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2018年7月31日火曜日

おまんこのにおいに包まれること

死のしづけさのにほひ」から引き続くけど
ベルトルッチは偉大だね
彼はよく知ってる、
おまんこは舐めたり突っついたりする
のが核心じゃないんだ
そうじゃなくてにおいに包まれることさ
その伴奏としての囀り声とね





突っつくのだって
鍵をさして匂いの扉を開けることだよ
視覚偏重の文明人のみなさんだけだな
それに気づいてないのは




いやあ、塩田明彦の『月光の囁き』はじつに偉大な作品だな

⋯⋯⋯⋯

フロイトの抑圧の核心は次の文にある。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst. (フロイト「フリース書簡 Brief an Flies、1896)

不幸にも「抑圧」と訳されてしまった"Verdrängung"の本来の意味は
まずなによりも「追放」・「放逐」だ。
でもそれだけじゃない。
身体的なものは心的なものに翻訳されない
これが「抑圧」であり「固着」なんだ。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe2001, BEYOND GENDER )

この「置き残し」の類似語は、フロイトのテキストのあらゆるところに現れる。
これまでのフロイト解釈は99パーセント寝言しか言っていない。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 (リビドーの固着 Fixierungen der Libido )を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917

最近、ようやくラカン主流派がフロイトの核心「抑圧ー固着」に気づくようになったけどさ。

「一」と「享楽」とのつながりとしての固着 la fixation comme connexion du Un et de la jouissance。⋯⋯⋯

「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりが分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

これがラカンのサントームだよ、すなわち原症状。
→「母による身体上の刻印と距離(サントームをめぐって)

ま、それはこの際どうでもいいさ、
ラカン派というのはほとんどマヌケしかいないからな

で、ボクの場合の原固着は、なによりもまず「おまんこのにおい」だな。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)




死のしづけさのにほひ

ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香りーー、それと気づけばにわかにきつい匂いである。(中井久夫「世界における索引と徴候」)

ふたたび「ヘンデルの匂い」におそわれて茫然自失している。あの「私を泣かせてくださいLascia ch'io pianga」の花のふさのたわわに垂れるにおいである。

ああ、菌臭の死‐分解への誘いの匂い⋯⋯自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂い⋯⋯母胎の入り口の香りにも通じる匂い⋯⋯エロスとタナトスの混淆の匂い⋯⋯ああ、死のしづけさのにほひ。


須磨の女ともだちからおくられた
さくら漬をさゆに浮かべると
季節はづれのはなびらはうすぎぬの
ネグリジェのやうにさくらいろ
にひらいてにほふをんなのあそこ
のやうにしょっぱい舌さきの感触に
目に染みるあをいあをい空それは
いくさのさなかの死のしづけさのなか

――那河太郎「小品」





蚊居肢子は下層階級の出であり、映画館で映画はけっして見続けられない。たとえば塩田明彦の『月光の囁き』であれば、冒頭から上の映像に囚われ、半時間ほどは閉じた眼の世界に入り込んでしまう、すなわち盲目の蚊居肢はにおひの網に潜り込んでしまうのである。

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)

すでにジジェクによる指摘があるが、ラカンの対象aの定義の決定的な欠陥は「におい」がないことである。ラカンは文明人だったのである。眼差しや声よりも「におい」はより根源的な対象aなのに。

(対象aの形象化として)、乳首[mamelon]、糞便 [scybale]、ファルス(想像的対象)[phallus (objet imaginaire=想像的ファルス])、小便[尿流 flot urinaire]、ーーこれらに付け加えて、音素[le phonème]、眼差し[le regard]、声[la voix]、そして無[ le rien]がある。(ラカン、E817、1960)

それともあのにおいは「無」かな・・・原対象a、原初に喪われた対象は。ボクはいま羊水のにおいのことを言ってるんだけど、記憶力がわるいほうなので覚えてないや。

たぶん羊水カクテルとか羊水ジュースなんてのを作ったら流行すると思うけどな、なんでないんだろ?

⋯⋯⋯⋯

※付記

たぶん、下層階級と中流階級とのあいだの鍵となる相違は、臭いにかかわる。中流階級の人びとにとって、下層階級は臭う。彼らは規則正しく身体を洗わない。あるいは中流階級のパリジャンのおなじみの応答を引用するならこうだ。彼らは地下鉄の一等車に乗るのを好むのはなぜだ、と問われ、「私は二等車に労働者と一緒に乗るのを気にしないよ、でもただ彼らは臭うんだ」。

これが教えてくれるのは、現在、隣人とは何を意味するかの「定義」のひとつだ。「隣人」は臭う者と定義できる。これが、今日、脱臭剤や石鹸が重要な理由だ。それは隣人を最低限は我慢できるものにする。私は隣人を愛する用意がある…もし彼らがひどく臭わなかったら。(……)

ラカンは、フロイトの部分対象のリスト(乳房、糞便、ペニス)を補った、声と眼差しという二つの対象をつけ加えることによって。我々は、たぶん、このシリーズにもう一つ加えるべきだろう、すなわち臭いを。(Tolerance as an Ideological Category 、Autumn 2007、Slavoj Zizek

→参照:「男は女になんか興味ないよ

享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)



2018年7月29日日曜日

愛されぬままに愛している人

愛することは、本質的に、愛されることを欲することである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1970)


(Wim Wenders、Alice in den Städten 、1974)


あいしてる   谷川俊太郎 

あいしてるって どういうかんじ?
ならんですわって うっとりみつめ
あくびもくしゃみも すてきにみえて
ぺろっとなめたく なっちゃうかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
みせびらかして やりたいけれど
だれにもさわって ほしくなくって
どこかへしまって おきたいかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
いちばんだいじな ぷらもをあげて
つぎにだいじな きってもあげて
おまけにまんがも つけたいかんじ


いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似 analogies ではなく相同 homologies を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、二者構造 structure duelle のあるところならどこででもわたしを捕獲する。

さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気分転換によって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人l'autre qui aime sans être aiméの内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうのだ。今や、この不幸の能動的代理人 agent actif はわたしである。わたしには自分が犠牲者であって同時に死刑執行人でもあると感じられる。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「同一化 Identifications」1977年)

女は存在自体が芸術家である

以下、「女性は存在自体がフェティシストである」の別ヴァージョンである。

壺は穴を創造するものである。その内部の空虚を。芸術制作とは無に形式を与えることである。創造とは(所定の)空間のなかに位置したり一定の空間を占有する何ものかではない。創造とは空間自体の創造である。どの(真の)創造であっても、新しい空間が創造される。

別の言い方であれば、どの創造も覆い(ヴェール)の構造がある。創造とは「彼岸」を創り出し暗示する覆いとして作用する。まさに覆いの織物のなかに「彼岸」をほとんど触知しうるものにする。美は何か(別のもの)を隠蔽していると想定される表面の効果である。(ジュパンチッチ1999、 Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan, 1999)

この文自体、とても美しいが、壺作りの話の起源は、ラカンにある。

現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。

…壺作り職人potierは、彼の手で空虚の周りに壺を創造する crée le vase autour de ce vide avec sa main (ラカン、S7、27 Janvier 1960)

ところでハイデガーは1949年に『道徳経』を独訳している。ラカンは老子を読んでいたのかもしれない。

道徳経第11章「無用之用」には、《埏埴以爲器。當其無、有器之用》とあり、これは「土をこねて器を作る。その器に無(空間)があるこらこそ、器としての用を為す」である。

・・・という話がしたいわけではない。ジュパンチッチの《芸術制作とは無に形式を与えることである。…美は何か(別のもの)を隠蔽していると想定される表面の効果である》に戻らねばならない。

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
女の最大の技巧は仮装 Luege であり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさ Schoenheit である。(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》(Miller 1997、Des semblants dans la relation entre les sexes)

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)

以上より、論理的に「女は存在自体が芸術家である」となる筈である。

生への信頼 Vertrauen zum Leben は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛 Liebe zum Leben はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる女への愛 Liebe zu einem Weibe にほかならない・・・(『ニーチェ対ワーグナー』エピローグ、1888年)

2018年7月28日土曜日

私のアンリエットたち

Willy Ronis


Lothar Reichel, 


Henri Cartier-Bresson 


探せばあるものである。根源的なアンリ・ブリュラール主義者であるわたくしは、いままでは以下のWolf Suschitzky の作品だけで満足していたのだが、上の三作品は、これにおとらずこよなき美をもっている。最後のHenri Cartier-Bresson の作品は、いくらかわざとらしさが感じられないでもないが、露出度が一番高いという魅惑があり、この際、許容しなくてはならない。


私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 急いでつけくわえるが、私は七つのときに母を失ったのだ。(……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を跳び越えた。(スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)

Wolf Suschitzky 


映画のなかにはこれらの作品群と同じ感銘をうける映像に出会ったことがない。

とはいえ、かろうじてやや近似した感覚を与えてくれるイマージュがないではない。








2018年7月27日金曜日

男は女になんか興味ないよ

男は女になんか興味ないよ、母がなかったら、な。

un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. (ラカン、Conférences aux U.S.A, 1975)
男は女と寝てみることだよ、そうしたら分かる。それで充分だね。逆も一緒だ。

il suffirait qu'un homme couche avec une femme pour qu'il la connaisse voire inversement. ラカン、S24, 16 novembre 1976)

何がわかるんだろうか?

我々はフロイトの次の仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移 transfert である。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」(対象a)と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。( ミレール、1992『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』Jacques-Alain Miller、pdf)
quoad matrem(母として)、すなわち《女 la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère »(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

もう少し「穏やかに」言えば、こういうことがわかる。

女はすべての男にとってサントーム sinthome (原症状)だ。男は女にとって…サントームよりさらに悪い…男は女にとって、墓場(荒廃場 ravage)だな。une femme est un sinthome pour tout homme…l'homme est pour une femme …affliction pire qu'un sinthome… un ravage(ラカン、S23, 17 Février 1976)

わたくしは、墓地で最初の性交をしたので、女の心持がよくわかる(参照:パンセと石鹸の広告)。



⋯⋯⋯⋯

母に対してしなくちゃならない最も肝心なことは、切り離すことだよ…近親相姦だけは絶対にしないようにな

Quant à la mère … le mieux qu'on ait à en faire, c'est de se le couper … pour être sûr de ne pas commettre l'inceste(ラカン、S24,  15 mars 1977)

とはいえ1959年のラカンはこうは言っている。

(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、S7 16 Décembre 1959) 

すこし口が滑ったのである。一月後には次のように言うのだから。

他のモノAutre chose は本質的にモノである。« Autre chose » est essentiellement la Chose. (S7、27 Janvier 1960)

他のモノAutre choseとは何か? 

いやその前に次の「外密=対象a=モノ」を示す二文を掲げておく。

親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

近親相姦などやっても何の得るものもないのである。「他のモノ autre chose 」とは、外密 extimité、あるいは《無物 achose 》(S17、09 Avril 1970)に過ぎないのだから。

無物、すなわちゼロである。

現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, S23, 16 Mars 1976)

《ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。》(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』1964)

《ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換え》(柄谷行人『トランスクリティーク』2001)


無物とはブラックホールのことでもある。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ここでのブラックホールとはカオス理論におけるストレンジアトラクター(奇妙な引力)と言い換えてもよろしい。

カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」の形そのものが、ラカンの〈対象a〉の物理学的隠喩なのではなかろうか。(ジジェク『斜めから見る』1991)
ラカンが、象徴空間の内部が外部に重なり合うこと(外密 extimité )によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。…

数学におけるアトラクターを例にとろう。引力の領野内の全ての線や点は、絶え間なく、アトラクターに接近するのみで、決して実際にはその形式に到らない。この形式の存在は、純粋にヴァーチャルなものであり、線と点がアトラクターに向かう形以外の何ものでもない。しかしながら、まさにそれ自体として、そのヴァーチャルな形式が、この領野の現実界なのである。すなわち、全ての要素がそのまわりを旋回する不動の中心的な点が。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)




(Lorenz system)




ラカン派においてしばしば示されるトーラス円図は、事実、このストレンジアトラクターのありようとの近似性を示している(参照:男女間の去勢の図)。






ストレンジアトラクターの引力とは、フロイトにおいては原抑圧の引力である。ラカンにおいては穴の作用である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

穴、すなわちȺであり、その穴Ⱥのシニフィアンが、S(Ⱥ)というブラックホールの引力をもつ、--S(Ⱥ)は、《S(a)とも書きうる》とは、ブルース・フィンク1995が既に言っている。

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999ーー「ベケットとあなたを貪り喰う空虚」)

ーーより理論的な参照としては「S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」を見よ。


穴とは、享楽の空胞とも表現される。

享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)

ラカンはこの直後、《空胞の解剖学 anatomie de la vacuole》、あるいは《耳石 otolithe》と言っているが、もちろんこれは「詩」として読む必要がある。《私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.》(ラカン、AE572、17 mai 1976)




とはいえ耳石 otolitheとは、はてなんだろうか? 

なにやら白い粉粒のようなものがあり、それが剥がれて三半規管に入ると、「回転性のめまい」が生じるそうだ。





回転性のめまい、すなわち原初に喪われた対象の周りの循環運動である。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

ようするに「享楽の空胞 vacuole de la jouissance」の周りの循環運動である。これはフロイト用語では反復強迫であり、ラカンの別の表現では享楽回帰である。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…「享楽の喪失déperdition de jouissance」があるのだ。

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

この循環運動は、享楽の漂流とも表現される。死の漂流でもかまわない。

私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

しかしなぜ人はみな穴があるのであろうか?

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé( ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

ーーラカンにとって穴trouとは、troumatisme =トラウマ(S21)のことである。

ラカンは穴について実に具体的に説明している。何度も引用してきているが、臍の緒が切れたせいで、穴があるのである。これが決定的である。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Strasbourg)

ここでフロイトは、この臍(navel)を、我々の存在の核(Kern unseres Wesen)、菌糸体(mycelium)、欲動の根(Triebwurzel)、さらには真珠貝の核の砂粒 (das Sandkorn im Zentrum der Perle)等々と呼んでいることを付け加えておこう。

これらの表現とほぼ等価のラカンの「享楽の空胞 vacuole de la jouissance」とは、母子融合が分離されたことによる空胞にほかならない。

ああ、あの時代はよかった、多少狭くはあったが。



だが、不幸にも下部にある杣径から外に出なければならない宿命をわれわれはもっている。ゆえに享楽の空胞が生じるのである。その空胞は、ヴァギナデンタータ=ブラックホールとして機能する。

これはほとんどの男性諸君は御存知のことだろう。女性の方々もすくなくとも無意識的には既にご存じの筈である。




最後にわたくしが知り得たなかで最もすぐれた「フェミニスト」カーミル・パーリアの文を掲げておこう。

ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………(カーミル・パーリア『性のペルソナ』)

⋯⋯⋯⋯

わたくしは最近似たようなことばかりを繰返している気がするが、なぜだろうか? ーー享楽の空胞のせいである。

わたくしは大江のいう「魂のことをする」ーー魂のことばかりしているのである。すなわち《「中心の空洞」に向けて祈りを集中》しているのである(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)。

あるいは最近とみに、わたくしを貪り喰う空洞に戦慄と魅惑を感じているからである。

わたしを貪り喰う空虚 Incontinent the void。天頂。また夕方。夜でなければ夕方だろう。また死にかけている不死の光。一方には真っ赤な燠。もう一方には灰。勝っては負ける終わりのないゲーム。誰も気づかない。(サミュエル・ベケット『見ちがい言いちがい』

縄文時代人は、現代人よりもずっと「中心の空洞」あるいは「われわれを貪り喰う空虚」、すなわち「享楽の空胞」についてよく知っていた。





2018年7月26日木曜日

ベルトルッチと女

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

⋯⋯⋯⋯

ベルトルッチの『ルナ』(1979)は、『暗殺の森』や『ラストタンゴ・イン・パリ』や『1900年』などと同じ名カメラマン・ヴィットリオ・ストラーロ Vittorio Storaroの撮影にもかかわらず、わたくしにはそれらの作品ほど美しいシーンを見出せない。

でもひどく精神分析的に解釈されうる作品だ、むしろ図式的すぎるくらい。まず冒頭に母という「誘惑者」が現れる。

ーーベルトルッチの作品でときにドキッとするのは、羊水がひょっとしたらあんな音がするのではないかと感じられてしまう、皮膚にへばりつくようなピチャピチャとした音の使い方だ。

 


母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)

そしてこの母は、《女と猫は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る》(メリメ『カルメン』)ようにして行ったり来たりする。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)
(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能の母 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)




母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

『ルナ』の中盤から後半にかけて、次の二つの映像が現れる。




ああ、詩人として出発した愛すべき「倒錯者」ベルトルッチ。

たとえば父の詩の中に、母のことをうたったものがあって「きみは、庭の奥に咲き残った最後の白い薔薇だ、そこに蜜蜂が訪れて⋯⋯⋯」といった詩句を読んで私が庭の奥に行ってみると、そこに本当に薔薇の花が白く咲き残っていて、蜜蜂が舞っている、と、そんな世界の中に私は育ったのです。私が詩として読んでいたものと現実との間には、いつも対応関係があった。ごく自然にそうした対応があって、妙な修辞学的な装飾とか、ミスティフィケーションなどは何もなかった。

そこで、十四か五になったころ、私は、余儀なく詩人にならざるをえなくなっている状況に反発して、映画の方に進んだのです。(⋯⋯)

私にとって、詩作行為から映画への移行は大そうデリケートな問題でした。ある時期まで詩を書き続けてから映画に進んだのですが、私は、映画が詩的体験にもっとも近いものと確信していたからです。(ベルトルッチーー蓮實重彦インタヴュー1982年『光をめぐって』所収)

亜麻色の蜜蜂よ きみの針が
いかに細く鋭く命取りでも、
私はこのたおやかな籠の上に
レースの夢しか投げかけなかった。

刺せ この胸のみれいな瓢を。
愛の死に、あるいは眠るところを、
ほんの朱色の私自身が
まろく弾む肌にやってくるように!

素早い拷問が大いに必要だ。
生きのよい明確な悪は
眠れる責め苦にはるかに勝る!

この金の小さな警告が
わが感覚を照らさねば
愛は死ぬか眠り込むかだ!

ーーヴァレリー「蜜蜂」(中井久夫訳)





彼の三人の妻と母。

Adriana Asti (? - ?)
Maria Paola Maino(1967 - 1972)
Clare Peploe (1978 - 現在)
Ninetta Giovanardi 母





そしてもちろん1970年前後からドミニク・サンダ(Dominique Sanda)という「女神」がいた。



フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23、11 Mai 1976)





2018年7月25日水曜日

ドガ的美、フォンタナ的美



実に美しい写真である。砂丘的な美とともにドガ的な美をもっている。




彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。

彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」

いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳)

結局、この起源的「がま口問題」に尽きるのである。すくなくとも男としてのボクの場合(ああ、あの少女とのお医者さんごっこ!)

もちろん女たちでさえ、成長後も、おそらく自らのがま口検査をしきりにしているはずである。




ーー男の場合、こうやって検査するまでもない。目の前にあるのだから。

人はまず、ラカンの次の言明を文字通り読まねばならない。

「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969ーー「S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」)

すなわち、女について幻想するのは、男だけではない。女も同様である。この女とは他の性である。

「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である(ミレール、The Axiom of the Fantasm)


したがって女を賛美し、その本質を探ろうとするのは、男女両性にかかわるのである。

女というものは存在しない La femme n’existe pas。われわれはまさにこのことについて夢見る。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめない。(ミレール 、El Piropoベネズエラ講演、1979年)

「女はシニフィアン(表象)の水準では見いだせない」、これが人の生ーーすくなくともエロス的生ーーにおいて、なによりもの核心である。

かつまた、《女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes》(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)ということになる。

「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)

ボクはときに(?)ネット上のエロ画像を眺めることがあるが、これはどうしても捨てがたい。とくに性器の直接的な露出のないエロ画像のなかには、ほとんど芸術の領域に近づいているものがある(もちろんボクにとっては、ということである)。




ああ、フォンタナ的美! そしていかにも大江健三郎的美!

ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

もっともボクの場合、大江が書いているようにエリック・ロメール的な状況への偏愛がある。




なにはともあれこうである。

母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン「科学と真理」1965、E877)

ゆえに人は、母のファルス、女のファルスを夢想する。

フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter)  (フロイト『フェティシズム』1927年)


ああ、《スカートの内またねらふ藪蚊哉》(永井荷風)




みんなは盗み見るんだ
たしかに母は陽を浴びつつ
大睾丸を召しかかえている
……
ぼくは家中をよたよたとぶ
大蚊[ががんぼ]をひそかに好む(吉岡実「薬玉」)

ーー「蚊居肢」の起源は、荷風と吉岡のこの二つの詩にある。人は、20世紀後半の日本最高の詩人吉岡実が、ハンス・ベルメールだけではなく日活ロマンポルノの愛好者であったことを知らねばならない。

吉岡にはルーチョ・フォンタナLucio Fontanaへの愛もあった。




もし〈あなた〉に欲望があるなら、フェティシストである。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan, S10、16 janvier l963)

ラカンは男のリーベ(愛+欲望)の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女のリーベ(愛+欲望)の《被愛マニア形式 la forme érotomaniaque》(Lacan, E733)とは言っている。

だがこれは「女は存在自体がフェティシストである」と読まねばならない、なぜなら欲望の欲望のシニフィアン(想像的ファルス=フェティッシュ)として、自らを現わすのだから。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装性 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

結局、この図に「ほとんど」尽きるのである(参照:男女間の去勢の図)。





だが、肝腎なのは例外はあるのか、ということである。それを問い続けているのが「蚊居肢」散人である。

現在のラカン派は「自ら享楽する身体」を強調しているが、ここにひとつの鍵があるはずである。

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)

しかしボクの素朴なアタマでは、次のものこそ自ら享楽する身体=女性の享楽ではないか、とふと考えてしまう。




こんなことぐらい、男性諸君のほうがよりいっそう頻繁にやっているはずである。

女性たちのなかにも、ファルス的な意味においてのみ享楽する女たちがいる。このファルス享楽は、シニフィアンに、象徴界に結びつけられた、つまり去勢(ファルスの欠如)に結びつけられた享楽である。この場所におけるヒステリーの女性は、男に囚われたまま、男に同一化したままの(男へと疎外されたままの)女である。…彼女たちはこの享楽のみを手に入れる。他方、別の女たちは、他の享楽 l'Autre jouissance 、女性の享楽jouissance féminineへのアクセスを手に入れる。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

それとも女たちのアレは男の場合とぐあいが異なるのであろうか。それは永遠の謎である。



具体的にいえば、マスタベーションにおいて(ほとんどの場合)男は女をなんらかの形では幻想しているだろう。だが女の場合、男を幻想しているのだろうか。ひょとして別の女になっている場合があるのではなかろうか?

古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…

この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(ミレール、Jacques-Alain Miller「幻想の公理 The Axiom of the Fantasm」1994) 

ああ、まったく男には太刀打ちできない世界である。




ファルスとしての女は、他者の欲望 désir de l'Autre へと彼女の仮装 mascarade を提供する。女は欲望の対象の見せかけを装い fait semblant、そしてその場からファルスとして自らを差し出す。女は、自らが輝くために、このファルスという欲望の対象を体現化することを受け入れる。しかし彼女は、完全にはその場にいるわけでない。冷静な女なら、それをしっかりと確信している。すなわち、彼女は対象でないのを知っている elle sait qu'elle n'est pas l'objet。もっとも、彼女は自分が持っていないもの(ファルス)を与えることに戯れるかもしれない elle puisse jouer à donner ce qu'elle n'a pas。もし愛が介入するなら、いっそうそうである。というのは、彼女はそこで、罠にはまることを恐れずに、他者の欲望を惹き起こす存在であることを享楽しうる jouissant d'être la cause du désir de l'autre から。彼女の享楽が使い果たされないという条件のもとでだが。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

しばしば女たちは、男は女をモノ扱いすると言って批判する。アタシたちがもともているのは関係性なのに、と(フェミニストたちの常套句)。 だが女たちこそ男のまえにモノ(欲望の対象=想像的ファルス phallus imaginaire [φ]=みせかけsemblantの対象a)として現われるという「女性の仮装性mascarade féminine」の本質的習慣があるのをまず認めなければならない。問いはそこから始まる。

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](ジャック=アラン・ミレール 、Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)

ーーこのミレール の言っている見せかけsemblantとは、もちろんフェティッシュ[φ]のことでもある。そして無とは、[- φ]である。


対象aの中心には、− φ (去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、⋯他方、対象aとは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993ーー男女間の去勢の図

すなわち、《対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。》(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016、pdf)

そして、

我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexesーー「イマージュの背後の無」)

なぜ、女たちの方が無と接近しているのだろうか。それはもはやいうまでもない。フォンタナ問題にかかわるにきまっているのである。



男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。⋯⋯

女性の究極的パートナーは、ファルスの彼岸にある女性の享楽 jouissance féminine の場処としての、孤独自体である。 ( ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012ーー女性の究極的パートナーは孤独である



2018年7月24日火曜日

S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)

すこしまえに「欲動のクッションの綴じ目(S(Ⱥ)」とは、フロイトの「欲動代理 Triebrepräsentanz」概念とほぼ等価だろう」と記したが(参照:享楽の主体、欲動の主体、妄想の主体、幻想の主体)、それについて質問をもらっている。だがこれはテキトウに書いたのであり、世界中のラカン派のあいだでも誰も「直接には」そう言っていない。

だから蚊居肢ブログの架空の登場人物であるボクにできることは、いままで引用してきた資料を並べるだけだね。

まず欲動代理 Triebrepräsentanz とは表象代理 Vorstellungsrepräsentanz と等価である前提で以下の文を読もう。それがフロイトにおいて等価であるだろうことは、末尾に資料を付記。

とはいえ厳密には同じものと扱いがたいという注釈者もいる。

There can be a hesitation between Triebrepräsentanz and Triebrepräsentant, the first referring to the function of taking-the-place-of (“tenant-lieu”), the second to the taking-the-place-of itself.(The Mark, the Thing, and the Object: On What Commands Repetition in Freud and Lacan、Gertrudis Van de Vijver, Ariane Bazan and Sandrine Detandt、2017)

そもそもフロイトの「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」概念の解釈は、精神分析において長年の紛糾の種。それについては、Cahiersの「La représentation」の項にいくらか詳しい記述がある。


【表象代理】

世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。Avant que le monde devienne représentation, son représentant, j'entends le représentant de la représentation - émerge. (ラカン, S13, 27 Avril 1966)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
・私は…(フロイトの)「 Vorstellungsrepräsentanz」を「表象代理 représentant de la représentation」と翻訳する。

・「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」とは、…「表象の仮置場 tenant-lieu de la représentationである。

・表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、(S1と)対 couple のシニフィアンS2(le signifiant S2)である。Vorstellungsrepräsentanz qui est le signifiant S2 du couple.

・表象代理は二項シニフィアンである。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. この表象代理は、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、セミネール11、1964)

以上より、ラカンは表象代理を原抑圧という引力にかかわるものとしているのが分かる(これはフロイトの記述に則っている)。そして〈女というもの La Femme〉にかかわることも。

引力と斥力については、「なんでもおまんこ」派の蚊居肢散人が「御牝孔・御曼孔をめぐって」において、いくらかくわしく記述している。


次にS(Ⱥ)をめぐる。

【S(Ⱥ)】

S(Ⱥ) は、それに対して他のシニフィアンが主体を代理(代表)するところのシニフィアンである。S(Ⱥ)がなければ、他のシニフィアンは何も代理しない。

S (Ⱥ) …Ce signifiant sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c'est dire que faute de ce signifiant, tous les autres ne représenteraient rien. (ラカン「主体のくつがえし」E819、1960)
 S(Ⱥ)は、何よりもまず、「一つのシニフィアンが、他のシニフィアンに対して主体を代理する un signifiant est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant」(E819)ーーこの命題の帰結 conséquence de la propositionである。…

すべての他の諸シニフィアンではなく、このシニフィアンの存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré を支配する maîtrisez。(ミレール2007, Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller)

S (Ⱥ)とは穴Ⱥを穴埋めするシニフィアンである(いや、シニフィアンというのは実は語弊がある、「不可能な」シニフィアンである)。

そしてȺとは、 《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)という意味である。大他者は通常の意味(参照:大他者なき大他者)以外に、身体 corpsという意味がある[参照]、《大他者は身体である l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! 》(S14)

Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


ラカン自身の発言に戻ろう。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )
穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、S23、16 Mars 1976)

ラカン派では穴をトラウマ(構造的トラウマ)と呼び、穴埋めを妄想と呼ぶことが多い(あるいは倒錯)。ゆえに「人はみな妄想する」であり、かつまた 《「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé》( ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)

より穏やかに言えば、われわれの言説(=社会的つながり)は現実界に対する防衛だということである。

ラカンの《人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant》とは、「我々はみな精神病的だ」を意味しない。そうではなく《我々の言説(社会的つながり)はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 》(Miller, J.-A., « Clinique ironique », 1993)ということを意味する。( LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert 、2018)


次にS(Ⱥ)と固着をめぐる。

【S(Ⱥ)=固着 Fixierung=サントーム(原症状)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)
S(Ⱥ)、すなわち、斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne である。(同ミレール、6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN)
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽 」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours, L'être et l'un)

こういった注釈の流れのなかで次の言明がある。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions (ミレール Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

そして《原抑圧とは固着と捉えなければならない》(ポール・バーハウ、2001)。フロイト自身の固着をめぐる記述は、「人はみな穴埋めする」を見よ。

固着の核心は、《固着とは、心的なものの領野の外部に置かれる》ことである。

我々の見解では、境界シニフィアンの手段による「原防衛」は、フロイトが後年、「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは、先ずなによりも「原固着」として現れるものである。原固着、すなわち何かが固着される。固着とは、心的なものの領野の外部に置かれるということである。…こうして原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

ーー原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残す」、したがって「ひとりの女は暗闇のなかに異者として蔓延る」。

2018年のラカン主流派の議題は、これにかかわる。

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018、pdf)

一般化排除の穴 trou de la forclusion généraliséeとは何か。《「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de La/ femme》による穴である。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018

⋯⋯⋯⋯

次にジジェクによる「表象代理」注釈をふたつ掲げる。

【喪われている女性の主人のシニフィアン feminine Master‐Signifier】
フロイト概念の核心、Vorstellungs-Reprasentanze(表象-代理)は、不可能な・排除された表象の象徴的代理(あるいはむしろ代役 stand-in for)である。(ジジェク、幻想の感染 THE PLAGUE OF FANTASIES、1997)
想い起こそう。ラカンが「Vorstellungs‐Repräsentanz 表象-代理」を、喪われている二項シニフィアンとして定義したことを。この喪われている二項シニフィアン binary signifier とは、「ファルスの主人のシニフィアン phallic Master‐Signifier」の対応物でありうる「女性の主人のシニフィアン feminine Master‐Signifier」であり、二つの性の相補性を支え、どちらの性もそれ自身の場ーー陰陽、等のように--置くものである。

ここで、ラカンはラディカルなヘーゲリアンである(疑いもなく、彼自身は気づいていないが)。すなわち、「一」がそれ自身と一致しないから、「多」multiplicity がある。

今われわれは、「原初に抑圧されたもの」(原抑圧)は二項シニフィアン binary signifier (表象代理 Vorstellungs‐Repräsentanz のシニフィアン)であるというラカンの命題の正確な意味が分かる。

象徴秩序が排除しているものは、陰陽、あるいはどんな他の二つの釣り合いのとれた「根本的原理」としての、主人の諸シニフィアン Master‐Signifiers、S1‐S2 のカップルの十全な調和ある現前である。《性関係はない》という事実が意味するのは、二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されているということである。そして、この抑圧の場に我々が得るもの、その裂目を埋めるものは、多様なmultiple「抑圧されたものの回帰」、一連の「ふつうの」諸シニフィアンである。

(…)この理由で、標準的な脱構築主義者の批判ーーそれによれば、ラカンの性別化の理論は「二項論理」binary logic と擦り合うーーとは、完全に要点を取り逃している。ラカンの「女というものは存在しない la Femme n'existe pas 」が目指すのは、まさに「二項」の軸、Masculine と Feminine のカップルを掘り崩すことである。原初の分裂は、「一」l'Un と「他」l'Autre とのあいだにあるのではない。そうではなく、厳密に「一」固有のものである。「一」とその刻印の「空虚の場」とのあいだの分裂(分割)として、「一」固有のものなのである(これが我々がカフカの有名な言明、「メシアは、ある日、あまりにも遅れてやって来る」を読むべき方法だ)。

これはまた、「一」に固有の分裂/多様性の暴発とのあいだの繋がりを、人はいかに捉えるべきかについての方法である。「多」multiple は、原初の存在論的事実ではない。「多」の超越論的起源は、二項シニフィアンの欠如にある。すなわち、「多」は、喪われている二項シニフィアンの裂け目を埋め合わせる一連の試みとして出現する。したがって、S1 と S2 とのあいだの差異は、同じ領野内部の二つの対立する軸の差異ではない。そうではなく、この同じ領野内部での裂け目であり(その水準での裂け目において、変化をふくむ作用 process が発生する)、「一」の用語固有のものである。すなわち、原初のカップルは、二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなく、シニフィアンとそのレディプリカティオ reduplicatio、シニフィアンとその刻印 inscription の場、「一」と「ゼロ」とのあいだのカップルである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳)

ここでジジェクは、《二番目のシニフィアン(女のシニフィアン)が「原抑圧」されている》と記していることにより、S(Ⱥ)をめぐっているとボクは捉える。すなわち表象代理Vorstellungsrepräsentanz=S(Ⱥ)として。ボクにとっては、この記述に出会ってから四年ほどかかって、たぶんそうだろうな、つまりS(Ⱥ)とは欲動代理のことだな、とようやく朧げながら考えるようになっている。

最後にフロイトにおける表象代理と欲動代理の記述。


【表象代理 Vorstellungsrepräsentanz】
われわれは意識的表象と無意識的表象 Vorstellungenとがあるだろうといったが、無意識的な欲動興奮 Triebregungen、感情、感覚といったものもあるだろうか? あるいはこの場合には、このような複合語を形成するのは無意味なのであろうか?

私はじっさい、意識的と無意識的という対立は、欲動には適用されないと考える。欲動は、意識の対象とはなりえない。ただ欲動を代理している表象 Vorstellung, die ihn repräsentiert だけが、意識の対象となりうるのである。けれども欲動は、無意識的なもののなかでも、表象によって代理されるしかない。欲動が表象 Vorstellung に付着するか、あるいは一つの情動状態 Affektzustand としてあらわれるかしなければ、欲動についてはなにも知ることができないであろう。

われわれが無意識的な欲動興奮とか、抑圧された欲動興奮について語るとしても、それは無邪気で粗雑な表現ということになる。われわれはそのさい、その表象代理 Vorstellungsrepräsentanz が無意識的であるような欲動興奮を考えているに過ぎない。(フロイト『無意識』1915年)


【欲動代理 Triebrepräsentanz】
……われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。すなわち、その代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束 binden される。(……)

抑圧の第二段階、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代理 verdrängten Repräsentanz の心的派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代理と連合的に結びついてしまうような関係にある思考の連鎖に関連している。

こういう関係からこの表象 Vorstellungen は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、抑圧すべきものに対して意識的なものが及ぼす反発だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと連結する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。

われわれは、抑圧の重要な働きをしめす精神神経症の研究に影響されて、その心理学的な内容を過大評価する傾向がある。そして抑圧は、欲動代理 Triebrepräsentanz が無意識の中に存続し、さらに組織化され、派生物を生み、結びつきを固くすることを妨げないのだという点を忘れやすい。実際、抑圧はひとつの心理的体系、つまりシステム意識への関連しか妨げない。

精神分析は、精神神経症における抑圧の働きを理解するのに重要な、別のものをわれわれにしめすことができる。たとえば欲動代理 Triebrepräsentanz が抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展することなどである。

それはいわば暗闇の中にはびこり、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって身に覚えのないものに思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという見かけによって患者をおびやかすのである。

人をあざむくこの欲動の強さTriebstärkeは、空想の中で制止されずに発展した結果であり、たびかさねて満足が拒絶された結果である。この後者の結果が抑圧と結びついていることは、われわれが抑圧の本来の意味をどこに求めるべきかを暗示している。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

この文において、欲動代理が固着とほぼ等価であるのは明らかであろう。とすればサントーム=S(Ⱥ)=固着=欲動代理である。なぜラカン派の誰もがーーわたくしの知る限りだがーーこれを「ダイレクトには」言わないのかが逆に不思議である。

この二論文と同時期に書かれた『欲動および欲動の運命』には次のようにある。

《欲動 Trieb》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenzbegriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代理 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)

欲動とは《境界概念 Grenzbegriff》とある。これは初期フロイト概念《境界表象 Grenzvorstellung》とひどく近似している(ポール・バーハウ1999における指摘)。

当時のフロイトには原抑圧概念はない。以下の文にあらわれる「抑圧」とは「原抑圧」と捉えなければならない)。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(フロイト, フリース書簡、I January 1896,Draft K)

たとえば次の文の抑圧も「原抑圧」である。

本源的に抑圧(追放)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)

結局、現代ラカン派とは、この『夢判断』以前に言われたフロイトの核心的言明のまわりをいまだ廻っているのである。 それが2018年主流ラカン派の議題の「一般化排除の穴 trou de la forclusion généralisée」である。

以上よりーー引用記述が長くなってしまったのでやや飛躍して言うがーー、 S(Ⱥ)は、欲動代理 Triebrepräsentanz と捉える。そしてS(Ⱥ) も欲動代理も穴Ⱥ の境界表象Grenzvorstellung である、と考える。

⋯⋯⋯⋯

欲動代理をめぐる、上に掲げたジジェクの決定的な記述以外に、RICHARD BOOTHBYの次の記述もボクにとって決定的である(BOOTHBYのこの書は、ジジェク2012が敬意をもって引用している箇所がある、以下の部分とは異なるが)。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)


※追記

サントームΣ = S(Ⱥ)(原症状)でありつつ(参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)、S(Ⱥ)=「文字対象a[la lettre p)etit a]」(S23、11 Mai 1976)でもある(参照:「欲望は大他者の欲望」の彼岸)。


骨に徹えるほどの匂

前投稿をしたせいで、ノスタルジックに1960年代風の写真ーー実際はいつのものか知らないけどーーを見てしまったな。








どっちの写真もボクには胸キュンだね。

ロマン主義的な追憶の描写における最大の成功は、かつての幸福を呼び起こすことではなく、きたるべき幸福がいまだ失われていなかった頃、希望がまだ挫折していなかった頃の追想を描くことにある。かつての幸福を思い出し、嘆く時ほどつらいものはない――だがそれが、追憶の悲劇という古典主義的な伝統である。ロマン主義的な追憶とは、たいていが不在の追憶、一度たりと存在していなかったものの追憶である。(ローゼン「シューマン論」)


次の三枚の写真は、Michael Rougierが1960年代に撮ったのが分かっている。









次の写真は、どこで拾ったのかも忘れたけれど、ーーたぶん靴の上質さから60年代というよりも70年代以降、それも日本の女性かどうかもわからないけどーー、とっても好きな写真だ。ボクにとってはMichael Rougierの一番目に掲げた写真とセットになっている。





四年前の投稿、「マルク・リブー 1958 JAPAN」なんてのも見ちゃったな、すっかり忘れていたけど、とってもよい写真群だ。





ああ、それにこの写真(沢渡朔×TAO)。



すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。(夏目漱石『夢十夜』)

閑話休題。





2018年7月23日月曜日

あんた、あたしのオシッコするとこみてよ

人格

前橋での朔太郎忌で対談することになって、萩原朔太郎について考えているうちに、〈詩人格〉と〈俗人格〉という言葉を思いついた。一人の人間の人格が、分裂しているわけではなくて混ざり合っているイメージ。朔太郎は詩人格99%、俗人格1%の男だったと思う。

俗人と言っても軽蔑して言っているわけではない。普通の生活者のことを、詩人と対照的に俗人と言っているだけ。今どきの詩人はほとんどが教師とかフリーライターとかの正業で生活している。中には詩人格5%、俗人格95%の人だっているかもしれない。

自分のことを言うと、詩を書き始めたころは現実の暮らしをどうするかが大変だったから、詩人格が低かった。今は暮らしに余裕があるし、詩を書くのが楽しくなってきてるから、詩人格と俗人格が半々くらいかなあと言ったら、対談相手の三浦雅士さんが何故かゲラゲラ笑い出した。 (俊)

なんだかいい話だ。現在は詩人だけじゃなく、作家も芸術家も「俗人格比率」が高くなってしまって、ボクはときにバカにすることがあるけど、すこし慎まないとな。でもやっぱり一方では「時代錯誤的」に考えないといけない、という主義は変わらないな。

時代錯誤的に考えるとは、ニーチェの「反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung」のことだ。これは「流行遅れの考察」でもあり「非アクチュアルな考察」でもある。

能動的に思考すること、それは、「非アクチュアルな仕方で inactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)

目隠しと耳栓はやめないとな、いくら俗人の世紀だって。

世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

とはいえ、1968年と1989年の二段階攻撃が大きいね。すっかり市場原理・功利主義の時代になってしまった。

そして1995年前後からの携帯電話とインターネットの普及の影響も大きい。これで若い世代の「人格」が変わっちまった。たとえば携帯で、恋愛の仕方が変わったのだろうし、ネットのエロ画像・エロ動画の氾濫で「男女関係」の価値下落もある。

精神分析は変貌している。…

電子ネットワークによるポルノグラフィの世界的蔓延は、精神分析において、疑いもなく厳然とした影響を生み出している。今世紀の始まりにおけるポルノグラフィの遍在は、何を表しているのか? どう言ったらいいのだろう? そう、それは「性関係はない」以外の何ものでもない。これが我々の世紀に谺していることだ。そしてある意味で、ひっきりなしの、絶え間なく続くあのスペクタクルの聖歌隊によって、詠唱されていることだ。というのは、性関係の不在のみが、この熱狂に帰されうるから。我々は既に、この熱狂の帰結を、より若い世代の性的振る舞いのスタイルなかに辿りつつある。すなわち、幻滅・残忍・陳腐。ポルノグラフィにおける性交の怒濤は、意味のゼロ度に到っている。…(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)

ところで谷川俊太郎は、1931年生れ、今年87才か。

ボクの母は1932-1982。グレン・グールドと一緒。二人ともまだ生きててもおかしくないんだ。

谷川以外にも、

中井久夫 1934
大江健三郎 1935
蓮實重彦 1936
古井由吉 1937

それぞれ母の言葉、母の時代の言葉を読むことがある作家だ。蓮實は直接的には『反=日本語論』だけだけど。

1968年

〈ぽえむ・ぱろうる〉の蔵出しで現代詩手帖の1968年7月号を買った。〈詩に何ができるか〉というぼくも出席した公開討論会の記録が特集されている。まだ詩人たちの元気がよかった時代。たとえば富岡多恵子の詩の口調は‥…

「とりあえず/なにをするべきかと思ってみるに/まあゆっくりオシッコでもして/それから靴下をベッドの下からひっぱり出す/あんた/あたしのオシッコするとこみてよ/ぼんやりしないで/ついでにあたしの足を洗ってよ」と200行ほど続く。

討論会でのぼくの発言にはすぐにヤジが飛んだ。今じゃ何か質問はありませんかと言っても、なかなか聴衆から手が挙がらない。簡単に比較することは出来ないが、時代の空気はあきらかに変わってきている、のは当たり前か、もう半世紀近い昔の話だもんね。でもぼくには古い現代詩手帖が、かえって今の号より新鮮に思える。 (俊)

富岡多恵子も1935年生れだ。


きみの肩が
骨をむきだしにしてうたいだし
さかりのついた猫が
ここかしこに
きみと声をあわせて啼いて
あたいを狂気じみておどかすんだ

ーー富岡多恵子「草でつくられた狗」


最後に1919年生れの吉岡実の〈私の好きなもの〉を掲げる。

ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ているとき。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉一九六八年七月三一日)

白石かずこは、1931年生れ。

日常のことばで書いてほしいね、とくに女性詩人たちにはそう願うな、


この許せないもの

正直いって
おれは あれが好きじゃない
全く うそだといってもいい
おれ はあれとかかわりたくない
そのような あれが
あんなに 正装して ぼくの玄関へ
ノートへ 土足で はいってくる
〈失礼な〉
といいたいのに
おれ の椅子にすでにすわって
おれ のパイプで
おれ の言葉を吸いはじめているではないか

その上
おれ の女をもうくどきはじめている
また  彼女は だらしなく
パンティなどをぬぐ
すると おれなどは汚れて
くずかごに捨てられる

正直いって おれはあれが好きじゃない
ようやく
くずかごから這いでる と あれは
退散したようだ
が 彼女は
彼女ときたら
おれ のパイプにとまったあれの言葉と
おれ の言葉に交互にキスしながら
ゆっくり
なにか なんでもないといった風に
ふかしてしまっているのだ

――白石かずこ『もうこれ以上おそくやってきてはいけない』所収


2018年7月22日日曜日

排除・抑圧・否定・否認

ああ、「「分裂病+自閉症」/精神病(パラノイア)」で貼り付けた次の図の「想像的ファルスとの同一化」は、倒錯だってそうだよ、記述は抜けてるけどね。




最も「常識的」だから抜かしたんじゃないだろうか、この表の作成者は。

そもそも倒錯の定義がこうなんだから。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)

で、精神病と倒錯の相違は、父の法の排除か、父の法の否認の相違。

排除と否認の差は、「防衛の一種としての抑圧」にいくらか詳しく記述したけれど、いまはジジェクの簡潔版のみ再掲。

フロイトには、“Ver‐”の四つの主要形式、四つの版がある。

・Verwerfung (排除・拒絶)
・Verdrängung (抑圧・放逐)
   --原抑圧 Ur‐Verdrängungと後期抑圧 Nach-Verdrängung
・Verneinung 否定
・Verleugnung 否認
Verwerfung(排除 ・拒絶)においては、内容が象徴化から放り出され脱象徴化される。したがって内容は現実界のなかにのみ回帰しうる(幻覚の装いにて)。

Verdrängung(抑圧・放逐)においては、内容は象徴界内に残っている。だが意識へのアクセスは不可能であり、〈他の光景〉へと追いやられ、症状の装いにて回帰する。

Verneinung(否定・前言翻し)においては、内容は意識のなかへ認められている。だが、前言翻し(Verneinung)によって徴づけられている。

Verleugnung(否認)においては、内容は能動的形式で認められている。だがIsolierung(分離・隔離)という条件の下である。すなわち、象徴的影響は宙吊りになっており、主体の象徴的世界のなかへは本当には統合されていない。
シニフィアン「母」を例に取ろう。

「母」が排除・拒絶(Vẻwerfung)される場合、主体の象徴的世界には、「母のシニフィアン」の場はまったくない。

「母」が抑圧・放逐(Verdrängung)される場合、主体は隠蔽された症状の参照項を形成する。

「母」が否定(Verneinung)される場合、よく知られた形式、「夢の中のこの人物は誰かとおっしゃいますが、母ではありません Sie fragen, wer diese Person im Traum sein kann. Die Mutter ist es nicht」を得る。

「母」が否認(Verleugnung)される場合、主体は穏やかに母について話して全てを認める、「ええ、もちろんそうです、この女は私の母です」。だが主体はこの承認の効果よる影響を受けないままである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)


で、ボクは倒錯者だよ→「オレは完全な倒錯だよ


さらに参照→

1、「倒錯の三つの特徴
2、「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)


そもそもバルトが、こう言ってるけどさ、

読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。

そして、読書の神経症とテクストの幻覚的形式とを結びつけるだろう。

フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。

強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。

パラノイア(精神病)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。

(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなある批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

これはなにも読書だけの話ではなく、たとえばラカン注釈者たちだって似たようなもんさ、神経症の注釈者ってのが最悪だね、ボクにいわせれば。

あいつらは善人だからな、だからいつも鼻を抓むことにしてんのさ。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』)

ま、おだやかにいえば、それぞれの症状で、世界は違った風に見えているはずだよ、ラカン注釈者たちってのは、本来ーーたとえばその注釈本の前段にーー、ボクは神経症者です、倒錯者です、精神病です、と宣言すべきじゃないんだろうか? この症状だからお気を付けを、とね。ラカンの最も基本的なテーゼは、「症状のない主体はない」だからな。


⋯⋯⋯⋯

実に最悪だね、日本的共同体におけるあれら神経症的ラカン注釈者たちは。

・神経症は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、セミネール10)

2018年7月21日土曜日

書いた私と書かれた私



言葉に愛想を尽かして と
こういうことも言葉で書くしかなくて
紙の上に並んだ文字を見ている
からだが身じろぎする と
次の行を続けるがそれが真実かどうか

これを読んでいるのは書いた私だ
いや書かれた私と書くべきか
私は私という代名詞にしか宿っていない
のではないかと不安になるが
脈拍は取りあえず正常だ

朝の光に棚の埃が浮いて見える
私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて
それが生身のあなたであることに驚く
一日を始める前に言葉は詩に向かったが
それは魂のささやかな楽しみの一部だ


ーー谷川俊太郎『詩に就いて』所収(2015年)



とってもいい詩だ。啓蒙的な、ね。ほんとは3連目が肝心なんだろうけど、ここでは2連目までに絞る。

そして20世紀後半の「現代思想」における「言表行為の主体 sujet de l'enonciation」と「言表内容の主体 sujet de l'énoncé」 とのあいだの常なる裂け目のたぐいのことは言わないで、もっと古典にさかのぼろう。

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」)
一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。

しかし他方でまた、われわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「意志するということ Willens」に関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第19番)


で、ちょっとだけラカン。

主人の言説 le discours du Maîtreは主体の支配 prédominance du sujet とともに始まる。なぜなら、主人の言説は…それ自身のシニフィアン自体に同一化すること (d'être identique à son propre signifiant. [ $ ≡ S1 ] )によってのみ支えられる傾向があるから。(ラカン、S17, 18 Février 1970 )

$ ≡ S1とあるけど、$は言語によって身体と分割された主体。そしてS1(主人のシニフィアン)の最も典型的なものは、一人称単数代名詞「私」(S1, le « Je » du Maître.[S17])。

ここで谷川俊太郎が、《私は私という代名詞にしか宿っていない/のではないかと不安になるが/脈拍は取りあえず正常だ》と言っているのを思い出しておこう。そしてラカン曰く、《「私」=S1 という主人シニフィアンは、我々に「私は私自身の主人だ」と思い込ませてくれる“maître/m'être à moi-même”》(S17)

私は支配者 (m'etre)だ、私は支配 (m'etrise)の道のりを歩む、私は自己 (moi)の支配者(m'etre)だ、…これが S1 に支配されたマヌケ con-vaincu のことである(ラカン、S20、13 Février 1973)

でも安心したらいいさ、

私は相対的にはタワケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にタワケだな。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな。(ラカン、S.24,17 Mai 1977)

ただ21世紀という「知的退行の世紀」(中井久夫)では、自覚症状がまったくない連中ばかりになっちまったからな、ネットに書き込む習慣がうまれた影響大だね、たとえばマガオで日々の出来事を「真摯に」公開して、一人称代名詞=主体だと思い込んでるのがモロわかりの記述してる「相対的には教育のありそうな」連中が跳梁跋扈してんだから。それだけはやめとかないとな。フィクションにすぎないよ、すべては。すくなくとも言表内容ではなく言表行為の主体でしかない。そもそも 《この「私」に何の価値があるのでしょう?  》(フローベール

私は、「私」という語を口にするたびにイマジネールなもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理』)
「自己Self」とは、主体性の実体的中核のフェティッシュ化された錯覚であり、実際は何もない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

で、ボードレールのいう《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》ユーモアが是非とも必要だね、自分を笑いとばすチカラがね、この世紀にはことさら。

われわれは時々、自分自身から逃れて息ぬきをしなければならない、――自分というものを見下ろし、芸術的な距離をおいて遠くから、自分の姿について笑ったり泣いたりすることによって、われわれは、認識の情熱のうちに姿をひそめている主役と同時に道化をあばかねばならない。自分の知恵に対するたのしみを持ちつづけられるように、自分の愚かさを時々槍玉にあげて楽しまねばならぬのだ!

そして、われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子ほど、われわれに役立つものはない。(ニーチェ『悦ばしき知』107番 )

ーー《日記というものは嘘を書くものね。私なんぞ気分次第でお天気まで変えて書きます。》(円地文子

アッタリマエだろ?






2018年7月20日金曜日

古代彫刻の美











いやあじつにスバラシイ。わたくしはキクラデス諸島の彫刻への偏愛の身ではあるが、わが縄文ヴィーナスも、その至高の美を世界にもっと知らせるために、誰かがぜひ同じように作るべきである。





蚊居肢ブログの架空の登場人物であるボクは、わが愛すべきジャコメッティも、古代エジプト彫刻等だけではなく、わが縄文ヴィーナスの研究をしたら、よりいっそうの美が生まれたのではないかとムソウすることがある。




収集家としての蚊居肢散人は、季節によって書斎の飾り棚に置く作品を変えるようにしているのだが、不動の地位を占めるのは、キクラデスヘッドと縄文ヴィーナスである。






2018年7月19日木曜日

日常的なところにある「美」


(Karel Nepraš, Sedící 1999)

いい作品だな、デュシャンの「泉」のようでもあり、ジャコメッティのいくつかの作品のようでもあり。



いやあ、スバラシイ・・・



見る目をかえれば、日常的なところに「美」があることを教えてくれる。

というわけで、ボクのまず思いつく限りでの「日常的なところにある美」を探してみた。

「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』1905年)



残念なことに、精神分析もまた、美については、他の学問にもまして発言権がない。ただ一つ確実だと思われるのは、美は性感覚の領域に由来しているにちがいないということだけである。おそらく美は、目的めがけて直接つき進むことを妨げられた衝動の典型的な例なのであろう。「美」とか「魅力」とかは、もともと、性愛の対象が持つ性質なのだ。(フロイト『文化への不満』1930年)



すべての美は生殖を刺激する、――これこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質propriumである。(ニーチェ『偶像の黄昏』)