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2016年7月31日日曜日

何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)

ミレール? 天才だよ、シニカルで完璧に学者ぶった天才だ(ジジェク)」に引き続いて、ジジェクのジャック=アラン・ミレール罵倒文をまた見出したので(2016年の小論)、ここにいくらかメモをする。

今回は、Presentation of the Theme of the IXthCongress of the WAP by Jacques-Alain Miller(2012)にかかわる(このミレールの叙述からとても長々と引用しているが、その箇所は割愛)。

批判の核心は、ラカン自身のThe real without lawという言明に依拠したミレールの解釈にかかわり、かつ以前と同様に「資本主義」にかかわる。ラカン主流派によるーージジェクからみたらーー反動的な資本主義解釈への流れには耐え難いのだろう。


◆ジジェク、2016(Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge)より(リンク切れ、次を見よ、→Slavoj Žižek: Am I a Philosopher?

…象徴界の外部の「純粋な」現実界 the “pure” Real、象徴界によっていまだ汚染されていない或る現実界 a Real に向けてのミレールの探求。彼はその現実界をラカンに属するものだと考えている。だがそんな探求は、ドゥルーズ的袋小路 blind alley に到るものとして、捨て去らなければならない。

ミレールは、まさにドゥルーズ的なやり方で(『アンチ・オイディプス』からの定式を文字通り反復して)、フロイトの無意識の「地下 beneath」の「本当の」プレエディプス的無意識について話している。あたかも、我々は最初に「純粋な」プレエディプス的欲動の動き、そしてラカンのララングによって洗礼を受けた徴示的 signifying 物質と享楽の直かの浸透があるかのように。

そして、(もし一時的でなかったら、論理的な)後の時間においてのみ、この流動 flux は、象徴的苦心作 elucubrations によって「任命され ordained」、二項論理・父の法・去勢の象徴的拘束服をまとうことを余儀なくされると(その象徴的拘束服とは、男性と女性という二つの性のアイデンティティの標準的構造としての性差を支えるものだ)。

ミレールによれば、ラカンの「性別化の式」でさえ、法の外部にある「純粋な」現実界を混乱させる象徴的苦心作のカテゴリーに落ちる。

(ミレール曰く)現代、事態は変化しており、我々は、《21世紀のリアル the real において、ますます増大する性別化の混乱を観察する》。そして、セクシャリティの新しい形が出現している。それは《あたかも生きとし生けるものをひどく手際よく分割させてしまうかのようで、男-女の二項》を掘り崩す…

この論拠の流れは、厳密なラカン派の立場からは、何かが途轍もなく間違っている terribly wrong。

ミレールは、「自然」としての現実界ーー自然の統整的リズムとその法--から直に純粋な無法の現実界へと移行する。ここで失われているものは、ラカンの現実界自体である。現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である ( “Le reel est un impasse de formalization,” とラカンがセミネール XX で言っているように)。現実界とは象徴界の固有の不可能性であり、象徴界を内部から妨害/歪曲する純粋に形式的障害物である。象徴界の核に刻み込まれている敵対性 antagonism 、象徴界の自己限界、それが現実界 the Real である。

この袋小路は、外部のリアル an external real によって引き起こされるのではない。ミレールが、ラカンの性別化の式をリアル the real における苦心作とみなしているようなものではない。(だが)彼は性差の象徴的解釈はそのような苦心作としている。(性)差異自体の現実界 the Real ではなく、である。性差とは、二項的/差延(ズレ)的なものではない。性差とは、二項の象徴的差異が、それを象徴的対立に翻訳する方法によって「正常化」を試みようとする敵対性である。

(そして、厳密に相同的な形で、階級の敵対性は、社会生活の無法のリアルにおける象徴的苦心作ではない。そうではなく、イデオロギー-政治的な形式化によって混乱させられた敵対性の名である。ミレールは、資本主義を法の外部の現実界(去勢の外部)と等価とするとき、資本主義をそれ自体のイデオロギーにおいて取り扱っている。ミレールは、ラカンが資本家の倒錯によってヴェールされた敵対性をはっきりと観察したことを無視している。象徴的法の外部にある資本家の現実界としての現代の社会のヴィジョンは、敵対性の否認であり、原事実 primary fact ではない。)欠如と剰余、それは同じく袋小路の二つの顔である。

…………


セミネール23(3 Avril 1976)で、ある質問者の問いに答えて、ラカンは次のように言っている(この質問者はひょっとしてミレール自身かもしれない・・・)。

Question V

« Je m'attends toujours à ce que vous jouiez sur les équivoques. Vous avez dit : Y a d'l'Un, vous nous parlez du Réel comme impossible. Vous n'appuyez pas sur Un-possible. À propos de JOYCE vous parlez de paroles imposées… Vous n'appuyez pas sur le Nom-du Père, comme Un-posé. »
LACAN

Ça, c'est une chose qui est signée.

Qui est-ce qui s'attend toujours à ce que je joue sur les équivoques saintes ? Je ne tiens pas spécialement aux équivoques saintes. Je crois que… il me semble que je les démystifie.

Yad'lun. Il est certain que cet Un m'embarrasse fort. Je ne sais qu'en faire, puisque, comme chacun sait, l'Un n'est pas un nombre. Et même que, à l'occasion, je le souligne.

Je parle du Réel comme impossible dans la mesure où je crois justement, que le Réel… enfin, je crois… si c'est mon symptôme, dites-le moi …où je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.

Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre. Et c'est ce que je veux dire, en disant que la seule chose que - peut-être - j'arriverai un jour à articuler devant vous, c'est quelque chose qui concerne ce que j'ai appelé un bout de Réel.

ここには、

・le Réel sans loi.(法のない現実界)

・Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre(本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない)

・un bout de Réel(ちょっとした現実界)

ーーなどという表現がたしかに現われている。

ミレールの観点は、ラカンはセミネール20以降、転回したという発想のもとにある。

ミレールは 2000-2001 年のセミネールにおいて、ラカンの教えを三つの時期に分けた。ラカンの体系の区分は研究者によって異なるが、ミレールは前期をセミネール 1 から 10までの時期(1953-1963)、中期をセミネール 11 から 21 までの時期(1964-1974)、後期を「第三の女」とセミネール 22 から 27 までの時期(1974-1980)とした。そして、翌年のセミネールにおいて、 それぞれの時期に対応するものとして、 「ラカンの三つの臨床」を提示している。ラカン第一臨床は「同一化の臨床」、ラカン第二臨床は「幻想の臨床」、ラカン第三臨床は「サントームの臨床」とされている。(赤坂和哉『ラカン的臨床への助走』)

…………

さてどうしたものかーー。

一般に哲学的ラカン派(あるいは政治的ラカン派)は、「現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である」 ( “Le reel est un impasse de formalization,”、S.20)の立場を取るし、臨床的ラカン派は、「法のない現実界」(‟le Réel sans loi”.、S,23)を探し求めるとでもしておこうか・・・

たとえば、次の文は臨床的ラカン派ヴェルハーゲが哲学的ラカン派を批判している文章として読める。

セミネールXVIIでは、享楽の喪失を引き起こすシニフィアンの導入がある。それは一見、ラカンの以前の立場の転倒にようにみえる。が、私の読解では、そうではない。シニフィアンによって引き起こされたこの喪失は、性的生の導入によって引き起こされた喪失の上に重なるものだ。それは、この原初の喪失の別の反復 iteration だけではなく、この喪失への応答を練りあげる試みである。

この応答の試みは、構造的な理由で、失敗せざるをえない。それゆえ、必然的に「もっとencore」、ーーフロイトの反復強迫である。他の場所で(“BEYOND GENDER. From subject to drive ”2002)、私はこれを、絶えまないしかしつねに失敗する循環運動として叙述した。それは、原初の原因が原初の喪失(永遠の生の喪失)であるというはずみ車 flywheel の動きなのであり、原初の喪失は継続して不可能な関係を反復する。それはそのたびごとに異なったレヴェル(有機体-身体、身体的イマーゴ-自我、自我-主体、男-女)での反復である。その上、この喪失はたんに一つの喪失ではない。シニフィアンの導入は喪失とならんで獲得をもたらす。それはさらに別の多義的な表現 plus-de-jouir によって完全に表現されている。

ラカンはこの剰余享楽 plus-de-jouir をマルクスの「剰余価値」概念と結びつける。剰余価値の獲得は、喪失のために必然的に生じる反復と密接な関係がある。これは既に、いかに曖昧な獲得かということを示している。どこかほかの場所、原初の享楽とは異なった場所にある享楽だからだ。マルクスと比較するのは、偶然の一致ではない。というのは、この「どこかほかの場所」は、文化と産業の生産物にかかわるからだ。それは我々に(常に)一時的で部分的な満足のみを供給する。

生産物として、それらは享楽の喪失の効果であり、かつこの喪失への応答である。この意味で、それらは剰余享楽 plus-de-jouir として我々に与えられる。ラカンはこれに「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」という名を与えている。このように、ラカンはマルクス概念「剰余価値」にきわめて接近している。それは使用されなければならないだけでなく、浪費さえされなければならない。(Enjoyment and Impossibility: Lacan's Revision of the Oedipus Complex,2006ーー「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)」)

今、引用して気が付いたが、「享楽の欠片 les lichettes de la jouissance」(S.17)と「ちょっとした現実界 un bout de Réel」(S.23)とどう違うのだろう・・・

哲学的ラカン派/臨床的ラカン派の相違とは合理論/経験論の相違である・・・(とはいえ、ミレールはかつては形式化(合理論)に終始したラカン派であったはずだが、それにもかかわらず・・・)。

(何度も記しているが、わたくしの使用する三点リーダー「・・・」とは、ワカンネエ、という意味である・・・)

ーーというわけで、柄谷行人でも貼り付けて当面誤魔化しておこう。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250ーーS(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme

…………

※付記

ミレール批判のなかでドゥルーズの名が出ているが、おそらく次の点にかかわる。

ラカン派によるドゥルーズ読解の出発点は、情け容赦ない直接的な読み替えである。すなわち、ドゥル ーズ&ガタリが「欲望機械(machines désirantes)」について語るとき、我々はその用語を欲動に置き換えるべきだ。

ラカンの欲動ーーそれは、エディプスの三角形とその禁圧的な法/その法への侵犯の弁証法に先んじる匿名/無頭的で不滅な「身体なき器官」の反復への執拗さであり、ドゥルーズが前エディプスのノマド的な「欲望機械」として境界を引こうとしたものと完全に一致する。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の「機械的な」特徴・反有機的な anti‐organic 性質(その人工的な要素、あるいは異質の成分からなる部分のモンタージュの特質)を強調している。

しかしながら、これは出発点にすぎない。問題をすぐさま混み入らせるのは、この読み替えにおいて、何かが失われてしまうという事実である。すなわち、欲動と欲望とにあいだにある、まさに還元し得ぬ相違、この差異の視差的性質があり、一方から他方へと跡づけたり生み出したりするのは不可能なのだ。

言い換えれば、ラカンには全く異質なものは、ドゥルーズの反-表象主義者的な欲望欲望の概念である。それ自体が表象や抑圧の場面を創造する原初的流動 fluxとしての欲望概念。これはまた、ドゥルーズが欲望の解放について語る理由だが、ラカンの地平ではまったく無意味である。

ドゥルーズにとって、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流動だが、ラカンの欲動は、基盤となる解決しえぬ袋小路によって構成的に徴づけられている。ーー欲動は行き詰まりであり、まさに行き詰まりの反復において満足を見出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー「欲望は剰余享楽の換喩である」)









2016年7月30日土曜日

「恋愛のみだらさ L'obscène de l'amour 」

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)。

ニーチェの『反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung』は、仏語訳では旧訳が Considérations intempestivesで新訳は Considéra tions inactuelles となっている。

後者は、非アクチュアル的考察ということになる。

ドゥルーズは何度か、『反時代的考察』から引用しているが、たとえばその邦訳は次の如し。

能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」宇野邦一訳)

ところでサドは、時代に逆らって行動した作家だった。


作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

サドはサドの時代に逆らって、当時にとっては「淫らなこと」を模範的な文体で書いた。

彼女は裸同然でわたしたちのそばに座っていました。彼女の見事な胸はほぼわたしたちの顔の高さにあって、彼女はそれをわたしたちに接吻させて面白がっておりました。彼女はわたしたちをじろじろと観察して、それからわたしたちの血に染まった受け皿を見ていました。わたしたちはまずクリトリスを、次に、玉門と尻の穴を手をかえ品をかえていじくりまわされました。わたしたちはこれら体の孔を両方ともクンニリングスされたのです。その後、わたしたちの両足を紐で結び直して持ち上げ、それを宙で支えると、まあだいたい人並みの男根が代わるがわるわたしたちの玉門と尻のなかに挿入されたのです。(サド『ジュリエット』)

だが我々の時代の「淫らなこと」とは何だろう。

1977年に出版されたロラン・バルトの「恋愛のみだらさ L'obscène de l'amour 」の項にはこうある。

・歴史的転倒。今や下品とされるものは性的なものではない。実際にはそれもまた別の道徳にほかならぬものによって非難された感傷性 la sentimentalité こそが、下品なのである。

・あらゆる侵犯行為に対して社会が課す税金は、今日、セックスよりはむしろ情愛の方に重い。Xが性生活について「深刻な問題」をかかえているのであれば、誰もが理解を示してくれるだろう。しかし、Yがその感傷的情熱についてかかえている問題には、誰ひとり関心をもとうとしない。恋愛がみだらなのは、それが、セックスのかわりに感傷をおこうとするからである。

・「わたしたち二人」――雑誌のタイトルーーは、サドにもましてみだらである。

・現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。恋愛主体はこの感傷性を、わが身ひとりを衆人環視の中にさらすたぐいの、強度な侵犯行為として引き受けざるをえなくなっている。つまり、ある種の価値転倒により、今日では、この感傷性こそが恋愛のみだらさをなしているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)


感傷性 la sentimentalité を記すことが「みだらなこと」だ、サドのように書くことよりも「わたしたち二人」を書くことが、より猥褻だ。1977年当時よりも現代ではますますそうではないだろうか、「非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動する」ために「わたしたち二人」を書かなければならぬ・・・

ロラン・バルトの文は、思いがけなくも、ジジェクの次の文とともに読める。


(現在のわれわれの)状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意することだ。われわれは、これまで以上に、ヴァルター・ベンヤミンが遺してくれた注意事項を心に留めなければならない。その注意事項とは、ある理論(あるいは芸術)が社会闘争に関わる自分の立ち位置をどのように決定するかを訊ねるだけでは不十分であり、それが闘争においてどのようなアクチュアルな機能を発揮しているかもまた問われねばならない、というものである。 例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交であり、また芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』)

ーーとネット上で拾ったのだが、ジジェクの翻訳の多くは誤訳がないかどうか確かめねばならない・・・みなさんドウゾたしかめてください・・・

one should be especially careful not to confuse the ruling ideology with ideology which SEEMS to dominate. More then ever, one should bear in mind Walter Benjamin’s reminder that it is not enough to ask how a certain theory (or art) declares itself to stay with regard to social struggles — one should also ask how it effectively functions IN these very struggles. In sex, the effectively hegemonic attitude is not patriarchal repression, but free promiscuity; in art, provocations in the style of the notorious “Sensation” exhibitions ARE the norm, the example of the art fully integrated into the establishment.

さて、サドの淫らさは、家父長的抑圧が支配的イデオロギーであったときには、反体制として機能した。

サド的淫蕩/家父長的抑圧
 ------------
   家父長的抑圧

だが、現在では家父長的抑圧は「支配しているように見えるイデオロギー」に過ぎず、実際は、自由な乱交が「支配的イデオロギー」である。「歴史的転倒」があったのだ。

すなわち、

侵犯行為/支配的イデオロギー
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支配的イデオロギー(自由乱交)

という形に母胎に自由乱交がある時代の侵犯行為とは何か?

感傷性/自由な乱交
-----------
  自由な乱交

感傷性がこの時代の侵犯行為である。

感傷性が、《非現働的な仕方でinactuel、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動すること》である。

乱交やらサドマゾやら変態やらでは、この現代では、「支配的思想=支配階級の思想」(柄谷行人)の範疇に属する・・・それは、「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家ども」の振舞いである。


セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の違反に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である(それだけが残存する唯一の倒錯形式ではないにしろ)。実際、25年前の神経症社会と比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。

この変貌の下で、我々は性的な楽しみの大いなる増加を期待した。それは「自然な」セクシャリティと「自然な」ジェンダーアイデンティティの高揚の組み合わせによって、である。その意味は、文化的かつ宗教的制約に邪魔されない性の横溢だ。ところがその代わりに、我々は全く異なった何かに直面している。もっとも、個人のレヴェルでは、性的楽しみの増大はたぶんある。それにもかかわらず、より大きな規模では、抑鬱性の社会に直面している。さらに、ジェンダーアイデンティティの問題は今ほど混乱したことはなかった。Paul Verhaeghe, (2005). Sexuality in the Formation of the Subject、私訳 ーーセックス戦争における最大の犠牲者たち

少なくとも、セクシャリティの領野で反時代的に振舞いたければ、幼児性愛と性的暴力を記さねばならぬ・・・

だがそれ以上に反時代的なのは、「わたしたち二人」である。

「わたしたち二人」とともに幼児性愛を書いたナボコフはなんと偉大だろう!

しかしあのときのミモザの茂み、靄に包まれた星、疼き、炎、蜜のしたたり、そして痛みは記憶に残り、浜辺での肢体と情熱的な舌のあの少女はそれからずっと私に取り憑いて離れなかった──その呪文がついに解けたのは、二四年後になって、アナベルが別の少女に転生したときのことである。(ナボコフ『ロリータ』)


見よ、谷川俊太郎の詩集『女に』1991における「わたしたち二人」は、なんと淫らなことだろう・・・




声はまわり道をした
あなたを呼ぶ前に声は沈んでゆく夕陽を呼んだ
森を呼んだ 海を呼んだ ひとの名を呼んだ
けれどいま私は知っている
戻ってきた谺はすべてあなたの声だったのだと



ーーというわけだが、どこかに論理的なあやまりはないだろうか・・・




2016年7月29日金曜日

「内面」とは言語の結果である

現実界は、形式化の袋小路においてのみ記される。[…le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation](ラカン、セミネール20)

→《現実界とは、象徴化あるいは形式化の行き詰まり以外の何ものでもない。》(ジジェク、2016(Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge)

主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

…………

以下、備忘。

このところ柄谷行人によるマルクスの「価値形態論」をめぐる叙述を追っているのだが、上に記したようなラカン派的態度ーーもちろんラカン派だけではないーーと同様な考え方を取っていることに関しては、柄谷行人は一貫している。

いったい私たちはなぜ「書く」のか。「話す」ことによっては、もはやいい足りぬ何かをもつからだ。それこそ、ひとが「内面」とよぶものである。このような「内面」を、文字をもたぬ子供はもたない。「内面」そのものが、文字の結果なのだ。にもかかわらず、文字があたかも「内面」からもっとも疎遠なものであるかのようにひとは考える。その理由は、文字が音声的文字であり、たんに音声を表記しただけのようにみなされるところにある。それゆえに、われわれは、貨幣=音声的文字を、「内部」つまり商品に内在的な価値からではなく、マルクスのいう象形文字としての価値形態から考えねばならない。超越論的な意味や価値を表示するために文字が発明されたのではなく、文字が逆にそれをもたらしたのだ。そしてそのこと自体、貨幣=音声的文字の確立の結果である「意識」にとっておおいかくされる。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978 p.47)

この文の細部にはーーわたくしのやや偏った見方?ではーーいくらかの齟齬感をおぼえるが、つまり「書く」と「話す」の区別をしないでもこう言え、もし「書く」/「話す」とするなら、シニフィアン/記号とすべきではないかとは思うが、核心箇所には異和はない、《「内面」そのものが、文字の結果なのだ》。

シニフィアン/記号のラカンの観点は次の通り。

シニフィアン signifiant は記号 signe とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(ラカン、セミネールⅨ「同一化」ーー犬と人間(記号とシニフィアン)

そして、柄谷行人が『探求Ⅰ』1986で、次のように書いたとき、上の1978年の書の記述にかすかにあった異和は消え去る。

ここで、混乱をさけるために、「話す」と「聞く」、あるいは「書く」と「読む」といったいいまわしに注意しておこう。すでにいったように、われわれは、話すとき、それを自ら聞いている。「話す主体」は「聞く主体」なのであり、そこに一瞬の“遅延”がおおいかくされている。

ウィトゲンシュタインは、「動物は考えないから、話さないのではない、たんに話さないのだ」といった。逆にいえば、人間は考えがあるから話すのではなく、たんに話すのである。ロラン・バルトは、「書く」という動詞は他動詞ではなく、自動詞だといったが、「話す」という動詞も同様である。つまり、ひとは何か考えを話すのではなく、たんに話すのだ(たとえば、幼児は“意味もなく”たんにしゃべる)。だが、それをわれわれ自身が聞くとき、その言葉が何かを意味していると思うのみならず、まるで前もってそのような「意味」が内的にあったかのように思いこむ。

デリダが、明証性を「自分が話すのを聞く」ことにあり、そこで“差延”が隠蔽されるのだというのは、いわばこのことである。結局「話す」立場に立つというとき、われわれは実際は「聞く」立場に立ってしまっている。私が「教える」立場という言葉を用いるのは、そのためであって、それは「話す=聞く」立場とまったく異なる。

ところで、このことは、「書く=読む」立場についてもそのまま妥当する。デリダの「音声中心主義」への批判は、まるで書くことや読むことの優位性を意味するかのように受けとられている。しかし、「書く」ことや「読む」ことが、純粋に存在することなどありはしない。

たとえば、われわれは一語あるいは一行書いたそのつど、それを読んでいる。書き手こそ読み手なのだ。そして、書き手の“意識”においては、この“遅延”は消されてしまっている。実際はこうだ。われわれは、一語または一行書くとき、それが思いもよらぬ方向にわれわれを運ぶのを感じ、事実運ばれながら、たえずそれをわれわれ自身の「意図」として回収するのである。書き終わったあとで、書き手は、自分はまさにこういうことを書いたのだと考える。

このような錯誤は、語られ書かれることを、われわれ自身が聞き読んでしまうということに存する。ここでは、他者とはわれわれ自身であり、したがって《他者》ではない。そして、語られ書かれることが、他者にとってはたして「意味している」かどうかは、すこしも疑われない。だが、他者が、あなたは、語り書く以前あるいは過程で、内的にべつのことを意味していたはずだと主張するとき、われわれにはそうではないと証明するすべはない。

このことは、しかし、テクストを「読む」者の、優位性あるいは創造性を意味するわけではない。読む者は、自らの読解を示したければ「書く」ほかない。そうでなければ、彼の読解は「私的言語」にすぎないからだ。そして、彼が「書く」とき、先にのべた過程をたどるほかないのである。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986,PP.27-28)

その後、たとえばこう言う。

ハイデガーが「存在者と存在の差異」というのは、たんに文法的にいえば、概念になりうるものと、概念になりえないのみならず、あらゆる概念(主語と述語の位置におかれる)をつなぎ支えるものとの差異である。(柄谷行人「非デカルト的コギト」『ヒューモアとしての唯物論』1993,p.91ーー“A is A” と “A = A”

そして、2001年の書で、カントに依拠しつつ、こう言い放つことになる。

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

これらは、ヴァレリー主義者、マルクス主義者ーー主義者という言葉は語弊があるかもしれないがーーとしての一貫性であろう。

作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の〈神秘的〉性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。マルクス像についても同様のことがいいうる。”真のマルクス”などというものはありはしないのである。

読むことは作者を変形する。ここでは”真の理解”というものはありえないので、もしありえたとすれば、いわば歴史というものが完結してしまう。ヘーゲルの美学がその歴史哲学と同様に、”真の理解”によって完結してしまうのはそのためだ。それは、作品というテクストが、作者の意識にとっても読者の意識にとってものりこえられず還元もできない不透明さをもって自立するということをみないからである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』pp.79-80)

 ※ヴァレリー自身がどう言っているかについては、「芸術作品とフェティシズム Fetischismus」を参照のこと。


……マルクスは貨幣と商品の関係をつぎのようにいっている。

《ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている。》(「資本論」)

王(貨幣)は、超越論的なものであるがゆえに王(貨幣)であるかにみえるが、逆にその超越性は諸党派(諸商品)の差異(関係)の消去によって可能なのだ。「価値形態論」における難解な論点は、ボナパルトという一党派が王位につく秘密にすでに示されている。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』p.99)
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。それは、「人間と人間の関係が物と物と物の関係としてあらわれる」とか、関係が実体化されることを意味するのではない。(……)

くりかえしていえば、マルクスは、価値形態、交換関係の非対称性が経済学において隠蔽されていることを、指摘したのである。同じことが、言語学についてもいえるだろう。それは、いわば、教えるー学ぶ関係の非対称性を隠蔽している。非対称的な関係を隠蔽するということは、関係を、あるいは他者を排除することと同じである。それゆえに、言語学は、ヤコブソンがそうであるように、古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』P.17)


「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」は、虚構である。古典経済学(アダム・スミスに代表される)は、この虚構の上の理論である。それはほとんどの哲学も同様である。実際は、「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)’」なのであり、これが前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインの移行であり、ラカンの例外の論理から非全体の論理への移行である。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述化した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ー 「未来」だの「彼方」だの「深さ」だのの捏造


これをマルクスの図式、C–M–C(商品–貨幣–商品) M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])に則って記されたものが、「快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir」におけるジジェク、2016の文である。

唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)

ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。

《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)ーー(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)

前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインの移行、あるいはラカンの例外の論理から非全体の論理への移行とは、マルクスの貨幣のフェティシズムから商品のフェティシズムへの遡行と等価である。

マルクスによる価値形態論は、古典経済学が「高慢に冷笑し」去った、貨幣の呪物崇拝(フェティシズム)を再び正面から見さだめようとする企てである。なぜなら、この呪物崇拝こそ、古典経済学が無視しているにもかかわらず、資本主義の原動力として存続しつづけているからだ。したがって、価値形態論が、貨幣の呪物崇拝を否定しているかのようにみえても、それはけっして啓蒙主義的な批判ではなく、むしろ啓蒙主義=古典経済学への批判なのである。すなわち交換に合理的な根拠があるという考えへの批判にほかならない。

マルクスは、古典経済学が冷笑した“幻想”をこそ重視したのである。価値形態をとりだすということは、価値尺度や流通手段にとどまらないような呪物としての貨幣をとりだすことであり、あるいは交換の非合理性(無根拠性)をとりだすことである。だが、この解明が、貨幣のフェティシズムから商品のフェティシズムのレベルに遡行されてなされるとき、それがもはやいかなる意味でも啓蒙主義的でありえないことに注意すべきであろう。それは、“幻想”を批判しうるような合理的立場にいたるのではなく、商品であれ言語であれ、交換という行為にともなう“悲劇的”な条件を照らし出すことになるからである。(柄谷行人『探求』pp.91-92)


実際、柄谷行人はジジェクが2012年の書で「家族的類似性」について言ったのと同じことを、1986年にマルクスの価値形態論に依拠しつつ、既に言ってしまっている。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランスと同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。(註2) この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』PP.69-70)
(註 2) マルクスがいう「社会的関係の隠蔽」は、一般に、物象化として、すなわち本来関係的なものが実体化されることとして理解されている。そんなことなら、マルクスでなくても他の人でもいえるだろう。さらに、たとえば、言語にかんして、それが、本来差異的な関係体系(分節化)なのに、物象化されて、世界が“実体的に”そうであるかのようにいられるというたぐいの批判も、それと同じことである(丸山圭三郎)。

ここから一つの“根源的な”批判と治療法が提起されてしまう。だが、それらの理論こそ“社会性”の隠蔽である。われわれは、遡行すべき、共同主観的世界も、分節化をこえた連続的・カオス的世界ももたない。それらは、言語ゲームの外部にあるがゆえに無意味であるか、またはそれ自体言語ゲームの一部にすぎない。それらはたんに物語として機能する。

さらに柄谷行人を続ける。

ソシュールが、言語をシニフィアンとシニフィエの結合としてみたことは、それを意味(概念)と記号(音声)の結合としてとらえるならば、すこしも新しくない。実際に彼がめざしたのは“意味”が積極的なものとしてあるかのような考えを否定することである。そのために、彼は価値という考えをもちこんでいる。

《価値という語をめぐってわれわれがのべたことは、次の原理を措定することにもいいかえることができる。すなわち、言語の中には(つまり一言語状態の中には)差異しかない。差異というと、われわれは差異がその間に樹立される積極的な(ポジティヴ)な辞項を想起しがちである。しかし、言語の中には積極的な辞項をもたない差異しかない、という逆説である。そこにこそ、逆説的真理があるのだ。》(「一般言語学講義」)

だが、誰でも自国語のなかで考えているかぎり、意味が積極的に在るという実感をぬぐい去ることはできない。事実、現象学はこの明証性から出発するのである。ところが、右のような認識は、それを拒否するところからしか生じない。ソシュールは、意味が価値から派生するものでしかないことをいいたかったのだ。マルクスの用語にいいかえると、ソシュールのいう意味は、価値に対応し、価値は価値形態に対応している。価値の概念をもちこんだとき、ソシュールは、いわば言語学に価値形態をもちこんだということができるかもしれない。(『探求Ⅰ』PP.19-20)


そして柄谷行人にとってのヴァレリーやマルクスの向うには、きっと小林秀雄がいる。

マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふるまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。

《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」)

むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。くまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』p.24)

小林秀雄の「様々なる意匠」から、もういくらか抜き出しておこう。

吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。
脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)

1929年、すなわち小林秀雄27歳の論である。

柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』は 1978年出版だが、マルクス論自体は『群像』1974-1975に発表されている。33-34歳時に書かれたことになる。

彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」『小林秀雄をこえて』1979所収)

蓮實重彦が小林秀雄批判をしたのは、『表層批評宣言』、1979だが、その前に『展望』か『現代思想』かに発表されている。

……つまり、小林秀雄は、大学における専攻領域の選択、交遊関係などにおいて、詩人ランボーの書物と「出会い」を演じて決して不思議ではない環境にあらかじめ住まっていた「制度」的存在なのであり、そのときすでに、ボードレールもパルナシアンの何たるかも知らされてしまっていたのだ。そうで なければ、「メルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本」を「ある本屋の店頭で、偶然見付け」るといったペダンチックなメロドラマは起こったりしまい。いずれにせよ、こちらがそれらしい顔でもしていない限り、「見知らぬ男」が都合よく「僕を叩きのめし」てくれるはずがなく、だからあらゆる「出会い」は「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を擬似冒険的な色調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられないのだ。(蓮實重彦「言葉の夢と批評」『表層批評宣言』所収)

もっとも柄谷行人ものちにーー蓮實重彦との対談でーー次のような発言をしている。

柄谷行人) 小林秀雄の有名な言葉で、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」というのがある。しかし「美しさ」がないんだったら、「花」もないですよ。美が概念なら、花も概念でしょう。ぼくは「花」なんて見たことがない(笑)。「この花」と言っても、結局は概念から逃れられない。ものを書くなら、そこで勝負するほかない。とにかく概念がいやなら、いっさい物を言わないことだね。「美はひとを沈黙させる」なんてことも、書くべきではない。(『闘争のエチカ』1988)

…………

冒頭近くに掲げた次の文をもういくらか補足しておこう。


《主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。》(ジジェク、2012)

ラカンは、フロイトの Ich-Spaltung(自我の分割)概念ーーフロイトによって、フェティシズムと精神病の病理的領域に限られた概念--をすべての主体に拡張した。それは、まさに言表内容の主体と言表行為の主体とのあいだの言語学的区別に言及することによって、である。主体は、《彼が話す限りにおいてのみ主体となるという理由で que le sujet subit de n'être sujet qu'en tant qu'il parle》(E.634)、分裂(分割 Spaltung)をこうむる。

話すことにおいて、そして話すために、主体はけっして十全に自分自身を現しえない。それは、言表内容のなかに現れないのではなく、言表行為によって前提とされ喚起されるものによる(言語の法等々)。(ロレンツォ・キエーザ,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDF)。
父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)

幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。( 同上、ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、2007)

たとえば、乳幼児は、「寒い、温めて!」と喃語で要求したのに、母はお腹が減ったと誤解釈する。

この観点はラカン派ではほぼ一貫しているはず。たとえば臨床家でもあるヴェルハーゲの文。

乳幼児はおそらく、最初の内的欲動を周辺的な何かとして経験する。どんな場合でも、それは〈他者〉の現前を通してのみ消滅する。〈他者〉の不在は、内的緊張の継続の原因と見なされる。しかし、この〈他者〉が現前して、言葉と行動で応答してさえ、この応答は決して充分ではありえない。というのは、〈他者〉は継続的に子どもの泣き叫びを解釈せねばならず、この解釈と緊張とのあいだの完全な一致は決してありえないから。この点において、我々はアイデンティティ形成の中心的要素に遭遇する。すなわち、欠如・欲動の緊張への十全な応答の不可能…。要求ーーそれを通して子どもが欲求を表現する要求は、残滓が居残ったままだ。その意味は、〈他者〉の要求解釈は決して元来の欲求と一致しないということである。〈他者〉の不十分性は、内的にうまくいかないことの責めを負わされる、常に最初のものであるように見える。(ヴェルハーゲ、Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004)

人はこのように「言語」を使用することによって、「疎外」される。

主体の最も深刻な疎外は、主体が我々に彼自身について話し始めたときに、起こる。[Car c'est là l'aliénation la plus profonde du sujet de la civilisation scientifique ele sujet commence à nous parler de lui ](Lacan,Ecrits, 28ーー岩井克人版「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」)

「言い得ぬもの」は、象徴界(快原理)の彼岸にあるのではなく、言語固有のものである。こうして、$(分割された主体の空虚)は、《「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」》だ、と語られることになる。これは言語を使用する人間の宿命ということになる。


最後に、柄谷行人1978の《「内面」そのものが、文字の結果なのだ》という文を、次の文と「ともに」読んでおこう(L'effet du langageを「言語の効果」と訳したが、もちろんそれは「言語の結果」と等しい)。

言語の効果は遡及的である。まさにそれが展開すればする程、いっそうーー厳密に言ってーー存在欠如を顕す。L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.(ラカン、セミネール17、1969-1970)

ーー言語の効果は遡及的である。われわれは話せば話すほど、「内面」が現われる。

2016年7月28日木曜日

快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir

私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.](ラカン、セミネール11)

…………

《あなたは私自身の内部よりもなお内部だった。[tu autem eras interior intimo meo]》(アウグスティヌス『告白』3.6.11)

私は長い沈黙のうちに瞑想にふけりました。人間は愚かにも、みずからのもっとも高貴な部分をなおざりにして、さまざまなことに気を散らし、むなしい眺めにわれを忘れては、内部にこそ見いだせるはずのものを外にもとめているのだと(ペトラルカ「『自然と人間との再発見』)

《神は自己の外部に求められるべきではない。なぜなら、神はすでに「内部」のそこにいるから。神は、私が私自身である以上に私にとって永遠に親密なものである。私自身の「外部」にあるのは「私」なのである。内部の神が、探求を開始し・動機づけ・道案内をする。したがって、その場のなかに神は見出される。》(Denys Turner,The Darkness of God: Negativity in Christian Mysticism)

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、 サントーム)

これらはーーわたくしの知る限りでのラカン派解釈においてはーー、すべて対象aにかかわる。

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語「 extime (外密).」である。それは主体自身の、実に最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 e xに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー防衛と異物 Fremdkörper

…………

対象a という語は、ーーその内実が理解されないままーー用語そのものとしては、いささか流通しすぎて、陳腐化したり手垢がつきすぎている。(主に)「剰余享楽」としたらよいのではないだろうか(そうすれば、マルクスの剰余価値への依拠がおそらく少しは高まるだろう)。


◆ポール・ヴェルハーゲ.Enjoyment and Impossibility,2006より

享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの徴 unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの徴 unary trait とシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。

この考え方は、セミネールXVIIを通して、異なった名のもとに現れる、「対象a(objet a)」 、「喪失(déperdition)」、「エントロピー(entropy)」、 「剰余享楽(plus-de-jouir)」 。しかしながら、シニフィアンもまた喪失の原因である。すなわち、主体と有機体としての身体のあいだの分割の原因である。それゆえ、享楽を獲得する手段としてのシニフィアンは、必然的に失敗しなければならない。そしてこの失敗において、原初の喪失がなおいっそう確認される。ここで、我々は二番目の曖昧な関係に遭遇する。知、それがいったんシニフィアンに導入されたものとしての知は、享楽への手段でもあり、かつ享楽の喪失の原因なのだ。ヴェルハーゲ、2006,ーー「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)



◆ジジェク、2016(Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge)より

ヒッチコックは、トリュフォーとの会話で、『北北西に進路を取れ』に挿入したかった濃縮された場面を想い起こしている。この場面はけっして撮影されなかった。というのは疑いもなく、彼の作品の基本母胎をあまりにも直に示してしまうからだ。そんなことをしたら、実際の映像は下品な効果を生んでしまう。

《私は、ケリー・グラントと工場の労働者の一人とのあいだの長い対話をいれたかった。そう、フォード自動車工場でね。二人は組み立てラインを歩いているんだ。彼らの向こうには一台の車が少しづつ組み立てられていく。最後に、二人が見ている車は、シンプルにボルトをナットにねじ込んで完成する。さて、ガスとオイルを入れて、ラインから脱け出すすべての準備は完了だ。二人の男はたがいに見つめあい言うんだ、「すばらしいじゃないか!」と。そうして彼らは車のドアを開ける。すると死体が転げ落ちる。》

我々がこのロング・ショットのなかで見るものは、生産過程の基本的ユニットだ。そのとき、どこからともなく nowhere 生み出されて謎のように転げ落ちる死体は、剰余価値ーー生産過程を通して「無から our of nowhere」生み出される剰余価値ーーの完璧な代理物ではないだろうか? この死体は、最も純粋に剰余対象、主体に対する対象的 objectal 相対物、主体の活動の剰余産物である。この剰余には三つの形式がある。剰余価値、剰余享楽、そして(しばしば無視されている)剰余知識だ。これらは、ラカンが対象a と呼んだもの、欲望の対象-原因の外観のすべての形式である。

 以下に、フロイトの Lustgewinn という用語が出現するが、ラカン自身、Lustgewinnとは、plus-de-jouirのことだと言っている(セミネール21、後引用)。

対象a は、ラカンの教えにおいて、長い歴史がある。マルクスの『資本論』における商品分析への体系的依拠よりも10年以上先行している。しかし疑いもなく、このマルクスへの言及、とくに剰余価値 Mehrwert 概念への参照は、剰余享楽(plus-de-jouir, Mehrlust)としての対象a 概念を「成熟」させた。

ラカンによるマルクスの商品分析へのすべての参照に浸みわたる支配的モティーフは、マルクスの剰余価値とラカンが名付けた剰余享楽とのあいだの構造的相同性である。剰余享楽は、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだ現象であり、それは、快に単純に駆け上ることを意味しない。そうではなく、快を得ようとする主体の努力のなかで、まさに形式的迂回路によって提供される付加的な快である。

(……)リビドー経済において、反復強迫の倒錯行為に煩わされない「純粋な」快原理はない。倒錯行為とは、快原理の観点からは説明されえない。同様に、商品の交換の領野において、別の商品を買うために商品を貨幣に交換するという直接的な閉じられた循環はない。もっと多くの貨幣を得るために商品を売買する倒錯的論理によって蝕まれていないような循環はないのだ。この論理においては、貨幣はもはや単なる商品交換のための媒体ではなく、それ自体が目的となる。

唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)

ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。

《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)

「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作用する。人は目的地を見失い、人は動作を繰り返す。何度も何度も試みる。本当の目標は、もはや目指された目的地ではなく、そこに到ろうとする試みの反復動作自体である。形式と内容の用語でもまた言いうる。「形式」は、欲望された内容に接近する様式を表す。すなわち、欲望された内容(対象)は、快を提供することを約束する一方で、剰余享楽は、目的地を追求することのまさに形式(手順)である。

口唇欲動がいかに機能するかの古典的事例がある。乳房を吸うという目的は、母乳によって満たされることである。リビドー的獲得は、吸啜の反復性動作によってもたらされ、したがってそれ自体が目的となる。

(……)Lustgewinn(快の獲得)の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快の断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は、抑圧の欲望へと反転、等々。すべての事例において、獲得は「パフォーマティヴな」レベルで発生する。すなわち、目的地に到達することではなく、目的地に向かっての動作の、まさにパフォーマンスによって生み出される。(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)


フロイトの著作においては、おそらく1908年にはじめて Lustgewinn という語が現われるが、以下は最晩年の著作においての簡潔な叙述。

まずはじめに口 der Mund が,性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける.精神の活動はさしあたり,その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される.これは当然,第1に栄養による自己保存にやくだつ.しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない.早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている.これは――栄養摂取に由来し,それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである.ゆえにそれは‘性的 sexuell’と名づけることができるし,またそうすべきものである.(Freud,S.1940 "Abriss der Psychoanalyse" 「精神分析学概説」


◆ラカンによるフロイトのLustgewinnへの言及(セミネール21)

…un but utile, c'est : - ou ça qu'elles anstreben, qu'elles attirent - ou bien …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir,

à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».

Car qu'est-ce que ça veut dire un Lustgewinn ? Un gain de Lust. Si là l'ambiguïté de ce terme Lust en allemand, n'est-ce pas, ne permet pas d'introduire dans le Lustprinzip… traduit principe du plaisir …justement cette formidable divergence qu'il y a entre la notion du plaisir telle qu'elle est commentée par FREUD lui-même selon la traduction antique, seule issue de la sagesse épicurienne, ce qui voulait dire « jouir le moins possible ».


2016年7月27日水曜日

芸術作品とフェティシズム Fetischismus

昨晩、読み返しよ(少しばかり)、『資本論』をね‼ ぼくはあれを読んだ数少ない人間の1人だ。ジョレス〔当時代表的な社会主義者〕自身は--(読んでいないように見える)。(…)『資本論』といえば、この分厚い本はきわめて注目すべきことが書かれている。ただそれを見つけてやりさえすればいい。これはかなりの自負心の産物だ。しばしば厳密さの点で不十分であったり、無益にやたらと衒学的であったりするけれど、いくつかの分析には驚嘆させられる。ぼくが言いたいのは、物事をとらえる際のやり方が、ぼくがかなり頻繁に用いるやり方に似ているということであり、彼の言葉は、かなりしばしば、ぼくの言葉に翻訳できるということなんだ。対象の違いは重要ではない。それに結局をいえば、対象は同じなんだから!(ヴァレリー、1918年5月11日、ジッド宛書簡、山田広昭訳)

…………

要するに、芸術作品とは一個の対象物(オブジェ)であり、ある個人たちにある種の働きかけを行おうとしてつくられた、人間による制作物であります。個々の作品とは、あるい言葉の物質的な意味における物体(オブジェ)であり、あるいは、舞踊や演劇のように行為の連鎖であり、あるいは―――音楽がそうなのですが―――同じく行為によって産出される継起的印象の合計であります。こうした対象物を起点とする分析によって、私たちは、私たちの芸術概念を明確にしようと試みることができます。こうした対象物こそ、私たちの探求の確実な要素にほかならぬと見なしうるものなのです。こうした対象物を考察することによって、そしてまた、一方ではそれらの作者へと遡行し、他方ではそれらが感動作用を及ぼす人間へと遡行することによって、私たちは、〈芸術〉という現象がふたつのそれぞれ完全に区別されて変形されうるということを見出すのです(それは経済学において生産と消費のあいだに存在する関係と同じ関係であります)。

きわめて重要なのは、これらふたつの変形作用――作者からはじまって製造された物体における変形作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変形作用――が、相互に完全に独立しているということです。その結果として、このふたつの変形作用は、それぞれべつべつに考えられるべきである、ということになります。

みなさま方は、作者、作品、観客あるいは聴き手という三つの項を登場させて命題をお立てになる。しかし、この三つの項を統合するような観察の機会は、けっしてみなさま方のまえにあらわれないだろうという意味で、そういう命題はすべて無意味な命題なのです。(……)

……私の辿りつく点というのはこうです。―――芸術という価値は(この言葉を使うのは、結局のところ私たちが価値の問題を研究しつつあるからですが)この価値は本質的に、いま申したふたつの領域(作者と作品、作品と観察者)の同一視不能、生産者と消費者のあいだに介在項を置かねばならぬというあの必然性に従属しているということです。重要なのは、生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬということなのです。(……)

芸術家と他者(読者)このふたりの内部にそれぞれなにが起こったか、それを厳密に比較するための方法など、絶対にいつになっても存在しないでありましょう。そればかりではありません。もし、一方の内部で起こったことが他方に直接的に伝達されるのだとすれば、芸術全体が崩壊するでありましょう。芸術のもつ力のすべてが消失するでありましょう。他者の存在に働きかける新しい不浸透性の要素の介在がせひとも必要なのです。(ヴァレリー『芸術についての考察』 清水徹訳)


柄谷行人は上の文を引用して次のようにコメントを入れている。

こうして、ヴァレリーは、作品の価値の窮極的な根拠を、両方の過程が互いに切りはなされていて不透明であるところに求めている。(…)

ここでヴァレリーのいう価値は、マルクスのいう剰余価値にあたっている。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』)

ラカン派によれば、剰余価値とは剰余享楽と相同的であり、剰余享楽=対象a(の重要な意味のひとつ)は、フェティッシュ(呪物)である。

また対象a=フェティシュは、「見せかけsemblant」ともされる。

「見せかけsemblant」は、フェティッシュとして(……)現実界との遭遇にて生じる恐怖あるいは不安を避けるものとして機能する。

したがってラカンにとって、「見せかけ」は人を惑わすこととと騙すことの両方の含意がある。我々は「見せかけ」を信じる。いやむしろ、現実界を覆うために「見せかけ」を選択する。というのは、「見せかけ」は、満足の手段、あるいは不快を避ける方法だから。「見せかけ」が崩れ落ちたとき、不安が現れる。「見せかけ」は、何かがあるべきなのにない場所へ来て、欠如を埋める。(…)「見せかけ」は、何かの代替物の形式である。それは、不安を引き起こす別の対象の代わりとして、満足の源泉を提供する。

「見せかけ」を観察する二番目の方法は、ジャック=アラン・ミレールにて取り出された。彼は言う、「見せかけ」の機能は《無を覆う》ことだと[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J.A. Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)。

ここでふたたび「見せかけ」の二重の側面が現れる。この定義において強調されているのは、ヴェールの機能と、このまさにヴェールに注意を誘引する機能だ。ミレールは続けて言っている、「見せかけ」のこの二重の側面のために、ヴェールはファルス化され、とくに身体がファルス化する、と。(Russell Grigg、「ラカンの教えにおける見せかけ概念」The Concept of Semblant in Lacan's Teaching、2007ーー資料:見せかけ/ファルス

ここで、マルクスによるフェティシズムの叙述箇所をひとつだけ抜き出そう。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態そのものからである。Woher entspringt also der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts, sobald es Warenform annimmt? Offenbar aus dieser Form selbst.(… )

商品形態の謎めいた性格とは偏に次のことにある;

商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって「超感覚的な物あるいは社会的な物 sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge」になる。

労働の社会的性格が商品の社会的性格に転化するという関係は、人が視神経に結ぶ物の像ーーそれは外部の物から視神経が受ける主観的な刺激にすぎないーーを物そのものの姿として認識するのに喩えることができる。

だが、物の像が人に見えるという現象が物理的関係--外部の物が発する光が別の物である眼に投射されるーーを表しているのに対して、商品形態とそれが表れる諸商品の価値関係は何らの物理的関係も含んでいない。

だから(商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物 Produkt が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。

これを私は商品の呪物崇拝と名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.

(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

マルクスは、《謎めいた性格は(……)この形態》にあると言っているように、フェティシズムの核心は、ーー呪物崇拝とか物神崇拝とか訳されるがーー、形態、つまり「物」ではなく「神」のほうにあり、さらに言えば、ここでの「神」とはそれが占める場にかかわる(の場合が多い、と付け加えておこう)。

《「神はヴェールである」という表現は、二つの相反する内容を統合するヘーゲルのスペキュラティブ判断として読まなければならない。(1) 神は、われわれの想像力がヴェールの裏にある空虚を埋める究極的な夢想 reverieである。 (2) 神は究極の創造的力である。》(ジジェク、2012)

対象a は象徴的体系内部の非徴示的変調 non-signifying glitch であるにもかかわらず、それは、場のなかを埋め合わせるものとしての要素から形式的構造を分離する裂け目の背景においてのみ把握できる。ジャック=アラン・ミレールは最近、構造と変換の話題についてのこに裂け目を詳述した。彼はラカンの四つの言説の母体を取り上げる。そこでは、時計回りとは逆の動きで、四つの用語のそれぞれ(主体―$、主人のシニフィアン―S1、知識の連鎖―S2、対象―a)が、構造における(代理人、他者、真実、生産物)の四つの場すべてを占めていく。いかになにかが不変であり、同時に何かが変わるかの事例である。


何が不変なのだろうか? 場、関係性と場のあいだの関係性である。何が変化するのかは、それらの場を占める用語である。……これは、われわれにまさにこう言い得ることを許してくれる。すなわち、構造において、変形は置換である、と。また置換による発話は、構造を力動的にさせる方法、試みであると。さらに言い得ることは、一と多を分節化するためのある構造的な解決だと。場は固定されており、そして用語の置換により、われわれはヴァリエーションを得る。この(固定された)構造的場と、これらの場を占める(変化する)用語のあいだの相違は、その場の用語のフェティシュな凝固作用を崩すために決定的である。それはわれわれに気づかせてくれる、ある範囲までは、対象から発するアウラは対象の直接的な特性ではなく、それが占める場であるということを。

この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器である。それは、小便器自体が展示されることによってアートの対象となった。デュシャンの成果は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。

彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「ひとびとはある人を王とみなすのは、彼が王だからではない。人々が彼を王とみなすから、彼は王なのだ」ということだ。

日常生活において、われわれはこの種の具象化の犠牲者なのである。すなわち、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、 給金なしで一しょに芸をしてくれる


…………

※付記

マルクスが 『資本論』 で説く物象化 Versachlichung 物化 Verdinglichung が,彼の指摘する Fetischismus(物神崇拝) Fetischcharakter (物神的性格) と密接な関係にあることは周知の通りである。(廣松渉 『マルクス主義の地平』 1969)
作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の〈神秘的〉性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。マルクス像についても同様のことがいいうる。”真のマルクス”などというものはありはしないのである。

読むことは作者を変形する。ここでは”真の理解”というものはありえないので、もしありえたとすれば、いわば歴史というものが完結してしまう。ヘーゲルの美学がその歴史哲学と同様に、”真の理解”によって完結してしまうのはそのためだ。それは、作品というテクストが、作者の意識にとっても読者の意識にとってものりこえられず還元もできない不透明さをもって自立するということをみないからである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』)


2016年7月26日火曜日

マルクスの価値形態論(岩井克人と初期柄谷行人)

仲の良い友人同士の関係が長く続いた柄谷行人と岩井克人だがーー《私にとってはどんなことでも話し得る友人》(柄谷『終わりなき世界』1990)ーー、岩井克人の『貨幣論』1993と柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』1978 におけるマルクスの価値形態論の説明箇所で、ふたりがまったく正反対のことを言っている箇所をーーたまたまーー見出したので、ここにメモしておく。

【柄谷行人、1978】

相対的価値形態=シニフィエ
等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)


【岩井克人、1993】

リンネル(相対価値形態)=価値を表現する「主体」の役割
上着(等価形態)=価値を表現される「客体」の役割


…………

◆岩井克人の『貨幣論』より、まず図式を掲げる。









※柄谷行人によるマルクス価値形態論の説明(『トランスクリティーク』2001)を参照(価値形態論と例外の論理)。


・岩井克人による「貨幣形態 Z」



※図に貨幣とした箇所は、実際は、「8ポンド・スターリングの貨幣」となっている。

この岩井克人による「貨幣形態 Z」自体は、柄谷行人が初期からくり返している W (商品)-G(貨幣)-W’(商品) と G(貨幣)-W(商品)-G’(G+剰余価値)を、よりわかりやすく説明したものとしてよいように思う。

貨幣形態=音声文字=意識において、すでに価値形態はかくされてしまっている。しかし、なぜこのことが重要なのか。それは、貨幣のこのような性質が「貨幣の資本への転化」の根拠であるにもかかわらず、同時にそれがおおいかくされているからである。もし貨幣がたんに商品の価値を表示するものでしかないならば、G(貨幣)-W(商品)-G’(G+⊿ G )という過程はありえないだろう。すなわち、資本所有者が商品を買い、それを売ることで⊿ G (剰余価値)を得ることがなければ、資本もまたありえないはずである。

しかし、貨幣のあるところには、必ず商人資本がある。それは人間に利潤を求めようとする性質があるからではない。交換が利潤(剰余価値)を生みだすような必然的根拠があるところでのみ、そのような”人間性”が発生するにすぎない。さしあたって、G-W あるいは W-G’ のいずれをみても、剰余の発生する余地はない。あるとすれば、詐欺である。しかし、一時的な詐欺は資本ーー自己増殖する貨幣ーーの持続的根拠ではありえない。すると鍵は、W-G と G-W’ が時間的・場所的に切りはなされているということにしかありえないのである。つまり、貨幣が価値を表示するたんなる価値尺度ではなく、いわば不透明なテクストであるということでしかない。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978)

…………

さて、岩井克人は、価値形態論のまとめの箇所で、簡潔に「全体的な価値形態 B」 と、「一般的な価値形態 C」、「無限の循環する貨幣形態 Z 」を次のように説明している。

全体的な価値形態 B とは、主体としての商品がほかのすべての商品を媒介としてじぶんの主体性を社会化する関係のあり方

一般的な価値形態 C とは、客体としての商品がほかのすべての商品の媒介となることによってじぶんの客体性を社会化されている関係のあり方

無限の循環する貨幣形態 Z のなかで、社会化する主体(全体化された相対的価値形態)と社会化される客体(一般化された等価形態)という役割を同時にはたしている存在が、貨幣

ーー「マルクスの貨幣形態 D」は、柄谷行人が言うように、《「一般価値形態」の発展としてある。しかし、貨幣形態の核心はすでに一般形態において示されている》(『トランスクリティーク』)ので、ここでは省かれているのだろう。

いま、岩井から抜き出した表現は、次の文にある。

……単純な価値形態 A を出発点として、紆余曲折のすえにわれわれが到達した貨幣形態 Z とは、全体的な価値形態 B と一般的な価値形態 C とのあいだの無限の循環論法によって成立しているものであった。ここで、全体的な価値形態 B とは、主体としての商品がほかのすべての商品を媒介としてじぶんの主体性を社会化する関係のあり方であり、一般的な価値形態 C とは、客体としての商品がほかのすべての商品の媒介となることによってじぶんの客体性を社会化されている関係のあり方である。そして、この無限の循環する貨幣形態 Z のなかで、社会化する主体(全体化された相対的価値形態)と社会化される客体(一般化された等価形態)という役割を同時にはたしている存在が、貨幣なのである。それは、すべての商品にじぶんとの直接的な交換可能性をあたえられ、すべての商品から直接的な交換可能性をあたえていることになる。

貨幣とは、それゆえ、貨幣形態 Z のなかにおいて貨幣の位置を占めているから貨幣なのであり、その存立のためには、モノとして使用されるための人間の欲望もモノとして生産されるための人間の労働も、さらにはそれを支払手段として流通させるための共同体的な規制や中央集権的な強制も必要としないことがしめされることになった。すなわち、なんの役にもたたない金属のかけらや紙のきれはしや電磁気的なパルスでも、たんに貨幣として使われることによって、実体的な価値をはるかにこえる価値をもってしまうことになる。無から有となるという「神秘」がここにある。(岩井克人『貨幣論』1993,PP.150-151)


ここで、上の岩井の文を次の柄谷の文とともに読むと、どうなるか?




マルクスは「単純な、個別的な、また偶然的な価値形態」をつぎのように説明している。

《x 量商品 A = y 量商品 B 、あるいは x 量の商品 A は y 量商品 B に値する。(亜麻布 20エレ=上衣 1着、または、20エレの亜麻布は 1着の上衣に値する)》

右の例において、「亜麻布がその価値を上衣で表示する」場合、マルクスは亜麻布は相対的価値形態にあり、上衣は等価形態にあるといっている。つまり、マルクスがここでいっているのは、「亜麻布は上衣と等価である」ということではなく、「亜麻布の価値は上衣の使用価値で表示される」ということなのである。 《一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される》。しかし、たとえば亜麻布の価値なるものが内在的・超越論的に存在するわけではない。ここには、たんに亜麻布と上衣という「相異なる使用価値」があるだけなので、その関係のなかから「価値」が出現するのである。

この関係が価値形態、つまり相対的価値形態と等価形態の結合にほかならない。《相対的価値形態と等価形態とは、相関的に依存しあい、交互に条件づけあっていて、離すことのできない契機であるが、同時に相互に排除しあう、またそうごに対立する極位である》。ソシュールにならっていえば、相対的価値形態は「意味されるもの(シニフィエ)」、等価形態は「意味するもの(シニフィアン)」であり、これらの結合としての価値形態が記号(シーニュ)なのである。右の例でいえば、上衣という使用価値は、シニフィアンである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978)

柄谷行人は、

相対的価値形態=シニフィエ
等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)

としている。

他方、岩井克人は次のように言っている。

リンネル(相対価値形態)=価値を表現する「主体」の役割
上着(等価形態)=価値を表現される「客体」の役割

ーーもちろん通常の解釈では、シニフィアン=主体、シニフィエ=客体である。

ここで、ジジェクを挿入しよう。マルクスの価値形態論に触れつつ、《商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する》としている。

ラカンのシニフィアンの公式(シニフィアンは他のすべての諸シニフィアンに対して主体を代表象するun signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.)は、マルクスの商品の公式(価値形態論)と構造的な相同性がある。そこにもまたシニフィアンの公式と同様な二項一組 dyad を伴っている。

すなわち商品の使用価値は他の商品の価値を代表象する。ラカンの公式におけるヴァリエーションでさえ、マルクスの価値形態表現の四つの形式への参照として体系化されうる(『為すところを知らざればなり』の第一部を見よ)。この線に沿えば、決定的なのは、ラカンがこの過程の剰余-残余を、剰余享楽(plus-de-jouir)としての対象a として規定したことだ。これは、マルクスの剰余価値への明示的 explicit な参照である。(ジジェク、2004,--ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」

これは明らかに、初期柄谷の《等価形態=シニフィアン(上衣という使用価値は、シニフィアン)》側にある解釈と捉えられる。

さらに、シニフィアン($)と剰余享楽a をめぐってジジェクは次のように言っている。

シニフィアンの主体 ($) が、象徴的普遍性の例外であり、対象a が、享楽の過剰(剰余享楽)を表すその対照的要素である限りにおいて、ラカンの幻想の式 ($‐a) は、同じコインの裏表のあいだの非関係(その場を埋め合わせる要素のない空虚の場/その場のない過剰の要素)である。(……)

$ と a の不可能な結合(非関係)は、主体 $ は空虚・空の場だ。述語のない主語である。他方、a は、主語のない述語である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳) 

すなわち、

$ /a = 要素のない空虚の場/場のない過剰の要素
         =述語なしの主語/主語なしの述語


もちろん剰余享楽と剰余価値は相同性がる。とすれば当然、

G(貨幣)-W(商品)-G’(G+剰余価値)

と関連づけることができないでもない(とはいえ、ここでは曖昧なままにしておこう・・・)。

いずれにせよ、肝腎なのは、次の「主人の言説」の構造と価値形態論の構造とを互いににらめっこさせることだろう。



(ラカンの「四つの言説」を知っているものなら誰でも、先ずは、G ➡ W/G’と思いつくはずだ)。


いや、わたくしが曖昧なままにしておくのは、主人の言説以外にも「資本家の言説」というものがあるからだ(わたくしの知る限り、ジジェクはこの「資本家の言説」に一度も触れていない。あれだけラカンを解釈しまくっているジジェクのもっとも大きな謎である・・・そのため、ジジェクによるマルクスの価値形態論解釈は、話半分にしか聴くことができない)。


危機 la crise は、主人の言説というわけではない。そうではなく、資本家の言説 discours capitalisteだ。それは、主人の言説の代替として、今、開かれている。

私は、次のようにあなた方に言うより他にない。すなわち、資本家の言説は醜悪な何か、そして対照的に、狂気じみてクレーバーな何かだと。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本家の言説とは、我々が描き出した言説のなかで最も賢いものだ。もっとも、それにもかかわらず、破滅に結びついている。

この言説は、じじつ、支えられない。支えられない何かのなかにある。私はあなた方に説明しうる…。

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルに S1 と $ とのあいだの。$ …それは主体だ…。ルーレットのように作用する marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く。

自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う。さあ、あなた方はその上に乗った…資本家の言説の掌の上に…。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私意訳)




この言説には四つの言説の母胎となる形式構造における impossibles も impuissance もない(参照:「四つの言説」(ラカン)概説)。ラカンが、《こんなにスムースに動くものはない。だが事実は、あまりにはやく動く》と言っているのは、(先ずは)そのことの筈。まさに ∞(無限)の形をした言説構造をもっている。






すこし後にある次の文は仏文のままで掲げよう、《c'est uniquement de la plus-value. La plus-value, c'est ça... c'est le plus de jouir, hein !》

De très braves gens, mais tout à fait inconscients de ce que disait Marx lui-même, s'en marrent... sans Marx.

Et voilà que Marx leur apprend que ce dont il s'agit, c'est uniquement de la plus-value. La plus-value, c'est ça... c'est le plus de jouir, hein !


ーー《人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。[Chercher l'origine de la notion de symptôme… qui n'est pas du tout à chercher dans HIPPOCRATE …qui est a chercher dans MARX]》(Lacan,S.22,18 Février 1975)

さてひどく話がそれてしまったが、岩井克人の説明に戻る。彼の解釈は上にも掲げた次の二文のなかにもある。

・全体的な価値形態 B とは、主体としての商品がほかのすべての商品を媒介としてじぶんの主体性を社会化する関係のあり方

・一般的な価値形態 C とは、客体としての商品がほかのすべての商品の媒介となることによってじぶんの客体性を社会化されている関係のあり方


◆岩井克人による「単純な価値形態 A」の詳述箇所より

マルクスは、この「単純な価値形態のなかに価値形態の、したがってまた簡単にいえば貨幣形態の、秘密を発見する」ことができるという。いったいこの単純な表現のどこに「貨幣形態の秘密」がひそんでいるのだろうか?

右にしめした単純な価値形態において、一見対称的な関係にあるようにみえるリンネルと上着は、まったくちがった役割をはたしているとマルクスはいう。リンネルは「相対的価値形態」にあるといわれ、上着との直接的な交換可能性によってその価値を表現している。上着は「等価形態」にあるといわれ、この価値表現の材料として役だっている。一方のリンネルは価値を表現する「主体」の役割を演じており、他方の上着は価値を表現される「客体」の役割を演じている。

主体は客体をつうじて主体となり、客体は主体によって客体とされる。それゆえ、少々まわりくどくなるのを覚悟でこの主体客体関係を商品語的にいいなおすと、つぎのようになる。一方の相対的価値形態にあるリンネルという商品は、じぶんとは異質のモノである上着をじぶんと直接に交換可能なものとすることによってじぶん自身を表現している。他方の等価形態にある上着は、モノとしてのあるがままの姿で、リンネルという商品からそれと直接に交換可能なものという性質をうけとっている。じっさい、このキルケゴールをおもわせる表現のまわりくどさが、『資本論』の初版のなかの「リンネルは、ほかの商品をじぶんに価値として等価することによって、じぶん自身を価値としてのじぶんに関係させる」という文章を、本書で使っている国民文庫版もふくめた数多くの邦訳がこぞって誤訳してしまうという、笑うに笑えぬ喜劇をうみだすことになってしまったのである。(久留間鮫造『価値形態論と交換過程論』、岩波書店、参照)。
いずれにせよ、このまわりくどい言いまわしがあきらかにしてくれるのは、「貨幣形態の秘密」は相対的価値形態のなかにはひそんでいないということである。なぜならば、相対的価値形態にあるリンネルの価値は、じぶんとはまったく異なったほかのモノとの相対的な関係によって表現されており、それがなんらかの意味で「社会的関係」をになっていることはだれの目にもあきらかだからである。

だが、等価形態については話はべつである。なぜならば、等価形態にある上着は、そのあるがままの姿でリンネルとの直接的な交換可能性をもつことになり、あたかもそれじだいで価値をもっているような錯覚をうみだしてしまうからである。金銀そのものに価値があるから金銀はあらゆるものを手にいれられるのだと重金主義者がいうように、上着そのものが価値をもっているからリンネルという商品と直接に交換できるのだというふうに。たしかに、上着がリンネルと直接に交換可能なのは、リンネルがじぶんとの直接的な交換可能性を上着にあたえているという社会的関係の結果にすぎない。しかし、モノの性質とはモノそのものに内在しているという日常生活に根ざしたひとびとの先入観によって、上着もまたリンネルとの直接的な交換可能性を、重さがあるとか保温に役立つとかいう性質と同様に、うまれながらにもっているように錯覚されてしまうのだとマルクスはいう。それは、ちょうどつぎのような王と臣下との関係とおなじである。

《この人が王であるのは、ただ、他の人々がかれにたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、かれらは、反対に、かれが王だからじぶんたちは臣下なのだと思うのである。》

社会的な関係とモノそのもの(または人間自体)の性質との「とりちがえ(quid proquo)」--この「とりちがえ」をうみだす等価形態の不可解さこそ、単純な価値形態のなかにひめられていた「貨幣形態の秘密」なのだとマルクスはいう。そして、この「不可解さは」、

《〔等価〕形態が完成されて貨幣となって経済学者の前にあらわれるとき、はじめてかれのブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。そのとき、かれはなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品をもちだし、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賤民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。かれは、20エレルのリンネル=1着の上着、というようなもっとも単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気づかないのである。》

しかしながら、マルクス自身のこみあげてくる満足にもかかわらず、もしこの「とりちがえ」が「貨幣形態の秘密」のすべてであるならば、それは古典派による重金主義批判の水準をすこしもこえるものではない。ここではまだ、等価形態にかんする「とりちがえ」はたんなる主観的な呪物崇拝(フェティシズム)にすぎず、なんの必然性ももっていない。……(岩井克人『貨幣論』文庫 PP.43-46)


ーー貨幣が王であるのは、ただ、他の商品が貨幣にたいして 臣下としてふるまうからでしかない。ところが、かれらは、反対に、貨幣が王だからじぶんたちは臣下なのだと思うのである。


こうして(?)柄谷行人は、後年、次のように言うことになる。

◆『トランスクリティーク』2001

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(同前)。単純な価値形態においては、リンネルは相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのか決定できない。具体的にいうと、リンネルの所有者がリンネルと上着を交換したとき、リンネルで上着を買ったと考えているなら、リンネルは等価物であるが、他方、上着の所有者は上着でリンネルを買ったと考える。つまり、上着等価物であるということがありうるのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001ーー価値形態論と例外の論理

…………

※付記

普遍性と構成的例外の論理は、三つの段階において展開されるべきである。

(1)まず、普遍性への例外がある。どの普遍性も特殊な要素を含んでいる。その要素は、形式的には普遍的次元に属しているにもかかわらず、突出しており、普遍的次元にフィットしない。

(2) 次に、普遍性のどの特殊な例あるいは要素も、例外であるという洞察が来る。「標準的な」特殊性はない。どの特殊性も突出している。それは、普遍性の観点からは、過剰/欠如している(ヘーゲルが示したように、存在するどの国家も「国家」の概念にフィットしない)。

(3) 次に弁証法プロパーのひねりが来る。例外への例外である。それはいまだ例外であるが、唯一の普遍性としての例外・要素である。その要素の例外は、普遍性自体に直接な繋がりがある。それは普遍性を直接的に表す(ここで注意しておこう、この三つの段階はマルクスにおける価値形態論と共通していることを)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー価値形態論と例外の論理





2016年7月23日土曜日

資本の欲動という海に浮かぶ孤島

「正常」な状態では<現実界>は欠如、すなわち(ロスコの絵の真ん中にある黒点のように)象徴的秩序の真ん中に開いた穴である。ところがここでは、<現実界>という水族館が<象徴界>の孤立した島々を包み込んでいる。

言い換えれば、意味作用のネットワークが織り上げられる核となる中心の「ブラックホール」の役割を担うことによって、シニフィアンの増殖を「駆り立てる drives」ものは、もはや享楽ではなく、象徴的秩序そのものなのである。それはシニフィアンの浮遊する島、すなわち享楽のどろどろした海に浮かぶ島に成り下がってしまった。(ジジェク、1991)

初期ジジェクのすぐれた隠喩である。なんの隠喩かといえば、


であり、《みずからのトゲを抜こうとする努力》の時代から、《むき出しの市場原理》の時代への移行の隠喩である(参照)。

この移行は、欠如の時代から穴の時代への移行にともなうものだ。

穴の概念は、欠如の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンと以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、空間は残ったままだ。欠如とは、空間のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は空間の秩序に従う。空間は、欠如によって影響を受けない。これがまさに、ある要素が欠けている場に他の諸要素が占めることが可能な理由である。その結果、人は置き換えすることができる。置き換えとは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権威である。

ちょうど反対のことが穴について言える。それは、ラカンが後期の教えでこの概念を詳述したように。穴は、欠如とは反対に、空間の秩序の消滅を意味する。穴は、組み合わせ規則の空間自体の消滅である。これが、Ⱥの最も深い特性である。Ⱥ は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場のなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。穴との関連において、外立がある。それは、残余にとっての正しい場であり、現実界の正しい場、すなわち意味の追放の正しい場である。(ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)

この欠如から穴(ブラックホール)への移行とは、個人の症状だけではなく、社会構造自体がこのように移行したのだ(そもそも症状は社会構造によって生まれる。神経症はヴィクトリア朝の超自我モラルのもとに生まれた。市場原理主義の現在は「ふつうの精神病」、「ふつうの妄想」の時代である)。

カーニバル的宙吊りの論理は、伝統的階級社会に限られる。資本主義の十全な展開に伴って、今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ジジェクの冒頭の文は、初期ジジェクということもあり、ミレールが定義しなおした「欠如」と「穴」という概念が混在しているということはあるが、社会構造の移行のすぐれた隠喩として読むことができる。

神経症の時代においては、象徴秩序の真ん中に「欠如」があった。




これをわかりやすく示せば、かつては次のような形でシニフィアンが増殖した。





だが、「ふつうの精神病」の時代においては、われわれは資本の欲動という〈現実界〉に浮かぶ孤島なのだ。



ようは、Mark Rothkoの世界(神経症)から、草間彌生の世界(精神病)への移行。

ラカンは主人の言説の時代から資本家の言説の時代へ、と1968年の学生運動を機縁にして言った。これはーー厳密さを記さずに言うがーー、支配のイデオロギーの時代から資本の欲動という非イデオロギーの時代へということだ。



これは、ラカン主流派の臨床的観点からは「20世紀の神経症の時代から、21世紀の精神病の時代へ」(ミレール)ということになる(参照:ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代)。


…………

いささかここでの話とは異なる箇所もあるが、冒頭に掲げたジジェク文の前後も含めて、もうすこし長く引用しておく。ミシェル・シオンの美しいフレーズ、《まるで生まれたばかりの生命のようにゆっくり脈打っている、形のない灰色の霧》という表現も引用されている。これはジジェク、2012にある《今の「標準的な」生活自体が、ある意味で、カーニバル化されている。その絶え間ない自己革命化、その反転・危機・再興》という表現と重ねて読めないだろうか。

現代の音響技術は、「本物の」「自然な」音を忠実に再現できるだけでなく、それを強化し、もしわれわれが映画によって記録された「現実」の中にいたとしたら聞き逃してしまうであろうような細かい音まで再現することができる。この種の音はわれわれの奥にまで入り込み、直接的・現実的次元でわれわれを捕らえる。たとえば、フィリップ・カウフマンがリメイクした『SF/ボディ・スナッチャー』で、人間がエイリアンのクローンに変わるときの、ぞっとするような、どろどろべたべたした、吐き気を催させるような音響は、セックスと分娩の間にある何か正体不明のものを連想させる。

シオンによれば、このようなサウンドトラックの地位の変化は、現代の映画において、ゆっくりした、だが広く深い「静かな革命」が進行していることを示している。音が映像の流れに「付随している」という言い方はもはや適切ではない。いまやサウンドトラックは、われわれが映像空間の中で方向を知るための「座標」の役割を演じている。サウンドトラックは、さまざまな方向から細部を雨のように降らせることによって(……)、ショットの地位を奪ってしまった。サウンドトラックはわれわれに基本的視点、すなわち状況の「地図」をあたえてくれ、その整合性を保証する。一方、映像は、音の水族館を満たしている媒体の中を浮遊するばらばらの断片になってしまった。精神病の隠喩としてこれ以上ふさわしいものは他にはあるまい。

「正常」な状態では<現実界>は欠如、すなわち(ロスコの絵の真ん中にある黒点のように)象徴的秩序の真ん中に開いた穴である。ところがここでは、<現実界>という水族館が<象徴界>の孤立した島々を包み込んでいる。

言い換えれば、意味作用のネットワークが織り上げられる核となる中心の「ブラックホール」の役割を担うことによって、シニフィアンの増殖を「駆り立てる drives」ものは、もはや享楽ではなく、象徴的秩序そのものなのである。それはシニフィアンの浮遊する島、すなわち享楽のどろどろした海に浮かぶ島に成り下がってしまった

このように「描出された」<現実界>は、フロイトのいう「心的現実」のことに他ならない。そのことをはっきり示しているのが、デイヴィッド・リンチの『エレファント・マン』における、エレファント・マンの主観的体験をいわば「内側」から表現している、神秘的な美しいシーンである。「外部の」「現実的な」音や騒音の発生源は保留され、少なくとも鎮められ、後景へ押しやられている。われわれの耳に入ってくるのは律動的な鼓動だけである。その鼓動の位置は定かではなく、「心臓の鼓動」と機械の規則的な律動の間のどこかである。そこにあるのはもっとも純粋な形での描出されたものrenduである。その鼓動は、何物をも模倣あるいは象徴化しておらず、われわれを直接的に「掴み」、<物自体>を直接的に「描出 render」している。だがその<物自体>とは何か。それにいちばん近くまで接近する言い方をしようと思えば、やはり「まるで生まれたばかりの生命のようにゆっくり脈打っている、形のない灰色の霧」と言う他ないだろう。目には見えないが質量をもった光線のようにわれわれを貫くその音響は、「心的現実」の<現実界>である。……(ジジェク『斜めから見る』1991、鈴木晶訳)

日本でも若きすぐれたラカン派の松本卓也氏が、最近、M.-H.ブルースに依拠しつつつ「〈父の名〉の後に誰が来るか?」という論文にて、次のような内容のことを記しているようだ(守中高明氏ツイートによる)。

「象徴的な法の単一性のシニフィアンであるところの〈父の名〉の権力の終焉」→「〈父-の-諸名〉」という「複数的なもの」への移行→〈父の名〉に「症状としての資格」を付与すること→「普通精神病においては、患者は象徴的組織化に欠如している例外の機能を自らに受肉しようとはしない」。

それでは「今日の〈父の名〉」とは何か:それは「正規分布の中央」「ポリティカル・コレクトネス」「コンセンサス」「エヴィデンスの保証」等であり、それが形成する「社会秩序」においては、「統計学的超自我」が支配し「曲線の中央値によって定義されるような凡庸さへの従属」が問題となる→そこから同氏(松本氏)の批判:しばしば「法の支配」を言う「本邦の恥ずべき首相」は「〈父の名〉の補足的なつくりものの一種」に過ぎず、しかも「つくりものとしても不十分」なことを自覚していない、と。

これも、マーク・ロスコから草間彌生への移行の変奏である。

上に記した文脈からいえば。われわれは、資本の欲動という「ゆっくり脈打っている形のない灰色の霧」の海に浮かぶ孤島として、「〈父-の-諸名〉」という「複数的なもの」になんとかあやうく頼りつつーージジェクには、「小さな〈大文字の他者たち〉little big Others」(”numerous little others or partial big Others”(Zizek=Tony Myers - 2004) としての「倫理委員会」,「小委員会」という言い方があるーー「ポリティカル・コレクトネス」「コンセンサス」等を大文字の他者の代替物として生きている、ということになる。

具体的な現象の例としては、大澤真幸の次の文が先ずはよいのではないか。

現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。(大澤真幸――『<自由>の条件』ーーラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈

ーーもちろん、以上は(ひとつの)ラカン派観点からであり、別の見方もあるだろう。



2016年7月22日金曜日

女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、 給金なしで一しょに芸をしてくれる

思って御覧なさい。あなた方は軟い木を割る役だ。
誰を相手に書くのだか、目を開いて見て下さい。
退屈まぎれに来る客もあれば、
えらい馳走に逢った跡で、腹ごなしに来る客もある。
それから一番の困りものは
新聞雑誌を読み厭きてから遣って来る。
仮装舞踏へでも行くように、うっかりして駆け附ける。
その足を早めるのは、物見高い心持ばかりです。
女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、
給金なしで一しょに芸をしてくれる。
一体あなた方は詩人の高みでなんの夢を見ているのです。

ーーゲーテ『ファウスト』森鴎外訳

場中の様子は先刻見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩らわしく眺められた。できるだけ多くの注意を惹こうとする浮誇の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾であった。 

比較的静かな舞台の裏側では、道具方の使う金槌の音が、一般の予期を唆るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後で拍子木を打つ音が、攪き廻された注意を一点に纏めようとする警柝の如に聞こえた。 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って、他愛なく時間のために流されていた。彼らは穏和かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐く呼息に酔っ払った彼らは、少し醒めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。(夏目漱石『明暗』)

(La Loge. Pierre-Auguste Renoir)

二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似までして見せた。

「こうやって真ともに向けるんだから、敵わないわね」

「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅のお父さまがそうおっしゃってよ」

「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」

「見て御覧なさい、きっと嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって」(同、漱石)




とはいえ、現代日本のクラッシック音楽演奏会では(形式的には)こういったことは少ないだろう・・・

実際コンサート・ホールという場にあっては、音楽はめったに人の心に届かないと彼はすでに感じていた。うとうとしている人々、終わったあとの食事を思い浮かべている人々、翌日になって演奏会に行ったと語るのが目的で来ている人々、彼らを除いてしまえば、ほとんど誰もいなくなる。ぬるま湯につかったような態度で音楽に接する人々や、音楽を聞きながら夢想や計算をやめずにいられる人々に比べれば、音楽に恐れをなして逃げ出してしまう人々のほうがよかった。(シュネデール『グレン・グールド paino solo』)

◆Southern Cross (Juan María Solare). Piano: Yuji Takahashi



人びとがあつまるとき、
行事であれ、儀式であれ、
ただ人びとが会うことの悦びのためであれ、
音楽がそこにあれば、楽しい。
それがなくても、人びとはあつまるが、
音楽は集いを、ともにあることのしあわせと、
ふかいやすらぎで飾る。
コンサートの語源は「合意にもちこむ」ということらしい。
争っていたものたちが和平を結ぶ場を想像してみれば、
そこには飲み食いがあり、唄があり、踊りがあり、
それらすべてが音楽ではなかったろうか。
いまコンサート会場には、飲み物食べ物はもちこめず、
踊る場所もなく、歩くことも、立つこともできず、
音楽家と、見物人に分かれ、区切られて、座っている。
それでも、コンサートは否定されるべきものだ、
と言うことはない。
コンサートは現実の場であり、そこに来る人たちがいる限り、観念で否定しても、なくなることはない。
それに替わるものがなければ、いくら貧しくても、
コンサートは音楽の場でありつづける。
別な場をつくりだすのは、音楽家のしごとではない。
人びとのあつまりかた、人間関係、社会が変わらなければ、
音楽の場は変わらないだろう。(高橋悠治「音楽の反方法論的序説」)

◆Yuji Takahashi plays Bach Six Partitas



ピアノは生活の手段だった。(……)ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グールドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。(……)

確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられないためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(高橋悠治「ピアノを弾くこと」

◆Gould - Bach's bourree takes




家具になった音楽  高橋悠治

グレン・グールドが死んだ。クラッシック演奏のひとつの演奏はおわった。

現代のコンサートホールで2000人以上の聴き手をもつようなピアニストは、きめこまかい表現をあきらめなければならない。指はオーケストラ全体にまけない大きい音をだす訓練をうけ、小さな音には表情というものがないのもしかたのないことだ。容量のわずかなちがいによってつくられる古典的リズム感覚は失われた。耳をすまして音を聴きとるのではなく、ステージからとどく音にひたされていればいい耳は、なまけものになった。

音の技術が進む中で
1950年代にレコードがLPになり、テープ編集技術ができあがり、「電子音楽のゆめ」がうまれた。

どんな音もスタジオのなかでおもうままにつくり、くみあわせることができる、と音楽家たちはおもった。材料は自然の音にしろ、人間の声やピアノの音にしろ、聴き手がうけとるのは電圧の変化によるスピーカー膜の振動なのだから、どんな音も電子音の一種に変えられて耳にとどいている。おなじ空間のなかで、つくり手と聴き手がわかちあう音楽ではなく、聴き手のいないスタジオでうまれ、つくり手のみえないスピーカーからながれる音楽がある。音楽は密室の家具になった。テレビが映像をふくむ照明装置であるように。

グレン・グールドは、コンサートホールを捨てて、スタジオにこもった。なまの演奏の緊張と結果のむなしさに神経がたえられなかったのかもしれないが、それを時代の要求にしたてあげたのが、彼の才能だったのか。

グールドのひくバッハは、1960年代にはその演奏スタイルでひとをおどろかした。極端にはやいか、またはおそいテンポ、かんがえぬかれ、即興にみせかけた装飾音、みじかくするどい和音のくずし方。だが、それは18世紀音楽の演奏の約束ごとを踏みはずしてはいない。1970年代には古楽や古楽器の演奏にふれることもおおくなり、グールドの演奏も耳あたらしいものではなくなった。マニエリズムというレッテルをはることもできるようになった。

だが、1960年代のグールドのメッセージは、演奏スタイルではなかった。コンサートホールでは聴くことができない、ということに意味があった。おなじころ、グールドの住んでいた町、カナダのトロントからマーシャル・マルクーハンが活字文化の終わりを活字で主張していた。「メディアがメッセージだ」というのが時代のあいことばだった。

この「電子時代のゆめ」は、数年間しかもちこたえることができなかった。1968年がやってきた。プラハの町にソ連の戦車が姿をあらわし、フランスとドイツで若者たちが反乱をおこし、やがてベトナムはアメリカに勝つ。中国の文化革命もあらしを過ぎ、石油危機を通りぬけると、テクノロジー信仰も、それと対立するコミューンの実験を道づれにしてくずれおちた。次の世代には身をあずけられる原理も、すすむべき道ものこされていなかった。いまメディア革命やその反対側の対抗文化にしがみついている少数は、うしろめたさを感じないではいられないはずだ。いらなくなった文明が病気となって人間にとりついている。文明に反逆する人間も、おなじ病気にかかっている。どちらも船といっしょにしずむのだ。

われわれのしらない明日がやってくる。そこにたどりつこうとしてはいけない。明日やってくる人たちのために、今日のガラクタをしまつしておくのはいい。世界というからっぽな家をひきわたして、でていけばいいのだ。

マルクーハンが死んだときは、もう忘れられていた。グールドも「メディアとしてのメッセージ」の意味がなくなったあとは、演奏スタイルの実験をくりかえすことしかできなかった。レコードというかたちがあたらしくなくなれば、聴いたことのない曲をさがしだしてくるか、だれでもがしっている曲を、聴いたことのないやり方でひくしかない。どちらにしても、そういう音楽はよけいなぜいたくで、なくてもすむものだ。

あすへのつらい希望
音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラッシク音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。音楽産業はどうしようもない不況で、大資本や国家が手をださなければなりたたないというのに、音楽市場はけっこう繁栄している。これほどのからさわぎも、そのななから、人びとにとって意味のあるあたらしい音楽文化をうみだすことに成功してはいない。

グレン・グールドは50歳で死んだ。いまの50歳といえば、まだわかい。だが、かれの死ははやすぎはしなかった。

かれだけではない。だれが死んだって、やりのこしたしごとなどないだろう。しごとの意味の方がさきに死んでしまっている。どこかでそれとしりながら、しごとを続けているのがいまの音楽家の運命だ。こういう仕事をしていれば、いのちをすりへらしても当然だ。

音楽というものがまだほろびないとすれば、明日には明日の音楽もあるだろう。だが、それを予見することはわれわれのしごとではない。いまあるような音楽が明日までも生きのびて明日をよごすことがないとおもえばこそ、音楽の明日にも希望がもてるというものだ。音楽家にとってつらい希望ではあっても。(讀賣新聞 1982年10月21日付け夕刊のグールド追悼記事)

…………

さて、ここで引用の文脈の腰を折って、デュシャンを持ち出す。

デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのだが、それはまさにカントが提起したポイントの一つであった。すなわち、物をそれに対する日常的諸関心を括弧に入れて見ること。もう一つのポイントは、美的判断には普遍性が要求されるにもかかわらずそれがありえないということ、われわれが普遍的と見なすものは歴史的に形成された「共通感覚」にもとづいているということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』岩波定本 P.172)



超越論的態度は暗黙に「括弧に入れよ」という命令をふくんでいる。たとえば、私は先にデュシャンが便器を美術館に展示したことについてふれた。その場合、彼はそれを芸術として見ること、つまり、日常的関心を括弧に入れることを命じてはいない。しかし、それが美術展に置かれているということが、人にそれを美術として見ることを「命令」しているのであり、そのことに人は気づかないのだ。同様に、超越論的な視点がそのような「命令」をはらんでいることが忘れられている。のみならず、超越論的な視点そのものが一つの命令に促されているということが。そのことは、超越論的視点そのものがどこから来るのかと問うとき、明らかになる。それは根本的に「他者」にかかわっている。超越論的視点そのものが倫理的なのだ。(同上 P.181)




いや、ひょっとしたら、わたくしの愛する古代キクラデス諸島の彫刻 と同じくらい美しいかもしれない。





とはいえ、グレン・グールドと高橋悠治のバッハの美のわずかな差異よりは、より大きな差異があるようにみえないでもない・・・


…………



対象a は象徴的体系内部の非徴示的変調 non-signifying glitch であるにもかかわらず、それは、場のなかを埋め合わせるものとしての要素から形式的構造を分離する裂け目の背景においてのみ把握できる。ジャック=アラン・ミレールは最近、構造と変換の話題についてのこに裂け目を詳述した。彼はラカンの四つの言説の母体を取り上げる。そこでは、時計回りとは逆の動きで、四つの用語のそれぞれ(主体―$、主人のシニフィアン―S1、知識の連鎖―S2、対象―a)が、構造における(代理人、他者、真実、生産物)の四つの場すべてを占めていく。いかになにかが不変であり、同時に何かが変わるかの事例である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)




 ※参照:ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」

何が不変なのだろうか? 場、関係性と場のあいだの関係性である。何が変化するのかは、それらの場を占める用語である。……これは、われわれにまさにこう言い得ることを許してくれる。すなわち、構造において、変形は置換である、と。また置換による発話は、構造を力動的にさせる方法、試みであると。さらに言い得ることは、一と多を分節化するためのある構造的な解決だと。場は固定されており、そして用語の置換により、われわれはヴァリエーションを得る。この(固定された)構造的場と、これらの場を占める(変化する)用語のあいだの相違は、その場の用語のフェティシュな凝固作用を崩すために決定的である。それはわれわれに気づかせてくれる、ある範囲までは、対象から発するアウラは対象の直接的な特性ではなく、それが占める場であるということを。

この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器である。それは、小便器自体が展示されることによってアートの対象となった。デュシャンの成果は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。

彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「ひとびとはある人を王とみなすのは、彼が王だからではない。人々が彼を王とみなすから、彼は王なのだ」ということだ。

日常生活において、われわれはこの種の具象化の犠牲者なのである。すなわち、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認する。これがデュシャンの展示会におけるまったく正当的なある挑発を想像できる理由である。すなわち観客が小便器に向けて放尿しはじめるという場面。驚いた傍らの見物人が、ここはアートギャラリーですよ、トイレではありません、と彼に注意を促す。彼は応じる、「おお、あなたは分かっていない。私がアート作品の展示空間に入り込めば、私の行動もパフォーマンスになるのだよーー私がしたことは下品な脱崇高化じゃないんだ。私は単にアートの崇高な空間に新しい内容物を満たしただけさ…」。(同ジジェク、2012) 

たとえば、デュシャンの遺作 Étant donnés の狙いは、究極的には、覗き見のパフォーマ―になることではないだろうか。





鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』)





すなわち、ここには、《女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、 給金なしで一しょに芸をしてくれる》ーーということの現代版があるのではないだろうか。




2016年7月21日木曜日

価値形態論と例外の論理

権力のフェティシズム(ジジェクによる柄谷行人吟味)」補遺。

…………

【商品の価値形態の自己言及的な体系】

それは、ちょうど、群をなして動物界のいろいろな類、種、亜種、科、等々を形成している獅子や虎や兎やその他すべての現実の動物たちと相並んで、かつそれらのほかに、まだなお動物というもの、すなわち動物界全体の個体的化身が存在しているようなものである。(マルクス『資本論』)

…………

普遍性と構成的例外の論理は、三つの段階において展開されるべきである。

(1)まず、普遍性への例外がある。どの普遍性も特殊な要素を含んでいる。その要素は、形式的には普遍的次元に属しているにもかかわらず、突出しており、普遍的次元にフィットしない。

(2) 次に、普遍性のどの特殊な例あるいは要素も、例外であるという洞察が来る。「標準的な」特殊性はない。どの特殊性も突出している。それは、普遍性の観点からは、過剰/欠如している(ヘーゲルが示したように、存在するどの国家も「国家」の概念にフィットしない)。

(3) 次に弁証法プロパーのひねりが来る。例外への例外である。それはいまだ例外であるが、唯一の普遍性としての例外・要素である。その要素の例外は、普遍性自体に直接な繋がりがある。それは普遍性を直接的に表す(ここで注意しておこう、この三つの段階はマルクスにおける価値形態論と共通していることを)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


◆THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE Slavoj Zizek、2002

セミネールXXにて、ラカンは「非全体 pas-tout の論理」と普遍性を構成する「例外の論理」を展開した。

(普遍性に属する要素の)シリーズ series とその例外のあいだの関係性のパラドックスとは、たんに「例外が普遍的規則を基礎づける」という事実にあるのではない。すなわち、どの普遍的シリーズもある例外の除外を含んでいる--例えば、すべての男は譲渡することのできない権力を持っている。狂人、犯罪者、未開人、無教養者、子供等の例外を除いて--という事実にあるのではない。

正当的弁証法の核心は、むしろある意味で、シリーズと諸例外は直接的に一致するいうことだ。シリーズは常に「諸例外」のシリーズである。すなわち、ある例外的な質を示す実体のシリーズであり、それがシリーズに所属するための資格を付与する(英雄の、我々のコミュニティのメンバーの、真の市民の、等々のシリーズ)。

思い起こそう、標準的なスケコマシ male seducer の女性征服リストを。どれも「例外」である。どの女も、特殊な「言葉で言い表しえないもの je ne sais quoi」のために誘惑される。そしてこの女性のシリーズは、まさに例外的な人物像のシリーズである。(私訳)


注)《私はこの点をアレンカ・ジュパンチッチとの会話に負っている。もう一つ例を挙げよう。ここにはまた、ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ボーヴォワールとのあいだの「開かれた結婚」関係の袋小路がある。

彼らの書簡を読むことから明瞭になるのは、二人の「パック」は、事実上、非対称的であり機能していないということだ。それはボーヴォワールに数々のトラウマを引き起こした。彼女は期待した、サルトルは他の愛人の「シリーズ」を持つにもかかわらず、彼女は「例外」、唯一の本当の愛の関係だと。

他方、サルトルにとっては、ボーヴォワールは「シリーズ」のなかの唯一の女ではなかった。彼女は、まさに諸例外の一人だった。サルトルのシリーズは、女たちのシリーズであり、どの女も彼にとっては「例外的な何か」だった。》

…………

◆柄谷行人によるマルクス価値形態論の説明(『トランスクリティーク』2001)。

価値形態論は次のように展開されている。先ず、「単純な価値形態」において、商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。そのとき、商品Aは相対的価値形態、商品Bは等価形態におかれている。マルクスは単純な価値形態を次のような例で示している。

(相対的価値形態)    (等価形態)
二〇エレのリンネル =   一着の上衣


この等式が示すのは、二〇エレのリンネルは、自らに価値があるということができず、一着の上衣と等値されたあとで、はじめてその自然形態によって価値を示されるほかない、ということである。一方、一着の上衣は、いつでも前者と交換できる位置にいる。等価形態が、一枚の上衣にあたかもそれ自身のなかに交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかのように見えさせるのだ。《商品が等価形態にあるということは、その商品が他の商品と直接に交換されうるという形態にあるということなのである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)。

貨幣の謎はこうした等価形態にひそんでいる。マルクスはそれを商品のフェティシズムと呼んだ。むろん、この単純な等式においては、一着の上衣がつねに等価形態にあるわけではない。二〇エレのリンネルもまた等価形態に立ちうるからである。

《もちろん、リンネル20エレ=上衣1着 あるいは、二〇エレのリンネルは一着の上衣に値するという表現は、上衣1着 =リンネル20エレ あるいは一着の上衣は二〇エレのリンネルに値するという逆の関係も、含んではいる。だが、そうではあるけれど、上衣の価値を相対的に表現するには、この等式を逆にしなければならず、そしてそうすると、たちまち上衣にかわってリンネルが、等価になるのである。したがって同じ商品が、同じ価値表現で、同時に両方の形態え登場することはできないのである。両形態は、むしろ対極的に排除しあうのだ。

いまや、ある商品が、相対的価値形態にあるか、それとも対置された等価形態にあるかは、もっぱらそれが価値表現において、そのつど占める位置に、つまりその商品が自分の価値が表現される商品であるか、それとも自分に価値が表現される商品であるかに、かかっている。》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(同前)。単純な価値形態においては、リンネルは相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのか決定できない。具体的にいうと、リンネルの所有者がリンネルと上着を交換したとき、リンネルで上着を買ったと考えているなら、リンネルは等価物であるが、他方、上着の所有者は上着でリンネルを買ったと考える。つまり、上着等価物であるということがありうるのである。

つぎに、形態Ⅱ「拡大された価値形態」は次のようなものである。



ここでは、リンネルは上着以外の多くの物と交換される。しかし、この場合でも、リンネルが相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのかはまだ決定できない。それが決定されるのは、形態Ⅲ、「一般的な価値形態」が形成されるときである。



このとき、リンネルは一般的等価物となる。いいかえれば、それのみが購買力(直接的交換可能性)をもつ。それとともに、他のものが等価形態に立つことができなくなる。平たくいえば、貨幣でないすべての商品は、買われることはあっても買うことができなくなるのである。この第三の形態の形成は、ホッブスが『レヴァイアサン』で述べた社会契約と似ている。マルクス自身、それを「商品間の共同事業」と呼んでいる。
第四の形態、「貨幣形態」は「一般価値形態」の発展としてある。しかし、貨幣形態の核心はすでに一般形態において示されているので、ここでは述べない。大事なのは、このような発展を歴史的な発展と混同してはならないことである。マルクスは、その逆に、より発展した形態がおおいかくすものを超越論的=系譜学的な遡行によって見いだしているのである。貨幣形態においては、金や銀のみが一般的な等価形態の位置を占め、他のすべての物は相対的価値形態におかれる。その結果、次のように考えられてしまう。


一商品は、他の諸商品が自分らの価値を全面的にこの一商品で表わすがゆえに、はじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるがゆえに、他の諸商品が自分らの価値を一般的にこの一商品で表わす、というように見えるのだ。

過程を媒介する運動は、運動そのものの結果のなかに消えさっていて、何らの痕跡もとどめていないのだ。諸商品は、自分では何もしていないのに、自分自身の価値の姿が、自分の外に、自分と並んで存在する商品体として、感性されているのを見いだすわけである。この物は、金や銀は、地球の奥底から出てきたままで、同人あらゆる人間労働の直接の化身なのである。だからこそ、貨幣の魔術が生ずるのだ。》(『資本論』第一巻第一篇第二章)


貨幣形態が消してしまうのは価値形態そのものである、といってもいい。つまり、或る物を貨幣あるいは商品たらしめる、その「形式」が見失われる。その結果、重商主義者や重金主義者がそうであったように、金そのものに特別な価値があるかのように考えられてしまう。一方、古典派経済学者(スミス、リカード)はそれを否定し、それぞれの商品に内在的な価値があり、貨幣はたんにそれを表示しているだけであると主張した。この考えに基づいて、リカード左派やプルードンらは、貨幣を廃棄して、労働証票や交換銀行を作ることを構想した。マルクスがいう貨幣形態において、金がレヴァイアサンであるとするならば、古典派はそのような絶対王権体制を倒して、それをいわば立憲君主制にした、といってよい。さらに、その意味では、社会主義者たちは、商品の民主主義体制を作ろうとしたといってよい。つまり、彼らは貨幣=王なしにすまそうとしたのである。
しかし、それは本当に貨幣=王を揚棄することではない。たとえば、絶対主権者(絶対王政)を倒して出現した国民国家において、人民主権が唱えられるが、そのような人民がすでに絶対王政によって輪郭づけられたものだということが忘れられている。人民はすでに国家の人民なのである。同様に、商品を残しておいて貨幣を否定するのはおかしい。商品も貨幣と同様に価値形態いおいてはじめて存在するのである。したがって、古典派経済学において貨幣が無視されているということは、貨幣形態、すなわち、価値形態が無視されているということにほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)


◆ホップス「レヴァイアサン」をめぐる箇所

……マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。

絶対主義王権においては、王が主権者であった。しかし、この王はすでに封建的な王と違っている。実際は、絶対主義的王権において、王は主権者という場(ポジション)に立っただけなのだ。マルクスは、金は一般的な等価形態におかれたがゆえに貨幣であるのに、金そのものが貨幣であると考えることを、フェティシズムとよんだ。そのとき、彼は、それを次のような比喩で語っている。《こういった反省規定はおよそ奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。しかし、これはたんなる比喩ではなくて、そのまま絶対主義的な王権に妥当するのである。古典経済学によって重金主義が幻想として否定されたのと同様に、民主主義的なイデオローグによって絶対主義的王権は否定された。しかし、絶対主義的王権が消えても、その場所は空所として残るのである。ブルジョア革命は、王をギロチンにかけたが、この場所を消していない。通常の状態、あるいは国内的には、それは見えない。しかし、例外状況、すなわち恐慌や戦争において、それが露呈するのだ。

たとえば、シュミットが評価するホップスについて考えてみよう。ホップスは主権者を説明するために、万人が一人の者(レヴァイアサン)に自然権を譲渡するというプロセスを考えた。これはすべての商品が一商品のみを等価形態におくことによって、相互に貨幣を通した関係を結び合う過程と同じである。ホップスはマルクスの次の記述を先取りしている。《最後の形態、形態 Ⅲにいたって、ようやく商品世界に一般的・社会的な相対的価値形態が与えられるが、これは、商品世界に属する商品が、ただ一つの例外を除いて、ことごとく一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである》(『資本論』第一巻第一篇第三節C)。すなわち、ホップスは国家の原理を商品経済から考えたのである。そして、彼は主権者が、貨幣と同様に、人格であるよりも形態(ポジション)において存するということを最初に見いだした。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

…………

※付記:蓮實重彦のポジション批判の叙述

王殺しなどかつては起こりはしなかったかのごとくに振る舞いながら、記憶喪失に徹すること。また一方で、忘れられた王殺しにもかかわらず、空位になった王座に誰もが自分を位置づける権威だけはあると確信すること。その二つの契機が、あらゆる人に、自分が始めたわけでもない遊戯の終わりを予言する資格を賦与することになるのだが、そのとき未来形に置かれている動詞はすぐさま過去形に混同され、何れにしても終わりを潜在的な主題とするいくつもの短い物語を生産する。その主題を潜在的な領域におしとどめておくことも二重の倒錯を健康ととり違えることに有効かもしれない。(蓮實重彦『物語批判序説』)
説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。

近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。(蓮實重彦『物語批判序説』)
ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなければならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

※参照:蓮實重彦による il n'y a pas d'Autre de l'Autre




権力のフェティシズム(ジジェクによる柄谷行人吟味)

民主主義についてのカントの限界は、貨幣のアンチノミー(我々は、《「貨幣があってはならない」」と「貨幣がなければならない」というアンチノミー》(柄谷行人、p455)という X が必要だ)についての柄谷行人の「超越論的」解決法の限界と相同的である。柄谷が権力にこの解決法を再適用するとき(我々はある中心化された権力が必要である。しかし、「権力」自体であるところの実体にフェティシズム化されない権力が必要である)、ーーそして彼がマルセル・デュシャンとの構造的相同性をあからさまに持ち出すとき(対象が芸術作品になるのは、その固有の属性ではなく、シンプルに構造のなかのある場を占めることによってだ)ーー、クロード・ルフォールの民主主義理論化と完全に合致しないだろうか? すなわち、権力の場はもともと空虚であり、選挙で選ばれた代表によって一時的に占められるのみであるという政治的秩序としての民主主義の理論化と。

この線に沿えば、柄谷の、選挙と「くじ引き」よる選択を組み合わせるという一見エキセントリックな提案は、その印象よりは伝統的なものだ(柄谷自身、古代のギリシアに言及している)。逆説的にそれは、ヘーゲルの君主制理論と同じ機能を実現する。

ここで柄谷は英雄的なリスクを取っている。それは、ブルジョア独裁とプロレタリア独裁とのあいだの相違の気違いじみた crazy‐sounding 定義を提案することによってである。《もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁に形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである》。このようにして、《中心は在ると同時に無いといってよい》。すなわち、空虚な場、「超越論的統覚 X」として存在し、確たる能動的な実体としては存在しない。

しかし、「権力のフェティシズム」を掘り崩すためには、これで本当にじゅうぶんなのだろうか? ふつうの個人が権力の場を占めることを一時的に許されたとき、権力のカリスマが彼に授けられる。フェティシュの否認の標準的な論理に従いつつ、である。「私はよく知っている。これは私と同じようなふつうの人物だと。でもそれにもかかわらず…(権力のなかにあるとき、彼は超越的な力の道具となり、権力が彼を通して話し行動する)!」

これやカントの解決法ーー形而上学的命題(神、不死、等々)は、「抹消の下に」仮説として強く主張されるーーの一般的な母体に合致しないだろうか? したがって、真の課題は、権力の場の神秘性そのものを取り除くことではないだろうか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ラカンの弟子オクターヴ・マノーニの古典的論文『よく知っているが、それでも……』のフェティシズムの論理は、「よくわかっている、しかし、それでも……」という形式において、「それでも……」以下に語られる無意識的信念へのリビドーの備給を示すフェティシズムの定式である(「母さんにペニスがないことは知っている、しかしそれでも……[母さんにはペニスがあると信じている]」)、--というもの。

これを権力のフェティシズムに結び付けて語れば、次の通り。

物事は私の目の前に映った通りだということはよくしっている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジ(ファルス:引用者)をつけているので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

…………

◆柄谷行人による「くじ引き」叙述の箇所

……われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打倒するところから生れたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。

一方、アテネ民主主義システムから多くを学んだにもかかわらず、プルードンはブルジョア的普通選挙を批判したとき、それをくじ引き同然だといって非難している。しかし、くじ引きは選挙を否定するものではなく、むしろ選挙を真に活かすために不可欠である。代表者選挙においては、代表するものと代表されるものが固定的に分離されてしまうが、コンミューンにおける選挙も結局はそうならざるをえないだろう。決まっておなじ人が選ばれることになり、また内部的な派閥が生み出されることになる。とはいえ、全部をくじ引きで決めることは無意味であり、結局、それ自体が否定されてしまう結果になるだろう。たとえば、アテネでも、軍人はくじ引き制にもとづいていない。ただ、将軍を毎日交替させることで、権力の固定化を阻止したのである。今日、くじ引きが採用されるのは、陪審員や、誰がやってもよく、そして誰もがやりたがらないようなポストに関してのみである。つまり、くじ引きは、能力が等しいか、あるいは能力が問われない時にのみ採用される。しかし、くじ引きを採用すべき理由はその逆である。それはむしろ選挙を腐敗させないため、また、相対的に優れた代表者を選ぶためである。

それゆえ、われわれにとって望ましいのは、たとえば、無記名(連記)投票で三名を選び、その中から代表者をくじで選ぶというようなやり方である。そこでは、最後の段階が偶然性に左右されるため、派閥的な対立や後継者の争いは意味をなくす。その結果、最善でないにせよ、相対的に優れた代表者が選出されることになる。くじに通った者は自らの能力を誇示することができず、くじに落ちた者も代表者への協力を拒む理由がない。このような政治的技術は、「すべての権力は堕落する」などという陳腐な省察とはちがって、実際に効力がある。このように用いられるとき、くじ引きは、長期的に見て、権力を固定させることなく、優秀な経営者・指導者を選ぶ方法である。くりかえすが、われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。労働者の自主管理や生産協同組合においても、この問題は消滅しない。特に資本制企業と競争しなければならないとき、それらは大なり小なり資本制企業の組織原理を採用するか、さもなければ消滅するかを迫られる。であれば、最初から、ハイアラーキー(位階)が存在することを前提しておくべきである。ただ、それが各人の合意によって成立し権力の固定化が生じないように、選挙とくじ引きを導入すればよい。

ところで、国家と資本に対抗する運動は、それ自身において、権力の集中する場に偶然性を導入するというシステムを導入していなければならない。そうでなければ、こうした運動は、それが対抗するものと似たようなものになるほかはない。他方、集権主義的なピラミッド型組織を否定するところから始まった、様々な市民運動は、逆に、離散的で断片的なままの離合集団に留まっている。そして、結局、議会政党の票田となるだけである。そうであるかぎり、それらが資本と国家に対して、有効な対抗をなしうるとは思えない。しかるに、もしこのような政治的技術を導入すれば、中心化をすこしも恐れる必要はないのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

※補遺:価値形態論と例外の論理