはどこかの馬の骨の憶測にすぎないよ・・・

……個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」より)

…………

制度に抗うには、 少なくとも抵抗すべき対象を見据えうる程よく聡明な視線がそなわっていなければならぬ。 その意味で、 あらゆる反抗者は、いくぶんか制度的な存在たらざるをえないだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
誰もが、 いかにも今世紀にふさわしい流行だねとささやきあいながら流行をまぬかれたつもりでいるが、 まさにそう口にすることそのものが流行になっているということには気づいていないのである。(同『凡庸な芸術家の肖像』)

誰もが、いかにも《ルールの中での勝ち負けで生きている》ヤツラばかりだねとつぶやきながら、己はそれからまぬかれたつもりでいるが、まさにそう口にするヤツが制度的な存在であることには気づいていないのである。

ーーオレかい? オレも気づいていないんだよな、どこかの馬の骨と記したばかりじゃないか? 凡庸な似非インテリの肖像を自ら描いているだけだよ、〈あなたたち〉のためにな

というかそもそもツイッター言説、ブログ言説の限界でもあるさ

自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)



2015年9月21日月曜日

「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)

これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい(野間易通)」補遺。

バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの付加的な説明が必要となる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012私訳)

要するにジジェクの考えは「正義」ではなく別のシニフィアンが必要だということ。だが誰もそれを提案できていない。

とすれば当面、この主人のシニフィアンを使わざるをえない立場の人たちがいるのは分かる。だがそれでは「正義」というシニフィアンに嫌悪を抱く数多の人たちの抵抗や嘲弄を免れることはできない。もちろんどんな主人のシニフィアンでも抵抗や嘲弄はあるが、「正義」というシニフィアンは手垢にまみれてすぎている。「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)が必要なのだ。

※参照
1、主人のシニフィアンと統整的理念
2、Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる)


小泉義之氏が最近再開されたブログで次のように言っているのはこれらの文脈のはず。

仮に既成政党をガラガラポンするにしても、そのためには、既成政党を少しばかり越え出 る大義が必要である。外部注入が必要である。超越的シニフィアン、空白の玉座、空虚な シニフィアンが必須である。累進課税やデフレ脱却や公務員拡大や大学保護や反極右 などといったものが、そのポジションを占めるはずがない(残念なことに、と言い添えてもよ い)。ちなみに、現在の主流派は、日本・ジャパン・グローバル・国際・経済成長などといっ たものをそのポジションに据えて、(ラクラウ的な意味での)ポピュリズム的な勝利を続けて いる。これに対し、平和・反戦・戦後・敗戦後(?)・反(脱)原発・復興などは、一定の運動を 統合するシニフィアンにはなりえても、特定の政党に票を掻き集めるシニフィアンにはなり えない。福祉・医療・教育がそうはなりえないのと同じことである。要するに、選挙となれば どの政党でもそれらを言い募り、大差のない似たことしか言わなくなるからである(ここに社 会派の苛立ちがある)。この事態を断ち切るには、既存のものに対して、上から/外からの 新たな介入が不可欠である。その点で、一部には君主(制)の旗を掲げようとする向きもあ るが、君主自身が他を道連れにして身を廃する構えをとるのでなければ、成功するはずも なかろう。要するに、手詰まりなのである。そして、それは喜ばしい報せである。ゼロベース でやり直すしかないからだ。(現時の閑話休題

ーー用語遣いにわたくしはやや抵抗はあるが。ラカン派や柄谷行人の文脈では超越的シニフィアンではなく、超越論的シニフィアンにしなければならない(参照:超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))。また「大義=構成的理念」は「統整的理念」にしなければならない(参照)。

だが細部に拘らなければ言いたいことはよくわかる。いずれにしろわれわれは新しい「言葉」を探さなくてはならない。

さてジジェクが「正義」というシニフィアンに抵抗をしめすのは、次の文脈だろう("正義"という「主人のシニフィアン」(バディウ=ジジェク))。

彼は『国家』のなかで次のように説いています。一人の人間の中には、魂の三つの 部分――理性、精神、欲求――とそれぞれに関係する三つの徳――知恵、勇気、節制―― があり、それぞれが互いと適切な関係を保っている。社会における正義も同じようなもの だ。社会では、それぞれの階級が、他の階級の邪魔をすることなく、それぞれの性質にふ さわしい仕事をこなすことで、それぞれの階級独自の徳を行使している。知恵と理性にあ たる階級は統治にたずさわり、勇気と精神にあたる階級は軍事にたずさわり、残りの部分、 つまり特別な精神や知性はないが節制にすぐれている階級は農業や単純作業にたずさわる。 正義とは、こうした構成要素の間に調和がとれていることなのだ、と。(ナンシー・フレイザー「正義〔正しさ〕について――プラトン、ロールズそしてイシグロに学ぶ」ーー「正義とは不快の打破である」)

プラトンの『国家』における「正義」はこれだけではない、という見解もあるだろうが、やはり『国家』における対話を読めば、ほぼこういう「正義」概念である、とすることができる。

たとえば『国家』には、上の「正義」概念以上に驚くべきエリート偏重の主張がなされている。
「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」

(……)
「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」
(……)

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」

(……)
「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」
――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369

…………

※附記

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。大学のディスクールは、知のネットワークーーこの判読可能性を、定義によって支えるーーを分節化するわけだが、その言説は、当初の主人の振舞いを前提条件とし、それに頼っている。  その言説は、当初の〈主人〉の振舞いを前提条件とし、それに頼っている。〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳)

もちろんジジェクはここでランボーのA une raisonに触れている(ラカンの『アンコール』に引用がある)、《Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie.(君の指先が太鼓をひと弾きすれば、音という音は放たれ、新しい階調が始まる)》。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

《ひとびとはある人を王(S1)として取り扱うのは、彼が王だからではない。人々(S2)が彼を王として取り扱うから、彼は王なのだ。》(マルクス『資本論』)

ーーもちろんS1とS2はわたくしがつけ加えている。

(1)《シニフィアンはどんな対象とも関係しない記号である》(S.3)。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(S.3)。さらにシニフィアンは必らずしも(文のなかの)言葉に相当しない。音素から文までの言語のあらゆる階層的レヴェルでの対立するユニットはシニフィアンとして機能しうる。人のボディランゲージもーー例えば、頭を振ったり頷いたり手を振ったり等々ーーそれが多義的である限りにおいてシニフィアンとして働きうる。

(2) 記号とは、厳密に言えば、コード概念、あるいは「生物学的な記号」と重なり合う何かである。索引と指示物とのあいだのとゲシュタルト的/想像的なーー両-一義的な bi-univocal ーー関係である。これは動物のコミュニケーションの領域である(思い起こしてみよう、例えば動物においてある色の出現はそのパートナーにおけるある性的反応を惹き起こす仕方を)。このように動物のコミュニケーションは「(特別の)意味をもつ significant」。他方、人間のコミュニケーションは「徴示する signifying」。その意味はけっして「両-一義的 bi-univocal」でないことである。というのは根絶できない虚偽の可能性ーー象徴的局面の精髄ーーが間違いなくあるのだから。

(3)「主体性のどんな科学的定義もない、次ぎのように考え始める以外は。すなわち意味する先ではなくnot significant ends、純粋に徴示するものpurely signifyingに対するシニフィアンを扱うことの可能性から始めること。これは、欲求の秩序とのどんな直接の関係性もないことを言っている」(Seminar. III, p. 189) この定義はすでに1960年代初めのラカンの名高い公式の基本を提示している。その公式によれば、主体はほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって代表象される。主体はシニフィエに還元され得ない。シニフィエの主体the subject of the signified とは自我egoに相当する。他方、主体はシニフィアンにさえ同一化できない。というのはシニフィアンの行為そのものが言表内容と言表行為のあいだで主体を分裂させるからだ。どんなシニフィアンも主体を十分に徴示するsignifiesことはない、それが「特権的なシニフィアン」であってさえも。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』、2007、私訳)

一見、〈私〉というシニフィアンをめぐってLorenzoの叙述(黒字強調箇所)と上の二人の叙述は齟齬があるようにみえるかもしれないが、これは異なった側面からの(シニフィアン、あるいはシニフィエからの)同じ指摘である。

……the signifier “I” which gives us the illusion of an identity of our own.(Paul Verhaeghe,FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES,1998)

〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。

the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing.(ZIZEK,LESS THAN NOTHING)

これらは、フロイトの《自我は自分の家の主人ではない“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”》をめぐっていると言ってよい(参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」)。





2015年9月20日日曜日

これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい(野間易通)

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。(『看護のための精神医学』中井久夫

…………

小池一夫@koikekazuo

「いいか。世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」(『翼を持つ少女』)

野間易通)《@kdxn: この文章は前段と後段が矛盾している。「正義だと信じた」ということは実は正義ではなかったって意味なので、「最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ」という文は間違っていることになる。これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい。 https://t.co/yl4DDMfbtv》

《@kdxn: 「正義と称するが正義ではないもの」と「正義」をきちんと区別することができないと、本当の正義を行うことができないばかりか、それを行っている者を疑い、嘲笑する醜い不正義の人間になってしまう。》

‏@G2Nakamura

これ、わからないのは「実は正義ではなかった」というのはどの立場から言っているのかというところ。まるで神のように一段上から見下ろしてないか?所詮、絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている分、小池一夫のほうが共感できる。

《@kdxn: 「実は正義ではなかった」とみなしてるのは小池さん(が引用した文)なので、読み取りがおかしい。 https://t.co/CbV64l9QgK》

《@kdxn: あと「絶対的な正義など分からないのだという諦念を前提にしている」のは信用ならない。絶対概念は神にのみ適用されるもので、世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの。なので「絶対正義などない」という諦念表明は何も言ってないに等しい。 https://t.co/CbV64l9QgK》


…………

野間易通氏の本日のツイート(2015.9.20)だが、さてあなたはどう思う?

《これ、よくあるパターンなので早々に脱却したい》な、《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》などという考え方は。

ことわっておくが、わたくしは野間易通氏のファンだがね、

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

少なくともこういった発言には抵抗しようがない(参照:「何もしないことのエクスキューズ」)。

だが、正義とは《世俗社会が扱う正義は人間同士の合意によるもの》とするのはいかにも浅墓すぎる。すでにかつてなんどもくり返し議論されて(とくに環境問題のとき)、すくなくとも現在生きている「人間同士の合意」では扱えない「正義」があることは、「識者のあいだでは」明らかになっているはずだ。すなわち、野間易通の考え方は「ほどよく聡明な」正義の現場派には《よくあるパターンなので早々に脱却したい》。

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。また、過去の人間との対話や合意もありえない。彼らは何も語らない。では、われわれはなぜ責任を感じなければならないのか。実際、何の責任も感じない人たちがいる。国家や共同体に関して「道徳的」な人たちが特にそうである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P192)

人類は太古の昔から利己心の悪について語ってきました。他者に対して責任ある行動をとること——それが人間にとって真の「倫理」であると教えてきたのです。だが、経済学という学問はまさにこの「倫理」を否定することから出発したのです。

 経済学の父アダム・スミスはこう述べています。「通常、個人は自分の安全と利得だけを意図している。だが、彼は見えざる手に導かれて、自分の意図しなかった〈公共〉の目的を促進することになる」。ここでスミスが「見えざる手」と呼んだのは、資本主義を律する市場機構のことです。資本主義社会においては、自己利益の追求こそが社会全体の利益を増進するのだと言っているのです。(……)

未来世代とは単なる他者ではありません。それは自分の権利を自分で行使できない本質的に無力な他者なのです。その未来世代の権利を代行しなけれはならない現在世代とは、未成年者の財産を管理する後見人や意識不明の患者を手術する医者と同じ立場に置かれているのです。自己利益の追求を抑え、無力な他者の利益の実現に責任を持って行動することが要請されているのです。すなわち、「倫理」的な存在となることが要請されているのです。(岩井克人「未来世代への責任」

とはいえツイッターでメンションを入れるのはやめにしていまこうやって記している。いま野間易通氏は他人の批判を受け入れがたいまでに自らの「正義」を確信する領域にはいってしまっているようにさえみえるからだ。

林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄)

…………

くりかえせば、《一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは……視野の幅が狭くなっていることが多い》のであり、野間易通氏もそれから免れていない。かつまた彼の繰り言「ポストモダン」批判(参照)も素直に耳を傾けるわけにはいかない(参照:元「しばき隊」諸君の「ポストモダンと冷笑」批判)。

ポスト・モダニズムについては、僕もさまざまな、かつ相互に矛盾しあうような考えをもっています。ある者たちに対して、僕は、自分はポストモダンだと宣言するでしょう。しかし、それは、ポスト・モダンがモダンのあとにくる「状態」や「段階」でなのではなく、モダンなものに対してその自明性をくつがえすという“超越論的”な「姿勢」であるかぎりにおいてです。だから、それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない。(柄谷行人『闘争のエチカ』P18)

たとえば野間易通氏に代表される社会運動家たちは、ほとんどが消費税増反対だろう。消費税増に反対することは今生活している人(とくに低所得層)にとっての短期的な正義であるには相違ない。

だが消費税増ーーもっと大きく言えば国民負担率増ーー反対などというものは、《文句も言えない将来世代》への残忍非道の振舞いではないか(参照)。

いずれにしろ人は《邪な心を抱いて正しい行為をする》こともあるし《正しい心を抱いて邪な行為》をすることもある(シェイクスピア『終わりよければすべてよし』)。視野の幅が狭い(短期的な)正義は、長期的には悪であることがしばしばあるのは周知だろう。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

「日本の国債市場と投資家行動 」(2014年10月3日 角間和男 野村アセットマネジメント)に引用されている橘玲氏の『(日本人)』におけるブキャナンの財政赤字の膨張の不可避性の見解はつぎの通り(もっともドイツは政治家の「秀れた」リーダーシップでそこから脱出したのだが)。

ジェームス・ブキャナンは「民主政国家は債務の膨張を止めることはできない」という論理的な帰結を1960年代に導き出した。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するからだ。

このような説明は、ほとんどの人にとって不愉快きわまりないものにちがいない。だが 現実には、日本国の借金は膨張をつづけ、ついには1000兆円という人 類史上未曽有の額になってしまった。ブキャナンの「公共選択の理論」は、 この事実を見事に説明する。そしてこれまで誰も、国家債務が膨張する 理由について、これ以上シンプルな説明をすることができないのだ。(橘玲『(日本人)』)

こういったわけで、われわれは財政危機という課題をつねに未来へ先送りする傾向をもつ。「公共的合意」では埒が明かないのだ。

◆補遺:「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)


…………

※附記

あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。 (『ジジェク自身によるジジェク』)

変奏:〈あなた〉が正義という理念のために己の正義を果たしていると考えているとき(たとえば安倍晋三を罵倒するとき)、〈わたくし〉は知っている。〈あなた〉のふだんは行き場のない攻撃欲動をこのときばかりと発散し、それを享楽していることを。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収ーー「で、どうおもう、〈あなた〉は?」)

《すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としているのだ》(ニーチェ遺稿「生成の無垢」)

ーーこのニーチェの言葉の例証として、日本では代表的な聖女とされるだろう神谷美恵子さんをめぐってみてみたことがある(参照:「蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい」(神谷美恵子))。

義務こそが「最も淫らな強迫観念」……。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』)

さてどうしたらよいのか。まずは正義だと思い込んでいる自らの背後にある攻撃欲動(享楽)を認めることだ。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫『「踏み越え」について』2003)
……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。

結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機が起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)




事の理非を糾す暇もないままに一度限りの言辞に欺かれる大衆

「我々は君らの市民に直接語りかける機会を与えられていない。なぜならば、大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれるかもしれないとの恐れ(それゆえ我々は君ら少数の選ばれた者を招集したのだ)があるからだ。さればここに列席する諸君に、さらに万全を期しうる方法を提案しよう。この会談が一度限りの一方的な通達に終わらぬよう、君たちの一つの論に私たちが一つの弁で答える。我らの言葉に不都合なりと覚える点があれば、直ちに遮って理非を糾して貰いたい。まずはこの点に満足か答えて貰いたい」(ツキジデス『戦史』)
国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

さて、ツキジデスやヘーゲルの時代とわれわれの時代は違うから(民衆は教育されているのだから)、今ではこうではないといえるだろうか。今は「民衆」の意見を十分に取り上げてそれを政策に活かすべきだろうか。

二〇〇七年の秋、チェコ共和国で、米軍レーダー基地建設をめぐって世論が沸騰した。国民の大多数(ほぼ七〇パーセント)が反対しているのに政府はプロジェクトを強行した。政府代表は、この国防問題に関わる微妙な問題については投票だけでは決められない――軍事の専門家に判断をゆだねるべきだとして、国民投票の要求をはねつけたのだ。この論法に従っていくと、最後には、おかしな結果になる。すると投票すべき対象として何が残るというのか?たとえば経済に関する決定は経済の専門家に任せるべき、という具合にどの分野にもあてはまるのではないか? (ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

さて、大衆の判断に任せるべきであろうか、それとも専門家に任せるべきであろうか、専門家が私利私欲による誘惑に駆られた判断をする可能性は大いにあるにしろ、ではそれを大衆の判断で是正するなどということがあり得るのか。その「大衆」とはどの大衆なのか。その大衆とは、《立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれる》大衆ではないのか。

とすれば煽動家が要の役目をすることになる。

間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄『ヒトラーと悪魔』)

煽動家とは、究極的にはファシストのように振舞うことではないか。そもそもファシズムの語源は「絆」である(伊: fascismoの語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)。

ファシズムについては次ぎのような見解さえある。

福田和也)僕は20代前半ぐらいに、バタイユとか、ブランショとか、前期ハイデガーとかを、けっこう熱心に読んでいたときに、革命ということを考えていくとどうしたって、バタイユは特にそうですが、ファシズムになってしまうんですよね。だから逆に、革命というためにはファシストであらねばならないということが非常によくわかってしまって、その認識に誠実であるためにファシストと称しているんですけれど。

柄谷行人) たぶん革命という概念でやると、ファシズムになるでしょうね(笑)。みんな、それに気づいていないだけで。(『スーパーダイアローグ』)
宮台氏は、日本はファシズム化するしかない、という。ただし、それは 「国家を強くする」 というナチスドイツ的なファシズムではなく、「社会を強くする」 というムッソリーニ的なファシズムである。つまり 「価値の埋め込みによる長期的な動員」 ないし社会をよりよくしようという動員――日本もこれをやるしかない。そして、「大きな社会=包摂性のある社会=相互扶助的な社会」 を構築していくことで、日本社会の強化を進めていくべきだ、と。(田原総一郎×佐藤優×宮台真司 『日本流ファシズムのススメ。』

カール・シュミット(ナチスの理論家)によれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。


ところでネット選挙が解禁され、ソーシャルメディアでの情報発信やニコ生討論会などで、大衆は投票することになるとしよう。

浅田彰)ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.(「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」)

おそらくこういった現象が起こるに相違ない。 すなわちやはり《大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれるかもしれない》のだ。とすればどうしたらいいのか。やはりヘーゲルのいうように「国家の最高官吏たち」に任せるべきなのか。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)
人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001ーー「民主主義の中の居心地悪さ」より)

だがわれわれは国家のエリートたちを信用できなくなっている。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

ーーここまでは一年弱前に記した「民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である」のほとんどくり返しである(ファシズム箇所を除いて)。

以下、そこでは引用していない文を掲げよう。

バクーニンのようなタイプのアナーキストは、一切の権力や中心を否定する。そこには、抑圧から解放された大衆は、おのずから自由連合によって秩序を作り出すだろうという暗黙の仮定がある。しかし、プルードン自身がいったように、けっしてそうはならない。逆に、それは強力な権力を招来するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』p.280)

ラカンは1968年の学生運動のさなか次ぎのように言い放った、《君たちは新しい主人を求めるている、やがて君たちはそれを得るだろう》Vous voulez un maître, vous l'aurez(1968)。

ふたたび柄谷を続ける。

また、諸個人の能力差や権力欲がなくなると仮定することには何の根拠もない。むしろ、諸個人の能力差や権力欲が執拗に残ることを前提とした上で、そのことが固定した権力や階級を構成しないようなシステムを考えるべきなのだ。マルクスは、それについて特に書いていない。しかし、主としてプルードン派の構想にもとづくパリ・コンミューンを擁護し高く評価したとき、彼はそこに「可能なるコミュニズム」への鍵を見だした。そして、それは若い時期からの彼の考えと特に異なるものではない。(同上p281)

《権力や階級を構成しないようなシステム》とはなにか。柄谷行人にとっては「くじ引き」である。

われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打倒するところから生れたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(『トランスクリティーク』

柄谷行人はいまでもこのように考えているはずだ(参照:世界危機の中のアソシエーション・協同組合柄谷行人と生活クラブとの対話)。ジジェクもこの柄谷行人の「くじ引き」制度の提案を最近の著書にいたるまで何度も引用している。

(2010年に提案された鈴木健のゴールデンパラシュート論は、ここでの話とはやや異なるが、高級官僚が《私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策》(柄谷行人)を実施できるような環境(のひとつ)を整えるという案とみなすことができる、ーーすなわち退職後の再就職を禁ずるかわりに(企業などとの癒着の根を断ち切るために)官僚に対して退職金の大幅割り増しをするという制度である。)

…………

ノーム・チョムスキー曰く、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(Noam Chomsky,“Necessary Illusions”)

アラン・バディウ曰く、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳