2017年7月31日月曜日

創唱宗教/自然宗教

創唱宗教/自然宗教という区分があるそうだ。宗教学者の阿満利麿氏が『日本人はなぜ無宗教なのか』1996年にて唱えて比較的よく知られるようになったらしいが知らなかった(わたくしは1995年に日本を出ている)。

私はかねてから「自然宗教」と「創唱宗教」という区別が日本人の宗教心を分析する上では有効だと考えている。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教のことである。(略)代表的な例は、キリスト教や仏教、イスラム教であり、いわゆる新興宗教もその類に属する。これに対して、「自然宗教」とは、文字通り、いつ、だれによって始められたかも分からない、自然発生的な宗教のことであり、「創唱宗教」のような教祖や経典、教団をもたない。
「自然宗教」は「創唱宗教」のように特別の教義や儀礼、布教師や宣教師はもたないが、年中行事という有力な教化手段を持っているといえるのであり、人々もそうした年中行事を繰り返すことによって生活にアクセントをつけ、いつのまにか心の平安を手にすることができたのである。そこでは、とりたてて特別の教義、つまり「創唱宗教」を選択する必要はなかった。ここに「創唱宗教」という意味での宗教には無関心で、「無宗教」を標榜してなんら疑わない理由がある。(阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』1996年)


もう少しどんな内容かと探ってみれば、宗教学者島薗進氏が「日本人と宗教―「無宗教」と「宗教のようなもの」」2014年のコラム記事にて触れている。

いまはもう少し簡潔に書かれた、禅宗系の教師の方らしい木村文輝氏による『現代日本における「宗教」の意味』から引用しておく。

阿満利麿氏は『日本人はなぜ無宗教なのか』(1996)の中で、宗教を創唱宗教と自然宗教に分類するという、宗教学の理論を援用して日本人の無宗教観を読み解いた。すなわち、現代の日本人は、特定の人物が特定の教義を唱え、それを信ずる人々が集まって成立する創唱宗教を好まない。一方、初詣や墓参などのように風俗や習慣となってしまった宗教は「宗教」でないと思いこむことで、自らの宗教を「無宗教」と呼んでいる。しかし、それは自然発生的に成立し、その創始者を特定することのできない自然宗教と呼ばれるものである。つまり、日本人は「無宗教という名の宗教」を持つ「自然宗教」の信者だというのである。たしかに、日本国内に多数存在するお寺は仏教のものであり、それは釈尊によって始められた創唱宗教である。しかし、我が国の仏教は「葬式仏教」とも称される特殊なものであり、それは「自然宗教」のもつ先祖崇拝や霊魂観に仏教の衣を着せたものにすぎないと評される。(木村文輝『現代日本における「宗教」の意味』2014年、PDF

おそらくこの区分において問うべきは、どの国でも古代は自然宗教から始まったはずであるのに(本居宣長の神の定義参照)、創設宗教が自然宗教に衣を着せるようになった国とそうでない国があるのはなぜか、ではないだろうか。

ようは根源には自然宗教があるはずである。その掌のうえに創設宗教/自然宗教(イデオロギー的宗教/無意識的宗教)の対立がある、という図式をまずは記すことができるはずである。


創設宗教/自然宗教
ーーーーーーーーーー
       自然宗教


上に創設宗教をイデオロギー的宗教と記したのは、《経典が絶対の》宗教という意味合いである。この定義はほぼ当てはまるだろうと憶測するが、詳しいことは分からない。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

…………

ところで木村文輝氏の文のなかに、《日本人は「無宗教という名の宗教」を持つ「自然宗教」の信者》とあった。

無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)

ーー「神は存在しない。だが諸神はいる Dieu n'existe pas, mais il y a des dieux」とも言っておこう(後述)。

ラカンの《n'existe pas》とは、象徴的には存在しないということであり、象徴界の彼岸あるいは裂目としての現実界の存否は問うていない。 他方、別に《 il y a 》という言い方もあり、これはハイデガーの鍵表現《es gibt》(外立 ex‐stasis)にかかわる。そしてラカンは《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》 (S22)と言っている。

ハイデガーによれば、人間存在とは実存であり、「実存」という語は語源的 に「外に-立つこと(ex-sistence)」として解されえる。換言すれば、ハイデ ガーの見解では、人間存在は、実存的な(外に立ってある )もの、つまり、 その実存のあり方が正に外に立つ脱自(ecstacy)であるような存在者である。(ビジャン・アブドルカリミー、PDF

ラカンの三界の定義は次の通り。

現実界 le réel は外立 ex-sistence
象徴界 le symbolique は穴 trou
想像界 l'imaginaire は一貫性 consistance(ラカン、S22)


《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》(S22) の定義における「外立 ex-sistence」 とは、上にあったようにハイデガー用語「外立 Existenz」の仏訳であるが、外立をさらに遡った語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。

ラカンは《神の外立 ex-sistence de Dieu》(S22)とも言っていることを付け加えておこう。

ところでラカン派では次のような言い方がされる。《女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(ジジェク、2012)

これは上に記したように、同じことが神についても言える、「神は存在しない。だが諸神はいる」と。

したがって象徴的な神、つまりイデオロギー的神を信じない民族でも、「八百万の神」(やおよろずのかみ)の信仰はある。いやむしろイデオロギー的な神の不在の国こそ、「八百万の神」が遍在する(外立する)とさえ言える。

ジャック=アラン・ミレールは、精神病においては、父の名の過剰な現前という現象が生じるといっている。これも上に記した文脈、つまり神経症的な象徴的大他者の支えがなければ、精神病的な現実界的大他者が過剰現前する、という風におそらく捉えうる。

(晩年の)ラカンの「父のヴァージョン=倒錯 père-version」についてのアイロニーは、事実上、古典的なままの精神病理論とは正反対の、ひとつの精神病理論 la psychose une théorie inverse de la théorie restée classiqueを提供してる。

すなわち精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰な現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,PDFーー超越的法/超越論的法

ミレールは精神病においても「父の名」(の過剰)と記しているが、これは現実界的大他者のことである。現実界的大他者とは何か。それは事実上は「母なる神」とすることができる(象徴界的大他者は「父なる神」)。

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

いまわたくしが「母なる神」と記したのは、上のラカン文に依拠しつつ、さらにジャック=アラン・ミレールの宗教論を参照している、《父は、母なる神の諸名の一つに過ぎない》。

ラカンは、フロイトのトラウマ理論を取り上げ、それを享楽の領域へと移動させた。セミネール17にて展開した命題において、享楽は「穴」を開けるもの、取り去らなければならない過剰を運ぶものである。そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない。

フロイトによる神の系図は、ラカンによって父から〈女〉へと取って変わられた。我々はフロイトのなかに〈女〉の示唆があるのを知っている。父なる神性以前に母なる神性があるという形象的示唆である。ラカンによる神の系図は、父の隠喩のなかに穴を開ける。神の系図を設置したフロイトは、〈父の名〉の点で立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望」と穴埋めとしての「女性の享楽」に至る。こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性、《白い神性 la Déesse blanche》 の諸名の一つに過ぎない、父は《母の享楽において他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003

こうしてここでの問いは、「創唱宗教/自然宗教」とは「父なる神/母なる神」とどう異なるのか、ということになるはずである(あくまで精神分析的な問いではあるのは十分承知している)。

いま記したことを、ラカンのマテームを使って図示すれば次のようになる。





Ⱥを「自然の驚異・脅威」と記したが、これは前回引用した本居宣長の神の定義をめぐる記述を援用しているとともに、フロイトをも参照している(Ⱥのラカン派的意味合いの詳細は、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ)。

フロイトは『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』(旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)の第三章で、《いったい、宗教的観念 religiösen Vorstellungen の独特の価値はどこにあるのだろうか》と問うている。そしてこの第三章のまとめの形として、第四章の冒頭近くで《私が示そうとしたのは、宗教的観念も、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれたのだということである》としている。

ここでは第三章からいくらかの文を抜き出す。

文化が現状でもすでに幾多に点でこの使命をかなりの程度こなしていることはわれわれはよく知っている。…しかし、自然が現在すでにすっかり制御されていると考えるお人好しは誰もいない。…人間のあらゆる規制力を嘲笑するような現象があまりにも多い。

震動し、引き裂き、すべての人間や人間の手になるものを埋没してしまう大地。氾濫すれば万物を押し流し溺れさせてしまう水。進路のあらゆるものを吹き飛ばす嵐。他の有機物からの攻撃によって起こることがつい最近ようやく分かってきたかずかずの病気。そして最後に、悲惨で謎めいた死。いかなる薬によっても対抗することができず、おそらく将来とても対抗することができないと思われるあの死である。

このような暴威をもって自然は、残忍かつ容赦なく、圧倒的な力でわれわれに挑戦し、われわれが文化作業によって免れようと考えている自分の弱さ、寄る辺なさ(無力 Hilflosigkeit)を、改めてわれわれの眼前に突きつける。天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。P.371
(……)このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来』)

科学が進歩して、《自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要》が少なくなれば、宗教的観念も消滅してゆく。だが唐突に「日常」を覆す体験、疫病・地震・津波・空襲等、あるいは愛するものの死などの「非日常」に遭遇すれば、祈りの心持は自ずと生ずる(これが本来の「自然宗教」の姿であろう)。

フロイトは上の論で、「寄る辺なさ(無力 Hilflosigkeit)」という語を頻用している。前年に上梓された論文には、この語は次のような形で現れる。

・経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況と呼ぶ。

・母を見失うという外傷的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter( フロイト『制止、症状、不安』1926年 )



2017年7月30日日曜日

神のタタリ

以下、本居宣長の神の定義である。

さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、

さて人の中の神は、先づかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠つ神とも申して、凡人とは遥に遠く、尊く可畏く坐しますが故なり、かくて次々にも神なる人、古も今もあることなり、又天の下にうけばりてこそあらね、一國一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、

さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴る神神鳴りなど云へば、さらにもいはず、龍樹靈狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、(中略)又虎をも狼をも神と云ること、書紀万葉などに見え、又桃子(もも)に意富加牟都美命((おおかむつみのみこと)と云名を賜ひ、御頸玉(みくびたま)を御倉板擧(みくらたなの)神と申せしたぐひ、又磐根木株艸葉(いわねこのたちかやのかきば)のよく言語したぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其の御霊の神を云に非ずて、直に其の海をも山をもさして云り、此れもいとかしこき物なるがゆゑなり、)

抑迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤しきもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば(貴き賤きにも、段々多くして、最賤き神の中には、徳すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、微(いやし)き獣なるをや、されど然るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力の、いたく差(たが)ひあることを、わきまへざるひがことなり、)大かた一むきに定めては論ひがたき物になむありける」(本居宣長『古事記伝』三)

とてもすぐれた定義ではないだろうか。

古代人は、日々自然に驚いていたはずである。太陽が東からのぼり西に沈む。月の満ち欠けがある。女たちには月経があり血を流す。ときに腹が大きくなり子供が股のあいだからでて来る。

天に暗雲がたれこめ雨がふり嵐となる。あるいは日照りが続く。空に鳥の一群が通り過ぎる。めぐみの大地が潤ったり乾いたりする。穀物や樹々の実をみのらす。森や山から野獣が出没する。大地はときに揺れる。川の水が溢れる。

海のかたわらの土地なら、潮の干満がある。魚や貝、ときには巨大な鯨があらわれる。津波もある。これらの自然の驚異・脅威が神、あるいは神の仕業である。

ところで、日本最大級の断層、中央構造線の上には名高い神社がタタッテいる。




・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。

・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。

・此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)
タタリという日本語のもとの意味は、こういう神がかりの最初の状態をさしたものと、私だけは考えている。タタエ・タトエ・タツなども同系の語で、タタリにはもとより罰の心持はなく、ただ「現れる」というまでの語だったかと思う。(柳田国男『みさき神考』)


2017年7月29日土曜日

神職身分は百姓と同等

まず「神仏習合と神仏分離」にて引用した資料から、次の文を再掲する(基本的に江戸時代の神主について言われている)。

各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。(羽根田文明『仏教遭難史論』)
村落内の神職身分の多くは、慣習のもと神まつりを主催するものであって、身分的には百姓と同帳で人別改めが行われている場合も多かった。(原田正俊「「江戸時代の政治・イデオロギー制度における神道の地位 ー 吉田神道の場合 ー」によせて」)

だがこういった神主(神職)の立場というのは江戸時代だけだったのだろうか。古代の神職について折口信夫は次のように記している。

邑人全体の自由祭祀によつて、村の中堅なる年齢の若衆が、共同に神職である為、素質の優れた者が、宗教的自覚を発する事が起る。神職の中、一人だけ一生交替せぬ上位の者として、常任する。かうして専門化すると、常世から定期に渡る神以外にも、色々の神の啓示を受ける事になる。(折口信夫「「とこよ」と「まれびと」と」)

もともと神主(神職)とは村祭りの主が起源である、とこの折口の文から読むことができる。身分的には百姓と同等であったのはまったくおかしくない。たぶん専門家の方々には常識なのだろうが、わたくしは知らなかった。

他方、僧職のほうはどうか。

厩戸皇子(聖徳太子)によるとされる《十七条憲法には、仏教思想が主要な思想として記されるが、反対に、神祇についての記述は一切ない。》(「古代都城と神の祭り」鈴木明子、2013)

すくなくともこの当時から僧職を尊重するようになったらしい。国の統一のためには仏教が必要だったのである。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

日本は昔も今も「一神教」とはいいがたいだろう。だが大化の改新当時から「言語による経典」がなければ日本の統一はなされなかった、と考えてよいはずである。

ーーということを調べているなかで、内藤湖南の文に出会った。上の話とは直接関係がないが、ここに貼付しておく(わたくしが読むのは「青空文庫」にてであり、折口も湖南もこうやってかんたんに引用することができる)。

今迄日本は支那を以て日本文化の師匠であると仰いで居つた所が、其師匠と仰いで居つた支那が、犬の子孫である所の蒙古のために亡ぼされてしまつて、其蒙古は更に日本にまで襲來し、さうして日本の前には國難が横つて居つたわけであるが、とにかく伊勢の大神宮や石清水八幡、三千餘座の神々に祈願して神の子孫が犬の子孫に勝つたわけであります。そんなわけで今迄貴いと思つて居つた支那も、犬の子孫に統一されるやうではさう大したこともないといふので、遂に支那といふものが日本人に取つてあまり有難くなくなつた、そして其支那を亡ぼした所の蒙古をも日本が神の力で退けたのですから、日本はよほど偉いのだといふので、其神の保護を受けるといふことはよほど偉い事に思はれただらうと思ひます。

殊に後宇多天皇は日本は密教相應の國である、密教が盛んになれば日本も盛んになり、密教が衰へれば日本も衰へるといふことを御遺告の中にも書かれて居る位で、密教が國體に一致して出來上つた國であると考へられて居りました、今日の言葉で申せば、つまり最上の文化と最上の國家といふものは一致して居るものだといふ考を持つて居られたのです。それが果して當りまして今の通り神風の效驗があつたのでありますから、當時の人には非常にさういふ思想が強く響いたのであらうと思ひます。 

是が又他の事情といろ〳〵關係しまして、こゝに『日本は神國なり』といふ考を起させるに至つたのです。當時伊勢の方に一種の神道が出來て居りました、これは外宮の神主度會氏から新に出て來た所の神道でありますが、これが北畠親房の學問に影響してゐるのであります。親房は佛教にも深い人でありますが、神道においては新しく起つた所の度會家の神道を採用したのであつて、自分でも神道に關する著述をして居ります。だから神皇正統記の一番眞先の書き出しには、『大日本は神國なり』と書いて居ります。これが神皇正統記の第一句であります。さうして日本は神國だから尊いといふことを言つて居ります。あの天竺が天神の子孫から成立つて居るといふ事は日本と類似して居るが、後に道に變化があつて、勢力あれば下劣の種も國主となり、五天竺を統領するもあり、又支那も殊更亂りがはしい國で、始終天子の系統が變り、力を以て國を爭ひ、民間より出でゝ位に居たるもあり、戎狄より起つて國を奪へるもあり、累世の臣として君をしのぎ讓を得たるもある、日本だけは全く違つて萬世一系であるといふことを論じて、さういふ神の御末であるから今日の皇統も正統の天子でなければならぬといふことを結論にして、そこで南朝が正統であるといふことを明かにして居るのでありますが、親房には實にそれが信仰であつたらうと思ひます。此人の政治上の經綸は皆新しいことであるが、其信仰は非常に固い信仰であります。これは古い思想ではなく、當時我國に起つた所の新らしい思想だらうと思ひます。 

さういふわけで、此日本が世界中一番尊いのだといふ思想は當時において新思想と言つてよからうと思ひます。詰り前には支那を崇んで居つたが、支那は詰らない、印度も亦詰らない、日本くらゐ尊い國はないといふのが當時の新思想であつて、それが根本になつて其頃文化の獨立といふものが出來たのだと思ひます。(内藤湖南「日本文化の獨立」 大正十一年五月講演)
大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、(……)

一條禪閤兼良の日本紀纂疏といふのも神代の卷だけの註を書いたもので、是は有ゆる和漢の例を引いて非常な博識を以て書いて居りますが、其目的はやはり日本紀の神代の卷を尊い經典にするため書いたのであります。此傾きは必ずしも一條禪閤兼良から來た譯ではなく、もう少し前からでありますが、それはやはり蒙古襲來などがよほど大きな影響を持つてゐるやうであります。そしてその蒙古襲來の時、國難が救はれたのは全く神の力だといふ考が一般に起つて來ましたが、南北朝頃から北畠親房、忌部正通など「日本は神國なり」といふやうなことを云ひ出しました。其後徳川の時代になつて林道春が「神社考」を書いた時にも、日本は神國なりと言ふことを書いて居ります。さういふ譯で應仁の亂頃にも外に對しては南北朝以來の思想が續いて來て居りまして、日本紀の神代の卷は立派な經典となり、支那の四書五經といふやうな考になりました。是は日本といふ國が如何なる騷亂の間に年が經ちましても、皇室はちやんと存在して、いつ迄も日本の眞の状態といふものは變らない、一定不變のものがあるといふことを主張する代りに、日本紀の神代の卷といふものが立派な一つの經典となつたのであります。是等は當時の信仰状態の變化といはれないが、從來不確實だつた信仰状態が、此時代に於て確定することになつて來たと言つていゝのであります。此應仁時代は亂世でありますけれども、さういふ國民の思想統一の上には非常に效果があつたと言へるのであります。(内藤湖南「應仁の亂に就て」大正十年八月)

2017年7月25日火曜日

本居宣長のキルトスカート

コーネル大学の歴史学者酒井直樹による、とても優れた文をネット上から拾うことができた。酒井氏は「共感の共同体」や「差別問題」の論客として、かつて『批評空間』などに登場しており、その名を知ってはいたが、彼の著書を読んだことはない。

◆酒井直樹『死産される日本語・日本人』(1996 年)より
一八世紀の日本列島では、漢文、和漢混交文、いわゆる擬古文、候文、歌文、そして、俗語文というように多数の異なった文体と書記体が用いられていた。これらの異なった雅俗混交的な文体は、地方別の僅言あるいはお国ことばとともに混在しており、それぞれを民族言語としてひとつの輪郭に収めることはできなかった。
一八世紀の言説においては、日本語と日本語が普遍的に通用したはずの共同体の存在を古代に仮設することによって、日本語が生み出された。しかも、日本語と日本民族の存在は、古代には存在しても現在には存在しないもの、現在においてはすでに喪失されたもの、として仮設されなければならなかった。つまり、日本語の誕生は、日本語の死産としてのみ可能であったのである。…統一体としての日本語は、その存在を経験的に検証できるものとしてではなく、日本語についての体系的な知識あるいは経験の可能性の条件として設定されるある理念なのであって、統一体としての日本語そのものは経験できない。
……古代に日本語が存在したかどうかは、実証的に証明することも反証することもできず、そのような実証的な研究がありうるためには、統一体としての日本語を仮設しなければならないからである。一八世紀の言説で起こったのは、こうした日本語を遠い過去に仮設することであって、その結果として、古代日本語の実証的研究が、徳川幕藩体制下の都市と地方で爆発的に普及しえたのである。(酒井直樹『死産される日本語・日本人』)

とてもすぐれた指摘だろう、《一八世紀の言説においては、日本語と日本語が普遍的に通用したはずの共同体の存在を古代に仮設することによって、日本語が生み出された》。もちろん本居宣長だけの話ではないが、ここではやはり当時の代表的な古代日本語研究者として彼を例にとる。


(本居宣長「自画自賛像」)

書紀は、後の代の意をもて上つ代の事を漢国の言を以って記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此の記(古事記)は、いささかもさかしらを加へずて、いにしへより言ひ伝へたるままに記されたれば、その意も事も言も相稱(かな)ひて皆上つ代のまことなり。(本居宣長『古事記伝』冒頭「古記典等総論」)

そして、宣長は古事記研究により「日本語」というキルトスカートを発明したのである、と言っておこう。




民族国家が国民国家を建設するとき、彼らはふつうこの政体を古代の忘れられた民族的ルーツへの回帰として公式化する。彼らが気づいていないのは、彼らの「回帰」そのものが、回帰すべき対象を形作っているということだ。伝統への回帰とは、伝統を発明することに他ならない。

歴史家なら誰でも知っているように、(今日知られているような形の)スコットランドのキルト(巻きスカート)は十九世紀に発明されたものである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』より)

…………

上の話題からはいささか外れるが、宣長の次の文章は(現在の視点からは)どうあっても耐えがたい。

皇國は格別の子細ありと申すは、まづ此四海萬國を照させたまふ天照大御神の、御出生ましましし御本國なるが故に、萬國の元本大宗たる御國にして、萬ヅの事異國にすぐれてめでたき、

其ノ一々の品どもは、申しつくしがたき中に、まづ第一に穀は、人の命をつゞけたもちて、此上もなく大切なる物なるが、其ノ稻穀の萬國にすぐれて、比類なきを以て、其餘の事どもをも准へしるべし、然るに此國に生れたる人は、もとよりなれ來りて、常のことなる故に、心のつかざるにこそあれ、幸に此御國人と生れて、かばかりすぐれてめでたき稻を、朝夕に飽まで食するにつけても、まづ皇神たちのありがたき御恩賴をおもひ奉るべきことなるに、そのわきまへだになくて過すは、いともいとも物體なきことなり、

さて又本朝の皇統は、すなはち此ノ世を照しまします、天照大御神の御末にましまして、かの天壤無窮の神勅の如く、萬々歳の末の代までも、動かせたまふことなく、天地のあらんかぎり傳はらせ給ふ御事、まづ道の大本なる此ノ一事、かくのごとく、かの神勅のしるし有リて、現に違はせ給はざるを以て、神代の古傳説の、虚僞ならざることをも知ルべく、異國の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知ルべきなり、

異國には、さばかりかしこげに其ノ道々を説て、おのおの我ひとり尊き國のやうに申せども、其ノ根本なる王統つゞかず、しばしばかはりて、甚みだりなるを以て、萬事いふところみな虚妄にして、實ならざることをおしはかるべきなり、

さてかくのごとく本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなるに、今に至るまで外國には、すべて上件の子細どもをしることなく、たゞなほざりに海外の一小嶋とのみ心得、勿論まことの道の此ノ皇國にあることをば夢にもしらで、妄説をのみいひ居るは、又いとあさましき事、これひとへに神代の古傳説なきがゆゑなり、(本居宣長『玉くしげ』、1787年、58歳)

「近世最大の論争」と言われる本居宣長と上田秋成の論争ーー秋成は「やまとだましひ」の「臭気」、伊勢の「田舎者」と評し、宣長は「小智をふるふ漢意の癖」やら「まなさかしら心」と評すーーをめぐっては「うろんな事を又さくら花」にいくらか記した。

ここでは《しき嶋のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花》(上田秋成、胆大小心録)とのみ記しておくことにする。
…………

だがこれでは本居宣長の愛読者の方におこられそうなので、こう付け加えておこう。

酒井直樹氏の指摘にもあったようににこれらは宣長だけの問題ではない。宣長の考え方は、当時の支配的イデオロギーだったのである。もっとも宣長ほどの過剰な「日本中華主義」の表明ーー加藤周一のいう《粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えた》宣長の不思議ーーは稀有だったろうが。

桂島宣弘氏の『宣長の「外部」 ――18世紀の自他認識――』2001年の叙述を貼り付けておこう。
何よりも一七世紀における儒学・朱子学の体系的導入と、 同じく一七世紀のほぼ一世紀にわたってアジア地域を揺るがした明清王朝交代 (華夷変態)が、一七~一八世紀の知識人にとっては、相対化の前提をなす自他認識形成により大きなインパクトを与えていたといわなければならない。 すなわち、 前者によって 「礼・文」という文明基準に基づく自他認識の枠組み(=「礼・文」中華主義) 、 「理」や「天」の彼我の普遍性を前提としての「礼・文」の中華としての中国像、東夷としての徳川日本像が理念的に導入され、だが後者によって、それは現実に存在する中国=清を夷狄とする眼差しもあって、「日本的内部」を何らかのかたちで自覚した日本型華夷思想や、中国よりもむしろ徳川日本に「礼・文」の存在を認める日本中華主義をうみだしていた。

ここでいう日本型華夷思想や日本中華主義とは、一七~一八世紀の山鹿素行、熊沢蕃山、山崎闇斎学派、垂加派などの自他認識を想定しているが、明中華主義から脱却しての「日本的内部」の文化的優位性を主張しようとする言説、清=夷狄論を前面に押しだしての日本= 中華論などを意味している。
宣長の言説は、ロシア接近などの「近代世界システム」との接触期に成立した言説であった(『古事記伝』は寛政一〇[1798]年完成。ラックスマン根室来航は寛政四[1792]年)。(桂島宣弘『宣長の「外部」 ――18世紀の自他認識――』2001年、pdf


2017年7月24日月曜日

神仏習合と神仏分離

「神仏習合と神仏分離」などという表題をつけたが、以下は小林秀雄の『本居宣長』を読むなかでの派生備忘であり、一夜漬けとはいわないまでも、一週間漬け程度の、「ほぼ千年の間、日本文化そのものであった神仏習合思想」が明治政府の神仏分離政策によって崩壊したという「通説」しか知らなかった者のメモである。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年より
十七世紀以前に日本仏教は神仏習合を特徴としていた。神仏習合は、仏教の宗教的超越性を排して「現世利益」を強調することで大衆の中へ浸透したのである。十三世紀にはいわゆる「鎌倉仏教」が神仏習合を破って仏教信仰の超越性を強調する。しかしそれも、その後次第に神仏習合の広大な土壌に吸収されていった。その後最後にあらわれたのが、キリスト教弾圧の手段として徳川政権が導入した寺請制度である。寺請制度はすべての大衆を仏教寺院に強制的に登録する。寺院組織は行政機関の一部になり、タテマエとしての仏教の大衆化が徹底するが、同時に強い信仰の体系としての仏教は、もはや時代の支配的な価値の中心でなくなった。儀式(葬式など)、神仏習合がとりこんだ祖先崇拝(盆、仏壇)、さまざまな風俗(祭りなど)、全く現世的な願掛けなどは、多かれ少なかれ仏教と係わって徳川時代から今日まで残る。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


◆阪本是丸「神仏分離・廃仏毀釈の背景について」2005年より
本地垂迹説。これに関して、辻善之助先生が明治四十年の『史学雑誌』に「本地垂迹説の起源について」というのをずっと連載されていて、この辻先生の論文がいわゆる神仏習合の歴史を研究する基本の論文になっております。(……)そのなかで先生は、「即神明が仏法を悦び仏法を崇拝するといふ思想を事実的に現出せしめて」、それで神仏習合の端緒を開いた、それ以下は神仏習合の思想の起こったところから本地垂迹説ができるまでを考えてみようということで、「神仏習合」という言葉を使われた。これが最も学術的に早いと考えております。
佐藤弘夫さんが「神仏習合論」を書いている本の中で、神仏習合の帰結である神仏分離について書いています。「仏教と神道とはそれぞれの持続的独自性を保持しながら、相互補完的に習合していたのであり、神道が仏教に包摂されたり、両者が完全に渾然融合する関係にはなかったのである。神仏分離という大きな変革が達成された基盤には、こうした神祇信仰の歴史の流れがあったと理解すべきであろう」というふうに述べています。基本的には私はこの立場に立っております。
朝廷においては、いちばん神仏習合したとされる平安時代にあっても神仏隔離、神事に際しては仏事をしないという、決定的な作業があったということだけは知って置いていただきたい。
私は神仏分離が良かったとかけしからんといったことではなくて、一体何故そういうものが可能だったのか、しかも、それは単なる権力だけだったのか。いや、実はそうではなくて、それを受容した一種の受け皿があったのだろう。それがなければ、あれだけのものはできなかったということを述べたいのです。
仮に「ほぼ千年の間、日本文化そのものであった神仏習合思想」なるものが存在したとしても、実際にはそれに何の関心も興味も、そして信仰もなかった者たちが別当・社僧・寺僧となっていたのではないか、という疑念が拭い切れないのです。(阪本是丸「神仏分離・廃仏毀釈の背景について」2005年、pdf


◆大黒学「国家神道の基礎知識」2007年より

【神仏習合】
複数の宗教が一体化される現象は、「習合」と呼ばれる。神社神道と仏教は、その間にさまざま な形態の関係を展開させた。その結果として生じた神社神道と仏教との習合は、「神仏習合」と呼ばれる。 神仏習合にはさまざまな形態がある。そのひとつは、神は仏による救済を必要とする存在であると考える形態の神仏習合である。この考え方のもとに、「神宮寺」と呼ばれる仏教の寺院が神社の傍らに建立され、そこで神社の祭神に対する供養が実施された。 神は仏教を守護する存在であると考える形態の神仏習合もある。すなわち、帝釈天や梵天などのインドの神々と同列の位置に神社神道の神々を置くという形態の神仏習合である。この考え方のもとに、仏教の寺院を建立するに際して、その場所の土地神が「鎮守社」と呼ばれる神社に祀られた。

【本地垂迹説】
神仏習合の形態のひとつに、「本地垂迹説」と呼ばれるものがある。これは、神々というのは仏や菩薩が衆生救済のために姿を変えて現われたものであるという思想のことである。 神の本来の姿である仏または菩薩は、その神の「本地」または「本地仏」と呼ばれる。逆に、 仏または菩薩が姿を変えて現われた神は、もとの仏または菩薩の「垂迹」または「垂迹身」または「権現」と呼ばれる。

【廃仏毀釈】
慶応 4 年 (1868) の 3 月から閏 4 月にかけて、政府は、神仏習合に終止符を打つ数回の布告を発した。それらの布告は総称して「神仏分離令」または「神仏判然令」と呼ばれる。神仏分離令は、神社に対して、仏像、梵鐘、仏具などを取り除くことや、 「社僧」や「別当」などと称して 神社に仕えていた僧侶を還俗させることなどを命じたものである。 神仏分離令を契機として、廃仏思想を抱く国学者、儒者、地方官吏、各地の神職は仏教に対する排撃を推進し、それはやがて一般の民衆を巻き込んだ運動へと発展した。この運動は「廃仏毀釈」と呼ばれ、これによって、全国の多くの寺院が廃寺に追い込まれ、また、多くの堂塔、仏像、仏画、仏典などが破壊されたり焼却されたりした。


◆幸田露伴『魔法修行者』より
神仏混淆は日本で起り、道仏混淆は支那で起り、仏法婆羅門混淆は印度で起っている。


◆羽根田文明『仏教遭難史論』より

ーーあまり知られていない方だが、この書の序文を、上に引用した阪本是丸の話に出てくる辻善之助が書いているらしい。

各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。

社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。…

…いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。…

…堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。(羽根田文明『仏教遭難史論』)


◆ヴィーシィ・アレキサンダー「近世寺院と農村の関係を考え直す: 高尾山薬王院の例に基づいて」
徳川社会の基礎となった身分制度において仏教僧侶と尼僧は神主、百姓、町人より高い身分を与えられていました。


◆原田正俊「「江戸時代の政治・イデオロギー制度における神道の地位 ー 吉田神道の場合 ー」によせて」
身分制の問題としても、僧侶身分が近世初頭より比較的安定していたのに対し、神職身分は不確定の部分も多かった。(……)

一部の大社の神職は身分的に安定したものであっても、実際は村落内部に百姓身分の神職も多数存在し、その身分は複雑かつ不安定であった。村落内には専業の神職、庄屋が兼帯する鍵取りといった神職、神宮寺にいたっては社僧が祭礼の道師を勤め、地域や神社によって状況は多様であった。神職の身分の在り方は、僧侶身分に比べて極めて低く、不安定なものであった。

村落内の神職身分の多くは、慣習のもと神まつりを主催するものであって、身分的には百姓と同帳で人別改めが行われている場合も多かった。(原田正俊「「江戸時代の政治・イデオロギー制度における神道の地位 ー 吉田神道の場合 ー」によせて」)


◆菊池寛『明治文明綺談』1943年
徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。

そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。

しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 

僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。

そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎したのである。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…

それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。

『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(熊沢蕃山「大学或問」)

… 荻生徂徠も、 『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)

と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。(菊池寛『明治文明綺談』1943年)

◆加藤周一『日本文化における時間と空間』
仏教渡来以前からの民間信仰を今かりに神道とよぶとすれば、神道のカミは神仏習合を通して、また仏教を離れて独立に、大衆の中に生き続けた。それは全国的な信仰体系ではなくて、地域的な信仰である。各地方にはその地方の多数のカミがいる。カミは人間の死後の救済にはかかわらず、現世において生活を保護したり、願いを遂げさせたり、幸福をもたらしたりするとともに、条件次第では災害を集団や個人に与えることもある。しかし人間相互の関係に介入して、社会的慣習を超えた規範を要求せず、特定の倫理的価値を正当化しないし、権威づけない。要するに神道を背景としては、仏教的な彼岸の代わりに死後の魂の救済を説くことはできないし、此岸の倫理的な秩序を構築することもできない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)

◆本居宣長『古事記伝』より
さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、(本居宣長『古事記伝』三)


◆中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」より
江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。特に家康の決めた「祖法」は変更を許されなかった。その下で、江戸期の特徴は航海術、灌漑技術、道路建設、水道建設、新田開発、手工業、流通業、金融業の発達である。江戸は人口百万の世界最大都市となり、医師数(明治二年で一万人)も国民の識字率もおそらく世界最高であった。江戸期に創立された商社と百貨店と多くの老舗は明治期も商業の中核であり、問屋、手形、為替など江戸の商業慣行は戦後も行なわれて、「いまだ江戸時代だ」と感じることがたくさんあった。

「戦後レジーム」が米国から多くを学ぼうとしたのも、過去の敗戦後の日本史の法則通りであるといえそうである。米国は、科学から政治経済を経て家庭生活までが理想とされた。気恥ずかしいほどであった(貧しくなった西欧にも類似の米国賛美はあった)。

天皇が政治に関与せず、マッカーサー元帥が将軍として君臨したのも、米軍が直接統治せず、日本の官僚制度を使ったのも、江戸期の天皇、幕府、諸侯の関係に似ている。占領軍の指令は何と「勅令第何号」として天皇の名で布告され、日本政府が実施の責任を負った。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収ーー歴史にみる「戦後レジーム」

2017年7月23日日曜日

「問題はそこではないのですよ」

◆加藤周一、1975年より
「人のまことの心の奥のくまぐまを探りてみれば、みなただ、めめしくはかなきことの多かるものなるを、ををしくさかしげなるは、みずから省みて、もてつけ守りたるものにして、人に語るときなどには、いよいよ選びてよさにうはべを飾りてこそものすれ、ありのままにはうちいです……」(『源氏物語玉の小櫛』」

これはおそらく徳川時代を通じてもっとも鋭い社会心理学的洞察であり、日本人の精神における「うはべ」と「心の奥」、たてまえとほんね、意識的な価値と無意識的な心理的傾向、外来の「イデオロギー」と伝統的な世界観との関係を、はじめて明瞭に示した文章である。彼の思想はここでこそもっとも深く、もっとも正確であり、もっとも遠く彼自身の時代を超えていた。
しかしその後の国学者が継承したのは、文献学的方法の技術的な面を別にすれば、宣長の体系の弱点である。その弱点は二つあった。一つは、神話と歴史との混同であり(したがって天皇制の神秘化)、もう一つは、文化の特殊性と思想の普遍性との混同である(したがってこじつけの著しいナショナリズム)。


◆加藤周一、1988年
今さらいうまでもなく、宣長の古代日本語研究が、その緻密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が、上田秋成も指摘したように、粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは、何故かということである。(加藤周一「宣長、ハィデッガ・ワノレトハイム」1988年「夕陽妄語」)


◆加藤周一、2000年
「本居宣長」は(小林の)最後の大作だけれども、あそこで逃げていることが二つある。 一つは、宣長の大学者としての面と、極端なナショナリストでデマに近いことを口走っていることの矛盾を採りあげて説明しようとしていないこと。

もう一つはお墓です。宣長が遺言してつくらせた墓は、一つは仏教寺院に、もう一つは神道式の墓がある。あれだけ神道を称揚し、仏教、儒教を排していた宣長が、なぜ仏教のお寺に祀られて、同時に神道の墓を別につくっているのか。小林さんはそれを両墓制を用いて説明している。しかし、それは間違っている。両墓制というのは、沖縄などにある古代神道の墓で、二段になっているもの。しばらく死者が留まるところと永久に行くところの二つの墓がある。両墓制というのは神道の中での二つの墓のシステムである。だから両墓制で説明することは全々意味をなさない。

(……)小林さんの主観主義の結論の一つは一流主義です。例えば、宣長は一流の歴史家だという。小林さんはマルクス主義が嫌いだったから、マルクス主義の歴史家が書いたものについては「あんなものは歴史ではない」となる。では、新井白石はどうなのか、あるいは、「神皇正統記」の北畠親房、「愚管抄」の慈円はどうなのかとなると、みんな歴史家です。人からもらった議論をあてはめて、利口そうなことを書くような疑似歴史家とは全然違うと、小林さんはいう。それはそうだ。だけど白石と宣長とどこがどう違うかということは、小林さんの言説からは出てこない。(加藤周一「私にとっての20世紀」2000年)

ーー問題はそこではないのですよ、問題は、宣長が極端なナショナリストに与することなしに、最も偉大な古事記学者になり得たかどうかということなのです。

私はもちろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与することなしに20 世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。(デリダ

これはもちろん折口信夫にたいしても言える。折口は敗戦に直面して、「神 やぶれたまふ」といった。神が敗れたのは、それを祭る者たちが、《宗教的な生活をせず、我々の行為が神に対する情熱を無視し、神を汚したから神の威力が発揮出来なかった》(「神道宗教化の意義」)と。

◆斎藤英喜「折口信夫の可能性へーーたたり・アマテラス・既存者をめぐって」2017年より
折口は、人間の系図から独立した「高皇産霊神・神皇産霊神」を「この神の力によつて生命が活動し、万物が出来て来る。だからその神は天地の外に分離して、超越して表れてゐる」(「神道宗教化の意義」)という超越神、創造神と解釈していく。すなわち「神をつくる神、それから分化した人をつくる神は、それが我々の生命をこの世に齎したことになり、それが高産霊神・神産霊神であらう………」(同、前)というのである。

もちろん『古事記』『日本書紀』の原文には、タカミムスヒ・カムムスヒは「天地初発の時」に「高天原」に生成した神とあり、両神が天地を超越し、創造を担う神とは書かれていない。折口の言説は、『記』『紀』からの逸脱、過剰な解釈ということになろう。けれども折口のムスビ神の解釈は、じつは本居宣長の『古事記伝』の「さて世間に有とあることは、此天地を始めて、万の物も事業(コト)も悉に皆、此二柱の産巣日大御神の産霊(ムスビ)に資(ヨリ)て成出るものなり」(三之巻)を継承したものであったのだ。

宣長の『古事記伝』といえば、『古事記』を精密に読み解いた、近代文献学の先駆とされてきた。しかし、実際のところ、『古事記伝』の注釈は、『古事記』原典を逸脱して、過剰に意味づけしていくところが少なくない。とくに『古事記』原文を超えて、タカミムシヒ・カムムスヒを、天地を始めとして、万物の創成にかかわる超越神、創造神とする解釈は、そのもっとも顕著な例である。「産巣日大御神の産霊」という「一神」の霊力が天地・万物・人間を生成させる、というわけだ。折口のムスビ論は、宣長を踏まえていることはあきらかであろう。(斎藤英喜「折口信夫の可能性へーーたたり・アマテラス・既存者をめぐって」pdf)

過剰に意味づけしていくのは、たとえばハイデガーのヘルダーリン解釈と相同的である。「植民地を、そして勇敢な忘却を精神は愛する」(ヘルダーリン)→「より深く母国を愛するために娘の国としての植民地を愛する」(ハイデガー)

私の深い不信は、ハイデガーのようなパセティックなスタイルだ。私には物事を俗化させたい純然たる強迫がある。その俗化とは、物事を単純化するという意味ではなく、〈物 das Ding〉へのパセティックな同一化を崩壊させたいという意味である。だから私は、最も高級な理論から、最も低劣な事例に、唐突に飛ぶのを好むのだ。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

ハイデガー、本居宣長、折口信夫、小林秀雄という教祖たち・・・

あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。(坂口安吾「教祖の文学)

 もっともモダニスト加藤周一にさえ「教祖のにおい」を嗅ぎとる人がいてもまったくおかしくない。





2017年7月22日土曜日

神の仮説

言葉のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女であることか! 私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを・・・

Die »Vernunft« in der Sprache: o was für eine alte betrügerische Weibsperson! Ich fürchte, wir werden Gott nicht los, weil wir noch an die Grammatik glauben...(ニーチェ「哲学における「理性」」五、『偶像の黄昏』)

ーーここでのニーチェの「神」は、フロイト・ラカン的には「大他者」「父の名」あるいは「超自我」として捉えうる(「文」の「法」とは「大他者」=シニフィアンのネットワーク」を支える大他者=法であろう)。

無意識の仮説、それはフロイトが強調したように、父の名を想定することによってのみ支えられる。父の名の想定とは、もちろん神の想定のことである。

L'hypothèse de l'Inconscient - FREUD le souligne - c'est quelque chose qui ne peut tenir qu'à supposer le Nom-du-Père.Supposer le Nom-du-Père, certes, c'est Dieu.(Lacan, S23, 13 Avril 1976)

ラカンには「神の仮説 l'hypothèse Dieu」という概念がある。ジジェクの説明をきこう(わたくしが知るかぎりこの概念を具体的に注釈しているのは、ジジェクとロレンゾ・キエーザだけである)。

人は直接的には大他者の不在を手に入れえない。人は先ず大他者に騙されなければならない。というのは、「父の名 le Nom‐du‐Père」とは、「騙されない者は彷徨う les non‐dupes errent」を意味するからだ。「知を想定された主体」の錯覚 illusion への屈服を拒絶する者たちは、この錯覚によって隠されている真理を失う。

このことは、我々に「神は無意識的である」へと引き戻す。すなわち〈神〉(知を想定された主体としての神、大他者としての神、経験上のすべての受け取り手を超えた究極の受け取り手としての神)は、半永久的な、言語の構成的構造である。〈彼〉なしでは、我々は精神病となる。ーー〈神-父〉の場なしでは、主体はシュレイバー的妄想に陥る(Lacan, “La méprise du sujet supposé savoir,” 1968)。

「知を想定された主体」としての神は、この上ないものであり、大他者、真理の場の基盤的側面である。このように、大他者は神性のゼロレヴェルである。…《もし私にこの言葉遊びが許されるのなら、le dieu—le dieur—le dire (神ー神語るー語る)がそれ自体を生みだす。話すことは無から神を創りだす。何かが言われる限り、神の仮説 l'hypothèse Dieu はそこにあるだろう》(Lacan, Le séminaire, Livre XX: Encore)。

我々が話す瞬間、我々は(少なくとも、無意識的に)神を信じている。ここで我々は、ラカンの「神学的唯物論」に、最も純粋な形で遭遇する。発話行為(究極的には、我々自身)そのものが神を創造する。……(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ニーチェは冒頭に引用した文で、 《私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからである》と記してることを想い起そう。文法とは、われわれの言説(大他者)を支える大他者であろう。

…………

ラカンの神=大他者をめぐる思考の変遷をいくらか追ってみよう。

なぜ我々は、他者 l'autre を大文字のA の〈他者〉« l'Autre » avec un A とするのか。

言語によって与えられる記号を補うよう余儀されるときは常にそうだが、疑いもなく種々の理由がある。その理由、全ての基盤…を次に示すなら、すなわちーー、

《あなたは私の妻(女)だ Tu es ma femme》というとき、結局何を知っているのか?

《あなたは私の師です Tu es mon maître》、これについて本当に確信が持てるだろうか。

この発話 paroles に「創設的価値 valeur fondatrice」をもたらすもの…このメッセージにおいて目指されてているもの、それが見せかけ(振り feinte)として言われている場合でも同様だが、《絶対的な他者 Autre absolu》としての〈他者〉がそこにいるということである。絶対的、すなわち、この〈他者〉は気づかれ reconnuてはいるが、知られて connu はいないということである。…

同様に、見せかけ feinte を見せかけたらしめているもの、それは結局、人は見せかけか否かを知らないということである。これは本質的なことである。

この本質的な要素、《他者の他者性 l'altérité de l'Autre》のなかの直かの未知 inconnue directe の要素、これが発話関係を特徴づけるものである。(ラカン、S3、30 Novembre 1955)

だがこのあと、《大他者の大他者はない  Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》ということになる。これは象徴的大他者を支える神はないという意味である(《メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage》と同一の意味)。

1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)

この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…

一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……

父の名は《シニフィアンの 場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)

……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)

大他者の大他者(他者の他者性)がなければ、なにがあるのか。1962年の段階では、対象aと言っている。

対象a とは、主体の構成の残余であり、他者の他者性 l'altérité de l'Autre の唯一の証拠である。 cette preuve et seule garantie en fin de compte de l'altérité de l'Autre, c'est le petit(a).(S10, 21 Novembre l962)

大他者も対象aも無意識的なものであるのは変わりはない。

無神論の真の公式 la véritable formule de l’athéisme は「神は死んだ Dieu est mort」ではなく、「神は無意識的である Dieu est inconscient」である。(ラカン、S11, 12 Février 1964)
一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(Lacan, S17, 18 Février 1970ーー 原超自我 surmoi primordial

「大他者の大他者はない」、あるいは「大他者はない」は又、S(Ⱥ)というマテームで示される。

私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(S23、16 Mars 1976)
J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,S23, 16 Décembre 1975)
大他者は存在しない:(S(Ⱥ))l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ) (S24, 08 Mars 1977)

S(Ⱥ) とはȺのシニフィアンという意味である。

ジャック=アラン・ミレールのȺをめぐる注釈をきこう。

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001、pdfより)

ーーS(Ⱥ) とは Σ(サントームsinthome)、Yad'lun(一のようなものがある)と等価である。これはフロイトの固着(原症状、原抑圧)のことである(参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)。

ミレールは上のセミネールをするすこし前に次のように言っている。

父の名とは言語である。そしてさらに、超自我とは言語である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ジャック=アラン・ミレール、MILLER Jacques-Alain et Éric Laurent, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)

最後に冒頭のニーチェにもう一度戻る。《言葉のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女 alte betrügerische Weibsperson であることか!》

この《年老いた誤魔化しの女 alte betrügerische Weibsperson》で何を言わんとしているのか。たんなるレトリックか?

真理は女である。die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』1886年ーー真理は女である。ゆえに存在しない)

ーーと記してきたが、はっきりと分かっているつもりは、わたくしには毛頭もない。ここからララング(母の舌語)に結びつけてみたい誘惑がないではないが(参照:ララングという母の言霊)。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、母の舌語(la dire maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール、2011(英訳2016), Colette Soler, Les affects lacaniens)

ようするに「神の仮説」とはーージジェクのとても説得的な解釈以外にもーー「母の仮説」として捉えうるのではなかろうか? 《女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut》(Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838ーー「神さん」という原超自我)。

……自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう、(が)私は、女性の享楽を信じている………naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu :je crois à la jouissance de « L femme »(Lacan,S20 février 1973)

フロイトの「固着 Fixierung」(ラカンのサントーム sinthome)、治療不能の核--ララングが身体の上に置き残した「原徴」(原抑圧)のなかにあるもの、この「純粋享楽」の形式。これはラカンの Yad'lun(一のようなものがある)、あるいはS(Ⱥ)、 斜線を引かれた女 Lⱥ femme である。

ラカンのYad'lun(一のようなものがある)。この「一」は存在に先立つ。どのシニフィアンもそれが「一つきり」であるとき、Yad'lunである。この唯一のシニフィアンは消去される。これは原徴であり、フロイトの原抑圧である。それは欠如の場を位置づけうる。フレーゲは「一」からくる欠如を非存在の記号とした。(The Bodily Root of Symptoms、Bernard Porcheret、摘要訳)

このかぎりでどのシニフィアンも最初は「固有名」でありうる。《ララングは固有名の核である 》(Bernard Nomine、Three of four things about the Father and the knot

…………

ニーチェの音調 Töne とは、ラカンのララング lalangue (母の舌語 lalangue maternelle)としたらどうだろう?

言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。
それぞれの魂は、それぞれ別の世界をもっている。それぞれの魂にとって、他の魂はみな一つの背後世界 Hinterweltである。

最も似かよっているものどうしのあいだにかかっているとき、仮象 Schein は、たとえいつわりにせよ、最も美しい。わたしがそう言うのは、最小の裂目 die kleinste Kluft は、最も橋をかけにくいものであるから。

わたしにとってはーーどうしてわたしの外Ausser-mir というものがありえよう。外 Aussen というものは存在しないのだ。しかし、音調を聞くたびに、わたしはそのことを忘れる。忘れるということは、なんとよいことだろう。

事物に名と音調が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音声を発してことばを語るということは、美しい狂宴である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部)
・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象 Schein を崇めること、ものの形や音調 Töne や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の der Formen, der Töne, der Worte 崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。

Oh diese Griechen! Sie verstanden sich darauf, zu leben: dazu thut Noth, tapfer bei der Oberfläche, der Falte,der Haut stehen zu bleiben, den Schein anzubeten, an Formen, an Töne, an Worte, an den ganzen Olymp des Scheins zu glauben! Diese Griechen waren oberflächlich — aus Tiefe! Und kommen wir nicht eben darauf zurück, wir Wagehalse des Geistes, die wir die höchste und gefährlichste Spitze des gegenwärtigen Gedankens erklettert und uns von da aus umgesehn haben, die wir von da aus hinabgesehn haben? Sind wir nicht eben darin — Griechen? Anbeter der Formen, der Töne, der Worte? Eben darum — Künstler?(ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年追加)

《ものの形の、音調の、言葉の der Formen, der Töne, der Worte 崇め人》とある。ララングとは「純シニフィアン signifiant pur」の物質性である(参照)。

そしてララングは永遠回帰でもある。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。

Rappelons-nous l'idée de Nietzsche : l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle, mais qui capture les forces muettes et impensables du Cosmos.(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)


2017年7月21日金曜日

アマテラスとタカミムスの遠近法的倒錯

日本史にすこぶる無知なわたくしは、小林秀雄の『本居宣長』をようやく読むなかで、その無知を補うために(やむえず)ネット上にある古代史研究論文をいくらか眺めてみた。

たとえばこういうことも知らなかった。

………留意すべき重要な点としては、『古事記伝』成立以前において、『古事記』は『日本書紀』を読む上での参考資料の一つとしてしか扱われていなかったということが挙げられている。つまり『日本書紀』の方が圧倒的に優位にあったのである。その価値観を大きく変更させたのが『古事記伝』だったわけだ。より純粋な日本人の精神がこの書にあるという確信に基づいて、宣長はそれまでの訓読を実証的な検討によって丁寧に改めていった、そこに同書の最も大きな意義があったろう。(鈴木健一「『古事記』受容一齣」、pdf

あるいは前回も引用したが、現在の学会では次のように言われるのも知らなかった。

本来の皇祖神はアマテラスではなくタカミムスヒだったこと(溝口睦子『アマテラスの誕生』)

これを知るようになったのは、今回ではなく半年ほど前、柄谷行人の「象徴天皇制」の考え方の起源をいくらか探ろうとした中ではあるが。


溝口(『王権神話の二元構造』2000)によれば、古い皇室の皇祖神はもともとタカミムスヒであり、記紀編纂の直前の天武、あるいは持統朝といった新しい時代にアマテラスが皇祖神の地位に就いたことは学界の定説になっていると言う。

ではなぜ、タカミムスヒからアマテラスへという皇祖神の移行・転換が 7 世紀末から 8 世紀にかけて宮廷で進行したのかについて、溝口は当時の国際情勢と国内情勢との関連で次のように述べている。

7 世紀後半の日本(天智天皇~天武天皇の時代)は白村江の惨敗と朝鮮半島からの全面撤退、さらには新羅・唐の日本への侵攻の脅威といった国家存亡の危機的な状況に直面していた。こうした東アジアの緊張関係の中で、日本は古い部族的な国家体制(伴造制・国造制といわれる)から脱却して、直接に国家が全国津々浦々の人民を掌握する政治体制の確立に迫られていた。大化の改新以降、中国(黄河文明)文化が流入していた当時の日本は、天武・持統天皇の時代に急速に唐の政治制度や思想を取り入れて律令天皇制を作りあげた。天武・持統朝の政治大改革の中で天皇家の守護神・皇祖神の変更が行なわれたと溝口は言う。

タカミムスヒは天皇家に直属する伴造系という氏にのみ親しまれ信奉された男性神であり、一般には馴染みの薄い旧体制の党派的色彩の強い朝鮮由来の新来のカミだった。それに比して、アマテラスはタカミムスヒより古く、南方的な海洋的・水平的世界観をもつ農耕的な太陽神(女性神)だった。アマテラス神話群はイザナキ・イザナミ、アマテラス・スナノヲなど豊かな内容を有しており、それは皇室と一体であった伴造系ではなく、地域に基盤をもち、半独立的な存在であった臣系・国造系の氏の神話と祖先神だった。天武・持統朝は臣系・国造系の氏の協力を得て全国統一の達成という大改革を成し遂げるためにも、宗教改革(神話改革)政策として、アマテラスをタカミムスヒと並立・融合させて新しい神祇信仰(天神・地祇)の中心の国家神に据えようとしたのである。つまり、天神としてのタカミムスヒと地祇としてのアマテラスの融合である。こうした政治的配慮のもとに、もともと全く異質な世界観を持った二つの神話群(ムスヒ系神話群とイザナキ・イザナミ系神話群)が記紀神話の中で接合された (長山恵一「精神構造」論としての天皇制 -赤坂憲雄の天皇制論の整理・検証を通して-、2016、PDF)

というわけだが、こう記して何がいいたいわけでもない。これらは基本的にイデオロギー的な「神の名」選択の話であり、そのうちまた見解が変わるかもしれない、と思いつつ読むだけである。

1884年生れのニーチェ、文献学者として出発したニーチェは、24歳のときすでにこう言っている。

歴史とは、 それぞれの存立を賭けた無限に多様で無数の利害関心(Interessen)相互の闘争でないとしたら、一体何であろうか (Nietzsche, Nachgelassene Aufzeichnungen , Herbst 1867-Frühjahr 1868)

そして実質上最晩年のニーチェの草稿(1886/87)はこうである。

現象 Phänomenen に立ちどまったままで「あるのはただ事実のみ es giebt nur Thatsachen」と主張する実証主義 Positivismus に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationenと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろらう。

「すべてのものは主観的である Es ist Alles subjektiv」と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。「主観 Subjekt」は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。---解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか? すでにこのことが、仮構であり、仮説である。

総じて「認識 Erkenntniß」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義 Perspektivismus」  

世界を解釈するもの、それは私たちの欲求 Bedürfnisse である、私たちの衝動 Trieb とこのものの賛否である。いずれの衝動も一種の支配欲 Jeder Trieb ist eine Art Herrschsucht であり、いずれもがその遠近法 Perspektive をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。(ニーチェ『権力への意志』)

なにはともあれ《本来の皇祖神はアマテラスではなくタカミムスヒ》との見解は、伊勢神宮に祀られている天皇イデオロギーの象徴「アマテラス」ーー《皇祖神(アマテラス)=天つ神 =祀られると同時に祀る神》(赤坂憲雄)--を相対化する功績があるのはたしかである。

ニーチェの考えるような歴史的感覚は、自らがある視点 perspectif を持つことを知っており、自らに固有の不公正さの体系を拒否しはしない。歴史的感覚は、評価し、イエスかノーを言い、毒のあらゆる痕跡をたどり、最良の解毒剤を見つけ出そうという断固とした意図 (propos)をもって、特定の角度から眺めるのである。(フーコー「ニーチェ、系譜学、歴史 Nietzsche, la généalogie, l'histoire」、1971年)

2017年7月20日木曜日

「文字なしとて事たらざることはなし」

一般に「文字が無かったが、仏教とともに文字が伝来した」とされる日本の歴史だが、漢字伝来以前に日本独自の文字があったとされる議論があるそうだ。この文字は「神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)」と呼ばれる。

・否定説を唱えた者としては貝原益軒、太宰春台、賀茂真淵、本居宣長、藤原貞幹、伴信友などがある。現在も否定的な立場の研究者は多い。

・肯定論も古くから存在し、卜部兼方、忌部正通、新井白石、平田篤胤、大国隆正等が唱えた。(wiki)

たとえば「大分県国東郡国東町」の山奥で発見されたとする次のような石がある。




たまたま拾った画像であり、これを紹介しているのはたぶん専門研究者ではない。そもそもあまりにも鮮明すぎて偽物としか思えないが、風化していた文字を、さる僧侶が掘り直したとされている(参照:神代文字岩)。もちろんこの説明自体眉唾としなければならない。

繰り返せば、こういった遺跡の情報の真贋は常に疑わなくてはならないが、そうはいっても賀茂真淵や本居宣長等が思い込んでしまっていたらしい「漢字伝来以前にまったく文字がない」--上に引用したように《現在も否定的な立場の研究者は多い》、つまり真淵や宣長に同調しているーーとは、この専門研究者の考え方自体が、むしろひどく奇妙なものにわたくしには思われる。神代文字はあったにきまっているという「先入観」が全く素人のわたくしにはあるのである。

たとえば物を数えるのに、人は一本の線を引く。これ自体「文字」の始まりのひとつだろう。

ラカンは、フロイトの「一の徴 der einzige Zug」概念を展開しつつ、この「一本の線」をめぐる問いがなされている。



すくなくともどの国の古代においてもこういった一本の線だけではなく、そこから変形された文字があったに決まっているのではなかろうか。

次の図もラカンのセミネール9からである。



上に掲げた「一の徴」をめぐって、ラカンは10年後のセミネールにおいては次のように言うことになる。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17, 14 Janvier 1970)

ここで trait unaire を「一の徴」と訳したが、実際はこれは徴というより「ひとはけ」作用とでもいうべきものである。

L'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. (Badiou, L'être et l'événement)

小林秀雄の『本居宣長』を読んで、なんとも受けいれ難くなるのは、いま記した、わたくしにとっての「常識」が共有されていないせいである。

「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」(本居宣長「くず花」)

もっとも「産巣日神(ムスビノカミ)」をめぐる議論には魅了されないではない。

「直毘霊(ナオビノタマ)」にあるように、ーー「人はみな、産巣日神(ムスビノカミ)の御霊によりて、生れつるまにまに、身にあるべきかぎりの行(ワザ)は、おのづから知りてよく為る物にあれば」、「いかでか其上をなお強ることのあらむ」という事になる。文字による、智識の普及と教えという「強事(シヒゴト)」の成功の如きが、人の本質的な智識に、何を加え得たろうか。この点に関し、世の物識り人達の、その自負から来る錯覚はまことに深いのである。(小林秀雄『本居宣長』四十八)

前回、「ララングという母の言霊」にて「ララング/言語」をめぐると備忘を記したが、その核心となる文を再掲しよう。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺(言霊)である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだのつながりを証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の舌語(lalangue maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。Colette Soler, Lacanian Affects, 2016)

上古の文字のない時代とは、人間の幼児期の言語のない「先史」時代、つまりララングの時代とほぼ相似的なものとして思いを馳せることができるのではないか。ラカンはこの時期の幼児が直面して使用する言葉を、「純シニフィアン signifiant pur」の物質性、あるいは「文字 lettre」といったりもする(参照)。(宣長の「文字」とはもちろん等価でないことを断っておこう)。

なにはともあれ小林秀雄=本居宣長の「ムスビノカミ」の考え方は、ラカンのララングにひどく近似している。

彼が註解者として入込んだのは、神々に名づけ初める、古人の言語行為の内部なのであり、其処では、神という対象は、その名と全く合体しているいるのである(高天原という名にしても同様である)。彼が立会っているのは、例えば「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)」の二柱の神の御名を正しく唱えれば、「生(ムス)」という御名のままに、「万ヅの物も事業(コト)も悉(コトゴト)に皆」生成(ウミナシ)賜う神の「かたち」は、古人の眼前に出現するという、「あやしき」光景に他ならなかった。(小林秀雄『本居宣長』四十八)

いやむしろ「父の諸名」に近似しているといったほうがいいかもしれない。この父の諸名は固有名に大きくかかわる[後述]。そもそもラカンにとって《固有名の真の性質は、「一の徴 trait unaire」としての文字 lettre である》(Lorenzo Chiesa、Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 )。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(ラカン、S22,.11 Mars 1975)

 本居宣長にとっては、古事記冒頭の「神の諸名」の列挙は名付け行為であり、ラカンの「父の諸名」の名付けとどうして関連づけないでいられよう?

天地初めて発けし時、高天原に成る神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣神。此の三柱の神は並独り神と成り坐して身を隠すなり。 次に(……)宇摩志阿斯訶備比古遲神。次に天之常立神。上件の五柱神は別天神。 (『古事記』)
次(ツギニ)。都藝(ツギ)は、都具(ツグ)といふ用語の、體語になれるなり。(凡て言に體用の別あり。體とは動かぬをいふ。用とは活(ハタラ)くを云フ。其ノ體語に、本より體なると、用の體になれるとあり。いと上ツ代には、用語多くて、體語すくなかりしを、世々に人の言語の多くなりもてゆくまゝに、用語の分れて、體語にもなれるがいと多きなり。)

都具(ツグ)は都豆久(ツヅク)ともと同言なれば、都藝(ツギ)も都豆伎(ツゞキ)と云に同じ。さて其(ソレ)に縦横(タテヨコ)の別(ワキ)あり。

縦(タテ)は、假令(タトヘ)ば父の後(ノチ)を子の嗣(ツグ)たぐひなり。横は、兄(セ)の次に弟(オト)の生るゝ類ヒなり。記中に次(ツギニ)とあるは、皆此ノ横の意なり。

されば今此(コゝ)なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とある次(ツギニ)まで、皆同時にして、指續(サシツゞ)き次第(ツギツギ)に成リ坐ること、兄弟の次序(ツイデ)の如し。(父子の次第(ツイデ)の如く、前(サキ)ノ神の御世過(スギ)て、次に後ノ神とつゞくには非ず。おもひまがふること勿(ナカ)れ。)(本居宣長『古事記伝』)

…………

ここで、小林秀雄の『本居宣長』の第四十八章ーーわたくしにはこの書の核心のひとつと思われる叙述を抜き出しておこう。

神代の伝説(ツタエゴト)について、宣長が非常に明瞭な、徹底した考え方をしていた事は、「くず花」の議論の中によく現れている。

「まがのひれ」の著者が文字の徳を言うに対して、宣長は言伝えの徳を説くのだが、こういうことを言っている、--

「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」(くず花)

これも、いかにも宣長らしい、平明な譬えだが、平明過ぎて、読む者は、そのまま読み過ごし、このような事を明言した者は、この人以前に、誰一人いなかった事には、思い至らぬという事はあるのである。

おぼつかない神代の伝えごとを、そのまま受納れた真淵が、「古へを、おのが心言(ことば)にならはし得」たところを振返ってみるなら、それとは質の違った想像力が、この易しい譬えの裏には、働いているのが見えて来るであろう。--「言を以ていひ伝ふると、文字をもて書伝ふるとをくらべいはんには、互に得失有て、いづれを勝れり共定めが」くと、宣長は繰返し言っている、これは大事な事で、彼は定めがたき一般論などを口にしているのではない。ただ、両者は相違するという端的な事実に着目して欲しい、と言っているだけなのだ。ところが、其処に眼を向ける人がない。「上古言伝へのなりし代の心に立かへりて見」るという事が、今日になってみると如何に難かしいかを、宣長は考えるのであり、その言うところには、文字を用いなれたる人々が、知らずして抱いている偏見に、強く抗議したいという含みがある。

「文字は不朽の物なれば、一たび記し置きつる事は、いく千年を経ても、そのまゝに遣るは文字の徳也、然れ共文字なき世は、文字なき世の心なる故に、言伝へとても、文字ある世の言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし、今の世とても、文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に、空にはえ覚え居らぬ事をも、文字知らぬ人は、返りてよく覚え居るにてさとるべし、殊に皇国は、言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国にすぐれたるをや」、

--神代より言い伝え、言霊の幸わう国と語り継いで来た「文字なき世は、文字無き世の心なる故」と、しっかりと想像力を働かせてみるなら、「言辞の道」に於いて、「浮きたる事」は、むしろ今の世の、「文字を知れる人」の側にある事に気付くであろう、というのが、宣長の言いたいところだったのである。

「まがのひれ」の著者が、「文字なかりし世々の古事は、皆その後の天皇の御心もて、よきさまに造り成し給へる物にて、実の事にはあらず」と言うに対して、宣長は、かしこげなる意見と、烈しく抗し、「中古迄、中々に文字といふ物のさかしらなくして、妙なる言霊の伝へなりし徳」を忘れてはならないと言う。先きにも言ったように、彼は、文字の徳を、少しも見損なっていなかったが、文字の徳と馴れ合い、言わば、「文字といふ物のさかしら」となれば、これは又別事である事を、見逃してはいなかった。それが「文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に」云々、という言い方になるのであり、そういう含みが辿れなければ、読まぬに等しいであろう。
(……)文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだけで、支障なくつづけられていたのは何故か。言葉と言えば、話し言葉があれば足りたからだ。意味内容で、はち切れんばかりになっている、己れの肉声の充実感が、世人めいめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆する事が出来た。「書契以来、不好談古」と言った斎部宿禰の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要がある事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。

先きに、宣長が歩いた、「古事記」注解という「廻り道」について述べたが、彼が、非常な忍耐で、ひたすら接触をつづけた「皇国(ミクニ)の古言」とは、注解の初めにあるように、「ただに其物其事のあるかたちのままに、やすく云初(イイソメ)名づけ初(ソメ)たることにして、されに深き理などを思ひて言る物に非れば」、--という、そういう言葉であった。未だ文字がなく、ただ発音に頼っていた世の言語の機能が、今日考えられぬほど優性だった傾向を、ここで、彼は言っているのである。宣長は、言霊という言葉を持ち出した時、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生れた、という事、言葉の意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたという、全く簡明な事実に、改めて、注意を促したのだ。情(ココロ)の動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微妙なもので、話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような、「たましひ」が持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである。

繰返すまでもなく、宣長は、文字の徳が、言伝えの徳に取って代った、などと言っているのではない。誰にも、そんな事の出来る力はありはしない。言伝えの遺産の上に、文字の道が開かれる事になったのだが、これは、言霊の働きを大きく制限しないでは行われなかった、そういう決定的な事に、他人が鈍感になって了った事を言う。上古の人々は、思うところを、われしらず口にするという自然な行為によって、言葉の意味を、全身を以て、感じ取っていた筈だから、其処に、言葉の定義を介入させる為には、話し方と話の内容とを、無理にも引裂かなければならなかったであろう。動く話し方の方を引離して、これを無視すれば、後には、動かぬ内容が残り、定義を待つ事になっただろう。文字の出現により、言語の機能の上で、思うにまかせぬ表現の様から、意のままになる内容の伝達への、大きな転回が可能になったわけだが、宣長は、これを、人々の心を奪うような大事とは、考えていなかった。太古の人々は、そのような事に未だ思い及ばなかったのではなく、そのような余計な事を思い付く必要を、感じていなかった、という考えだったからである。

彼等は、自分等が口にしている国語の抑揚さえ摑まえていれば、物事を知り、互に理解し合って暮らすのに、何の不自由もなかった。そういう生活が、文字と共に始まった歴史以前、どれほど久しい間、続けられて来たか。宣長は、この言伝えの世として、何一つ欠けたところのない姿の裡に、身を置いて、人々の心ばえを宰領している言語表現を想い描き、其処では、表現の才を言うより、表現の天分を言う方が、どれほど自然な事だったかを直覚していた。言語表現の本質を成すものは、習い覚えた智識に依存せず、その人の持って生れて来た心身の働きに、深く関わっているものだ、そういう言語機能の基本的な性質は、「文字ある世」になっても少しも変りはしないのだが、それが忘れられて了ったのである。

繰り返せば、今は曖昧なままの「思いつき」を記すが、これは固有名論、あるいはララング論としても読めるのではなかろうか。

宣長は《高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)》の「ムスビ」について、《産霊(ムスビ)とは、凡て物を生成(ナ)すことの霊異(クシビ)なる神霊(ミタマ)を申すなり》としている。すなわみムス・ビ(「生(ムス)」霊)である。他方、折口信夫は「結び」と読んでいる(現在の学会では否定されているようだが)。

この折口信夫の考え方はとても魅力的で、ラカンをいくらか読むわたくしは、ここでもまたボロメオ結びの「結び目」を想起してしまう。そして、それは固有名のことでもある(神の諸名!)。

三界(象徴界・想像界・現実界)の基礎は、フレーゲが固有名と呼ぶもの que FREGE appelle noms propres である。 (ラカン、S24. 16 Novembre 1976)

ーーさるラカン派が《ララングは固有名の核である lalangue is a nucleus of proper names》 (Bernard Nomine、2015)と言っているが、なるほどと思わせる。この「洞察」も、前回の記事(ララングという母の言霊)と関連付けうる。

いずれにせよ、古事記冒頭に出現する三つの神の名、アメノミナカヌシ(天之御中主神)、タカミムスヒ(高御産巣日神)、カムムスヒ(神産巣神)における二番目の「タカミムスヒ」が、古い皇室の皇祖神であり、アマテラス(天照大神)が皇祖神となったのは、記紀編纂の直前の天武、あるいは持統朝といった「新しい時代」とするのが、現在の学会の主流の見解である。すなわち「タカミムスヒ」が核心的な神の名なのである。《本来の皇祖神はアマテラスではなくタカミムスヒだったこと》(溝口睦子『アマテラスの誕生』)。

最後に、ここでの叙述は、古事記にも神の名にもいままでまったく関心がなかったシロウトの「思いつき」を記した、という範囲をでないことを--ことわるまでもないだろうがーー、敢えて繰り返し強調しておく。



2017年7月19日水曜日

ララングという母の言霊

まず、仏女流ラカン派の第一人者コレット・ソレールのとても明晰な「ララング」の定義文を拾ったので、ここに訳出する。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺(言霊)である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、母の舌語(la dire maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール、2011(英訳2016), Colette Soler, Les affects lacaniens)

次に上のコレット・ソレールが指摘している、母の身体的接触が後の生にとっての要(かなめ)になることにかかわるフロイトの代表的叙述を掲げる。


母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

ララングの重要性は、ラカン派ではない日本の精神科医においても「喃語」や言語の「もの」性という語彙を使って次のような形で語られている。


言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」1996年『家族の肖像』所収)

 …………

現代ラカン派の臨床家は、この身体の出来事としてのララングが核心概念とすることが多い。例えば「21世紀におけるリアルLE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」と名付けられた2012年の会議にて、ラカン主流派のジャック=アラン・ミレールは、 《身体における、ララングとその享楽の効果の純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps》あるいは《欲動の純粋衝撃 Un pur choc pulsionnel》と口に出している。

この表現はラカンの次の文とともに読まなければならない。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

サントームがララングと大いに関わるのは、Geneviève Morelが簡潔に示している。

サントーム(原症状)は、母の舌語(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、このララングと母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel, 2005, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

ミレールなら次のように言う。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

忘れがちなのは、サントームとはフロイトの固着(原抑圧)のことでもあることだ。

「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

Geneviève Morel の叙述に、人はサントームから《分離しなければならない》とあったがなぜか? Morelは《母の法 loi de la mère》、《非全体 pas-toute」としての女性の享楽 jouissance féminine》等々の表現も使っている。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

次のコレット・ソレールとジャック=アラン・ミレールの記述もこの勝手気ままな「母の法」にかかわる。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ここで冒頭のコレット・ソレールの叙述に戻ろう。《ララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成している》とあった。そしてこの痕跡はわれわれの全人生を支配しているという含みをもつ表現がなされている。

どういうことだろうか? --ララングは永遠回帰するのである。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
・リフレインは、円あるいは円環としての永遠回帰である。La rengaine, c'est l'éternel retour comme cycle ou circulation, (Différence et répétition、1968)

・小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰 l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle(MILLE PLATEAUX, 1980)

・リトルネロはプリズムであり、時空の結晶である La ritournelle est un prisme, un cristal d'espace-temps. (Deleuze et Guattari 1980)

もちろん永遠回帰はニーチェ用語である。《迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour 》(Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)

フロイトはニーチェの永遠回帰を反復強迫と等価なものとして扱っている(参照:生成変化としての永遠回帰/運命強迫としての永遠回帰)。だが今はニーチェの次の文のみを引用するだけにしておこう。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

 ※やや詳しくは、「引力と斥力」を見よ。

さらにまた「原穴の名 le nom du premier trou」とあったが、これはブラックホールにかかわる表現である。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

※欠如と穴にかかわるいくらか詳細な文献としては、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。

次のドゥルーズ&ガタリのリトルネロをめぐる叙述からも、ララングはーーラカンの《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》という表現に依拠すればーー、カオス、ブラックホール(非全体)にかかわるとすることができそうである。

リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混合することもある。さまざまな場合が考えられる。あるときは、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点 point fragile を設けようとする。あるときは、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。これによって、ブラックホールはわが家に変化したのである。またあるときは、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

2017年7月18日火曜日

うろんな事を又さくら花

本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなる云々(本居宣長『玉くしげ』)

…………

《日神の御事、四海萬國を照らしますとはいかゝ、此神の御伝説は、此子光華明彩照徹於六合之內とも、有閉天岩屋戶而刺許母理坐也,爾高天原皆暗、因此而常夜往なと、これら六合は天地四方の義なれ共、此には御国の借たるにて、四海萬國の義にあらすと思はるゝは、葦原中国悉暗といふにて知らるゝ也、此外にのみならす、天地内の異邦を悉に臨照ましますといへる伝説、何等の書にありや》(秋成、書簡)

日ノ神は即チ天つ日にまします御事は古事記書紀に明らかに見えて、疑ひなきを、(……)そもそも此日神は、天地のいはみ御照しましませ共、その始は皇国に成出坐て、其皇統即皇国の君とし天皇、今に四海を統御し給へり(宣長、書簡)

《凡大世界の内、舟楫の到らむ限は往廻りて、交易を事とす。是か往返の便に図せし地球之図といふ物を閲るに、文字以て事理の通ふ国は少にて、其余は国号をさへ聞知らぬが多く、しかも地形広大なるが見えたり。此図中にいでや吾皇国は何所のほどと見あらはすれは、たた心ひろき池の面にささやかなる一葉を散しかけたる如き小嶋なりけり。 然るを異国の人に対して、 此小嶋こそ万邦に先立て開闢 [ ヒラケ ] たれ、大世界を臨照まします日月は、ここに現しましし本国也、因て万邦悉く吾国の恩光を被らぬはなし、故に貢を奉て朝し来れと教ふ共、一国も其言に服せぬのみならす、何を以て爾 [ シカ ] いふそと不審せん時、ここの太古の伝説を以て示さむに、其如き伝説は吾国にも有て、あの日月は吾国の太古に現はれまししにこそあれと云争んを、誰か截断して事は果すへき。…… 余又戯て云、今大人を漢土、西竺の国 いつれにも生せしめ、三国の事跡を兼学せしめて後の覚悟いかなるや、可承思ゆ。》(秋成、書簡)

とにかくに皇国を万国の上に置むとするほとに云々とは、余が意と反覆せり。余は皇国の万国の上たることを世ひとの知らざることを恤フルを、上田氏は皇国の万国の上たらむことを憂ひて、とかくに余が言を破せんとす。ああ是非もなきこと也。 (宣長、書簡)

ーーというのが「近世最大の論争」といわれることがあるらしい宣長と秋成論争(1786年)の断片である。秋成は「やまとだましひ」の「臭気」といい、伊勢の「田舎者」と評す。宣長は「小智をふるふ漢意の癖」やら「まなさかしら心」と評す。本居宣長は1730年生れ、上田秋成は1734年生れであり、両者とも50歳代のこと。

この論争の記録は、宣長は「呵刈葭(かかいか)」、秋成は「安々言(やすみごと)」にある。「呵刈葭」は「あしかりよし」とも読まれ、その意味は「あしかる(刈葭)」人、すなわち悪人を「しかる(呵)」。

小林秀雄の『本居宣長』には後半になってようやくこの話が出現する。全50章のなかの第40、41、49章である。

宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた。「古事記伝」の「凡ての神代の伝説(ツタエゴト)は、みな実事(マコトノコト)にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知ルべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」という、普通の考え方からすれば、容易に宜えない、頑強とも見える主張で、これは、宣長が生前行った学問上の論争の種となっていたものだが、これを、一番痛烈に突いたのは、上田秋成であった。(小林秀雄『本居宣長』四十)

だが小林秀雄は上田秋成の「普通の考え方」による宣長批判をたいして気にしている様子はない。なぜだろうか?ーーさあて・・・

今は冒頭に引用した『玉くしげ』をもうすこし長く引用しておくだけにする。

皇國は格別の子細ありと申すは、まづ此四海萬國を照させたまふ天照大御神の、御出生ましましし御本國なるが故に、萬國の元本大宗たる御國にして、萬ヅの事異國にすぐれてめでたき、其ノ一々の品どもは、申しつくしがたき中に、まづ第一に穀は、人の命をつゞけたもちて、此上もなく大切なる物なるが、其ノ稻穀の萬國にすぐれて、比類なきを以て、其餘の事どもをも准へしるべし、然るに此國に生れたる人は、もとよりなれ來りて、常のことなる故に、心のつかざるにこそあれ、幸に此御國人と生れて、かばかりすぐれてめでたき稻を、朝夕に飽まで食するにつけても、まづ皇神たちのありがたき御恩賴をおもひ奉るべきことなるに、そのわきまへだになくて過すは、いともいとも物體なきことなり、さて又本朝の皇統は、すなはち此ノ世を照しまします、天照大御神の御末にましまして、かの天壤無窮の神勅の如く、萬々歳の末の代までも、動かせたまふことなく、天地のあらんかぎり傳はらせ給ふ御事、まづ道の大本なる此ノ一事、かくのごとく、かの神勅のしるし有リて、現に違はせ給はざるを以て、神代の古傳説の、虚僞ならざることをも知ルべく、異國の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知ルべきなり、異國には、さばかりかしこげに其ノ道々を説て、おのおの我ひとり尊き國のやうに申せども、其ノ根本なる王統つゞかず、しばしばかはりて、甚みだりなるを以て、萬事いふところみな虚妄にして、實ならざることをおしはかるべきなり、さてかくのごとく本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなるに、今に至るまで外國には、すべて上件の子細どもをしることなく、たゞなほざりに海外の一小嶋とのみ心得、勿論まことの道の此ノ皇國にあることをば夢にもしらで、妄説をのみいひ居るは、又いとあさましき事、これひとへに神代の古傳説なきがゆゑなり、(本居宣長『玉くしげ』、1787年、58歳)

ーーしき嶋のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花(上田秋成、胆大小心録)

…………

遠い昔に最初の100頁程度を読んだだけで放り投げてあった小林秀雄の『本居宣長』をようやく読んでみようとしたのは、半年ほどまえ岡本かの子の短編を読んで、ああそうだったのか、と思ったせいもある。

彼の造詣の深さを証拠立てる事は彼が三十五歳雨月物語を成すすこし前、賀茂真淵直系の国学者で幕府旗本の士である加藤宇万伎に贄を執つたが、この師は彼の一生のうちで、一番敬崇を運び、この師の歿するまで十一年間彼は、この師に親しみを続けて来たほどである。この宇万伎は、彼が入門するとたちまち弟子よりもむしろ友人、あるひは客員の待遇をもつて、彼に臨み、死ぬときは、彼を尋常一様の国学者でないとして学問上の後事をさへ彼に托した。(岡本かの子「上田秋成の晩年」)
青年時代の俳諧三昧、それをもしこの年まで続けて居たとすれば、今日の淡々如きにかうまで威張らして置くものではない。淡々奴根が材木屋のむすこだけあつて、商才を弟子集めの上に働して、門下三千と称してゐる。これがまづ、いまいましい。四十の手習ひで始めた国学もわれながら学問の性はいいのだが、とにかく闘争に気を取られ、まとまつた研究をして置かなかつたのが次に口惜しい。俺を、学問に私すると云つた江戸の村田春海、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長、いづれも敵として好敵ではなかつた。筆論をしても負けさうになればいつでも向ふを向いて仕舞ふぬらくらした気色の悪い敵であつた。これに向ふにはつい嘲笑や皮肉が先きに立つので世間からは、あらぬ心事を疑はれもした。人間性の自然から、独創力から、純粋のかんから、物事の筋目を見つけて行かうとする自分のやり方がいかに旧套に捉はれ、衒学にまなこが眩んでゐる世間に容れられないかを、ことごとく悟つた。 
南禅寺の本部で経行が始つた。その声を聞きながら、彼は死んだ人の名を頭の中で並べた。年代順に繰つて行つて五年前、享和元年に友だちの小沢蘆庵が七十九歳で死に、仕事敵の本居宣長が七十三で死んでゐるところまで来ると彼は微笑してつぶやいた――生気地なし奴等だ。 

十二歳年下で、六十歳の太田南畝がまだ矍鑠としてゐるのが気になつた。この男には、とても生き越せさうにも思へなかつた。世の中を狂歌にかくれて、自恣して居るこの悧恰な幕府の小官吏は、秋成に対しては、真面目な思ひやり深い眼でときどき見た。それで彼も、生き負けるにしろさう口惜しい念は起さなかつた。(岡本かの子「上田秋成の晩年」)


2017年7月16日日曜日

「もののあはれ」と「あばたもえくぼ」

恋せずば 人は心もなからまし 物のあはれも これよりぞ知る (藤原俊成)

「もののあはれ」は語りにくい。それはまず惚れることにかかわるからだ。

阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれども、其意はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふ也。俗にはたゞ悲哀をのみあはれと心得たれ共、情に感ずる事はみな阿波礼也(本居宣長『石上私淑言』)

だが惚れたら「あばたもえくぼ」になる。批評精神が働かなくなる。あの批評精神のかたまりのような小林秀雄の渾身の作『本居宣長』でさえ、あばたをえくぼとしているのではないかと疑いたくなる箇所がないではない。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。(ニーチェ『善悪の彼岸』146節)

小林秀雄は「本居宣長」を11年半も書き続けた。本居宣長はあきらかに小林秀雄を見返しているのである。

これをラカン派なら次のように言う(参照:眼差しとしてのプンクトゥム)。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11)

(ジジェク、パララックス・ヴュ―、英文より

ジジェクは次の文であばたがえくぼになるどころか、「あばた」こそ愛する原因となる、すくなくともその場合があると言っている。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係がない」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』ーー「愛の心理学:「女の笑い方、ジェスチャ」」)

いずれにせよ人は対象のなかに自分が書き込まれていなければ、愛さない。この自分が書き込まれていることをラカンは《絵のなかのシミ tache dans le tableau》=盲点と呼ぶ。そして当時の「学会」や「学者」への批判をしつづけた独学者「本居宣長」という対象には、あきらかに小林秀雄自身のシミが書き込まれている。

44歳の江藤淳は『本居宣長』の「新潮」連載がおわったあとの小林秀雄と対談で二度、森鴎外の『渋江抽斎』の名を出して小林秀雄に問いかけている、《私は……この御本を読みながら何度か鴎外の『渋江抽斎』のことを想いました》《さっきも申しあげたように、『本居宣長』を読みながら、しばしば鴎外の『渋江抽斎』を思い出したのですが、鴎外はなぜ渋江抽斎というような、ほとんど世間に知られていない考証家に惹かれたのかということを考えてみますと、……結局鴎外が自分の六十年近い生涯を振り返ったとき、本当の学問をしていたのは抽斎のほうで、自分ではなかったという痛恨を禁じ得なかったからではないか、と思うようになりました》。

この江藤淳の二度の問いかけに小林秀雄は無言のままである。渋江抽斎に鴎外が書き込まれているのはたしかであり、「あばたもえくぼ」の箇所がふんだんにあるのもたしかである。

あばたといわずにも、「もののあはれ」を語れば、人は女々しくなる。

おほかたの人の情といふ物は、女童のごとく、みれんにおろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にあらず、それはうはべをつくりひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢで、つゝむとつゝまぬとのたがひめ計也(本居宣長『紫文要領』)

《男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にあらず》とあるが、通念としての男のあるべき姿は《きつとして、かしこき》ことだろう。だが惚れるとは女になることなのである。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010

宣長は愛する人だった。

事しあれば うれしかなしと 時々に うごく心ぞ 人のまごころ
うごくこそ 人の真心 うごかずと いひてほこらふ 人はいは木か
真ごころを つつみかくして かざらひて いつはりするは 漢のならはし
から人の しわざならひて かざらひて 思ふ真心 いつはりべしや  

――本居宣長「玉鉾百首」

小林秀雄はこの漢ごころに対する大和魂賛美を、たとえば次の文などを引用して語っているが、漢ごころとは《きつとして、かしこき》孟子風の態度であり、宣長は孔子はまったく違うと言っている。だから必ずしも「漢」自体の批判ではない。

孟子ニ、不動心ト云ルハ、大ナル偽ニシテイミジキヒガ事也、心ハモトヨリ動クガソノ用也、動カザルハ死物ニテ、木石ニ異ナル事ナシ、孟子ガ王道ヲ行ハシメムト思フモ、則心ヲ動カスニアラズヤ、又養浩然之気ト云ルモツクリ事也、孔子ニハ、カヤウノウルサキ事ハ、露バカリモ見ヘズ、聖人ノ意ニアラズ、コレモ、カノ心ヲ動カワズト云ト同ジタグイノ、自慢ノ作リ事也(本居宣長『玉勝間』)

…………

ここで精神分析ごころにかなり汚染されているここでの記述にさらに追い打ちをかけることにする(本居宣長も小林秀雄もそんな振舞いをゆるしてはくれないだろうが)。

ジジェク2016年の「私は哲学者だろうか AM I A PHILOSOPHER?」、PDF からである。

我々が「真の哲学者」をストア的に動じない主人の言説と同一とするなら、カントやヘーゲルのような哲学者はもはや哲学ではない。

カント以後「古典的あるいは新古典的なスタイルに哲学」、すなわち「全現実の基本構造」の大いなる透視図としての「世界的視点」の哲学は、議論の余地なくもはや不可能である。

…要するに、カントとともに、哲学はもはや主人の言説ではない。全哲学体系は、内在的不可能性、欠陥、非一貫性の閂によって旋転させられている。ヘーゲルとともに、事態はさらにいっそう展開する。ヘーゲルは(カント派が非難するように)プレ批判的な合理的形而上学へと回帰しているどころか、全ヘーゲルの弁証法は、「主人」の土台のヒステリー的な掘り崩しの一種である(ラカンはヘーゲルを《最も崇高なヒステリー》と呼んだ)。つまりあらゆる哲学的主張の内在的自己破壊と自己超克である。要するに、ヘーゲルの「体系」とは哲学的企画の欠陥を通した体系的ツアー以外の何ものでもない。(ZIZEK, AM I A PHILOSOPHER?  2016)

主人の言説からヒステリーの言説への移行とは、まさに男性的《きつとして、かしこき》態度から女性的《心ヲ動カス》態度への移行である。

ラカン派においては、下の図の上段が男性の論理、下段が女性の論理であり、S1は主人、$はヒステリーである(参照)。




上の文にあらわれているように、ジジェクにとって、ヘーゲルとは大いなる世界の透視図を描く合理的形而上学者ではけっしてなく(かつまた孟子風の「不動心」の哲学者でもなく)、「世界の闇」の哲学者、あるいは次の文にあらわれる否定性、欠如、空虚に「動かされる」哲学者である(バディウも同様である、《よいヘーゲルは「切り裂く」ヘーゲルである。すなわち、より高い統一へと昇華し得ない「非対称的矛盾」のヘーゲルである》(Théorie du sujet))。

意識において自我 Ichとその対象である実体 Substanz との間におこる不等性 Ungleichheitは…否定的なもの Negative 自体である。このネガ Negative は両者の欠如 Mangel と見なしうるが、しかし両者の魂 Seele であり両者を動かす。この理由で若干の古人は空虚 Leere をもって動因と解した。もっとも彼らは…このネガを自己 Selbst としてはとらえなかったが。(ヘーゲル『精神現象学』)

いやあシマッタ・・・、ヘーゲルなどまともに読んでいないにもかかわらずもっともらしく引用してしまった。これこそ「もののあわれ」に反する態度である!

すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとおしけれ(源氏「帚木」)

そもそも冒頭の百頁ほどしか読まずに長いあいだほうったらかしてあった小林秀雄の『本居宣長』をようやく読んだばかりのところでこうやってすぐさま記すのも「もののあはれ」にすこぶる反する振舞いである! これはなにやらと「さわいでいるだけ」の文である。《かぢとり、もののあはれも知らで、おのれ酒をくらひつれば、はやくいなむとて、しほみちぬ、風もふきぬべしと、さわげば》云々(紀貫之『土佐日記』)


2017年7月14日金曜日

阿波礼

「あはれ」とは、「ああ、はれ」のことである。「なげく」とは「長息(ながいき)」することである。歌とは、「ああ、はれ」という生の感動の声を、「なげく」事によって形を整えることである。これが宣長の考え方であった。

今、人せちに物のかなしき事有て、堪がたからんに、其かなしき筋を、つぶつぶといひつゞけても、猶たへがたさのやむべくもあらず。又ひたぶるに、かなしかなしと、たゞの詞に、いひ出ても、猶かなしさの忍びがたく、たへがたき時は、覺えずしらず、聲をさゝげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばゝりて、むねにせまるかなしきをはらす。其時の詞は、をのづから、ほどよくあや有て、其聲長くうたふに似たる事ある物也。是すなわち歌のかたち也。たゞの詞とは、必異なる物にして、其自然の詞のあや、聲の長き所に、そこゐなきあはれの深さは、あらはるゝ也。かくの如く、物のあはれにたへぬところより、ほころび出て、をのづからあやある詞が、歌の根本にして眞の歌也。(本居宣長「石上私淑言」)

《たへがたき時は、覺えずしらず、聲をさゝげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばゝりて、むねにせまるかなしきをはらす》--これは漱石もプルーストもほとんど同じことを言っている。

涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる。(夏目漱石『草枕』)
われわれの悲しみが協力した作品は、われわれの未来にとって、苦しみの不吉な表徴であるとともに、なぐさめの幸福な表徴である、と解釈もできる。 (プルースト「見出された時」

だがまちがえてはならないのは、「あはれ」とは、かなしいことだけではないことである。

あはれといふに、哀の字を書て、ただ悲哀の意とのみ思ふめれど、あはれは、悲哀にはかぎらず、うれしきにも、おもしろきにも、たのしきにも、をかしきにも、すべてああはれと思はるるは、みなあはれ也、……又もののあはれといふも、同じことにて、物といふは、言を物いふ、かたるを物語、又物いふ、かたるを物語、又物まうで物見いみ、などいふたぐひの物にて、ひろくいふときに、添ることばなり。(本居宣長『玉の小櫛』)

究極のあはれとは、トラウマ的な心の衝撃の体験にかかわるといってさえよいかもしれない。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

そうはいってもこの心の衝撃は尾を引くのであり、場合によっては「心がこじれる」のであるが。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

面の皮が厚ければ、人はもののあはれなど感じない。フロイトはこの面の皮を「刺激保護壁 Reizschutz」と呼んだ。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮を、われわれは外傷性traumatischeのものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)

刺激保護壁Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年

ーーミナさん、「健康」のために面の皮を厚くしましょう! そして内的興奮を他人に「投射」などして、「道理は不合理となり、博愛は苛責になる Vernunft wird Unsinn, Wohltat Plage」などということがないように「もののあはれ」に不感症になりましょう!!

宣長に戻れば、彼はこうも言っている。

・阿波礼といふは、深く心に感ずる辞也。是も後世には、たゞかなしき事をのみいひて、哀の字をかけども、哀はたゞ阿波礼の中の一つにて、阿波礼は哀の心にはかぎらぬ也。

・阿波礼はもと歎息の辞にて、何事にても心に深く思ふ事をいひて、上にても下にても歎ずる詞也。

・さてかくの如く阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれども、其意はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふ也。俗にはたゞ悲哀をのみあはれと心得たれ共、情に感ずる事はみな阿波礼也〉(本居宣長『石上私淑言』)

だがどうして「あはれ」は「哀れ」となったのか。《うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべてこころに思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故》(『玉の小櫛』)である。

バッハの結婚カンタータBWV202の冒頭をあの哀切なアリア「しりぞけ、もの悲しき影 Weichet nur, betrübte Schatten」ではじめた。なぜなのか。今とちがって昔はほとんどの場合「きむすめ」が「女」にかわってしまう記念日の儀礼であったからではないだろうか?ーー「ああ、はれ!」「阿波礼!」




…………

シューベルトは《悲しみを歌えば愛になり、愛を歌えば悲しみになる》と言った。すなわち愛を歌えば「もののあはれ」になるのである。

アファナシエフの2013年のD.960を聴く。ミスタッチの多い演奏で、なぜこんなところまでミスをしてしまうのか、と思いつつ聴いていた。でも瞑想の一楽章と悲痛の二楽章をへた歓びの三楽章にきて息をのんだ。各フレーズの始まりに宙吊りになったわずかな瞬間がある。彼はどもっている。《傷は、それを負わせた槍によってのみ癒されうる die Wunde schliesst der Speer nur, der sie schlug》(ワーグナー)

Valery Afanassiev plays Schubert Piano Sonata D. 960




それに私も、どうすればこのソナタ(D.960)の心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう? 大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。(アファナシエフ『ピアニストのノート』)

彼はかつてこのD.960を「もののあはれ」と名づけて日本で演奏したそうだ。演奏は一楽章だったようだが。

「もののあはれ」とは、(アファナシエフによれば、)人生には出会いと別れ、幸福と不幸が入り混じっていて、それらは決して切り離しえないものであることによる感情に関わるものであり、『源氏物語』はそのことを何よりも美しく語っているという。そうして番組の終わりにアファナシエフ自身が「もののあはれ」の美学を体現する音楽であると語るシューベルトの最後のソナタの第一楽章が演奏される。(ハイビジョン特集「漂泊のピアニスト アファナシエフ もののあはれを弾く」

2017年7月12日水曜日

魔女の厨房

このところフロイトの1920年以降の代表論文のいくつかを読んだのだが、以下はその派生物である。主に精神分析臨床にかかわる箇所なので、わたくしは具体的には関知しない部分だが、ここに備忘の形として残しておく。

…………

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第三章、1937年)

ーー《するとやはり魔女の厄介になるのですな》とはもちろんゲーテの『ファウスト』「魔女のくりや(魔女の厨房)」におけるメフィストフェレスの発言である(いまの訳は鴎外による)。

この文は、フロイトは最晩年まで欲動という手に負えないものに降参していることを示している。

フロイトが分析経験において拓いたこれらの道、彼は生涯これらの道を追及し、約束の地と呼べるものに最後に到達します。しかしながら、彼が約束の地に入場できたとは言えません。彼の遺書 son testament とみなすことができる『終りある分析と終りなき分析』を読むと、彼が意識していたなにものかがあるとしたら、自分がこの約束の地へと入場できなかったことであることがわかります。(ラカン、S1, 13 Janvier 1954)

では最後のラカンはどうであろうか。約束の地に至ったのであろうか?

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。

Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.(Lacan, “Conférences aux USA,1976)

これが最後のラカンである。以下の文も同様。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

ここでの症状とは原症状のことである。つまりフロイトの遺書曰くの「原始時代のドラゴン」(後述)との同一化しつつ、なんとか折り合いをつけてドラゴンから距離をとることがラカンにとっての「分析の終り」である。

このラカンによる「分析の終り」は、ジジェクの「否定的なもの=死の欲動」という思考におけるヘーゲルの「否定的なものに留まること否定的なもの Negativen に留まる verweilt 」にほぼ相当するはずである(臨床と哲学的思考の区別はもちろんある)。

精神は、否定的なものを見すえ、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

ここで再度ゲーテのファウストから引用して、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」と強調しておこう。

ところでラカンは、「分析の終りは症状の同一化である」といった半年後、次のように言うことになる。

馬鹿げたことじゃない、精神分析がペテン escroquerie に陥りうると言うのは。c'est pas absurde de dire qu'elle peut glisser dans l'escroquerie. (ラカン、S24、15 Mars 1977)
精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないかい? 

…… la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?(S24、19 Avril 1977)

フロイト、ラカンの両者とも「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」という治癒不能のものには対応仕切れなかったのである。このドラゴンの存在が、現代ラカン派内でいわれる「症状のない主体はない」の真の意味である。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., 1975, pp.106-107.摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。《私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)

さて何度か引用しているフロイトの「残存現象 Resterscheinungen」と「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」の叙述箇所を再掲しておこう。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年ーー残存現象と固着

この「原始時代のドラゴン」を家畜化するには、「魔女の厄介」にならなければならない。だがフロイトにとってこのドラゴンは具体的に何だろうか?

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験を、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第二章)

ーー「すべての神経症的障害」とあるが、これはラカン的な「精神病・倒錯・神経症」の三区分における神経症でではない。すべての症状ということである。

フロイトの神経症には二区分がある。現勢神経症と精神神経症である。これがフロイトにとって、(ほぼ)すべての症状である。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、ことに精神神経症 Psychoneurosen がおきやすいことが分かる。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第八章、1926年)

ーーほかにも「ホロコースト生存者の子供たちのPTSD」に現勢神経症にかかわる記述をいくらか拾っている。

 フロイトは現勢神経症を扱い得なかった。概念だけは継続的にある。なぜ扱い得なかったかといえば、原始時代のドラゴンにかかわる症状だから。

フロイトが《原始時代(の) Urzeit wirklich》、あるいは「太古の archaischen」というときは、欲動にかかわるエスのことである。

「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただ エス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

くり返せば、原始時代のドラゴンの完全な家畜化は不可能である。ゆえに(人によって)ときおりにか常にかは別にして、野獣は回帰する。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

フロイトはこうも言っている。

自我の強度が病気、疲労などによって弱まれば、それまで幸いにして飼い馴らされた欲動 gebändigten Triebe のすべてはふたたびその要求の声を高め、異常な方法でその代償満足を求めることになる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第三章)

ここで、2001年に出版されたRICHARD BOOTHBYの『哲学者としてのフロイト、ラカン後のメタ心理学』の結論部分のとてもすぐれた叙述を抜き出しておこう。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象 representations に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰 unrepresented excess」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

RICHARD BOOTHBYが簡明に言っていることとは、ようするに人には治癒不能の(欲動にかかわる)原症状が誰にでもあるということである。そしてこれは思いの外、ポストフロイト世代には忘れられている。BOOTHBYがいうように、《フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方》だったせいもあるのかもしれないが。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

この文は上に引用した残存現象とほぼ同じことを言ってはいるが、フロイトにおいてこういう形では稀にしか表現されていない、ということは言えるのかもしれない。《発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである》(フロイト、1937)。

だが、そもそも頻出する「現勢神経症」概念でさえ忘れられているのだから、結局もはやフロイトはたいして読まれていないということだろう。

…………

最後にわたくしが理解する範囲での「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」についての、いくらか具体的なラカン派の処方箋を掲げておこう。

精神分析の実践は、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

ラカン自身であるなら、たとえば次のように言うことになる。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le pere」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である。あなた方が好むなら、サントームと言ってもよい le père est un symptôme ou un sinthome, comme vous le voudrez》(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この文脈のなかで« père-version »父ヴァージョン(父の倒錯)ともいっており、ようするに父との同一化、エディプス的症状、理念や神を信じ込むのも倒錯の一種ということになる。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23、11 Mai 1976)

 ラカンは別に「正常な」性関係を、《norme-mâle》ーー男の規範とも言っている。これは悪い規範 norme mal と読めもする。すなわち正常な性関係とは、「父」の介入による前性器的「多形倒錯 polymorphe Perversität」--もちろんフロイト用語であるーーの男根化(ファルス化)である。

…………

結局、人間は原ドラゴンを飼い馴らすために、「倒錯」という症状が必要不可欠なのである。ミレール用語の「ふつうの精神病」とは、これもまた結局「倒錯」のことにすぎない。

倒錯は欲望に起こる偶発事ではない。すべての欲望は倒錯的である。いわゆる象徴秩序がそうしたいようには、享楽はけっしてその場のなかにないという限りで。

La perversion n'est pas un accident qui surviendrait au désir. Tout désir est pervers dans la mesure où la jouissance n'est jamais à la place que voudrait le soi-disant ordre symbolique.(L'Autre sans Autre par JACQUES-ALAIN MILLER,2013)


2017年7月11日火曜日

とてもたのしいこと

いやあ君、荒木経惟のよさが分からないのは、やりたいないせいだよ、ただそれだけだ。




人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくこともある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。(加藤周一『絵のなかの女たち』)



とてもたのしいこと  伊藤比呂美

あの、
つるんとして
手触りがくすぐったく
分泌をはじめて
ひかりさえふくんでいるようにみえる
くすくすと
笑いが
あたしの襞をかよって
子宮にまでおよんでってしまう
(ひろみ、
(尻を出せ、
(おまえの尻、
と言ったことばに自分から反応して
わ。
かべに
ぶつかってしまう
いたいのではない、むしろ
息を
洩らす
声を洩らす
(ひろみ
とあの人が吐きだす
(すきか?
声も搾られる
(すきか?
きつく問い糺すのだ、いつもそうするのだ
(すきか? すきか?

すき

って言うと
おしっこを洩らしたように あ
暖まってしまった




獣めく夜もあった
にんげんもまた獣なのねと
しみじみわかる夜もあった

シーツ新しくピンと張ったって
寝室は 落葉かきよせ籠り居る
狸の巣穴とことならず
なじみの穴ぐら
寝乱れの抜け毛
二匹の獣の匂いぞ立ちぬ

なぜか或る日忽然と相棒が消え
わたしはキョトンと人間になった
人間だけになってしまった


ーーー茨木のり子 遺稿詩集『歳月』所収「獣めく」



荒木経惟の写真たちの中に喜多見駅周辺の写真を見てあこれはわたしが性交する場所だと思って恥ずかしいと感じたのだわたしは25歳の女であるからふつうに性行為する。板橋区から世田谷区まで来る来るとちゅうは性行為を思いださない性欲しない車外を行き過ぎる世田谷区の草木を見ているこの季節はようりょくそが層をなしている飽和状態まで水分がたかまる会えばたのしさを感じるだから媚びて手を振るが性行為を思いだすのはアパートの部屋でラジオをつけた時である (伊藤比呂美「小田急線喜多見駅周辺」)



きみの肩が
骨をむきだしにしてうたいだし
さかりのついた猫が
ここかしこに
きみと声をあわせて啼いて
あたいを狂気じみておどかすんだ

ーー富岡多恵子「草でつくられた狗」




元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。(夏目漱石『三四郎』)

享楽の漂流、あるいは死の漂流

ラカンの言説(社会的つながり lien social )理論の基本構造図にはいくつかのヴァリエーションがある。まずその代表的な三つの図を掲げる。





①左上には Agent(代理人・動作主)、Semblant(見せかけ・仮象)、Désir(欲望)とあるが、相同的なものと扱ってよい。なぜなら言語を使用する人間とは、「物の殺害」をした欲望する主体である。そして《言説 discours 自体、つねに見せかけの言説 discours du semblantである》(ラカン、S19、1972)。さらにまた欲望する主体とは、じつは幻想の主体のことであり、「vérité 真理」の代理人・仮象の主体にすぎない。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( Lacan,REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

②右上には、Autre(大他者)、Jouissance(享楽)とある。これはいっけん相同的なのものとは扱いがたいようにみえる。だが、どちらも「動作主」が融合したい先である。たとえば究極の大他者は「母なる大他者」であり、かつまたラカンにとって大他者は身体でもある、《L'Autre, c'est le corps》(S14) 。言語によって「身体」と「斜線を引かれた主体 $ 」とに分割された人間は、身体と融合したい。だがそれは不可能である(これらが左上→右上にある impossible の意味である)。

(そもそも最後のラカンにとって、《大他者は存在しない(S(Ⱥ))l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ) 》(S24, 08 Mars 1977)。もちろん享楽も存在しない。ゆえに象徴的大他者自体が仮象である。晩年のラカンの「象徴界は穴 trou」、「身体は穴 trou」 とはこの文脈のなかにある。) 

③右下には、Product(生産物)、Plus de jouir(剰余享楽)、Perte(喪失)とある。これはすべて等価である。大他者に融合したい動作主だが、融合できない。ゆえに失われた享楽の残余が生産される。

④左下の vérité (真理)はすべて同一である。そして真理とは「話す身体 le corps parlant」であり、それは「欲動の現実界 le réel pulsionnel」でもある(参照:引力と斥力)。右下→左下にある Impuissance(不能)とは、真理と生産物はけっして合致しないという意味である。

…………

ところでフロイトにとって、エロスとは融合欲動であり、タナトスとは分離欲動である(参照)。それは結合欲動、分解欲動といっても同じである。

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせ Bindung」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「分解 aufzulösen」 することである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

たとえば性行為とは、最も典型的なエロス(融合欲動)とタナトス(分離・破壊欲動)の混淆である。

性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

だがフロイトが言っているようにこの混淆は性行為だけではない。人間のあらゆる行為は、エロスとタナトスの混淆である(すくなくとも最後のフロイトはそう考えている[参照])。

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

さて上の①②③④の前提と、いま掲げたフロイトの叙述に依拠すれば、冒頭にかかげたラカン言説理論の基本構造図における左上をエロス、左下をタナトスとすることができるとわたくしは思う。




これは次のように読む。

・融合欲動としてのエロスは、大他者のポジションに融合したい。

・だが究極の融合とは主体の死である。《究極の享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち「主体の死」である》(ポール・バーハウ、2001)。かつまた真理のポジションにある分離欲動としてのタナトスが融合を許さない。

・ゆえに残余としての剰余享楽が生産される。これをラカンは別に「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と呼び、バディウは「彷徨える過剰 L’excès errant」と呼んでいる。かつまたロラン・バルトは、次のような表現の仕方をしている。

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

・こうしてエロスとしての仮象の主体は、彷徨える過剰の漂流に促されて永続的な循環運動の反復をするようになる。

これはドゥルーズが簡潔に書いていることでもある。

エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として・循環の要素 élément d'un cycle として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力 attractionと斥力 répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

いま記したことをさきほどの図に代入すれば、次のようにも書ける。



ラカン自身の言葉なら次の通り。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の衝動(欲動 la pulsion de mort) …もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23, 16 Mars 1976)

これらの「死」をめぐる記述はいっけん奇妙に思えるかもしれない。だが図の下部構造とは現実界ーー《本源的に沈黙して》おり(フロイト『自我とエス』)、象徴界の彼岸にあるもの、ーーであり、われわれ象徴界(図の上部構造)における「幻想の主体」は気づかないだけである、というのがフロイト・ラカンの考え方である。

・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)