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2016年2月20日土曜日

バルトとマナ(浮遊するシニフィアン signifiant flottant)

マナは神秘的であるのみならず、次元の異なったなにものかでもある。要するにマナは、まず第一にある種の作用、つまり共感的な存在の相互間に生み出される遠隔の霊的作用である。それはまた同時に、重さのない伝達可能な、そして自ら拡散する一種のエーテルである。(マルセル・モース『社会学と人類学 (1)』)
われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』) 

ーーと二つの文を並べたが、レヴィ=ストロースはモースの「マナ」概念を参照しつつも、より形式的に捉えつつ、「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」と言っている(いくらかのモース批判もあったはずだが、詳しいことは知らない)。

これはラカンによって、(まずは)「ポワン・ド・キャピトン point de capiton」(クッションの綴じ目)と言い換えられ、その後、ミレール=ラカンによって「縫合 Suture」概念が前面に出る。

これらは、ファルス、主人のシニフィアン、サントーム概念などにもかかわる(ジジェク2012にその詳細の説明があるが、そのうち訳して掲げるかもしれない。今日は歯痛で訳す気にならない。文章のパッチワーク程度が関の山だ)。


ミレールにとって、縫合は、Σ(サントーム)である。ジジェクにとっては、ファルスのシニフィアンΦS(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーが、主人のシニフィアン S1であり、シニフィアン「一」 l'Un-signifiant」である。


「一」自体が、厳密な意味での、非一貫性を生む。「一」がなければ、たんに平坦な・平凡な「多」multiplicity があるだけだ。「一」は、元来から、(自己)分割のシニフィアンであり、究極の補足あるいは過剰である。先行して存在する現実界を再徴付けのために、「一」はそれ自身から己を分割し、それ自身との非合致 non‐coincidence を導入する。

結果として、事態をいっそうラディカル化するなら、主人のシニフィアンとしてのラカンの「一」は、厳密な意味で、それ自身の不可能性のシニフィアンである。ラカンはこれを明瞭化している。それは彼が、どの「一」、どの「主人のシニフィアン 」S1も、同時に S(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーだと強調したときだ。したがって、「一」がそれ自身と決して十全には合致しないから、「他」がある、というだけではない。「他」が棒線を引かれている barred・欠如している・非一貫的であるから、「一」がある(ラカンの Y a d'l'Un)ということだ。〔ジジェク、2012、私訳ーー「ゼロと縫合 Suture」)


ジジェク解釈のサントームΣはどうか。

主人のシニフィアンは、無意識のサントーム、享楽の暗号である。主体はそのシニフィアンに、知らないままで主体化されている。(ジジェク『パララックス・ヴュー』2006ーー父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって

ジジェク解釈では、ラカンによる「マナ」のラディカル化により、これらがすべて浮遊するシニフィアン、非意味のシニフィアン(ドゥルーズ)と相同性をもつ、としている。

…………

が、ここでは、それらに触れず、ロラン・バルトのマナをめぐる叙述を掲げるのみにする。

言語活動の生き物として、作家はいつもフィクションの(特殊語法の〔パレル〕)戦争に巻き込まれている。しかし、彼を成立たせている言語活動(エクリチュール)はいつも場所の外にある(アトピックである)から、彼は、そこでは、いつも玩具でしかない。多義的(エクリチュールの初歩段階)であるというだけで、文字のパロールの戦闘参加は始めから怪しい。作家はいつも体系の盲点にあって、漂流している。それはジョーカーであり、マナであり、ゼロ度であり、ブリッジのダミー、つまり、意味に(競技に)必要ではあるが、固定した意味は失われているものである。彼の位置、彼の(交換)価値は、歴史の動きや戦術によって変わる。彼には、すべて、および/あるいは 無が要求される。彼自身は交換の外にあって、利益ゼロ、無所得禅の中に没入する。単語の倒錯的な悦楽以外には何も得ようとせずに(しかし、悦楽は決して獲得ではない。悦楽と悟り、忘我の間に、距離はない)。逆説。すなわち、(悦楽によって死の無償性に接近する)エクリチュールのこの無償性を作家は沈黙させる。彼は体を引き締め、筋肉を堅くし、漂流を否定し、悦楽を抑える。イデオロギーの抑圧とリビドーの抑圧(もちろん、知識人が自分自身に、自分自身の言語活動に加える抑圧)の双方と同時に戦う作家は非常に少ない。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』)
マナとしての語

ひとりの著作者の語彙系の中には、つねにひとつ、マナとしての語の存在する必要があるのではないか。その語の意味作用、燃えさかり、多様な形をもち、補足できず、ほとんど神聖であり、その語から人は、それによって何にでも応えることができる、という錯覚を与えられる。その語は、中心はずれでもなければ、中心的でもない。それはみずから動くことなく、しかも運ばれ、漂流し、決して《仕切りの中にはめ込まれる》ことなく、つねに《アトピック》であり(どんなトピカからも逃れ)、残余であると同時に追加であり、ありとあらゆる記号内容をまとめて代表する記号表現である。その語は彼の仕事の中に徐々に姿をあらわした。それははじめのうち、“真理”の審級(“歴史”のそれ)において覆い隠されていた。次には“妥当性”の審級(体系と構造のそれ)において覆い隠された。が、今、それは開花している。その、マナとしての語、それは「身体」という語である。 (『彼自身によるロラン・バルト』)

悦楽 jouissance とは、享楽とも訳される。かつまた「漂流 dérive」という語にかかわり、身体 corps ともかかわる(参照:L'Autre、c'est le corps ! )。 バルトにとって、「浮遊するシニフィアン」とは、「漂流するシニフィアン」であり、これがマナである(おそらく、ラカンの「波打ち際 littorale」概念も漂流にかかわるだろう)。前回、「マークつきの空虚」も、バルトにとって、マナであるだろうことを見た。

・・・・・《欲動》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenz-begriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代表 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)
フロイトのいう欲動 der Trieb を、ただちに本能 der Instinkt の概念に重ね合わせることはできない。本能とは『遺伝によって固定されたその種に特徴的な行動を示すための概念』であり、欲動とはそのような本能からのずれ、逸脱、漂流 dériveだからである(ラカン、セミネールⅩⅩアンコール.)

ーーということについては、「漂流(出現ー消滅)する女たち」にいくらかのメモがある。

わたくしは、上の文章群から、mana = S(Ⱥ) としたいのだが、ネット上にある英文、仏文では誰もそういっているのに当らないので、何かの間違えだろう。

…………

最後に注意しておくが、バルトの捉え方が、ラカンと同じとは限らない。

たとえば、ラカンのセミネールⅩⅣには次のような文がある。

……signifiant de A barré S(Ⱥ), à savoir la disjonction de la jouissance et du corps (p.197)

この時期の「身体 corps」、あるいは、この文脈での身体ーーマゾヒズムをラカンはこの前文で語っているーーをどう捉えるかにもよるが(ラカンには三つの身体がある)、言葉面だけをみれば、バルトの言い方とは合致しない。







2016年2月19日金曜日

「マークつきの空虚=マナ」との同一化

ゼロ記号」は数学におけるXのように意味の不定値を表す働きをする。(……)

その独自の機能は、シニフィアンとシニフィエの間のずれを埋めること、あるいはより正確にいえば、(……)シニフィアンとシニフィエの間の相補関係が損なわれて、両者のあいだに不整合な関係が生じていることを徴づけることである。(浅利 誠「レヴィ・ストロースとブルトンの記号理論」ーー「要素と構造」)

…………

ゼロと縫合 Suture」にて、いささかまわりくどいことを記しているのかもしれないが、基本は、レヴィ=ストロースの「浮遊するシニフィアン」=マナ=ズレを埋めるゼロ記号の問いなのであり、それを「ゼロシニフィアン」やら「縫合」やらといったり、S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)と言っているに過ぎない(そこでの扱い方は、より形式的に捉える形だが)。

そして、《この問題は一見アカデミックなもののようにみえるが、そうではない。究極的には、人のアイデンティティにおいて要素を結びつけるものは何かという問いに関わるからだ。》(ヴェルハーゲ、2009)

たとえば、ロラン・バルトのジイドとの同一化の話。「マークつきの空虚」とあるが、これも浮遊するシニフィアンの話だ。

恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)

中井久夫の次の文も同様である。

昭和三十八年の秋から四十一年の同じく秋まで、私はある韓国のおばあさんの家に下宿していた。(……)

私はその国の言葉を多少知っていた。最初の朝鮮語辞典(北系統の人の労作)の表紙のハングルが裏文字でも誰も気づかなかった時代のことである。李舜臣と安重根の二人の名を知っていたのも「合格」に幸いしたのであろう。この二人への尊敬を祖父は幼い私に語っていた。
注)ここでは父方であるが、多くを語るのがためらわれるのは、私の世代、つまり敗戦の時、小学五、六年から中学一年生であった人で「オジイサンダイスキ」の方が少なくないからである。明治人の美化は、わが世代の宿痾かもしれない。私もその例に漏れない。大正から昭和初期という時代を「発見」するのが実に遅かった。祖父を生きる上での「モデル」とすることが少なくなかった。

精神分析的にみれば、これは、子どもは父に対抗するために、弱い自我を祖父で補強するということになる。これは一般的には「祖先要求性」(Ahnenanspruch)というのであるが、祖先といっても実際に肌のぬくもりとともに思い出せるのは祖父母どもりであろう。「明治」を楯として「大正」に拮抗するといえようか。
最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。二十年七月一八日、米艦船機の至近弾がわが家をゆるがせた。超低空で航下する摘記は実に大きく見えた。祖父は突然空にむかって何ごとかを絶叫した。翌日、私に「オジイサンは死ぬ。遺言を書き取れ」と言い、それから食を絶って四日後に死んだ。(中井久夫「Y夫人のこと」『家族の深淵』所収)

こうやって祖父が亡くなり、中井久夫は「同一化」から「分離」したのか。いや、《基本的には、分離は、ある同一化を拒絶し、他の代替を選ぶこと》である。

基本的には、とは、たとえば「精神病者」でなければ、ということであり、ほかに神経症者治療における精神分析臨床における「主体の解任destitution subjective」においては、真の「分離」(幻想の横断)が起こるとされる。それらの例外を除けば、という意味である。

さて、「私はそうではない“I am not” 」と人が言うとき、私たち二番目の過程に導かれます。分離、それは相違を導入します。私たちは異なったようになります、というのは、初期の段階以降、私たちはある同一化のモデルを拒絶し、他のモデルを好むようになるからです。どの親も経験します、二歳のよちよち歩きの子どもがムズカシクなり、自分の意志を示すようになります。そのとき彼もしくは彼女が、同時に二つの新しい単語を発見するのは偶然ではありません。その単語とは、「イヤno」と「自分me」であり、とてもしばしば、その二語を組み合わせて使います。自立の要求がふたたびほとばしり出るのは思春期で、それはその時期のホルモン分泌の強度のなかでです。今度は独立心の錯覚を伴っています(ぼくが自分自身で決めるよ!)。ある範囲で、この独立心は錯覚なのです。というのは基本的には、分離は、ある同一化を拒絶し、他の代替を選ぶことに帰結するからです。その意味は別の鏡に反映させるということです。同一化と分離の組み合せが意味するのは、最初期から、私たちのアイデンティティは、類似と相違のあいだの天秤だということです。私たちは引き裂かれるのです、他者に溶け込む促しと、他者から距離をとる促しのあいだで。
基本的に、「私が私である」のは、ある重要な他者と関係する私独自の仕方によります。もっと個別的に言うなら、私が他のジェンダーに関わる仕方、他の世代に、私の同僚に、そして最終的には、私自身に関わる仕方です。実に、幼児期以来受け取ってきたジェンダーのアイデンティティを鏡に映すことは、同時にジェンダーの関係を鏡に映すことでもあります。私の男性性は、いかに女性性に気づき学んできたかによって決定されます。もし私が女性をすべての悪の根源、私を罪に陥れるものと思い込んでいたなら、私は恐々とした、厳格な男ーー己れの煩悩に打ち勝つための闘争を女性に投影する男ーーになるでしょう。もし私が女性を優しく思いやりのある、けれども、支配的な存在だと感じていたなら、私はそこから永遠に逃れようと努める大きな息子man-sonになるでしょう。等々。これ等は、男と女の本質を定める努力の運命づけられた特質です。(Paul Verhaeghe、 Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities、2012)


中井久夫の祖父の代わりはーーすぐさまそうだったのではなく、おそらく甲南中学の教師などを経由してのものだろうがーー、ヴァレリーである。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社  2008 年、プレオリジナルは 1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。 ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。 (中井久夫「ヴァレリーと私」(書き下ろし)『日時計の影』2008)

冒頭近くに掲げたバルトの文には、ジイドの「その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀」という文があった。その文と次ぎの文をともに読んでみよう。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字「r」発音する風変わりな仕方があるとすれば、われわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは、必要がない。
フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な extraordinary 形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の関係性(密かな恋の危機)の瞬間に現われた特徴 trait に同一化する形である。(Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value、2006

ここには、trait unaire(一つの特徴)=主人のシニフィアンの説明が現われているが、それは、あっさり言ってしまえば、マナのことである。

バルトの文にこうもあった、《いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか》、と。作家とは関係なしに、現在、同一化の対象ーー祖父でもいい、映画スターでもいいーーがだんだん少なくなってきている時代ではあるだろう。

とはいえ、次のような同一化は、厳然としてある。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)


 たとえば、この現象は、デモ参加者たちの様子を垣間見るだけで明らかであり、他にも、ツイッター上における同一クラスタ内の湿った瞳の交わし合い、頷き合いといったら、あれはまさになんらかの形の「同一化」が機能しているはずだ。それは「マークつきの空虚」への同一化(象徴的同一化)であったり、想像的同一化であったりはするだろうが。

そして、《同情は、同一化によってのみ生まれる》 (フロイト『集団心理学と自我の分析』)を変奏して言えば、共感するから同一化するのではない、同一化するから共感する。

この現代でも「マナ」はしっかりと機能している。

……そのような一つのシニフィアンの必要性を最初に全面的に詳述したのは、レヴィ=ストロースだった。それは、彼の有名な「マナ」解釈である。彼の成果は、神話や魔術の非合理的コノテーションを厳密な象徴的機能に還元して、マナを脱神秘化することだった。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

2016年2月18日木曜日

ゼロと縫合 Suture

《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ》(参照)“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)

《横棒barreの機能はファルスと関係ないわけではない》“la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus.” (Séminaire XX ENCORE Staferla 版 p.51)

ここでの横棒とはソシュール図式の横棒である(参照)。



かつまた、ファルスΦとは、主人のシニフィアン S1、かつまた S(Ⱥ)などでもありうる(参照:父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって

そしてファルスとは、「ファルス化された」対象aのことでもある。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]ーー「享楽 (a) とファルス化された対象a(Paul Verhaeghe)」)

…………

さてここからが本題である。

フレーゲはゼロを「それ自身と同じでないもの」と定義した。ジャック=アラン・ミレールはそれを「ゼロ概念」と呼ぶ(『Suture(縫合)』)。世界にはそれ自身と同じようでない対象はない。しかしながら、集合論においては自明の考え方ーーそこでは空集合があるとする(空集合、すなわち要素をひとつも含まない集合Φ)ーーとは異なって、フレーゲの数学的論理においては、「それ自身と同じでないもの」という概念は、ひとつの対象を包含する。それはゼロ数字自身である(いま我々は考えることができる、ミレールが言うところの「ゼロ概念」を)。このようにして、ゼロ数字はこの概念に割り当てられる。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege),2014,PDF))

フレーゲは同一性の定義として、以下のライプニッツの定義を採用している。

《Eadem sunt, quorum unum potest substitui alteri salva veritate.》[真理をそこねることなく一方が他方に代入可能であるものは同一である ]

…………

以下、「“The first great Lacanian text not to be written by Lacan himself” – Reading Miller’s ‘Suture’」より(上の文同様、ほとんど初山踏みなので、原文を必ず参照のこと)。

縫合 Suture とは、主体の「言説の鎖」に対する「主体の関係」の名である。…それは、替え玉(代役 [tenant-lieu])の形式にて、欠けている要素として形象される。欠けているとはいえ、純粋に・単純に不在ではない。拡張して言えばーー「構造」に対する「欠如」の一般的な関係について言えばーー、縫合は要素の性質を持っている。それが、代役 [tenant-lieu]の場を意味する限りにおいて。(ミレール『縫合』)

《「構造」はそれを統合する超越論的主観を暗黙に前提としている。しかし、構造主義者がこうした「主観」なしにすませうるのみならずそれを否定しうると考えたのは、彼らが、存在しないが体系を体系たらしめるものを想定したからである。それが、ゼロ記号である。(……)ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えなのであって(……)構造主義はゼロ記号の導入とともにはじまったのだが、構造主義者自身はその哲学的含意について考えなかった。たんに、彼らはそのことによって、主観から始まる近代的思考を払拭しえたと信じた。だが、主観なしにすませると思いこんだとき、彼らは暗黙に主観を前提としていることを忘れたのである。》(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー要素と構造


もし、シニフィアンのアイデンティティが、その一連の構成的差異以外の何ものでもないならーー例えば、「昼 day から夜 night」 、ここにおいて、一つのシニフィアンは、「それがそうではないもの what it is not」の対立においてのみ定義されるーー、全てのシニフィアンの連鎖 series は、一つの再帰的-反射的シニフィアン a reflexive signifier によって補わなければならない supplemented ーー「縫合 suture」されなければならない--。この再帰的シニフィアン自体は、いかなる確定した意味もない(シニフィエされることはない)。というのは、それは、意味の現前自体、その不在に対立したものとしての意味の現前の代わり「のみ」を表すからだ…。したがって、どのシニフィアンの領野も、補充的な supplementary ゼロシニフィアンによって「縫合 suture」されなければならない…。このゼロシニフィアン(再帰的シニフィアン)は「純粋状態のシンボル」である。すなわち、どんな確定した意味も欠けており、その意味の不在と対照的に、意味の現前自体を表す。(Zizek in Hallward, p.150-151).

※「それがそうではないもの what it is not」とは、おそらく、バディウの l'Un n'est pas、compte-pour-un、mise-en-un などにかかわる(参照)。

徴示する鎖 signifying chain の一つの連結 link から別の連結に於いて、ひとつのシニフィアンは、他のシニフィアンに対して、「自己アイデンティティ」あるいは「場」の本質的な欠如ーーすべて主体としての主体の表象にかかわるーーを表象し、設置し、あるいは縫合する。(Hallward, p.50).

《「ゼロ」に対して「一」を代替する「原隠喩」は、「継起的進展の換喩の連鎖」にとってのモーターである。同様に、ゼロは、不在(ゼロ概念)と数(計算可能な数としてのゼロ、ゼロの「固有名」としてある「一」)とのあいだを縫合するものとして働く。これが、ラカンが「一の徴」trait unaire と呼んだものであり、フロイトが「ein einziger Zug」にて示したものだ。この「一の徴」は、「他(者)」の領域の外部にあるもの(主体)と、「他」の領域の内部にあるもの(徴示する鎖 signifying chain)とのあいだを縫合する。 》

…………

ーーこの最後の無署名の文を信用すれば(素直に読めば)、ゼロは「一の徴」のことであり、「縫合」にかかわる。他方、ジジェクの文には、ゼロシニフィアンが「縫合」作用をもつ、とある。

とすれば、ゼロシニフィアン=「一の徴」なのだろうか。このあたりを正確に理解するためには、フレーゲを読まなければならないようだが、解説書のたぐいでも数頁でメゲルーー。

・フレーゲ曰く、《唯一概念のみである、限定的な仕方でその概念に該当するものを孤立する概念、そしてその概念を部分へと恣意的な分割を許さない概念のみが、有限な数にかかわるひとつのユニットでありうる》。これはマイケル・ダメットの解説によれば、フレーゲにおいて、概念による対象の「包み込み subsumption」(包含、包摂)は、いまだ対象ではないもの(‘this is darker/bigger/smoother than that')のあいだの proto-relations (原関係性)を比較することによって、そして相似-差異の集合を対象の数あるいはアイデンティティへと分化することによって生じる。

・概念と対象は、概念と対象の多量均等性 equi-numerousness を基盤として、両一義的な bi-univocal 関係に入る。

・ペアノの公理に従って、フレーゲは三つの基本的な数を定義した。ゼロ、一、後者(successor)である。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege),2014,PDF))

そして、Guillaume Collettによれば、上に記したフレーゲのゼロの定義に引き続く「一」と「N+一」の定義が肝要らしいが、この文は訳す気にさえいまだならない。いつかなるかも疑わしい。

1—The passage from 0 to 1 is a counting-as-one of the zero. From the number one we automatically have the concept of the number one. To the concept of the number one is assigned the number two, since the concept of the number one subsumes two objects: the zero-object and the number one (which we have seen is the number zero considered as one object, the zero-object).

To the concept of the number two is assigned the number three, and so on. All numbers are thus com-posed solely of zeros, of single counts of the zero-object, and the number one is the conceptual operator of all bi-univocal relations (it presides over the one-to-one mapping of elements found in contiguous sets).

counting-as-oneとバディウ概念のcompte-pour-unとはおそらく同じであろう。

«…… que toute référence au vide produit un excès sur le compte-pour-un, une irruption d'inconsistance » (Badiou, L'être et l'événement)


N + 1—We thus always have object (n-1), concept (n), number (n+1), in this ascending numerical sequence. The number three (+1) is assigned to the concept of the number two (here n=2) which subsumes three objects: the concept of the number one (1 object), the concept of the number zero (1 object), and the zero-object itself (which is not an object, -1). The number three is an excess (+1) of a number because it counts the zero-object as an object when it really is a number (making the zero-object a lack (-1) of what it was counted as). Therefore, if all objects are nested collections of collections (of zeros) there is no such thing as an object, only the counting-as-one of the zero-object.


こられの文から、アンコールのラカンのハチの巣l'essaim(エスアム→ S1)の記述を思い出さないわけではない。

…ce S1 que je peux écrire d'abord de sa relation avec S2, eh bien c'est ça qui est l'essaim.

S1 (S1 (S1 (S1 (S1 → S2) ) ) )ーーー("Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」

…………

以上は、(近い将来のための?)資料として置いておき、ここではごく「標準的な話」を記しておこう。

シニフィアン「一」 l'Un-signifiant」とは、いわゆる主人のシニフィアンS1でもあり、ラカンの「一の徴」unary traitの一種でもある。

《C'est à savoir par exemple que le trait unaire… pour autant qu'on peut s'en contenter, on peut essayer de s'interroger sur le fonctionnement du signifiant-Maître》 (ラカン、セミネールⅩⅦ、p.323ーー「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」)

「一」自体が、厳密な意味での、非一貫性を生む。「一」がなければ、たんに平坦な・平凡な「多」multiplicity があるだけだ。「一」は、元来から、(自己)分割のシニフィアンであり、究極の補足あるいは過剰である。先行して存在する現実界を再徴付けのために、「一」はそれ自身から己を分割し、それ自身との非合致 non‐coincidence を導入する。

結果として、事態をいっそうラディカル化するなら、主人のシニフィアンとしてのラカンの「一」は、厳密な意味で、それ自身の不可能性のシニフィアンである。ラカンはこれを明瞭化している。それは彼が、どの「一」、どの「主人のシニフィアン 」S1も、同時に S(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーだと強調したときだ。したがって、「一」がそれ自身と決して十全には合致しないから、「他」がある、というだけではない。「他」が棒線を引かれている barred・欠如している・非一貫的であるから、「一」がある(ラカンの Y a d'l'Un)ということだ。〔ジジェク、2012、私訳)


《S1はどんなシニフィアンでもいい》(セミネールⅩⅦ、原文

S1はシニフィアン「一」から来る、その格言「「一」のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの巣)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (ポール・ヴェルハーゲ、 Enjoyment and Impossibility、2006).

「一」のシニフィアンとは、たとえばシニフィアン「私」のことである。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン「私」である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
「私」を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

もちろん、我々の名前(固有名)も、「一」のシニフィアンだ。


ラカンは、セミネールⅩⅦの冒頭から次ぎのようなことを記している。

主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。


象徴秩序(「他」)、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、「一」One を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。

システムと しての象徴秩序(「他」)は、差異をもとにしている(ソシュール参照 )。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。したがって、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。それは、一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に「一」と「非一」である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二分法の論法ーー「一」であるか「一」でないかーーを適用することによって、一体化の形で作用する。……(ポール・ヴェルハーゲ、2001,私訳)


たとえば、ラカンは次ぎの文で、「一」・「他」・「a」と三種類あるものを、実際は、二つ+「a」だとしている。そして、この二つ+「a」は、「a」の観点からは「一」+「a」と。つまり、ここでは「一」 l'Un と「他」 l'Autre を同じものとして扱っているように、わたくしには読める。

En d'autres termes ils sont trois, mais en réalité ils sont 2 + (a), et c'est bien en ceci que ce 2 + (a), au point du (a), se réduit non pas aux deux autres mais à un « Un +(a) ».

Vous savez que là-dessus j'ai déjà usé de ces fonctions pour essayer de vous représenter l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre, ce que j'ai déjà fait en donnant à ce (a) pour support le nombre irrationnel qu'est le nombre dit « nombre d'or ».

C'est en tant que du (a) les deux autres sont pris comme « Un +(a) » que fonctionne ce quelque chose qui peut aboutir à une sortie dans la hâte.

Cette fonction d'identification, qui se produit dans une articulation ternaire, est celle qui se fonde de ceci que en aucun cas ne peuvent se tenir pour support deux comme tels, que entre deux, quels qu'ils soient, il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a), et que l'autre ne saurait dans aucun cas être pris pour un « Un » (ラカン、アンコール)

とすれば、ある観点からすれば、「一」 l'Un と「他」 l'Autre とは同じものなんだろうか? (わたくしは今、 l'Autre を「他」としているが、いわゆる「大他者」、「大文字の他者」のことである。)

わたくしの単細胞な頭は、「一」S1とは「他」に(あるいはこの「世界S2」に)横棒するものだという、ひどく単純な理解を今のところしている?(そしてそこから逃れるものが、ファルス化されていない対象aだ、と)、とはいえ、まさかそんなシンプルなものではないだろう、と疑う心持は捨てていない・・・(わたくしは(笑)と記すのはあまり好きではないので、三点リーダーで代用する癖がある)。

いずれにせよ、漢字の「一」という横棒の形象はなんと奥深いのだろうと感嘆することしきりである・ ・ ・(こちらの三点リーダーは、上の(笑)の三点リーダーとは形象がことなる。ファルス化されていない三点リーダーでありうる、あのニーチェが使用した・ ・ ・)

そして世界に横棒をするものとしての「一」をなんとか次ぎの文につなげたい、という心持でいっぱいなのだが、どうも最近脳軟化症気味で、単細胞の頭はいっそう運びが悪い・・・

…はるかにいっそう興味深いのは、フロイト理論のほとんど忘れられてしまった箇所だ。それは我々に、主体と他者のあいだの相互作用を通したアイデンティティの発達のよりよい理解を与えてくれる。この点にかんして、フロイトは、『快感原則の彼岸』(1920)と『否定』(1925)にて、「原自我」(原初の快自我primitiven Lust-Ichs)、「リアル自我 Real-Ichs」、さらには外部の世界に遭遇した細胞についてさえ語っている。

発達過程は、原自我と外部の世界のあいだの相互作用にて始まる。それが自我にもたらすのは、この外部の世界を三つの異なった局面に差異化をすることである。すなわち、快感を生むもの/不快を生むもの/無関心なままのものだ。

注意しておこう、我々はここで「満足」と「緊張の増減」に関わっていることを。フロイトはこの過程を、その多寡はあれ、生物学的に、さらには動物行動学的にさえ語っている。すなわち、原初における進化する有機体、細胞が文字通りに外部の世界の部分を取り入れることをめぐって。

快が見出されたものは何もかも内部に取り入れる。不快を生み出すものは何もかも外部に送り返す。これが意味するのは、緊張と緊張の解除の経験は、アイデンティティの発達自体をもたらす、ということだ。そしてこのアイデンティティは全的に外部から来る。発達途上の原自我は、外部の世界に直面し、文字通りにその世界の部分を取り込む。

不快な部分は、可能なかぎりすばやく吐き出される。したがって初期の段階では、外部の世界と悪い非-私は同じものである。逆に、快を与える部分は内部に残ったままだ。その意味は、原自我と快は同じものということだ。それをフロイトは「原初の快自我」と呼んだ。

この「取り込み incorporation」と「吐き出し expulsion」は、先駆者、ーー後に生じる「判断」における知的機能の前身である。知的判断においては、肯定 ( Bejahung)は「取り込み」の代用品であり、否定(Verneinung)は「吐き出し」の後継者である。

注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。(ポール・ヴェルハーゲ 、Sexuality in the Formation of the Subject、2005、原文

ーーーたぶん、容易にはつながらないだろう・ ・ ・

ところで、ジジェクもラカンの「波打ち際littorale」という言葉を取り出して、次ぎのような横棒の話をしている。

二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ジジェク、2012)


さて、話を元に戻せばーーつまり、「一」 l'Un と「他」 l'Autre の話だが、ジジェクは同じ著書の別の章で、類似した内容を語りつつ、「一」といったり「他」といったりしている。

ラカンが「一」the One に反対するとき、彼が標的にしたのはその二つの様相 modalities だ。すなわち想像界的な「一」(「一性」 One‐ness への鏡像的融合)と象徴界的な「一」(還元的な、「一の徴 」unary feature にかかわる「一」、そこへと対象が象徴的登録のなかに還元されてしまう「一」、すなわちこの one は差分的分節化の「一」であり、融合の「一」ではない)である。

問題は次のことだ。すなわち、現実界の「ひとつの一」a One of the Real もまたあるのか? ということだ。この役割は、ラカンが「アンコール」にて触れた Y a d'l'Un が果たすのか? Y a d'l'Un は、大他者の差分的分節化に先行した「ひとつの一」a One である。境界を画定されない non‐delimitated 、にもかかわらず独特な「一」である。「ひとつの一」a One、それは質的にも量的にも決定づけられないひとつの「一の何かがある there is something of the One」であり、リビドー的流動をサントームへともたらす最小限の収縮 contraction 、圧縮 condensation だが、それが、現実界の「ひとつの一」a One of the Real なのか?(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳) 

ラカンの ISR の三幅対に従い、(存在する)「他」は、想像界的「他」(自我の鏡像イメージ)、象徴界的「他」(無名の象徴的秩序、真理の場所)、そして現実界的な「他」 (「他」-〈モノ〉の深淵、〈隣人〉としての 主体の深淵)の三通りありうる。

“「他」はない” は次のように読み得る。「他」には欠如あるいは穴がある(喪われているシニフィアン、「他」は例外を基盤としている)。「他」の非一貫性(非全体としての「他」、相反しそれ自体として全体化され得ない「他」)。あるいはシンプル に「他」のヴァーチャルな特徴の主張(象徴的秩序は現実の部分としては存在しない。 それは、社会の現実における我々の行動を規制する観念的な構造である)。

この「アンチノミー」の解決法は、二重化された式によって提供される。すなわち、“「他」 の「他」はない”。「他」は、それ自身に関して「他」である。これが意味するのは、「他」の内にいる主体それ自身の脱中心化である。実際、主体は脱中心化されて いる。その真理はそれ自身の深みにはない。主体が囚われている象徴秩序の網、主体が 究極的にその効果である象徴的秩序内の「そこから外にある」。

しかしながら、象徴的「他」ーー主体が、その内部に構成的に疎外されている(同一 化している)ーーは、十全には実体的領域でない。そうではなく、それ自身から分離されているのだ。すなわち、不可能性の固有の点の周り、ラカンが指摘した外-親密 ex‐timate の核の周りに構成されている。この外-親密 ex‐timate のラカンの名は、もちろん対象 a、 剰余享楽、欲望の対象ー原因である。

このパラドキシカルな対象は、「他」の内部で、一種のバグや欠陥として機能する。その十全な現勢化への内在的な障害物として機能するのだ。そして主体はこの欠陥のただの相関物である。すなわち、欠陥なしには、主体はないだろうし、「他」は、完成され滑らかに動き回る秩序となるだろう。ここにあるパラドックスは、「他」を不完全にし、非一貫的にし、欠如を与える等の、その欠陥自体が、まさに「他」を「他」にするの であり、別の「一」に帰し得ないのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)


いずれにしても、シニフィアンなるものは、「他」から来る。「私」という「一」のシニフィアン l'Un-signifiant さえも、「他」l'Autre である。世界は「他」で出来上がっており、「私」も「他」だ。

我々は、ランボーの文法上の意図的誤りをもった《「私」とは他である ''JE est un autre.''》の字面を真剣に眺めてみる必要がある。ラカン的観点からは、l'Autreではなく、un autre であるのが残念だ、などと言ってはならぬ。ひょっとして l'Un = l'Autre の略号ではないか。「私」とは「他」の「一」なのではないか。

もし、あなたがーーわたくしと違ってーー脳軟化症でないなら、ネルヴァルの《Je suis l'autre》 を睨んでみる手打てもある。しかし、ランボーの文、その est だけでなく、JE のなんと神秘的なことか。わたくしは頭の具合とは異なり、鼻は効くほうなので、このランボーの金言に、「ゼロ」と「縫合」の匂いをたちまち嗅ぎつけてしまう。

もちろんラカンのパクリの悪臭はいうまでもなく。少なくとも、ランボーのサフラン色の香液の匂いは、ラカンの娑腐乱の臭いよりは、ずっと健康によい。

…ce quelque chose est la division du sujet, laquelle division tient à ce que l'Autre soit ce qui fait le signifiant, par quoi il ne saurait représenter un sujet qu'à n'être « Un » que de l'Autre. (セミネールⅩⅦ、P.207)

《un sujet qu'à n'être « Un » que de l'Autre》をしばらく眺めていれば、《Sujet être Un Autre 》→《JE est un autre》とならざるをえない・ ・ ・

《JE est un autre》のラカンによる反転ヴァージョンは次の通り。

je suis m'être, je progresse dans la m'êtrise, le développement c'est quand on devient de plus en plus m'être, je suis m'être de moi comme de l'Univers. Ouais, c'est bien là ce dont je parlais tout à l'heure : de con-vaincu. L'univers… à partir de certaines petites - comme ça - lumières, un peu… que j'ai essayé de vous donner …l'univers, l'univers c'est une fleur de rhétorique. (セミネールⅩⅩ,p.63)

ラカンは、世界にはcon-vaincuばかりだと言っているのかもしれない。「私」が自分の家の主人だと思いこんだマヌケばかりだ、と。真実は、私とは他者なのに・ ・ ・

とくに「哲学者たち」が重症の病であるらしい、それをレトリック家ラカンは、je-cratie と命名する、→「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち

バディウ、ジュパチッチなどが何か言っていたが、あれはなんだったか?→ 「反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?

バディウからラカンを理解するには、l'Un n'est pas、compte-pour-un、mise-en-un の三つの概念が重要らしいが、わたくしは数学・論理学が弱いからーーいや脳軟化症だから、諦めるべきだろう・ ・ ・

二年ほどまえ浅田彰がなんか書いてたが、この文のせいでバディウを読む気になれない・・・

メイヤスーは確かに興味深い哲学者だが、彼自身がまだ1冊しか本を出していない段階で英語のメイヤスー論の単著(Graham Harman,”Quentin Meillassoux: Philosophy in the Making”)まで出るという状況は異常だろう。フーコーやデリダの時代に英米の大学で「フレンチ・セオリー」が流行した、ところが巨匠たちがどんどん去っていくなか、残ったバディウが異常に有名になり(他方、フランスでも遅まきながらスラヴォイ・ジジェクの影響が強まって、その線でバディウが浮上しもした)、その弟子も英米の学者たちが先物買いでもてはやしてるという感じではないか。

このような「ブーム」の問題のひとつは、それが必要以上に強いバックラッシュを招くということだ。メイヤスーについてはさすがにまだそこまで行かないが、バディウについていえば、『Critical Inquiry』(Summer 2011)でニーレンバーグ父子(数学者と歴史家)が「サイエンス・ウォーズ」的観点からバディウの数学理解の不正確さを突いた批判は、部分的なものであるにせよ、それなりに正確ではあり、バディウが他の哲学者たち以上に数学を重視しているだけに、ボディ・ブローのように効いてくるのではないかと思われる。自分で反論せず、「弟子」たちの反論に序文を寄せて事足れりとするバディウの姿勢(同誌 January 2012)も、賢明とは言えまい。

ついでに言うと、バディウの弟子だったのが『Anti-Badiou(反バディウ)』で決裂したメディ・ベラ・カセム(Mehdi Belhaj Kacem)は、小説を書いたり、フィリップ・ガレルの映画に俳優として出たり、なかなか賑やかな存在なのだが、『Anti-Badiou』以来ひどく叩かれた恨みをぶちまけた『La conjuration des Tartuffes』で、バディウはマオ+ラカンの最悪の結合であり、そのポジションは「ヘテローマッチョ」だと言っている、それは結局のところかなり正しいのだろうと私は思う。(メイヤスーによるマラルメ

今後、できうるかぎり、ヘテローマッチョに専念したい思いでいっぱいだ・ ・ ・


2016年2月17日水曜日

レジーヌ・クレスパンのシューマン

◆Schumann, Eichendorff Liederkreis Op 39 - 1. In der Fremde (Régine Crespin)





In der Fremde . 異郷にて

Aus der Heimat hinter den Blitzen rot   
Da kommen die Wolken her,          
Aber Vater und Mutter sind lange tot,    
Es kennt mich dort keiner mehr.        
Wie bald, ach wie bald kommt die stille Zeit,
Da ruhe ich auch, und über mir         
Rauscht die schöne Waldeinsamkeit,     
Und keiner kennt mich mehr hier.       


稲妻の赤くきらめく彼方,
故郷の方から,雲が流れてくる。
父も母も世を去って久しく
あそこではもう私を知るひともない。
私もまたいこいに入る,その静かな時が
ああ,なんとまぢかに迫っていることだろう,
美しい,人気のない森が私の頭上で葉ずれの音をさせ
ここでも私が忘れられる時が。 (訳:西野茂雄)


◆Sena Jurinac; "In der Fremde"; Liederkreis Op 39; R. Schumann




断章の美学を(ウェーベルン以前に)もっともよく理解し実践した人、それはだぶんシューマンである。彼は断章を「間奏曲」と呼んでいた。彼は自分の作品の中に、間奏曲の数をふやした。彼がつくり出したすべては、けっきょく、《挿入された》ものであった。(『彼自身によるロラン・バルト』)

◆In der Fremde Accolade Ensemble



「シューマンの曲はどれもそうだけど、一つの曲の後ろ、というか、陰になった見えないところで、別の違う曲がずっと続いているような感じがするんだよね。聴こえていないポリフォニーというのかな。音楽を織物に譬えるとしたら、普段は縒り合わさった糸が全部見えている。なのにシューマンは違うんだ。隠れて見えない糸が何本もあって、それがほんのたまに姿を見せる。湖に魚がいて、いつもは深いところを泳いでいるんだけど、夕暮れの決まった時間だけ水面に出てきて、背鰭が湖に波紋を作り出す、というような感じ。そういうふうにシューマンは作っているんだよ」(奥泉光 『シューマンの指 』)

Accolade Ensembleは、あまり知られていないアンサンブルのようだが、ふだんきこえてこない音をいくらか歌っている印象を受け、それがわたくしにはとても美しい。

…………

レジーヌ・クレスパンのフォーレ:「河のほとりで Au bord de l'eau 」に魅せられて、他の曲もいくらか聴いてみたのだが、彼女の明るく透明な、そして粘らない歌唱にはホレボレする。そしてときおり消え入るようなその抑揚(冒頭のシューマンはことさらすばらしい。一箇所、Sena Jurinacがメゾフォルテで歌っている部分を、彼女はピアニッシモで歌っている)。

◆Regine Crespin Berlioz Les nuits d'ete 'Le spectre de la rose'




2016年2月16日火曜日

反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?

反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)

ここでは、ドゥルーズの《反復されることになる最初の項などは、ありはしない》を、《反復されることになる最初の「真理」ーー主体の裂け目等々ーーは、ありはしない》と言い換えて、ラカン派の観点から、それが成り立つかどうかを、試しにみてみよう。

…………

全て現実界的ものは、常に必ずその場にあるさ…現実界のなかで何かの不在なんてのは、純粋に象徴界的なものだよ

Tout ce qui est réel est toujours et obligatoirement à sa place…L'absence de quelque chose dans le réel est une chose purement symbolique (Lacan,Le séminaire livre IVーーréel/réalitéの混淆)

そもそも現実界には、欠如はない。欠如があるのは、象徴界の法、その転倒された梯子が、設置されてからだ。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir.(Ecrits, Seuil, p. 827)

あるいはセミネールⅩⅩⅢにおける、「法のない現実界」《Réel sans loi》。





話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )

この「四つの言説」の形式的構造の簡潔な説明にあるように、論理的には、「真理」が先にあるのではない。上部構造(象徴界)における矢印1の袋小路が、真理と生産物(現実界)を生む。

人は言うことができる、セミネールⅩⅦのラカンにとって、享楽とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性 inadequacy にあると。すなわち、無用な剰余を生み出すことなしに、「純粋に」機能することの不可能性 inability であると。より正確に言うなら、シニフィアンのそれ自身に対するこの不十分性とは、二つの名を持っている。言わば、二つの異なった実体 entities において現われるのだ。それはラカンのディスクール理論のシューマにおける二つの非シニフィアン化要素 nonsignifying elements である。すなわち主体と対象aである。

シンプルに言おう。主体は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を代表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を代表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 surplus enjoyment と呼んだものである。剰余享楽 surplus enjoyment のほかには享楽enjoyment はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。(Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value(ジュパンチッチ、『剰余享楽が剰余価値に出会う時』 ーー「快原理の彼岸とはシニフィアンのそれ自身に対する不十分性にしかない」)

ここで、ジュパンチッチは「主体とはシニフィアンの内的な裂け目」、あるいは「対象aは、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓」と言うことによって、四つの言説の形式的構造と重なる主人の言説を説明している。

(四つの言説は)主人の言説が基本の母胎を提供してくれる。すなわち主体はもうひとつのシニフィアン(「ふつうの諸シニフィアン」の鎖あるいは領域)に対するシニフィアンによって表象される。象徴的表象化に抵抗する残余ーー喉に刺さった骨ーーは対象aとして出現する(生産される)。そして主体は幻想的な形成を通してこの過剰に向けて彼の関係性を「正常化」しようと努める(これが主人の言説の式の下段が幻想のマテーム $ – a を示している理由である)。(ジジェク、The structure of domination today: A lacanian view、2004、PDF

Lesourdの記述と重ねて言えば、話し手 S1 は他者 S2に話しかける。そのS1とS2という二つのシニフィアンの「内的な裂け目」として分裂した主体 $ があり、かつまた残滓としての対象aが生じる。









これが、後年のラカンがくり返しいっていることの核心のひとつである。「遡及性」の考え方、たとえば、《原初とは最初を意味しない》(セミネール、「アンコール」)ーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》( séminaire ⅩⅩ)とはこの意味で捉えなければならない。

ジジェクの次ぎの文も、「原初とは最初を意味しない」とともに読むことができる。

現実界 a Real があるのは、象徴界がその外部にある現実界を把みえないからではない。そうではなく、象徴界が十全にはそれ自身になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で欠陥があるためだ。というのは、現実界 the Real は形式化の行き詰りだから。この命題は、完全な「観念論者的」重要性を与えられなければならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かで、したがってどの形式化もそれを把むのに失敗したり、よろめいたりするというだけではない。そうではなく、現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

さて、ほんとうに「反復されることになる最初の項などは、ありはしない」のだろうか。

反復されることになる最初の「内容」はありはしない。ただし最初の「形式」はある、と言ってみよう。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002 年 『徴候・記憶・外傷』所収)

ここで中井久夫は、幼児型記憶ということによって「原トラウマ」、あるいは原光景に近似したことを語っている。それは、象徴界における「外傷的体験の際」に、形式として顕在化する。つまり、象徴秩序の非一貫性との遭遇において、現実界(原トラウマ)という「形式」が現われる。

これと類似した考え方は、ジジェクやヴェルハーゲに頻出する。たとえば、

形式と内容とのあいだの裂け目は、ここでは正しく弁証法的である。それは超越論的裂け目とは対照的で、後者の要点とは次の通り。すなわち、どの内容も、ア・プリオリな形式的枠組内部に現れ、したがって我々が知覚する内容を「構成している」目に見えない超越論的枠組に常に気づいていなければならない、というものだ。構造的用語で言えば、要素とその要素が占める形式的場とのあいだの識別をしなけれならない、ということである。

反対に、唯一正当な形式の弁証法的分析を獲得しうるのは、我々がある形式的な手続きを、(発話の)内容の一定の側面の表現として捉えるのではなく、内容の一部分の徴づけあるいはシグナルとして捉えるときである。その内容の一部分とは、明示的 explicit な発話の流れからは排除されているものだ。こうして、ここには正当な理論的要点があるのだが、我々が発話内容の「すべて」を再構成したいなら、明示的発話内容自体を超えて行き、内容の「抑圧された」側面に対する代役として振舞う形式的な特徴を包含しなければならない。ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012より、私訳)
フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を、人間発達に構造的帰結として定義した。ここで、人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に、我々は、我々自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能を補強する。というのは、主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの道によって進まざるを得ないから。こうして、享楽の不可能は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。ヴェルハーゲ、“The function and the field of speech and language in psychoanalysis.、.2009)


おそらくドゥルーズ読みなら、ここでの「形式」から、「純粋差異」や「最小の差異」概念、あるいはrépétition d'un minimumなどを思い起すのだろうが、わたくしはそれらに詳しくない。

……ドゥルーズ用語の「最小の差異」(物の、それ自体からの距離を示す純粋に潜在的差異、どんな現実の特性に依拠することもない差異)にて言えば、現勢的アイデンティティactual identity はつねに潜在(潜勢)的な最小の差異に支えられている。(ZIZEK,LES THAN NOTHING、私訳)
四つの言説のラカンの図式……その全ての構築は、象徴的レディプリカティオ reduplicatio の事態を基礎にしている。reduplicatio、すなわちそれ自身のなかに向かう実体 entity into itself と構造のなかに占める場との二重化 redoubling である。それは、マラルメの rien n'aura eu lieu que le lieu(場以外には何も起こらない)、あるいはマレーヴィチの白い表面の上の黒い四角形のようなものだ。どちらも場自体を形式化しようとする奮闘を示している。むしろこう言ってもいい、要素としての場のあいだの最小限の差異と。その要素としての場は、要素のあいだの差異に先行しているものだ。(「SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.」2004、私訳)

ラカンが晩年 Y a d'l'Un(「一」のようなものがある)としたとき、それは「純粋差異「に(も)かかわることは以前みた(参照:「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る」)

Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(ラカン、セミネールⅩⅨ)

ラカンが「一」the One に反対するとき、彼が標的にしたのはその二つの様相 modalities だ。すなわち想像界的な「一」(「一性」 One‐ness への鏡像的融合)と象徴界的な「一」(還元的な、「一の徴 」unary feature にかかわる「一」、そこへと対象が象徴的登録のなかに還元されてしまう「一」、すなわちこの one は差分的分節化の「一」であり、融合の「一」ではない)である。

問題は次のことだ。すなわち、現実界の「ひとつの一」a One of the Real もまたあるのか? ということだ。この役割は、ラカンが「アンコール」にて触れた Y a d'l'Un が果たすのか? Y a d'l'Un は、大他者の差分的分節化に先行した「ひとつの一」a One である。境界を画定されない non‐delimitated 、にもかかわらず独特な「一」である。「ひとつの一」a One、それは質的にも量的にも決定づけられないひとつの「一の何かがある there is something of the One」であり、リビドー的流動をサントームへともたらす最小限の収縮 contraction 、圧縮 condensation だが、それが、現実界の「ひとつの一」a One of the Real なのか?(ジジェク、2012,私訳)


…………


以下、参考として、以前に掲げた(参照)アレンカ・ジュパンチッチの表象(再現前)論を一部訳語を変えて掲げる。

これはジジェクの四つの言説をめぐる、やや異なった側面からのーーいささか難解なーー議論にかかわる。

S1 と S2 のあいだの差異は同じ領域内の二つの対立する差異ではない。むしろ〈一〉 (One)の 用語に固有のこの領域内の裂け目である。トポロジー的には、二つの表面にお いて同じ用語を得る。

言い換えれば、元々のカップルは二つのシニフィアンのカップルではない。そうではなくシ ニフィアンとその二重化 reduplicatio、シニフィアン とその記銘 inscription の場、〈一〉とゼ ロのあいだの最も微小な差異である。(ジジェク、The structure of domination today: A lacanian view、2004、PDFーー「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)」)


ジュパンチッチの論は、バディウの存在論の中心的な考え方 l'Un n'est pas、compte-pour-un、mise-en-un などにも大いに関係する。

バディウの概念である “count-as-one” ( 「一」として数えること)と“forming-into-one [mise-en-un]”( 「一」への形成化)は、ラカンの“unary trait” ( 一の徴)と S1(主人のシニフィアン)のよりよい理解のために有効に働きうる。この両方において問題になっているものは、構造とメタ構造、現前と再現前(表象)presentation and representation とのあいだの関係性である。(Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa

ジュパンチッチの説明のなかに、ラカンの公式、《un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant〔シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する〕》(参照)とあるが、バディウの議論は、ラカンの同一化セミネール(セミネールⅨ)の次の文などにも「おそらく」かかわる。ーーわたくしはバディウをほとんど読んだことがないので、あまりエラソウなことは言えない、という意味での「おそらく」である。

c'est dans le statut même de A qu'il y a inscrit que A ne peut pas être A.

A の地位そのものに「A は A ではありえない」と書き込まれている。(ラカン、セミネールⅨ)
あるは、セミネールⅩⅣの、《すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないこと》。

il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( Logique Du Fantasme l966-67 )

さらにはセミネールⅩⅩ(アンコール)の次の文、

・il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a), et que l'autre ne saurait dans aucun cas être pris pour un « Un »

・l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (S.20)

ーー《「一」と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性l'inadéquat 》とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »(対象a)があるということだ。


◆アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”(2004)より


【表象の裂け目としての現実界】

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口 major breakthrough だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。

この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるい は非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「非-関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、 表象のまさに裂け目である。


【メタ構造としての表象】

メタ構造としての表象の問題、そして結果として起こる要請ーー表象からそれ自身を引き離す、あるいは「状態 state」からそれ自身を引き離す要請の問題は、純粋な多数性の存在論、無限の、偶然性の存在論とは異なった存在論に属した何ものかである。

メタ構造としての表象は、一つの世界にかかわるのみだ。そこでは、たとえどんな理由であ れ、「神は死んだ」という出来事的表明は、なんの真理もない。


【メタ構造ではないものとしての表象】

対照的に、無限の偶然的な世界(あるいは「状況」)では、メタレベルに位置している「それ自身を数えることの勘定 counting of the count itself」は何の必要性もない。

それは、「一」に対して数えること counting-for-one 自身と同じレヴェルに位置しており、 ある還元不能の間隔 irreducible interval によって、それから切り離されているだけだ(そして、この間隔を、ラカンは現実界と呼んだ)。

さらに、これがまさにある状況を「無限」にする。無限にするのは、表象のどんな操作の除外 exclusion でもない(表象の操作とは、「一」に対してそれを数え、そしてそれ自身の上に それを閉じることを「欲する」)。そうではなく、表象の操作の包含 inclusion である。

どんな個別の「現前 presentation」をも無限にするのは、まさにそれがすでに再現前(表象 representation )を含んでいるということによる。この着想はまた、結合(あるいは固定) unification (or fixation) をもたらす。バディウが「状態」と呼んでいるものとは別のものだが。


【主人のシニフィアンはメタシニフィアンではない】

ラカンはそれを「クッションの結び目 」(point de capiton)の概念と繫げる。(潜在的に potentially)無限のセットの結合は、メタ構造の場合とは同じではない。「クッションの結び目」としての S1 は、S2 に対して、メタシニフィアン meta-signifier ではない(S2、すなわち 潜在的に virtually 無限のシンフィアンの鎖とその組み合せであり、ラカンはまた「知」とも 呼んだが、その S2 に対しての S1[主人のシニフィアン]はメタシニフィアンではない)。

S1 がこのセットを結びつけるのは、「数えること自体を数えること 」counting the count itself によってはなく、二つのカウント two counts の直接的一致のまさに不可能性を「現前する presenting」ことによってである。すなわち、二つのあいだのまさに隙間を現前する ことによってである。


【隙間、 あるいは間隔のシニフィアン】

言い換えれば、S1 は二つ(「数えること」counting と「数えること自体を数えること 」 counting the count itself )が「一」になることの不可能性のシニフィアンである。まさに隙間、 あるいは間隔、あるいは空虚のシニフィアンであり、表象のどんな過程のなかでもそれらを分離するシニフィアンなのである。空虚とはまさに表象の無限のレイヤー化 layering の原因である。

ラカンにとって、「あること=存在」being の現実界とは、この空虚、あるいは間隔、隙間で あり、このまさに非一致 non-coincidence なのだ。そこでは逸脱する過剰はすでにその結果である。S1 がこの空虚を現前させるのは、それを名付けることによってであり、それを表 象しはしない。

ラカンの S1 、(悪)評判高い「主人のシニフィアン」、あるいはファルスのシニフィアンは、 逆説的に、ただ「一」は(そうでは)ない the One is not と書く仕方しかない。そして「 is 」は、 すべての「一」に対してのカウント count-for-one の最中にある原初の乖離を構成する空虚である。

「一」に対してのカウント count-for-one は、つねに-すでに「二」である。S1 は、人が、「一」は(そうでは)ない the One is not として描きうるもののマテームである。それは、まさに、それが「一」であることを邪魔するものを現前することによって、「一」は(そうでは)ない the One is not と書かれる。これが 、S1 が言っていることだ。すなわち、「一」は(そうでは)ないと。しかし、純粋な多数ではなく、「二」なのだ。

これがおそらくラカンの決定的な洞察である。もし、人が「一」の存在論を置いてきぼりにし て先に進むための用意を持ちうる何かがあるのなら、この何かは単純に〈多数〉ではない。 そうではなく、「二」である。


…………

※附記


以下、“Badiou, L'être et l'événement”よりいくらかの文を抽出。


◆compte-pour-un

« que toute référence au vide produit un excès sur le compte-pour-un, une irruption d'inconsistance » (Badiou, L'être et l'événement, 123)


◆mise-en-un

« la mise-en-un du nom du vide »


◆in-existe

« Seul le vide est, parce que seul il in-existe au multiple, et que les Idées du multiple ne sont vivantes que de ce qui s'y soustrait, ils touchaient à quelque région sacrée »


◆suture

« A l'ensemble{φ} , ce n'est pas ‘le vide' qui appartient (…). Ce qui lui appartient est le nom propre qui fait suture-à-l'être de la présentation axiomatique du multiple pur, donc de la présentation de la présentation. »


◆l'Un n'est pas(opération)

« Ce qu'il faut énoncer, c'est que l'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. »

« un pur ‘il y a' opératoire »

« L'un est seulement au principe de toute Idée, saisie du côté de son opération –de la participation– et non du côté de son être. »

« Il y a le nom de l'événement, résultat de l'intervention, il y a l'opérateur de connexion fidèle, qui règle la procédure et institue la vérité. »

« Le nom propre désigne ici que le sujet, en tant que configuration située et locale, n'est ni l'intervention, ni l'opérateur de fidélité, mais l'avènement de leur Deux, soit l'incorporation de l'événement à la situation »


※メモ

ミレール(1966):S(Ⱥ)=Suture(縫合)、あるいはゼロ概念
ミレール(2000?):S(Ⱥ)=Σ(サントーム)--Σは父の名、S1の変種

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”,2008)

フィンク(1995):S(Ⱥ)=S(a) ーー原初の喪失Ⱥのシニフィアン

Lorenzo Chiesa2007による対象aの五つの定義の要点、2007】

①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの


バディウ存在論 l'Un n'est pas (パルメニデス→ ハイデガー→ラカン→バディウ)
ジジェク組の見解: l'Un n'est pas(バディウ)= il y a de l'Un(ラカン)=対象a



【ラカン】

 ・Y a d'l'Un(S.19・20)→ 「Y a d'l'Un〈一〉が有る」と「il y a du non‐rapport (sexuel)(性の)無-関係は有る

 ・l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste (S.20) (全てのシニフィアンの鎖が存続するものとしての封筒 l'essaim(S1) =縫合)

・l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre. (S.20)

ーー上にも記したが、くりかえせば、「〈一〉と autre (つまり,petit a) との関係の不十分性」とは、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としてのl« autre »(対象a)があるということ。

→《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ》(参照)“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)





2016年2月15日月曜日

女性の論理が必ずしもいいわけじゃないよ

女性の論理(非全体の論理)が必ずしもいいわけじゃないよ、たぶんね。


男性の論理/女性の論理は、一般的に次ぎのように説明される。

男性の論理とは〈例外〉を伴う〈不完全性〉の論理、
女性の論理とは、境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉の論理。

ラカンは、性差を構成する非一貫性を、「性差の式」にて詳述した。そこでは、男性側は、普遍的な機能とその構成要素である例外とによって定義される。そして女性側は“すべてではない”(pas‐tout)のパラドックスによって定義される(例外はなく、そしてまさにその理由によって、すべてではない、すなわち、非-全体化される)。想いだしてみよう、ウィトゲンシュタインの語り得ぬものの移りゆく地位を。前期ヴィトゲンシュタインから後期ヴィトゲンシュタインの移動(家族的類似性)とは、「すべて」(例外を基盤とした普遍的全体の領域)から、「すべてではない」(例外なしでその理由で非-普遍的、非-全体の領域)への移動である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHINGーー「“A is A” と “A = A”」)

「現代思想」的には、否定神学批判ーー結局、例外の論理批判だろうーーなどもあり、女性の論理が顕揚された時期があるし、いまもそう思い込んでいる連中はいるだろうけど。


◆「三つの「父の死」」より再掲(Levi R. Bryanのブログより)

最初は、我々は考えたかもしれない、女性の論理(非全体の論理)に基づいた社会構造の方が遥かに上手くゆくと。とどのつまり、女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。

ラカンは次のように簡潔に言うのを好んだ、男性の論理は、ホモ-セクシャル的であり、女性の論理は、唯一真のヘテロ-セクシャルであると。男性の論理についてのこの見解は、フロイトの悪評高い『トーテムとタブー』の事例に明らかに見られる。かつまた『集団心理学と自我の分析』における軍隊組織の分析も同様に見られる。

ここでのポイントは、性別化された男性がゲイであるということではなく、彼らが皆、享楽と欲望を統制する一つの同じ法の支配下に置かれるということだ。こういわけで、兄弟の一団が『トーテムとタブー』における原父を殺したとき、彼らは、代わりに、母と姉妹を所有することに対する禁止の法を設置する。

反対に、ラカンが主張するには、女性として性別化された主体は、差異の、異性愛の真の愛を持つ。もちろんそれは「話す存在の非-全体が去勢の法に従属する」限りとしてである。

しかしながら、女性の論理のタームで組織された社会構造もまた、それ自身の袋小路に遭遇する。男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。

ここでの法は、法への一つだけの例外とともの超越性と普遍性である(多分、この理由で、ブッシュ政権の最後の26%の支持者は彼の行政当局の不正に煩わされるところはないだろう)。

反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(註)

多分、もっと根本的には、女性的ネットワーク社会は、あらゆるタイプのファリックな主人あるいは導師の探求の発生を伴う。(……)

おそらく、これが、ネットワークベース社会によって開かれた新しい欲望の自由が、主体を不安で満たす理由である。というのは、もはや、何を欲望したらいいのかを教えてくれる指針がないからだ、「私が欲望するのを私は知っている。でも、私にとって、正しい欲望とはどんな欲望なのか、どんな欲望が私を欲望させるのか?」。これがまたあらゆる種類の原理主義の勃興を説明してくれる。そこで主体は、欲望の空間を創造するヒエラルキー社会モデルに執着する。かつまたそのモデルにおいては、後期資本主義の虚しい憂鬱な姿勢を回避できる。

ようするに、象徴界の「非-全体」(女性の論理)を認める限りでは、それは数多くの点で好ましいし、真実あるいはリアルに基づいているにもかかわらず、女性の性化が我々を救うとは言えない。

しかしながら、心に留めておかねばならないポイントは、男性と女性の性別化は、父の名とエディプスのまわりに組織された秩序を基盤としていることだ。

言い換えれば、性別化は現実界に直接関係があるにしろ、父の名が、主体性がそれを通して形成される基本的様相である限り、男性と女性の性別化のみがある。後期ラカンは他の可能性を思い描いている。すなわちセミネール23(サントーム)にて、ラカンは表明した、「父の名なしでやっていくことが可能だ、人が父の名を使用する限りで」と。さらに、父の名は複数化される、その機能に奉仕するためにシニフィアン構造のヴァラエティが許容される。

最終的に、精神病は全ての主体に一般的なものとなる。父の名のまわりに組織されたエディプス構造は、ボロメオの結び目をつなぐ一つの方法ーー他のものの中のーーに過ぎなくなる。それは〈大他者〉 (A)の不在に応答する一つの方法でしかない。

代わりに、サントームがRSIの三つの輪をつなぐようになる。それはエディプスの役まわりを必要としない社会的リンクをもたらす。多分、そのときボルメオの臨床は、エディプスを超えて結び目をつなぐ別の方法を提供するが、男性と女性の性別化を超えた異なった形式の袋小路を生み出すだろう。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy、2008,私訳)


「父の名なしでやっていくことが可能だ、人が父の名を使用する限りで」ってなんだろうね、

ーーー我々は、象徴的権威なしでやっていくことが可能だ、人が主人のシニフィアンを使用する限りで、ってとこだろうか(参照:「主人のシニフィアンと統整的理念」)。

まあ、とはいえ、理論では世界はなかなか変わらないさ、

一度、世界経済が崩壊するのが一番近道だよ、「革新」のためには。

世界は行き詰るにきまってるさ、それが、《五年先か十年先か知りませんよ。》(マージナルなものへのセンスの持ち主だけの資本主義崩壊「妄言」

だいたい今のまま彌縫策やりながら、なんとか続くって思っている連中こそが、ユートピアンか不感症かだぜ、どうやって続くことがありえるってんだい、この破廉恥な「資本の論理」の世界が。

資本の論理って口に出したところで、この論理ってのは例外の論理じゃないよな、差異の論理だよ。《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです》(岩井克人

Levi Bryanが上で言ってるじゃないか、女性の論理は差異の論理だって。 ウンザリだね

ま、フランス革命あって、ロシア革命あって、いずれにせよ、そろそろ次の革命が起こる周期だろ、はあん?





2016年2月14日日曜日

男は私のなかになにを見ているのかしら?

人々の妄想の鏡のなかですでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ(吉岡実「人工花園」 )





…………

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(”Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe,1998,私訳)





ラカン派の男女の差異とは、解剖学的性差ではない。

冒頭のVerhaeghe=Darian Leaderの文を援用していえば、あながた男であっても、カップルが目前を通り過ぎていったとき、あの女をモノにした男のほうにいっそう関心を向けるならーー女に欲望される対象への興味に腐心するならーー、あなたは〈女〉だ。

もちろん、おちんちんのでかそうな色男でかないそうもないな、程度の関心を男にむける場合はあるだろうが、関心の焦点は。常に女自体であるのが男だ。女の場合は、どうもその傾向が少ない、というのがラカン派(あるいはフロイト派)の見解である。

もっとも、父の名〔象徴的権威)の斜陽の現在、多くの男は女になっているという見解もないではない。「20世紀の神経症の時代から21世紀の「ふうつの精神病」の時代へ」(ミレール)というのが正しければ、《精神病者は、女性化という方向に不可避的に追いやられる。これを「女性への推進力」と呼ぶ》。

なぜ女性化なのか、父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている Faute de pouvoir être le phallus qui manque à la mère, il lui reste la solution d’être la femme qui manque aux hommes」(ラカンE.566)からだ、と言われる。

とはいえ、男と女の性差というのは、いまだ厳存すると思わざるをえない。

感情に強調が置かれる女に対して、ロゴスを代表するのが男ではない。むしろ、男にとって、全ての現実の首尾一貫・統一した普遍的原則としてのロゴスは、ある神秘的な言葉で言い表されない X (「それについて語るべきでない何かがある」)の構成的例外に依拠している。他方、女の場合、どんな例外もない、「全てを語ることができる」。そしてまさにこの理由で、ロゴスの普遍性は、非一貫的・非統一的・分散的、すなわち「非全体 pas-tout」になる。

あるいは、象徴的な肩書きの想定にかんして、男は彼の肩書きと完全に同一化する傾向にある。それに全てを賭ける(彼の「大義 Cause」のために死ぬ)。しかしながら、彼はたんに肩書き、彼が纏う「社会的仮面」だけではないという神話に依拠している。仮面の下には何かがある、「本当の私」がある、という神話だ。逆に女の場合、どんな揺るぎない・無条件のコミットメントもない。全ては究極的に「仮面」だ。そしてまさにこの理由で、「仮面の下」には何もない。

あるいはさらに、愛にかんして言えば、恋する男は、全てを与える心づもりでいる。愛された人は、絶対的・無条件の「対象」に昇華される。しかし、まさにこの理由で、彼は「彼女」を犠牲にする、公的・職業的「大義」のために。他方、女は、どんな自制や保留もなしに、完全に愛に浸り切る。彼女の存在には、愛に浸透されないどんな局面もない。しかしまさにこの理由で、彼女にとって「愛は非全体」なのだ。それは永遠に、不気味かつ根源的な無関心につき纏われている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

仮面の下には何もない(象徴界の彼岸には何もない)からこそ、人は仮面の向こうに「神秘的な女性の深淵」があると幻想する。これ自体、男性の論理(例外に論理)である。《無を覆うことによって、この無は何かに転換される》(A. Miller, 1997)。あまりにも完璧な象徴界の住人である女性はーー聖書が言うように、女は大部分、耳で考え、言葉で誘惑されるーーー、この完璧さのゆえに、象徴界を揺り動かす。これがラカンの「非全体 pas-tout」の意味するところの核心のひとつだ。

……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(…)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(同 ジジェク,2012,私訳)

ーーこのあたりのことがわかってないと、ひどい痛い目にあうぜ、つまり、女は、男に比べて、はるかにパートナーに依存することが少ないことが。それは、巷間の名言、「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」でもいい。


結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。(……)「〈女〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男の定義は次のようなものになる――男とは「自分が存在すると信じている女である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』冨樫剛訳)




それと、女というのは、なんでもやりかねないからな、いざとなったら。それだけは気をつけろ、男性諸君! 《私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。》(フロイト)

「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)
彼女の友だちのひとりが死ぬ …数日後に彼女はその夫と食事をしている …彼女はそいつにぞくぞくする …これこそほんとうに彼女のトリップだ、自慰とともに、しかも彼女はそれを秘密にしたりしない、そこでこそ彼女はほんとうに触れ合っているという感じがする …陰唇に指を突っ込んで…死 …そのとき彼女は熱に浮かされたようになって、ほとんど美しいまでになる、彼女の目は爛々と輝き、ほぼ完全に彼女は催眠状態に満たされる、これが彼女のカルトだ …彼女は、テラテラと光る蛇の暖炉、煤、煙突のなかにいる …(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)




女のことになるとまず極まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――「低級な人種ですよ!」(……)

さんざん苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草物腰に至るまで、実に心得たものであった。(チェーホフ『犬を連れた奥さん』)


というわけで、GIF画像在庫整理のためのーーこのところおおむねそうだがーー投稿だということが、オワカリニナッタでしょうか? (で、もう、オオムネ飽きたよ)


第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢

十川) …立木さんが「去勢」と言う場合、それは言語の中に入るという意味での去勢を意味しているのですか?

立木) 一方ではそうです。 しかしラカンの場合、 臨床的には母の去勢のほうが重要だという言い方をしている個所もあります。例えば「ファルスの意味作用」(1958 年)がそうですね。 母の去勢はむしろ大文字の他者の欠如を翻訳するものだから、 主体が象徴界に入るということには還元できません。(「来るべき精神分析のために」(座談会、十川幸司/原 和之/立木康介、2009

立木氏が、《十川さんは、ラカンが与えているような重要性を「去勢」という言葉に与えていらっしゃらないようにお見受けするのですが。》と十川氏を「攻撃」しているなかで、十川氏が「反撃」にでた箇所であり、なかなかオモシロイ。

おまえさん、「象徴的去勢」ってなんだかわかってんのか?--というわけだ。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

事実、ラカン派内でも最も基本的な概念「象徴的去勢」を明確に語れる人はいまだすくない。ラカン派の重鎮たち(M、F、O)ーーそれぞれラカニアンコミュニティの総師たち!ーーの文をネット上で覗いてみたが……、まあ、あまりいわないでおこう、ネット上だけであり、わたくしは彼らの著作を読んだことがないのだから。

どうだろ? シニフィアンによる「物の殺害」を、「第一次象徴的去勢」、エディプス段階で介入する父の隠喩による去勢を「第二次象徴的去勢」とでも呼んだら? ーーフロイトにも第一次ナルシシズム/第二次ナルシシズムがあるではないか。

ラカンのセミネールⅣに、象徴的去勢の定義めいたものはある(詳細は失念したが)。




若き「すぐれて聡明な」松本卓也氏によれば、去勢とは《現実的父を動作主とする想像的対象の象徴的負債」だそうだ(「エディプスコンプレクスの構造論」,2011)。これは松本氏がいっているというより、この時期のラカンがこういっているのだろう、--あれっ、以前ネット上からPDFを拾ったのだが、現在は見当たらないな、ナゼダロウ?


ところで、ラカンはセミネールⅩⅦでこういっている。

・la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante, p.180

・la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant p.188

この二文から、象徴的去勢は、シニフィアンの効果である、とすることができないか。とすれば、これはローマ講演1953のラカンーーシニフィアンとは「物の殺害」ーーとともに読むことができる。

ところで、最初のシニフィアンとは、trait unaire(一つの特徴)である(参照:「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire」)。

この trait unaire の介入がーーわたくしに言わせればーー、第一次象徴的去勢であり、母の去勢のほうは第二次象徴的去勢である(参照:「母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢」)。

もちろん、たんなるディレタントの身として、半ばジョークだが、半ばはホンキである。

…………

※附記

「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない」より再掲。

主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,p.55 原文PDF)
何が主体を分割するのか? ラカンの答は、シンプルかつラディカルである。すなわち、それは(象徴的)アイデンティティだ。異なった精神構造(神経症、精神病、倒錯)のあいだで分割されるよりも先に、主体はすでに分割される。一方で、そのコギトの空虚(言表行為の厳密な純粋主体)と、他方で、大他者のなかに或は大他者にとっての主体を同一化する象徴的特徴(他のシニフィアンに対して主体を表象するシニフィアン)ーー、この二つのあいだで分割される。 (同上、ジジェク、2012,p.488)

ジジェクはここで何を言っているのか。ロレンツォ・キエーザの叙述が理解の助けになる。

父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)

幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。(ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007)

たとえば、乳幼児は、「寒い、温めて!」と喃語で要求したのに、母はお腹が減ったと誤解釈する。

人はこのように「言語」を使用することによって、「疎外」される。「言い得ぬもの」は、象徴界(快原理)の彼岸にあるのではなく、言語固有のものだ。こうして、$(分割された主体の空虚)は、《「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」》だ、と語られることになる。これは言語を使用する人間の宿命である。

…………

わたくしが依拠する「象徴的去勢」解釈は、次ぎの文に端を発する。

フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を人間発達の構造的帰結として定義した。ここで人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に我々は、己れ自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能性を強化する。というのは主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの手段にて進まざるを得ないから。こうして享楽の不可能性は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、大他者から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、これらのシニフィアンの使用はまさにある帰結をもたらす。すなわち享楽は、決して十全には到達されえない。これは象徴界と現実界とのあいだの裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能である。

社会的に言えば、この構造的与件の実装は、女と享楽・父と禁止を繋げる。両方とも、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の破壊的享楽・父-去勢者の懲罰ーーと結びついている。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる大他者 (m)Other が、子供の身体のに、享楽の侵入を徴付けるから。子供自身の享楽は大他者から来る。

次に、享楽を寄せつけないようにする必要性・享楽への道の上に歯止めを架ける必要性は、母と彼女の享楽の両方を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人は話す瞬間から享楽は不可能であるという真理を。これは、構造的与件としての「象徴的去勢」である。

ラカンはこの理論を以て、フロイトのエディプス・コンプレックス、そして以前のラカン自身のエディプス概念化の両方から離脱した。享楽を禁止する権威主義的父、ついには主体を去勢で脅かす父は、社会上の神経症的構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな与件、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティの問題、あるいは享楽の問題であれ、最終的統合の可能性が夢見られたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、さらに根本的に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。(もっとも)ラカンがこの欠如を象徴的去勢と命名した事実は、彼の理論の理解可能性を改善したわけではない。…(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009、私訳)

※1、最後にある、ラカン理論の「理解可能性」をめぐるヴェルハーゲ解釈・困惑は、「"Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」」を見よ。

※2、かつまた、上記文の詳述はーー侵入、刻印等々ーー「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」や「子どもを誘惑する母(フロイト)」やら見よ。

…………

「象徴的去勢」、「想像的去勢」と出てきたが、もちろん、「現実界的去勢(原去勢)」も、捉え方によっては、ないわけではないだろう(参照:「融合と分離、愛と闘争、 Zoë とBios(永遠の生と個人の生)」)


永遠の生の喪失は、ひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる。(ラカン「セミネールⅩⅠ」ーーラメラ神話の箇所摘要)





シニフィアンは「物の殺害」である

ラカンは1953年のローマ講演(「精神分析におけるパロールとランガージュの機能と領野」)にある名高い文を、言語は「物の殺害」であると訳されて流通しているのを以前みたことがある。

立木)われわれが言語にとらわれている、というこの状態は、ラカンにとって何らかの喪失抜きにはありえない。ラカンが1953年に「物の殺害」と言ったのもそのことです。言語は物を殺す。同様に、言語は人間も殺す。主体が一つのシニフィアンに同一化すれば、他方ではその存在が欠如とならざるをえない……(「来るべき精神分析のために」(座談会、十川幸司/原 和之/立木康介、2009

たまたま、原文を眺めてみると、こうなっている。

Ainsi le symbole se manifeste d'abord comme meurtre de la chose, et cette mort constitue dans le sujet l'éterrusation de son désir. (Lacan,E.319)

「シンボルとはモノの殺害である」とあり、「この死が、主体の欲望の終わりのない永続化をもたらす」とでも訳せるか(何度も言っているが、ラカン文は訳したくない)。

ここで言いたいのは、シンボルと言語とは違うということだ。

「記号とは物の殺害」ならまだわかる。だが、後年のラカン理論からいえば、「シニフィアンとは物の殺害である」がよりふさわしいはずだ。

ラカン理論には、記号 symbole ・意味作用の原因としてのシニフィアン/文字 lettre ・純シニフィアン signifiant pur の二項対立がすくなくともある(参照:純シニフィアンの物質性)。

前者は象徴界、後者は現実界にかかわる。

いずれにせよ、言語を象徴界と同じものとするなどとは寝言である。

言語のシニフィアン/シニフィエ/文字とは、象徴界/想像界/現実界ということになるはずだ。

(立木氏の会話文に文句をつけるつもりはない。よく読むと言語は物の殺害のあと、すぐさまシニフィアンという語が出現する。ただし誤解を招きやすいということは言える)。


ーーで、次に続く。

→「第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢