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2017年11月29日水曜日

ヒステリー的身体と女の身体

私の放浪する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ

ーー伊東静雄「晴れた日に」

⋯⋯⋯⋯

厳密な分析的観点からは、事実上、一つの性あるいはセクシャリティしかない。(⋯⋯)

性は二つではない。セクシャリティは二つの部分に分かれない。一つを構成するのでもない。セクシャリティは、「もはや一つではない no longer one」と「いまだ二つではない not yet two」とのあいだで身動きがとれなくなっている。(ジュパンチッチ 2011、Alenka Zupančič Sexual Difference and Ontology
性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体と⋯その「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である。 (ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm)

以上の文より、おそらく次のように置ける。




①一段目の「他の身体」とは次の文に依拠する。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)


②二段目は性別化の式から。



大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)


③三段目は次の三文を掲げる。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
男性は、まったく、ああ、ファルス享楽 jouissance phallique そのものなのである。l'homme qui, lui, est « tout » hélas, il est même toute jouissance phallique [JΦ](Lacan,La troisième,1974)


④四段目はミレールの次の図に依拠する(Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)




後期ラカンにおいては「症状」は「サントーム」として扱っている場合が多いので注意する必要がある。

症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)
女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps (ミレール2011, L'Etre et L'Un)

ーー以上、いままで記してきたことの簡略版だが、これが必ずしも「正しい」とは言わない。常に別の解釈がありうる。

⋯⋯⋯⋯

以下、Florencia Farìas の「ヒステリー的身体と女の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin」(2010.PDF)から。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。

ーーここでのヒステリーは、通念としてのヒステリーではなく、なによりもまずファルス秩序(象徴界・言語秩序)の住人にかかわる。《ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である》(GÉRARD WAJEMAN、The hysteric's discourse)

ファルス享楽 jouissance phallique [JΦ] とは身体外 hors corps のものである。 (ファルス享楽の彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre [JA] とは、言語外hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

そして、女の身体とは、象徴界外・言語外の身体、冒頭近くの図における「他の性」「他の身体の症状」ということである。

⋯⋯⋯⋯

私は言ひあてることが出来る
命ぜられてある人 私の放浪する半身
いつたい其処で
お前の懸命に信じまいとしてゐることの
何であるかを



2017年11月27日月曜日

究極のエロス・究極の享楽とは死のことである

性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

 いやあ、きみ! 「「分離タナトス」と「循環タナトス」」で示した図というのは、ある時期以降のラカン派内で、すでに言われていることを図式化しただけだよ。


ーーもちろんこれが「正しい」とはいうつもりはない。真理は非全体(非一貫的)なのだから。

わたくしは日本ラカン村でなにが言われているかは一切しらない。ネット上で断片を垣間見る範囲ではおおむね寝言だよ、善人たちのね。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』1946年)
(連中は)仲間の作品批評になると点が甘くなる。党派に依存するさもしさで、文学は常に一人一党だ。(坂口安吾『感想家の生れでるために』1948年)

⋯⋯⋯⋯

 たとえば2005年に臨床ラカン派によってこう言われている。

エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)だ。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳)

言葉遣いに若干の相違はあるが、これがわたくしの図式化したものだ。



以前引用したことを繰返して、バカにもわかるように整理すれば次の通り。


【享楽の漂流】
私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
剰余享楽は……享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


【究極の享楽は死】
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23, 16 Mars 1976)

《ラカンにとって、享楽と死の危険のあいだには密接した関係がある。Il y a donc pour Lacan une connexion étroite entre jouissance et risque de mort 》(A risque de mort Marga Auré、 2009

・死は快の最後の形態である。death is the final form of pleasure.

・死は享楽の最後の形態である。death is the final form of jouissance

(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)


【究極の享楽=究極のエロス】
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


【性的非関係・欲動の身体】
すべてが仮象(見せかけ semblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性的非関係という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ーー真理としての《穴、それは非関係によって構成されている、性の構成的非関係によって。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexuel, 》(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)


くりかえせば、上の図が「正しい」とは言わない。別の解釈もありうる。わたくしが(今のところ)依拠しているのは、今うえに掲げた文章群だというだけである。

⋯⋯⋯⋯

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)



2017年11月25日土曜日

ロードス島の先の「享楽」

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽 le plus-de-jouir de Marx である。(ラカン、ラジオフォニー、AE434、1970年)

⋯⋯⋯⋯

以下、マルクスの剰余価値とラカンの剰余享楽との相同性を可能なかぎり簡潔に記す。

一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される。(マルクス『資本論』)
一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代表象する un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant (ラカン、E819)



主体 $ は、他のシニフィアン S2 に対する一つのシニフィアンS1によって代表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえない ne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽 plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、S16, 13 Novembre 1968)

マルクスの価値形態論の基本を、ラカンの言説理論の図を援用して記すなら、次のように書きうる。



◆柄谷行人によるマルクス価値形態論注釈のさわり(『トランスクリティーク』2001)

ーーより詳しくは「価値形態論と例外の論理」を参照のこと

価値形態論は次のように展開されている。先ず、「単純な価値形態」において、商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。そのとき、商品Aは相対的価値形態、商品Bは等価形態におかれている。マルクスは単純な価値形態を次のような例で示している。

(相対的価値形態)    (等価形態)
二〇エレのリンネル =  一着の上衣

この等式が示すのは、二〇エレのリンネルは、自らに価値があるということができず、一着の上衣と等値されたあとで、はじめてその自然形態によって価値を示されるほかない、ということである。一方、一着の上衣は、いつでも前者と交換できる位置にいる。等価形態が、一枚の上衣にあたかもそれ自身のなかに交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかのように見えさせるのだ。《商品が等価形態にあるということは、その商品が他の商品と直接に交換されうるという形態にあるということなのである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)。


ラカンの「言説」とは、「社会的つながり lien social」という意味である。これは社会的交換(コミュニケーション)と言い換えても何もおかしくない。

広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

マルクス的に考えようが、ラカン的に考えようが、すべての人間の行為の「構造」は、「「分離タナトス」と「循環タナトス」」にてしめした次の図をベースにして捉えうる、とわたくしは思う(もっともこれは基盤図であり、この上に四つの言説+資本の言説が乗るが、いまは詳細を省く)。




人間の行為がこの図に収斂してしまうのは、仮象としての言語記号を使う人間の宿命である。

見せかけ(仮象)、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (Lacan,S18, 13 Janvier 1971)
ヘーゲルが何度もくり返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


ここでもうひとつマルクスの名高い《ここがロードス島だ、ここで跳べ!》を引こう。

資本(剰余価値)は流通において発生しなければならぬと同時に、流通において発生してはならない。 ……幼虫から成虫への彼の発展は、流通部面で行われねばならず、しかも流通部面で行われてはならぬ。ここがロードス島だ、ここで跳べ!(マルクス『資本論』)

ロードス島とは、相対的価値形態というシニフィアンと等価形態というシニフィアンとのあいだの完全なる交換の不可能性のことである。




これは仮象の欲望の主体が、他者との融合という享楽(究極のエロス)に至ることの不可能性と相同的である。




エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

究極の等置・融合の不可能性のゆえに、常に剰余価値・剰余享楽がうまれ、endless はてしない、 end-less 無目的的なーー享楽欠如のーー循環運動を続ける。

剰余価値、それはひとつの経済が自らの原理をつくるための欲望の原因である。この原理とは、「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、つまり飽くことをしらないものとしてのそれである。(ラカン、ラジオフォニー、1970年)

もっともここでラカンの言っているのはやや誇張であり、おおくの人はそれぞれ何らかの「享楽の欠片」を楽しんでいるはずである。

剰余享楽 plus de jouirは……享楽の欠片…lichettes de la jouissance である。 (ラカン、S17、11 Mars 1970)
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を享楽する jouir du manque à jouir ことが可能です。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »

とはいえ、享楽欠如の享楽とは、《飲めば飲むほど渇く》ことでもありうる。




2017年11月24日金曜日

「分離タナトス」と「循環タナトス」




①「見せかけ semblant・欲望の主体」の真理は、隠蔽された「性的非関係・欲動の身体」である。この真理は「見せかけ・欲望の主体」を無意識的に駆り立てる。

②「見せかけ・欲望の主体」は「享楽・大他者」を目指す。これがエロス(融合欲動)である(だが「享楽・大他者」との融合は不可能である。完全なる融合は「主体の消滅・主体の死」を意味する)。

③真理である「性的非関係・欲動の身体」は②の動きに介入し、融合欲動の邪魔をする。これがタナトス(分離欲動)である。この介入は、「非関係 non-rapport」という他者との関係の無根拠性あるいは非一貫性(非全体 pastout)、そして自閉的な「身体 corps」によって、である。

(この融合/分離は、フロイトが《同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用》、あるいは《引力と斥力 Anziehung und Abstossung 》と記したものである。)

④融合の不可能性のゆえに「剰余享楽 plus de jouir・喪失 perte」という残滓が生み出される。

⑤「剰余享楽・喪失」は「見せかけ・欲望の主体」を促し刺激する。こうして無限の循環運動が生じる。この循環運動自体がより深い意味でのタナトスであり享楽回帰運動(享楽の漂流 dérive de la jouissance)である。

こうして、いわば「分離タナトス」と「循環タナトス」(享楽の漂流)という二種類のタナトスがあることになる。

以上は、フロイト・ラカンのエロス/タナトスをめぐる考え方をベースにして、ドゥルーズ(1967,1968)の際立ってすぐれた解釈を(わたくしなりに)表現し直したものである。

ドゥルーズは《生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort》の二区分を支える《純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur》を叙述している(参照:エロスとタナトスをめぐる基本文献)。前者の「死の欲動」が、分離タナトス(破壊タナトス)であり、後者の「純粋状態のタナトス」が循環タナトスである。

なお冒頭の図は、時期によって異なった形であらわれる、ラカン理論の華である「四つの言説」の基盤図を混淆させ且つまたいくらか編集したものであり、ラカン自身のものではない。





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以下、資料。

私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
剰余享楽は……享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23, 16 Mars 1976)

《エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。》(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

⋯⋯⋯⋯

すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性的非関係という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ーー真理としての《穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport》(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

2017年11月23日木曜日

想起記述Ⅱ

おやつのときの、つめたい砂糖入りミルク。古い白い茶碗の底に、陶器のきずがひとつあった。かきまわすときにスプーンに当たったものはそのきずだったか、それとも、溶け残りか洗い残しの砂糖のこびりついたものだったろうか。(『彼自身によるロラン・バルト』「想起記述 anamneses」)

⋯⋯⋯⋯

道祖神の女と性交している最中、彼女の妹が突然帰ってきたことがある。ドアチェーンがかかっているにはいた。「ちょっと待って!」と道祖神は玄関に向けて声を上げ、ボクに目配せする。慌ててズボンを履きバルコニーに出て隠れる(クツ、クツがない、と身ぶりで伝えるーーこれでまた玄関を開けるまでに時がたった)。

姉妹の言い争いの声がきこえてくる。どうも具合が悪い。隣のバルコニーに飛び移る。洗濯干しが音を立てたが大過ない(パンティがぶらさがっているハンガーが落ちただけで、丁重に元にもどした)。幸運にも隣室の住人は在宅で、ガラス戸から拝んで入れてもらう。

少女は戸惑いつつもニヤニヤしている。大柄な友人もいる。「珈琲でも飲んでいって、せっかくだから」。一人は大胆にも床の上で(花札でもやるように)アグラをおきかになられてボクの正面で微笑み昂然とされている。ストッキングなしの短いスカートでの姿態である、--「途中だったのでしょ」

度々聞き耳をお立になられていたらしい。道祖神はクライマックスで規則正しい声を三つか四つ間歇的に発するタチだった。「今日は鳥のいのちが果てる三連符がなかったから」。実に教養豊かな女性で感心した。

八千矛神よ、この私はなよなよした草のようにか弱い女性ですから、私の心は浦や洲にいる鳥と同じです。いまは自分の思うままにふるまっている鳥ですが、のちにはあなたの思うままになる鳥なのですから、鳥のいのちは取らないでください……(高橋睦郎『古事記』現代語訳)

兎角するうちに、一人のお嬢さんは果敢にも《溶け残りの砂糖のこびりついたもの》を熱心にかきまわされ、別のお嬢さんは眼を閉じ眼を開らかれた。




2017年11月22日水曜日

エロスとタナトスをめぐる基本文献

以下、エロス/タナトスを思考した二十世紀の代表的思想家、フロイト・ラカン・ドゥルーズを中心にした基本文献をかかげる。あくまで最も基本的な文献であり、これがすべてではまったくない。

最初にエロス/タナトスとは、愛/闘争(憎悪)、結合/解体、融合/分離、引力/斥力などの用語群で語られているのを示す。

まずフロイトの最晩年の『終りある分析と終りなき分析』ーーラカンがフロイトの遺書と呼んだ論ーーにおけるエロス/タナトスをめぐる叙述である。

ギリシア文化史のなかでの最も偉大な注目すべき人物…エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理――愛と闘争 philia und neikos――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスと破壊 Eros und Destruktion と同じものである。その一方は、現存しているるものをより大きな統一 Einheiten に結合 zusammenzufassen しようと努め、他のものは、この融合 Vereinigungen を分離 aufzulösen(解体)し、融合によって形成された構造 entstandenen Gebilde を破壊 zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 1937年)

死の枕元にあったとされる遺稿では次の通り。

長いあいだの躊躇いと揺れ動きの後、われわれは、ただ二つののみの根本欲動 Grundtriebe の存在を想定する決心をした。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb である。(⋯⋯)

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに結び合わせる Bindung ことである。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を分離 aufzulösen(解体)すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestrieb とも呼ぶ。(⋯⋯)

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為 Akt des Essens は、食物の取り入れ Einverleibung という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすることである。性行為 Sexualakt は、最も親密な結合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ーー「引力 Anziehung」とは、フロイトが原抑圧(固着)を語るときに使われる語彙である(参照)。そしてラカンの穴Ⱥ概念のシニフィアンであるS(Ⱥ)は、原抑圧のシニフィアンである(「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)。

ドゥルーズによる「引力と斥力」の記述は次の通り。

エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として、あるいは循環のエレメント élément d'un cycle として生きる。それに対立する他のエレメントは、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

⋯⋯⋯⋯

さてフロイトの遺稿には次の叙述があった。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestriebとも呼ぶ。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ラカンはこの箇所に異議表明をしている。

欲動自体、それは破壊欲動 pulsion de destructionなのだが、そのかぎりにおいて、非生命体(無機物 l'inanimé=死)への回帰傾向の彼岸 au-delà de cette tendance au retour à l'inanimé になくてはならない。(ラカン、S7、04 Mai 1960)

ラカンにとって死の欲動は、無機的状態への回帰(あるいは死に向かう欲動)であるどころか、「永遠の生(不死の生)」にかかわるのである。

リビドー libido、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドー。これは、不死の生 vie immortelle、押さえ込むことのできない生 vie irrépressible、いかなる器官 organeも必要としない生、単純化され、壊すことのできない indestructible 生、そういう生の本能である。 (ラカン、S11、20 Mai 1964)

ジジェクはこのラカンに依拠して次のように記している(詳細参照:「死の欲動」という「不死の欲動」)。

フロイトの死の欲動は、自己消滅への渇望や、どんな生命緊張の無機的不在への回帰渇望とはまったく関係がない。それどころか死の欲動とは、死にゆくことのまさに反対ーー「不死の」永遠の生 'undead' eternal life 自体の名であり、罪と苦痛のまわりを彷徨う終わりなき反復循環に囚われるという悲惨な運命の名である。したがって、フロイトの「死の欲動」の逆説は、まさに「死」の反対の名だということである。精神分析内で「不滅性」が現れるあり方の名、生の不気味な過剰の名、生と死の(生物学的)循環の彼岸に生き続ける「不死の」衝動の名である。精神分析の究極の教えは、人間の生はけっして「ただの生」ではないということである。人間は単に生きているのではない。人間は、過剰のなかの生を享楽する奇妙な欲動にとり憑かれ、突出した剰余・物事の通常の成行きから逸脱した剰余に熱狂的に纏いつかされている。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006年、私訳)

…………

ドゥルーズが「生の欲動/死の欲動/死の本能」という三区分をするとき、上のラカン解釈における死の欲動=不死の欲動(ドゥルーズの「死の本能」)と相同的である。

『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。

なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混同された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。

従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。

無意識に「否Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。

ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。

すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的 transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)

翌年に上梓された『差異と反復』には「生の欲動/死の欲動/死の本能」の三区分はない。ここでは「生の欲動+死の欲動」がエロスであり、「死の本能」がタナトスである、という風にわたくしは読む(フロイトには「欲動融合 Triebmischung」という概念があることを想い出しておこう)。

エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

上にあるように、ドゥルーズにとって「反復のポジティヴな内的原理」は「原抑圧」である。

そして晩年のラカンによる「サントーム」概念とは、原抑圧(原固着)の徴のことである(参照:ララングという母の言霊)。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

⋯⋯⋯⋯

ラカンの死の欲動(ドゥルーズの死の本能)は、カール・ケレーニイ解釈の「ゾーエーZoë /ビオス Bios」におけるゾーエーに近似している、《ゾーエーは死を知らない》。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。
ビオスと 死(タナトス)との関係は、一方の死を排除してしまうような対立状態にはない。そうではなく、特徴的な死は特徴的な生の一部なのである。そればかりか、生はみずからの活動を停止する仕方によってさえも特徴づけられる。あるギリシャ語の言い回しは、<独自の死によって生を終える>ことが特徴ある死であると述べて、この点を実に端的に言い表している。それとは逆に、タナトスをしめ出す生がギリシャ語のゾーエーである。

ゾーエーにもし輪郭があるとしてもそれは稀であるが、その代わりにゾーエーは、死すなわちタナトスとことのほか対立的な関係にある。ゾーエーから明瞭に <ひびく>ところのものは< 非=死>である。それは死を自分に近寄せない何ものかである。 (カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根 Dionysos Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976年ーー「玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë」)

上の文の「タナトス」用語遣いには、十分に注意して読まなければならない。タナトスの底にある「非死」としてのゾーエーを語っている文脈のなかで使われているのだから。

ケレーニイの叙述に《ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなもの》とあったが、ニーチェの『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレから、次のような近似的な表現を引用することができる。

いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 )

ーー最もすぐれたニーチェ解釈者のひとり、クロソウスキーは、永遠回帰は至高の欲動のことではないか、と言っている。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

2017年11月20日月曜日

想起記述

私が《想起記述 anamneses》を呼んでいるものは、被験者が、稀薄な思い出を《拡大もせず、それを振動させることもなしに》ふたたび見いだすためにおこなう作業――享楽と努力の混合――である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

道祖神の女と同じ学部で学科違いの一年下に、ひどく背の高い美少女がいた。一度喫茶店で一緒になったことがある。四人だったはずだが五人いたかもしれない。ボク以外はすべて女だった。

女たちは話している、「何々ちゃんってデキちゃったのよね、彼氏の隣の部屋のひとと」。「そうそう、彼氏が部屋にいなくって隣で待たせてもらってたときらしいわ」「でも優しくされたらそうなっちゃうかもね」「いやあ、それはないわ、いくらなんでも」・・・当時は部屋にはおおむね電話がない時代である。

ボクは長身の少女に見惚れていた。ほかの少女たちはブ―であった。道祖神はボクとの帰途、「あの子、すごくニブイのよ、実験なんてまったくダメ」。理学部女子学生の話である。

彼女はのちに芥川賞作家になった。


2017年11月17日金曜日

美は恐ろしきものの始まり

美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。(リルケ『詩への小路』ドゥイノ・エレギー訳文1、古井由吉)

Denn das Schöne ist nichts
als des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen,
und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht,
uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich.

なぜなら美は/怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれがかろうじてそれに堪え、嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを/とるに足らぬこととしているからだ。すべての天使はおそろしい。( 手塚富雄訳、リルケ『ドゥイノの悲歌』第一の悲歌)
そして私たちが美をあのように嘆美するのは それが私たちを粉砕することを/平然と蔑(さげす)んでいるからなのだ あらゆる天使は恐ろしい(富士川英郎訳)
そしてわれわれが美をこのように賛美するのは/美がわれわれを破壊するのを何とも思っていないからだ。どの天使も恐ろしい。(神品芳夫訳)

ーーいやあ、実に皆さん苦労されているようだ。手許には手塚富雄訳しかないのだが、意味内容をとらえるには古井由吉訳がいいのではなかろうか。

独語のことはまったく不案内だが、次の美の定義の信奉者としては、古井訳がもっともピッタリくる。

美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

――《私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。》(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

……彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)
無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)


(ジャコメッティ、「宙吊りになった玉 Boule suspendue」、1930)

・《「触るなかれ」としての美 beau : ne touchez-pas》(S7、18 Mai 1960) 、これがカントの「美は無関心」のラカンによる「概念的翻訳」である。

・美はラカンの外密Extimité の効果の名である。これが正確に、カントの「美は無関心」が目指したものである。(ジュパンチッチ、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan by Alenka Zupančič, pdf

《外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、最も親密なもの le plus intimeが外部にあるl'extérieur ことである。それは、フロイトの異物 corps étranger (Fremdkörper ≒トラウマ) 、あるいは不気味なもの Unheimlich にかかわる》(ミレール、Miller Jacques-Alain, Extimité、13 novembre 1985)

ベケットがはっきりと口に出してなにかを評価することはめったになかったが、評価を口にするときは必ず美と恐怖の関係への問いが背景に潜んでいた。わたしたちはジャン・ジュネの『シャティーラでの四時間』を読んだ。無感動な語り口が、犯された行為の残虐さをいかに正しく伝えているか、そして、それを絶対的なものとし、それでいながら、なにか気詰まりなものを保持している、——そんなことをわたしは言った。「そうだね、カフカの場合と同じパラドックスだ。内容のおぞましさと形式の清らかさ」——それがベケットの答えだった。(アンドレ・ベルノルド『ベケットの友情』)

◆Webern - 5 Movements for String Quartett Op5



人はなぜ音楽を聴くのか? 対象としての声との遭遇の恐怖を避けるためである。リルケが美について言っていること(美は恐ろしきものの始まり)は音楽にも当てはまる。美=音楽は、囮・スクリーン・最後のカーテンである。音楽は、声の対象aとの遭遇の恐怖とのから我々を防御してくれる。(ジジェク、"I Hear You with My Eyes"、1996)
ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ーー「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」》(ニーチェ、KSA11.360.31 [4])、これはまさにヘーゲルの「世界の夜 Nacht der Welt」のことである。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この闇。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)


リルケのドゥイノ第三の悲歌にも「世界の夜」が現われる。

愛するものを歌うのはよい。しかしああ、あの底ふかくかくれ棲む
罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別のことだ。(⋯⋯)

ああ、いかに奇怪なものをしたたらしながらその巨大な頭をもたげたことだろう、
夜を呼び起こして果てしない擾乱へと駆り立てながら
おお、血のネプチューン、恐ろしいその大戟、
おお、ねじくれた法螺貝を吹きどよもす胸底からの暗い息吹よ。
聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを。(手塚富雄訳)

⋯⋯⋯⋯

「美は恐ろしきものの始まり das Schöne ist nichts als des Schrecklichen Anfang」の箇所の英訳はどうかとすこしだけ調べてみたら、Reading Rilke: Reflections on the Problems of Translation, William H. Gass,1999には次のような列挙がある。









2017年11月16日木曜日

あのとき、あなたは何を考えていたのですか

私はあなたの顔をせつなく思いつづけていた。あなたは時々、横を向いて、黙ってしまうことがあった。あのとき、あなたは何を考えていたのですか。(坂口安吾「戯作者文学論――平野謙へ・手紙に代えて――」1947年1月1日)

最近はかつてメモった在庫を微調整して投稿しているだけで、実は安吾のことばかりを考えている。わたくしはニワカ安吾ファンである。三年ほど前に真に愛するようになったに過ぎない(参照:荷風と安吾への同一化)。

だが今は彼のことばかり考えている。ダイジョウブナンダロウカ?

あの人の死んだ通知の印刷したハガキをもらったとき、まだ、お母さんが生きていられるのが分ったけれども、津世子は「幸うすく」死んだ、という一句が、私はまったく、やるせなくて、参った。

お母さんは死んだ娘が幸うすく、と考えるとき、いつも私を考えているに相違ない。私は勿論、葬式にも、おくやみにも、墓参にも、行かなかった。今から十年前、私が三十一のとき、ともかく私達は、たった一度、接吻ということをした。あなたは死んだ人と同様であった。私も、あなたを抱きしめる力など全くなかった。ただ、遠くから、死んだような頬を当てあったようなものだ。毎日毎日、会わない時間、別れたあとが、悶えて死にそうな苦しさだったのに、私はあなたと接吻したのは、あなたと恋をしてから五年目だったのだ。その晩、私はあなたに絶縁の手紙を書いた。(坂口安吾「戯作者文学論――平野謙へ・手紙に代えて――」1947年1月1日)

⋯⋯⋯⋯

坂口安吾の自伝小説には、手帳事件とも呼ぶべき出来事の叙述がある。私も似たような出来事をもっている(わたくしのほうは、安吾のような偶然ではなく、「品性の卑しさ」が滲みでている手帳事件だが)。

私は道祖神の女の部屋で留守番していた。茗荷谷の女子学生用アパート。女は彼女の妹が医学校に入ったため、それまでの女子寮住まいから、このアパートに転居し、妹と一緒に住むようになっていた。彼女の妹はとても忙しく夜遅くしか帰ってこない。私はしばしばその部屋で性交した。ある秋の午後にも学校帰りに彼女のアパートを訪ねたが、その日は性交する時間はなく、休めない講義があるから本でも読んで待っていて、と女は言い残し、近くの学校に出かけて行った。読書はすぐ飽きた。女臭い部屋で一人でいるのは落ち着かない。

バスルームの扉右上に、その部屋唯一の収納庫があった。勉強机の椅子を持って来て、天上近くにあるその収納庫の内部を探った。よく整理されている。きちんと畳まれた布団の横にみかん箱が二つある。その箱を引きずり下ろした。

箱の中に彼女の手帳を見い出した。女はこの一年半のあいだ、月に一度名古屋に別の男に逢いに行っていたことが知れた。男は女の高校時代の相手である。私は高校時代、通学に使っていた路上電車の最後尾で、二人が寄り添っているのを垣間見た。彼女は私の眼差しに気づいて俯いた。




私は失意の底に落ち込んだ。今、また同じような衝撃ーー。

14歳の時ひどい恋に陥って苦しんだ相手であるあの少女が、4年を経て、ようやく私を愛し返すようになったと、有頂天になっていた時期に、女は昔の男との関係を続けていたことになる。女はしかもその男の子供を堕胎していた。手帳をもっている手の震えが止まらなかった。これが私の手帳事件である。

⋯⋯最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。(坂口安吾「二十七歳」1947年初出)

だがわたくしはそのあと何をしたのか? ーー想い出したくない。

・・・とはいえさらにその後、彼女と「結婚」したのだ。





2017年11月15日水曜日

無限の表面



ーーいやあ、やっぱり世界にはやってる人がいる(FELIKS TOMASZ KONCZAKOWSKI)。

表面はあらゆる深さをかわす。そこからは内部、時間論、あるいは意識といった近代的というよりはむしろ形而上学的、存在論的モチーフはすべて滑り落ちる。どこへ? あるいはむしろ、それらはそこで底なしの深さのなさの中にとえられるのだ。鏡のたわむれの中で、ひとは無限に表面にいる。(宮川淳「ルネ・マグリットの余白に」ーーマグリットと「底なしの深さのなさ」




しばらく眺めていると太腿が逆立ちしたお尻に見えてくるところが実に「偉大」である! これこそ「蚊居肢」である。








2017年11月14日火曜日

マグリットと「底なしの深さのなさ」

ルネ・マグリットは、芸術家と呼ばれることを嫌った。むしろ、絵画という手段によって世界と交感する思想家と見なされるのを好んだ。(James Harknessーーフーコー『これはパイプではない』翻訳者序文、1983)

(René Magritte, La condition humaine, 1933)

部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。これが、我々が世界を見る仕方である。我々は己れの外側にある世界を見る。だが同時に、己れ自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない。(Rene Magritte, “Life Lines”)

(René Magritte, Les Liaisons dangereuses, 1936)

文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは、よくみるためではなく、みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。(ロラン・バルト『S/Z』)

ーー《絵画とは、他の言葉では表現することができない言語活動である。》(バルテュス(=バルタザール・クロソウスキー)

窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre⋯この馬鹿げたテクニック Technique absurde⋯それは人が窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtreようにすることである。(ラカン、S10、19 Décembre l962)

ラカンはこの馬鹿げたテクニックを「根本幻想 le fantasme fondamental」と呼んだ。

幻想の式 $ ◊ a の基本的な読み方は、「シニフィアンの象徴的効果によって分割された主 体 $ は、対象a と関係する」 である。

ただし対象aには両義性がある。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

後者の対象aは、穴、非全体(表象の非一貫性)である。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

他方、前者の幻想的囮としての対象aとは、穴埋めするものとしてのーー《(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) 》(S20、09 Janvier 1973)ーー、つまりフェティッシュとしての対象aである。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10、16 janvier l963)

この対象aはまた見せかけ(semblant)にもかかわる。

ジャック=アラン・ミレールによって提出された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは、見せかけが無のヴェールであるように、同様に空虚を隠蔽する、その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

そもそも言語自体がフェティッシュでありうる。

しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうかMais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche?。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


さて、ルネ・マグリットは、根本幻想に囚われている人間にとって、普段は気づかない幻想的囮/スクリーンを描くことによって、逆に穴(非全体 pastout)としての原対象aを示そうとしたと言いうる。根本幻想とは、まさにマグリットの画題「人間の条件 La condition humaine」であり、ラカンのいう「欲望を支える条件 la condition dont se soutient le désir」である。


(La reproduction interdite、1937)


そもそも欲望の主体とは、実は、幻想の主体、根本幻想の主体のことである。

欲望の主体というものはない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme 、つまりある対象によって引きおこされた主体の分裂、対象によって覆われた主体の分裂、より正確にいえば、この対象 l'objet petit aとは、その場所が原因というカテゴリーによって主体の中で占められるような対象なのだが、こうした対象によって覆われた主体の分裂である。

この対象は、哲学的考察には欠如しており、そのために哲学的考察は自らを位置づけることができなくなっている、つまり、自らが無意味であることを隠している。 (ラカン、哲学科の学生への返答 REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

絵画における対象aとは、なによりもまず眼差しである。そしてこの眼差しは、絵のなかにある。

確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. (ラカン、S11、04 Mars 1964)

ーーこの文では、眼差しという語は出現していないが、《目と眼差し L’œil et le regard》を対比させるなかで 《絵のなかのシミ tache dans le tableau》 としての眼差しが語られている文脈のなかにある。

ラカンは指摘している、我々の「現実の経験」の一貫性は、現実から対象a を締め出すことにのみ依拠している、と。我々が正常な「現実へのアクセス」をするためには、何かが締め出されなければならない。「原抑圧」されていなければならない。精神病においては、この締め出しはなされていない。対象(この場合、眼差し、あるいは声)は現実のなかに含まれる。この結果は、我々の「現実の感覚」の崩壊、「現実の喪失」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

対象a を締め出さなければ、精神病的「現実の感覚」の崩壊が起こる、とある。これは「欠如の欠如」にかかわる。 現実界には、《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(S10、28 Novembre l962)、

マグリットのいくつかの絵を眺めると、「現実の喪失」という不安が起こらないだろうか?  《不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こす。》(ジジェク『斜めから見る』1991)

欠如の欠如が現実界を作る。Le manque du manque fait le réel(Lacan、1976 AE.573)

このラカンの表現は、《底なしの深さのなさの中にとらえられる》(宮川淳「ルネ・マグリットの余白に」)と相同的でありうる。


(René Magritte, La Tentative de l'impossible ,1928)

表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の刻印のためである。(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf


2017年11月13日月曜日

仮面の背後には仮面しかないのか?

①仮面の背後には仮面しかない。


仮面の背後にはさらなる仮面がある。最も隠されたものでさえ未だ隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚に過ぎない。

Derrière les masques il y a donc encore des masques, et le plus caché, C'est encore une cachette, à l'infini. Pas d'autre illusion que celle de démasquer quelque chose ou quelqu'un.Pas d'autre illusion que celle de démasquer quelque chose ou quelqu'un.(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)


②エディプス的顰め面の背後には分裂的笑いがある。


オイディプス的顰め面の背後で derrière la grimace œdipienne プルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑いーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。

le rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne - le devenir-araignée ou le devenir-coléoptère. (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』1972年)

ーーエディプスとはファルス秩序、象徴秩序、言語による秩序にかかわる。

さて①と②をどう読んだらいいのだろう。一読だけでは矛盾しているようにも見えるーー、仮面の背後には仮面しかないが、仮面の皺(顰め面)の背後には分裂的笑いがある?

まず①とは次のような文脈内の表現である。


「プラトニズムの転倒」は次のことを意味する。すなわち 、コピーに対するオリジナルの優位を否認すること、イマージュに対するモデルの優位を否認すること、見せかけ(シミュラークル)と反映の君臨を賛美すること。

Renverser le platonisme signifie ceci : dénier le primat d'un original sur la copie, d'un modèle sur l'image. Glorigier le règne des simulacres et des reflets. (ドゥルーズ『差異と反復』)

ニーチェに遡れば、こうである。


「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

確かにことばの仮面の背後にはことばの仮面しかない、とは言いうる。

すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。すべての意見はまた一つの隠れ家であり、すべてのことばはまた一つの仮面である。Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.(ニーチェ『善悪の彼岸』289番)


だが②はどうだろう?  すくなくとも仮面の顰め面、仮面の皺の背後には、分裂的笑い、ニーチェ的笑いがある。ことばの外、象徴界外の笑いが。そうではなかろうか?


ファルスの彼岸 au-delà du phallus には、身体の享楽 jouissance du corps がある。(ラカン、S20、20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーーいま、通常は「大他者の享楽」と訳される jouissance de l'Autre を「他の享楽」と訳した。この理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

さて言語外、象徴界外には、分裂病的享楽、自閉症的享楽、身体の(=他の享楽)楽がある。これが現在のラカン派の考え方である。


ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF

ーー《シニフィアンは享楽の原因である。Le signifiant c'est la cause de la jouissance》(ラカン、S20、19 Décembre 1972)

言存在の身体 Le corps du parlêtre は、主体の死んだ身体ではない。生きている身体、《自ら享楽する身体 se jouit 》である。この観点からは、身体の享楽 jouissance du corps は、自閉症的享楽 jouissance autiste である。(L’HISTOIRE, C’EST LE CORPS

ラカンの身体の享楽(他の享楽)とは、現実界の審級に属するものであり、現実界は象徴秩序の非一貫性(非全体 pastout)、その裂目に外立するのである。《現実界は外立する Le Réel ex-siste》(ラカン、S22)

エク・スターシス(あるいはEk-sistenz )とは本来、自身の外へ出てしまう、ということです。忘我、恍惚、驚愕、狂気ということでもある。…また一方では、開けてしまうということから、中世の神秘主義者たちが繰り返し言っている赤裸という観念を思い出す。すべてから赤裸にならなくてはならない。極端まで行けば、「神」 という観念までも捨てなければならない…(古井由吉・木田元「ハイデガ ーの魔力」、2001 年)

ラカンは、この外立( 自身の外へ出てしまう)を考えるなかで、神とは女のことだと言い放った。

⋯⋯一般的に人が神と呼ぶもの。だが精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 La femme 》だということである。

on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme »(ラカン、S23、16 Mars 1976)

ーーラカンの〈女〉とは、「異物としての身体」のことである(参照)。

ここでドゥルーズに戻ろう。

象徴界レヴェルでは、仮面の背後には仮面しかないと言いうる。だが現実界レヴェルまでを視野におけば、仮面の背後には、やはり何ものかがある。潜在的なものがあるのである。


反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではない。そうではなく、潜在的対象(対象=x)の機能のなかで二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されている。

La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x).(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

もっともここで誤解のないように、こう付け加えておかねばならない。

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan)

すなわち発達段階的ではなく、すでに象徴秩序の住う人間の観点からみれば、《原初primaire は最初premier ではない》(ラカン、 S.20、13 Février 1973)

さて話を戻そう。

たとえばニーチェは次のように言っている。


もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

この「己れの典型的経験」は、フロイト・ラカン用語に置きかえれば、フロイトの反復強迫を促す原抑圧ーー実質上は原「抑圧」ではなく、原刻印としての「原固着 Urfixierung」ーー、ラカンの「身体の出来事 événement de corps」(原症状=サントーム)である。

症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975ーー「真珠貝と砂粒」)

原固着(原抑圧)とは、潜在的対象(対象=x)[ l'objet virtuel (objet = x)]にかかわる。

事実、ドゥルーズは上に引用した文のあとしばらくして次のように記している。

⋯⋯こうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級 instance plus profonde を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』)

ーードゥルーズがここで言いたいのは、《純粋差異 pure différence》としての原固着(対象a)であるとわたくしは考えるが、今はその議論は割愛する。

かわりにジャック=アラン・ミレールによるサントーム(身体の出来事)が固着であるとする説明を掲げる。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、PDF)

そして《女性の享楽(身体の享楽)は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps 》(ミレール、2011, L'Etre et L'Un)

⋯⋯⋯⋯

繰返せば、こうして、仮面の背後には仮面しかない、とは象徴界(ファルス秩序)の水準、欲望の水準でしか言い得ないことが判然とする。現実界の水準、欲動の水準においては原固着、ーー欲動の身体(原抑圧にかかわる《欲動の現実界 le réel pulsionnel》--(ラカン、1975)、《自ら享楽する身体 corps qui jouit》ーーがあるのである。

ニーチェの表現なら《欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs》である。


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889

⋯⋯⋯⋯

※付記

より基本的な資料を付記しておこう。ニーチェの仮面をめぐる叙述である。ニーチェはここでは、決して仮面の背後には仮面しかないとは言っていない。

現代の者たちよ、顔に手足に五十の絵の具のしみをつけて、おまえたちはそこにすわっていた。そしてわたしを驚かせ、あきれさせた。

そしておまえたちのまわりには五十の鏡が置かれていた。それがおまえたちの色の叫喚に媚び、それをまねて叫び声をあげている。

まことに、現代の者たちよ、おまえたちの顔貌こそ、何にもまさる仮面なのだ ihr könntet gar keine bessere Maske tragen。だれにできよう、おまえたちが何者かを見分けることが。

過去の生んだ記号をからだいちめんに書きつけ、さらにその記号を新しい記号で上塗りしている。このようにしておまえたちは、あらゆる記号解読者も読み解けないほどに、巧みに自分自身を隠したのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部「教養の国」)
サント・ブーヴ…すべての主要問題において裁くという課題を拒否し、「客観性」という仮面 die »Objektivität« als Maske をかぶっている。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」)

2017年11月12日日曜日

坂本睦子と坂口安吾

小林秀雄1902
坂口安吾1906
中原中也1907
大岡昇平1909

坂本睦子1915(大岡『花影』のモデル)

ーーなんだな、文壇史にはまったく疎いのだが。

坂本睦子Wikiの項にはこうある(信憑性のほどは知らない)。

静岡県三島市生まれ。孤児同然に育った不幸な生い立ちで、1930年、銀座のバー「はせ川」へ女給として出て、直木三十五に口説かれて処女を奪われたという。1931年、青山二郎が出資した銀座のバー「ウィンゾア」に出て、坂口安吾と中原中也が彼女を争ったという。その後、1932年から1936年まで安吾の愛人だったとされるが、菊池寛にも庇護され、小林秀雄に求婚されて、いったんは受け入れたが睦子が破棄し、オリンピックの選手と京都へ駆け落ちしたという。

その後東京へ戻り、番衆町の喫茶店「欅」に勤めたあと、1935年、工場主をパトロンとして銀座に「アルル」という自分の店を持った。時に二十歳。1938年頃から河上徹太郎の愛人となって長く続いた。戦後、1947年からまた銀座へ出て、バー「ブーケ」で働く。1949年には、青山二郎が睦子のアパートに住んでいたこともある。1950年、青山が命名した「風(プー)さん」が開店し、ここに勤めている時、作家としてデビューしたての大岡昇平と関係ができ、大岡のアメリカ留学を挟んで八年近く愛人関係にあった。その後睦子は「ブーケ」の支店「ブンケ」に出ている。しかしために大岡は夫人の自殺未遂のようなことがあって何度か別れを考えたという。

ほかの情報源としては、久世光彦が坂本睦子をモデルにして「女神」という小説(2003年)を書いているそうだ(参照)。

彼女の写真を検索すると、次の画像に行き当たる。



ーーということは若いころは右上の少女だったんだろう、たぶん。




《1932年から1936年まで安吾の愛人だったとされる》とwikiにはあるが、果たしてどうなんだろう? ちょっとはっきりしたことは分からない。

ただし《1931年、青山二郎が出資した銀座のバー「ウィンゾア」に出て、坂口安吾と中原中也が彼女を争った》というのは、安吾がーーあくまで「小説」のなかの記述だがーーたしかにそう記している。

1931年とは、1915年生れの坂本睦子の16歳のときということになる。安吾曰く《この娘は十七であつた》。

以下、坂口安吾『二十七歳』から抜き出す。

そのころ、春陽堂から「文科」といふ半職業的な同人雑誌がでた。牧野信一が親分格で、小林秀雄、嘉村礒多、河上徹太郎、中島健蔵、私などが同人で、原稿料は一枚五十銭ぐらゐであつたと思ふ。五十銭の原稿料でも、原稿料のでる雑誌などは、大いに珍らしかつたほど、不景気な時代であつた。五冊ほどで、つぶれた。私は「竹藪の家」といふのを連載した。 

この同人が行きつけの酒場があつた。ウヰンザアといふ店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで、青山二郎は「文科」の表紙を書き、同人のやうなものでもあつたせゐらしい。
ある夜更け、河上と私がこの店の二人の女給をつれて、飲み歩き、河上の家へ泊つたことがある。河上は下心があつたので、女の一人をつれて別室へ去つたが、残された私は大いに迷惑した。なぜなら、実は私も河上の連れ去つた娘の方にオボシメシがあつたからで、残された女は好きではない。オボシメシと云つても、二人のうちならそつちが好きといふだけのことではあるが、当時私はウブだから、残された女が寝ませうよと言ふけれどもその気にならない。そのうちに河上が、すんだかい、と言つて顔をだした。彼は娘にフラレたのである。俺はフラレた、と言つて、てれて笑ひながら、娘と手をくんで、戻つてきた。この娘は十七であつた。

その翌朝、河上の奥さんが憤然と、牛乳とパンを捧げて持つてきてくれたが、シラフで別れるわけにも行かず、四人で朝からどこかで飲んで別れたのだが、そのとき、実は俺はお前の方が好きなんだと十七の娘に言つたら、私もよ、と云つて、だらしなく仲がよくなつてしまつたのである。
この娘はひどい酒飲みだつた。私がこんなに惚れられたのは珍らしい。八百屋お七の年齢だから、惚れ方が無茶だ。私達はあつちのホテル、こつちの旅館、私の家にまで、泊り歩いた。泊りに行かうよ、連れて行つてよ、と言ひだすのは必ず娘の方なので、私たちは友達のカンコの声に送られて出発するのであるが、私とこの娘とは肉体の交渉はない。娘は肉体に就て全然知識がないのであつた。 

私は処女ではないのよ、と娘は言ふ。そのくせ処女とは如何なるものか、この娘は知らなかつた。愛人、夫婦は、たゞ接吻し、同じ寝床で、抱きあひ、抱きしめ、たゞ、さう信じ、その感動で、娘は至高に陶酔した。肉体の交渉を強烈に拒んで、なぜそんなことをするのよ、と憤然として怒る。まつたく知らないのだ。 

そのくせ、たゞ、単に、いつまでも抱きあつてゐたがり、泊りに行きたがり、私が酒場へ顔を見せぬと、さそひに来て、娘は私を思ふあまり、神経衰弱の気味であつた。よろよろして、きりもなく何か口走り、私はいくらか気味が悪くなつたものだ。肉体を拒むから私が馬鹿らしがつて泊りに行かなくなつたことを、娘は理解しなかつた。 
中原中也はこの娘にいさゝかオボシメシを持つてゐた。そのときまで、私は中也を全然知らなかつたのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによつて大いに私を咒つてをり、ある日、私が友達と飲んでゐると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかゝつた。 

とびかゝつたとはいふものの、実は二三米離れてをり、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スヰング、フック、息をきらして影に向つて乱闘してゐる。中也はたぶん本当に私と渡り合つてゐるつもりでゐたのだらう。私がゲラ〳〵笑ひだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめてゐる。こつちへ来て、一緒に飲まないか、とさそふと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になつた。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くやうになつたが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れてゐたのではなく、私と友達になりたがつてゐたのであり、娘に惚れて私を憎んでゐるやうな形になりたがつてゐたゞけの話であらうと思ふ。
オイ、お前は一週に何度女にありつくか。オレは二度しかありつけない。二日に一度はありつきたい。貧乏は切ない、と言つて中也は常に嘆いてをり、その女にありつくために、フランス語個人教授の大看板をかゝげたり、けれども弟子はたつた一人、四円だか五円だかの月謝で、月謝を貰ふと一緒に飲みに行つて足がでるので嘆いてをり、三百枚の飜訳料がたつた三十円で嘆いてをり、常に嘆いてゐた。彼は酒を飲む時は、どんなに酔つても必ず何本飲んだか覚えてをり、それはつまり、飲んだあとで遊びに行く金をチョッキリ残すためで、私が有金みんな飲んでしまふと、アンゴ、キサマは何といふムダな飲み方をするのかと言つて、怒つたり、恨んだりするのである。あげくに、お人好しの中島健蔵などへ、ヤイ金をかせ、と脅迫に行くから、健蔵は中也を見ると逃げだす始末であつた。(坂口安吾『二十七歳』1947年)

安吾はこう記したあと、しばらくして次のように書いている。

私はすでにその前に、矢田さんと結婚したいといふことを母に言つた。母も即座にうなづいてゐたが、やがて日数へて、いつ結婚するか、といふ。私は胸をしめつけられて、返事ができず、やうやく声がでるやうになると、もう厭なんだ、やめたんだ、と答へて席を立つた。 

然し、三日にあげず手紙が来てゐるのだから、母は私の言葉を痴話喧嘩ぐらゐにしか受けとらず、あるとき親戚の者がきたとき、私を指して、今度、矢田津世子と結婚するのだ、と言ふ。嘘だ! 結婚しないと言つてゐるのに! 私は唐突に叫んだ。叫ぶことが、無我夢中であつた。私の血は逆流してゐた。私は母の淋しい顔を思ひだす。 

その頃だつた。例の十七の娘が、神経衰弱の如くになつて、足もとをフラ〳〵させ、私を訪ねてきて、酒を飲みに行かうよ、お金は私が持つてゐるから、と言ふ。暮れがたであつた。私は仕事があつて今夜は酒がのめないからと嘘をつき、ともかく、そのへんまで送らうと一緒に歩くと、女は憑かれたやうにとりとめもなく口走り、せつなげな笑ひが仮面のやうにその顔にはりついてゐる。そのうちに、ふと、知つてるわ、矢田さんに惚れたんでせう、と言つた。恨む声ではなかつた。せつなげな笑ひが、まだ、はりついてゐた。気象の激しい娘であつた。モナミだか千疋屋だかで、テーブルの上のガラスの瓶をこはしたことがある。ボーイがきて、六円いたゞきます、と言ふ。娘は十二円ボーイに渡して、隣のテーブルの花瓶をとると、エイと土間に叩きつけて、ミヂンにわつて、サヨナラと出てきた。さういふ気象を知つてゐる私であるから、私に対する娘のあまりのか弱さに、私は暗然たる思ひもあつた。

「片思ひなの?」 

娘は私の顔をのぞいた。それは、優しい心によつて語られた、愛情にみちた言葉であつた。恨む心はミヂンもなく、いたはる心だけなのだ。私は答へる言葉もなく、答へたい心もなかつた。 

このへんで別れようと私が言ふと、ウン、娘はうなづいて、私の手を握り、まだつゞいてゐるあの切なげな笑ひで、仕事がすんだら、又、のまうよね、さう言つて、娘は手をふり、素直に闇の底へ消えてしまつた。これが娘と私との最後の別れであつた。(坂口安吾『二十七歳』1947年)

この「自伝小説」のなかの記述を「事実」として取り扱うことが許されるなら、坂本睦子が《1932年から1936年まで安吾の愛人だった》ということはない。

⋯⋯⋯⋯

安吾は少年時代、インターハイの高跳びで優勝している。そして、はたち前後に坊主を目指している、――《私はすでに二十の年から、最も屡々世を捨てることを考え、坊主になろうとし⋯⋯》(「三十歳」)ーー、その前には一年ほど代用教員もしている(すばらしい教師だったようだ)。

私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、所詮名誉慾というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。(坂口安吾「風と光と二十の私と」)

長身のいい男だったろうが、「情痴作家」と呼ばれたイメージに反し、《私は二十七まで童貞だった》のは、安吾の少年期から青春期のおどろくべき純粋さーーそして《屡々世を捨てることを考え、坊主になろうとし》た事ーーに思いを馳せれば何の不思議でもない。

二十の時、一人の山登りに、谷底へ墜落、落ちて行く時、オヤオヤ死ぬな、と思った。悲しくなかった。ほんとだ。そしたら程へて気がついた。谷川の中で、私は水の上へ首だけだしていた。ふくらんだリュックのおかげであった。

 二十一の時、本を読みながら市内電車から降りたら自動車にハネ飛ばされたが、宙にグルグル一回転、頭を先に落っこったが、私は柔道の心得があり、先に手をつきながら落ちたので、頭の骨にヒビができただけで、助かった。

 私は二十七まで童貞だった。

 二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活したが、これからはもう散々で、円盤ややりや自動車の比ではない。窒息しなかったのが不思議至極で、思いだしても、心に暗幕がはられてしまう。

 その後はなるべく危険に遠ざかるよう心がけて今日まで長生きしてきたが、この心がけは要するに久米の仙人で、常日ごろ生命の危険におびやかされ通しでいるのは白状しなくともお分りだろう。

 お酒は二十六から飲んだが、通算して、まだ十五石ぐらいのものだろう。(坂口安吾「てのひら自伝」1947年 )

ーー《二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活した》とあるが、これは、わたくしの知る限りでは、安吾の小説にはその名は出現しないが、自伝小説「いづこへ」の女であり、ネット上から情報を拾う範囲では、酒場「ボヘミアン」のマダムお安さんと呼ばれる方だそうだ。

⋯⋯⋯⋯

安吾の少年期から青春期のおどろくべき純粋さ、と上に記したが、青春期の真の友だっただろう、菱山修三について次のように記している。

読書は愛好者としてでなければ、学研的なそれであることが多い。稀に血と肉を賭けて読む場合もあるが、菱山修三のヴァレリイに至つては、ひと頃の彼の歴史と、生活と、それに感覚も生命も、その全てを賭け、彼自身ヴァレリイの中に発育した。彼はその宿命さへ賭けてゐたかに見えてゐた。それは、純一無垢、多感極まりない少年にのみ許された唯一の至高な場合であつて、あの頃、菱山はその至高な少年であつた。

我々は結局二人の少年であり得ない。そして私は、私も嘗て一人の少年であつたが、菱山のやうな無類の激しさで一先人に血と肉を、その宿命を賭けるほどの、生死を通した読書の機会は遂ひに持たずに少年を終つた。私は今も落莫として己れの影を見失ひ、我れを見凝める厳粛な純情を暗闇の幕の彼方へ彷徨はせてゐる。(坂口安吾「宿命の CANDIDE」1933年)

⋯⋯⋯⋯

ヴァレリー「オルフェ」(菱山修三訳)

……私は心の内で組み立てる、桃金嬢(ミルト)の下で、あの素晴らしいオルフェを!
火花が降つて来る、かずかずの純粋(きよらか)な円形の谷々から。
彼は替へる、禿げ山を、
神の眼覚しい仕業(しわざ)の輝く荘厳な戦捷のしるしに。

神が歌ふならば、十全の風景を引き裂く。
太陽も眼のあたり石また石の動揺の、空怖ろしさを見てしまふ。
嘗て耳にしたこともない哀訴の声が、聖堂の和やかな黄金(きん)の
眼くるめくばかり輝く高い壁を、呼び寄せる。

彼は歌ふ、壮麗な天空の周辺に腰を下ろして、オルフェは!
岩は歩み、よろめき、魔の石のひとつひとつは
青空へ向かつて熱狂する新たな重荷を悟る!

半ば裸形の殿堂の躍り立つのを、夕暮れは浸し、
夕暮れは七弦琴(りら)の上、気高い讃歌(うた)のひろびろとした魂に、
おのづから黄金色(きん)のなかに集り整ふ!

我が友の蝉が啼いてゐる。蝉は、どこででも啼いてゐる。耳を澄すと、その声は、しかし、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ、しづこころなく啼き移るやうだ。――あの木にも、この木にも、やはり長くは居つかないのか、啼き移るその声は、見知らぬ群集のなかをさまよふやうに、一声歇んで一声起る、絶え間なく啼き継ぎながら、次々に絶え入る。その声のなかに、昔の友よ! 君の声を尋ねて、私は、はぐれる。もはや聴えない、あんなに近く聴えた声が、もはや私には聴えない。――劇しく啼きしきる蝉の声に、耳を藉しながら、私は古い椅子に腰を下ろしてゐる。私の眼は大きく見開きながら、在らぬ方をさまよふやうだ。蝉が啼いてゐる。蝉は確かに啼いてゐる。蝉はどこででも啼いてゐる。空はこのとき、底の知れない暑熱を胎み、色濃く、藍に干上る。別の世界のやうに、見知らぬ世界のやうに。(菱山修三「蝉」)

《私は遅刻する。世の中の鐘がなってしまったあとで、私は到着する。私は既に負傷している‥‥》(菱山修三「夜明け」『懸崖』所収)

ある夜、私は酔ひ痴れてゐた。「チエホフの桜の園は、結局に於て尨大な詩ではないか。いはゆる詩は人間のアニマルを描いてゐない。アニマルを描きつくして顕れた大いなる詩の前では、いはゆる詩は無意味ではないか」

菱山はその夜疲れきつてゐた。私の惨酷な言葉に彼は泣きさうであつた。 

翌る日、私は彼の手紙を受け取つた。

「友よ、詩の終るところに小説がある。併し、小説の終るところにも詩があるのだ」 

彼の言葉は正しい。彼の詩は絶対の極点を貫き走つてゐるのだから。そして私は彼の詩をこよなきものに愛誦してゐる。わが友は日本の生んだ最も偉大な詩人の一人となるであらう。このことは、もはや私の確信となつた。(坂口安吾「宿命の CANDIDE」)



2017年11月11日土曜日

蓮實重彦の「表象の奈落」とラカン派の「表象の非全体」

浅瀬さえない表面としての女」で記した例外の論理(男性の論理)、例外なしの論理(女性の論理)については、すでに蓮實重彦が繰り返し表現して来ている。

あらゆる「制度」に蔓延している怠惰な事実誤認、それは、「未知」なるものはいま、この瞬間にここにはなく、したがって見えてはいないと信ずることであり、そんな「貧しい」確信が、「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造してもっと奥、もっと遠くへと困難な距離を踏破して進まんとするあまたの擬似冒険者を生み落すのであり、そうした楽天的な魂たちは、自分に最もふさわしい仕草を、「未知」なるものを「既知」なるものへと移行させんとする「発見」の旅だと信じて疑わない。だが、存在が真に有効な視線を欠いているのは、まさしく、いま、この瞬間に、ここにあるものをめぐってなのであり、そのとき瞳を無効にされた存在は、「彼方」を見やって視力の回復をはかるのではなく、むしろ自分自身の瞳を積極的に放棄して、「既知」と思われた領域の一劃に不意に不可解な陥没点を現出せしめ、そこで、いま、この瞬間に、ここにあるものと接しあいながら、もはや自分自身には属さない非人称的な瞳を獲得して、世界を新たな相貌のもとに把えることになるだろう。(蓮實重彦「言葉の夢と「批評」」『表層批判宣言』所収、1979)

《「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのを捏造》すること、これが例外の論理である。



たとえば、1973年に書かれた小論(ドゥルーズのマゾッホ論訳者解説)に既に、男性の論理である「体系化」に対する「非=全体化の法則」の顕揚がある。

…真理と呼ばれる巨大な疑問符の解明に奉仕する科学的なディスクールが、心理的事象から追放してしまった「精神分析体験」をそっくり救い出すために、「非=排除の法則」と「非=全体化の法則」とを心理学に導入することで、逆に「精神分析学」を科学として確立したのがラカンのフロイディスムの革命であるとするなら、「還る」べきフロイトとは、実はどこにもない場所のことにほかならぬからである。「排除」と「体系化」とは、単一者の表象的な影としてあるあの途方もない疑問符を光源とする、小規模な無数の「なぜ」を脈絡づけるに恰好な、絶句を隠蔽する饒舌に属するものなのだ。(蓮實重彦「問題・遭遇・倒錯」1973)

ここでの「非=全体化の法則」とは非全体 pastoutの論理のことに他ならない。そして「体系化」とは pourtout である。

ラカンの L'ÉTOURDIT(14 juillet 72、オートルエクリ所収)には、pourtout 全体化(全てに向って)/pastout 非全体(全てではない)という表現が現われている。蓮實の言っているのは、まさにこのことである。

そして例外なしの論理に徹するからこそ、表象(象徴界)は非全体化する。

ドゥルーズとガタリとの共著には次のようにある。

オイディプス的顰め面の背後で derrière la grimace œdipienne プルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑いーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。

le rire schizo qui secoue Proust ou Kafka derrière la grimace œdipienne - le devenir-araignée ou le devenir-coléoptère. (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)

「エディプス的顰め面 grimace œdipienne」とあるが、これはフロイト・ラカン派語彙に変換すれば「ファルス秩序の裂目、象徴秩序の裂目、欲望の裂目、表象の非全体 pastout」のことである。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

非全体の論理ゆえに、表象の非全体が 外立 ex-sist(脱自)する。全体化の論理では表象は安定化してしまう。

《現実界とは形式化の袋小路である Le reel est un impasse de formalization》(ラカン、S20)であり、《現実界は外立する Le Réel ex-siste》(S22)のである。

最近になってラカン派のムラデン・ドラ―は「表象の非全体」と口に出している。

表象は「すべてではない」。表象は非全体 pastout である。表象が非全体なのは、主体の刻印のためである。表象自体の領野のなかに、主体にとっての何かが代理されているのだが、その主体の刻印のためである。

⋯⋯ここで問題になっている事はまた、ある種の「表象の彼岸」ではない。あるいはラカンが用いるカント的用語における、現象の領域の彼岸ではない。…(ムラデン・ドラ―2016, Mladen Dolar, Anamorphosis, pdf

蓮實重彦は21世紀に入ってからも「表象の奈落」というが、これは「表象の非全体」のことに他ならない。

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』2006)

⋯⋯⋯⋯

最後にジジェクによる現実界の定義を掲げておこう。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に固有のものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。すなわち、現実界は象徴界の非全体 pas-tout である。一つの現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからである。

存在 being(現実 reality)があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためである。なぜなら、現実界は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者」的重みを与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり躓いたりするというだけではない。現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


2017年11月10日金曜日

浅瀬さえない表面としての女

人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)
女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

ーー人は誤解してはならない。ニーチェもラカンも、女を崇めているのである。よりよく生きるためには、見せかけ=仮象、すなわち徹底的に「表面に踏みとどまること」が大切なのである。

生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象 Schein を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか。(ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年追加版)

他方、男はどうか? 愚かな男は「深さ」が好きなのである。

男は愚かにも信じている、象徴的肩書きの「彼岸」、彼自身のなかの「深い」ところに己れの実体、ある隠された秘宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

参照:究極のフェミニスト、ニーチェ

⋯⋯⋯⋯

いま掲げた文には、ラカンの女性の論理と男性の論理が凝縮されている。すなわち例外なしの論理と例外の論理が。


上辺部が男性の論理、下辺部が女性の論理である。この意味合いは「性別化の式と四つの言説の統合の試み」にあるが、ここではより簡潔に記す。

まず三つの文を抜き出す。

①ファルス享楽でないどんな享楽もない il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique(ラカン、S20, 13 Février 1973)
②ひとつの享楽がある。il y a une jouissance…「身体の享楽 jouissance du corps」 …ファルスの彼岸の享楽 une jouissance au-delà du phallus!(ラカン、S20、20 Février 1973)
③非全体 pas toute の起源…それは、「ファルス享楽 jouissance phallique」ではなく「他の享楽 autre jouissance」を隠蔽している。いわゆる「女性の享楽 jouissance dite proprement féminine」を。 …(ラカン、 S19,、03 Mars 1972)

ーー②③から分かるように女性の享楽とは身体の享楽である。《女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps (ミレール2011, L'Etre et L'Un)

そしてファルス享楽の彼岸の「他の享楽」とは、フロイトの快原理の彼岸にかかわる(ファルス享楽とは快原理の此岸にある)。

さてごく標準的に読めば、なによりもまず①と②は矛盾しているように感じるだろう。

①にて「ファルス享楽ではないどんな享楽もない」と言っているのに、②にて「ファルスの彼岸」ーー③にあるように「ファルス享楽の彼岸」と等価であるーーに身体の享楽・女性の享楽があると言っているのだから。

だがこれは「否定の否定」である。

ラカンの否定の否定は、「性別化の式」の女性の側に位置し、非全体 pastout の概念にある。例えば、言説でないものは何もない。しかしながら、この non‐not‐discourse (言説の二重否定)は、すべては言説であるということを意味しない。そうではなく、まさに非全体 pas-tout は言説であるということ、外部にあるものは、ポジティヴな何かであるのではなく、対象a、無以上でありながら、何かでなく、「一」ではない more than nothing but not something, not Oneということである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

ようは女は徹底的に表面(ファルス秩序)に生きるから、表面は非一貫化(非全体化)するのである。他方、男は例外(深さ)に支えられている。ゆえに表面は安定化(普遍化)してしまう。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pastout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、2012ーー形式化の極限における内部崩壊

おわかりだろうか? たぶん簡潔すぎて、おわかりにならないかもしれない。だが長々しく記すと、よりいっそうおわかりにならないようになる筈である。

大切なのは次の二文を眺めることである。

わたしにとって今や「仮象」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。 Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
真理は見せかけの対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

そもそも人間の現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」「仮象の世界 scheinbare Welt」である。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

真理とは、現実という見せかけの世界の裂目に過ぎない。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

この裂目が現われるためには仮象に徹しなければならない。そのとき見せかけに穴が空く(アナーキーとは穴空きのことである!)。

これが起るのは女においてである。男においてではない(もちろんここでの男と女は、解剖学的性差、つまりオチンチンの有無とはまったく関係がない。たとえば、すぐれた作家は皆、女である)。

見せかけのなかに穴を空けること、それが現実界である。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
真理はすでに女である。真理はすべてではない(非全体・非一貫性 pas toute)のだから。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)

・・・というわけだが、ニーチェとラカン両者が《真理とは彷徨える乙女である》と言っているわけで( 参照:真理は女である)、ここでの記述自体を疑わねばならぬ。ホントにこうなんだろうか、と彷徨うことが肝腎である。すぐさまマガオで信ずる阿呆に陥ってはならないのである。

私は相対的 relativementには、マヌケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にマヌケだな。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな(ラカン、S24,17 Mai 1977)

真理とはアリアドネである。

迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿1882-1883)

⋯⋯⋯⋯

◆附記

男でない全ては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は全てではない(非全体 pas « tout » )のだから、どうして女でない全てが男だというのか?

Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (ラカン、S19, 10 Mai 1972)

非男は女でありうる(カントの否定判断)。だが非女とは男ではない。女性性内部の裂目、それが非女である(無限判断)。

仮に私が魂について「魂は死なない」と言ったとすれば、私は否定判断によって少なくとも一つの誤謬を除去したことになるだろう。ところで「魂は不死である die Seele ist nichtsterblich」という命題による場合には、私は魂を不死の実体という無制限の外延中に定置することによって、論理の形式面からは事実肯定したことになる。(……)

[後者の命題が主張するのは]魂とは、死すものがことごとく除去されてもなお残るところの、無限に多くのものの一つである、ということに他ならない。(……)しかし、この[あらゆる可能なものの]空間はこのように死すものが除去されるにも関わらず、依然として無限であり、もっと多くの部分が取り去られても、そのために魂の概念が少しも増大したり肯定的に規定されるということはありえない。(カント『純粋理性批判』)




2017年11月9日木曜日

昇華という症状

症状はすべて不安を避けるために形成される。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章)

そして症状形成 Symptombildungとは 代理形成 Ersatzbildung の同義語であり、(危険な状況、あるいはエス Es・欲動過程 Triebvorganges に対する)防衛過程 Abwehrvorgang にかかわると、フロイトは記している。


ラカンは、芸術(ヒステリー)・宗教(強迫神経症)・科学(科学)は、人間の昇華の三様式である。[…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science](ラカン、S7、03 Février 1960)と言っている。

人は、 身体の欲動(欲動の現実界 le réel pulsionnel)に圧倒される不安、性的非関係 non-rapport sexuel」 にかかわる不安に対する防衛のために症状を形成する。芸術も宗教も科学も昇華という症状である、というのがフロイト・ラカン派の考え方である(参照:性関係を基礎づけるものはない il n'y a pas de rapport sexuel)。


ミレールが次のように言っているのは、その意味である。

すべてが見せかけ(仮象 semblant)ではない。ひとつの現実界がある。社会的つながりの現実界は、性関係の不在 l'inexistence du rapport sexuel であり、無意識の現実界は話す身体 le corps parlant(欲動の現実界)である。

象徴秩序が、現実界を統整しそれに法を課す「知」と思われていた限り、臨床は、神経症と精神病とのあいだの対立によって支配された。象徴秩序は今、現実界を統治せず、むしろ現実界に隷属する「見せかけ」のシステムとして認知されている。象徴秩序は、性的非関係という現実界に応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER


欲動の現実界も性関係の不在も、何よりもまず「性愛」にかかわるとしてよい。

我々はフロイトの次の仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。

・愛は転移 transfert である。

・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。(ミレール、1992『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』)

そして、根源的な愛の対象の「置き換え déplacement」とは、代理形成、あるいは昇華のことである。

対象の昇華 objets de la sublimation…その対象とは剰余享楽 plus-de-jouir である…我々は、自然にあるいは象徴界の効果によって par nature ou par l'incidence du symbolique、身体にとって喪われた対象 perdus pour le corps から生じる対象を持っているだけではない。我々はまた種々の形式での対象を持っている。問いは…それらは原初の対象a (objets a primordiaux) の再構成された形式 formes reprises に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre Athens, May 2013)

 ⋯⋯⋯⋯

さて中井久夫の「昇華」をめぐる二つの文を抜き出す。

サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


次にフロイトの昇華をめぐる叙述を掲げる(やや長いのでパラグラフ分けをして小題をつけた)。

ーー中井久夫の文に《サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではない》とあったが、フロイトは昇華をそれほど讃美しているわけではないのが分かるだろう。

【人生の目的とは?】
……人間にとって人生の目的と意図は何であろうか、人間が人生から要求しているもの、人生において手に入れようとしているものは何かということを考えてみよう。すると、答はほとんど明白と言っていい。すなわち、人間の努力目標は幸福 Glück であり、人間は幸福になりたい、そして幸福の状態をそのまま持続させたいと願っている。しかもこの努力には二つの面、すなわち積極的な目標と消極的な目標の二つがあり、一方では苦痛と不快が無いことを望むとともに、他面では強烈な快感を体験したいと望んでいる。狭い意味での「幸福 Glück」とはこの二つのうちの後者だけを意味する。(……)

【われわれが幸福である可能性の制約】
厳密な意味での幸福は、どちらかと言えば、相当量になるまで堰きとめられ蓄えられていた欲求 Bedürfnisse が急に満足させられるところに生まれるもので、その性質上、挿話(エピソード episodisches)的な現象としてしか存在しない。快原理が切望している状態も、そのが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しかい与えられないのである。人間の心理機構そのものが、状態というものからはたいして快を与えられず、対照(Kontrast)によってしか強烈な快を味わいえないように作られているのだ。つまり、われわれが幸福でありうる可能性は、すでにわれわれの心理機構によって制約されているのである。


【三つの不幸の可能性】
しかも皮肉なことに、不幸を経験するのははるかに簡単だ。そうして苦難の原因は三つある。第一は自分自身の肉体――結局は死滅するよう運命うけられていて、警報として役立つため苦痛や不安をすら欠くことのできない自分自身の肉体――であり、第二は、われわれにたいし、破壊的で無慈悲な圧倒的な力をもって荒れ狂うことにある外界であり、第三は、他人との人間関係である。この最後の原因から生まれる苦難は、おそらく、他のあらゆる苦難にもましてわれわれには苦痛と感ぜられる。この種の苦難も、他の原因から生ずる苦難に劣らず宿命的で、どうにも避けようのないものであるかもしれないにもかかわらず、とかくわれわれは、いわばそれを余計なおまけのように考えがちである。(……)


【不幸対策:孤独・麻薬・ヨガ修行等】
人間関係が原因で生まれることのある苦痛にたいして身を守るいちばん手っとり早い方法は、すすんで孤独を守ること、ほかの人間との関係を断つことである。当然ながら、この方法によって手に入れる幸福は、平安の幸福である。(……)

もちろん、これと違った、もっとよい方法もある。すなわち、人類社会の一員として、科学が生んだ技術の力を借り、自然を攻撃する態度へと移行し、自然を人類の意志に隷属させるのである。その場合には、万人とともに万人の幸福のために働くことになる。しかし苦難を防ぐ方法としていちばん興味深いのは、自分の身体組織を変えてしまおうとする試みである。あらゆる苦難も所詮は感覚以外の何物でもなく、われわれがそれを感ずるかぎりにおいてしか存在しないのであり、われわれがそれを感ずるというのも、われわれの身体組織に備わっているある種の装置のせいにすぎないのだから。

身体組織を変えてしまおうとするこの試みのうち、もっとも野蛮かつもっとも効果的な方法は、化学的な方法、つまり中毒である。(……)幸福を獲得し悲惨を避けるための戦いでの興奮剤の効果は一種の恩恵として高く評価され、人類は、個人としても集団としても、これら興奮剤に、自分のリビドーの管理配分体制内における確固とした地位を認めている。興奮剤は、直接快感を供給してくれるだけではなく、われわれが希求してやまない外界からの独立をも部分的には手を入れさせてくれる。(……)

けれども、われわれの心理機構は複雑であるから、これを左右する方法は、他にもまだたくさんある。欲動満足 Triebbefriedigung がわれわれを幸福にしてくれるのと反対に、外界の事情によって飢えなえればならなかったり、欲求 Bedürfnisse を充分に満たすことができない場合は激しい苦痛の原因になる。

そこで、この欲動の動き Triebregungen に働きかけることによって苦痛の一端を免れることができるのではないかという希望が生まれる。この種の苦痛防止法は、もはや感覚器官そのものに手をつけるのではなく、欲求 Bedürfnisse が生まれる内的源泉を制御しようとするのである。それが極端に走ると、東洋の哲学の教えやヨガ修業の実践からわかるとおり、欲動 Triebe を全部殺してしまう。これが成功すると、もちろんその他の活動もすべて同時に停止され(人生も犠牲にされ)るわけで、方法こそ違え、手に入るのはこれまた平安の幸福に他ならない。


【常軌を逸した衝動のもつ抗しがたい魅力】
欲動生活 Trieblebens の制御だけを目差す場合も、これと同じ方法によるが、目標はそれほど極端ではなくなる。そして主導権は、現実原則に屈服した高次の心理法廷が握ることになる。この場合には、欲動を満足させようとする意図はけっして放棄されたわけではないが、ただ、制御された欲動のほうが、不羈奔放な欲動よりは、不満足に終わった場合の苦痛が少ない点を利用して、苦痛をある程度防止しようというのだ。そのかわり、享受可能性 Genußmöglichkeiten の低下は避けられない。自我に拘束されない荒々しい欲動の動きungebändigten Triebregung を堪能させた場合の幸福感は、飼い馴らされた欲動 gezähmten Triebes を堪能させた場合の幸福感とは比較にならないほど強烈である。常軌を逸した衝動 Impulse の持つ抗しがたい魅力はーーいやおそらくは、禁じられたもの一般の持つ魅力もまたーーここにその心理エネルギー管理配分機構上の存在理由を持っているのである。


【学問、芸術という「上品かつ高級な」欲動の昇華】
苦痛防止のもう一つの方法は、われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen で、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにするのだ。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性を無意識心理の立場から明らかにすることができるであろうが、現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。


【上品かつ高級な欲動昇華の限界】
けれどもこの種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。しかし、この方法の第一の弱点は、それがすべての人間に開放されておらず、ごく少数の人々しか利用できないことである。この方法を使うには、それが有効であるために必要な量ではかならずしもざらにあるとは言えない特殊な素質と才能を持っていなければならない。しかも、そのごく少数の人々も、たとえこの方法によっても、苦痛を完全に免れることはできないのであって、この方法は、運命の矢をすべてはね返す鎧を提供してくれるわけではなく、自分自身の肉体が原因で生まれる苦痛の場合には役に立たないのが通例である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)

⋯⋯⋯⋯

※付記

ラカンの《芸術(ヒステリー)・宗教(強迫神経症)・科学(科学)は、人間の昇華の三様式》の注釈として読めるジュパンチッチの論を付記しておく。


◆アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,2013、PDFより。

科学が基盤としているのは、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定である。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。すなわちモノの蜃気楼は、われわれの知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。
宗教が基盤としているのは、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定である。リアルは、不可能かつ禁じられており、超越的で手の届かないものである。
芸術が基盤としているのは、リアルは内在的かつ手の届かないものという想定である。リアルは、つねに表象に「突き刺さっている」。表象の他の側あるいは裏面に、である。裏面は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。(……)芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。

2017年11月8日水曜日

真珠貝と砂粒

以下、わたくしが知る限り(あるいは理解出来うる範囲での)、症状形成の最も明晰、簡潔なポール・バーハウによる説明である。

フロイトのよく知られた隠喩、砂粒のまわりに真珠を造る真珠貝…。砂粒とは現実界とテュケーの審級であり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒へのオートマン-反応であり、封筒あるいは容器、すなわち症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「somatic compliance(身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「Somatisches Entgegenkommen」とは、いわゆる「欲動の根」、あるいは「固着」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。症状形成の回路図を示せば次の通り。(ポール・バーハウ 2004, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics, Paul Verhaeghe)


⋯⋯⋯⋯

まず、上の症状形成回路図の語彙群をフロイト・ラカンを中心に注釈引用する。


【第一段階:対象a、トラウマ的現実界、「過剰」】




◆トラウマ的現実界
経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit をトラウマ的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ーー乳幼児の《無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit)と依存性 Abhängigkeit》(同、フロイト)

現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S11、12 Février 1964)

※参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)


◆過剰
心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)
欲動の蠢きは刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute。(ラカン、S10、14 Novembre l962)


【第二段階:境界表象・最初のシンボル・原症状=失敗する象徴化】




◆境界表象 S1
抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、I January 1896,Draft K)
《欲動 Trieb》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenzbegriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代理 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)


◆最初のシンボル(シニフィアンの起源)
ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17, 14 Janvier 1970)
「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(ラカン、S17、11 Février 1970)


◆原症状 
症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)
女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps (ミレール2011, L'Etre et L'Un)

※女性の享楽 jouissance féminine=身体の享楽 jouissance du corps (参照



◆「失敗する象徴化」については引用が長くなるので後述。


【第三段階:根本幻想内部での $ ◊ a ◊ Ⱥ の関係における妥協としての症状





◆妥協としての症状

妥協とは、フロイトが「誤った結びつき falsche Verknüpfung」や「根元的錯誤(最初の虚偽 proton pseudos」(『科学的心理学草稿』1895)などと呼んだものにかかわる。

より一般的に言えば、象徴界の症状形成自体が妥協である。

われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状 Symptom をある異物 Fremdkörper とみなして、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状形成 Symptombildung がなされると、好ましからぬ欲動の蠢き Triebregung にたいする防衛の闘い Abwehrkampf は終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動の蠢きTriebregung にたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そもそもフロイトの《エディプスコンプレックス自体が症状である Le complexe d’OEdipe, comme tel, est un symptôme》(ラカン、S23、18 Novembre 1975)、すなわちあの理論自体が、欲動の現実界の穴を覆うフロイトのイマジネールな構築物である。であるなら、ラカンが死ぬまで継続しようとしたセミネールも彼の症状である。

(ラカンの晩年のサントーム概念自体、ここで後に記される意味合い以外に、象徴界・想像界・現実界を縫合する「父の機能」の意味があるが、この概念自体、フロイトのエディプス理論の「よりすぐれた」変奏にすぎない、《最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome》(ミレール、2013、L'Autre sans Autre、PDF))

精神分析の実践は、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、(PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

《人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.》(Lacan,S23, 13 Avril 1976)

◆根本幻想

そして根本幻想 le fantasme fondamental とは、《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》であり、この《馬鹿げたテクニック Technique absurde》は、人が《窓から見えるものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》(Lacan, S10)ようにすること、すなわち大他者のなかの穴 Ⱥ を見ないことにある。

そして$ ◊ a ◊ Ⱥ とは次のように書き換えうる。



⋯⋯⋯⋯

次に、冒頭のボール・バーハウの文に出現する語彙群をめぐる引用をする。


◆真珠貝と砂粒
さてここで、咳や嗄れ声の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。最下部には器質的に条件づけられた真実の咳の刺激があることが推定され、それはあたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet のようなものである。

この刺激は固着 しうる fixierbar が、それはその刺激がある身体領域と関係するからであり、その身体領域がこの少女の場合ある性感帯としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドーを表現するのに適しており、おそらくは最初の心的変装 psychische Umkleidung、すなわち病気の父親に対するイミテーションの同情、そして「カタル」のために惹き起こされた自己叱責によって固着させられる fixiert のである。(フロイト 症例ドラ、『あるヒステリー患者の分析の断片』Bruchstück einer Hysterie-Analyse,1905)
…現勢神経症は(…)精神神経症に、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「心的に選択された、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論 Zur Onanie-Diskussion』1912)


◆オートマン/テュケー

オートマン/テュケー(αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ])とは、シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」/「現実界との出会い rencontre du réel」である(S11)。

テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、S11、12 Février 1964)


◆封筒あるいは容器、すなわち症状の可視的な外部

上に引用したフロイト自慰論の「心的に選択された、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」という表現以外に、

・《心的被覆 psychischen Umkleidungen》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題】1924)

・《症状の形式的封筒  l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)



◆異物
心的トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入 Eindringen から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』1895年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状、das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

《われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)との表現は、フロイトの「異物Fremdkörper」と等価である(異物の仏訳は"corps étranger"[参照] )



◆身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen

ーー真珠と砂粒の項を見よ



◆欲動の根
たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


◆固着
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

◆サントーム=原固着
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

ーーラカンには後年、 「一のようなものがある Y'a d'l'Un」 という表現があるが、これはサントームのことである。《サントーム le Sinthome……それは Yadlun と等価である》(Jacques-Alain Miller Première séance du Cours、2011)

「一の徴 trait unaire」と 「一のようなものがある Y'a d'l'Un」とのあいだの相違は、ラカン派内で議論があるが、ここでは割愛。


最後に上で後述するとした【失敗する象徴化】である。

ここで症状形成の第一段階と第二段階の間の図の矢印が「⇔」になっていることに注目して以下の文を読もう。




◆残存現象=対象a
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

フロイトは《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》としているが、この残存現象として居残った対象aが、欲動の蠢きの遺留物であり、始末に負えない「異物」としての機能を果たす。

この(a) 、小さな(a) は、大他者の場処への主体の生誕のこの全作用のなかで還元されえないままであるものである。そしてそこから、その機能を果たすようになる。c'est (a) : petit(a) est ce qui reste d'irréductible dans cette opération totale d'avènement du sujet au lieu de l'Autre, et c'est de là qu'il va prendre sa fonction (ラカン、S10、6 Mars l963)

どんな機能かといえば、この《欲動の蠢きは刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけ》(S10)であり、究極的には原マゾヒズムと合流する。

⋯⋯⋯⋯

さて、理論的には上のようだとして、具体的に真珠貝と砂粒とは何だろうか。

ポール・バーハウは、ドラの事例において、神経性の咳と嗄れ声が真珠貝(象徴界の症状)、口唇享楽(口唇欲動)が砂粒(現実界の症状)としている。

R.S.I. (1974-1975)のセミネール22にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字lettre」の概念を通した対象a を明示した。この文字は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着している実体 substance である。

対照的に、シニフィアンは、言語的価値を獲得した或る文字である。シニフィアンの場合、欲動の現実界は、すでに象徴界に浸透されている。すなわち、記号化されている。この論拠内で、ラカンは「文字」、あるいは対象a を、主人のシニフィアンS1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、このS1 はS2 (他の諸シニフィアンの一群)から隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。

この「文字」の考え方を以て、ラカンは、現実界と象徴界とのあいだの境界は、弱い境界だという事実を強調しようとしている。すなわち、現実界が象徴界によって植民地化されるということは、常に可能である。たとえば、諸シニフィアンの連鎖は、ドラの口唇享楽に侵入した。つまり、欲動の現実界は、神経性の咳 tussis nervosa と嗄れ声 hoarseness の症状を通して、記号化された。フロイトによって分析された症状の全ては、象徴界の表象代理部分であり、欲動の現実界は、ほとんど変わらぬままの姿で後に患者のもとに回帰した。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)

ーーセミネール22だけでなく、セミネール23にも《文字対象a (lettre petit a)⋯文字としての徴付けられるもの(marquer que la lettre)⋯「一の徴 trait unaire」、すなわちフロイトの einziger Zug に由来するもの》という表現がある。

この「文字」が、ミレールが「ひとつきりのシニフィアン le signifiant tout seul」 、あるいは最近では「ひとつきりの一 l’Un-tout-seul」と呼ぶものであり、ラカン自身の表現なら、 「一のシニフィアン  le signifiant « un »」、「一のようなものがある  y'a d'l'Un」と等価のものである。

そして上に引用したように、《サントーム le Sinthome……それは Yadlun と等価である》( Miller Première séance du Cours、2011)であり、かつまたS(Ⱥ)、すなわち原固着のシニフィアンとも等価である(参照)。

そしてミレール派の Pierre-Gilles Guéguen は次のように言っている。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を示す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016)

バーハウの解釈においては、これらは純化された症状としての対象aにかかわる。

純化された症状とは、象徴的成分から裸にされたもの、すなわち言語によって構成された無意識の外部にex-sist(外立)するものであり、対象aあるいは純粋な形での欲動である。(同上、ポール・バーハウほか、2002)

ドラの二重の症状についてもう少し引用しておこう。

ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象 representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)

⋯⋯⋯⋯

症状のない主体はない。これがラカン派のテーゼである。学問、芸術等も、現実界の症状(砂粒)を昇華した象徴界の症状(真珠)である。美しい真珠もあるし、歪んだ真珠もあるだろう。アコヤ貝から採れるような小粒な真珠があり、白蝶貝から採れる大粒の真珠、稀には黒真珠もあろう。これらの袋真珠ではなく、何の価値もない筋肉真珠である場合もあろう(ドラの嗄れ声のように)。

だが美しい真珠を生み出す症状をもっている作家や芸術家に出会ったときにでさえ、この人物の現実界の症状(砂粒)は何だろうか? と思いを馳せてみるのも一興である。もちろん自らの砂粒を先に問うのが肝要ではある。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番ーー「不気味な仮面と反復強迫」)